avarokitei84のblog

*はじめに。 このブログは、ヤフー・ブログから移行したものです。当初は、釈尊(お釈迦様・ゴータマブッダ)と宮沢賢治を探究してましたが、ある時点で、両者と距離をおくことにしました。距離を置くとはどういうことかと言いますと、探究の対象を信仰しないということです。西暦2020年となった今でも、生存についても宇宙についても確かな答えは見つかっていません。解脱・涅槃も本当の幸せも、完全な答えではありません。沢山の天才が示してくれた色々な生き方の中の一つだと思います。例えば、日本は絶対戦争しないで平和を維持出来るとおもいますか?実態は、戦争する可能性のもとに核兵器で事実上の武装をしています。釈尊の教えを達成したり絶対帰依していれば、戦争が始まっても傍観しているだけです。実際、中世インドでイスラム軍団が侵攻してきたとき、仏教徒の多くは武力での応戦はしなかったそうです(イスラム側の記録)。それも一つの生き方です。私は、武装した平和主義ですから、同じ民族が殺戮や圧政(現にアジアの大国がやっている)に踏みにじられるのは見過ごせない。また、こうしてこういうブログを書いているのは、信仰を持っていない証拠です。

科学と哲学・宗教の違い....読書記録

表題は、前回クリック博士が紹介していた神経生理学者(クリック博士は神経生物学者と紹介した)のジョン・C・エックルス博士著「脳の進化(原題:Evolution of the Brain, Creation of the Self)」(東京大学出版会刊 1990年)の最後にある「付記:追考と想像」の一節です。


原著者、翻訳者、出版社の皆様にはまことに申し訳ありませんが、とても興味深い内容ですので、序文と第10章の一部と付記:追考と想像から大幅な引用をさせていただきます。どうかご容赦ください。たぶん、数回に分けてアップロードすることになるでしょう。


