avarokitei84のblog

*はじめに。 このブログは、ヤフー・ブログから移行したものです。当初は、釈尊(お釈迦様・ゴータマブッダ)と宮沢賢治を探究してましたが、ある時点で、両者と距離をおくことにしました。距離を置くとはどういうことかと言いますと、探究の対象を信仰しないということです。西暦2020年となった今でも、生存についても宇宙についても確かな答えは見つかっていません。解脱・涅槃も本当の幸せも、完全な答えではありません。沢山の天才が示してくれた色々な生き方の中の一つだと思います。例えば、日本は絶対戦争しないで平和を維持出来るとおもいますか?実態は、戦争する可能性のもとに核兵器で事実上の武装をしています。釈尊の教えを達成したり絶対帰依していれば、戦争が始まっても傍観しているだけです。実際、中世インドでイスラム軍団が侵攻してきたとき、仏教徒の多くは武力での応戦はしなかったそうです(イスラム側の記録)。それも一つの生き方です。私は、武装した平和主義ですから、同じ民族が殺戮や圧政(現にアジアの大国がやっている)に踏みにじられるのは見過ごせない。また、こうしてこういうブログを書いているのは、信仰を持っていない証拠です。

ルアンポル・ティエン師の瞑想法

このアーカイブでは、ルアンポル・ティエン・チッタスポー(Luangpor Teean JittasubhoまたはLoo-ang por Tee-an Cittasubho)師の説法や伝記などから文章を引用して和訳し、師のsati-meditation(rhythmic-meditationともdynamic-meditationともmahasati-meditationとも)を研究していきたいと思います。

人は病を直すことは可能だが、死を避けることは不可能なのだよ。
One can cure a disease but one can't cure death

--from Luangpor Teean V6(with English translation)
http://www.youtube.com/watch?v=xJUtGgwvrFc&feature=related)

During the year 1988, Loo-ang Por Teean used about使う、割く all his time and efforts to establish and teach at Tup Ming Kwan Monastery. He once said that he wanted this place to be a place that produces people who can teach others.
1988年になってからは、ルアンポル・ティエン師は( 1983年に建設した)タップ・ミン・クワン僧院の基礎を固めることと、そこでの指導に全精力を費やしていた。師はかつて、ここタップ・ミン・クワン僧院が人々を導けるような人材を育成する場になって欲しいものだと話していた。

During the months of July and August 1988, his health began to deteriorate. This was due to cancer in the stomach. It had reached the final stage. Besides this, his lungs were swollen whice was treated in a hospital in Bangkok.
1988年の7・8月の間に、師の健康状態はどんどん悪化していった。これは胃にできた悪性腫瘍(ガン)が原因だった。それはもう末期症状になっていた。この他、肺も異常に膨らんでいて、その治療をバンコクの病院で受けていた。

Many disciples and devotees were troubled about his condition, but Loo-ang Por himself really seemed to be beyond any suffering. A monk who looked after him at the hospital asked, " You have feelings, perception, thoughts and consciousness, but you don't have suffering, is that right ?"
Loo-ang Por smiled and said " Yes, that's right."
多くの弟子たちや帰依者たちが師の病状に心を痛めていたが、ルアンポル・ティエン師自身は苦痛なんか全く感じていないように見えた。病院で師の身の回りの世話をしていたある僧が、「師は感情も知覚も思考力も意識もありますよね。しかし、師は苦痛を全く感じていないように見えるのですが本当にそうなんですか?」と師に尋ねたそうです。ルアンポル・ティエン師は微笑みながら、「そうだよ、その通りだよ。」と答えたそうです。

In the begining of September 1988, Loo-ang Por said that he wanted to go back to Ler-y(Loei) province. And he added that he would not return to Bangkok.
Many people urged him to stay in Bangkok to look after his health, but Loo-ang Por said " One can cure a disease but one can't cure death."
1988年9月の始め、ルアンポル・ティエン師は(生まれ故郷でもあり、心血を注いだTup Ming Kwan(Thapmingkhwan)僧院のある)レリー県に戻りたいと言った。そして、師はもうバンコクに戻ることはないとも言った。多くの人が師に対して治療のためにはバンコクに留まるべきだと説得した。しかし、師は(そういう人たちに)「人は病気を直すことは可能だが、死をどうにかすることは不可能なんです。」と話したそうです。

On the ninth of September he flew back to Tup Ming Kwan(Thapmingkhwan) and said that he would stop taking medicines.
On the tenth he geve his final talk.
9月9日、師は飛行機でタップ・ミン・クワンに戻った。そして、今日から薬を飲むのを止めると言いました(*実際飲まなかったのでしょう。)
翌10日、師は最後の説法を行った。

On the thirteenth at 4 O'clock in the afternoon, he practiced the rhythmic meditation, even though he hardly had enough strength to make the movements.
(1988年9月)13日午後四時、師はリズミック・メディテーション(sati-meditation)を行った。その頃には実際、師の体力は(手を動かして行うリズミック・メディテーションの)動作を出来ないほど衰えていたのですが。
*寝た姿勢で行ったのか、坐る姿勢で行ったのかは不明。

At a quarter past six, his arms fell down beside him.
He had passed away peacefully and fully aware.
午後6時15分過ぎ、師の腕が脇にパタンと落ちました。
師は本当に安らぎに満ちて、完全なニッバーナの状態で亡くなりました。

