avarokitei84のblog

*はじめに。 このブログは、ヤフー・ブログから移行したものです。当初は、釈尊(お釈迦様・ゴータマブッダ)と宮沢賢治を探究してましたが、ある時点で、両者と距離をおくことにしました。距離を置くとはどういうことかと言いますと、探究の対象を信仰しないということです。西暦2020年となった今でも、生存についても宇宙についても確かな答えは見つかっていません。解脱・涅槃も本当の幸せも、完全な答えではありません。沢山の天才が示してくれた色々な生き方の中の一つだと思います。例えば、日本は絶対戦争しないで平和を維持出来るとおもいますか?実態は、戦争する可能性のもとに核兵器で事実上の武装をしています。釈尊の教えを達成したり絶対帰依していれば、戦争が始まっても傍観しているだけです。実際、中世インドでイスラム軍団が侵攻してきたとき、仏教徒の多くは武力での応戦はしなかったそうです(イスラム側の記録)。それも一つの生き方です。私は、武装した平和主義ですから、同じ民族が殺戮や圧政(現にアジアの大国がやっている)に踏みにじられるのは見過ごせない。また、こうしてこういうブログを書いているのは、信仰を持っていない証拠です。

お話し 「公園の出来事」

月を追いかけるようにして、今朝の朝日が昇ってきました。
空は天頂だけが深い紺青です。
白み始めた月がその紺青の中ほどをゆっくりと過ぎて行きます。

公園は都会の小さなオアシスです。
それはそれは小さな公園でした。
このあたり一番の幹線道路がこの公園に突き当たって左右に分かれています。

昨日も黒塗りの立派な自動車を何台も連ねて、年配の人たちがやってきてぞろぞろ公園に入ってきました。
それからみんなはめいめいの立派なお腹をつき合わせてひそひそ話し合いました。
可哀想な若いお巡りさんだけが一人で車の見張り番でした。

そろそろ朝の通勤時間です。
普段は誰も公園に寄り道なんかしません。
でも今日はいつもと違います。
若い男の子たちの少し意地悪そうな声が飛び交っています。
大きな枝を広げた公園自慢の椎の木の下あたりです。

「なあ、何とか言えよ。黙っていねぇでさぁ。そのボールん中の金貸してくれって言ってんじゃん。」

高校生の服装をした男の子が六人で一人の若い男を取り囲むようにしていました。
若い男は椎の木の下に胡坐をかいて坐っていました。
穏やかに口を結んだままです。

「おい、おっさん、お前つんぼかよ。それとも俺たちが怖くてびびってんのかよぉ。へっ。」
他の男の子たちも鼻先で笑いました。
「何、痩せ我慢してんだよぉ。このぉ。それとも何か、俺たちを鹿都してるつもりかよ。上等じゃん。なぁ。」
そう言って仲間の顔を見ました。
「そうだ。上等じゃん。その金よこせって言ってんじゃねぇんだぜ。貸してくださいって、ちゃんとお願いしてんのによ、鹿都かよ。ほんと、上等だぜ。」
丁度その時、駅へと急ぐ中年のおじさんがその声にびっくりして公園の方を見たので、男の子と目が合ってしまいました。
「なにぃ見てんだよおっさん。なんか文句あんのかよぉ。」
男の子に大声で凄まれて中年のおじさんは慌てて目をそらしてさっさと歩き去りました。
「ったく。みろよ、てめえが鹿都きめこんでやがるから、人に怪しまれちゃったんじゃん。どうしてくれるんだよぉ。」
何とも妙な理屈です。
いくら嚇しても、口で言うだけでは効き目がないと踏んだ男の子たちは目配せをしてから、一人がぐいと一足詰め寄ります。

駅へ急ぐ人たちが後から後からとやって来ていました。
ほとんどの人は公園の出来事に気づきました。
またいつもの事かという風で、みんな公園を見もしないでどんどん駅へと急ぎました。
一羽の烏だけがずっと公園の出来事を見ていました。

詰め寄られても若い男の表情は変わりませんでした。
目は男の子たちよりもずっと先の方を見ています。
注意深くその目を覗き込んでみれば、黒目がほとんど動かなかったのに気づいたはずです。
しかし、男の子たちは脅しをかけるのに夢中ですから気づかなかったようです。

とうとう詰め寄った男の子がいらだたしげに若い男の肩を小突きました。
若い男はされるがままにしていました。
それまで黙ってこの様子を見ていたあの烏が
「かぁぁ~。」
と、一声鳴きました。

それで男の子たちはやっと決心がついたようです。
「あぁそうかい。そうですか。そういうことですね。」
と、訳の分からないセリフを並べました。
「なぁみんな、このおっさんはよぉ、良いですよって言ってんじゃん。そうだよなぁ、おっさん。」
耳元まで顔を近づけて若い男に言いました。
若い男の返事はありません。
眉一つしかめていません。
「そうですか。始っからそう言ってくれりゃ、何もびびらせたりしなかったんだぜ。おっさんよぉ。」
偉そうな口振りです。
他のみんなもニヤニヤしながら見ています。
一番背の小さな男の子がボールからお金を掴み取りました。
「おい、行こうぜ。じゃぁな、おっさん。確かに借りてやったぜ、あんたの金をよ。」
背の小さな子からお金を受け取ったリーダー格が言いました。
「たったこれだけかよぉ。手間取らせやがってさぁ。」

男の子たちはぶらぶらと駅の方へ歩いていきました。
椎の木の下では、若い男が相変わらず静に坐っています。
よく見ると、男の脇には小ぶりな楽器のケースが置いてありました。

駅へ向かう人の数が少なくなると、今度は駅の方からこのあたりの小さな会社に勤める人たちがやってきました。
都会ってのは人ばっかりですね。
ほんとに忙しいらしくてみんなせかせか歩いています。

いつの間にかあの烏が居なくなってました。
烏も朝ご飯を食べに行ったんでしょうか。

今度はお昼です。
太陽は完全に天頂まで上り詰めました。
後はもうどんどん落ちるばかりです。
太陽が居る間は、天頂の深い紺青は見ることが出来ません。
まわりの空はしらばっくれています。

