「廻諍論(論争の超越)」(梶山雄一訳:大乗仏典14 龍樹論集、中央公論社版)より抜粋(p157~159)
*サンスクリット原書より和訳。原題:「vigrahavyavartani(論争を遮止する書)」
(avaro75:ニヤーヤ学派(ヴァイシェーシカ学派を継承)の実在論者の論難に龍樹が反論している。)
また、君の言った、
「否定に対する(われわれの)否定も同じように(誤っていると)考えるかもしれないが、それは正しくない。このように、形式において成り立たなくなるのは君の主張であって、私の主張ではない。」(四) *(四)はニヤーヤ論者の主張。
ということに対して、われわれはこう言おう。
「もし私がなんらかの主張をしているならば、そのような誤りが私に起こるであろう。けれども、私には主張というものがないのだから、誤りも私にはない。」(二九) *(四)に対する龍樹の反論(詩頌)。
もし私がなんらかの主張をしているならば、私は主張命題の形式を採用していることになるから、君が先に指摘したような誤りもあるであろう。けれども、私にはいかなる主張もない。すなわち、すべてのものが空であり、絶対的に閑静であり、本性として孤寂であるときにどうして主張がありえようか。また、主張命題の形式をとることがあろうか。どうしてまた、主張命題の形式をとることにまつわる誤りがあろうか。そのばあい、私が主張命題の形式をとっているのであるから、私にこそ誤りがある、と君が言ったことは正しくない。*(二九)の詩頌に対する龍樹自身による散文の注釈。
また、君の言った、
「たとえ君が、まず知覚によってものを認識してから(その本体を)しりぞけるとしても、ものを認識する方法であるその知覚は、(君にとって)存在しない。」(五)*ニヤーヤ学派の主張。
「推理・証言・比定も、さらに、推理や証言によって証明される対象や、比喩によって比定される対象も、知覚(の批判)によってすでに答えられている。(六)*ニヤーヤ学派の主張。
ということに対して、われわれは言おう。
「もし私が、知覚その他(の認識方法)によって何かを認識するとしたら、私は肯定的に主張したり、否定的に主張したりするであろう。けれども、それがないのだから、(君の言うことは)私への非難にはならない。(三〇)*(五)(六)に対する龍樹の反論詩頌。
もし私が、知覚・推理・比定・証言という四つの認識方法のすべて、あるいは四つの認識方法のいずれか一つによって、なんらかの対象を認識するというならば、それによってあるいは肯定的に主張したり、あるいは否定的に主張したりすることもあろう。しかし、私はいかなる対象も認識することはないのであるから、私には主張したり、否認したりすることもない。このようなばあいには、「たとえ君(中観者)が、知覚をはじめとする認識方法のいずれかによってものを認識したのちに否認するとしても、それらの認識方法も(君には)存在しないし、それらの認識方法によって理解される対象もないではないか」と君(*avaro:ニヤーヤ学派の論者)が言ったことは、私に対する非難にはならない。*(三〇)の詩頌に対する龍樹自身による散文の注釈。
avaro75:
ここには、知覚とか認識に関する龍樹の立場が表明されている。