下記の英文は、"THE DYNAMIC PRACTICES OF LUANGPOR TEEAN, A THAI MEDITATION MASTER" by Tavivat Puntarigvivat から引用しました(和訳はavaro)。
 (http://www.baus.org/sati/luangpor_teean_-t.htm)

<引用開始>
In late 1985 Luangpor Teean gained an important female disciple, Anchalee Thaiyanond, a middle-aged Bangkok woman with two daughters.
1985年の終わりごろ、ルアンポル・ティエンには、二人の女の子の母親でもある中年のバンコク女、アンチャリー・タイヤノンドという女性の弟子ができた。
Unlike many other women at her age in Thai culture, Anchalee was never interested in religion, merit making, or keeping the precepts.
タイ文化圏に住む同年代の多くの女性と違って、アンチャリーは宗教や功徳を積むことや、戒律を守ることにほとんど興味をもたなかった。
She happened to read some of Luangpor Teean's books and had faith in his teachings.
彼女は偶然の機会があってルアンポル・ティエンの本を読んで、彼の教えを信じた。
She went to see him and practiced at home frequently seeking his guidance by visiting him at Wat Sanamnai.
彼女は彼に会いに行って、家で修行しました。その後もしばしば、ワット・サナムナイに彼を訪ねて直接指導してもらいながら修行を続けました。
She attained the Dhamma in her daily life in the busy city of Bangkok and became a female successor to Luangpor Teean.
彼女はバンコクの騒々しい街中で毎日の家庭生活をこなしながらダンマに到達した(ニッバーナの成就を成し遂げた)のです。そして、ルアンポル・ティエンの女性後継者となったのです。
<引用終了>

Anchalee Thaiyanondの本「Against the Stream of Thought」が下記URLにあります。
(http://www.what-buddha-taught.net/Books2/Luang_Por_Teean_Against_the_Stream_of_Thought.htm)
このテキストは、ルアンポル・ティエン師の著作となっていますが、本を書いたのは、アンチャリー・タイヤノンド師です。

テーラヴァーダ仏教諸国が保存継承してきたパーリ仏典アーガマの中に、釈迦の直弟子たちの言行録があります。テーラガーターとテーリガーターです。

比丘と比丘尼の弟子たちの言行録は貴重な記録です。
同時に、この二つの経典は、釈迦の教えを体現した者が居たという証言記録でもあります。

釈迦仏教においては、弟子が目的を達したということは何より重要なことでしょう。
誰でも真剣に目指せば目的を達成できるという教えが実証されたことになるからです。

Anchalee Thaiyanond師については、これから勉強してみたいと思います。
 

下記の英文も、"THE DYNAMIC PRACTICES OF LUANGPOR TEEAN, A THAI MEDITATION MASTER" by Tavivat Puntarigvivat から引用しました(和訳はavaro)。
 (http://www.baus.org/sati/luangpor_teean_-t.htm)

<引用開始>
Luangpor Teean went to Singapore twice in 1982 on the invitation of
a Buddhist group there. His first visit to Singapore, June 8-24, marked a historical event when he met Yamada Roshi, a Zen master from Japan.
シンガポールの仏教団体の招きで、ティエン師と日本からは禅の指導者、ヤマダ老師がシンガポールにやってきた。*註によれば、二人は通訳を介して対話を行ったようです。
This meeting of the two teachers raised the question of what "sudden enlightenment" really was in the contemporary context and what was the authentic method leading to that "sudden enlightenment."
この二人の指導者の出会いによって、今の時代状況の中で、(釈迦の言う)突如起こる悟りというものを実際どういうものとして捉えればいいのか、あるいはまた、突如として起こる悟りを可能にする確実な方法とはどういうものなのかという大問題が浮き彫りになった。
While Yamada Roshi emphasized concentration and the silent recitation of a koan (dhamma riddle), Luangpor Teean emphasized awareness (without either concentration or recitation) through bodily movement and the “seeing” of thought.
ヤマダ老師が精神集中と公案の沈思黙考(による方法)を強調したのに対して、ルアンポル・ティエン師は身体運動を通じて養成される気づき(これは精神集中や黙考を必要としない)と思考を見ること(という方法)を強調した。
Yamada Roshi guided his students to attain step-by-step satori (sudden enlightenment) by breaking through a series of koans recorded in the Mumonkan.
ヤマダ老師は、生徒たちに無門関にある公案の課題を提示し、それを一つ一つ乗り越えさせることで、一歩一歩悟り(突如起こる悟り)の成就へと導いた。
In this tradition, if a person cannot finish all the koans within this lifetime, they can be worked on in the next life until final "satori" is attained.
この(臨済宗の)流儀では、たとえ、ある修行者が生きている間に公案の課題を全て達成できず、悟りに達することが出来なかったとしても、彼は次生(来世)で、悟りを成就するまで修行することが出来るとされている。
Luangpor Teean, on the other hand, guided his students step by step through the "object of practice" without referring to any scriptures or historical records.
これに対して、ルアンポル・ティエン師は、いかなる経典も伝承された記録文書も用いず、瞑想の対象を通して少しずつ着実に生徒たちを導いた。
He insisted that people should diligently develop awareness until they realize the state of arising-extinction, the final sudden enlightenment, within this lifetime.
彼(ティエン師)の主張によれば、人は生じてすぐ消滅するという段階すなわち最終的な悟りを今生で(生きているうちに)はっきり知るまで一生懸命に気づきを培うべきであるということになる。
Unlike many teachers within the various Buddhist traditions he never mentioned anything about the life after.
さまざまな仏教の流派の多くの指導者たちと違って、彼(ティエン師)は死後の事柄についてはほとんど何も述べていない。
The method of concentration and the silent recitation of a koan is quite different from the method of developing awareness through bodily movement.
精神集中によって公案を沈思黙考するという(修行)方法は、身体運動を通じて気づきを培うという方法とは全く異なるものである。
The content of a series of koans is also quite different from the content in the "object of practice" in dynamic meditation.
公案集の内容もまたダイナミック瞑想(サチ・メディテーション)における(瞑想)修行の対象に含まれる内容と全く異なってる。
<引用終了>