早いものでもうすぐ夏休みです。
学校はどこも半ドンです。
え、半ドンって何ですかって?
授業が午前中しかないってことですよ。

会社も当然お昼休みです。
手作りのお弁当や、コンビにのお弁当をもって、三々五々、公園に集まってきます。
この時だけはみんなのんびり歩いてきます。

公園自慢の椎の木の周りには幾つもベンチが置いてありますので、仲間同士一つのベンチに坐ってお弁当を拡げます。
お弁当の時ってほんと楽しいですよね。

若い女の子のグループが椎の木の下を見ながら囁きあってます。
「ほら、今日も居るわよ。あの男の人。何してんのかしら。」
「みてほら、昨日と同じあの変なマントつけて、昨日と同じ服着てるわよ。」
「嫌ねぇ。お風呂入ったのかしら?」
みんな尤もな疑問を出し合っています。
マントも服も洗いざらしのようです。
マントはすっかりすすけたオレンジ色です。
上下の服はやや黒ずんだ白色です。
お風呂に入ったかどうかは分かりません。

一人が楽器のケースに気づきました。
「ネェ、見てぇ。あれ、あの、脇にあるの楽器のケースじゃない?」
「そうみたい。でも変よ。」
「何が変なの。あの形って楽器のケースでしょ?」
「そうなんだけどぉ。あんな形の楽器ケースってあるかなぁ。」
「あの形って弦楽器でしょ。大きさが中途半端よね、確かに。」
「ねぇ、あの人さ、昨日おばあちゃん達からお金恵んでもらってたの知ってた?」
「ほんとぉ。知らなかったぁ。」
「私そん時急いでたからさぁ、よく聴けなかったんだけどぉ、確か、なんか楽器が鳴ってたわよ。」
「ほんとぉ。」
「うん。」
「ねぇ、私たちもお金恵んでやってさ、あの楽器どんな楽器なのか音聴いて見ない?」
「おもしろそう!賛成。」
「あたしも賛成!」
みんなが合意しました。

そこで今度は、誰が若い男に声を掛けるか相談です。
「じゃんけんで決めよう。」
一人が提案しました。
みんながすぐ同意しました。
じゃんけんですから、すぐ結果が出ました。

籤運の弱い女の子がみんなからお金を集めて若い男のところへ近づきます。
おそるおそる若い男に声を掛けました。
「あのぉ。すいません。お願いしても良いですかぁ。」
若い男は、初めて相手の顔を見ました。
表情は変わりません。
黙っています。
仕方なく代表の女の子は勝手に続けました。
何しろ女の子はパンドラの子孫ですから、好奇心が強いのです。
それに今はとにかく代表になってしまったので責任があります。
「あのう、それって、そのわきにあるのって、楽器ケースですよね。昨日友達がその楽器で演奏するの聴いたって言うんです。そのぉ、おばあちゃん達からお金を恵んでもらってから。」

いくら若いからといっても、このはしたなさは困ったものです。
しかし、若い男は表情も変えませんし、黙ったままです。
そこで調子に乗って代表は続けました。
「ここにみんなからお金を出してもらってます。このボールに入れれば良いんですか。」
そう言って、代表はみんなから集めたお金をボールに入れました。
「入れましたぁ。それじゃぁ、お願いしますぅ。」
とうとう代表は勝手に契約をしてしまいました。

じゃんけんで負けた代表が戻って来て言いました。
「ねぇ、あの人ほんとに演奏してたの?」
「それってどういうこと?」
代表の予想外の感想に対して逆に質問が出ました。

「う~ん、なんて言うんかなぁ。あの楽器ケースもっのすごくぼろいのよ。角カドは擦スり切れてるし-、色あせしてるし-。だからあいつ等持ってかなかったんだな。」
「ねぇ、何言ってんのよ。」
「全-然-、意味わかんない-。」
「ねぇ、あいつ等ってなぁに?」
質問の集中砲火です。

「今日私、早番ハヤバンで会社に早く着いたの。机の掃除してたら見ちゃったのよ。」
「だからぁ、何見ちゃったの?」
「私の会社あそこでしょ。」
代表が自分の会社の三階の窓を指しました。
「うん。」
みんながうなずきました。
「私の会社の窓からこの公園丸見えなの。」
「なるほど、そうらしいわね。」
「ほら、例の恐喝キョウカツグループよ。あいつ等がここであの男の人を嚇オドしていたのよ。」
「殴ナグられたの。可哀カワイそう。」
「う~ん、ちょっと肩をつついたぐらいに見えたわ。殴られなかったみたい。」
「反抗しなかったの?」
「全然。あの調子よ。」
「持っていかなかったって、あの楽器ケースのこと?」
「そ。リーダーが嚇している時に、他の二人がケースを開けて中見ていたんだ。」
「ふんふん。なんか気の毒だけど、面白オモシロそう。」
「そんなぁ、ひどいよそれって。」
「だってそうじゃない。それより、続き続き。」
「でぇ-。開けてみて、二人とも変な顔してたのよ。」
「あんた眼が良いからねぇ。1.5だっけ。」
「2.0よ。」
「それで、それでどうなったの?」
「すぐ蓋フタ閉めて、知らん顔してた。」
「ちょっと怪しくなってきたな。ね、演奏しなかったらどうしようか?お金返してもらおっか-。」
「ちょっとぉ、なにごちゃごちゃやってんのよぉ。ほらぁ、演奏始めるよぉ。」
話の輪に入らないで、じっと男の方を見ていた女の子が注意しました。

椎の木の大きな枝の影も大分暑くなってきたようです。
若い男は、マントをはずして丁寧テイネイに畳タタんでから、下に敷きました。
それから、ゆっくりと楽器ケースの蓋を開けて、楽器のような変なものを取り出しました。

「えっ。」
お金を恵メグんだ女子社員たちはみんなびっくりしてそれを見ました。
彼女達はそんな遠くに離れているわけじゃありませんから、その楽器が実にはっきり見えたのです。

