avarokitei84のblog

*はじめに。 このブログは、ヤフー・ブログから移行したものです。当初は、釈尊(お釈迦様・ゴータマブッダ)と宮沢賢治を探究してましたが、ある時点で、両者と距離をおくことにしました。距離を置くとはどういうことかと言いますと、探究の対象を信仰しないということです。西暦2020年となった今でも、生存についても宇宙についても確かな答えは見つかっていません。解脱・涅槃も本当の幸せも、完全な答えではありません。沢山の天才が示してくれた色々な生き方の中の一つだと思います。例えば、日本は絶対戦争しないで平和を維持出来るとおもいますか?実態は、戦争する可能性のもとに核兵器で事実上の武装をしています。釈尊の教えを達成したり絶対帰依していれば、戦争が始まっても傍観しているだけです。実際、中世インドでイスラム軍団が侵攻してきたとき、仏教徒の多くは武力での応戦はしなかったそうです(イスラム側の記録)。それも一つの生き方です。私は、武装した平和主義ですから、同じ民族が殺戮や圧政(現にアジアの大国がやっている)に踏みにじられるのは見過ごせない。また、こうしてこういうブログを書いているのは、信仰を持っていない証拠です。

瞑想法に関する メモ帳

《 このアーカイブは、解脱・涅槃・悟りの具体的な方法(瞑想法)に関するメモ帳であります。》

Vipassana Q&A マハーシサヤドーと現代のヴィパッサナー瞑想法

下記URLに以下のような興味深い質問と回答がありました。

http://gotami.txt-nifty.com/mahasi_pa_japan.pdf

質問25 マハーシ瞑想法では、なぜアーナーパーナ(出息、入息)で指導しないのですか?
質問26 腹部の膨らみ、縮みを念じることはパーリ経典に沿ったことですか?
質問27 腹部の膨らみ、縮みを念じることはサマタ瞑想ですか?
質問28 大念住経の中に入息、出息の始め、中間、終わりの三つ全てがはっきりするように念じるとあります。無碍解道論、upakkilesanananiddesa には入息、出息の始め、中間、終わりをサティによって追って念じている人は定が壊れる原因になると説かれています。この二つの経典の違いはサマタとヴィパッサナー瞑想によるものですか?


訳者のあとがきによれば、
「この本はダンミカーヴィワンサ長老がマハーシ大長老の本(全て英訳済みではありません)からヴィパッサナー瞑想に関するものを選び質問と答えという形式にし、「マハーシサヤドーと現代のヴィパッサナー瞑想法」としてミャンマー語で出版された本の日本語訳です。」ということだそうです。

パオ・セヤドー法話集

下記URLにパオ・セヤドーの法話、「智慧の光」と「如実知見」が保存されています。

http://web.archive.org/web/20070405093323/www012.upp.so-net.ne.jp/asia21/


智慧の光 目次

● 「智慧の光」 第一章 刹那定と観禅
● 「智慧の光」 第二章 智慧の光とは何か
● 「智慧の光」 第三章 安般念の修習方法
● 「智慧の光」 第四章 安般念から色・無色禅まで
● 「智慧の光」 第五章 安般念から観(ウィパサナ)まで(抜粋)
● 「智慧の光」 第六章 安般念の功徳
● 「智慧の光」 第七章 四護衛禅
● 「智慧の光」 第八章 四界分別観の修習方法
● 「智慧の光」 第九章 色業処の基本理論
● 「智慧の光」 第十章 色業処
● 「智慧の光」 第十一章 名業処(前編)
● 「智慧の光」 第十一章 名業処(中編)
● 「智慧の光」 第十一章 名業処(後編)
● 「智慧の光」 第十二章 縁起(抜粋)
● 「智慧の光」 第十三章 道非道智見清浄(抜粋)
● 「智慧の光」 第十四章 道智と果等至(注3)
● 「智慧の光」 第十五章 問答篇
● 「智慧の光」 第十六章 パオ僧院について


如実知見 目次

第一章 安般念(アーナ・パーナ・サティ)から入禅(ジャーナ)までの修習の仕方
第一章付属 問答(一)
第二章   その他の法門で定を修行する方法
第二章付属 問答(二)
第三章 如何にして四梵住と四護衛禅を修するか 
第三章付属 問答(三)
第四章 色法の識別
第四章付属 問答(四)
第五章 名法の識別
第五章付属 問答(五)
第六章 縁起の法
第六章附属 問答(六)
第七章 涅槃を見極めるための観智の育成
第七章附属 問答(七)
第八章 仏陀の弟子に対する期待
第九章 無上なる布施
第十章 問答集
第十一章 尼僧の手紙

「Vipassana Q&A マハーシサヤドーと現代のヴィパッサナー瞑想法」(コーサッラ西澤訳)を読んでいたら、サマタとヴィパッサナの関係についてこんな言い方がありました。

質問14の答えの文中に、
『サマタ瞑想法で生、滅、生じる原因、滅する原因を瞑想することはありません。一心に一つの対象、相に集中するだけです。また「anissito ca viharati 渇愛、見に依存せずにいる。」にも出会うでしょう。「naca kinci loke upadiyati 世間において何かある法にさえも執着しない。」とも有ります。サマタ瞑想法において渇愛、見への依存を取り除く、執着を取り除くことはありません。正しくは生、滅、生じる原因、滅する原因を念じるのはヴィパッサナー瞑想のみです。渇愛、見の依存を無くす、執着を取り除くなどもヴィパッサナー瞑想のみです。ですから、サマタの部(*avaro註:大念住経=マハーサティパッターナスッタのこと)である出息、入息の部、不浄観察の部でさえもサマタのみではありません。サマタを基礎としてヴィパッサナー瞑想を実践するために説かれていることは明らかです。ヴィパッサナーの部である威儀の部、正知の部などは特に言う必要さえありません。受に関する随観、心に関する随観、法に関する随観などはサマタ瞑想と何の関係も無いのでヴィパッサナー瞑想のみだと、更にはっきりしています。』
という部分があります。

マハーシ・サヤドーの「ヴィパッサナー(観法)修行書」(ウ・ウィジャナンダー大僧正訳)には、明確にサマタの訓練と表現した項目がないので、サマタ(定)の訓練をしなくてもいいのかなと思っていたのですが、読み飛ばしていたようです。この本では、念・定・智慧の三つが整って勢力を持つようになり・・・見清浄(念じる対象と念じる心(名)しかないと正しく認識すること)を達成できるという言い方をしています。

また、
『質問6 禅定を得ていないならば、心清浄が満たされていないのでヴィパッサナー瞑想を実践することはできないのですか?

答え: 「禅定を得れば心清浄が満たされるのでヴィパッサナー瞑想を実践できる。禅定を得てないならば心清浄が満たされていないのでヴィパッサナー瞑想することができない。」などと言っている少数の人がいます。これは極端な意見です。禅定の近くで生じる近行定ぐらい得られれば五蓋1の煩悩などが除かれているので、その近行定によって心清浄が満たされヴィパッサナー瞑想を実践でき、その様に瞑想することによって阿羅漢果まで達することができ、その様に達した人が多くいると清浄道論などにはっきりと述べられています。仏説であるパーリ経典などにも近行定ぐらいを得られる威儀の部によるヴィパッサナー瞑想法によって阿羅漢果まで達することができると大念住経などにはっきりと説かれています。』

また、質問7の答えの文中には、
『「ヴィパッサナー瞑想中に生じるサマーディをカニカサマーディと呼びます。念じているときに瞬間だけ続くサマーディと呼べます。ヴィパッサナー瞑想のときこのカニカサマーディが無ければヴィパッサナーの智慧は生じません。力強いカニカサマーディがあってこそ生じることができます。禅定という基礎なしにヴィパッサナー瞑想だけで修行するスッダヴィパッサナーヤーニカの修行者ならばこのヴィパッサナーカニカサマーディでヴィパッサナーの智慧を生じさせ聖道果に達することができます。このヴィパッサナーサマーディは一つの対象を念じるわけではありません。(すべてに向かって気づかなくてはならないとあるように)はっきりと生じたすべての対象をすべて念じなければなりません。しかし、念じる瞬間、瞬間に念じる対象に向かうので心が散乱することはありません。それは徹底してヴィパッサナー瞑想を修行したことがある人には、大変はっきりしています。」』
とあります。

これらの説明から、マハーシ・サヤドーは、パオ・セヤドーほどはっきりと戒→定→慧(ヴィパッサナ)という順序をあまり強調していないが、だからといって、決して、定(サマタ---少なくとも近行定)を軽視していないのだと分かりました。

ブッダダーサ師の「観息正念」(ヴィプラティッサ比丘訳)にも、似たような表現があります(p75-76)。
ブッダダーサ師は、涅槃成就にとって欠かせないものが四つ有り、それは、.汽謄(正念、しっかりと自覚する)▲汽鵐僖献磧璽縫(動きだした智慧、成就寸前)パンニャ(智慧・内観)ぅ汽沺璽妊(三昧、精神の安定)だと言います。これらは、ヴィパッサナの実践をとおして学び取られると言います(p22)。そして、p76で、しかし、仮に、ジャーナに到達できなくても、ビーティやスッカの感情が生じている限り(ヴィパッサナは)、うまく進んでいるのです、と言います。

「ヴィパッサナー(観法)修行書」を買ったばかりの頃は、サマタもヴィパッサナも区別がつかなく、書いてある説明も読んでいてほとんど意味が分かりませんでした。
今読み直してみると、全く気づかなかった意味を読み取れるような気がしています。

実践修行とはどういうものか? 本当のサマタとは?
(Vipassana Q&A マハーシ・サヤドーと現代のヴィパッサナー瞑想法http://gotami.txt-nifty.com/mahasi_pa_japan.pdfより)


私は、自分では今、サマタ(止)の訓練をしていると思って、アーナーパーナをやっているつもりなんですが、質問24とその答えを読むと、どうしてなかなか上達しないのかがなんとなく分かります。

<引用開始 *引用文中のパーリ語は正しく表記されていません。正しくは原文を見てください>
質問24 「色、無常。色、無常。」と心の中で唱えることはヴィパッサナー瞑想になりますか?
答え: 「色、無常。色、無常。」なとど心の中で唱えて瞑想している、その唱えている言葉は正しい言葉です。色とはrupa というパーリ語の漢訳です。無常とはanicca というパーリ語の漢訳です。ですから言葉は間違いではありません。しかし、その瞑想している人に詳しく聞いてみてください。「色、無常。」と瞑想しているとき何を対象、所縁として唱えていますか?どの様な色が無常であるかを知っていますか?と聞いてみてください。どのような色でもありません。「色、無常。」という言葉だけに意識が行っています。その色は過去にであった過去の色ですか?将来生じる未来の色ですか?現在生じている現在の色ですか?などと聞いてみてください。どちらでもありません。自分の内の色ですか?外の色ですか?と聞いてみてください。どの様な色でもありません。もし「自分の内の色だ。」と答えたならば頭の中の色ですか?胴体の色ですか?手の色ですか?皮膚の様な表面の色ですか?そうで無いならば内側の肉、内臓、肝臓などの内の色ですか?どこの色か聞いてみてください。どの色でもありません。
色という名前と無常という名前を考えているだけです。それらを心の中で反復しているだけです。お経を唱えているようなものです。
<引用終了>

これまでの習慣が非常に根強くて、サティ(気づき)が生じていないのかなと、この文章を読んで思いました。
自分では、入息出息の門(鼻の辺り)に集中している(気づきを一点に注いでいる)つもりなのだが、実際には、鼻の辺りという観念と気づきという観念を意識しつづけているだけなのかもしれません。
自分では気づき(サティ)を注いでいるつもりだったのだが、実際には気づき(サティ)は働いていなかったのかも。
ニミッタが現れても、それを意識したら消える、という説明があった。
ニミッタだ、シメタと考えたとたんに、気づきと集中という活動が消え、普通の思考活動・意識状態に戻ってしまうのと、同じなのか。
質問24は、ヴィパッサナの場合なので、色・胴体・皮膚・内臓などと言ったり、無常と言ったりしているが、実際の自分(心身=名色)を対象として気づきを注ぐという点では同じことだろう。

ところが、質問16の答えの中に、分かりにくい部分があります。

<引用開始>
質問16 アーナーパーナ(出息、入息)はサマタ瞑想ですか?ヴィパッサナー瞑想ですか?
答え:禅定を得た人であれ、得ていない人であれ出息、入息をイメージや形などを想像し瞑想すればサマタ瞑想になり、ヴィパッサナー瞑想にはなりません。
息の接触、動きを重視して瞑想するとヴィパッサナー瞑想になり、禅定への道サマタにはなりません。
<引用終了>

どなたかの師のテキストで、アーナーパーナは、サマタとヴィパッサナ両方の修行法だと読んだことがあります。
現在私が行っているサマタは、この答えによれば(”息の接触、動きを重視して瞑想するとヴィパッサナー瞑想になり”の部分)、ヴィパッサナであるということになりそうです。
サマタは一点(ある対象)に心を集中させることだと思っています。
だが、私のやっていることは確かに、息の出入り(息の接触、動き)への気づき(のつもり)でしょう。
ミャンマーのパオ・セヤドーやタイのブッダダーサ師、リー師らのテキストに従っているつもりだったのだが。

こういうのが、独習の難点なんでしょうね。
またまた、あっちこっちとひっくり返して調べなければならない。

サマタとヴィパッサナ 2
(Vipassana Q&A マハーシ・サヤドーと現代のヴィパッサナー瞑想法http://gotami.txt-nifty.com/mahasi_pa_japan.pdfより)


マハーシ・サヤドーによるサマタとヴィパッサナの定義が次の質問25とその答えにありました。
(お恥ずかしい)

<引用開始 記述の中のパーリ文は省略します。>
質問25 マハーシ瞑想法では、なぜアーナーパーナ(出息、入息)で指導しないのですか?

