市立図書館で見つけた野矢茂樹教授の「心という難問」(講談社)という本の存在を、あるブログのコメント欄で見つけ、その主張とされる「脳神話との決別」に猛烈な違和感を覚え執念深く、違和感の解消を目指してきた。

十分な準備もせずに拙速に2度記事も公開した。

拙速の文字通り後が続かず立ち往生。

立ち向かう相手は、数千年の超天才たちが積み上げた巨大な殿堂なので、ミミズの寝言の様なものでは歯が立たない。

そこで、もう一度、心と脳の関係に関する哲学・科学の本を読むことにして合計10冊以上の本を買い込んだり、既に買ってある本を引っ張り出してきて積み上げた。

表題の本は、マルクス・ガブリエルというドイツの哲学者の「私は脳ではない」(講談社選書メチエ)を書店受け取りという新しい方式で買って、市内にあるブックオフに受け取りに行ったついでにそこで見つけて買ってきたもの。

ガブリエルの本は2冊買った。

これから順次読んでいく。

新しく作ったこの記事のカテゴリーには、読書の記録の意味を兼ねて、気になった文を引用する。

前後関係や感想は書かないので、個人的な記録となりましょう。



         ***

(第3章 生じるべくして生じたもの)p92〜93
 
私の同僚のほとんどは、生命は単純な形で現れ、そのあとで複雑になっていったのだと信じている。裸のRNA分子が複製に複製を重ねる中で、ついには生きた細胞内にみられる複雑な科学装置のすべてと出会い、それを集めていったのだと彼らは想像する。彼らのほとんどはまた、私が第2章でふれた鋳型による複製の論理、A−T、G−C、ワトソン−クリックの対形成の分子の論理に、生命の存在は完全に依存していると信じている。しかし、私はこれとは異なる見解をもっている。生命は、鋳型による複製という魔法に束縛されるものではない。もっと深遠な論理に基づくものなのだ。どうにか読者を説得して、生命が複雑な化学系の本来の性質であることを、分かってもらいたいと考えている。化学スープの中で分子の種類の数がある閾値を超えると、自己を維持する反応のネットワークーー自己触媒的な物質代謝ーーが、突然生ずるであろうことを、ぜひとも納得してほしいのである。私は主張する。生命は単純な形ではなく、複雑で全体的な形をもって現れた。そしてそれ以来、複雑で全体的なままであるのだ、と。この生命の出現は、不可思議な「生命衝動」によるものではない。生気のない分子から組織への、単純で深遠な変換によるものである。この組織の中では、おのおの分子の形成に対して、組織内の他の分子が触媒として働く。生命の秘密、複製の源は、美しいワトソン−クリックの対形成に見出されるのではなく、集団的に触媒作用を営む閉じた集団の達成に見出されるのである。その核心は二重らせんよりも深遠で、化学そのものに基づいたものである。したがって、複雑で全体的な生命、創発的である生命は、別の意味で結局単純であり、われわれが住む世界から生じた自然な結果だということになる。