avarokitei84のblog

*はじめに。 このブログは、ヤフー・ブログから移行したものです。当初は、釈尊(お釈迦様・ゴータマブッダ)と宮沢賢治を探究してましたが、ある時点で、両者と距離をおくことにしました。距離を置くとはどういうことかと言いますと、探究の対象を信仰しないということです。西暦2020年となった今でも、生存についても宇宙についても確かな答えは見つかっていません。解脱・涅槃も本当の幸せも、完全な答えではありません。沢山の天才が示してくれた色々な生き方の中の一つだと思います。例えば、日本は絶対戦争しないで平和を維持出来るとおもいますか?実態は、戦争する可能性のもとに核兵器で事実上の武装をしています。釈尊の教えを達成したり絶対帰依していれば、戦争が始まっても傍観しているだけです。実際、中世インドでイスラム軍団が侵攻してきたとき、仏教徒の多くは武力での応戦はしなかったそうです(イスラム側の記録)。それも一つの生き方です。私は、武装した平和主義ですから、同じ民族が殺戮や圧政(現にアジアの大国がやっている)に踏みにじられるのは見過ごせない。また、こうしてこういうブログを書いているのは、信仰を持っていない証拠です。

説話と物語1 大猿と胡弓弾き

河畔


 俺は河原に突き出した岩棚でうとうとしていた。
 かすかな悲鳴を聞いたような気がした。すぐに飛び起きた。下に怯えている人の気配がある。俺はあの少女が下の河原に来ていたのを思い出した。
 俺は、岩棚から一気に4、5メートル下の砂の河原へ飛び降りた。やはりいた。少女が俺のほうを必死に見上げている。俺を呼ぼうとしたのだが、悲鳴もろくに出なかったらしい。
 驚いたのは俺ではなくて、男達の方だった。少女に剣を突きつけて馬乗りになっている男とその様子を遠巻きに見ていた3、4人の男達である。ほんの束の間だったが、どいつもぽかんと口を開けて俺を見上げたまま突っ立っていた。
 きらきらした服を着た貴族らしい馬乗り男を無造作に払い飛ばして、少女を左腕で抱え挙げた。少女は体中がどきどきしている。それでも楽器は離ず抱いていた。楽器を胸に抱いたまま両手で俺の首にしがみついた。それから泣き出した。
 若い貴族の男はまだ荒い息を続けていた。周りにいた男達が喚いた。剣を抜くと四方から間を詰めてきた。貴族男はへなへなと後ろづさりした。いかにも腰抜けらしかった。
 俺はこういう奴等が嫌いだった。弱いものにかさにかかって襲いかかる奴等だ。俺も腰の刀を抜いた。研いだばかりだから、本気で振り回せば、こいつ等の身体を縦割りにできるなと思った。だが、今は少女を抱えている。その目の前で人を縦割りにするのはさすがに気が進まなかった。今日は腕を叩き斬るだけにした。
 一番目つきの悪いのが脇から斬ってかかった。それと同時に背中の奴が剣を突き立てて来た。背中の間合いがちょうどなので、振り向きざまにこの男の腕を斬った。師匠譲りの刀は今日は特に切れ味が良かった。背中の男の右腕がはるか向こうに飛んでいった。腕が飛んでいっても男はすぐには気づかないようだった。脇から来たのがひるんで一歩下がった。貴族男は腰を抜かして砂の上にへたり込んだ。腕を失った男の肩からは血が吹き出した。
 貴族男が奇妙な声をあげた。男でも悲鳴をあげるのだ。はじめて怒りが体中に広がった。貴族男のところへ一っ飛びに跳んで、引きつった顔でひいひい言っている貴族男の腕を切り飛ばした。腕は剣を握ったまま飛んでいった。貴族男はのけぞってひっくり返った。身体全体が痙攣している。
 少女は俺の胸に顔を埋めたまましっかり俺の首にしがみ付いたままでいる。その方がいいと思った。こんな有様なんか見るものではない。
 男達は闘志を無くしたらしい。二人が貴族男を両脇から抱えて、もうひとりが腕無し男に肩をかしてよたよた逃げ始めた。斬られた腕まで気が回らなかったのか置き去りにしていった。俺は放っておいた。
 「おい、もう大丈夫だぞ。」
 そういってから、向こうに転がっている斬られた腕を見せたくないので、少女を抱きかかえたまま堤の上に上がった。
 「大丈夫か。え?」
 少女の顔を覗き込むとうれしそうに頷いた。まだ、涙目をしていた。
 「よし、それじゃおろすぞ。」
 少女がかぶりを振った。俺はやむをえないので、刀の血のりを自分の服で拭って鞘に収めた。
 岩棚に俺は俺の胡弓と経文を置いたままだったので、少女を抱えたままゆっくりそっちへ歩いた。少女は、そっと顔を上げて俺を見ている。俺のでかい顔を見ても面白くもなんともないだろうにと思ったが、これも放っておいた。
 俺は胡弓と経文を拾い上げて、経文を懐に入れ、つり紐を首に回して、胡弓を背中に背負った。
 「このまま宿まで行ってもいいのか?」
 俺は少女に訊いた。少女は今度は頷いた。
 「よし、それじゃあ、宿に帰ろう。」
 俺はよっこらしょと言って歩き始めた。
 夜でも街は結構賑やかだった。酒楼も有るし、宿も飯屋も有るので人が行き来するのだ。通りを歩いていた奴等は珍しそうに俺たちをちらちらと見ていく。俺の風体が凄まじいので真っ向から俺たちを見つめる奴はいない。
 俺は少女を抱えたまま宿の老人の部屋まで上がっていった。今日も老人は床に臥せっていた。
 老人は、俺の腕の中に孫娘がいるので驚いたような顔をした。
 「爺さん、具合はどうだ。何、心配することはない。娘はなんともない。ほれ、この通り。」
 そう言って、少女を下ろした。
 少女は少し顔をあからめながら軽くお辞儀をした。それから老人の傍に行った。小さな声でさっきのことを話しているようだった。老人が俺のほうを見た。少女は老人の枕元に据えられていた膳を確かめてから、飯をもう一度温めなおしてもらいに下へ降りていった。
 少女が下に降りていったのを確かめてから小声で話した。
 「老人、お前の娘は、どうやら貴族屋敷の馬鹿息子に目をつけられたらしいぞ。これから俺が掛け合いに行くつもりだがそれでいいかな。」
 「今夜は孫娘を助けてくれたようだな。なんともかたじけない。だが、貴族屋敷にはたくさん兵がいるということだ。お前さん一人で出かけるのは無茶というものだ。そこまでしてもらうわけにもいかん。」
 「老人、俺はさっき馬鹿息子の片腕切った。もう俺もお前等の仲間になってしまったわ。今頃奴の親父が役人やら腕利きやらを集めているだろうさ。だから、どうせ火の粉は払わにゃならん。ま、こうなったらここには何時までもいられんだろうから、話をつけたら出て行かねばならんな。」
 老人は自分達に降りかかった災難の大きさを思いしばらく声にならなかった。ようやくにして呟くように言った。
「いまさら、わしがどうこう言える立場ではない。お前さんにすべて任せるより他はない。まことにすまない。武運がお前さんを守られんことをただ祈る。」
 老人がそろそろと起き上がってゆっくり頭を下げた。
 「おっと、老人。無理をしちゃいかん。寝ていろ、寝ていろ。大事な身体だ。娘のために長生きしたいんだろう。余計な気を使うな。」
 そう言った時、少女が膳をもって上がってきた。
 「それじゃあ、俺は帰る。なあに、もう心配はいらん。爺さんをしっかり見てやれよ。」
 少女にそう言って、俺は自分の胸をぽんと叩いてからぎしぎしと階段を降りていった。