明らかに手作りの楽器です。
ハンドメイドという意味でなくて、自作品ということです。

「あんた、空耳ソラミミだったんじゃないのっ。」
昨日演奏を聴いたと言う女の子につっかかりました。
他のみんなも同じ考えだったようです。
みんな顔をきっとさせて、その女の子を見ました。
「もし演奏しなかったら、あんたがお金を返してもらってくるのよ。」
代表も厳キビしく言いました。
またじゃんけんをやるときっと負けると思ってましたから。

その時です。
柔らかな、実に柔らかな弦楽器の音色が公園に広がったのです。

みんなは慌アワてて若い男の方に向き直りました。
若い男はマントの上にゆったりした胡坐アグラで坐り、膝の上にやや大きめの胴を置いて、ゆっくりとした弓さばきで演奏を始めていました。
急にどこからともなくそよ風が吹いてきてみんなの髪や頬を撫ナでていきました。
楽器の音色と柔らかな風が一緒に流れて行きます。

女の子達はさっきまでの言い合いをすっかり忘れて聴き入りました。

律子リツコが公園の脇を通りかかったのは丁度その時でした。
律子の高校ももう何日か前から半ドンでした。
友達みんなで一緒にライブ会場に急いで行く途中でした。

律子も友達もみんな、丁度その時、その調べが流れている風の中に入ったのです。
律子もみんなも一瞬足を止めました。
さわやかな風が手入れした彼女達の髪毛をゆらします。
でも、他の友達はみんなすぐ歩き出しました。
ライブ会場の場所取りが気になってしょうがなかったのです。
親友の花梨カリンだけは途中で立ち止まって律子を心配げに見ていました。
律子は、すぐに友達のこともライブのことも忘れてしまいました。
演奏する若い男をよく観察しようとして目を凝コらしました。
そんな律子を、弦の音色が柔らかに包むようにしてあたりを漂います。
思わず目をつむって聴き入りました。
今まで聴いたこともない静かで柔らかな音色でした。
《なんだろう。この音楽...》律子はその音色の中に溶トけ込んで行きました。

急に花梨に手を引っ張られました。
「ほら、律子ったらぁ。なにしてんのぉ。遅れるよ-。もうクラシックは止ヤめたんでしょう。」
ずっと先の方では、他の友達がみんな立ち止まって律子と花梨を呼んでいました。
「二人とも早くぅ。早くぅ。急がないと間に合わないよぉ。」
律子は手を引っ張られるままにどんどん駅の方へ遠く離れてしまいました。
もう公園も見えないし、音楽の聞こえてきません。
そよ風はそんなに遠くまであの調べを運べないようでした。

電車に乗ってからも、律子はぼんやりしていました。
花梨がからかいます。
「律子っ。どうしちゃったの。なにぼおっとしてんのかなぁ。もしかしてぇ...かなぁ?」
「......」
「聞いてなぁい。もう...。ほら、律子。こっちへおいで。」
花梨が律子の手を引いてドアのところへ連れてきました。
「律子ぉ。ほら。もうすぐ見えるよ。しっかり見てんだよぉ。」
電車の行く手にあの公園が見えてきました。
「花梨、有り難う。」
やっと律子は親友の意図が分かりました。
目を凝らします。
突然に出会った弦のあの音色と若い演奏家がいる公園です。
「ほら、見えるよ、律子っ。」
「うん。」
電車は丁度あの広い幹線道路の上を通過しているところです。
さえぎるものがない広い幹線道路の真正面に公園が見えます。
一瞬でしたがあの若い男性が演奏しているのが見えました。
「良かったね、見れて。」
「うん。」
返事しながらも、律子は必死に公園の若い演奏家を目で追っていました。

非情な電車はそんな律子を乗せてどんどん進んで行きます。
すぐに公園は見えなくなりました。
それでも律子の目や耳には公園の演奏家と素晴らしい音色が流れ続けています。
いつの間にか友達の声も遠くなったような気がしてきました。
律子を気遣っていた花梨もいつか今日のライブの話しで盛り上がっている仲間の輪に入っていました。

律子は頭の中に広がっている音色に浸りながら思い続けていました。
《みんなどうしてあの音楽に惹かれないのかなぁ。わたしだけだったら、あのまま、あそこでずっとあの音楽聴いていたのになぁ...》
律子はだんだんあの時のあの公園の情景も思い出しました。

《確か、オフィスのお姉さんたちと、おじさんたちがベンチに坐っていたよね。でも、真剣に聞いていたのはお姉さんたちだけだったみたいだなぁ。どうして、みんなあの素敵な音楽聴かないのかなぁ...》
そういえば、公園脇の道を人がたくさん行き来していたけれど、ほとんど立ち止まる人も居なかったのを思い出した。
《みんな他のことで頭が一杯なのかなぁ。わたしだって今日はBAUNDの演奏を楽しみにしていたんだけどな。どうしてわたしだけがあの音楽にいきなり引き込まれたのかな...。どうして他の人はそうじゃなかったのかな...》
ロングレールの間延マノびした車輪の音も律子の耳には聞こえませんでした。
乗客の少ない昼の電車は、それでもみんなのそれぞれの思いを運んで行きます。

公園では演奏が続いていました。
急に「カア~」という例の烏の声が割り込んできました。

お弁当を手にしてぼおっと演奏に聞き入っていた女の子たちは、魔法から冷めたように、俄ニワかに我ワレに帰ったようにめいめいのやるべきことを始めました。
急いでお弁当を食べ始めたり、もうお弁当を諦アキラめて片付け始めたりしました。
「ご免。わたし先に会社に戻るからね。じゃぁ、また明日ね。」
「明日ね。」
一番近くに会社がある、眼の良い女の子を残してみんなそれぞれの勤ツトめ先に戻っていきました。

いつの間にか時間が経っていたのでした。

「お嬢さん、あのお方に御供養ゴクヨウなさったのかい。」
いきなり後からおばあちゃんに声を掛けられました。
振り向くと、おばあちゃんとおじいちゃんのグループが立ったままで演奏を聴いていたようです。
「あ、ご免なさい。気づかなくて。おばあちゃんたち、どうぞここに掛けてください。」
慌てて立ち上がって老人達に席を勧めました。
「わたしもう会社に戻らなきゃならない時間なんです。どうぞ遠慮なさらずにお掛け下さい。」
女の子はそう言って老人たちに席を勧めると、そそくさお弁当の片づけをして、老人たちと演奏中の若い男に一つずつ頭を下げてから公園を出て行きました。

