avarokitei84のblog

*はじめに。 このブログは、ヤフー・ブログから移行したものです。当初は、釈尊(お釈迦様・ゴータマブッダ)と宮沢賢治を探究してましたが、ある時点で、両者と距離をおくことにしました。距離を置くとはどういうことかと言いますと、探究の対象を信仰しないということです。西暦2020年となった今でも、生存についても宇宙についても確かな答えは見つかっていません。解脱・涅槃も本当の幸せも、完全な答えではありません。沢山の天才が示してくれた色々な生き方の中の一つだと思います。例えば、日本は絶対戦争しないで平和を維持出来るとおもいますか?実態は、戦争する可能性のもとに核兵器で事実上の武装をしています。釈尊の教えを達成したり絶対帰依していれば、戦争が始まっても傍観しているだけです。実際、中世インドでイスラム軍団が侵攻してきたとき、仏教徒の多くは武力での応戦はしなかったそうです(イスラム側の記録)。それも一つの生き方です。私は、武装した平和主義ですから、同じ民族が殺戮や圧政(現にアジアの大国がやっている)に踏みにじられるのは見過ごせない。また、こうしてこういうブログを書いているのは、信仰を持っていない証拠です。

文学・literature

以下の引用は、

「片山廣子歌集「翡翠」抄――やぶちゃん琴線抄59首――」

からのものです。

片山廣子さんの名は、芥川龍之介の記事で知りました。



何となく眺むる春の生垣を鳥とび立ちぬ野に飛びにけり

我が生命かへりみせらるもづもづと這ふ蟲見ればかへりみせらる

かさかさと野ねずみ渡る枯葉みち古りし欅ににほふ秋の日

わびしうも甘納豆をつまみつつ猫に物いふ夜の長きかな

小さなる稻荷の宮のうす月夜桐の花ふみてあそぶ野ねずみ

道づれに狐もいでよそばの花ほのかにしろき三日月のよひ

しろき花あかき花咲き蜥蜴など走りし庭の主人(あるじ)を憶ふ

曼珠沙華肩にかつぎて白狐たち黄なる夕日にささめきをどる

ああねずみ夜(よる)をいのちの汝が群の盜みて食めと思ふわがおもひ

五日月沈まむとする春の夜を森のふくろがひとりごといふ

菊の影大きく映る日の縁に猫がゆめみる人になりしゆめ

龜の子はのそりのそりとはうて行く氣味わるけれど我も行くかな

ふと戀し森の中なる墓こひし野際あかるく鳥とぶ夕べ

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一言に黑きひとみもをどりつる春かへり來よ我が老いぬ間に

わが指に小さく光る青き石見つつも遠きわたつみを戀ふ

わくらはのあくがれ心野を越えてわすれし路にふといでにけり

ゆめもなく寢ざめ寂しきあかつきを魔よしのび來て我に物いへ

月の夜や何とはなしに眺むればわがたましひの羽の音する

うすぐもるみそらの下に我立ちて風をきくかな枯木の風を

ほそぼそと朝の雨ふる銀のはり清くつめたくわがはだをさす

椿落つほこらの前の青ぐろき水のおもては物音もせず

あたらしき人をあらたに戀し得む若さにあらばうれしからまし

湯のたぎる火鉢に倚りて只一人風吹く空の青きに見入る

幽靈もほそき裾して歩みくや夜のうすもやに月あかりする

霧ふかしうぐひすむせぶ雜木原とつくに人に路とひにけり

月見草ひとり覺めたる高原の霧にまかれて迷ひぬるかな

雲の影遠野をはしるまひる時みねに立ちつつ我がいひしこと

其人のぬけたるのちの歴史こそ白紙の如く何もなきかな

柿の實の青きが落ちぬ夕雨にわが思ひさへ二つ三つ散る

青磁色の器のかけもふとまじる磯邊の砂のかわきゆく朝

わがのぞみ稻妻はしる遠空に見つと覺えて又やみになる

我が世にもつくづくあきぬ海賊の船など來たれ胸さわがしに

何を待つ今何を待つ山際のほのあかるみに笛遠く鳴る

青白き月のひかりに身を投げて舞はばや夜(よる)の落葉のをどり

よろこびかのぞみか我にふと來る翡翠の羽のかろきはばたき

ほかの世の我が聲きこゆ奇し鳥の我にあたへしゆめのさめぎは

いのらばや弱りはてぬる心もて今日のおもひに堪へん力を

自転車の変速器のワイヤ交換に40分ほど掛かりますと言われて、コンビニに歩いて行って軽自動車税を振り込んでも時間が余ったので、戻り道にある古本・ゲームソフトの店に立ち寄った。

時間つぶしのつもりだったが、ぶらぶら見て回っている内に、98円コーナーの文学書の中に面白そうな題名の本を見つけた。

表題に書いた2冊の本である。



「怪物はささやく」は児童書である。肺がんのために47歳で亡くなったイギリスの児童文学者の創作メモを元に、イギリス在住のアメリカ生まれの男性文学者が完成させた物語である。少年の母と同じ病に斃れた女性作家の何らかの体験が動機になっているものと思える。

          ***


「幽霊のような子」は、難しい単語も出てくるし、漢字にカナもふってないので、児童書ではないだろう。こちらの作者は、作中人物でもある特殊教育の専門家である。完全な創作ではなく、実話が土台になっているようだ。

しかし、どちらも、13歳の少年と、8歳の少女の物語である。

少年は、母との死別という運命を背負わされ、12時7分に母と永遠の別れを迫られる。

少女は、性的虐待を受け、精神的な障害で半分死んだような状態になっていたところへ、作者の分身の特殊教育の専門家が教師としてやってきて、苦境から救い出される。

少年は母と死別し、少女は自らの意思で両親の元を出てゆく。

人は、子供であっても死の淵に立たされ、そこから再び自分の生を立てなおさねばならなくなる場合がある。


少年の両親は離婚した。

父親は、新しい妻とアメリカに渡ってしまった。

その妻は夫が別れた妻や子(主人公の少年)と会ったり連絡を取り合うのを邪魔しようとしていたらしい。

これだけでも不運なのに、疫病神にとりつかれたのか、間もなく母にガンが見つかる。

しかも、かなり進行した状態だったらしい。


老病死は仏教においても根本テーマである。

(続く)

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