田舎貴族にしてはなかなかの人物


 俺の名は伍孫順。伍は、生みの親と、二つの育て親と、二人の師匠の五つの伍だ。
 今夜は相当激しい戦いになるものと決め込んで、胡弓と経文をお堂の隠し場所に隠してから貴族屋敷に向かった。
 屋敷に近づくとやはり動きがある。だが、大勢人を集めている様子は感じられない。田舎貴族の腰ぬけめ、親父も腰を抜かしていやがるかなとも思った。だが、用心は肝心だと思い直した。大猿の母と虎の母の教えだった。決して油断するな。相手を怖れず、だが舐めてかかるな。これが二人の母の教えだった。
 まず、様子を窺うことにした。塀を一っ飛びに跳んで、足音を立てずに主殿に近づいた。暗がりの中では動きはたやすかった。俺は賀の師匠について王侯貴族や郷紳などの大きな屋敷の中を縦横に歩き回っていたので、どこに行けば何があるか分かっていた。
 篝火も焚いていない。どうやら、俺の正体はまだここいらの奴等には知られていなかったようだ。俺を警戒している様子はない。屋敷中が馬鹿息子の傷の手当てにてんてこ舞いしている様子だった。
 4人の男達を探した。屋敷内には奴等の気配がない。息子を命の危機にさらした役立たずといって追い出されたのか、それとも、人集めか、役人の所へ使いにやらされたのか。気配がない。ただ、一人だけ匂いがする。腕無し男の匂いだ。だが、生きている気配ではない。もう死んだか。
 すると馬鹿息子も死んだか。馬鹿息子は生きているほうが良いのだが。うむ、生きている。ひいひい泣いている。まあいいだろう。
 俺は主の居間へ向かった。人の気配を確かめて、戸を開けた。ぬっと入った。さすがに、主は腕利きを傍に置いていた。鋭い気を発する武人が二人、すぐに剣を抜いて主人をかばって前に立った。だが、主はゆっくりと立ち上がった。意外なほど落ち着いていた。
 「二人とも剣をひきなさい。」
 落ち着いた主の声に俺は少しほっとした。余計な人殺しをしたくなかったのだ。
 「馬鹿息子の親父殿か。」
 俺は無礼を承知でそう問いかけた。
 「いかにも、その馬鹿息子の親だ。お前が息子を斬ったのだな。」
 「馬鹿息子の取り巻きが親父殿になんと言ったか分からんが、親父殿の息子は俺の友達の娘を手篭めにしようとしたから斬ったまでだ。本来なら命をもらうところだが、娘の目の前での殺生が嫌さで腕だけにした。」
 主はそれを聞いても落ち着いていた。
 「いかにもありそうなことだ。わしにとってはあれでも息子だ。可愛くないことはない。わしも本来であれば貴様を生かしてはおかないのだが、こうして貴さまを前にして今はその気がうすれたきた。どうしたものかの。わしも老いたものだのう。」
 そういいながらも、主の目は鋭く俺を見据えていた。息子からは想像できない老人だった。
 「理由はどうあれ、親父殿にとっては俺たちは目障りだろう。だが、俺の友達は病気なので明日早朝というわけにはいかぬが、明日中にはこの街から出ていくつもりだ。少なくとも、この街を遠く離れることにする。それで眼をつむるというのであれば、俺も暴れはしない。おとなしくこのままここを立ち去る。」
 主は、俺を見据えたまましばらく黙った。俺は主と話しながらだんだん全身が目と耳になっていた。やはり、二人の武人は只者ではなかった。その配下らしい武者の気配が回廊に集まりだした。河原の取り巻きとは全く違う。怖れは無いが、気は抜けない。主はそういう俺の様子をじっと見ていた。そして口を開いた。
 「以前、猿と虎を母とする人間離れした大盗人の噂を聞いたことがある。雲つく大男でありながら、猿のようにしなやかに身軽で、戦うと虎のように暴れると聞いた。とんだ相手に遭遇したものよ。愚かな息子だが不憫でもある。運良く命をとりとめ、これを戒めに改心するのであればとも思う。さて、どうしたものか。」
 これを聞いて俺は嫌な気がした。主が俺を知っているのか。知っていればただでは済まないぞと思った。自然に気を発した。注意深くあしもとを確かめながら二人との間合いを取り始めた。あしもとにもどんな仕掛けがあるかわからないからだ。
 俺の動きが武人を刺激した。二人は左右に開きながら間合いを詰め始めた。かかってくれば斬るほかないと思った。
 しかし、主は後ろの床の剣を取ることなく、再び口を開いた。穏やかな声音のままだ。
 「貴様がその獣たちの息子であるなら、何とか生きている息子もわしも家来どもも、無傷では済むまい。貴様が確かに明日中にこの街を去るのであれば、わしは目をつむるとしよう。だが、息子を斬られた憎しみは心の奥に畳まれた。消すことはできぬ。それは言っておく。」
 「当然だろう。さて、今の約定を親父殿は何に誓うのだ。」
 「うむ。もっともな言い分だ。わしの言葉はわし自らに誓う。」
 主は俺を真正面から見据えたままそう言った。
 「よかろう。一番確かな誓いだ。俺も俺自身に誓う。では、ご免。」
 そう言うと俺は戸を蹴破って、数歩で広い庭をよぎり、たちまちに塀の外に跳ね飛んで出た。すぐに闇に身を隠してお堂に走った。それから、宿の近くに戻り物陰に身を潜めて夜が明けるのを待った。
 待つのは慣れている。
 こうしているといつも思い出すのは、大猿や大虎とすごした蛾蛾山の麓の森だ。