「A Manual of Self-Awareness」(下記URL)の末尾に"Warning(注意)"が8項目ほど示されている。
http://www.mahasati.org/manualOfSelfAwareness.pdf

 You should not practice according to your own content, opinion or thought. In order to make your practice progress, you should be obedient to the instruction of the "craftsman・(the Teacher)”.
◆You should avoid talking to each other and refrain from taking all kinds of addictive things such as cigarettes, tea, coffee, etc. otherwise your mind will be attached to them.
 You should practice with determination. Do not deceive yourself.
ぁDo not sit still. Keep doing rhythmic movements continuously.
ァDo not concentrate.
ΑPractice with ease.
АOpen your eyes.
─Let thoughts arise freely, do not suppress them.

その内の、 Do not concentrate. が、精神集中によらないという説明と一致する。
その他、これに関連する項目は、ΝЛ┐そうだと思う。
特に、─Let thoughts arise freely, do not suppress them.(思考=想うことについては湧きあがるままにさせておけ。圧殺してはならない。)という指示は重要なことらしい。
これに関して、"THE DYNAMIC PRACTICES OF LUANGPOR TEEAN, A THAI MEDITATION MASTER"の他の箇所に、下記の記述がある。
”thought was "seen" as soon as it arose, and it immediately stopped. Soon, practicing in this way, he penetrated to the source of thought and realization arose. His mind changed fundamentally. ”
(思考は起こるや否や直ちに'見られて'、 すぐに停止してしまう(それ以上に思考が発展することがない)。すぐに、このように瞑想修行をしていれば、彼は思考の根源を洞察によって知り、本当のことをありのままに知る(智慧)が生じる。彼の心は根底から違ったものになる。)

悟りへの最短路 - This method is the shortest way to Sudden Enlightenment -

"A Manual of Self-Awareness" by Luangpor Teean Jittasubho
(http://www.mahasati.org/manualOfSelfAwareness.pdf)
より引用しました。

<引用開始>
Man is born to think. He thinks this and that end-lessly.
人は生まれつき"考える"ものなのです。人は年中あれやこれやを考えています。

Thoughts flow all the time like a stream. Thought is the quickest thing. It is quicker than lighting or anything.
思考(人が考えること)は、川の流れのように絶えることなく常に湧き出し流れています。思考は最速のものです。稲妻よりも何よりも速いのです。

Suffering arises because we do not see thought.
苦というものは、私たちが"思考を見ない”ために生じるのです。

Thought itself is not suffering.
思考自体が苦なのではありません。

When thought arises, we do not see, know and understand it simultaneously, so greed, anger, or delusion arises and brings us suffering.
思考が生じるやいなや直ちに、まさに今生じた思考を”見て”、”知って"、"理解しない"と、(たちまち)貪欲、怒り、妄想が生じてきて、私たちは苦に取り付かれてしまうのです。

If fact, there is no greed, anger or delusion. They occur because we do not see 'The source of the mind'・
貪欲、怒り、妄想というものが(実際に)あるのではない。それらは私たちが心の根源・源を"見ないでいる"から生じてくるものなのです。

So let us cultivate self-awareness.
だから、自分に気づき・自分を知る力(技能)を訓練し高めるべきなのです。

When thought arises, we see, know and understand it. It is Sati-Samadhi-Panna (Awareness-Attention-Insight). We call it "Self-awareness"・
思考が生じるや否や、それを"見て"、"知って"、"理解する”のです。その一連の活動は、”気づき-集中-洞察”(Sati-Samadhi-Panna )というものです。それは自分に気づき・自分を知る力("Self-awareness")と名づけられています。

Whenever we are aware, thought cannot concoct. If we do not see it, it will concoct endlessly.
私たちに常に気づきが働いているならば、思考は虚妄をでっちあげられません。だが、(気づきが働いていないために)思考を見ないで(思考の為すがままにしておくと)、思考はどんどん虚妄をでっち上げ続けてしまいます。

This method is the shortest way to Sudden Enlightenment.
この(sati・meditationという)方法は、悟りに最も早く確実に達する道です。
<引用終了>

ティエン師の言う"thought"とは、どういうものなのかを考えます。

どちらも、所有という意味があると思うのですが、以下の文章では使い分けているようです。

私は、belong=誰にでもあるものなんだけれども、ほとんどの人は自分がそれ(ダンマ)を持っていることに気づいていないと考えました。ダンマを持っているのだけれど、そのことに気づいていないのが、belong。

一方の、possess=もともと自分の中にダンマがあることもその働きも知らないで居たのだが、(気づきの修練によって)それをはっきりと見て、十分に働くように自分を訓練して、本当に自分のものとすることという風に理解しました。自分にはダンマと言うものがあると気づき、それをはっきりと知って、正しくダンマを働かせることができるようになったのがpossess。
この読みはどうでしょうか?