その女の子と行き違いに、公園には老人たちが三々五々あちこちから集まって来ました。
一人のおばあちゃんが若い演奏家の前に行って、手にした包みを捧げるようにして差し出して言いました。
「お坊様、そろそろお昼を召し上がってくださいな。」

小さな公園には、もう何十人ものお年寄りたちが集まっていました。

椎の木の大きな枝の下にも入りきらないくらいです。

若い男は今まで弾いていた楽器をケースに丁寧にしまってから、おばあさんが捧げてくれたお弁当を手にとりました。
それを一度額の前で押し頂いてから開けて、ゆっくりと噛みしめながらそのお弁当を食べ始めました。

おばあさんたち数人はその様子を嬉しそうに見ていました。

あの烏もじっとその様子を見ていました。

もう一人ちょっとはなれたところから見ている人が居ました。
目の良い女の子です。
勤める会社の三階の窓からその様子を見ていました。

ただ、彼女の机は窓際じゃなかったし、仕事も忙しかったので、時々何か仕事の振りをして見に来ていたのです。

会社の窓からはずっと離れた駅の辺りまで見通せました。
何気なくそっちを見ると、あの朝の高校生たちがいつものように一塊になって改札から出てきました。
相変わらず目的がなんにも無いのかぶらぶら歩きです。

彼女があんまり度々窓の方に来るので、社長がチラッと彼女を見ました。
丁度振り向いたところだったので、社長と目が合ってしまい思わず照れ笑いしてしまいました。

「どうした、美咲君。待ち人かね。彼氏と約束でもしたのかい?」
社長にからかわれてしまいました。
社長は仕事熱心で正直な美咲を信頼していましたからほんとに軽い冗談でした。
美咲も社長の信頼を裏切るようなことをしていないし、社長を父親のように思っていたので軽く受け流しました。

美咲の会社は小さな町の金融業でした。

その頃、公園ではちょっとした揉め事が始まっていました。
これから始まる厄介な揉め事の序曲です。

楽しそうに若い男がお弁当を食べるのを見ているおばあさんたちにやきもちを焼いたじいさんが居たのです。

「おい、そんなどこの馬の骨か分からんいい加減な奴にそんな親切することたぁないだろう。下手すりゃぁ、泥棒の片棒担ぎをやることになっちゃうぞ。」
「亀さん、そりゃぁないよ。あんたがいくら口が悪いからってねぇ。言って良いことと悪いことがあるんだよ。このお方がどんなお方か何も知らないくせに、とんだ難癖つけるんじゃないよ。」
お弁当を捧げたおばあさんが怒り出しました。
一緒に嬉しそうに見ていたおばあさんたちも一斉に、
「そうだ。そうだ。亀さんは首引っ込めてなよ。」
と、亀蔵さんが一番嫌がることを言っちゃいました。

亀蔵さんが本気で怒り出しました。
「なんだと。このくそばばぁ。生意気な口きくんじゃねぇ。」
婆さんを殴るわけにも行かないので、怒りの矛先を若い男に向けました。

「やい。てめぇ、どこのどいつだぃ。誰に断ってここに居座ってるんだ。一緒に警察に来い。」

騒ぎに気づいた敬老会の会長が慌てて止めに入りました。
「まぁまぁ、亀蔵さん、ちょっと落ち着いてくださいよ。」
会長さんは、元大学教授なので口振りも丁寧です。
「いやぁ、会長さん。そう言いますがねぇ、おとなしく下手に出てるとこのばばぁたちはすぐつけ上がるんですよ。言う時はちゃんとガツンとやっておかないと。それに、この男ほっといちゃいけませんぜ。警察に連れてって調べてもらいやしょうや。」

亀さんのピンと外れは毎度のことなので、会長さんも手馴れたものです。
「あゝ、その若いお坊さんのことでしたら、おばあちゃん達からよろしくって頼まれていたんですよ。ま、一々細かなことまで回覧することもないと思ってお知らせしなかったんですけどね。」

亀さん、ちょっと気勢をそがれました。
「またお坊さんでやんすかぃ。ほんとに坊主なんですかぁ、こんなへんちくりんな形ナリしてても。」
会長さんが頷ウナズいて請合いました。

お坊さん当人はそんな騒ぎもどこ吹く風にゆっくりと噛みしめ噛みしめお弁当を食べていました。

こうしてやっと落ち着いたところへ朝の高校生の男の子の一団がやってきてまた悶着モンチャクを蒸し返すことになりました。

「おい、何だ今日は。敬老大会でもあるんかぃ。」
「ほんとによぉ。よくもまぁ、集まったもんだぜ。何時まで長生きすりゃ気がすむんでしょうかねぇ。」
なんて、憎まれ口を叩きながら若い男のボールを覗き込んでいます。

「あるじゃぁねぇかよ。へぃへぃへぃ。頂きだねぇ。」
「おい、おっさんよ。また借りるよぉ。いいよなぁ。」
リーダー格が高飛車にそういうと顎アゴをしゃくりました。
また、一番背の小さな子がボールに手を伸ばしてお金を鷲づかみにしました。

「お待ちっ!」
鋭い声が飛びました。
不意打ちを食らって背の小さな子はビクッとしてお金を放してしまいました。

「ちっ。」と舌打ちしてリーダー格がボールに手を伸ばすと、また、声が飛びます。
「お止ヤめっ!」

あのお弁当を捧げたおばあさんです。
リーダー格は不機嫌そうな顔をおばあさんに向けて凄みをきかせました。
「ばあさん、なんか俺たちに用があるんですかぃ。俺たちはこのおっさんに用があるんだよ。あんたらは無関係なんだよぉ。ひっこんでな。」