蛾蛾山


 俺は生みの親を知らない。名前も知らない。今どうしておられるのやらも知らない。
 俺は大猿の母の乳を吸わせてもらって兄弟の猿達と一緒に育てられた。人の子なのですぐには母猿の背にしがみ付くことは出来なかった。俺はそれでも人というより猿に近い力を持って生まれていたらしい。それに俺はぐんぐん大きくなった。兄弟たちの誰よりも図抜けて大きくなった。だから、半年もしないうちに兄弟に混じってなんとか木々を伝って歩けるようになった。一年過ぎた頃には枝から枝へ飛び移れるようにもなっていた。
 ちょうどその頃、母の大猿がはじめて俺たちを蛾蛾山につれて行った。
 大猿の森を抜けると目の前に、蛾蛾山の鋭い岩峰が天を突いて聳え立っていた。母の大猿は身軽に岩山を登って行った。俺たちも続いた。俺たちは遊び半分であった。
 大猿の森を見下ろす蛾蛾山の中腹に大きな岩棚があって、小さな洞窟もあった。岩棚を風が吹き抜けていた。その岩棚に人がしんとして足を組み瞑想をしていた。髪も髭も伸び放題の老人であった。背中がやや丸く見えた。
 老人の前に出ると、母の大猿は手にしてきた果実やら薬草やらをその前に恭しく置いた。そして、老人に何か言っていたようだった。老人が小さな目をわずかに開いて、母の大猿を静かに見た。老人もなにやら言っていたようだった。俺にはどっちの言ったことも聞き取れなかった。聞いたとしても今まで覚えてはいなかったろう。その時はまだ、俺は人の言葉を全く知らなかったのだから。
 母の大猿が俺を呼んだ。俺はぴょんぴょん二人の前に出て行った。母の大猿が俺の頭を押さえて老人の前に座らせた。老人が俺を見た。実に優しい眼だった。老人から何の気配も出ていなかった。俺は驚いた。
 そして、俺はもっと驚いた。母の大猿が、俺にここに残れと命じたのだ。母の大猿の命令は絶対だった。俺はキーキー鳴いた。だが、母の大猿は耳を貸さなかった。
 母の大猿は俺を老人の前に置いたまま、兄弟たちを連れて岩山を降りて行ってしまった。
 俺はそれまでずっと兄弟たちと同じように裸だったし、俺には兄弟たちのような毛がないので、吹きさらしの岩棚は寒かった。
 老人の顔が緩んで、深いしわが増えて、もう顔全体が皺になってしまった。そしてはじめて人の言葉を聞いた。
 「子猿、寒いのう。よしよし。こっちに来るが良い。」
 後になってから、老人が浮屠の行者だと知った。だが、まだ人の言葉が分からなかったその時でも、老人の言っていることがなんとなく分かったのだ。後について洞穴に入った。風はほとんど吹き込まなかった。真南に開けていたのだ。奥は結構広くて、巾着のように中が広がっていた。
 俺は、お日さんが二回昇るまでそこにいた。そう二日だ。二日目に、母の大猿が一人で俺を迎えに来てくれた。俺は喜んだ。母猿にまとわりついた。母猿もやさしく俺を抱いてくれたりした。
 またもや、母の大猿は老人と何か話しはじめた。俺は心配だった。また置き去りにされるのではないかと。老人はまた顔中皺だらけになった。小さな口を大きく開けて笑っているようにも見えた。老人は何をしていても全く気を感じさせなかった。後で考えると老人はまるで幻のようであった。確かに目の前に老人はいるのだが、老人を感じることがないのだ。見えるのに感じないのだ。
 やがて、母の大猿が立ち上がった。俺は母猿から目を離さなかった。老人はその俺の様子をにこにこと眺めているようだった。不思議な暖かさをその時たしかに感じた。
 母猿は俺についてくるように命じた。俺は飛び上がって喜んだ。母猿にまとわりっぱなしで森に戻った。
 そうして、俺は大猿の森と老人のいる岩山とを何日かおきに行き来するようになった。老人のところへ行く時は、母猿がもたせてくれる果実などを持っていった。老人はあまり物を食わなかった。それでも動いていた。俺には驚きだった。ほとんど食わないのに生きている。いや、老人は半分生きものではなくなっていたのかもしれない。
 老人から人の言葉も浮屠の教えも習った。俺は不思議に一度聞いたことはみんな覚えた。すぐに老人と人の言葉で話せるようになった。
 はじめのうちは、老人は俺と遊んではくれないのでつまらなかった。兄弟たちと一緒のほうが楽しかった。しかし、三年四年と経つとなんとなく老人の傍も楽しくなってきた。何が楽しいのかその頃の俺には分からなかった。ただ、そう思っていただけだ。
 五年目の秋だった。老人が洞穴の中で何かしている時、俺は岩棚でぼんやり大猿の森を見下ろしていた。眼下が一面の紅葉だった。風は時々向きを変えた。
 風が変わったとき俺の体中の毛が逆立った。恐ろしい匂いを風が運んでいたのだ。匂いでは遠くにいるのに、気がこんなに強い。虎だ。蛾蛾山の麓の大虎だ。
 どうしてここに来るんだろう。虎が蛾蛾山に登るなんて思ってもいなかった。確かに、ここは大猿と大虎の境界線にある。でも、虎が蛾蛾山に何の用があるのだ。
 もし、大虎が俺を本気で追いかけたら、とても森まで逃げ切れない。森はずっと下のほうにある。大虎はもう少しで姿を見せるところまで来ている。今は行者の老人のところにいるので、俺は俺だけの牙も爪も持っていない。それにもっていたところで俺一人と大虎とでは勝負にならない。すぐに俺は、諦めた。闘かうのが無意味だと納得したら、俺は気負いがなくなった。すっと気持ちが楽になった。
 大虎の凄まじい顔が出てきた。四本の巨大な牙の間から絶えず低く唸り声を吐きながら、ゆっくりと登ってくる。おやと思った。何かが大虎の後ろからちょちょこついて来る。二匹とも全身を現した。大虎は実に大きく立派だった。母の大猿のように立派だった。全く恐怖がなくなっていたので、ゆっくりと近づいてくる大虎をうっとり眺めていた。その後ろから俺より歳の小さい虎の子がややもたつく歩き方でついてきた。
 俺は黙って立っていた。大虎は俺の前に来ると、大きな顔を俺に近づけてきた。鼻息が俺の身体に吹き付ける。大虎は俺を舐めた。胸の辺りを大虎のざらざらした舌が滑っていった。牙は俺の指よりはるかに太かった。不思議なことに大猿の匂いのする俺に大虎は何の気も出していない。俺は大虎が怖くなかった。
 その時、行者の老人が洞穴から出てきた。大虎と一緒にいる俺を見ても何にも言わなかった。なんとも思っていないようであった。
 「虎よ。今日は子供の用事かな。」
 行者の老人が静かな声で言った。
 「子猿よ。薬草を持ってきなさい。」
 俺は洞穴の前に干してある薬草の束を取りに行った。大虎は出てきた行者の前に行って頭を垂れ、母猿の時と同じように何か言っているようだった。行者も大虎に何か言っている。今は、人の言葉を話せるようになった俺にもその言葉は全くわからなかった。だが、言葉は分からなかったが、二人が交わしている言葉の意味はなんとなく分かった。挨拶を交わし、次に大虎が行者の老人に、自分の子供の怪我を見てくれるように頼んでいたのだろう。そういうふうに思えた。
 俺は行者の老人に言われる前に水を汲みに洞穴へ戻った。大虎は岩の上に腹ばいになって老人と子虎の様子を見守っていた。
 子虎は足を痛めていた。このままでは生きていけない。それが虎の宿命なのだ。びっこの虎など若熊にも食われてしまう。
 老人は治療を済ませるとさっさと岩棚に戻り足を組んで瞑想に入った。
 大虎は、子虎になにやら命じると大虎だけで山を下りていってしまった。俺はびっくりした。子虎はしばらく鼻を鳴らしていたがすぐ諦めて俺の傍にやってきた。山に登ってきたので痛めた足がさらに辛くなっていたのか、俺にじゃれかかったりしなかった。子虎も俺を警戒しなかった。俺は子虎を抱えて俺の寝床まで連れて行って寝かせてやった。子虎はすぐに寝入ってしまった。行者の老人を俺はお師匠と呼んでいた。お師匠は文字通り風の中にいた。俺も子虎の傍に横になった。俺もすぐに眠ってしまった。

 ふっと目覚めた。いつの間にかまたうとうとしていたらしい。宿の灯がすっかり落ちた。貴族が約定を破る恐れが全く無いと確信しているので寝てしまったらしい。
 大猿の森での暮らしはこうやっていつも思い出している。俺の中に大猿の森と大虎の森と蛾蛾山の道場がいつもあった。