"A Manual of Self-Awareness" by Luangpor Teean Jittasubho
(http://www.mahasati.org/manualOfSelfAwareness.pdf)
より引用しました。


<引用開始>
The Dhamma (the Truth) which I am talking, belongs to everybody. It dos not belong particularly to any religion, whether Buddhism, Brahmanism or Christianity; nor to any nationality, whether Thai, Chinese, French, English, American, Japanese or Taiwanese.
私の言うダンマ(真理・真実・本当のこと)というものは、全ての人の中にあります。ある宗教を信じている人たちの為だけにあるものではなく、仏教徒でもバラモン主義者でもキリスト教徒でも、誰にでもあるのです。特定の民族だけのものでもありません。タイ人にも中国人にもフランス人にもイギリス人にもアメリカ人にも日本人にも台湾人にもそれはあるのです。

Anyone who realizes it, possesses it. One who realizes it, possesses it. One who does not realize it, does not possesses it.
ダンマをはっきりと知る者はだれでも、ダンマの所持者となるのです。ダンマをはっきり知る者は、ダンマの所持者です。ダンマをまだはっきり知らない者は、ダンマの所持者ではありません。

It exists in everybody regardless of his religion. Having realized it, you cannot prohibit others from cultivating it.
ダンマはどんな宗教を信じているかということには関係なく、全ての人の中にあります。自分はもうダンマをはっきり知ったからといって、他の人が一生懸命修行をしてダンマをはっきり知ろうとするのを禁止する(妨げる)ことは出来ません。

Having realized it, you cannot destroy it, because it is indestructible. Nothing can destroy it.
自分はもうダンマをはっきりと知ったからといって、ダンマを壊して消滅させることも出来ません。ダンマを壊すことが出来るものはないのです。

It is impossible to stop others from realizing it because one who cultivates it will realize himself. One having realized, it is impossible to destroy because is so all the time.
他の誰かがダンマをはっきりと知ろうとしているのを止めさせることは出来ません。なぜなら、ダンマを知ろうとして努力しているその人は、ほかならぬ自分自身の本当のことを知るのだからです。ある人が自分の本当のことを知ったからには、その人が知ったダンマ(その人の本当のこと)を壊すことなんて出来ません。なぜなら、それはそのとおりにいつでもその人とともにあるのですから。

Man himself is religion. Dhamma is in man. Man is Dhamma.
人というものは、人自身が宗教なのです。ダンマは人そのものであり、人はダンマそのものなのです。

The ancients said, 'Heaven or hell is in the mind, so is Nirvana (the extinction of all defilements and suffering)".・
天とか地獄とかは心の中にあるんだ、だから、ニッバーナというのは、あらゆる汚れと苦が無くなったということなんだ、と古人が言っています。

Where is the mind? Have you ever seen the mind?
心ってどこにあるか知ってますか? 心を見たことがありますか?

If you have never seen it, you should practice until you know what the mind is.
まだ心を見たことがないのなら、心ってどんなものなのか知るまで修行を行うべきです。

Hell is mental suffering or unhappiness. When it fades away, we are in heaven. Whenever anger recurs, we then revert to hell.
地獄とは、心の苦しみであり不幸せです。心の苦しみと不幸せが無くなれば天に昇ったような気持ちになるが、また怒りが沸き起こると、地獄に逆戻りしなければならないのです。
<引用終了>

ムン師がほとんど同じようなことを言っていると思います。

It is indifference, equanimity(それが、中立で、いかなることにも無関心であり、何ものにも左右されることの無い、平静さなのです).