おばあさんの鋭い声がまた飛びます。
「亀っ、お前メぇ、黙って見てんのかい。恥かしくねぇのかい。昔しゃ町内で慣らした男ッ気はどこに置いてきちゃったんだい。口ほどじゃないねぇ。」

さあ、亀蔵さんは、もう真っ赤になって怒鳴りだしました。
「うるせぇ、ばばぁ。よく見てろ。」
そう言うと、いきなりリーダー格の胸倉を掴んで持ち上げました。
おばあさんの言うとおり、ものすごい腕力です。
胸の辺りの筋肉がシャツの上からも分かるくらいもり上がっています。
ポパイのような右腕をいっぱいに振りかぶってリーダー格を殴りつけようとしました。
みんなは亀蔵さんを良く知っています。
こうなっちゃうともう誰にも止められません。

亀蔵さんの剣幕ケンマクと腕力にびっくりして他の高校生たちもただ立ったまま成り行きを見ているだけでした。

その時でした。
「お止ヤめ下さい。」
落ち着いた声で亀蔵さんの気勢を制する者がありました。

穏やかな声なので、余計ヨケイ力がありました。

亀蔵さんが声のした方を見ました。
若い男が亀蔵さんをしっかりと見て言いました。
「どうか、お願いです。わたしのためでしたら、その子に暴力を振るうのを止ヤめて下さい。どうかお願いです。」

「おい、坊さんよ。今こいつは悪いことをしようとしたんだぜ。こんな真昼間に、こんなに大勢の人中ヒトナカでずうずうしく人様ヒトサマの物を盗トろうとしたんですぜ。」
「それは違います。」
「何が違うんでぃ。」
「その子たちが持って行こうとしたのは誰の物でもありません。」
「何言ってやがんでぃ。そこのボールに入ってるのはお前メえに誰かが施ホドコしをしたもんだ。だから、今はお前メえのもんだ。そうだろうが。」
「いいえ。それはわたしのものではありません。わたしにはそういう持ち物は一切ありません。」
「けっ。そういう坊主の屁理屈は俺はでぇっ嫌キレえなんだ。おい、竹、虎。今日という今日は勘弁できねぇ。この餓鬼どもの根性叩きなおすぞっ。」
それまでどこかにいたのかレスラーのような体格の若い男が二人出てきました。
むすっとしています。
怒っているようです。
「かまぁねぇからぶんなぐって根性叩きなおせ。」
二人の大男が頷いて前に出てきました。

「待ってください。」
もう一度若い男が亀蔵さんに言いました。
「その子たちを叩くのは、わたしを叩くのと同じです。その子たちを叩く前にわたしを叩きなさい。」

この言葉で亀蔵さんはますますいきりたってしまいました。
「馬鹿野郎。てめぇがかっこつけて殴られたってこいつ等の腐った根性は直ナオんねぇんだよ。ひっこんでな。こりゃぁ、この俺たち町内の問題なんだ。」
亀蔵さんの言うことも大いに一理ありです。
「やっちまえ。」
亀蔵さんが命令しました。

亀蔵さんも大きく振りかぶった拳骨をリーダー格めがけて振り下ろしました。
ガツンと音がしました。
「ん。」
殴った亀蔵さんが変な顔をしています。
周りの人がみんな「あっ」という顔をしています。

亀蔵さんが地べたを見ました。
そこに鼻血を噴出しながら仰向けにのびているのはあの若い男です。
信じられない速さで亀蔵さんの拳骨の前に出てきたのです。
そして、見事にノックアウトされたのでした。
リーダー格は、亀蔵さんの左手で空中に持ち上がったままです。

喧嘩慣れした亀蔵さんは、高校生をぶん殴るのですから、実はちゃんと手加減していたのです。
それじゃなかったら、若い男は入院騒ぎになっていたでしょう。
若いお坊さんは地面に仰向けにのびたままです。
鼻血が頬を流れています。

亀蔵さんの喚き声が美咲の会社にも聞こえてきました。
社長も興味津々で公園を見始めたので、美咲はずっとこの様子を目撃してしまいました。
美咲は社長に内緒で、お昼仲間にメールしました。

>公園の人が殴られてのびちゃいました。
>鼻血たらたらです。
>心配。
>     美咲

携帯が小さな音で「ピッ」と鳴って、メールが一斉にお昼仲間に送信されました。

「親方ぁ、そいつ放さねぇと死んじまいますぜ。」
竹さんがおそるおそる亀蔵さんに言いました。
脇から、おばあさんも言い添えました。
「亀、もういいよ。早く降ろしな。首が締まっちまうよ。」
会長さんも、仁王立ちの亀蔵さんに吊り上げられたリーダー格の顔を見上げながら言いました。
「こりゃぁ、ちょっとまずいですよ。亀蔵さん。」

すかさず、竹さんと虎さんが両脇からリーダー格を抱えるようにして亀蔵さんから引き剥がして地面に降ろしました。

リーダー格は突っ張るだけあって結構しぶとかった。
暫く地面で仰向けにのびていたが、すぐに息を吹き返して起き上がりました。

おばあさんが覗き込んで、
「おい。大丈夫かぃ。世話の焼ける子だよ、このお坊ちゃんは。」

リーダー格は少々ふくれっ面ツラでそっぽを向いてしまいました。

会長さんが竹さんを見上げながら心配そうに尋ねました。
「竹さん。このお坊さんは大丈夫かね。かなり鼻血が出てますよ。」
「なあに、親方はちゃんと手加減したから大丈夫ですよ。どれ、鼻血を止めなくちゃぁな。」
竹さんが若い男の傍ソバにかがみこんで手当てを始めました。

「こいつ、何で俺の代わりに殴られたんだよ。分かんねぇよ。」
リーダー格がぼそぼそ呟ツブヤいています。
「俺にもわかんねぇんだ。お前ぇみてぇな出来損ないに分かるはずがねぇやな。」
亀蔵さんが吐いて捨てるよな口振りで言いました。
「まったくだ。お前ぇたちにゃ分かんめぇ。どっちも似たようなもんだからな。」
おばあさんがそう言うと、虎さんが口を挟んだ。
「ばあさん、そりゃねぇっすよ。親方が拾ってくれなかったら竹兄いも俺も、今頃刑務所暮らしなんですぜ。親方とこの餓鬼ィ一緒にしないでくださいよ。」