出会い
 

 二人に出会ってから、この街は二つ目だ。
 はじめて少女の胡弓の調べを聴いたのは、賀の師匠の弔いが済んで行く当てもない俺がふらりと立ち寄った隣の街の辻だった。その時はまだ二人で弾いていた。老人は達者な弾き手だった。それにその調べはどの街でも聴いたことのないものだった。俺が蛾蛾山でお師匠から習った調べに似ていた。賀の師匠も胡弓の名手だった。舞台では伴奏楽器の一つにすぎないが、二人の師匠は舞台で弾かれる調べとは全く違うものを弾いていた。蛾蛾山のお師匠の調べは蛾蛾山と一体だった。賀の師匠の調べは、会ったことはないが、懐かしい生みの親を教えてくれるような調べだった。
 まるで3人の老人は兄弟のようだった。
 土ぼこりの中で、汚れた着物を纏って二人は胡弓を弾いていた。少女は弾きながら一生懸命老人の技を学ぼうとしていた。投げ銭の壷にはあまり銭は投げられなかった。あれでは宿に泊まれない夜もあっただろう。
 その頃すでに老人は病に犯されていた様子だった。
 俺は目立つ姿なので、物陰や酒楼や飯屋の中で聴いていた。異様な風体の俺が、いつも二人の前に立っていたのでは誰も近寄って聴いてはくれないだろうし、それでは投げ銭も当てに出来なくなると思ったからだ。
 人の通りが多い街なので投げ銭を当てに出来るのか、老人はなかなかその街を離れなかった。俺はその街があまり好きでなかった。人がやたらに多くてうるさいだけで俺の好きなものがなかったのだ。それに、一所にいるのも飽きてきた。つぎの街へ移ってほしかった。
 ある日俺は思い切って二人の前に行って投げ銭を入れた。銀を相当投げ込んだので、二人ともびっくりして俺の顔を見上げた。なにしろ投げた銀の数も多かったし、たぶん俺は二人が今までに見上げたことがないほどの大男なのだ。おまけに俺は頭に太い鉄の鉢巻をしていた。顔が普通の倍ぐらいあるように見えたろう。俺は誰からも大猿と呼ばれた。俺によく似合った渾名だった。俺は大猿と呼ばれてうれしかった。母の大猿と同じ名前なのだから。
 銭を投げ込むと、道の反対側に行って塀に寄りかかって胡弓を聴いた。時々二人の方を見ると少女がいつも俺のほうを見ていた。あんな格好をしていてはあいつも病気になるぞと思った。
 この街では他に行きたい所がなかったし、老人の調べをどうしても覚えたかったので、毎日一日中辻に来て二人の胡弓を聴いていた。そのうちにめきめき少女の技が上達した。俺が聞いているせいなのかもしれなかった。投げ銭はあれからしていない。なにしろあの二人なら数月は暮らせるほどの銀を投げ込んだのだから。
 次の日、俺が辻に行くと、老人がすぐに俺のほうにやってきた。老人は丁寧に頭を下げてからこう言った。
 「お若いの。訳はよく分からんが、銭はありがたく頂戴した。おかげで孫娘に久しぶりに新しい着物を買ってやれました。ほれ、見てくだされ。」
 俺はほうと声を出した。本当に見違えるように美しい着物を着ていた。向かいにいる少女もうれしそうに微笑んでいた。
 「お前さんが毎日わしらの胡弓を聴きに来てくれているのはどうやら孫娘が目当てではなさそうだな。」
 老人が笑った。それを見ていた少女も一緒に向こうで微笑んでいる。
 「老人、俺も胡弓を弾く。あんたの胡弓が気に入ったのでどうしても覚えたかったのさ。」
 老人はカカと笑った。
 「なるほど。思ったとおりであったな。」
 そういって老人は頷いた。
 「老人。俺が邪魔ならそう言ってくれ。迷惑はかけたくない。」
 そう俺が言うと、老人はいやいやと頭を振った。
 「とんでもない。わしらには、お前さんのおかげでもう一つ有り難いことがあるのじゃ。あの孫娘は、わしのたった一人の息子の子なんじゃが、息子も嫁も戦に巻き込まれて死んでしまった。あれにはもはやわししか身寄りがおらんのじゃ。なんとしてももう少し長生きしなければならん。だが、わしも歳を取ってしまった。あちこち痛んできておる。幸いお前さんの喜捨にあずかり銭が出来た。隣の街にわしの病にいい医者がいるということなので、明日立とうと思う。銭の礼と明日町を出ることを言いたかったのじゃ。」
 そういうと老人は辻の反対側に戻って、すぐに帰り支度を始めた。明日の準備をするのだろう。二人は俺のほうにもう一度頭を下げて宿のほうへ歩いていった。
 俺も、すぐ宿に戻って、旅の準備をした。それから風呂に行ってゆっくり浸かり、二三日の旅に備えた。宿の女将には銭を十分に渡して、干し飯と干し肉をたっぷり注文しておいた。俺はいつでもすぐに寝ることが出来たし、必要ならいつでも起きることが出来た。なにしろそれが盗賊の肝心な技の一つなのだから。
 賀の師匠は大盗賊だった。ただし、配下はいなかった。俺が拾われるまでは。
 行者のお師匠からは、厳しく浮屠の五つの戒めを教えられた。その戒めの四つを俺は今でもしっかり守っている。守れない一つは、人を殺すことだ。今までにも何人か殺した。言い訳はしない。だが、出来うる限り殺さないようにしていた。では、盗みはどうなのかと咎めるだろう。だが、賀の師匠も俺も盗みはしていなかった。貧しい者や弱いものが、強いもの、あくどい者に財物や金を奪われている、その奪われた財物や金を取り返してやっていたのだ。その代わりに取り返した一部を師匠と俺はもらっていたのだ。誰から奪ったのか分かる時は、その人に戻してやった。分からない時は、みんなに分け与えた。
 これを詭弁だという奴はそう思っていればいい。俺は少しも気にしない。
 賀の師匠も俺も贅沢はしなかった。だから、金は貯まっていった。賀の師匠は大金を残してくれた。俺は師匠の好きだった山の中腹に立派な墓を建てた。時々お参りに行くことにしている。
 例の刀は賀の師匠が自分で鍛えた物だそうだ。実にしっかりしたいい刀だ。俺は、師匠が作ってくれた俺の刀と一緒に大事に持ち歩いている。俺はいつも二振り刀を持ち歩いている。外から見ては一振りだが。
 俺は飯をしっかり食うとすぐ寝た。

一回目の旅


 女将はなかなか人柄が良い。実に上等の干し飯と干し肉をたっぷり用意しておいてくれた。それに、昼飯の大きな丸飯と芳醇な強い酒を入れたひょうたんを付けてくれた。勿論、俺は酒を飲まない。浮屠の戒めでもあるが、俺はそれほど酒が好きでもないし、酒を必要ともしなかった。ただ、香りが好きなのだ。それで、女将に良い酒も用意してくれと頼んでおいたのだ。俺はうれしかったので、女将にたっぷり心づけを渡した。恐縮していたが無理に握らせた。
 街のはずれの家の陰で俺は二人を待っていた。もちろん連れ立って歩くつもりはなかった。これからずっとついて行くつもりもなかったのだから。老人の胡弓の調べと技を覚えるまでと思っていた。
 二人を先にやり、俺は少し離れて後からついて行くつもりだった。山賊も出るという噂もあったので、あまり離れないほうがいいと思っていた。
 水を飲みながら、丸飯と干し魚を焼いてくれたのを頬張っている時二人が街を出ていった。少女は何度か後ろを振り返っていた。老人がその度に少女に何か言っていた。それでも少女は時々振り返っていた。そういう細やかなことに疎い俺は、少女が俺の姿を求めていたのだとは気がつかなかった。後で考えると、やはり少女は心細かったのだと思う。
 だが、俺は少女を心配していたのではなく、二人を心配していたのだ。俺がさしずめほしいのは老人の胡弓の技と美しい調べだった。やせて顔色もあまりさえない子供には全く興味がなかった。少女は俺には子供にしか見えなかった。雄猿も雄虎も未熟な雌に興味がない。俺も同じだった。俺にはむしろ老人の方がずっと大事だった。少女の胡弓はせいぜい俺と同じ程度の技だったからだ。
 初夏の野道は明るくてお日さんはちりちりしていて実に気持ちよかった。
 老人の足が遅いので、俺はぶらぶら歩きでついていった。
 長い一本道でとうとう少女が俺の姿を見つけた。後ろを向いてじっと俺を見ていた。心なしかほっと安心したような気配を見せたが、俺は立ち止まってそっぽを向いて知らん顔をしていた。
 しばらくして前を見ると、また少女が俺のほうを振り返った見た。少女が足を止めてばかりいるので、老人も俺のほうを見た。それから少女に何か言った。老人の言葉に納得したように頷いて、少女が前を向いて歩き出した。
 ほんとにもう少し急がないと今夜は野宿になってしまう。荷物を遠目に見た限りでは食い物を準備しているのかどうかも分からない。丸飯ぐらいは持っているのかなと思った。野宿用の敷物は持っていない。どうにもゆっくりした歩きなのだ。
 ここらはあまり雨が降らない土地柄だから、よほど運がわるくなければ雨の心配は要らない。だが、獣もいるし盗賊もいる。どっちが出てもどうということはないが、いくら初夏とはいえ野宿は老人の身体には良くない。
 俺は余計な心配をしながらぷらぷら歩いた。
 お日さんが中天に掛かった。俺は歩きながら、残りの丸飯と焼き魚を食った。二人はそれからしばらくしてやっと足を止めて、道端に腰を下ろして昼飯を摂り始めた。ほんとに長い一本道なので隠れようがなかった。俺も道端に寝転んで空を行く雲を眺めていた。
 相当休んでから遠くで声がした。少女がこっちを向いて大声で出かけますと呼びかけている。俺は返事をしなかった。
 俺はやっと気がついた。牛なり馬なりを手配してやれば良かったのだ。老人をそれに乗せて行けば楽々隣町に着けるはずだった。いまさらどうしようもない。相変わらずぷらぷらついていった。
 