AUDIENCE: Luangpor said that gladness and sadness are the same thing. How can they be the same?
聴衆の質問者:ルアンポルは喜びと悲しみは同じものですと言いました。どんな風に同じなのでしょうか?
LUANGPOR: They are dukkha. Gladness is one kind of dukkha, sadness is another kind of dukkha. Unknowing people live with dukkha, eat with dukkha, walk and stand and sit with dukkha, sleep with dukkha,wherever they go they bring dukkha along. When they see a movie they laugh; laughter is a form of dukkha. When they meet with sadness they cry; crying is a form of dukkha. Gladness and sadness, both of them are forms of dukkha. Just so, I imagine that there are two kinds of darkness, white darkness and black darkness. When we earn a lot of money we are glad. That is dukkha. It is the white darkness. When we lose money we are sad and the mind thinks angry thoughts. This is also dukkha. It is the black darkness. But both are dukkha.
ルアンポル:それらは(どれも)苦なのです。喜びは苦の一つであり、悲しみも苦の一つなのです。(真実をありのままに知らないでいる=)無知な人々は苦と一緒に生き、苦と一緒に食べ、苦と一緒に歩き・立ち・坐り、苦と一緒に眠るのです。どこに行くのにも、必ず苦を一緒に連れて行きます。映画を観て笑います。この笑っている姿は苦の表現の一つなのです。悲しいことに出会うと泣きます。泣くことも、苦の表現の一つなのです。喜びと悲しみ、どちらも同じ苦の表現なのです。イメージでお話ししましょう。暗黒(無知→苦)にも2種類あると思ってください。白い(無害な)暗黒と、黒い(悪い)暗黒です。さて、私たちは沢山お金を稼げた時は喜びますね。しかし、これも実は苦なのです。ただし、これは白い(無害な)方の暗黒(無知→苦)です。反対に、お金を失くしてしまった時は悲しんで、心に怒りの思いが湧き上がりますね。これもまた苦です。これは真っ黒な(すごく悪影響のある)暗黒です。しかし、どちらも苦には違いないのです。
AUDIENCE: In reality there is no gladness or sadness, they just arise from moha, don't they?
聴衆の質問者:ありのままに見ることが出来た時、喜びとか悲しみとかも無くて、それらは無知が原因で生じるのですね、そうですね?
LUANGPOR: Just like that.
ルアンポル:その通りです。
AUDIENCE: Luangpor said that all kinds of gladness are dukkha. Is there some kind of gladness that is not dukkha, for example love between husband and wife?
聴衆の質問者:ルアンポルはあらゆる喜びは苦なのだと言いました。喜びの中には、苦じゃないもの、例えば、夫と妻の間の愛のような、苦ではない喜びというものがあるのではないですか?
LUANGPOR: All are dukkha.
ルアンポル:すべてのものは苦です。
AUDIENCE: How about gladness in Dhamma, or sometimes when we look at the sunshine we feel happy?
聴衆の質問者:それでは、ダンマの喜びというものはどうなのですか(これも喜びだから苦のひとつなのか、という問い)。あるいは、時たま感じる陽光の中で光に包まれた時に幸せな感じを抱くようなものはどうなんですか(これも苦なのか、と問いかけている)?
LUANGPOR: That is not dukkha, not suffering or happiness, not gladness or sadness. It is indifference equanimity.
ルアンポル:そういうものは苦ではありません、というより、苦でもなく幸せでもなく、喜びでもなく、悲しみでもないものなのです。それが、中立で、いかなることにも無関心であり、何ものにも左右されることの無い、平静さなのです。

(To One That Feels(Third Edition (2005)) by Luangpor Teean 
http://www.mahasati.org/oneWhoFeels.html) より抜粋

ルアンポル・ティエン(Luangpor Teean)師が亡くなられたのが1988年ですので、まだ、それから20数年しか経っていないのに、早くも、ルアンポル・ティエン(Luangpor Teean)師の瞑想法は、いくつかのセクトに分かれ始めたようです。
  • หลวงพ่อ(lŭang pôr=venerable monk)เทียน(tian=candle)
  http://www.thai2english.com/search.aspx?q=%E0%B8%AB%E0%B8%A5%E0%B8%A7%E0%B8%87%E0%B8%9E%E0%B9%88%E0%B8%AD%E0%B9%80%E0%B8%97%E0%B8%B5%E0%B8%A2%E0%B8%99
 *Luang Phor candle
  http://www.thaienglishdictionary.org/
 *หลวง(luaang) พ่อ(phaaw) เทียน(thiian) จิตตสุโภ(ji dtoht soo pho:h)
  http://www.thai-language.com/default.aspx
 *以上の辞書の表記からすると、ティエン師の日本語表記は、ティアンorティァン(師)が適しているようです。
 


あるブログを読んでいてびっくりしました。

ルアンポル・ティエン(Luangpor Teean)派(というような名称が使われていました)では、最初からサマタ瞑想もヴィパッサナ瞑想も行うという記述があります。

えっ、と思わず声を挙げてしまいました。

さらに、次のような記述もあります。

サマタ瞑想は補助的に用いられる。
パオセヤドーが指導しているテーラヴァーダ仏教の正統の瞑想法は採用せず、パオセヤドーが指導するような高い(深い)禅定は目指さない。
瞑想法としては、アーナーパーナ・サティなどが採用される。

これらの文章は、一体何を根拠にしているのか、納得しかねるのです。

私のブログで紹介している、ルアンポル・ティエン(Luangpor Teean)師のテキストでは、
サマタとかヴィパッサナという瞑想法を前面に出した説明はない筈です。
特に、サマタについては、
「精神の集中をしてはならない。」
「目をつぶって、身体を動かさずにジッとして瞑想をするな。」
と、指示しているはずなのです。
つまり、一般的なサマタ瞑想を禁じていて、「気づきの瞑想」を実践していれば、自ずから、サマタは実現される(素人考えでは、一点集中型の精神集中ではなく、ヴィパッサナにおける気づきが抜け落ちなく行われる事を言っていることと、従来方式のサマタで得られる平静さが気づきの瞑想によって自ずと獲得されると記述されていると理解している)と記述されているはずです。
アーナーパーナ・サティは、一点集中型の瞑想法という理由で、ルアンポル・ティエン(Luangpor Teean)師の瞑想法には採用されていないはずです。