答え: 私はアーナーパーナ(出息、入息)で瞑想することは風の要素、色とそれを念じている心、名によってヴィパッサナーの智慧が生じると理解しています。しかし、清浄道論によると身随観の部十四種をサマタ瞑想法とヴィパッサナー瞑想法を分けて、アーナーパーナ(出息、入息)を以下の様にサマタ瞑想法として分類しています。
威儀の部、四つの正知の部、要素観察の部はこの三つの部をヴィパッサナー瞑想として説かれている。その他のアーナーパーナ(出息、入息)の部と不浄観察の部というこの二つの部のみがこの十四の身随観の部の中でサマタ瞑想として説かれている。
今述べた清浄道論においてアーナーパーナ(出息、入息)をサマタ瞑想法とはっきりと分けています。もし私たちがアーナーパーナ(出息、入息)を指導したら、それを好まない人たちが上記の清浄道論を基に私たちが指導しているのをサマタ瞑想だ、ヴィパッサナー瞑想ではないと非難するのは間違いありません。私たちも清浄道論を否定しヴィパッサナー瞑想だということはできません。ですから私たちはアーナーパーナ(出息、入息)をヴィパッサナー瞑想として指導していません。しかし、アーナーパーナ(出息、入息)で瞑想したい場合は許可しています。禁止していません。
もう一つはアーナーパーナ(出息、入息)で瞑想するとき鼻の先など一ヶ所に集中しなければなりません。内に入っていった息を追って瞑想してはいけないと無碍解道論と清浄道論にはっきりと述べられています。それらは著者の意図として近行定、安止定を想定したものです。ヴィパッサナーの智慧が生まれるようにするためには一つの場所だけを念じなければならないという制限はありません。しかし、アーナーパーナ(出息、入息)をしているときに別のところに感覚などが生じてきたり、考えなどが生じたときにそれらを念じるよう指導したならば無碍解道論と清浄道論に反する、間違っていると非難されるのは確実です。ですから私たちはアーナーパーナ(出息、入息)でヴィパッサナー瞑想を指導せずにいます。これぐらいでなぜアーナーパーナ(出息、入息)を指導しないのかという質問の答えになったでしょう。
<引用終了>

文中の<清浄道論によると身随観の部十四種をサマタ瞑想法とヴィパッサナー瞑想法を分けて、アーナーパーナ(出息、入息)を以下の様にサマタ瞑想法として分類しています。威儀の部、四つの正知の部、要素観察の部はこの三つの部をヴィパッサナー瞑想として説かれている。その他のアーナーパーナ(出息、入息)の部と不浄観察の部というこの二つの部のみがこの十四の身随観の部の中でサマタ瞑想として説かれている。>

の部分を、正田大観師が訳された「ヴィスッディマッガ(清浄道論)和訳(中)」(http://www7.ocn.ne.jp/~jkgyk/sho20090221_2.html)第八章 〔他の〕随念たる〔心を定める〕行為の拠点についての釈示 の「2(28) 身体の在り方についての気づき」に確かに記述がありました。

<引用開始>
2(28) 身体の在り方についての気づき

§42 今や、〔まさに〕その、覚者(ブッダ)の生起〔の時〕より他に過去に転起されたことなきものにして、一切の異教の者たちの境域と成ったことなきもの―― そこかしこの諸経のなかで、「比丘たちよ、一なる法(性質)があります。〔それが〕修められ、多く為されたなら、大いなる畏怖〔の思い〕のために転起し、大いなる義(利益)のために転起し、大いなる束縛からの〔心の〕平安のために転起し、大いなる気づきと正知のために転起し、〔あるがままの〕知見の獲得のために転起し、〔現に見られる〕所見の法(現法:現世)における安楽の住のために転起し、明知と解脱という果の実証のために転起します。一なる法(性質)とは、いかなるものでしょう。身体の在り方についての気づきです」(アングッタラ.ニカーヤ1p.43)
「身体の在り方についての気づきを受益する者たち ――比丘たちよ、彼らは、不死〔の境地〕を受益します。身体の在り方についての気づきを受益しない者たち――比丘たちよ、彼らは、不死〔の境地〕を受益しません。【240】〔身体の在り方についての気づきが受益された者たち――〕比丘たちよ、彼らに、不死〔の境地〕は受益されたのです。〔身体の在り方についての気づきが受益されざる者たち――比丘たちよ、彼らに、不死の境地は〕受益されません。〔身体の在り方についての気づきが衰退した者たち――比丘たちよ、彼らに、不死の境地は〕衰退したのです。〔身体の在り方についての気づきが衰退せざる者たち――比丘たちよ、彼らに、不死の境地は〕衰退しません。〔身体の在り方についての気づきが亡失した者たち――比丘たちよ、彼らに、不死の境地は〕亡失したのです。身体の在り方についての気づきが勉励された者たち――〔比丘たちよ、彼らに、不死の境地は〕勉励されたのです」(アングッタラ.ニカーヤ1p.45)
と、このように、世尊によって、無数の行相をもって賞賛して〔釈示された、身体の在り方についての気づき〕――
「比丘たちよ、身体の在り方についての気づきは、どのようにして、修められたものと〔成り〕、どのようにして、多く為されたものと〔成り〕、大いなる果あるものと〔成り〕、大いなる福利あるものと成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、あるいは、林に赴き」(マッジマ・ニカーヤ3p.89)
という〔言葉〕等々の方法によって、
○ 呼吸の部(出息・入息の部)
○ 振る舞いの道の部(威儀の部)
○ 四つの正知の部(正知の部)
○ 嫌悪の意[おもい]を為すことの部(厭思惟の部)逆
○ 界の意を為すことの部(要素思惟の部)
○ 九つの墓所の部(九墓地の部)
これら十四の部を所以に釈示された、身体の在り方についての気づきという〔心を定める〕行為の拠点(行処・業処:瞑想対象・瞑想方法)――その、修行についての釈示が、至り得るところとなった。
§43 そこで、振る舞いの道の部、四つの正知の部、界の意を為すことの部、という、これら三者は、〔あるがままの〕観察(毘鉢舎那・観)を所以に説かれ、九つの墓所の部は、まさしく、諸々の〔あるがままの〕観察の知恵における〔第四の〕危険の随観を所以に説かれ、さらに、また、ここに、膨張したもの等々において〔心の〕統一の修行がうまくゆくであろうもの、それは、〔十の〕美ならざるもの(不浄)の釈示において、まさしく、明示されたがゆえに、しかして、呼吸の部、および、嫌悪の意を為すことの部が、まさしく、これらの二者が、ここに、〔心の〕統一(三昧・定:三昧の境地)を所以に説かれ、それらのうち、呼吸の部は、呼吸についての気づきを所以に、別個に(単独で)、まさしく、〔心を定める〕行為の拠点となる。
しかして、この、「比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、まさしく、この身体を、足の裏から上に、髪の頂から下に、皮膚を終辺[かぎり]とする、種々なる流儀[ありかた]の不浄物に満ちているものと観察します。この身体には、諸々の髪と諸々の毛と〔諸々の爪と諸々の歯と皮膚と肉と腱と骨と骨髄と腎臓と心臓と肝臓と肋膜と脾臓と肺臓と腸と腸の臓物と胃物と糞と胆汁と痰と膿と血がと汗と脂肪と涙と膏と唾液と鼻水と髄液と〕尿が存在します」(ディーガ・ニカーヤ2p.293)
と、このように、脳味噌を骨髄に包摂して、嫌悪の意を為すことを所以に説示された、三十二の行相ある〔心を定める〕行為の拠点――これが、ここでは、「身体の在り方についての気づき」ということで、〔その〕志向するところとなる(意味するところとなる)。
<引用終了>

テーラヴァーダの瞑想指導者として、マハーシ・サヤドーは無碍解道論や清浄道論の記述を無視することが出来ないというのは興味深い。

これまでの勉強で分かったことは、ミャンマー・タイの瞑想法には、二種類あるということです。

A. 戒→サマタ(定)→ヴィパッサナ(慧)→涅槃
B. 戒→ヴィパッサナ(同時にサマタ・サマディの訓練も兼ねる)→涅槃
 *釈迦仏教では、必ず戒を守り心身を清浄にしてから瞑想に取り組むようです。
  経典にも戒の力で瞑想が達成できると記述されています。

私は瞑想法のマニュアル(解説本)をもとに以下のように分類しました。

A.の系統
 .僖・セヤドーの瞑想法(ミャンマー) 「如実知見」
 ▲◆璽船礇鵝Ε蝓次Ε瀬鵐泪僉璽(Ajaan Lee Dhammadharo)の瞑想法(タイ) 「Keeping the Breath in Mind and Lessons in Samadhi」
B.の系統
 .泪魯掘Ε札筌鼻(マハーシ・サヤドー)の瞑想法(ミャンマー) 「ヴィパッサナー修行書(ミャンマーの瞑想)」
 S.N ゴエンカ氏の瞑想法(ミャンマー) 「ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門」
 プッタタート(ブッダダーサ)比丘の瞑想法(タイ) 「観息正念(Mindfulness with Breathing)」
 ぅ薀蝓次Ε蹇璽璽鵐弌璽斡擬?伶堊柬(タイ系?) 「呼吸による癒し 実践ヴィパッサナー瞑想」

一応、独断的に分類してみたが、実際にマニュアル(本)を読めば分かるように、全く同じ指導法と判断できるものはない。

マハシ・セヤドーの「Vipassana Q&A マハーシ・サヤドーと現代のヴィパッサナー瞑想法」やプッタタート(ブッダダーサ)比丘の「観息正念(Mindfulness with Breathing)」を読むと、テーラヴァーダの瞑想法には、かなりな混乱があるらしいと判断できる。
ただし、私の勘では、上記の瞑想法は、どれを選んでも真剣に取り組めば、ある段階(基礎の段階)には確実に到達できそうだと思えます(マニュアル本だけでは厳しい感じですが)。
それ以上の段階を目指す人は、もう自力で新しい指導者を見つけられるだけの眼力が備わっているでしょう。

いずれの指導者の先生方も、それぞれの国に瞑想法を実際に指導してくれる瞑想センターを設置している。
日本にも瞑想センターがあるようだ。
最も望ましい訓練法(修行法)は、それらの瞑想センターでマンツーマンの指導を受けることだろう。

なお、ここに紹介した瞑想法や指導者の先生方は、テーラヴァーダ仏教の伝統に従った釈迦の正統を自負しておられる先生方の瞑想法であると思っています。
従って、究極の目標は涅槃(ニッバーナ)の成就であると言えます。
私は釈迦仏教には超能力は関係ないと思っていますが、テーラヴァーダ仏教関係の本には(上記の本にも)超能力や輪廻などの話が出てきますが、あくまで、釈迦仏教の目標は涅槃にあります。

釈迦仏教が危険なものでないということを知るには、最低でも目指さなければならない戒律、五戒(生命に危害を加えない、酒に飲まれない、盗みをしない、嘘をついて人を騙さない、道に外れた性行為をしない)の存在を確認してみればいいでしょう。
ミャンマーやタイの指導者の比丘たちは、びっくりするような厳格な戒律(227項目もある)を守っているはずです。http://www2.big.or.jp/~yba/asia/kairitu.html参照。
ミャンマーやタイの僧院で危険な目に会うことはないと思いますが、日本の場合は注意した方がいいでしょう。
日本は戒律に関しては実にだらしないようですので。

普通meditationは、瞑想と訳すと思っていたら、「修行」とか「(心を定める)行為」と訳してあるのをみてなるほどと思った。

日本語の修行は、英語ならpracticeと訳したいところです。

今まで読んだmeditationやpracticeに関する記述を思い出せば、meditation=修行or(心を定める)行為」という訳し方を納得できる。

つまり、釈迦仏教でいうmeditationと特に欧米で隠れた流行になっているmeditationとは意味することがだいぶ違うようなのだ(*本当のmeditationも欧米の方が盛んなような気もしますが)。

これを物凄く省略して表現してみると、
 ー甓猜教のmeditationとは、24時間全てを意味し、
◆^貳姪なmeditationとは、通常生活の中に取り入れたスパイスのようなもの。
と言えそうなのだ。

では、具体的に,鉢△どう違うのか説明をしてみましょう。

次に引用したのは、S.N.ゴエンカ氏が主催するヴィパッサナ瞑想センター・ダンマバーヌの日課表です。
http://www.jp.dhamma.org/index.php?id=940&L=12
<引用開始>
[10日間コースの時間割表]

04:00 am      : 起床
04:30 am ~ 06:30 am: ホールまたは自分の部屋で瞑想
06:30 am ~ 08:00 am: 朝食と休憩
08:00 am ~ 09:00 am: ホールにてグループ瞑想
09:00 am ~ 11:00 am: ホールまたは自分の部屋で瞑想
11:00 am ~ 12:00 pm: 昼食
12:00 pm ~ 01:00 pm: 休憩
01:00 pm ~ 02:30 pm: ホールまたは自分の部屋で瞑想
02:30 pm ~ 03:30 pm: ホールにてグループ瞑想
03:30 pm ~ 05:00 pm: ホールまたは自分の部屋で瞑想
05:00 pm ~ 06:00 pm: ティータイム
06:00 pm ~ 07:00 pm: ホールにてグループ瞑想
07:00 pm ~ 08:30 pm: 講話
08:30 pm ~ 09:00 pm: ホールにてグループ瞑想
09:00 pm ~ 09:30 pm: ホールにて質疑応答
09:30 pm    : 就寝
<引用終了>

ちなみに、以下の引用は日本の禅の本場、永平寺の参禅日課です。
http://www.mitene.or.jp/~katumin/eiheiji/sonota/taiken/taiken.htm

<引用開始>
日課(冬期間は30分~1時間起床時間が遅くなります)
起床洗面 暁天坐禅 朝  課 小  食 作  務 坐  禅 日  中
 3:30  3:50  5:00  7:00  8:30 10:00 11:00

中  食 作  務 坐  禅 晩  課 薬  石 夜  坐 開  枕
12:00 13:00 14:00 16:00 17:00 19:00 21:00
<引用終了>

ダンマバーヌも永平寺のどちらも似たり寄ったりです。
つまり、ほぼ一日中meditationや坐禅をしているわけです。
meditatorや禅僧のまともな生活とは、meditationや坐禅に没頭することだということでしょう。

これに止めを刺すのが、先にあげたダンマバーヌで科せられる生活規律です。
http://www.jp.dhamma.org/index.php?id=1166&L=12

<引用開始>
聖なる沈黙

コースの開始から、九日目(あるいは十日目)の午前十時までは、聖なる沈黙を守らなければなりません。聖なる沈黙とは、身体・言語・精神の沈黙を指します。身体によるジェスチャー、書くこと、合図などのいかなるコミュニケーションも禁じられています。ただし、指導者とは必要なときに話をすることができますし、宿泊設備や食べ物に関して問題があるときは、マネージャーと話をすることができます。それでもこうした接触の機会は最小限にとどめるべきです。瞑想はただ独りで行うのだという実感を持つことが大切です。
<引用終了>

科せられる制約はこれだけではありません。
詳しくは、ダンマバーヌのサイトにある、「コースの手引き」を読んでください。

ゴエンカ氏の瞑想法という本を買って読み、ダンマバーヌの存在を知ってこのサイトを開いてこれらの日課や規則を読んだ時正直戸惑いがありました。

私はこれらの日課や規則を「拘束するもの」と感じたのです。

しかし、今は全く違う見方をしています(まだ、完全に納得できてないのですが)。

こういうことです。

私たちの日常は一見自由であるように感じます。
だから、自由気ままに行動できなくなると拘束されたと感じるのです。
では、普段の私たちは本当に自由なんでしょうか?