峠道


 朝、街を出てからずっと俺は何か変な感じがしていた。街外れには、巨大な魔よけの将軍が立っていた。それはまあどこでも良く見るものだ。街を一歩でたら、一面茫茫とした草原にまばらに木が立っているだけだった。それからずっとここまで民家はおろか農家の一軒も作業小屋すらもなかった。木が少ないから地味が良くないのは分かるが、なんとも殺風景である。
 確かに、朝俺たちが出てきた街へ向かう旅人に最後に会ったのは、昼飯を食った時だ。それからは人を一人も見ていない。あれだけ賑やかで大きな町に向かう一本道でこれは不可思議なことだと思った。
 それで思い出した。丸飯やなんかをまめまめしく用意してくれていた宿の女将が、峠がどうの脇街道がどうのとくどくど言っていたのを。俺はどうせ山賊が出るから気をつけろといっているのだと思っていいかげんに聞きながしていたのだ。
 ただ、俺はなんかの拍子にくどくど言い募っている女将の方を向いた時、女将の顔つきが強張っているように思った。俺はその時は、そんなにすごい山賊ならぜひお目にかかってみたいものだと早合点していた。だが、女将は山賊の話をしようとしていたのではなかったのかもしれない。
 いずれにしろ、脇街道はあまりにも回り道である。老人もそう考えたに違いない。老人はためらうことなく真直ぐ峠に向かった。俺もついていった。
 お日さんはちょっと見上げたあたりにあった。
 老人の足取りを見て、俺は二人に追いついて、老人を負ぶうことにした。俺の荷物はみんな前にぶら下げた。ぶらぶらして歩きにくいが仕方がない。少女には俺の胡弓だけ持たせた。
 痩せた少女は意外な健脚だった。大いに助かった。
 峠は北に控える大きな山脈の巨大な尾根の一つだった。尾根を北に登ればどんどん深い山に入っていってしまう。一つ道を間違えると普通の旅人には命取りになる。
 さんさんと輝く初夏のお日さんの下でも、山は黒々としていた。
 峠を一刻ほど登ったところで一息入れることにした。持ってきた甘い菓子を二人にも分けて少し水を飲ませた。老人は軽かった。だから俺は少しも疲れてはいなかった。俺一人なら、一気に峠を駆け抜けて今頃は隣町に着いている頃だった。一月ぶりの山なので俺は全身がむずむずしていた。だが、俺はともかく二人を休ませようとした。健脚と思った少女も、身体の蓄えが少ないのか峠道に入ると息を切らせていたのだ。
 一体こんな有様で今までよくも無事に旅を続けてこられたものだと感心した。
 少女の息が治まってしばらくしてからまた登ることにした。
 峠道は登るにつれて細くなり、とても本街道とは思えない有様になってきた。やはり、この峠を越える旅人はほとんどいないのだなと思った。
 途中何回か立ったままで少女に一息入れさせながら、とうとう峠の頂きに登りついた。
 お日さんはそろそろ峠の向こうに沈もうとしているらしかった。空もほとんど見えないような峠の森にわずかに差し込んでいた夕陽がどんどん薄れていくのだ。
 俺は老人と少女に、今夜はここで野宿にするほかないと告げた。水が少なかったが、何とかなるだろう。老人を下ろして、藪の開けた場所を見つけた。そこに油紙を敷き、厚織りの布を敷いて老人と少女が腰を下ろせるようにした。
 腹がへっていたのでまず飯を食うことにした。少女に指図して、干し飯をもどさせた。その間に、干し肉を引き裂いて三人分用意した。食い物をたっぷり持ってきて良かった。
 もはや、お日さんのあかりは届かないので、焚き火をすることにした。人の踏み込まない森の中には薪がいくらでもあった。ちょろちょろ火が燃え出すと二人は何だかほっとしたようだった。俺は灯りのない夜を生きてきたから、焚き火はほとんどしたことがない。初夏とはいえ、峠の夜の焚き火は暖かく感じた。俺たちは黙って食った。疲れた顔をしていた少女も生気が戻ってきたようだった。
 

幻魔の出現


 焚き火の向こうで老人は眠りについていた。少女はまだ起きていた。不安らしく大きな眼を開いたまま焚き火を見たり、時々は森の闇に目を凝らしたりしていた。
 森は深閑としていた。俺はこういうことにも慣れている。騒がしい夜もあれば、こういう深閑とした夜もあるのだ。
 だが、その時俺は行者のお師匠とのあるやり取りを思い出した。
 「子猿よ。猿でもない虎でもない狼でもない熊でもない大蛇でもない恐ろしいものに出会ったことがあるかな。」
 その頃には、お師匠とのこういう会話には慣れっこになっていたので、すぐに返答した。
 「お師匠。であったことは今までにありません。」
 実際、このあたりの森ではこの五つの獣より恐ろしいものなんて見たことがない。
 「ではお前は、猿よりも虎よりも狼よりも熊よりも大蛇よりも恐ろしいものがいると思うか。」
 「お師匠。そんなものは居りません。」
 俺は、本当にそんなものはいないと思った。
 「善いかな。善いかな。子猿よ。そういうものは人のみがいると思う幻なのじゃ。人は言葉で思う。お前は獣の考えが強いから言葉のみでは考えない。したがって、幻を見ることがない。幻を怖れることがない。」
 お師匠とのこの会話を思い出して、俺は少女が心配になってきた。
 少女の心の中で、深い山の闇の中に幻が少しずつ姿を現そうとしているのではないか。俺はまだ一度もどこでも目にしたことのないものたちだから、どんなものか見当もつかない。ただ、少女の恐怖が強ければ強いほど強大な魔が出現するような危惧を感じた。まだ、俺が何者なのか少女には分からないだろう。俺がどんな獣にも負けないことなんか知る由もない。ましてや、相手が魔物であれば俺も当てにはできないと思っているだろう。恐れをいだかなければ魔も生じようがないらしいが、少女が俺をすっかり信じて、魔なぞ恐れなくならないと生じることもあり得る。お師匠の言うとおり魔物は人の心に巣くっているのだ。
 だが、俺は魔物を恐れるよりも腹が一杯になったのでどうにも眠くて困った。もう三月以上仕事をしていない。山を駆け回ることもなかった。たるんでいるなと思うが、自然に眼を閉じてしまう。あたりに全く何の気も感じられないのでなおさらだった。
 ほんのしばらくの間だったように思う。俺は寝ていた。大木に寄りかかってよく寝ていた。
 眼が覚めた時、いつの間にか少女が俺の脇に来ていて俺を揺すって起こそうとしていた。
 少女の目が、森の奥の一点に釘づけになっている。
 そこにぼんやりと赤い円いものが二つ並んでいるように見えた。眼のようにも見えた。
 匂いはない、気も感じない。心なしかゆらゆらしているようにも見えた。
 少女は眼を離さずに見つめている。それがなんなのか確かめようとしているようだった。そのうちに、赤い二つの眼がはっきり眼になった。揺らめかなくなった。そうだ、少女にこれ以上確かめさせてはならない。
 そう思って、俺は急いで少女の目を俺の手で覆った。
 しかし遅かった。少女がどんな魔物を恐れていたのかは分からないが、すでに魔物は出現してしまったようだ。俺ははじめて幻魔を見ることになった。俺にも見えるようになったのだ。そいつは凄まじい匂いと気を発し始めた。俺たちを食う気でいるのが俺にはよく分かった。
 何故俺にも見えるのか。お師匠が言った言葉を思い出した。「一度出現した幻魔は人なら誰にも見え、人なら誰をも襲う。忘れるでない、お前は人でもあるのだ。人に交わり暮らすのなら、わしはお前に修行せよと言う」と。
 俺はお師匠の命じた修行を続けなかった。賀の師匠に拾われ賀の師匠の技を学んでいた。
 そうだ、俺は今は大猿でも大虎でもなく、まさしく人なのだ。
 老人も目を覚ました。老人も、強大な魔物が凄まじい臭気を吐き出しながら咆哮しつつ近づいて来るのを見た。
 俺は、少女を老人の脇に引いていった。
 「老人。娘をしっかり抱いてやっていてくれ。怖れることはないと言ってやってくれ。何、あの化け物は、俺が何とかする。そこを絶対に動くなよ。」
 俺はもう一度俺の中の四つの親と師匠に呼びかけた。
 「大猿の母よ、大虎の母よ。お師匠よ。師匠よ。」
 俺は怒りで体中が燃えた。こんなか弱い少女を恐怖させるようなものを創り出した人という愚かな生きものに腹が立ってきたのだ。見ろ、あんなに怯えている。おのれ、幻魔め、叩き斬ってやる。俺は全身に力が漲った。
 思わず俺は吼えてしまった。俺の中にいる虎が久しぶりに思い切り吼えた。全身の毛が逆立った。勿論俺には、本物の牙は無い。だが、俺が吠える時、俺は牙を持つのだ。
 老人と少女はさぞかし度肝を抜かれたことだろう。人が獣のように吼えたのだから。
 