そのブログがジャンプ先にしているHPにはっきりとルアンポル・ティエン(Luangpor Teean)師のテキストが示されています。
それらを読めば、明らかです。

そのブログでは、日本での指導者としてプラ・ユキ・ナラテボー師(日本人で、ルアンポル・ティエン(Luangpor Teean)師の直弟子、カムキアン師に師事した方のようです)の名が挙げられています。

日本人にも馴染みがあるスカトー寺(僧院)の院長が、カムキアン師で、ナラテボー師は副院長を勤めている(た)ようです。

もしかしたら、ナラテボー師の日本語の本にそのような記述があるのでしょう?
買っていないので確認できません。
(無料ブログがたくさんあるのですから、出来れば、説法としてネット上に無料公開して欲しいものです。坊さんは、托鉢食で生きているのですから、パソコンとネット接続料金を布施してもらって、ぜひとも、著作はネット上に無料で行って欲しい。パソコンは、一万円で使い物になりますし、ネット接続料は月額6000円でOKです。電気代を入れても、月額一万円に満たないでしょう。また、本にするなら、これも布施に頼って無料配布にして欲しい。そのための布施なら喜んでしましょう。)

カムキアン師の他に、ネット上にはルアンポル・ティエン(Luangpor Teean)師のウォーキング瞑想とは違う、変わったやり方を指導するタイ人の比丘を見たことがあります。

せっかくアンポル・ティエン(Luangpor Teean)師が、誰にでも取り組めるように瞑想法を工夫してくれたのですから、シンプルなままに継承して欲しいです。

私がムキになったところで事が解決することはないのですし、ブログで何を主張するかは管理人が決めることで、記事をどう読むかは読み手の主体性次第ですから、こんな記事を書くことが間違っているのかもしれませんが、あまりに明らかな誤りだと思うので、余計な世話を焼きました。

ぜひ、ルアンポル・ティエン(Luangpor Teean)師のテキスト(英文)を読んでください。
私も出来るだけ早くナラテボー師の本を読んでみたいと思います。



AUDIENCE: Why are people neurotic?
聴衆:どうして人々はノイローゼになるのですか?

LUANGPOR: Because we think a lot and we never see thought. We only see outside ourself: that this person is rich, that person poor, this person beautiful, that person not beautiful; somebody who has a car only sees their car, somebody who has jewels only sees jewels, somebody with a watch only sees their watch. They never see their own life, their own mind; this is moha (delusion). To see our own mind clearly, without trying to do anything with or about it, simply seeing it and letting it go, this is the way to freedom from dukkha, freedom from all neurosis.
So we should develop sati. "Develop" means to make much of it. As sati grows, its ability to penetrate into and reveal the mind also grows. If we only practice keeping the precepts or doing calmness meditation, it is still not safe. It is like lighting a candle in a dark cave. The darkness shrinks a little but is still there with us, we are still in the dark, and when the candle goes out the darkness immediately covers everything again. So we should emerge from the cave by having sati all the time, in every movement. This is an easy method. Anyone can do it, and it can be practiced everywhere.
ルアンポル・ティエン(Luangpor Teean):どうしてかというと、私たちはいろいろたくさん考えるけれど、決してその考えるということ(思考)を見ようとしないからです。私たちは(いつも、内側の自分自身を見ないで、)自分の外ばかり見ているのです。例えば、この人は金持ちだがあの人は貧乏だとか、この人は美しいけれどあの人は美しくないとか、あるいはまた、車を持っている人は車にだけ眼が行き、宝石を持っている人は宝石だけに目が行き、腕時計を持っている人は腕時計だけに目が行くのです。彼らは決して彼ら自身の生(自己)を、すなわち彼ら自身の心を見ないのです。これ(こそ)がmoha(迷妄)なのです。心で何事かを企んで為そうとしたりせず、心に関して何ごとかを為そうなどとせずに自分自身の心をありのままに隅々まで見る、私たち自身の心をただ見つづけ、心の為すがままにさせておく、このようにすることが苦から解放される道(方法)なのであり、あらゆるノイローゼから解放される道(方法)なのです。そういうわけで、私たちはサティ(sati)を育てなければ(働きを高めなければ)ならないのです。“develop”の意味は、サティを重視するということです。サティが育つ(働きが高まる)と、心をありのままに見る力と心の秘密(真実)を解き明かす力が同時に育つ(働きが高まる)のです。もしも私たちがただ徳目(戒=シーラ)を守っているだけだったり、(眼を瞑ってジッと坐って行う)サマタ瞑想を行うだけならば、それだけではまだまだ不十分なのです(ノイローゼなどの苦から解放される保証は無い)。真っ暗な洞窟の中で蝋燭を燈す場合を考えてみましょう。(蝋燭を燈すと洞窟の中は=私たちの周りだけは)少し明るくなります(暗闇でなくなる)のですが、実は、暗闇は私たちの傍に存在し続けているのです。私たちはまだ暗闇の中にいるのです(蝋燭の明かりが燈っているので暗闇が無くなったと思うだろうが)。だから、蝋燭が消えると、たちまち暗闇がふたたび何もかも包み込んで(真っ暗闇に)してしまうのです。そういうわけで、私たちは四六時中あらゆる(身体と心の)動作にサティ(気づき)を持ち続けて、洞窟の暗闇の外へと脱出しなければならないのです(洞窟の中にいては暗黒=mohaに支配され続ける)。これ(ルアンポル・ティエン(Luangpor Teean)師の瞑想法)は分かり易く実践しやすい方法です。誰でもこの瞑想法を実行できます。しかも、この瞑想法はどんな場所ででも実践(修行=訓練)可能なのです(騒音があろうが、運転中だろうが、仕事中だろうが行えるのだとルアンポル・ティエン(Luangpor Teean)師は言っています)。
(「To One That Feels (Third Edition (2005))」by Luangpor Teean より  和訳はavaro)
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AUDIENCE: When we see thought and the source of thought, will suffering and all kinds of tension end or not?
聴衆:私たちが、思考とその源(思考が生じてくるところ)を見たならば、苦とあらゆる心の緊張・不安・ストレスは解消するのでしょうか、それとも、まだ(完全に)解消できないのでしょうか?