「亀も、お前ぇも、お前ぇの親父もみんなそっくりなんだよ、若い頃がさ。」
おばあさんがリーダー格を見ながら言いました。
「なにもかも親や人様のお世話になっていながら、なぁんにもそういうこと考えもしねぇで、自分勝手に好き放題遊び呆けてるとこがね。」
「......。」
「お前ぇさんたちは、将来のことなんかこれっぽっちも考えていねぇんだよな。目先しかよ。」
「......。」
「まあいいさ。もうすぐお前ぇの未来がここに来るから。よおぅっく見ておくんだな。」
「なんだよ、ばあさん。俺の未来って。」
「すぐに分かるよ。」
「ちぇっ。それよりなぁ、ばあちゃん。分かるんなら教えてくれよ。このおっさん、なんで俺の代わりにぶん殴られたんだ?」
「ほほう。本気で気にしてんのかぃ。」
「あぁ。こんな変な奴初めてだ。バカかと思いてぇけど、バカはこんな馬鹿やらねぇもんな。」
「ほう。少しは考えるんか、お前ぇも。ちいっとだけ、まともな脳味噌が残ってたんだな。」
「馬鹿にすんな。」
「ほや。ちっと元気になったのぃ。」

「ほら、お出でなすったぜ。会長来ましたよ。亀さん、頼むぜ。」
「やっぱり引き連れてきやがった。亀蔵さんに来てもらって良かったなぁ。」
老人たちが、公園に向かって走ってくる黒塗りの立派な自動車の列を見つけて口々に言いました。

昨日公園にやって来た連中のようです。
ミニパトが一台先導するように前を走ってきます。
昨日のあの気の毒な若いお巡りさんのようです。

幹線道路がぶつかるT字路をそのまま直進して公園の脇に入る道にぞろぞろ連なって曲がりました。
やっぱり、あの若いお巡りさんが駐車禁止の場所なのでいかにもこれは公務ですと言い訳するために立ち番をさせられているのでしょう。
恰幅カップクの良いおじさんや老人たちが車を降りて、脇の入り口からぞろぞろ公園に入ってきました。

「社長何か始まるみたいですね。」
美咲が心配げな口調で尋ねました。
「う~む。どうやら今日が一つの山場のようだな。」
「なんですか、山場って?」
「美咲君は地元じゃないから知らんよな。ほれ、あの幹線道路、あれ、あのちっちゃな公園のとこで切れちゃってるだろう。ほんとは、あの公園を潰ツブしてそのまま真直ぐ行くはずだったんだよ。」
「誰かが反対して、公園が残っちゃったんですね。」
「今から考えれば、まあ、よく残せたと思うんだが、あの頃はそういう時代だったんだねぇ。」
「今はそうじゃないんですか?」
「ひどい時代になったもんだよ。まるで一党独裁と変わらん政治状況だね。」
「そうですかぁ。でも日本って民主主義なんでしょ。」
「うわべだけね。ほれ、あの連中の中にも、当時反対勢力の旗振ってた闘士が何人も居るんだぜ。ひどいもんだ。」
「そういえば社長は地元ですよね。」
「ああ、わしも反対派の中核に居たよ。」

老人会の連中が人垣を作って入ってきたお偉方エラガタの行く手を阻ハバんだ。
「会長さん、こういう暴力的なやり方はいかんなぁ。みんなを引き上げさせてくれんかね。」
議長の加賀山が横柄な口振りで言った。

「遺憾なのは、加賀山さんあんた達のほうじゃないですかな。約束を破っておいて、そういう言い方はありませんな。」
元大学教授の口振りも大分荒っぽくなってます。
「加賀山よ、お前さん選挙ん時何て言って俺たちに頭下げてたっけな。わたしは皆さんの思いを代表して、皆さんのための自治を命がけでやり遂げる所存ですって、ちゃんと言ったんじゃなかったのかい。」
「そうだ。確かにそう言ったぞ。」
口々に言って議長に詰め寄った。

「町内会の皆さん、わたくしは嘘をついていません。何度も説明させていただいたように、この道路を貫通させることがいろいろな形で地元の利益になるのです。そういう確信がなければ、このわたくしも議会も今回の計画を進めていません。」
「何を言ってるんだ。道路の貫通と地元の利益なんて何の関係もないぞ。それどころか、長年親しんだ地元を立ち退きで離れなけりゃあならん仲間がたくさん出ちまうんだぞ。ごまかしを言うんじゃない。」
「町の発展のためには、どうしても我慢していただかなければならない方も出てきます。何も変えなければ、発展もないのです。ご理解いただかなければどうしようもないじゃありませんか。」
「町の発展ってのは、開発で浮いた土地にでっかいマンション建てて、そこに移転させようってことかい。冗談じゃないぜ。俺たちは、自分の地べたにずっと住んでいたんだ。空の高いところなんかに落ち着いて寝て居られるかってんだ。」
「そういうことだよな、議長さん。高梁興業なんかと何時ッから手ぇ組んだんだぇ。さしづめ、票は俺たちからかっさらって、金をそっちから出してもらったようだな。」
「いいかぃ。議員さんたちよ、ここは俺たちの町だ。俺たちが生まれてずっと生きてきたとこなんだ。そうそうお前ぇさんたちの勝手にゃさせねぇよ。」

もう大変な剣幕です。
それにしても、どうしてこんなちっぽけな公園のことで大騒ぎするんでしょう。
今時イマドキ、子供たちはこんな公園なんかで遊びませんよね。
せいぜい幼児の遊び場と老人の日向ヒナタぼっこぐらいにしか役に立っていないようなんですがね。
子供たちは塾や習い事、後は野球やサッカーの活動でしょう。
幼児の遊び場とか老人の井戸端会議にしても、こんな交通量の多いところは不向きです。
排気ガスなんかが多くてかえって害があります。