死闘


 老人と少女を後に背負ってしまうと、眼が届かなくなるので、魔物を自分の方に引き寄せるために、思い切り吼えながら、左へ左へ移動した。幸い峠の頂は広かった。二人から充分に距離をとってしかも二人を脇目における位置を慎重に探した。
 狙い通りに魔物は、俺の方に向かってきた。
 俺は少しも怖いと感じなかった。俺が怖いのは、素早い動きで、実際に俺を切り裂く鋭い爪や牙を持った獣たちだった。人間は、虎や熊に較べれば少しも怖くなかった。獣たちに較べれば、力は弱いし、動きが遅かったからだ。
 老人や少女には、近づいてくる幻魔は肝をつぶすほどに恐ろしいものらしかったが、俺から見れば、ごてごて飾り立てた獅子舞のようで、見た目は滑稽なくらいだった。
 だが、次第にその魔物が厳しい気を発し始めたのには驚いた。どうしてそうなるのか訳が分からなかった。
 俺は気を引き締めた。森を揺るがす虎の唸り声を発しながら、俺は間合いをはかった。師匠の刀を右手に、俺の刀を左手に持って、魔物の一撃を窺った。実に閉口するほどの臭気だった。化け物め、臭いぞと思ったその時、幻魔の一撃が来た。その一撃は、思ったほどの速さではなかった。ほんの少しの動きでかわせた。俺は二人を視界からはずさぬようにして前後に動いた。
 やはり、幻魔の動きは人に近かった。だが、一つだけ人と違うことがあった。幻魔は俺を恐れていなかった。獣は、決して相手を舐めてかかることはなかった。慎重に相手の力を試しながら襲ってきた。だが、この幻魔はそういう気配さえなかった。立て続けに爪を立ててきた。しかも、その攻撃がどんどん鋭くなってきたのだ。爪と俺の刀の打ち合う音が暗い森の中に響いた。俺は、焚き火の灯かりがなくても相手を見ることが出来た。獣の生活をしていたのだから当然だ。
 幻魔の攻撃が虎の攻撃に似ているのに気づいた。前足を伸ばして爪を立ててきて、こっちの動きがちょっと遅れると、鋭い牙が襲ってきたものだ。実際、初め見た時には、ずんぐりしているように思ったのだが、だんだんしなやかな体つきになってきたような気がする。
 獣であれば、数合爪を合わせるだけで相手の力が分かり、一撃を食らわすことが出来た。大抵は、俺の力を察した相手が戦いを止めたがり、俺はそれを認めて戦いを終わらせた。だが、こいつは違う。本当に信じられないことだが、どんどん強くなっていくのだ。俺は、なかなか幻魔の力を読むことが出来なかった。
 もはや、幻魔の攻撃は今まで戦ったどんな獣よりも鋭くなっていた。あらゆる角度から、しなやかな前足の攻撃が襲ってきた。俺も師匠の刀で何度か打ち込んだが、幻魔が素早くかわした。
 俺は眼を疑った。幻魔の体が一段と大きくなったのだ。確かに大きくなったのだ。火を噴かんばかりの真っ赤な口を大きく開けて長い牙が何度か俺の腕をかすめはじめた。
 俺は少しずつ後退し始めた。その時、俺は少女を見た。少女が、釘付けになったように幻魔を見つめ続けていたのだ。恐怖に怯えた眼だった。
 俺が攻めあぐねているのでなおさらに恐怖したようだった。
 いよいよ幻魔が嵩にかかったように爪を立て、牙を剥いて激しく攻め立ててきた。とうとう俺の眼の前を、幻魔の爪がかすめ始めた。こんなことは初めてだった。俺の攻撃は簡単にかわされた。まるで、俺の手の内を知り尽くしているような戦い方だった。
 相手の手強さを感じた。だが、俺はやっと分かってきた。少女の眼を見て分かったのだ。
 この化け物が、どんどん強くなって、しかも、体さえ大きくなった訳が分かったのだ。俺の気持と少女や老人の恐怖心こそが、この幻魔の変幻の源なのだと気づいたのだ。
 俺は、いわば、俺と戦っていたのだ。俺の攻撃は俺が分かっているのだから、簡単にかわせる。これでは勝負がつかない。おまけに、少女の恐怖心が化け物の力を強めてしまっている。
 幻魔は人から生じる。俺は、蛾蛾山のお師匠の言葉を呟いた。
 突然、幻魔の気配以外何もなくなってしまった。幻魔の気だけが前方にあった。峠の森の闇も、老人も少女も消えてしまった。
 気配が実にゆっくりと迫ってきた。迫ってきたのだ。俺は俺の刀をその気配に突き立て、間髪をいれずに、師匠の刀を気のど真ん中に突き立てた。気が真っ赤に燃え広がった。燃え広がったのだ。確かに俺はそれを知った。そして、気はどんどん弱まっていくのも知った。知ったのだ。
 俺は眼を見開いた。
 俺の前には何もいなかった。淡い焚き火の灯かりの中で、まだ恐怖に震える少女を老人がしっかりと抱いていた。
 幻魔の気配はどこにもなかった。気は完全に消えていた。
 その時、確かに俺は何かを悟った。

   

家族


 俺は今の今まで、人がその愛しい家族の死を迎えると、どうしてあの不可思議な儀式をするのか分からないでいた。

あれほど自分を慈しんでくれ、自分の命よりもずっと大切にしてきた母親を亡くしたとたんに、人は皆、その愛しい母の亡骸ナキガラを土中深くに埋めこんで、その上に巨大な重い石柱を置く。

その訳を、石工に尋ねると驚くような説明を始めた。

石工によれば、人は死ぬと皆、霊タマとなり、ある霊は幽冥とこの世との狭間を漂うというのだ。

霊は己の境涯を憎み、その怖ろしい孤独な境涯のゆえに、しきりに道連れを求めるのだという。

葬送の儀式では、野辺の送りの往路と、埋葬と葬送の儀式を済ませた家路への復路を、違う道にするのも、亡骸を土中深く埋めるのも、巨大な石柱をその上に据えるのも、今ははや人の母ではなく、幽冥に向かわんとする霊となった恐ろしいものが、人を道連れにせんと迎えに来るのを防ぐためだというのだ。