LUANGPOR: Not end yet, because we only know it but we still do not do anything with it. We only know and see thought, we only know the source of thought, but sometimes we lose the way of it. For example, each day we may know it ten times, but the not-knowing is more. So it is not the end. But it is the beginning of destroying moha in the source of thought.
ルアンポル・ティエン(Luangpor Teean):まだ解消しません。その訳は、その時(When we see thought and the source of thought)、私たちはただ思考とその源を(見て)知った(気づいた)だけであり、その思考とその源についてまだ何も(為すべきことを)やっていないからなのです。私たちは思考に気づいて見ただけなのであり、思考の源を知った(に気づいた)だけなのです。ですから、時々私たちはそれ(思考や思考の源)を見失うこともあるのです。例えば、毎日私たちは十回ずつそれ(思考や思考の源)を知る(に気づく)としても、(生じてきた思考に)気づかず、知らないことがもっとたくさんあるのです。そういう訳で、それ(When we see thought and the source of thought)は(苦の解消の)完成・終了ではないのです。しかし、それ(When we see thought and the source of thought)は、思考の源にあるmoha(迷妄という苦の本当の発生装置・原因)を破壊する作業(出家者の為すべきこと)が始まったサインなのです(avaro:だから、自身を持って気づきの訓練を続けようと言っておられるようです)。

(「To One That Feels (Third Edition (2005))」by Luangpor Teean より  和訳はavaro)
http://www.mahasati.org/oneWhoFeels.html



AUDIENCE: I would like to ask, during Luangpor’s practice, before coming to the end, was there any point where you had doubt arising, and was there any sign that released you from the doubt whether there was any more moha or not?
聴衆:ルアンポル・ティエン(Luangpor Teean)にお尋ねします。あなたの修行が完成する前、まだあなたが修行中に、「私には最早mohaは残っていないのだろうか、それとも、まだ残っているのだろうか」という疑惑が生じた時(段階)があったのでしょうか、そしてまた、その疑惑が解消した(疑惑から解放された)と分かる印(合図)がなにかあったのでしょうか?

LUANGPOR: It has a sign, but not a physical sign. The sign is that you see yourself and you have no moha. It is as if an overturned bowl had been set aright. Or it is like uncovering something that has been covered over and hidden. Only anyone that comes to this point will know it, and will immediately have no doubt. We don’t have to talk about dosa - moha - lobha, because it is quite common, it is a shallow matter. When we talk about seeing thought, most people know thought but they do not see thought. When we know thought, thought will still continue, and we lose our way in the continuity of thought, we have moha in thought, then dosa - moha - lobha comes at this point. So this is why a person who knows thought still has dosa - moha - lobha.
ルアンポル・ティエン(Luangpor Teean):印(合図)はありました。しかし、それは身体的(身体に表れる)印(合図)ではありません。その印(合図)はあなたが自分自身を見るということであり、あなたに全くmohaが無くなったということです(如実知見)。それは丁度一度ひっくり返った鉢が(気がつくと)キチンと正しくなっている(のを見る)ようなものです。あるいは、それまで完全に覆われ、隠されていたモノの覆いがすっかりとり除かれ(顕になっ)ているようなものです。この段階(時)に達した者のみがそれ(印=合図)を知り、直ちに疑惑が無くなるのです。(この印=合図を知った人たちには)私たちはdosa-moha-lobhaについて説法する必要な無いのです。なぜならば、(今や)それ(dosa-moha-lobha)はごくありふれた普通のもの(どうしていいか分からないような難問ではなくなったの)であり、(心の奥のどことも知れぬところにあるものではなく、すぐに対処可能な)表在的な事柄(となっているモノ)だからです。私たちが“思考を見るということ”について説法すると、ほとんどの人は思考(の内容)を“知ろう”として、思考を(単なるモノとして)“見よう”としません。私たちは思考(の中身)を知るならば、思考は依然として(あなたの中で)考え続けます。その結果、私たちは思考の流れに押し流されてしまい、(修行で目指す)私たちの道を見失うのです。(このような)思考の流れにはmohaがありますから、この段階にいる私たちにはdosa-moha-lobhaが生じてくるのです。つまりこれが、思考(の中身を)知ろうとする人に何時までもdosa-moha-lobhaがあり続ける理由なのです。