長年生きてきて、だんだん分かってきました。
私はとても退屈なルーティン(routine)の日常を強いられていることが多いのです。
巨視的に見ると、私たちの日常生活には実は目に見えない拘束があることが分かってきます。
無常・苦・非我(無我)などといわれる釈迦仏教が主張する真実です。
生まれ、老い、病苦に苦しみ、やがて死ななければならないという制約(拘束)です。
折角汗水流して大金を稼いでも、何とその大金で得るものは唯のカバンや時計です。
どうしてこういうものしか手に出来ないのでしょう。
私も多くの人も、この大金を大喜びで貧しい人たちにプレゼントできません。
どうしてなんでしょう。
これこそが本当の拘束だと看破したのが釈迦なのだということがうっすらと分かってきたのです


釈迦の教えとは、こういう日常や制約(拘束)から開放されることなんだということが少し分かってくると、ダンマバーヌや永平寺の日課や規則が、実は、本当の自由を獲得するために必要なことなんだということが漠然と理解できるようになったのです。

次に挙げるのは、「アーナーパーナ・サティ・スッタ(MN.第118経 出入息観(治意経)Anapanasati Sutta)」の冒頭部分の一節です。
ここに釈迦のmeditationがどういうものかを示すフレーズがあります。

<引用開始>
そのときは雨安居の月の満月の夜、15日目のウポーサタの日。尊き師は、屋外での比丘の集会において、その中央に座しておられました。そして、粛として一言も発しない比丘一同を見渡したのち、次のように説かれました。
「比丘よ、われわれは、この修行の道を確かだと思っている。比丘よ、われわれは、この修行の道を確信している。それゆえ、比丘よ、いまだ成就せざるものは成就するため、いまだ到達せざるものは到達するため、いまだ正しく認識せざるものは正しく認識するため、さらなる努力をすべきである。」(「観息正念」プッタタート講義、ヴィプラティッサ比丘訳 プッタタート財団刊)
<引用終了>

読み過ごしてしまうだろう短いフレーズ「粛として一言も発しない比丘一同」の深い意味を読み取るべきだと思う。

meditationが目指すところは、日常生活を永久に完全に離れることなのではないでしょうか。
意味するところの説明は追々。

以前見つけて保存しておいたHPの記事を読み返しました。
示唆に富んだ参考になる書き込みがたくさんあるように思って、紹介しました。
下記URLの「ヴィパッサナー瞑想法関連」の項に記事があります。
http://www.xn--v8jg5f6f494z95i461bgmzb.net/bbsvipassana.html

その中から二つの記事を引用させていただきました。

<引用開始>
基本的なことをおたずねしますが、サティを入れるためにラベリングをしていると 理解していましたが如何でしょうか?

それは違います。 サティを入れるためだけなら、むしろラベリングは邪魔になります。 ラベリングは、まだ本格的なサティが出来ない人のためのものです。 むしろサティ以前の段階ではないでしょうか?

ラベリングなしでもサティが入ればラベリングがなくてもいいということでよろしいでしょうか ↓
はい、ラベリングはいりません。
 ・・・・・・・・・・・
瞑想中はそのほか、いろんな変わった体験をする。私の場合、多くが恐怖を伴う体感異常体験だったりする。 でも、すべて単なる感覚でゴミ。どれもサティしていくしかない。
きちんとサティできることは少なく、ほとんどは、サティを入れる練習をしているにすぎない。 しかしながら、とにかくこの練習するしかないと思い知らされる。
なんか子供の頃、鉄棒で逆上がりの練習してたときを思い出す。 逆上がりをやってるんじゃなく、逆上がりができるように練習しているような感じ。 サティを入れるのも同じで、ほとんどはサティが入れられるよう一生懸命にサティの練習をしているのだ。
これは、サティがちゃんと入れられた体験をして始めて気づいた。 私の場合、嫉妬の感情にサティを入れた瞬間に訪れた。
この体験後、 毘鉢舎那瞑想の世界はすべて自ら体験でき、自ずから解ることもわかった。 お経にあるとおり、自ら実践でき、自ら知ることができる。 たぶん、悟りもこの延長上にあると思った。自ら悟ったとわかるんだなと。
自分がサティできているかいないかは、他人に聞かなくても自ら解ること。
これが解らないうちは、こんな瞑想やっててホントにいいのかと思ったりした。 とにかくサティできた瞬間が掴めれば、「ああ、こういうことか」と解る。
まずは、とにかくも精進して頑張るしかない。 逆上がりが出来るためには、とにかく出来ろようになるまで練習するしかないのと同じ。
 (【膨らみ】ヴィパッサナー瞑想法【縮み】
   http://www.xn--v8jg5f6f494z95i461bgmzb.net/bbsvipassana5.html)
<引用終了>

<引用開始>
分析や反省でも嫉妬心はだいぶ和らぎますし、普通はそういう方法などで、嫉妬心を乗り切ってます。でも、嫉妬心をサティするというのは、ある種、別次元の手法です。嫉妬心にビシっとサティが入ると、嫉妬心が軽減するなどではなく、まさに一瞬にして嫉妬心は消えてしまいます。分析もへったくれもありません。理屈抜きです。サティしてもそうならないのは、それがサティになってないからです。 まさに本気でサティできないとダメです。わたしは長老から「自分の背後から、ちゃんとサティできてるか監視している人物がいて、もしサティが少しでも途切れたら、その瞬間に背中をナイフで刺されてしまう」という状態にいるつもりでサティしないといけないと諭された。 まずは徹底的に集中して自己観察いないと。反省、分析とは違う道です。
 (【右足】ヴィパッサナー瞑想法2【左足】
 http://www.xn--v8jg5f6f494z95i461bgmzb.net/bbsvipassana6.html)
<引用終了>

これらのサティ(気づき)に関する書き込みは、はっきりとそういう体験の自覚が無い私にはとても参考になりました。

<引用開始>
たとえるなら、マハシはヴィパッサナー山自体を一歩一歩克服する方法。
パオはいろんな山を登って禅定という登山能力を開発し、ヴィパッサナー山を一気に登頂することを目指す。
マハシなら少しずつヴィパッサナー山自体を上るから、その高さに応じた景色=智慧を身につけることができる。
他の山の経験が足りないから、山頂にまで到達するのは難しい。
パオは登山経験を徹底的に積んだ上でヴィパッサナー山に挑戦するから、山頂に達する可能性は高いけど、他の山にいる間はヴィパッサナー山の景色=智慧をこれっぽっちも経験できない。
 (【右足】ヴィパッサナー瞑想法3【左足】
  http://www.xn--v8jg5f6f494z95i461bgmzb.net/bbsvipassana7.html)
<引用終了>

マハシ方式とパオ方式の違い、サマタ(サマディ)とヴィパッサナの違いが大変うまくまとめられていると思います。
ま、結局、どちらの方法に従っても、簡単で確実という訳にはいかないようです。
他の書き込みにありましたように、地道に毎日努力することが最も大切なようです。

なお、書き込みの中に、現在私が実験している音による集中訓練のような方法を紹介している方も居ました。

まず、下記のビデオを見て欲しい。
http://www.youtube.com/watch?v=hOcIhTOJQjo

マハシ・セヤドーの瞑想法がお腹の動きを手がかりとする瞑想法なのに似ているもののようで、動作を手がかりとする瞑想法のようです。

この瞑想法に関する詳しい解説が下記URLのPDFテキストとHTMLテキストにあります(PDFテキストとHTMLテキストの内容は同じ)。
PDFテキストのURLは、
「Manual of Self-Awareness」by Luangpor Teean Jittasubho
http://www.mahasati.org/manualOfSelfAwareness.pdf
HTMLテキストのURLは、
http://www.mahasati.org/manual_selfawareness.htm

この瞑想法の創始者、Luangpor Teean Jittasubho師自身が語っているビデオもあります。
「Luangpor Teean V1(with English translation)」~「Luangpor Teean V10(with English translation)」(下記URLは、「Luangpor Teean V2(with English translation)」)
http://www.youtube.com/watch?v=DlaXaACJTR8&feature=related

今日、youtubeで見つけたばかりであり、Luangpor Teean Jittasubho師の名前も今まで聞いたことがないのでどういう評価・位置づけがなされているのかも不明です。

「Manual of Self-Awareness」を2/3ほど読みましたが、かなり興味深い内容です。

師は、すでに胃がんで亡くなったようですが、伝記(Brief Biography of Luangpor Teean Jittasubho. 上記テキストより)によれば、
”he passed away calmly at the age of seventy-seven in a hut on Koh
Buddhadhamma, Tabb Ming Kwan, Tambol Gudpong in Loei Province."
と書かれており、a hutで亡くなったとされています。

また、「THE DYNAMIC PRACTICES OF LUANGPOR TEEAN, A THAI MEDITATION MASTER」
 by Tavivat Puntarigvivat
http://www.baus.org/sati/luangpor_teean_-t.htm
によれば、
”When he realized that the end was near, Luangpor Teean discharged himself from the hospital and returned to Ko Phutthatham in Loei province. Late in the afternoon on his fifth day back in Loei he announced that he was now going to die: He then turned his awareness completely inward; his wasted body which had been so stiff and brittle, became fully relaxed and fluid; and fully aware, unattached, holding to nothing, not even the breath, an hour later (at 6:15 p.m. on September 13, 1988) his breathing ceased like a tree coming to rest as the wind that moved it fades completely away.”
とあります。

youtubeで、meditationをキーワードにして検索すると、実に多様な瞑想法の紹介ビデオが見つかります。

大半がいかがわしい内容なのですが、師の瞑想法解説を読んで可能性を感じたのは、現在行っている実験と共通するものがありそうな気がするからであります。

Mahasatiという瞑想法の命名が師自身のものかどうか分からないのですが、Mahasatipattana-suttaは、身体と心を手がかかりにする瞑想法を説いた経典です。

理に適ったような気もするのです。

師を知ってからまだ二日目。

ビデオを保存してこれからテキスト化しながら読んでいく。
(残念ながら、ビデオのhearingはほとんど出来ない、つまり、聞き取れない。)

いろいろ見つけて読んでみて、ますます興味が強くなってきた。

下記URLのDancing Daxさんのサイトに「A Manual of Self-Awareness」の和訳があります。
 http://f37.aaa.livedoor.jp/~mallam/index.php?cmd=read&page=%3Amanual1&word=TAT

師は、いわゆる正式の学校教育を受けていないようです。
しかし、生地の村の寺院で一通り比丘のための教育は受けたようです。

それでもミャンマーやタイ、スリランカの有名な瞑想指導者や学問僧とは違う異色の修行僧(ニッバーナ成就後、再び、受戒し正式な比丘になったようですが)だと思う。

前回紹介したビデオ「Luangpor Teean V1~V10(with English translation)」でも、その他youtubeで見つかる師のビデオのどれも、背景は騒々しい街中や民家や屋外ばっかりです。

師の教え自体まだまだほとんど分かっていませんが、この二日で感じる師のスタンスは、ムン師と同じ感じです。

「比丘のサンガには、位階の階層がありますが、どう思いますか?」というような質問に対して、「それは作り上げたものであり、社会的なものです。」と答えます。
その良し悪しに関する意見を聞かれると、「どう答えて欲しいのか? どっちにしろ私もあなたも彼らの社会で生きていかねばならないのですよ。」というような返答をしている(正確な和訳ではないが)。

私たちは世間とは隔絶した全くの別世界で生きることは出来ない。
この地球で、日本という国で、混沌としたこの社会で生きていくしかないのです。
いくらそんなことを云々しても何も変わらない。

そんなことに気をもんでいるよりも、常に、self-awarenessの育成のために、気づきを途切れることなく続けることの方が大切なんじゃないの、と言っているような気がします。

世間は変わらない。

自分は変わる。

師の考案した奇妙な体操「Rhythmic Movements sitting meditation」をやってみた。はたしてこんな方法でニッバーナへ到達できるのか心配だが、やっているうちにだんだん違和感がなくなってくる。

もし、師の瞑想法が、師が保障しているように正しいものなら、私にぴったりの瞑想法となりそうな気がする。

ただし、日本ではあまりはやらないような気もする。

なにしろ、日本の人々は知性的だし、深遠さを最上とする気質だし、形を重んずるし... 

昨日か一昨日のことである。

朝食か昼食の後、皿洗いをしていた。

皿洗いは嫌いである。

だから、皿洗いを始める前から心の奥に不満と怒りが湧き上がっていてもおかしくない。

皿洗いをしている間中イライラしている。

漫然とした動作の結果皿を落としたりすると一瞬で怒りが奔騰し大声で怒鳴る。

これがいつもの皿洗いをする時の私である。

その瞬間も、シンクの縁にはみ出すように置かれた数枚の皿に不注意で手が触れて皿が音を立ててシンクに落ちた。

目が落ちた皿を注視した。

その直後に、無意識を見たような不可思議な感覚を自覚した。

心(頭)の中で何かが一瞬動き、それが怒りのようなモノとして見えた(ような)気がしたのだ。

そのモノは感じた(見た)ら直ぐ消えた。

いつもなら、皿が落ちた瞬間、内奥の怒りのマグマが口汚い怒鳴り声になっていたのだが、この時は、本当に静かだった。
心が、不思議なくらい穏やかだった。

すぐに、”あ。もしかして、今見えたのが思考(thought)なんじゃないか?”と思った。

ただし、私はまだループナームどころか、継続的な気づきの訓練も疎かな状態である。
sitting meditation(リズミック・ムーブメントへの気づきの訓練)も怠りがちである。

ベィシック・ステージの入り口をうろうろしているのが正直なところである。

したがって、この体験を、”I could see Thought." のだとも、気づきが働いたのだとも自信を持って言えない。

ただ確かに言えるのは、突発事を契機に自分の行動を見直そうとしてきたし、自分を常に見ていようと心がけていることだ。


とにかく、毎日今までに読んだティエン師のテキストを繰り返し読み返している。

今日のテーマは無我です。

Therag678 「一切の事物は我ワレならざるものである」(諸法非我)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。(中村元訳「仏弟子の告白 テーラガーター」岩波文庫)
678 「諸々の法(もの・こと)は、全てが自己ならざるものである(諸法無我)」と、知慧によって見るとき、しかして、〔人は〕諸々の苦しみを厭い離れる--これは、清浄への道である。(正田大観訳「テーラガーター和訳」http://www7.ocn.ne.jp/~jkgyk/

幾つかの経典に同じ文句で登場する詩句です。
これは世界で二番目に阿羅漢となったアンニャー・コンダンニャの詩句です。

瞑想訓練中に”無我”について面白い思い付きがでました。

ベッドで足を組み、sitting meditationです。
リズミカルに手を動かし続けます。
目標を持つなとティエン師は言うが、今日はやはりループ・ナーム・オブジェクトです。

After one has realizes Roop-Nahm Objects completely,...
ループ・ナーム・オブジェクトをありのままにはっきりと知ることが出来るようになったら、...(「A Manual of Self-Awareness」私読 part two②)

そのループ・ナームが一向にはっきり見えない。
30分が過ぎてもいつもとあまり変わらない。

次々考えが浮かぶ。


”When we have sati there is no moha and so no dukkha. When we move our hands we feel, and the awareness of this feeling is sati and when we have sati we are separate from thought and can see thought.”
(Chapter One--IT RAINS HARD ON A COVERED THINGより抜粋)
私たちにサティ(気づき)があれば、妄想(無知)は無く、従って、苦も無い。私たちが手を動かすならば、私たちは(その手の動き=動作を)感じる。まさに、この感じに気づくことがサティ(気づき)であり、私たちにサティがあれば、私たちは思考と分離するので(それまでは思考と一緒になっていた)、思考を見ることが出来るようになるのです。
 *ティエン師が別の譬えでこんなことを言っています。「ずっと家の中に居ては、家というものがどういうものなのか分からない。家の中から出てきて、外から家をよく見れば、家というものをはっきりと見ることが出来るようになる。」思考と(から)分離する、というのは、こういうことを意味しているのだと思います。
 ティエン師がこの文章で説明していることと、”To One That Feels"が結びついているならば、”feel”とは、特に”身体"の動き(動作)を感じることを意味すると言えそうです。(「To One That Feels」私読-はじめに-)

手の平を起こす。Be aware.
手を上に持ち上げる。Be aware........