            *引用開始*


序文


脳が生物進化のもっとも重要な過程を経て発達し、ヒト上科の先祖から九ないし一O万年かかってこの超越的な創造性を持つヒトの脳へと進化したヒト科の進化について書かれた本があまりにも少ないのは淋しい限りである。ホモ・サピエンス・サピエンスへのヒト科の進化の物語はもっとも驚異的なものである。これはわれわれの物語であり、振り返って考えてみれば、われわれが人類として存在できる機会はヒト科の進化の成功によってのみ得られたものである。ではなぜ本書で試みられたような、ヒトの脳のありようの本質について語られることが少ないのであろうか。脳の進化の物語は事実に乏しく、根拠のない推論ばかりと思われるのかもしれないが、多くが未知であるか不完全にしか判っていないことを認めながらも、合理的な批判精神を失わず創造的な想像力前を用いて、私は脳のヒト科進化の素晴らしい物語を展開することができた。
ダーウィン主義を、というより合理主義を無視することがある種の人々の間で流行になっているようなときに、本書は系統的漸進が区切り平衡による、たぶん染色体の再配置による修飾を時間間隔をおいておこすと考える以外は、生物進化についてのダーウィン仮説と一致している。本書の課題がダーウィン主義の唯物論的概念から逸脱するのは、もっとも異論の多い進化のできごとを考察しいている最後の三章だけである。すなわち、まず高等動物において意識の創発があり、ついでヒト科が自己意識を体験したとき、はるかに目覚ましい超越がおこったと考えるところである。
ヒト科の進化のまさに発端に神秘がある。アルブミン年代測定法により明らかになったことだが、ヒト上科の系列は九ないし一〇万年前にヒト科とショウジョウ科の進化系統に別れた(2・1節、表2・1)。残念ながらヒト科進化のもっとも重要なこの五〇〇万年にわたる期間の化石が欠如している(2・1、2・2節)。おそらくその頃ヒト科の数は極端に少なかったことであろう。この五〇〇万年の間に3・3節に述べるような二足歩行への進化的転換がおこった。樹上生活のヒト上科と地上生活のアウストラロピテクスの間には一連の段階があったと考えることができる。四〇〇万年前の幕開け(2・2節)から二足歩行のためほぼ完全に変形した骨筋系の化石が見つかっている(図3・8、3・9と3・10)。驚いたことに脳の大きさはごくわずかしか増えていない(図2・4と2・6)。それでも四足歩行から二足歩行への転換に際しては脳の神経機構の転換により化石のなかでもっとも驚異的なラエトリの足跡(図3・10)に示されるような完全に進化した二足歩行を可能にしたのである。
最近の数十年の間に、四〇〇万年以降のヒト科の化石が豊富に見出されたことは第2、3章に簡単に述べた。脳の転化さえ内部鋳型に見ることができる(図2・7と2・9)。ヒト科の進化によりもたらされた変化を明らかにしようとするには、現代のショウジョウの脳をヒト科進化のモデルとして用いる必要がある。ヒト科進化における脳の変化を描き出そうとする試みはハインツ・ステファンとその協力者の精緻な研究により助けられることが多かった。彼らは核のような解剖学的にはっきりした能構造の大きさを、人を含む多種の霊長類で測定した。計算された脳の大きさ指数は本書中でも多数の表に使われている。
人の認識・運動系の精緻さに到る進化の過程は、高等霊長類からのみ始まりうることを認めなければならない。人の進化は高等霊長類、とくにヒト上科により達成された進化のうえに打ち立てられたものである。そのよい例は両眼視のため完全に適応した目を持つ優れた視覚系(第6章)である。視覚路は一次視覚野に、ついで線条前皮質に投射するが、その様子にはホモ・サピエンスへの進化の間見るべき変化がないのである。大脳皮質を再考することは重要であるが、上位の霊長類では人間の大脳皮質に近くなる(第8、9章)。おなじく重要なのは辺縁系(第5章)と学習系(第7章)で、一般的な構図はヒトによく似ている。
大脳の皮質では新しい領域が進化して人脳のもっとも重要な部分、とくに言語野が生まれたが(第4章)、これはショウジョウの脳では痕跡的にしかなく、他の霊長類には存在しない。第9章で議論するようにこれらの脳の新領域は機能的に非対称である。進化的にもっとも新しいだけでなく、個体発生的にもいちばん新しい。第9、10章では人脳のこの際立った部位、認識機能を持つ新・皮質に特別の注意を払った。
霊長類の進化では保守的な知恵とでもいうべきものが働いた。これは、基本的な継承形質を一見魅力的な短気の利益と取り替えない、たとえば、走るにはよい動物の手首、足首、あるいは飛ぶための翼と五本の自由に動く指を取り替えたりしないという進化についての金言がよく表現している。かくしてヒト科の進化は指を持つ初期の脊椎動物の四肢を温存しながら始まり、それを無限の価値ある手と足に転換することができたのである(3・3―3・5節)。とくに手はヒト科の進化を抜群のものとし、その結果これが神経機構とともに改良されつづけたのである(3・5節 )。
われわれの進化系列はわれわれと同じあるいはこれをこえる知性と想像力を持った存在に導くことのできる唯一のものだろうかということがしばしば問われる。たとえば、ある超知性をもつ尾なしザルがヒト科と合致するかこれをこえるような別の進化を始めることがありうるだろうか。答えは否である。ヒト科の進化は主な遺伝群から別れた非常に小さな遊離群による量子的な進歩に依存する。さらに、何十万年という途方もなく長い遊離期間が新しい種の誕生には必要である。そのような条件は現在の地球上ではけっして再現されることはありえない。事実、過去でさえヒト科の進化はただ一回おこっただけであり、その後 何百万年ものあいだつねに絶滅の危険を孕んだ小さな集団に依存していた。
したがって、本書で私が物語る地球上のヒト科の進化はユニークで、けっして繰り返されることのないものである。ホモ・サピエンス・サピエンスには競争相手が突然でてくるという恐れはないということになる。
本書では意識と自己意識をもつにいたる人脳の進化にもっぱら焦点をあてているいるが、これまで心のなかった世界に、意識と自己意識が神秘に満ちた創発をしたことについての物理的な説明はありえないことがわかるであろう。この問題については第8、9、10章で哲学的に考察するが、とくに第10章においてわれわれ各人が体験する自己意識の成り立ちについては宗教的な概念を導入する。われわれの心の世界の中核をなすいわゆる、ポパーの世界2(図9・5と10・4)には、神により創造された魂があると提起されている。この課題には付録の後段でさらに発展させて述べることとする。