なんということだ。

いかに死の苦しみに遭ったとはいえ、どうして慈愛に充ちた母が、我が子や兄弟ハラカラを苦しみの死の世界に引きずり込もうとなぞするものか。

お師匠は、その死に臨んで実に穏やかであった。

俺は、初めて死というものを間近に見た。

お師匠は俺にこういい残した。

「小猿よ。別れの時が来た。わしが息をしなくなり、お前と話しをしなくなっても驚くことはない。生まれたものはすべていつかはそうなるのだ。わしは、ここでこのまま朽ち果てる。あるいは、他の生き物がわしを食う。それで善い。これからもこの岩屋に来ても良いが、決してしてはならぬことがある。わしを食うものを止めたり憎んだりしてはならぬ。よいな。わしはいままでそうであったように、これからもそうある。お前と共にあると思うが良い。小猿よ、生きよ。猿でも良い、虎でも良い。人でも良い。生きるように生きよ。」

それきりお師匠は俺に話しをしなくなった。

岩屋の中ほどに足を組んで瞑想をしたまま、いつか息をしなくなっていた。

もともと、風の中に溶け込みそうだったお師匠だったので、それが死という大変なことだとはその時は全く感じなかった。

ほとんど気を感じさせないお方だったので、お師匠は死んだという気がしなかったのだ。

いまでも、お師匠は亡骸のまま蛾蛾山の岩屋で瞑想を続けている。

俺は、お師匠が亡くなってからも、蛾蛾山の麓の森を離れるときまで、いつも岩屋に行ってお師匠に会っていた。

いつもお師匠は優しかった。

鳥も獣も、決してお師匠の亡骸を齧ったり、啄ばんだりしなかった。

岩屋の中ほどは、風が通り抜け、いつも乾いていたので、もともと干からびたようなお師匠は、いつ行っても、そのままの姿で足を組んで瞑想していた。

全く息をしないという違いしかなかった。

だから、石工の話しは俺にはどうにも納得し難かった。

だが、森を離れ、人の間で暮らすようになってから、人というものが獣よりもずっと愚かであることが少しずつ分かってきた。

慈愛の母がいったん幽明異にすると、とたんに目の前の母が母でなくなると思い込む、人のなんという愚かしさよ。

そして今日俺は、死んだ母が霊となるのではなく、子が己の死という苦しみを恐れるあまり、人がそう思うだけなのだということが良く分かった。

恐らく、おれ一人がこの峠で野宿をしたら、あの幻魔は出現しなかったろう。

仮に俺が知らない因縁で幻魔が出現したとしても、老人と少女が居なかったら、俺は幻魔を追い払う必要がないので、幻魔は大きくも強くもなれないだろう。

恐らく幻魔は俺を襲わないだろう。

俺と幻魔との間には何の因縁も無いのだし、俺は幻魔を少しも怖れないのだから。

俺は少女が憐れに思えた。

人の世に育ち、人の思いを我が思いとして身につけたがために、人の幸せと苦しみを背負い、様々な恐れを心の深奥に畳み込んでしまったからだ。

いまや、かすかな灯火となっている老人に抱かれて、心細げにふるえる少女を見ていると、いつの間にか不思議な想いが湧いてきた。

かつて大猿の母が、人の子である俺を拾い、その乳で育て慈しんでくれたその想いが初めて良く分かったような気がした。

大猿の母が、俺を我が子として兄弟の仲間に入れてくれたように、俺はこの少女を俺の妹として大切にしなければならないのかなと思い始めたのだ。

俺の身近な者たちはみんなとてつもなく強かった。

干からびたような、風と変らないようなお師匠の強さとは、いかなる事態が起きようとも、全く動転することのない強さだ。

もともと死んでいるのか生きているのか分からないようなお師匠だから、それは当たり前だといえば当たり前だが、その死に際しても、本当に普段と全く変ることなく、俺に別れを述べ、静に本当に静に息を引き取ったのだ。