「社長、こんな無駄話してて良いですか?」
「あぁ、ほんとは今日はわしもあそこで反対派と一緒に闘わなきゃいかんのだが、なんせこの商売だと、いろいろな付き合いがあってなぁ。口惜クヤしいんだが。」
「あの公園のために社長にまで圧力掛けてるんですか?」
「今は一から十までその調子なんだよ。」
「まさかぁ。」
「あそこは、今じゃ、わしたちの謂わば最後の砦なんだなぁ。」
「大きな勢力の蹂躙ジュウリンに対する抵抗のですか?」
「ほ、美咲君良いこと言うね、君。」

「親父ぃ。何やってんだこんなとこで。」
リーダー格が父親の議長と老人たちとのただならぬ会話に驚きながら呟きました。
「はれ、お前ぇ知らねぇのかぃ。そうかそうか。遊びのほかにゃぁ何の興味もねぇもんな。まぁ見ていりゃぁわかるよ。」
「あれ、あの後ろに居るのは十次会の奴等じゃねぇか。」
「気がついたかい。」
「何で親父があんな連中と一緒なんだ。まさか脅しかよ。」

それまで脇の方で手持ち無沙汰で座り込んだり立ったりしていた高校生たちが、十次会の名前を聞くと慌ててリーダー格に言いました。
「じゃぁな。加賀山、もう大丈夫だよな。やばそうなんで俺たち消えるぜ。」
「ああ。気をつけろよ。」

「おい、加賀山。後ろに居るのは十次会の若いもんじゃねぇのかい。何でそんな連中がついて来てるんだ。」
老人会の一人が言った。
「議長さん、どういうわけなんですか。あなたがたは議会の代表じゃないんですか?」
十次会の組員なんか全く見たこともない元大学教授の会長さんもびっくりして問いただしました。
いつの間にか亀蔵さんと竹さん虎さんが会長の脇についていました。

「騒動が始まりそうですよ、社長。」
美咲がまた心配そうに言いました。
「なに。今日は何も起こらんよ。まさか、議長は大人だ。息子とは違うよ。それほどの馬鹿じゃない。真昼間に自分から暴力沙汰なんか起こさんよ。今日は脅しを掛けるつもりで連れてきたんだな。」
「あのおじいちゃんやおばあちゃんをですか?」
「ああ。呆れたもんだよな。年寄りなんか、怖いお兄ニイさんに脅しを掛けてもらえば引っ込むと思ったんだろう。ずいぶん見くびられたもんだ。」

一番年長の老人が腰を伸ばしながら宣言文を読み上げるように加賀山議長の前に出て言いました。
加賀山議長を、議長の子供の頃のあだなで呼んでいました。
「ががっちょ。ようく聞けよ。わしらは昔ここで遊んだ。この町内で育った。この椎の木は、わしらの子供ん時の大事な思い出がいっぱい詰まってるんだ。死んだ爺ちゃんや婆ちゃん、仲間たちの思い出がここにあるんだ。わしはマンションの空高くなんかで死にたくはねぇ。地べたのボロ屋の畳の上で死にてえんだ。お前は、わし等を追い出して、一体誰をこの町に住まわせるつもりなんじゃ。仲間が一人もいなくなったこの町に、誰と住むんじゃ。わしはたった一人になってもこの木を切らせねぇぞよ。」

やっと若いお坊さんが目を開けた。

「おや、お気がつかれましたな。ご気分はいかがですか。まったく亀蔵には困ったもんじゃて。まぁまぁ、痛々しい。まことに申しわけありません。」

お弁当を捧げたおばあさんが一人で申しわけながっております。

若いお坊さんの口の周りが紫色にはれ上がって、血が滲んでいます。
お坊さんは黙って立ち上がります。
ちょっとふらついています。

「軽い脳震盪くれちゃったな。あぁ、いきなり飛び込まれたんじゃぁ、かわしようがねぇもんな。でぇ失敗だったな。」

立ち上がった若いお坊さんに気づいて、亀蔵さんが独り言のように呟いています。

ふらつきながら若いお坊さんは椎の木の下に戻りました。

それを見て息子の加賀山君も椎の木の下に行きます。

亀蔵さんも竹さんも虎さんもその様子をじっと見ています。

「おっさんは...いや、あんたはマジでお坊さんなのかよ?」

どうもちぐはぐな言葉遣いです。

若いお坊さんは黙っています。
加賀山君も少し分かってきました。
この若いお坊さんは、必要最低限の話ししかしないらしいということを。
お坊さんが黙っている時は、「はい。」という肯定の返事だと考えてよさそうなことも。
若いお坊さんは黙っているので、加賀山君は言葉を続けました。

「俺は、少し前にテーラヴァーダ仏教ってのをひやかし半分、興味半分でみんなと見学に行ったことがあるんだ。」

お坊さんは黙っています。
加賀山君の話を聞いているようです。

「あんたから見れば、俺は馬鹿を地で行ってるように見えるだろう。ほとんど正解なんだけどさ、ほんのちょっとだけ考えることがあったんだよ。お袋が最近病気で死んじゃってさ。それからどうも変なんだ。どきどきそれこそ、これが地獄かよって気持ちになりやがってさぁ。」

椎の木の梢の方で、今日はじめての蝉が鳴き始めました。
ジージーとなく、ニイニイ蝉です。
加賀山君の声がちょっとだけ大きくなりました。

「なぁ、教えてくれよ。お袋はどこにも居なくなっちゃったのかなぁ。極楽とかはよぉ、とても信じられねぇしな。元素に分解しちまっちまったのかなぁお袋。魂ってのも怪しいしなぁ。だから、分かんなくなっちゃってさぁ。」

おばあさんが話に割り込んできました。

「おめぇ、何時からそんな殊勝なこと考え始めたんだぃ。ちっとも気づかなかったよぉ。ちょっと見直したねぇ。なんだい、そのテーラヴァーダ仏教ってのは? お坊様、わたしもこのお坊ちゃまの質問の答え知りてぇんです。」

いつもの加賀山君なら、邪慳におばあさんを遠ざけたでしょうが、今はほんとにいつもと違います。
すぐ向うで、父親がなにやら理不尽を働いているのを見て相当がっくり来ているようでした。