      *序文の引用終了*

表題は、ワトソンと共にDNAの構造を解明したフランシス・クリック著「驚くべき仮説 魂の科学的探究(原題:「The Astonishing Hypothesis   The scientific Search for the Soul」 邦訳題「DNAに魂はあるか?」講談社刊 1995年)の「第一章 人間に魂はあるか」の」冒頭の」引用です。

引用文の最後の生命に*印があって、次のようなクリックの註があります。
    *引用開始*
私の妻はこどものころ、初老のアイルランド人女性から教理問答書を教わった。その女性はbeingをbe-inと発音したので、妻にはbeanと聞こえた。魂とは、肉体をもたない生きた豆だと聞いて、妻はだいぶ悩んだらしい。
    *引用終了*


日本人の大半は、宗教的な環境にほとんど縁がないが、欧米人は、幼い脳にそれぞれの家庭のキリスト教理念を刷り込まれるわけですね、こんな風に。

では、上記の引用に続く第一章の冒頭から引用をさせていただきます。


      *引用開始  なお、〈  〉内は、小見出しです*

〈魂はある?〉 私の言う「驚くべき仮説」とは、あなた―つまりあなたの喜怒哀楽や記憶や希望、自己意識と自由意志などーが無数の神経細胞の集まりと、それに関連する分子の働き以上の何ものでもないという仮説である。(中略)この仮説は、ほとんどの人たちの考えとは相容れないものであるから、あえて私は「驚くべき(astonishing)」と名づけた。(中略) 
〈死後にも人生はあるのか〉 現代の神経生物学者は、人間や動物の行動を説明するのに魂は不要だと
考えている。(中略) それでも、なかには魂の存在を信じている神経生物学者もいる。ジョン・エックルス卿もその一人だが、しかしやはり彼らは少数派である。魂の存在を証明できるわけではないけれども、さりとて証明の必要は今のところ感じない、というのが彼らの立場だろう。(中略)はたして魂という言葉は隠喩なのか、それとも文字通りのものであるかどうか。それがまさしく、私たちがこの本で探っていこうとしている問題である。
教養のある人たちー特に西欧の教養人ーは魂を隠喩的にとらえており、生前もしくは死後にも人生があるとは思っていない。自分たちのことを無神論者、懐疑論者、ヒューマニスト、あるいは堕落した信者などと呼んでいるように、彼らは皆、伝統的宗教のおもだった主張には否定的である。だからといって、彼らが普段、全く新しい観点から自分を理解しているかというと、そうではない。古い習慣はなかなかのことでは捨てられない。いわゆる不信心者といえども、信仰者と全く同じような眼で自分自身をとらえていることが多い。
そこで、私の考え方は、もうすこし強い口調で述べておきたい。つまり、人間の心ー脳の働きーは
神経細胞(他の細胞も関係しているが)およびそれに関連する分子の相互作用で説明できる、というのがまさしく私の科学的な信念なのである。
この考えは多くの人たちにとっては驚くべき概念といえよう。自分自身が一組の神経細胞の働き以上のものではないということは、容易には信じられまいーたとえその相互作用がどんなに複雑多岐であるにしても。(中略)
〈抵抗を受ける還元主義〉 なぜ、この驚くべき仮説が人々を驚かせるのか。私は、三つの理由があると思う。まず第一に、人々が「還元主義」に抵抗を感じるからである。(中略)
〈赤さや痛みを説明できるか〉 驚くべき仮説がなぜ奇妙に思えるかの第二の理由は、人間の意識の本質にある。(中略)
さて私の仮説が奇妙に思える第三の理由は、人間の意志は自由でなければならないとする否定しがたい感情と関係がある。