ティエン師のループ・ナームとは、マハシ・セヤドーの「ヴィパッサナー修行書(ミャンマーの瞑想)」では、第3章見清浄(名色分離智慧)のことらしい。

前章の通り念じ、修行を続けてゆけば、念・定・智慧の三つが整って勢力を持つようになり、
 一、膨らみ(色)と
 二、「膨らんでいる」と念じる心(名)
 三、引っ込み(色)と
 四、「引っ込んでいる」と念じる心(名)...

など、対象(色)と念じる心(名)が、一対一、一つのペアになって、互いにぴったりと組み合っていることが、修行者に明瞭に分かってきます。...

確かに頭で考えるとそのことは分かる。
しかし、考えたのでは瞑想の智慧ではないはず...

第一そう考えている俺は脳の中にいると分かっているんだから、動いている手とそれを感じている心だけが見えるはずがない。
手(色)と感じている心(名)とそれを意識している俺(自我)......

待てよ。
”when we have sati we are separate from thought and can see thought.”

そうだ、次々湧いてくる思考の他に、今の俺は常に意識をしている(考え続けている)。
全く自覚していなかった思考があった。

俺が脳の中にいるという智慧は、どの智慧だ。
少なくとも③ではない。

①と②は思考(thought)のはずだ。
俺も、脳の中の俺も、思考の中にいる。

”when we have sati we are separate from thought and can see thought.”

もし、こうなれば、俺は無くなる。
諸法無我が真実となる。

”無我”というのは、知識ではなく、概念ではなく、体験なのか?
体験できなければ、無我ではないということかもしれない。
体験できなければ、諸法無我(非我)は絵に描いた餅に過ぎず、俺にとっては何の意味もないということなのか。

諸法無我の詩句を探していて、次のアーナンダの詩句に気づいた。
アーナンダは、身体の健康のことを言っていたのではないことに。
身体への気付き(satiサティ)を働かせていることを言いたかったのだ。

Therag1033 身体を[動かすのを]惜しんで、もの倦く思い、ただ肉体の快楽を貪るものには、どこから<道の人の>快ココロヨさが起るであろうか?――[身体が刻々に]衰えて行くのに奮起もしないで。
Therag1034 四方、さだかに見えず、教えもまた、わたしにとって明らかでない。善き友がこの世を去って、暗黒[に覆われたよう]に思われる。
Therag1035 友が世を去り、師も逝去されてしまった者にとっては、[もはや]<身体に関して心がけること>ほどの[良き]友は存在しない。(中村先生訳)
1033
〔身体が〕失われつつあるのに奮起せず、身体にたいする物惜しみ〔の思い〕を重んじ、肉体の楽しみを貪る者に、どうして、沙門の平穏〔の境地〕があるというのだろう。
1034
一切の方角は定まらず、諸々の法(教え)は、わたしには〔いまだ〕明白とはならない。善き朋友(サーリプッタ)が〔死へと〕赴いたとき、〔世界は〕暗黒であるかに見える。
1035
道友(サーリプッタ)が去り行き、教師(ブッダ)が過ぎ行き〔死へと〕赴いた〔このわたし〕には、身体の状態(時々刻々の身体のあり方)について〔常に〕気づき(念)あるような、このような朋友は、〔今となっては〕存在しない。(正田師訳)


周期的に怒り・嫌悪に支配される。

怒り・嫌悪の対象を眼にした瞬間に心が怒り・嫌悪に支配される。

原子炉の核分裂のように緩やかなものだが、なかなか治まらない。

溜まったフラストレーションを因とし、Aを縁として(condition)生じた嫌悪は、さらにBを縁として反応をつづける。
BはC、CはDというようにどんどん発展していく。

頭が痛くなってきたので、玄関アプローチのwalking back and forth(walking forward and back)で足の動きへの気づきを訓練することにする。

5分、10分と続ける。

怒りと嫌悪はまだ続いている。

さらにwalking(サティ・メディテーション)を続ける。

気づきと思考が交互に優勢となる。

踏み出し足を右から左に変える。
これは、アプローチに階段が二箇所あり、踏み出し足を変えないと、いつまでも階段の踏む数が不均衡になるからだ。

変えて、walking(サティ・メディテーション)をさらに続ける。

ふっと気付くと、怒りと嫌悪がなくなっている。
足の感覚(気づき)を保っている。
きれぎれに頭の中で歌が勝手に歌っている。

You should understand that awareness means only feeling or knowing, not more than that, not anything additional to that.

だんだんこの意味することが分かってきたような気がする。

ループ・ナーム・オブジェクトもさらに分かってきた。

足の動きに気づきを働かせ続けられれば、その時に知るのは動く足の感覚と気づき(心)だけである。

今日読んだ「To One That Feels」の一節が思い浮かんだ。

It arises and substitutes for the other. This is called to be born here and die here. Not being born from the womb of the mother and dying physically, that is another thing. That is also the supposing of dukkham-aniccam-anatta.

智慧によって不死を獲得できるというのは本当かもしれない、とますます感じられた。

しかし、まだまーだ訓練は序の口を過ぎていない。

walkingを止め、家に入り、洗ってある皿拭きをしようとして流しに置いてある皿の山を見るとまたまた嫌悪が復活した。

相当フラストレーションが溜まっている。

慌てて、ソファで足を組み、sittinng meditationを始める。

今度は直ぐに気づきが働き、嫌悪は消え去った。

暫くの間、瞑想を続ける。

お笑いください。
こんなお粗末な訓練の現状です。

お釈迦様もティエン師も家を離れることが出来ました。

私は、仮に決心がついたとしても、家を離れることは出来ない。

フラストレーションが勝つか、気づきの訓練が勝つかの勝負の場で生きるほかない。


ルアンポル・ティエン師の瞑想法の特徴はなんといってもリズミカルな身体の動きを瞑想に取り入れたことでしょう。

ティエン師の弟子、Luangpor Thong師のデモビデオをご覧になればその特徴が直ぐに分かります(下のURL参照)。
http://www.mahasati.org/video6.htm

マハシ・セヤドーやパオ・セヤドー、あるいは、ゴエンカ氏・ブッダダーサ(プッタタート)師などの瞑想法はいずれも基本姿勢は、足を組んで、背筋を伸ばし、身体を動かさず静かに保ち、呼吸やお腹の膨らみ・へこみに気づきを保つという方法のようです。
いずれも精神集中する(concentrate)訓練をするのだと思います。
坐禅と同じように、いかにも瞑想をしているという感じの瞑想法です。
もちろんこの瞑想法をやり遂げた方はたくさんいらっしゃるし、これが性に合うという方もおられるでしょう。
決してけなしているのでありませんので誤解の無いように。

これに対して、ティエン師の瞑想法は、ビデオでご覧になったように、常に身体のどこかを動かしています。

瞑想中の注意(Warning)にも、
④ Do not sit still. Keep doing rhythmic movements continuously.
  (じっと静かに坐るのではありません。常にリズミカルに(手や足の)動作を続けなさい。)
としてあります。

精神集中する瞑想法では、常に身体を動かしていては集中できないとしているようです。
じっとして、身体を動かさず、静かにしている必要があるようです。

常に身体を動かし、その動きに気づきを働かせるというルアンポル・ティエン師の瞑想法の特徴はもう一つの注意に関連します。

⑤ Do not concentrate.(一点に精神集中してはいけません)

さらに、

⑦ Open your eyes.(目を開けたままにしなさい)

目を開けたままにしていればいろいろなものが見えてしまいます。
ルアンポル・ティエン師はそれで構わないのだと言っているようです。
実際、見えていてもただ見るだけなのですから、気づきの訓練には支障がありません。

私達の身体の働きの内、心臓・肺・胃・腸・肝臓などの内臓器官は意識に上らない活動です。

私は心臓神経症という一種の神経症なものですから、身体の状態に異常に過敏で自分の心臓の鼓動を意識的に聞くことが出来ます。

しかし、ほとんどの人は運動や緊張などで心臓の鼓動が激しくなった時しか感じないでしょう。

また、これらの内臓器官の活動は意識的に早めたり遅くしたりすることは出来ないようになっているようです。

私の場合は、異常に感じやすく、精神集中したりすると心臓の鼓動はもちろんのこと肺の吸排気までが気になって精神集中どころでなくなります。
すると、緊張して心臓の鼓動や呼吸を早くしてしまうことがあったのです。

ブッダダーサ師の方式ですと、鼻の先のごく一点に気づきを集めなければならないのに、私は同時に心臓の鼓動を聞いてしまうのです。
私は完全にこの問題を克服することは出来ませんでした。

こういう訳で、呼吸や心臓の鼓動のような、自律的に動作している器官に精神を集中するのは、私の場合、かなりしんどいものでした。

かなりいい加減な考察ですが、「無意識的・自律的に動作する器官」に「意思的な気づき」を働かせるという点になかなかなじめなかったのかもしれません。

これに対して、ルアンポル・ティエン師の瞑想法は、「手足の動作」に「気づき」を働かせるということで、どちらも意思的な活動であるという点が、他の瞑想法と大きく異なるところだと思います。

簡単に言えば、私の場合は、ルアンポル・ティエン師の瞑想法の方が気づきを働かせやすかったのだということです。

実際試しにやってみて直ぐにこの違いに気付きました。

リズミカルな手の動作への気づきを働かせている時、ほとんど心臓の鼓動が気にならなかったのです。

つまり、精神集中をしようとしていないのに、逆に、精神集中しているのかなということです。

動作している手に気づきを働かせ続けているということは、手の動きに精神が集中しているということではないでしょうか? *(脚注参照)

前回の記事に書いたように、怒りや嫌悪で頭がくらくらしている時、ルアンポル・ティエン師の瞑想法、リズミカルな手の動作(あるいは、ウォーキングメディテーションでは足の動作)に気づきを働かせる(手や足の動きを感じること)瞑想を始めるとかなり早くイライラが治まります。

実際にやってみてください。
きっと驚くほどの効果があると思います。

周囲の人たちから奇異の目で見られるのが嫌だと言うのなら、流行のヨガ(ヨーガ)のトレーニングで、美容に良いんですぅーとでも言い訳すればいいでしょう。

本気でお勧めします。

ルアンポル・ティエン師の瞑想法について、詳しいことを知りたい方は、このブログの「’自己への気づき’手引き書」をご覧下さい。
つたない読み方ですが、原文(英語)の下に日本語の読みを付けてあります。

*注:
 手の動きに精神集中しているのかもしれないと書きましたが、その後の訓練で得た感じと「A Manual of Self-Awareness」や「Against the Stream of Thought」などの記述を読むと、この”精神集中concentrat”という概念に拘らないほうがいいような気がする。「Against the Stream of Thought」の次の記述も“気づきawareness=sati”の訓練(cultivating self-awareness)は”精神集中concentrate”の訓練ではないということを強調しているような気がします。

You should understand that awareness means only feeling or knowing, not more than that, not anything additional to that. (You don't have to be aware that you are walking, inhaling, exhaling: that is wrong. Just feel it: that's enough, that's all.) Be aware of the movement of body and mind. When thought arises, know it; when the body moves, feel it.(「Against the Stream of Thought」)
気づき(awareness)というのは、ただ感じがあるだけ、または、ただ知っているだけなのであって(気づきとは、ただ感じること、知ることを意味する)、そんな簡単なことじゃぁなくもっと深い意味があると思ってはいけません。(ただ感じているだけ、ただ知っているだけという説明に)それ以上の説明を付け加えることはありません。〔私は今歩いているのだ、息を吸っているのだ、息を吐いているのだというように、私は今あることをしているのだということに気づかなければならないのではありません。そういう動作movementの内容にまで気付きを持とうというのは間違いです。動作をただ感じればいいのです。それで十分なのです。気づきというのはそれがすべてなのです。)身体と心の動きに気づきを働かせなさい。考えごとが始まったら(思考が生じたら)、思考(考えているということだけ、思考の中身まで知ろうとするのは間違い))を知りなさい。身体が動いたら、身体の動きを感じなさい(どんな動きなのかを知る必要はない)。



断るまでもなく、このアーカイブに記録しているものは、ルアンポル・ティエン師の瞑想法マニュアルの解説ではありません。

わたしavaroの訓練記録です。
ティエン師の正しい瞑想法を知りたい方は、「A Manual of Self-Awareness」、「To One That Feels」、「Against the Stream of Thought」をお読みください。

さて、今日のテーマです。

ルアンポル・ティエン師の瞑想法は、最初、sitting meditationから始めるようです。

前回の記事で紹介したデモビデオの中でLuangpor Thong師が坐って行っているのがそれです。
同じビデオで、sitting meditationの次に立って歩いているのがwalking meditationです。

ルアンポル・ティエン師の瞑想法マニュアル「A Manual of Self-Awareness」でも次のように指示しています。

For the beginners, doing rhythmic arm movement is better than walking back and forth. Move the arm rhythmically, slowly, gently and lightly. When it stops, be aware of it. When it is moving, be aware of it. If you move the arm too fast, you cannot catch up with the bodily feeling that arises because the awareness is not strong enough.
初めて実践修行をやる人は、言ったり来たりする(往復する)ウォーキングから始めるよりも、リズミカルな腕の運動(動き)の訓練から始める方がいいでしょう。リズミカルに、ゆっくりと、滑らかに、肩肘張らず楽な気持ちで腕を動かしなさい。腕の動きが止まったら、腕の動きが止まったことに気づきを働かせなさい。腕が動いている時も、腕が動いていることに気づきを働かせなさい。腕をあんまり速く動かし過ぎると、気づきが十分に働かないので(気づきが弱いので)、身体に生じている感じ(腕が動いているという)をとらえそこないます(気づきを働かせられない)。

”doing rhythmic arm movement(リズミカルな腕の運動(動き)の訓練)がsitting meditationのことです。

今朝、私はいつもより早く起きられました。
今日は、分別ゴミのうち、”紙”記号の収集の日なので忘れないうちにゴミ置き場に出してきました。

天気予報どおり見事な晴天です。

朝食を作り一緒に食べます。

私はまだまだ犬食いなので、どうしても私が先に食べ終わります。
長い職業生活の習性もあるでしょうが、私が貪欲なためでもあります。

早く起きられたと言ってももう9時を過ぎました。
洗濯を始めます。

全自動洗濯機なのですが、給水のスイッチが壊れてしまい、手動になっていますので、洗濯を始めると給水の停止・開始のタイミングに気を配っている必要があります。

洗濯機の音に気を配りながら、居間のソファで足を組み、sitting meditationを始めました。

南面して坐っているので、朝日がレースのカーテンに当たって光っています。

足を組んで静かに合掌してから、手の平を腿の上に置きます。
右手の平を起こし始めます。
気づきを働かせます。
動作を止めます。
前腕を上に上げ始めます。
気づきを働かせます。
動作を止めます。
.....