(「To One That Feels (Third Edition (2005))」by Luangpor Teean より  和訳はavaro)
http://www.mahasati.org/oneWhoFeels.html




AUDIENCE: I have listened to Luangpor, and have the feeling that thoughts, and emotions like gladness and sadness, are something external. They are like rice and curry, which we can make use of, we can eat them, and we can see them. But when these things arise in us, we cannot see them, either thoughts or emotions. This is not a question, but I would like Luangpor to make it clear.
聴衆:私はこうしてルアンポル・ティエン(Luangpor Teean)のお話を聞いていて(ふと)思いました。思考とか喜び・悲しみ(苦楽)の感情とかいうものは外に有るものなのかなと感じたのです。丁度、お米とカレー(の料理)のように。どういうことかといいますと、私たちはそれ(米とカレー)を料理することが出来ますし、それを食べることが出来ますし、それを見ることも出来ます。しかし、これらのもの(米・カレー、そして思考・感情)が私たちの中にあるとすると、私たちは米やカレーは勿論のこと、思考も感情も見ることが出来なくなります。これは質問ではないのですが、私としては、この私の戸惑いをルアンポル・ティエン(Luangpor Teean)にすっきり説明していただければと思います。

LUANGPOR: To see thought is one thing, to know thought is another thing. When we see thought, we can detach from thought. When we know thought, we still attach to thought. So knowing thought is the knowledge that belongs to avijja (not-knowing), the knowledge of a person who has no panna. But with the knowledge of one that has panna, to know and to see can be separated. It is vijja (knowing) or panna. Panna and vijja will separate thought apart, and that is the end of dukkha. So one that has panna knows like this. But I can assure you that all of you here can do it. Please try it yourself. Just to listen you cannot know it. It is only memorizing. If we practice it, we will come to see clearly, to know really. This is our own knowledge, so it is called Buddho, which means to see, or to detach.
ルアンポル・ティエン(Luangpor Teean):思考を見るということと、思考(の中身)を知るということとは全く別な事柄なのです。私たちが思考を見る(ことが出来る)ならば、私たちは思考から離れられます(思考すなわち考えごとに没頭する--attach--ことなく、思考を心に生じた一つのモノ(事柄)として見る--dettach--ことが出来る。)。もしも私たちが思考(の中身)を知るならば、私たちはいつまでも思考にべったりくっつきっぱなしです(考え続ける)。だから、思考(の中身)を知っているというのは、アヴィジャ(無知)に支配されている(ありきたりの)智慧(を得ているだけ)なのです。言い換えれば、まだパンナ(パンニャ)が生じていない人が得る(世間的な)智慧なのです。それに対して、パンナ(パンニャ)が生じている人の智慧を以ってすれば、(思考の中身を)知ることと、(思考を単なるモノとして)見ることとを区別できるのです。それがヴィジャ(智慧=明知)あるいはパンナ(パンニャ)なのです。パンナ(パンニャ)とヴィジャは思考を引き離すのです。そして、それが苦の止滅なのです。そういうわけで、パンナ(パンニャ)が生じている人はこのように知るのです。皆さん、私はきっと、ここにいるあなた方全員がそれ(パンナ=パンニャが生じて、智慧=明知を得、思考を引き離して、苦を止滅させられること)を為し遂げられるということを保証できます。どうかご自分で試してみてください。ただ聞くだけで(自分で実際に実践してみなければ)それ(あ、私は苦を止滅させた、ということ)を知ることは無いのです。聞くだけというのは、ただ覚えているだけなのです。しかし、もしも、私たちが実践をするならば、如実に見ることが出来、ありのままに知ることが出来るのです。これは、自分自身の(真実を知っている)智慧なのです。その智慧(を得たこと)はブドゥ(ブッダ)と呼ばれます。ブドゥとは、(如実に)見ていること、(無知=思考を)離れたことを意味します。

(「To One That Feels (Third Edition (2005))」by Luangpor Teean より  和訳はavaro)
http://www.mahasati.org/oneWhoFeels.html


このQに対するルアンポル・ティエン(Luangpor Teean)師のAは程度が高すぎる気がします。

Qを発した聴衆は、見ると知るの区別がはっきりしていないというより、通常の意味での知る(思考の中身を知るというような)のつもりで「見る」を考えているのでしょうか。すくなくとも、ルアンポル・ティエン(Luangpor Teean)師は、Qをそのように解釈したようですね。Aがそういう文脈になっています。

ルアンポル・ティエン(Luangpor Teean)師が説く“To see Thought”というのは、肉眼で視覚的に見るのではないわけです。つまり、聴衆が理解できずに戸惑っているのは、聴衆は普段、米やカレーを肉眼で見て、これが米、これがカレーというように知っているはずです。この考え方ですと、確かに、身体や心の中に在るものは見えもしなければ、知ることも出来ない可能性が高いですね。喉までは感じられでも胃や腸にあるとほとんど自覚できませんよね。少なくとも、見て知るというのは不可能です。

ルアンポル・ティエン(Luangpor Teean)師の見る、知るというのは全く違う関係なのだと理解しています。
気づきの助けで、心の未知の働きが働いて心の眼で見る(観る)ということなのでしょうね。

皆さんはどうお感じなったでしょうか?
読むって難しいですね。



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