    *引用終了*















                      *


ゲアリー・マーカス「心を生みだす遺伝子」(岩波現代文庫 2010年刊)第1章 冒頭冒頭部分の引用です。



     *引用開始*


DNAの構造を発見した一人であるフランシス・クリックは、最近、自著「驚くべき仮説(邦題は「DNAに魂はあるか」)の中で、心の活動の基盤は脳にあると述べている。曰く「自分自身を知るためには、神経細胞がどのように振舞い、それらがどのように関わり合っているかを理解しなければならない」。
心は脳の活動によりもたらされると考えたクリックは、確かに正しい。しかしながら、ソフトウェア・エンジニアの息子としてニ〇世紀後半に成長し、ニューロンの生物物理を学んだことのある者として、私はこれが驚くべきこととは思わない。私の世代の多くにとって、ヒトの思考が脳の産物であるということは明らかで(当たり前でさえ)ある。マサチューセッツ工科大学(MIT)の認知科学者スティーブン・ピンカー(現ハーバード大学)の弁によれば、「心とは脳が為すものである」 

現代社会は、脳が心に与える影響を示す科学的証拠に満ちあふれている。プロザックは脳を標的としてヒトの気分に影響を与える。卒中による脳損傷でヒトの行動が変わる。そしてさまざまな認知機能を働かせる際には脳の異なる部分が活動する。たとえば、音楽を聴くときは右脳が活動し、言語を聞くときは左脳が活動し、恐怖におびえたときは扁桃体が、オーガズムの際は右の前頭葉が活動するのである。
今やたいていの人は心の源は脳にあるという事実を受け入れているが、脳の元になっているのは遺伝子であるという第二の事実については、心地よく思わない人が多い。ちょうど五〇年前にクリックがその解明に関わった分子は、科学や医学や法律にさえも多大な影響を与えた 
しかし、心についての学説にはほとんど影響を与えていない。



     *引用終了*























           *

以下の引用は、ゲアリー・マーカス「心を生みだす遺伝子」(岩波現代文庫)第1章 「どちらが勝るわけでなし」の冒頭の引用です。


     *引用開始*


遺伝暗号は部品を寄せ集めて体を作るための青写真ではない。もっと何か、そう、ケーキを焼くためのレシピのようなものである。料理本のレシピに逐一従って、最後にオーブンから取り出されるのはケーキである。そうなると、もはや砕いてばらばらの塊にしても、ケーキを元の素材に分けることは不可能であり、この塊がレシピのこの語に対応し、これは別の語に対応するなどと言うこともできない。(リチャード・ドーキンス)




      *引用終了*


























          *

今回の引用は、今回の探索の対象、野矢茂樹教授の「心という難問  空間・身体・意味」(講談社 2016刋)の「Ⅲ 解答 11 脳神話との決別 11-5 物語を生きるのは脳ではない、人である」の冒頭部分。


      *引用開始*

では、あなたは脳状態が相貌を生み出すことを認めるのか?ーー脳信者はそう問い詰めるかもしれない。たしかに、さしあたり(この5文字上に 、をふってある)私の議論は、脳状態が身体に行動への構えをとらせ、それが相貌をもたらすというものになっていた。だが、それはけっして相貌の成立には脳だけで十分であることを意味してはいない。
こんな荒唐無稽な空想をしてみよう。カンブリア爆発とも呼ばれる古生代初期、さまざまな生物が地球上に誕生していた頃、沼地に雷が落ち、とんでもない偶然の産物で泥の塊が一個の脳(しかもまだ地球上に現われていないはずの人間の脳)へと変化し、身体をもたない脳だけが、剥き出しの状態で沼地に出現した
これはドナルド・デイヴィドソンが別の議論の脈絡で考案して有名になった「スワンプマン(swampman)」ーー泥人形ーーと同様の空想であるから、それにならって「スワンプ脳」と呼ぶことにしよう。スワンプ脳はどういう仕掛けか環境から養分を得て、短命ながらしばらく機能していたとする。しかもそれは脳状態Bを実現していた。つまり、私が大仏を見ているときの脳全体の状態がそこに実現されていたとする。では、この孤独なスワンプ脳は、大仏をーー大仏という意味のもとに、大仏の相貌をもってーー見るだろうか。脳信者はイエスと答えるだろう。しかし、考えていただきたい。三葉虫くらいしか生息していない地球に、人間の脳が体を持たずにただ一つポツンと発生するのである。さらに五億年以上経たなければ鎌倉の大仏も建造されはしない。その脳が物理的に状態Bになったからといって、いったい大仏の相貌をもった幻覚を見るだろうか。何か「見る」のかもしれない。しかしそれは大仏としての意味をもっているのだろうか。私にはとてもそうは思えない。
何が欠けているのか。物語が欠けているのである。相貌はその眺望がどのような物語の内に位置づけられるかによって決まる。そして、物語を生きるのは脳ではない、人である。人格をもった人が物語を生きる。それは行為する主体であり、責任を追求され、ときに非難されたり称賛されたりする。また、ときに愛され、ときに憎まれる。脳に責任を帰すわけでも、脳を非難するわけでもない。脳を愛し憎むのは何か特別の事情のもとでのみであり、通常は人を愛し憎むのである。痛みに苦しんでいる人がいるとき、私たちはその人をなぐさめる。脳は治療の対象にはなるが、なぐさめや励ましの対象にはならない