お釈迦様も食後こうして静かに瞑想を楽しんだのでしょう。

手の動作に気づきを働かせ続けます。

妻の独り言。
洗濯機の音。
走り去る車の音。
カーテンに光る朝日。
私の耳鳴り。
(手の動作に気づきが働き続けています。)
それら音や光の入力に対して私には何の反応も起こっていない。
怒りも嫌悪も好奇心も欲望も。
(と、思いたいだけなのかもしれません。そういう考えがあるはずですがそれにはまだ気づきが働きません。残念)

ただ静かです。

不意にカーテンの下から上にすばやい黒い影が出現しました。
鳥、と考えます。

洗濯機がバチンと音を立てました。
脱水が終わったのです。
手動で給水開始です。
立ち上がって蛇口を開けに行きます。

また、ソファに坐って瞑想訓練を続けます。

さっきの静かな喜びは少しずつ変化しています。

いろいろな考えが浮かんできます。
気付くと考え事をしています。
手の動作に気づきを戻して訓練を続けます。

また、洗濯機が催促しています。
立ち上がって手動操作に行きます。

ソファに戻って足を組みなおし瞑想訓練に戻ります。

・・・・・・

洗濯が終わりました。
妻はまだ食事を続けています。
今日は大変ゆっくりです。

私はsitting meditationを続けます。

10分、また、10分。

妻はまだ食事を続けています。

足が痺れてきました。

立ち上がってwalking meditationをやることにしました。

坐禅や他のテーラヴァーダ仏教の瞑想法の経行キンヒン(そぞろ歩きとも言い、walking meditationのことらしい)と違い、歩くスピードは普通の歩き方で良いようです。

居間から玄関上がり框、短い廊下を往復して歩くのが室内walkingのコースです。

足の動作に気づきを働かせ続けます。
・・・・・・・・

長い長い前置きでした。
大変お疲れさまです。

walkingをしていて気付きました(お気付きでしょうか、意識的に、「気づき」と「気付き」を区別して使っています)。

なぜ、初心者はsittingから始めなさいと指示されているのか?

sittingの場合は、身体の動作に区切りがあります。
気づきを働かせ易いのです。

手の平を起こし始める。
(その動作の感覚に)気づきを働かせる。
動作を止める。

区切りがああるので、一つ一つの動作に気づきを働かせられます。

ところが、walkingでは、かなりゆっくりの歩き方でもその動作は連続的になります。
はっきりした区切りを付けにくいと思います。

まず、sitting meditationで身体の動作に気づきを働かせるコツ・感覚を会得し、それから、walking meditationをやるようにした方がいいのでしょう。

以上です。


やっと今、ループ・ナームが分かりかけてきました。

テキストには次のように書かれています。

○ First, you know yourself to be rupa-nama: the mind feeling / knowing the body's movements.
(サチ・メディテーションで気づき=awareness=satiを訓練し高めて行って)初めに獲得する修行の成果は、あなたが自分というものはルーパ・ナーマなんだということを知ることです。どういうことかと言うと、心が身体の運動(動き)を感じ取り・知るということです。(「Against the Stream of Thought」)
○ After you have realized something called Roop-Nahm (body-mind), then you can walk back and forth.
(リズミカルに腕を動かしながらやる訓練を続けていて、ある時)ループ・ナーム(身体と心)と呼ばれる"もの"を本当にはっきりと知ることが出来るようになってから、次の行ったり来たりする(往復する)ウォーキングを行っても良いです。(「A Manual of Self-Awareness」)

そう言われても、どんな風にループ・ナーム(ルーパ・ナーマ=身体と心)を知ることになるのか、あまり詳しく説明されていないので、訓練をやりながら、密かにそれが何時か何時かと心待ちにしていました。

前の記事にも書いたように、それがだんだん分かってきたのです。

原始仏教の本や経典を読んでいれば、ルーパ(身体=色)・ナーマ(心=名)という言葉は見てきています。

それなら何も瞑想訓練をしなくてもすでに知っている、と思いました。

すでに知識として持っているルーパ・ナーマ(名色=ループ・ナーム)とどこが違うんだ、ということです。

sittingやwalkingの瞑想訓練を続けながら、テキストを何度も読み直していて何となく分かってきたのです。

ループ・ナーム(ルーパ・ナーマ)とは自分のことだったのです。
何を今更そんなこと当たり前でしょう、とお笑いになるかもしれません。
知識としてのループ・ナーム(ルーパ・ナーマ)ではなく、自分の身体と心としてのそれを実際的に(ありのままに)知ることだったのです。

私はそれを何か特別なものが見えてくると考えていたのです。

そうではなかったのですね。
ティエン師の瞑想法を訓練すること自体を、私は正しく理解していなかったのかもしれません。

それは本当の自分、真実の自分、ありのままの自分を発見することだったわけです。

自分を正しく知るためには、まず、自分が、ループ・ナーム(ルーパ・ナーマ)なんだということをありのままに知ることから始まるというわけです。

「Against the Stream of Thought」の中でティエン師は次のようにはっきりと述べています。

○ You should take only the most important part of the teaching. The heart of the teaching I am talking about is to be aware of oneself, to have the mind steady, to have complete knowing.
(瞑想の訓練修行を始めるにあたって)あなたは、教義(教え)の中から(瞑想の訓練修行にとって)一番重要な部分だけを摂取しなさい。私がこれからお話しようとしている教義の核心(最も重要な部分)というのは、自己への気づきを働かせること、心をしっかり安定させること、完璧な智慧を獲得することです。

○ Practising correctly means seeing, knowing, understanding by and in yourself, a knowledge and understanding that cannot come from anyone else.
正しい瞑想の訓練修行とは、自分自身(の努力)で、自分自身の中(とはどういうものなのか)を見、知り、理解することなのです。同時に、誰か他の人から貰うものではない(自分自身で獲得するべき)智慧と知見を得ることなのです。

○ Everybody has a mind that is clean, illuminated and calm. It's just a matter of whether you will study to the point of detachment or not. The only way to detach yourself is to develop the awareness and consciousness. You will be free from anger, delusion and greed, free from defilement, craving, attachment and all action.
本来全ての人が清浄で、智慧の光が輝き、平静な心を持ってます。まさしくそのことが、あなたが修行によって世俗の垢からきっぱり離れられるかどうかを左右することなのです(この本来のものがあるから、世俗の垢からきっぱり離れられる)。自分自身を世俗の垢から離れさせられるたった一つの方法が気づきを働かせることと意識( 感づき)を訓練し高めることなのです。そうすれば、あなたは怒り・妄想・貪欲さから解放され、汚れ・渇望・執著・全ての行為から解放されます。

○ You should practise the developing of awareness until you have more and moreますます awareness (sati), more and more steadiness of mind (samadhi); the knowledge that liberates (panna) will arise. You will know the truth within yourself, not outside.
気づきを訓練し高めるべきです。そうすれば、ますます気づき(サティ)が働くようになり、ますます心はゆるぎないもの(サマディ=平静さ)となるからです。言い換えれば、(私たちを苦から)解放する知識(パンニャ)が生じるのです。あなたは、自分自身の中に真理を見つけ、知ることになるのです。けっして、あなたはその真理をあなたの外部で見つけ知ることはないのです。

訓練が不十分な私はまだまだ本当に(ありのままに)自分がループ・ナーム(ルーパ・ナーマ)なんだということを知ったのではないかもしれません。

まだ、瞑想によって(気づきの働きの助けで)知ったのではないかもしれません。

その証拠に次のようなことを考えました(これは気づきの智慧で知ったのではないでしょう)。

今まで私が知っていた自分とどこが違うのか?

今日はこれをしよう、明日はこうなると良い、あゝ彼女の具合が悪くなると嫌だ、今夜のご飯はあれにしよう、などなどと考え続けていたのが(今も考え続けているが)これまでの自分なのかな、ということです。

本当の自分を知った時のループ・ナーム(ルーパ・ナーマ)とは、どういうものなのか?

自分というものは、こんな風に動作する手足(ループ=ルーパ=身体)とそれを意識する(気づく)心と次々考えが浮かんでくる心(ナーマ=ナーム=心)なんだということです。

訓練をしっかりやっていると(気づきがよく働いていると)、考え始めても、直ぐ気づきに心が戻ってしまうから、その考えはそれ以上発展しないということを少し実感できてきました。


緊張する彼女。
いつもならその興奮が伝播して、嫌悪や怒りが生じるのだが、昨日は私は落ち着いていた。

自分から希望して睡眠導入剤を飲んでやっと寝た。

何度か確認してから私も寝た。

しかし、午前3時か4時には起きてしまったようだ。
何か内部で刺激が生じ、パッと覚醒してしまうようだ。

トイレに起きて(高齢者なのでトイレが近い)そういう状況を確認していたが、眠いので私はまた寝た。

大きな声で目覚めた。
朝の5時過ぎ。

やめて、と何度か怒鳴る声。
しつこい声が何度も聞こえてくるらしい。

マットレスと寝袋を持ってそっちで寝ることにした。

それでもなにかイラツイテいる。
落ち着かせようと、コーヒーとお菓子を取ってくる。

気づきが確かに働き続けている。
私は全く平静である。
怒りも嫌悪も起こらない。

一時間ぐらいしてやっとまた寝付いた。

こうしてこの記事を書いている今は9時。
彼女はぐっすり寝ている。
やっぱり、夜中は何かの刺激で覚醒してしまったのだ。

そして、私は今朝とんでもない体験をしてしまった。

彼女が再び寝付いてから、朝ごはんのお粥を炊いたり、自動給水コントロールが故障してしまった自動洗濯機で洗濯を始めた。

タイマーを仕掛け、洗面所のドアを開けっ放しにして洗濯機の音が聞こえるようにし、ソファで足を組んでティエン師の気づきの瞑想訓練を始めた。

直ぐに気づきが働き出した。

まだまだ微細な心の動きは全く感じ取れないが、意識に上る思考は次々生じてくるのが分かる。
それらのほとんどは、苦に発展しない考察的思考なので、時々その思考を続ける。

その間、タイマーが注意してくれたり、洗濯機の音が催促したりしたが、いつものように糞っという嫌悪は生じない。
催促されれば”はいはい、今行きますよ”という感じで応対できる。

そうしているうちに、ふっと湧いてきたものがあった。
感覚というか、智慧(まさかと思うが)というか、とにかく、かなりはっきりと「俺は今ループ・ナームを体験している」、と分かったのです。

俺はもしかしたら透明なのかも知れないなぁ、なんて思いも湧いてきました。

確かに感じました。
私はお釈迦様の道(Path)にほんの小さな一歩を踏み込めたらしいと。

ほぼ体得できたのは、これだけで、まだBasic Stageのその他の事柄は全く体験できていない。

だが、これで確信できた。
少ぅし喜びも湧いてきた。

知識の世界から体験の世界へと移行し始めたのかもしれない。

お釈迦様の道は決してエベレストのような隔絶した高みにあるのではないと思えるようになった。


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落書きです。


私が先に終わった朝食後、ダイニング続きの居間のソファで、瞑想を楽しむ。

妻は、不思議な身振り手振りをするルアンポル・ティエン師の瞑想法を嫌がっているのだが、今は、仕切りアコーディオンカーテンを閉めているから私の瞑想のしぐさ(postureリズミカルな身体の動作)は見えない。

昨夜、ティエン師の説法ビデオのv7を観ながら、もう一度瞑想のやり方を確認するため、英語字幕を日本語に直し始めた。

ティエン師のビデオのどれを見ても、師の動作はゆっくりとしているように見える。

字幕にも、"Do it slowly”とある。

動作はゆっくりと、しかもリズミカルに。
私のリズミカルという語の感覚は、結構スピード感を伴っているので、ちょっと違和感があるが、短い命急いで何をしようとするのか、と思いつつ、落ち着いてやる。

stop(動作の区切り)も明確にする。then slowly and slowly。


今日は低気圧の通過日。
晴れる日があれば曇る日もあり、雨の日もある。

しかし、心は静かになってゆく。

さる阿羅漢が托鉢食を摂りおわり、池之端の大樹の陰に移り、遠離の楽しみを楽しみつつ...

遠離からも寂静からも程遠いが、この楽しさが少しずつ増してきている。


「お砂糖が無い...。」と仕切りの向こうから声が来る。

Do it slowly を続けながら聞いている。

立ち上がってダイニングに行く。

コーヒーの甘味が無いと言う。

砂糖壷を取って渡す。

また、仕切りを閉め、ソファに足を組み、また、瞑想を始める。

目を開けていてもあまり妨げにはならない。

怒りも不満も欲求も大好きな妄想も頭を占領しない。

ただ、Do it slowly. なのである。

心静かに手の動作に気づきを保つ。

もう少しミニ寂静を楽しもう。

*かなり粉飾されているので割り引いて読んでください。


Luangpor Teean V7の中でティエン師は、”You have to practice a lot.(たくさん瞑想の訓練をしなければならない)”と言っています。

同じビデオの中で、ティエン師が強調しているのが、”as continuos as the links in a chain(一つながりの鎖のように途切れることなく)”という指示です。

私自身の一日を考えてみると、ティエン師のこの指示はほとんど実践できていません。
つまり、一日の大半は「気づき無し」の状態に近いと言えます。
一応多少の訓練はしているし、ティエン師の指示も頭の片隅にはあるので、長ーい「気づき無し」の合間に、はっと気付いて、「気づきを働かせる、気づきが働く」という状態だと言えばほぼ正確でしょう。

今やっているようなパソコンで作業をする・見るというような時、大好きな映画をTVで見ている時なんかは、ほとんど気づきは働いていないと断言できます。

今朝、このことに関する一つの実験をやりました。
これがこの記事を書く動機です。

最近の私は、朝、パッと目覚めてサッと寝床を出るということがありません。
頭に浮かんでくるいろいろな考えごとを楽しんでいます。
簡単に言えば妄想ですね。

これでは折角訓練した気づきの働きが元の木阿弥になると危機感を持っていました。

で、実験です。
簡単です。
握りこぶしの代わりに、親指で人差し指をゆっくり”擦コスる”のです。
この技法はティエン師の瞑想法の一つとして説明されていました。
握りこぶしを作る・開くという技法は、感覚が強すぎてあまりうまく行かないので指擦りをやってみたのです。

効果てきめん。
びっくりしました。
妄想・考えごとがパッと消えたのです。
嘘ではありません。
ただし、これが自オノずから消えたのであれば拍手なのですが、妄想を”押さえつけた”のであれば×です。
はたして実験の成果は○となるか、はたまた×か。
しばらく鎖のように瞑想を継続しつつ、観察を続けます。