その時、若いお坊さんが言葉を発したのです。
二人は顔を上げてお坊さんを見ました。
お坊さんは、口の周りが腫れているので、さすがにしゃべりづらそうです。

その様子を三階のオフィスの窓から見ていた美咲が思わず大きな声を出して社長に呼びかけました。

「社長。あの若い男の方、気づきましたよ。今起ち上がって木の下に行きましたぁ。」

なんでか、声が弾んでいます。
人って、気に入ったものにすぐ情を移してその相手のことを自分のことのように喜ぶものなんですね。
社長さんも嬉しそうに、そうかそうか、と言って安心したような感じでした。
議長側と老人会側の対立はこう着状態になっていたので、社長は忙しい仕事に戻っていたのです。

美咲は、すぐにお昼仲間にメールを打ちました。

>公園の男の人、気がつきました。
>無事な様子です。
>安心していいよ。
>       美咲。

ピッと送信し終わると、美咲も仕事の続きに没頭しました。

「お母さんが亡くなったことは本当にお気の毒です。人はいつか過ぎ去って行くものです。お母さんの最後の望みは、あなたがしっかりして強く生きて行ってくれることですよ。お母さんは決して戻っては来られません。あなたは、残された家族と一緒に強く生きていくのです。」
「はぁ。」
「お坊様、やっぱりこの世に戻ることはないのですか?魂もないのですか?」

「わたしが知っているのは、わたしの心に起る事柄についてだけです。魂と極楽については何も知りません。わたしは知りたいとも思いません。この若いお方のお母さんと同じようにいつかわたしも過ぎ行くものです。それは確かな真実だと思います。」
「ずいぶん旦那寺の和尚さんと話が違いますねぃ。」

「......。」

若いお坊さんは、和尚さんという言葉を聞くと、話すのをやめてしまいました。

お坊さんは口を開きません。
沈黙が続きました。

おばあさんは歳をとって少し耄碌が始まっているから沈黙に気づかない。
加賀山君は風と同じで、じっとしていられない年頃なので沈黙が苦手でした。
それでも、すぐに言葉が浮かんできません。

そのまま、三人の時間が経過しました。

ふっと加賀山君から言葉がでてきました。

「お袋は死ぬ時苦しかったかなぁ?」

若いお坊さんは前を見ているだけです。
加賀山君は下を向いています。

ようやく、若いお坊さんが口を開きました。

「人は生まれる時も死ぬ時も苦しむのです。」
「もし。お坊様も死ぬ時は苦しいのかぇ?」

「恐らく苦しむでしょう。」
「怖くはないのかぇ。」

「今は怖くはありません。」

「そうだよ、ばあちゃん。今心配したってどうなるもんじゃねぇよ。」
「おや、おめぇに言われちゃうとはなぁ。とんだ耄碌したもんだ。」
「別に、そういう意味じゃぁねぇよ。」
「分かっておるわぃ。」

加賀山君が難しいことを質問し始めました。

「お坊さん。もう一つ教えてくれねぇかなぁ。テーラヴァーダの坊さんが言ってたことなんだけどさ。日本の坊さんが、みんながそのまま仏になれるとか、極楽経由で仏になれるとか言っているのは嘘だって。テーラヴァーダの坊さんが一生懸命修行したってなかなか阿羅漢にさえなれないんだそうだ。仏ってのはお釈迦さまだけなんだってほんとなのかな。」

「お釈迦さまはお釈迦さまで、仏様という何か特別な存在になったのではありません。お釈迦さまの教えはお釈迦さまご自身の事柄を語っておられたのです。過ぎ行くものとしては、お釈迦さまも同じでした。お釈迦さまも死に際しては苦しみを乗り越えられました。」

「そうだよなぁ。お釈迦さまだって死んだんだよな。」
「お坊さま。そのぉ、お釈迦さまは死んで何になりなさったのでしょうか。何処の仏の国で説法を続けておられるのでしょうか?」

「お釈迦さまが何処かに行かれたかどうかについてもわたしは知りません。知りたいとも思いません。知る必要がありません。」
「仏様になられたんではないんでしょうか?」

「人を苦しめているあらゆるしがらみから、お釈迦さまは自由になられました。そういうお釈迦さまを尊敬して仏と呼んだそうです。呼び名です。お釈迦さまが仏という別な存在になったのではありません。」
「苦しみをなくした人ってことですか?でも、それなら死ぬ時苦しまないんじゃないですか?」

「お釈迦さまが死ぬ時どんな経験をされたか、他の誰にも分かりません。わたしたちにできることは、今自分を知ることです。」
「.........。」
「そんなら、お坊様、阿羅漢と仏がどう違うんじゃろか?」

「阿羅漢も仏も呼び名にすぎません。」
「スーパーマンみてぇな超人はいねぇってことかな。」
「お坊様。そういうことなんですかぇ。」
「......。」

若いお坊さんは再び沈黙してしまいました。

かんかん照りのお日様は、少し西に下りてきました。
それでも、地面の照り返しは強烈です。

こうして今日も、地球は、人にはゆっくりと、自身は信じられないスピードで回っています。

加賀山君がぼそぼそ呟いています。

「お袋は、あんな親父のためだけにずっとつくしてそれで病気になって死んじまった。お袋の人生って何だったんだって、俺はむしょうに腹が立ったんだ。」
「そりゃおめぇ。おっかさんはよぉ、おめぇを大切に育てたんだよぉ。」
「ばあちゃん、まさかお袋の人生ってそれだけってことねぇだろぉ。だから、馬鹿馬鹿しくなっちまってよ。やりてぇことやってりゃ、その方がおもしれぇって思ってさ。」
「ワケェ時はみんなそんな考えするもんだ。」
「だけどさ、やっと分かったような気がしてきた。俺たちにゃもともとなんにもねぇんだってことがよ。何かってのは、俺たちが自分で作らなきゃぁならねぇんだってことがさ。」
「ばかに難しいこと言い出しやがったなぁ、おぼっちゃまよぉ。」
「馬鹿やって過ごしても一生、何か見つけてやっても一生。一生は一生だよな。俺、決めたぜ。」

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