表題は、前回クリック博士が紹介していた神経生理学者(クリック博士は神経生物学者と紹介した)のジョン・C・エックルス博士著「脳の進化(原題:Evolution of the Brain, Creation of the Self)」(東京大学出版会刊 1990年)の最後にある「付記:追考と想像」の一節です。
原著者、翻訳者、出版社の皆様にはまことに申し訳ありませんが、とても興味深い内容ですので、序文と第10章の一部と付記:追考と想像から大幅な引用をさせていただきます。どうかご容赦ください。たぶん、数回に分けてアップロードすることになるでしょう。
*引用開始*
序文
脳が生物進化のもっとも重要な過程を経て発達し、ヒト上科の先祖から九ないし一O万年かかってこの超越的な創造性を持つヒトの脳へと進化したヒト科の進化について書かれた本があまりにも少ないのは淋しい限りである。ホモ・サピエンス・サピエンスへのヒト科の進化の物語はもっとも驚異的なものである。これはわれわれの物語であり、振り返って考えてみれば、われわれが人類として存在できる機会はヒト科の進化の成功によってのみ得られたものである。ではなぜ本書で試みられたような、ヒトの脳のありようの本質について語られることが少ないのであろうか。脳の進化の物語は事実に乏しく、根拠のない推論ばかりと思われるのかもしれないが、多くが未知であるか不完全にしか判っていないことを認めながらも、合理的な批判精神を失わず創造的な想像力前を用いて、私は脳のヒト科進化の素晴らしい物語を展開することができた。
ダーウィン主義を、というより合理主義を無視することがある種の人々の間で流行になっているようなときに、本書は系統的漸進が区切り平衡による、たぶん染色体の再配置による修飾を時間間隔をおいておこすと考える以外は、生物進化についてのダーウィン仮説と一致している。本書の課題がダーウィン主義の唯物論的概念から逸脱するのは、もっとも異論の多い進化のできごとを考察しいている最後の三章だけである。すなわち、まず高等動物において意識の創発があり、ついでヒト科が自己意識を体験したとき、はるかに目覚ましい超越がおこったと考えるところである。
ヒト科の進化のまさに発端に神秘がある。アルブミン年代測定法により明らかになったことだが、ヒト上科の系列は九ないし一〇万年前にヒト科とショウジョウ科の進化系統に別れた(2・1節、表2・1)。残念ながらヒト科進化のもっとも重要なこの五〇〇万年にわたる期間の化石が欠如している(2・1、2・2節)。おそらくその頃ヒト科の数は極端に少なかったことであろう。この五〇〇万年の間に3・3節に述べるような二足歩行への進化的転換がおこった。樹上生活のヒト上科と地上生活のアウストラロピテクスの間には一連の段階があったと考えることができる。四〇〇万年前の幕開け(2・2節)から二足歩行のためほぼ完全に変形した骨筋系の化石が見つかっている(図3・8、3・9と3・10)。驚いたことに脳の大きさはごくわずかしか増えていない(図2・4と2・6)。それでも四足歩行から二足歩行への転換に際しては脳の神経機構の転換により化石のなかでもっとも驚異的なラエトリの足跡(図3・10)に示されるような完全に進化した二足歩行を可能にしたのである。
最近の数十年の間に、四〇〇万年以降のヒト科の化石が豊富に見出されたことは第2、3章に簡単に述べた。脳の転化さえ内部鋳型に見ることができる(図2・7と2・9)。ヒト科の進化によりもたらされた変化を明らかにしようとするには、現代のショウジョウの脳をヒト科進化のモデルとして用いる必要がある。ヒト科進化における脳の変化を描き出そうとする試みはハインツ・ステファンとその協力者の精緻な研究により助けられることが多かった。彼らは核のような解剖学的にはっきりした能構造の大きさを、人を含む多種の霊長類で測定した。計算された脳の大きさ指数は本書中でも多数の表に使われている。
人の認識・運動系の精緻さに到る進化の過程は、高等霊長類からのみ始まりうることを認めなければならない。人の進化は高等霊長類、とくにヒト上科により達成された進化のうえに打ち立てられたものである。そのよい例は両眼視のため完全に適応した目を持つ優れた視覚系(第6章)である。視覚路は一次視覚野に、ついで線条前皮質に投射するが、その様子にはホモ・サピエンスへの進化の間見るべき変化がないのである。大脳皮質を再考することは重要であるが、上位の霊長類では人間の大脳皮質に近くなる(第8、9章)。おなじく重要なのは辺縁系(第5章)と学習系(第7章)で、一般的な構図はヒトによく似ている。
大脳の皮質では新しい領域が進化して人脳のもっとも重要な部分、とくに言語野が生まれたが(第4章)、これはショウジョウの脳では痕跡的にしかなく、他の霊長類には存在しない。第9章で議論するようにこれらの脳の新領域は機能的に非対称である。進化的にもっとも新しいだけでなく、個体発生的にもいちばん新しい。第9、10章では人脳のこの際立った部位、認識機能を持つ新・皮質に特別の注意を払った。
霊長類の進化では保守的な知恵とでもいうべきものが働いた。これは、基本的な継承形質を一見魅力的な短気の利益と取り替えない、たとえば、走るにはよい動物の手首、足首、あるいは飛ぶための翼と五本の自由に動く指を取り替えたりしないという進化についての金言がよく表現している。かくしてヒト科の進化は指を持つ初期の脊椎動物の四肢を温存しながら始まり、それを無限の価値ある手と足に転換することができたのである(3・3―3・5節)。とくに手はヒト科の進化を抜群のものとし、その結果これが神経機構とともに改良されつづけたのである(3・5節 )。
われわれの進化系列はわれわれと同じあるいはこれをこえる知性と想像力を持った存在に導くことのできる唯一のものだろうかということがしばしば問われる。たとえば、ある超知性をもつ尾なしザルがヒト科と合致するかこれをこえるような別の進化を始めることがありうるだろうか。答えは否である。ヒト科の進化は主な遺伝群から別れた非常に小さな遊離群による量子的な進歩に依存する。さらに、何十万年という途方もなく長い遊離期間が新しい種の誕生には必要である。そのような条件は現在の地球上ではけっして再現されることはありえない。事実、過去でさえヒト科の進化はただ一回おこっただけであり、その後 何百万年ものあいだつねに絶滅の危険を孕んだ小さな集団に依存していた。
したがって、本書で私が物語る地球上のヒト科の進化はユニークで、けっして繰り返されることのないものである。ホモ・サピエンス・サピエンスには競争相手が突然でてくるという恐れはないということになる。
本書では意識と自己意識をもつにいたる人脳の進化にもっぱら焦点をあてているいるが、これまで心のなかった世界に、意識と自己意識が神秘に満ちた創発をしたことについての物理的な説明はありえないことがわかるであろう。この問題については第8、9、10章で哲学的に考察するが、とくに第10章においてわれわれ各人が体験する自己意識の成り立ちについては宗教的な概念を導入する。われわれの心の世界の中核をなすいわゆる、ポパーの世界2(図9・5と10・4)には、神により創造された魂があると提起されている。この課題には付録の後段でさらに発展させて述べることとする。
*序文の引用終了*