俺はその時、お師匠の胡弓の調べが森に木霊したような気がした。

お師匠の胡弓は、今でも岩屋にあるだろう。

闇夜の森で胡弓を奏でる


 老人の細腕に抱かれてまだ震えている少女に俺は声を掛けた。

「おい、大丈夫か。どうだ、化け物をやっつけたろう。ちゃんと俺はあの化け物の正体を確かめたから、もう二度とお前の前に出てこない。安心しろ。」

老人も頷きながらもう一度しっかりと孫娘を抱いてやった。

それでも、少女の眼は戦き続けていた。

多分まだ、少女の眼には、断末魔の叫び声を挙げて暴れもがく幻魔が、真っ赤な炎の塊となって燃えている姿が見えているのだろう。

恐怖の消えない瞳で見詰められて俺は急にギクッとした。

まだ少女を戦かせているのがこの俺なのかも知れないと思ったのだ。

少女の目の前で、俺は確かに幻魔以上の怖ろしい形相になって、髪を逆立て、歯を剥き、虎のように吠えくるっただろう。

俺はずっと今日まで、道端で胡弓を弾く二人を見てきた。

二人は当たり前の人間だ。

ところが俺はどうだ。

 普段でも、俺は人間離れした大猿なのだ。

さっきまでの戦いを見てしまっては、どっちが魔物でどっちが人間なのか正直分からなくなったかもしらん。

こんな詰まらん考えが浮かんだのも初めてだ。

少女は俺を、昨日の俺と同じ人間だと信じられるだろうか。

夜具の敷物を敷いてやったり、さっきまで一緒に飯を食っていた俺だと信じられるだろうか。

二つの想いがその大きな瞳に交互に繰り返し現われては消え、現われては消えしているようだ。

その時俺が感じた気持が焦燥というものなのだろう。

 俺は必死に考えていたようだ。

少女を恐怖から引っ張り出さなくては。

俺は焦った。

確かに俺は慌てていた。

俺は目が泳いだ。

胡弓が眼に入った。

俺は胡弓を取った。

賀の師匠の愛した曲を弾きはじめた。

酒が好きな師匠だった。

盗人なのに、友達が大勢居た。

よく一緒に盃を交わしていた。

女も好きだった。

花を愛で、森を愛で、季節を愛で、友と酒を愛で、女を愛でた。

俺は行者のお師匠や大猿、大虎の家族のような暮らしに慣れていたので、賀の師匠と酒を楽しむことは出来なかったが酒席にはいつも混じった。

そういう師匠が好きだったからだ。

師匠は友の歌に合わせて胡弓を弾き、曲を楽しんだ。

賀の師匠の曲を弾き始めると、いつも俺は昔に戻る。

曲の中で、俺は賀の師匠といつも一緒になった。

俺は師匠から剣を習い、師匠の質素な酒席に相伴し、二人で正真正銘の悪党の屋敷で暴れた。

そろそろ師匠たちが消え始めた。

曲が終わるのだ。

賀の師匠の曲は、すっと終わる。

師匠も俺もそれが好きだった。

静かな森の闇に、残り火の小さな炎がちらちら光る。

老人がうんうんと頷いている。

老人の腕の中で、少女がじっと俺を見詰めている。

もう震えていない。

やっと信じてくれたようだ。

「若いの。良い曲だ。良い師匠についたようだな。師匠はお二人なのかな。なあ、そうだろう。」

老人は孫娘もきっとそう思っているというように言った。

 もう一度俺は少女の眼を見た。

 少女がそっと頷いた。

俺は行者のお師匠の曲も弾いてみることにした。

お師匠と別れてから、人の居るところでお師匠の曲を弾くのは初めてだ。

賀の師匠の曲と全く違うからだ。

老人の曲に良く似ているのだ。

だから、老人と少女が、行者のお師匠のことを聞き分けたのかもしらん。

聞いてもらえばいい、そう思って弾き始めた。

お師匠の曲では、胡弓は決して咽び泣かない。

酒席もない。

花や季節や酒を愛でる仲間も現われない。

お師匠が胡弓を弾き始めると、森の獣たちが静かになって、一心に調べを聴いているようだった。

森の木々たちでさえお師匠の調べを聴いていたと思う。

ときどき、木々は風と一緒に胡弓に合わせて歌っていたのだ。

俺は確かに聴いた。

胡弓を俺に持たせてお師匠が言っている。

「浮屠の教えを説いたわしの先師は、胡弓なぞ弾かなんだ。ひたすらに、教えを求める者、教えを説くべき者に説き続けた。だがわしは先師から教えを聞くことがなかった。教えの筏を師から授かり、わしはひたすら先師に近づかんとした。為すべきことを為し終えたとわしは知った。わしも教えの筏を伝えんとしたが、今や、求める者はない。説くべき者も見当たらん。わしは蛾蛾山に上がった。わしの筏は胡弓となった。小猿よ、わしの胡弓をお前に授けよう。」

お師匠が俺と一緒に弾いている。

森の獣たちが聴いている。

森の木々も聴いている。

胡弓の調べは風を振るわせ、遠くに流れ、高く昇る。

胡弓を弾く時だけ俺は蛾蛾山の岩棚から空に舞い上がれた。

雲の上まで昇って行けた。

蛾蛾山の岩峰が、麓の森が、はるか下の方にある。

とうとう蛾蛾山も、森も雲も、空の青さも、みんな見えなくなった。

ただ、確かに明るい穏やかな光だけがある。

俺は幸せな光に包まれていると感じている。

ただもう穏やかなのだ。

俺は多分もう弾き終わっている。

光が消え、闇が俺を包んだ。

「懐かしい曲だ。」

老人が呟いた。

「どういう意味だ。」

俺は尋ねた。

人は、一つのことだけに執らわれ振り回されていると、もっと大事なことを見過ごしてしまう。

後で、それに気づき後悔する。

それが人だ。

獣はただ一つしか考えていない。

今を生き延びることだ。

自分と、子を持てば、子を。

人間は、実に欲深い。

だから、考えなければならないことがいつも湧いて出る。

俺もだんだん人間の悪い癖に馴染みだしたようだ。

幻魔出現の時も、眼が泳ぎだした時も、あれは以前の俺でなかった。

 森で兄弟たちと暮らしていた時も、勿論、兄弟たちのために何度も命を懸けた。

 だが、森の生きもものたちは皆、目の前の危険だけを何とか逃げ延びようとするだけだった。

 何が何でも守り抜こうとしても森では守り通せるものではなかったからだ。

 だが、今俺はそうしようとしているような気がする。

返事を求めて老人を見た。

少女が老人の腕の中で眠っていた。

俺も岩屋の中や岩棚で、お師匠の胡弓を聞きながらいつも寝てしまった。

初夏の日差しと風と胡弓の安らかな音色に包まれるとすぐ寝てしまった。

「老人、娘を床に寝かせよう。」

俺はそっと抱き上げて、老人の隣に寝かせた。

老人は静に身を起こして敷物を少女に掛けてやった。

「お前さんに出会ったのはどうやら偶然のことではなさそうだな。」

俺たちは少女の傍を少し離れた。

俺は枯葉をかき寄せて仰向けに寝た。

老人は木に背をもたせて坐ると暫く考え込んでいるようだった。

「わしはこの国の生まれではない。今はこの国の属州となっている、交易の盛んな国が母国だった。」

仰向けに寝たまま俺は老人の長い話を黙って聞いた。


わしの生国はかつて兪ユと呼ばれた一つの国じゃった。今はこの国の属州とされ、兪州と呼ばれているあたりじゃ。兪の中心は港町でのぉ。そこは今でも一年中明るく、澄明な水と瀟洒な家並が美しいじゃろう。

わしがまだ少年だった頃、一生に一度の出会いがありましたのじゃ。

それは夏の日差しが厳しい昼下がりじゃった。わしはそれまでに聴いたことのない不思議な調べを聴ましたのじゃ。

兪は今でも大きな港町じゃが、兪の町中には広場が幾つもありましての。どの広場にも大きな木が枝を広げておったものでした。町の人たちはその木を大切にしておりました。

不思議な音色を聞いたのは、わしが東の広場にさしかかった時でした。

広場の大きな木の根方で結跏趺坐して楽器を奏でるおかしな風体の行者らしい男が居りました。

わしは、その音色に誘われ海風にゆっくり揺すれる大きな枝の下に入ったのじゃ。わしはその行者様の真ん前に坐り曲に聴き入っておりました。

通りがかりの人々はたまに立ち止まりましたが、暫くするとすぐに行ってしまいましたな。

わしだけがずっと聴いていおりましたのじゃ。

行者様の身なりは粗末でしたな。一枚の布を身体に巻きつける天竺の服装をしていいまして、驚くほど痩せていましたのじゃ。

わしは不思議じゃった。

広場を通り過ぎる町の人たちは、まるでその音色が気に入らないような風でしたのじゃ。

 わしにはその音色が言い様もなく優しく懐かしく美しく感じたのじゃ。

眼を瞑って聴いていると、だんだん体が宙に浮くような気さえしたのでした。
 それなのに、人々は振り向きもせず通り過ぎておったのじゃ。

行者様は暫くすると演奏を止ヤめて瞑想に入ってしまいましたのじゃ。

日が沈むまでわしは待っておりました。

もっとその音色が聞きたかったのでな。

行者様は瞑想からなかなか出てきませんでな。

そのうち、すっかり日が落ちて広場は家々の明かりだけの薄闇につつまれましたのじゃ。

この行者様、お食事はどうなさるんだろう。

わしは心配になってすぐ家に戻り、父母に行者様の風体や音楽の話しをしてから、行者様を晩餐に招待してくれるよう頼にましたのじゃ。

父が優しくわしに言いました。

「そのお方は恐らく浮屠の行者様であろう。浮屠の行者様が楽器を弾くとは聞いたことがないが、行者様は、日に一度昼前に食事を摂るだけだと聞いておるよ。だが、お泊りになる場所がないようなら、我が家にお泊り頂きなさい。」

父母は、道士の教えを信仰しておりましたが、父は他のどの行者に対しても供養を惜しみませんでした。敷地の中に行者用の別棟も用意していたくらいでした。

「明日のお食事をお受けくださるようお願いしてきなさい。」

父の言葉を背にしてわしは脱兎のように家を飛び出しました。

まだ、広場の木の下に居られるだろうか。

いっさんに走った。

家々の明かりだけのほの暗い木の下を行者様がゆっくりと歩いておりました。大きく張り出した枝の端を辿ってゆっくり歩いていおりましたのじゃ。のちになって、その歩みが経行キンヒンだと知りましたがの。

「行者様にお願い申し上げます。今夜わたくしの家にお泊り下さい。明日は、行者様にお食事を御供養させて下さい。そう父が申し上げよと言い付かってまいりました。」

「若者よ。お受けしよう。」

「はい。有り難うございます。すぐにご案内してよろしいでしょうか。」

行者様は黙って頷きました。

父は瞑想の間を淨めて行者様の到着を待っておりました。

「これは行者様、お越しいただき心より感謝申し上げます。どうぞお心のままにお休みくださいますよう。」

母がいつもの蜂蜜を入れた軽い飲み物を勧めました。行者様は会釈して、甘い湯を飲んみました。飲み終わり、もう一度父母に会釈しました。

「行者様、粗末なところではございますが、今夜はどうかごゆっくり休まれますように。淳廉ジュンレンや、行者様をご案内申し上げなさい。」

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