以下、ティエン師の説法の一部です。

○If that person really practices the rythmic meditation as I teach it,
もしもその人が、本当に私が教えたようにリズミック・メディテーションを訓練修行したとしたのなら
○if he or she practices as continuos as the links in a chain.
もしも、彼(彼女)が一続きの鎖のように途切れることなく訓練修行を続けていたのだとしたら
○You have to practice a lot.
There is nothing you have to know.
Just practice a lot.
(とにかく)たくさん(瞑想の)訓練(修行)をしなさい。
他に知っていなければならないことは無いのです。
正に、たくさん訓練(修行)することなのです。
(以上、Luangpor Teean V7 textより)

○I guarantee the teachings of the Buddha and the method I teach. I guarantee what I am saying, if you are serious enough and practice continuously like a chain or the hands of the clock that rotate all the time.
To practice continuously like a chain or like the rotating hands of the clock does not mean that you have to cultivate self-awareness by doing rhythmic arm movement or walking back and forth all the time.
The word "to practice all the time"・means to be aware while doing all daily tasks; washing clothes, sweeping floor, cleaning house, washing dishes, writing, or buying and selling, just be aware.
This awareness will accumulate little by little like the raindrops fall into a good container and fill it to the brim.
When we walk forwards or backwards, move the hand in or out, be aware. When we go to bed, we can make a fist and open it repeatedly until we fall asleep. When we wake up, we should continue our practice. This is called cultivating self-awareness.
私は、ブッダの教え(が確かなものだということ)と、私が指導している瞑想法(が確かなものだということ)を保障します。(私の瞑想法を)私が指導している通りに本当に真剣に、鎖のように、あるいはまた、年がら年中止まらずに回り続ける時計の針のように、休むことなく途切れることなく瞑想の訓練修行をするなら、私は自分が教えたこと(指導したことが確かなものだと言うこと)を保障します。
鎖のように、回り続ける時計の針のように途切れることなく瞑想の訓練修行を続けなさいと私は言いましたが、勘違いして聞かないで欲しい。私が言っているのは、自己への気づきを訓練し高めるための訓練修行(法)が、リズミカルな腕の運動や行ったり来たりする(往復する)ウォーキングを、(鎖のように時計の針のように途切れることなく)年がら年中、そういう瞑想法だけをやっていれば良いのだというのではありません。
年がら年中(四六時中)という言い回しで私が言いたいのは、あなたが毎日、朝から晩まで休むことなくやっているいろいろな活動・仕事の最中にも気づきを働かせていなさいということなのです。活動・仕事とは、衣類の洗濯、床拭き、家の掃除、皿洗い、書くこと、買い物、商売などです。正にそういうことをしている時に気づきを働かせなさい(ということなのです)。
こうした気づきを働かせる行為は、(穴の開いてない・壊れていない)ちゃんとした器に雨粒が落ちて、やがて雨粒が器の縁から溢れるほど一杯に溜まるように、少しずつ蓄積されるのです。
(それは丁度こんな風にやることなのです)いったり来たりするウォーキングの時、手を引っ込めたり出したりする(sittinng-meditation参照)時、気づきを働かせるのです(これがティエン師が指導する瞑想法のメイン・中心となるものです)。(また、)ベットに入った時には、いつの間にかぐっすりと寝入るまで、繰り返し、手を握ったり開いたりして(瞑想法の)訓練修行をすることが出来ます。(翌朝)目覚めて起きたら、また、訓練修行を続けられるのです。こういうやり方を自己への気づきを訓練し高める(瞑想法)というのです。
(「A Manual of Self-Awareness」<<Practice Continuously Like a Chain>>より)

○Practice the rhythmic movements continuously like a chain as the Buddha taught.
Be aware of it at every moment; standing, walking, sitting, lying, bending or stretching.
When you practice the rhythmic movement; turning the palm up and down, raising the hand, lowering the hand, be aware.
When you are nodding, and raising your head, be aware; leaning to the left, leaning to the right, blinking the eyes, opening the mouth, breathing in and out, be aware.
When thought arises, be aware.
Be aware of the movements all the time.
Do not sit still.
This is the technique of cultivating self-awareness.
ブッダが教えたとおりに、鎖のように途切れることなく、リズミカルな動き(をやりながら行う)訓練修行をしなさい。
そのリズミカルな動きに、いつも気づきを働かせていなさい。立つ、歩く、坐る、横になる、曲げる、伸ばすというような動きをする時です。
リズミカルな動きという訓練修行、例えば、手の平を起こす・倒す、手を持ち上げる・下ろすというよう動きをしている時、気づきを働かせなさい。
頷ウナズいたり、また、頭を上げたりしている時、気づきを働かせなさい。同様に、(頭を)左に傾けた時、右に傾けた時、瞬きをした時、口を開けた時、息を吸ったり吐いたりした時には、気づきを働かせなさい。
考え事が始まって何か考えが浮かんできたら、気づきを働かせなさい。
四六時中、(自分の身体や心に起こる)動きに気づきを働かせなさい。
決して、じっとして静かに坐って(瞑想をして)はいけません。
このようにするのが、自己への気づきを訓練し高める(瞑想法の)方法と技術(テクニック)なのです。
(「A Manual of Self-Awareness」<<Summary(Part One のまとめ>>より)


ループ・ナームを体験したと感じて「ぎょっ!! 私はニッバーナの道に片足を突っ込んだ?」の記事を書いたのが、今月の8日。

記事をアップ・ロードしてから「うーん...。どうも早とちりした感否み難し。」と反省したが、「まぁまぁ、いいじゃないか。」とほったらかしにしていた。

実際、あれからあの時の感覚は戻っていない。
まだ、本当の体験ではなかったようだ。
まだまだ、70年掛けて固めた脳の思考回路はビクともしないのかもしれない。

体験らしきもの50%、従来の思考が50%であれば上出来としよう。

お釈迦様が「それこそが無明(無知→真理をありのままに知らないという無知)というものなのだ。」と洞察した脳の思考回路は常に私のアイデンティティを確認しつつ、私の世界を再構成し続けている。

ヴァーチャル・リアリティなのだが、私はこの思考回路のお陰で、確かに世界は「このように存在している」と確信している。
その世界の中に「私もまた確かに存在している」と思考回路は保障している。

11月8日のループ・ナーム体験も、半分以上がこの思考回路が構成したヴァーチャル・リアリティなのかもしれない。

ティエン師の瞑想法は、脳の中に現在私を構成し支配している思考回路とは全く別の、あたらしい「観る回路 which I can see, know and understand」を生じさせるはずなのだ。

それが生じる時、それは現在の思考回路を排除した、身体(ループ)と心(ナーム=お釈迦様やティエン師が言うところの)だけが脳で活動した時なのだろう。

Anchalee Thaiyanond師が言う。

"You should understand when anything arises: just feel it or know it and let it pass away. You don't have to know whether it is greed or anger: that is not necessary. You should only feel it and let it go away. For example, when the wind blows be aware of the feeling, you don't need to know the name of it; even to know that it's the wind seems to be more than enough. Just to feel the change from the normality (when there is no wind) is enough. You don't have to name it, or you will be confused.
(身体や心に)何かが生じたら(動きが始まったら)、ただその動きを感じとりなさい、知りなさい。そして、それら生じたものがどこかへ去っていくままにさせなさい(やり過ごしなさい)。けっして、その生じてきたものが、「これは貪欲なんだろうか、それとも、いかりなんだろうか」などと知ろうとしてはいけません。そういう詮索は無用なのです。ただその生じてきたものを感じるだけ、ただ知るだけでいいのです。そして、その生じてきたものが消えさせるがままにさせておきなさい。例えば、風が吹いてきたら、(風が肌にふれた)感じに気づくだけで良いのです。(肌に感じた)風の名前を知る必要はないのです。確かに風が吹いていることを十分すぎるほど感じるという知り方でさえ、過剰な知り方だと言えるのです。どの程度(に知るの)が良いのかというと、普段の(ほとんど風が吹いていない)状態が変化(風が吹き始めたという変化)したなと感じるだけで十分なのです。その風の名前を確認したり、名前が分からなくてまごまごしたりしてはいけないのです。"
 (以上、「Against the Steam of Thought」より) 

今現在の私は、脳活動のほとんどを今までの思考回路に支配されているはずだ。

例えば、sitting meditetion で瞑想訓練をしている時、ヘリコプターの音が聞こえてきたとする。
私の意識(思考回路)は、「あの音はヘリコプターだな。」と判断し、ヘリコプターの音がホバリング状態なのを聞き分ける。「また、県警のヘリが訓練飛行をやってるな。」と判断する。

もし、ループ・ナーム体験が出来ていれば、音を聞くだけだろう、と予想する。

Thaiyanond師は言う。

”You should understand when anything arises: just feel it or know it and let it pass away.
(身体や心に)何かが生じたら(動きが始まったら)、ただその動きを感じとりなさい、知りなさい。そして、それら生じたものがどこかへ去っていくままにさせなさい(やり過ごしなさい)。”
またこう言う。
”Just to feel the change from the normality (when there is no wind) is enough. You don't have to name it, or you will be confused.
どの程度(に知るの)が良いのかというと、普段の(ほとんど風が吹いていない)状態が変化(風が吹き始めたという変化)したなと感じるだけで十分なのです。その風の名前を確認したり、名前が分からなくてまごまごしたりしてはいけないのです。"

いままで、”ただ感じなさい”とか”普段の(ほとんど風が吹いていない)状態が変化(風が吹き始めたという変化)したなと感じるだけで十分”という意味が本当に分かっていなかった(まだ、分かっていないかもしれないが)。

今の私はまだ、思考で思考を見ようとしている状態なのだろう。
見えるはずが無い。
思考という洞穴の中にいるのだから。

ティエン師が言う。

”Suppose that we are in a mosquito net, which is inside a room of a house. We must first come out of the room and the house to see that we were also inside them. Thought is the same. We cannot see it if we a part of it. We must come out of it in order to see it clearly. When we see it, thought stops.
家の中にある蚊除けの蚊帳に居る自分を想像してみてください。(蚊帳と同じように)私たちも部屋とか家の中に居たんだなぁということを知るためには、まず、私たちが部屋や家から外に出なければなりません(家というものは、外から見ないとどういうものか分からない)。思考もこれと同じなのです。私たちが思考の一部になっていては(つまり思考と一体になっている、思考の中に居る)、思考を見ることは出来ません。思考をはっきりと見るためには思考の外に出ないとならないのです(思考に引き込まれ夢中になっていては駄目)。(思考に夢中にならずに、思考の外に出て、)私たちが思考を見るならば、思考は(活動を)停止するのです。”
 (「To One That Feels」より)

スッタニパータに言う、

Sn772 窟イワヤ(身体)のうちにとどまり、執著し、多くの(煩悩)に覆われ、迷妄のうちに沈没している人、──このような人は、実に<遠ざかり離れること>(厭離オンリ)から遠く隔たっている。実に世の中にありながら欲望を捨て去ることは、容易ではないからである。
 (中村元訳「ブッダのことば スッタニパータ」岩波文庫)

余計な推測を追加すれば、これこそがポッティラ長老の故事の真意なのだろう。



ティエン師のビデオ・テキスト(v7)を読んでいて、最後の所に以前読んだ覚えのある奇妙な文章を見つけました。

”Just before we die we will meet, know and see it.
私たちが死ぬ正にその時に、私たちはそれに出会い、知り、見るでしょう。”
ほぼこの通りの表現が、「A Manual of Self-Awareness」のエピローグ[6]にもあったのです。

”when we are nearly die, about 1-2 seconds to 5 minutes before the last breath, we will experience "This"・ then our breathing stops.
もしも私たちがこの状態を達成しないままに、まもなく死ぬという時、そう、最後の呼吸の1-2秒から5分前ごろ、”これ”を体験し、その直後に私たちの呼吸は停止する”

”それ””これ”とは、一体何か?
まだ分かりません。

これらの文章の前後を引用します。


***「Luangpor Teean V7」より***
When there is no thought remain indifferent.
思考が生じなくなったら、何ものにも無関心(中立)でいなさい(何かに心を動かしたり動かされたりしないようにする)。
Be at ease---being at ease will liberate you.
(心を)ゆったりさせなさい(ゆったりしていなさい)。---ゆったりするというのは、自分を解放することです。
Be at ease, I guarantee that.
(心を)ゆったりさせなさい。そうすれば、私はそれ(liberate you)を保障します。
We may not realize it at this time.
今ここでそれ(何を指すのか不明)を本当に知ることはできないかもしれません。
Just before we die we will meet, know and see it.
私たちが死ぬ正にその時に、私たちはそれに出会い、知り、見るでしょう。
We will be faced with this "state" for sure.
私たちは確実にこの”状態(それのありのままの状態)”と向かい合うことになるでしょう。
***引用終了***

***「A Manual of Self-Awareness」<<Epilogue>>〔5〕〔6〕より***
After attaining the End of Suffering, Nana will arise, Birth is
extinguished, Existence is extinguished, the religious life is
complete and there is nothing left to do・ The studying of Buddhism ends here.
苦の止滅を達成すると、ニャーニャ(ナーナ)が生じて、生まれることがなくなり、生存もなくなり、宗教生活は完成し、もはや為すべきことはなくなります。仏教の学習はそこで完了となるのです。
[ 6 ]
"Cutting the hair only once"・means the body returns to its original state and the mind returns to its original state by the Law of Nature. "This" is neither long nor short. It is insipid, wonderful and respectable. You have never attained it before.
髪の毛はたった一度切っただけなのだという故事が意味しているのは、その人に元々備わっていた原理に従って、身体が再びその元々の状態に戻って、心もその元々の状態に戻ったということなのです。これは長すぎもせず短すぎもしません。それは面白みがなく、不思議で、立派なものです。あなたはこれまでにそれを達成してはいません。

Dhamma is not what you can imagine, you have to practice until attaining the state of "Being"・
ダンマはあなたが想像力を働かせてイメージできるようなものではありません。ですから、生存の状態を達成するまで瞑想の訓練をしなければなりません。

Everyone should keep in mind that if we do not attain this state, when we are nearly die, about 1-2 seconds to 5 minutes before the last breath, we will experience "This"・ then our breathing stops. "This"・is the Truth, the Ultimate Truth.
もしも私たちがこの状態を達成しないままに、まもなく死ぬという時、そう、最後の呼吸の1-2秒から5分前ごろ、”これ”を体験し、その直後に私たちの呼吸は停止するのだということをすべての人が肝に銘じておくべきです。”これ”が真理、究極の真理なのです。

Everyone must die and will experience "This"・ If we do not realize "This"・ we will live in the mundane world.
すべての人は死ぬものなのです。そして、”これ”を体験するものなのです。もしも私たちが”これ”を体得していなければ、私たちは世俗世界(世間=苦の世界)で生きるほかないでしょう。

If we realize "This"・ it is the way out. When we see "This"(Birth-Extinction state), we will realize the state of dying. It must be like this. We will know how to die. Everyone must come to this point. No one can escape because everyone must die. This Truth is unchangeable whether one realizes it or not. It is so.
もしも私たちが”これ”を体得したならば、それが出口なのです。私たちが”これ“(生まれと止滅・絶滅の状態)を見るならば、私たちは死の状態を本当に知ることになるでしょう。それはこれと同じはずです。私たちは死に方を知るでしょう。すべての人はこの段階まで達するべきなのです。誰一人逃れられないのです。なぜなら、すべての人は必ず死ぬからです。この真理は人がそれを本当に知ろうと、知るまいと、変えようがないことなのです。その通りなのです。
***引用終了***