     *引用終了*
























市立図書館で見つけた野矢茂樹教授の「心という難問」(講談社)という本の存在を、あるブログのコメント欄で見つけ、その主張とされる「脳神話との決別」に猛烈な違和感を覚え執念深く、違和感の解消を目指してきた。

十分な準備もせずに拙速に2度記事も公開した。

拙速の文字通り後が続かず立ち往生。

立ち向かう相手は、数千年の超天才たちが積み上げた巨大な殿堂なので、ミミズの寝言の様なものでは歯が立たない。

そこで、もう一度、心と脳の関係に関する哲学・科学の本を読むことにして合計10冊以上の本を買い込んだり、既に買ってある本を引っ張り出してきて積み上げた。

表題の本は、マルクス・ガブリエルというドイツの哲学者の「私は脳ではない」(講談社選書メチエ)を書店受け取りという新しい方式で買って、市内にあるブックオフに受け取りに行ったついでにそこで見つけて買ってきたもの。

ガブリエルの本は2冊買った。

これから順次読んでいく。

新しく作ったこの記事のカテゴリーには、読書の記録の意味を兼ねて、気になった文を引用する。

前後関係や感想は書かないので、個人的な記録となりましょう。



         ***

(第3章 生じるべくして生じたもの)p92〜93
 
私の同僚のほとんどは、生命は単純な形で現れ、そのあとで複雑になっていったのだと信じている。裸のRNA分子が複製に複製を重ねる中で、ついには生きた細胞内にみられる複雑な科学装置のすべてと出会い、それを集めていったのだと彼らは想像する。彼らのほとんどはまた、私が第2章でふれた鋳型による複製の論理、A−T、G−C、ワトソン−クリックの対形成の分子の論理に、生命の存在は完全に依存していると信じている。しかし、私はこれとは異なる見解をもっている。生命は、鋳型による複製という魔法に束縛されるものではない。もっと深遠な論理に基づくものなのだ。どうにか読者を説得して、生命が複雑な化学系の本来の性質であることを、分かってもらいたいと考えている。化学スープの中で分子の種類の数がある閾値を超えると、自己を維持する反応のネットワークーー自己触媒的な物質代謝ーーが、突然生ずるであろうことを、ぜひとも納得してほしいのである。私は主張する。生命は単純な形ではなく、複雑で全体的な形をもって現れた。そしてそれ以来、複雑で全体的なままであるのだ、と。この生命の出現は、不可思議な「生命衝動」によるものではない。生気のない分子から組織への、単純で深遠な変換によるものである。この組織の中では、おのおの分子の形成に対して、組織内の他の分子が触媒として働く。生命の秘密、複製の源は、美しいワトソン−クリックの対形成に見出されるのではなく、集団的に触媒作用を営む閉じた集団の達成に見出されるのである。その核心は二重らせんよりも深遠で、化学そのものに基づいたものである。したがって、複雑で全体的な生命、創発的である生命は、別の意味で結局単純であり、われわれが住む世界から生じた自然な結果だということになる。


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