先日(今週の月曜、11月23日)は、「一日中鎖のように途切れることなく瞑想を続けよ」で、今まさに楽しんでいるその妄想を一瞬でパッと消してしまうという実験をして、成功したと報告しました。

そのわずか2日後、今度はもう一つの実験を行い、見事に失敗しました。
その失敗実験で、私は貴重な体験をすることも出来ました。
またしても、見事な収穫があったのです。

原因は不明ですが、昨日朝起きると首にいつもよりも不快な違和感がありました。

で、トクホンチールOXを肩・首にたっぷり塗っておきました。
今まではこれで大体夕方ごろには治まっていたのです。

ところが昨日は駄目でした。
だんだんひどくなり、夜になると完全に首が回らなくなってしまいました。

いやぁ、痛いのナンノ、苦しいのナンノ。
どんな寝方をしても、枕を変えても、痛さは変わりません。
ほとんど寝られませんでした。

しかし、ピンチはチャンスと気付き、実験をすることにしました。
成功すれば一石二鳥の実験です。

妄想を一瞬で消した瞑想法の威力で、この痛みを消してみようというのです。

まず、指を擦る動作に気づきを働かすテクニックを使いました。
失敗。
次に、足の指を動かしてみました。
失敗。
最後に、寝た姿勢のままで、sitting-meditationの動作をやりました。
手・腕の動作に気づきを働かすテクニックです。
しかし、これも失敗。

余計痛くなる始末です。

あゝ、私の訓練はまだ本当に未熟なのだ、と思いました。
その間も痛みは間断なく襲い続けます。
寝ていられなくて起き上がります。

そんなこんなしているうちに、ふっと思い出したのです。
ティエン師の説法の一節をです。

それが以下の引用部分です。

***「To One That Feels」より***
First, the method that led me to find real calmness. Without paying any special attention to any point, I just do the movement, and just have sati (awareness)knowing all postures and all movements, such as standing, walking, sitting, lying, bending, stretching, and all the movements. When I have practiced in this way, and have awareness of all my movements, panna (knowing)arises within myself. Aware of myself, not others, I know roop (body), I know nahm (mind),I know the disease of roop, I know the disease of nahm.
まず、私を真の平静さに導いた瞑想法についてお話ししましょう。(この瞑想法は)どこか特定の場所(鼻の先っぽとか、お腹とか)に特別な注意を向けるというやり方をせず、ただ動作(動き)をします。そして、ただあらゆる姿勢(手をリズミカルに動かす)とあらゆる動作(動き)にサティ(sati、気づき)を働かせます。あらゆる動作とは、立つ・歩く・坐る・横になる・曲げる・伸ばすなどなどの私がするあらゆる動作(動き)のことです。このようにして(瞑想の)訓練をし、あらゆる私の動作に気づきを働かせていると、パンニャ(智慧)が私の中に生じます。他ならぬこの自分自身について気づきが働いていると、私はループ(身体)を知ります。私はナーム(心)を知ります。私はループ(身体)の病を知ります。私はナーム(心)の病を知ります。
There are two kinds of roop-disease ・nahm-disease. Disease in the body, such as headache or stomachache, with this kind of disease we have to go to the hospital to see the doctor. The doctor will check the body and the cause of the disease, and, knowing the nature of the disease, can apply the medicine that cures it. Then we recover. Another kind of disease is when the mind thinks and we are content満足する or discontent, glad or sad. This kind of disease cannot be cured by the doctor in the hospital, but you have to study yourself until you know the source of thought. To cure this kind of disease you have to study yourself until you really know.
ループ(身体)の病とナーム(心)の病の2種類があります。身体に起こる、頭痛・腹痛のような病、このような病に罹ると、私たちは病院に行って医者の診察をうけなければなりません。医者は、身体を検査し、病の原因を明らかにし、その病に診断を下します。そして、その病を癒すための薬(の処方箋)を出してくれます。その結果、私たちは回復するのです。もう一つの病は、心に思考が生じ、その結果、私たちが満足したり、不満足になったり、喜んだり、悲しんだりするような時がそうです。この種の病は病院の医者には治せません。(医者に頼ることなく)あなたが思考の根源(病の原因・元)を知るまで、自分自身について観察し調べなければならないのです。この種の病を治すには、あなた自身を本当に知るまで、自分自身のことを観察しながら詳しく調べなければならないのです。
***引用終了***

相変わらず首は猛烈に痛いのですが、何かホッとしました。

こうして失敗が成功の母になったのです。
私は、偶然に、roop-disease ・nahm-diseaseを体験した可能性が高いのです。

もしかしたら、私は、かなりな確率でループ・ナームとroop-disease ・nahm-diseaseの体験まで達したのかもしれないのです。
いささか頼りないのは、私の思考回路が想像以上に頑強だからだろうと想像します。

また、よく考えてみれば、手・腕の動作を感じる(feel)のも、痛みを感じるのも、どちらも感覚刺激に反応しているのです。

首の痛みの刺激の方が、手・腕の動作の刺激よりずっと強いのですから、未熟な私の瞑想力では、気づきが働けないのでしょう。

そして、もう一つ思い出していたのです。

釈迦は経典のあちこちで、疲れや痛みを訴えていたのです。

そして、「マハーパリニッバーナ・スッタ」にはこういう記述があるのです。

アヌルッダの言葉だと記してある。

***中村元訳「ブッダ最後の旅 大パリニッバーナ経」岩波文庫 より***
「心の安住せるかくのごとき人にはすでに呼吸がなかった。
 欲を離れた聖者はやすらいに達して亡くなられたのである。
 ひるまぬ心をもって苦しみを耐え忍ばれた。
 あたかも燈火の消え失せるように、こころが解脱したのである。」
***引用終了***

非常に意味深です。


独習であるので、今自分がやっている訓練のやり方が正しいかどうかは常に確認しながら訓練を進めていかなければならない。

現在、「A Manual of Self-Awareness」「Against the Stream of Thought」「To One That Feels」などを比較しつつ読み直して、瞑想で達成する段階とそこで体験する(知る)瞑想の目標・対象を再確認しようとしている。

一つの説法としてそのまま採録されているらしい「To One That Feels」は、まだ半分も読み終わっていないが、他の二書のネタ元となっている説法のような感じがするので、必要な部分だけ先に読んでいる。

さて、昼飯を作るために水仕事をしていて気づいたことがある。

水道の蛇口の回し方である。

私は習慣で、いきなり蛇口のツマミを沢山まわしてしまう癖がある。
必要以上に水を出してしまうことになるので、最近はツマミをあまり回さないようにしようとしている。

今日も、何回もツマミを沢山まわしてしまって、勢いよく水が出てきてから、「いけねぇ。またやっちゃった。」と気付く始末となった。

何度も同じことを繰る返しているうちに、「これが思考を見えるか、見えないかの違いなんだ。」と気付いた。

反射的な身体の動作として脳の回路がカッチリと形成されているのだろう。
水→ツマミを沢山ひねる、という反射的ともいえる動作がほとんど無意識的に行われるようだ。

ほとんど意識に上らないが、脳の中では間違いなく水→ツマミを沢山ひねる(回す)という思考過程が進行しているはずである。

つまり、この思考過程には始まり(思考が生じる)があり、終了(動作が終わる)があるはずである。

今の私は、動作がほとんど終了した(水が勢いよく出ている)段階で「いけねぇ。」と気付いている。

この動作の思考過程に関しては、気づきがほとんど働いていない。

「いけねぇ。」と気付くのも、”気づき”の一部なんかもしれないが、ルアンポル・ティエン師の瞑想法で高めようとしている”気づき”としては、鈍いもの、あまり機能の高くないものなのだろう。

目指す高度な”気づき”とは、この動作の思考過程が始動したとたんに気づく(気づきが働く)ことなんだと思う。
つまり、思考が生じるや否やである。

では、どうやってそういう高度な”気づき”を高めていけばよいのか?

これまでに読んだティエン師の指示によれば、ひたすら"DEVELOPING SATI THROUGH THE METHOD OF MOVEMENT(動作の方法を通してサティ(気づき)を高める)"ということのようだから、とにかく訓練をすることに尽きるようだ。

蛇口やツマミやその回し方に気を配ることではなく、瞑想中や日常活動中の手・腕の動作やその他の身体の動作に気づきを働かせ、気づきの力を高めることだと思う。


イメージ 1

       写真:sitting-meditation中のルアンポル・ティエン師

表題にある「動作と気づきの瞑想法」というのは、もちろん、ルアンポル・ティエン師の瞑想法のことである。

ルアンポル・ティエン師の瞑想法には、複数のネーミングがあり、どれがルアンポル・ティエン師が生前承認していた呼称(ネーミング)なのか分からない。

サティ瞑想法・マハサティ瞑想法・ダイナミック瞑想法・動作の瞑想法などなど。

どうしてネーミングが錯綜しているのかよく分からないが、ルアンポル・ティエン師自身がいろいろな呼び方をしていたのかもしれない。

師の没後、弟子たちや師の瞑想法を信奉するグループがそれぞれの思惑で別々のネーミングを採用したのだろうと思う。
統一した方がいいのになぁと私は思うのだが、仕方のないことだ。

そこで、しばらく私の記事では、ルアンポル・ティエン師の瞑想法を表題のように、「動作と気づきの瞑想法」とネーミングすることにした。

師の説法テキスト「To One That Feels」の小見出しに、
"GOOD IN THE BEGINNING、EXCELLENT IN THE MIDDLE、AND MIRACULOUS IN THE END: THE OBJECT OF THE PRACTICE OF DEVELOPING SATI THROUGH THE METHOD OF MOVEMENT(初めには善く、中程には素晴らしく、終わりには奇跡のような:「動作の瞑想法」による気づきの育成の訓練修行で達成していく目標)"
という文言があって、”developing sati through the method of movement”という句は、ルアンポル・ティエン師の瞑想法の表現としてぴったりしていると思ったからである。
 *憶測に過ぎないが、Good in ・・・・・And Miraculous in the Endの句は、本来はお釈迦様の説法観だと思うが、ここでは、この瞑想法の効果(果)のことを指しているような気がする。

さて、表題は大変な大風呂敷を広げているが、私の記事の中身は大したものではないかもしれない。

ざっくばらんに言えば、私の瞑想訓練(修行)はまだまだかなりチャランポランだからである。

訓練の第一段階(入り口ということ)の至上課題である、鎖のような途切れることのない訓練修行を鉄の意志で実践できていないのだ。

それでも、一度sitting-meditation(坐って手と腕の動作で気づきを高める瞑想法)やwalking-meditation(歩く足の動作で気づきを高める瞑想法)を始めると、確実に心は落ち着く。

次々に生じる思考に飲み込まれることもあるが、動作への気づきを働かせれば(気づきを働かせる=手・腕・足などの身体の動作を感じること)脳の原理に基づいて思考(もぞもぞ、そわそわ、いらいら、じりじり、ちょっと難しいだろうが、むらむらも、等々)は心を占拠し支配出来なくなるからである。

現段階でここまでは確実に体験できている。

ただし、この段階では、心の表面に現れた(意識に上った)思考しか見ていない。

思考の根源、無明は全く見えていない。
欲望・嫌悪・怒りなどは繰り返し生じてくる。

だから、現段階は対症療法のようなことが出来ているに過ぎない。

それでも、その効果は絶大で、何時もいらいらしていた心の状態が、今はずっと落ち着いてきている。

何よりも有り難いのは、生じてきた怒りや嫌悪をとにもかくにも見ることが出来るようになったことである。

今でも決して声を荒げないなどと嘘はつかない。
嫌悪感にしばらく支配されることもある。

しかし、以前と違うのは、冷静になるまで怒りや嫌悪に心が占拠され支配されたままで、どうにも抑えられないという状態がほとんど起こらなくなったことだ。

この言明に対して、「いやそれは瞑想法の効果とは言い難い。そうしてはいけないという良識が強くなっただけだ。」というような批判をされる方もあるだろう。

そう思われるのならそれでもいいと思う。

私自身の訓練が未熟だから、反論の確証(より高度の体験)が決定的に不足しているからである。

私自身は、「動作と気づきの瞑想法」を訓練すれば、確実な効果を期待できると確信している。

確信できるからお勧めするのだ。

これまでの私の訓練はチャランポランでかなり適当な訓練だったかもしれないが、私なりに努力し工夫してきたつもりである。

全く「動作と気づきの瞑想法」の訓練をしていないで、いざとなったときにいきなりやろうとしても、恐らく無理であろう。

ルアンポル・ティエン師も、師の瞑想法は、易しい方法であると言っておきながら、続けて、それでも、たやすく結果が出せるものでもない(という趣旨の言い方で)と付け加えておられる。

私たちの最後の「いざという時」は、言うまでもなく「死ぬ時」である。
このブログの扉のページに引用させていただいているのが、この人生最後のいざという時に備えなさいというお釈迦様の言葉である。

しかし、その最後の最後の「いざ」だけでなく、日常の「いざ」も沢山あると思う。

私の今の段階では、人生最後の「いざ」にはまったく対処出来ない。

だが、人生最後の「いざ」以外の、日常の「いざ」には結構有効だとはっきりと言える。

ぜひ、試しにしばらくの間でも良いですから、やって御覧なさい。

どのくらいやればどの程度効果がでるかというような保障なんか出来ませんが、やってみれば必ず分かるはずです。

心のいざという時に必ず役に立つ「動作と気づきの瞑想法」は、日頃訓練しておくこと(実践すること)が必須です。

お釈迦様の教えは実践することを前提にしているのです。

経典が伝えるお釈迦様の遺言がこのことを裏付けていると思います。

「さあ、修行僧たちよ。お前たちに告げよう、『もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成しなさい』と。」
 (ディーガ・ニカーヤ第16経 「ブッダ最後の旅 大パリニッバーナ経」中村元訳 岩波文庫)


日本では、私立は兎も角公立では無理かな?

○What is Mindfulness ?

Mindfulness is paying attention here and now with kindness and curiosity. See the research page for information on the benefits of mindfulness.

Examples of mindfulness practice include:
-Becoming aware of the breath;
-Feeling the various physical sensations of an emotion;
-Noticing thoughts as they pass through the mind;
-Paying attention to all the sounds in the room;
-Noticing what happens in the body when there is stress;
-Watching the thoughts that arise when there is boredom;
-Feeling the stomach rise and fall with each breath

Mindfulness practice is widely used in business, healthcare, and education to improve attention and well being.
Mindfulness practice does not depend on or interfere with any religion, cultural context or belief system. Mindfulness can be completely secular. Fortune 500 companies provide mindfulness instruction to their employees to reduce on-the-job stress, hundreds of hospitals refer patients to courses in Mindfulness-Based Stress Reduction to develop skills to cope with physical and emotional pain, and dozens of schools (private and public) across the country are using mindfulness practices to help their students succeed.[1,2,3]

Mindfulness practice can save time in school
Mindfulness practices help students focus and pay attention. A few minutes of mindfulness practice can improve the learning environment. Many teachers report that on the days when students practice mindfulness, the students are calmer and the class accomplishes more than on days when mindfulness is not practiced.[4]

1 - Ryan, Oliver. "How to Succeed in Business - Mediate" CNN Money. July 20, 2007
2 - Elias, Marilyn. USA Today, 6/8/09 Mindfulness Meditation Being Used in Hospitals, Schools
3 - See the Association for Mindfulness in Education Mindful Education Map
4 - See testimonials on the Association for Mindfulness in Education Mindful Education Map
            ******


○MINDFUL SCHOOLS

Since early 2007, Mindful Schools has served more than 2500 students in 11 schools, 9 of which are public schools with predominantly underserved populations. In early 2008 our staff began revisiting all of the schools for follow-ups to help ensure mindfulness is being sustained in the classes.

How do we teach mindfulness?
The mindfulness program teaches children to pay attention. In a series of mindfulness exercises students are taught to focus their attention on sound, their breath, movement, and various other parts of their daily experience. This teaches students to be and to stay in the present. It helps make them more aware of their thoughts and feelings.

This awareness gives students an understanding of their emotions and emotional reactions, allowing more control and the ability to make choices in response to difficulties, rather than habitually reacting.

The tools students gain from mindfulness can potentially provide an essential underpinning for academic success and can create a foundation for every other program they are offered. The skills children acquire through the mindfulness program can help students cope more easily in challenging times and thrive in good times, in all areas of their lives.

Mission
The mission of Mindful Schools is to support mindfulness training in educational settings by bringing programs to schools; to support teachers and administration in their own understanding and practice of mindfulness; and to be part of creating calmer, kinder, more peaceful, more effective learning environments throughout the country.
To learn more about this program, please visit their website at mindfulschools.org.
http://www.parkdayschool.org/13401031604022613/site/default.asp?

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ルアンポル・ティエン師の瞑想法の重要なキーワードが、テキスト(「A Manual of Self-Awareness」「Against the Stream of Thought」「To One That Feels」)によって、多少違う用語を使っているので確認作業をしていて、気がついたことがある。

あるサイトに、satiは英訳するとmindfulnessとなり、awarenessには別なパーリ語が当てられていた。
 ・sati [sati]:Mindfulness, self-collectedness, powers of reference and retention. In some contexts, the word sati when used alone covers alertness (sampajanna) as well.
 ・sampajanna [samoajanna]:Alertness; self-awareness; presence of mind; clear comprehension.
調べてみると、Web上のPali-English dictionaryは、皆このような英訳を当てている。

従って、「To One That Feels」の”GLOSSARY OF PALI TERMS”で、
○sati:
Awareness; recollection; detached watching; mindfulness; reflexion; calling to mind, presence of mind; alertness, collectedness, not forgetting oneself; reflective awareness of oneself, of experience-existence here-and-now.
というように、awarenessを第一番にあげているのは珍しいことになる。

そこで、心配になってWebで”mindfulness”と”awareness”について調べているうちに、”sati”に関する重要なヒントを見つけることとなった。

その一例が、昨日アップした「mindful schools/What is Mindfulness ?」なのです。

This teaches students to be and to stay in the present. It helps make them more aware of their thoughts and feelings. This awareness gives students an understanding of their emotions and emotional reactions, allowing more control and the ability to make choices in response to difficulties, rather than habitually reacting.
今この瞬間の自分を見ることが出来れば、”いつものように”無意識に”カッとなったり”しなくなるでしょう。”to be and to stay in the present”今の自分を、今を、しっかり知ることが大切だということは、今私が学んでいることじゃないかと気づいたのです。
-Becoming aware of the breath;
-Feeling the various physical sensations of an emotion;
-Noticing thoughts as they pass through the mind;
-Paying attention to all the sounds in the room;
-Noticing what happens in the body when there is stress;
-Watching the thoughts that arise when there is boredom;
-Feeling the stomach rise and fall with each breath
これらの項目は、いずれも”今現在の”に関わることがらです。
こちらは学校ではなく大人の職場での心の健康が社員にも企業にも利益が多いことを説いているようです。

このことを念頭に置いて「To One That Feels」のティエン師の前書きを読むと、今までとは違う読み方が出来そうです。

This book is not concerned with words, but with the practice at yourself: the fruit that is received, you receive it at yourself. This method is therefore the most direct and easiest. It is to watch the mind at the moment it thinks, to know the deception in the actual moment, and to resolve it there. It isn’t that knowing the thought we evaluate it, because doing so is delusion (anger and greed as well). When we can cut here, there is sati-samadhi-panna complete at this moment.(m18.)
この本(の内容)は、言葉に関わるものではなく、自分自身について瞑想修行(という実践)をすることに関わるものです。(自分自身について瞑想修行した結果)得る果は、自分自身(の中)で受けます(獲得します)。それゆえ、この瞑想法は最も直接的で平易なものなのです。この瞑想法は心が考えた瞬間(心に思考が生じた瞬間)を見るという方法であり、現に今起こっている(私たちを)欺き惑わすこと(がどういうものなのか)を知るという方法であり、その問題(惑わすこと)をその場(今という時点)で解決する方法なのです。そのやり方は、思考を知って、思考がどういうものなのか詳細に調べて判断を下すというものではありません。なぜなら、そういうやり方は、妄想(怒り、貪欲と同様に)そのものなのです。これを一刀両断して切り取れると、その瞬間にサティ・サマディ・パンニャが完全に生じるのです。

当たり前のことかもしれませんが、satiとは、今この瞬間だけを確実に知るための最適の機能なようです。
確実なことは今正に起きていることがらです。

satiによってではなく、思考によって考えると、本当に知ることが出来るのは”今”だけであり、その”今”は、一瞬で次の瞬間に移ってしまうと推測できます。
これが無常ということなんでしょうね。
今現在の私に感じ取れるのは、長ーい一瞬です。
刹那なんてとてもとても。
刹那が見えるようになれば、ニッバーナは近くなるでしょう。
とにかくまだ、確実な体験として、satiの助けで今を見ていません。
恐らく概念(思考)で今を見ているのでしょう。

同じテキスト「To One That Feels」でこのように言っています。

When we move our hands we feel, and the awareness of this feeling is sati and when we have sati we are separate from thought and can see thought.(m43)
私たちが自分の手を動かす時、私たちは(その手の動作=動きを)感じます。この感じ(感覚)の自覚(気づくこと)がサティ(気づき)なのです。(いつもは思考と一緒になっているのだが、)私たちがサティ(気づき)を働かせる時、私たちは思考から離れ(独立し)て、(丁度家から出てくれば家というものがどういうものかよく見れるように)思考を見ることが出来るようになるのです。

satiが働くとは、今この瞬間の自分を見ていることなのでしょう(「当然です」、と言われそうです。本当に当然なのですから)。

なお、英語では、mindfulnessとawarenessとは、相互に補完しあうものであるが、語義は異なるようである。
ただし、ティエン師のテキストを読む場合には、上述の”GLOSSARY OF PALI TERMS”に従って読んでいて問題ないような気がする。
また、awarenessとself-awarenessは、ティエン師のテキストでは、全く同義と読んで良いようです。同一テキスト内での使い分けはないようです。

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日本人が、経典を言葉の解釈の道具として楽しんでいる間に、海の彼方のアメリカでは、お釈迦様の本当の願い、お釈迦様出世の本懐、すなわち、お釈迦様の教え(経典)を正しく読み取り、説法の本来の意義、実践修行による真実の体験を着実に実践し、それが教育の場にまで応用され始めているということを前回までに紹介しました。

しかし、頑強なキリスト教信仰の国であり(”Mindfulness can be completely secular.気づきというものは、完全に世俗的であるべきもの---キリスト教の信仰に何ら抵触しないですよ、ということでしょう)”from 「What is Mindfulness ?」)、アメリカン・ドリームの国であり、実用第一の国ですから、前回紹介した二つのテキストだけから読む限りでは、職場や学校でお釈迦様の教えどおりの実践が行われているとは言い難いようです。

大胆に実用性を重視したプログラムに変更しているようです。

例えば、ティエン師の瞑想法では、身体の動きに気づきを持つ訓練をさせますが、学校のプログラムには、”In a series of mindfulness exercises students are taught to focus their attention on sound, their breath, movement, and various other parts of their daily experience. ”とあって、他の感覚器官(五感)を動員させています。
五感(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)と気づき(awareness)とは異なります。
五感(特殊感覚)は思考との結びつきが強いのに対して、気づき(awareness)は普段あまり意識・自覚していない感覚(固有感覚・深部感覚)だと思います。
ティエン師がawareness(midnfulness)瞑想法に取り入れたのはそれなりの理由がありそうです。
言葉尻を捉えた浅薄な見方かもしれませんが。

それでも、言葉に捉われている日本人よりはずっと益マしかなと思いました。

では、お釈迦様の教えを正しく実践するsatiの開発によって、何が得られるのでしょうか?

「To One That Feels」の文章を読んでみましょう。

m23.To be aware of the movements of the body is to develop sati. You should try to develop this awareness in every movement. When you are fully aware of yourself, there arises a certain kind of panna (knowing) in the mind that knows reality as it is. To see yourself as you are, to see Dhamma (actuality; the way things are; the truth of nature, of existence). To see Dhamma isn't to see deities, hell or heaven, but to see oneself turning the hands, raising and lowering the forearms, walking forwards and back, turning and nodding the head, blinking the eyes, opening the mouth, inhaling, exhaling, swallowing saliva, and so on.
身体の動作(運動)に気づきを働かせることというのは、サティ(sati=気づき)を訓練して高めるということなのです。(つまり)あなた方はあらゆる動作(身体の運動)に気づきを働かせる訓練をしてその働きを高めようと努力する必要があるのです。あなた方が、自分自身(のあらゆる身体動作・運動)に完全に気づきを働かせているならば、真実をありのままに知るパンニャ(panna、知る働き*これは普通に私たちが使っている知る働きと異なる)というものが心の中に生じてきます。(真実をありのままに知るというのは)自分自身をありのままに見ることであり、ダンマ(ありのままのそのもの;もののありのままの在り方、自然や存在するものの真実)を見ることなのです。ダンマを見ることというのは、神々や地獄や天界を見ることではなく、手の平を返したり、前腕を持ち上げたり・下ろしたり、往ったり来たりする歩行をしたり、頭を回したり・頷いたり、眼を瞬かせたり、口を開いたり、息を吸ったり・吐いたり、唾を飲み込んだりというようなこと(動作・運動)をしている自分自身を見ることなのです。


動作と気づきの瞑想法を実践すると、satiの働きが高まります。satiが最高に働けば、パンニャ(panna=真理を知る智慧)が生じるそうです。

パンニャが生じると、自分自身をありのままに見ることが出来るそうです。

それは自分の中に元々あるダンマを見ることでもあるというのです。

つまり、ダンマを見ることというのは、

”To see Dhamma isn't to see deities, hell or heaven, but to see oneself turning the hands, raising and lowering the forearms, walking forwards and back, turning and nodding the head, blinking the eyes, opening the mouth, inhaling, exhaling, swallowing saliva, and so on.
ダンマを見ることというのは、神々や地獄や天界を見ることではなく、手の平を返したり、前腕を持ち上げたり・下ろしたり、往ったり来たりする歩行をしたり、頭を回したり・頷いたり、眼を瞬かせたり、口を開いたり、息を吸ったり・吐いたり、唾を飲み込んだりというようなこと(動作・運動)をしている自分自身を見ることなのです。”

これが、前回引用した、

”This book is not concerned with words, but with the practice at yourself”
この本(の内容)は、言葉に関わるものではなく、自分自身について瞑想修行(という実践)をすることに関わるものです。

の意味するところなんでしょうか。

同じテキストの本文冒頭でも繰り返しこう言っています。

”m22.When we talk about a method to end dukkha, the words are one thing and the practice is quite another.
私たちが、苦を終わらせるための方法についてお話しする時、言葉(ティエン師の説法)と実践修行とは全く別なものだということを承知しておいてください。”
 *m22.は、原文のテキストにはありません。私avaroが挿入した索引用の記号です。

お釈迦様自身も、それまでのようなヴェーダの学問・哲学や妄信をすてて、実践に励んだ結果、悟りを開いたのでしょう。

日本では、禅が一人文字を捨てているというのが興味深いですね。

かく言う私は今何をしているのでしょうか?
言葉を弄んでいます。
何をかいわんやなんでしょうか。

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m175-179は、avaroの検索用記号です。

After knowing this Dhamma, I taught brothers, parents, aunts and uncles for three years. ・・・. The mind changes from commoner to noble individual.

m175.Sila is the tool to get rid of crude kilesa. When the crude kilesa comes to an end, sila occurs. Samadhi is the tool to get rid of the median kilesa. When we know the median kilesa, then we know samadhi. Panna is the tool to get rid of the subtle kilesa. When the subtle kilesa is discarded, panna then arises. That arising panna is called nana-panna. Because it is inside us, we know it. If it is not there inside us, then we don't know it. I can assure you that everyone without exception can know it. Women, men, believers of any religion. When I was practicing this method I was not a monk. Sometimes I wore shorts, sometimes I wore trousers. After knowing this Dhamma, I taught brothers, parents, aunts and uncles for three years. They knew, but they knew little, but still they knew the real phra, knew the supposed phra,knew sammuti-pannatti, paramattha-pannatti, attha-pannatti,and ariya-pannatti. The mind changes from commoner to noble individual.

m176.They say that nibbana is tadangapahana (abandoning by substitution of opposites), vikkhambhanapahana (abandoning by suppression), samucchedapahana (abandoning by destruction). Tadangapahana is to come to know oneself thoroughly. There are four levels of knowledge. First, we know until the end of dukkha, but we know only a short time, it doesn’t last long. Second, we know longer, like the light of a bigger lamp. Third, we know even longer, like the light of even bigger lamp. And fourth, when we know, we know the end of dukkha, but after we know it is there all the time. It is like the full flame of the lamp, or the light of the sun, the very brightest light.

m177.There are four kinds of nana. We have to really know it. This is learning and practice. Learning means moving the arms. Practice means turning the hand up and down. After learning and practicing this method, the fruit will come, and we will have no doubt, because we know all. We also know the end of dukkha.

m178.Paticcasamuppada (dependent co-arising) is just words. If we want it in our practice we have to come to the cause that is to practice movement until panna arises. When panna arises, when we talk about paticcasamuppada we know it immediately.

m179.So now we come to the conclusion. We practice developing sati, and we come to see thought, we come to see the mind. We do the practice like a boxer: once in the ring, the boxer must box. We do it often, step by step. We do it like a ball in a field. When people do not stop kicking the ball, the ball must continue to roll. When they stop kicking it, the ball comes to rest by itself: it doesn’t have to fight nor to escape. We come out of thought, come out of the cave, and we live in the brightness. We see our life?mind at all times. When the mind moves we know it, satipanna (awareness-knowing) is there immediately, like a barrier against all harm. And though the world of others be turbulent and heated, with us the whole world is at peace. Be that way.


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