市立図書館から、「死とは何か さて死んだのは誰なのか」と「私とは何か さて死んだのは誰なのか」の二冊。
2冊は、池田さんが、2007年にガンで亡くなった後、池田さんの業績を広める団体が、雑誌などに発表されていた記事を3冊の本に纏めた内の2冊。
つまり、池田さんが意図した編集ではないし、題名も御本人の意思ではないようです。
記事も短文がほとんど。
さて、Mさんが紹介してくれた「(たとえば)私は、子供を産もうと思ったことがない。」という引用は、「私とは何か…....」の方の最初の章の「わたくし、つまりNobody」の「1 自伝風哲学入門」の中のp29にある文章。
この一行の前後には、どんな文脈がつらなっているのか?
例えば、「死とは何か…‥」の方の、「なぜ生きるのがよくて死ぬのは悪いことなのか」(p139〜140)にこんな文があります。
『なぜ人が死を恐れるのかがわかりません。だって、死は観念のなかにしかないんですよ。死体は存在しても、「私の死」は存在しない。正確には、「考えられない」ということですが、詭弁でも何でもなく、論理的に考えれば必ずそういう結論が出る。・・・。そこが哲学的な体質とそうじゃない人の違いです。私にとって死は存在しない。ないものを恐れて一生を過ごすのは不健全です。・・・。むろん私だって体は痛くないほうがいいですけど。それだって自然現象じゃないですか。自分だけにあり得ないことではない。そのへんの気がつき方が普通の人より鍛えられているかもしれません。生老病死は当たり前の事象。お釈迦様は四苦八苦と言ったけど、苦しみと捉えたところにお釈迦様の弱点があったのではないかとさえ思う。苦しいと思うのは人間の側の価値。価値と事実は違います。・・・。生死の問題は存在論という哲学上の大問題であって・・・。』
引用の最後のあたりで舌が空転してしまったようですが、こういう文脈上に子供云々の文があるのですね。
余計な一言ですが、お釈迦様は事実を徹底的に煎じ尽くして、古典力学も相対論も量子論も存在しなかった2500年以上前に池田さんとほとんど同じ結論を得、生死の問題を一応解決していたということを強調しておきます。
なお、上記の引用(命題)の妥当性は、あくまで、池田さんが依って立つ前提に依存していると思う。
さて、まだ池田さんの文脈は良く見えていません。
更に引用を続けさせて頂きます。
2冊は、池田さんが、2007年にガンで亡くなった後、池田さんの業績を広める団体が、雑誌などに発表されていた記事を3冊の本に纏めた内の2冊。
つまり、池田さんが意図した編集ではないし、題名も御本人の意思ではないようです。
記事も短文がほとんど。
さて、Mさんが紹介してくれた「(たとえば)私は、子供を産もうと思ったことがない。」という引用は、「私とは何か…....」の方の最初の章の「わたくし、つまりNobody」の「1 自伝風哲学入門」の中のp29にある文章。
この一行の前後には、どんな文脈がつらなっているのか?
例えば、「死とは何か…‥」の方の、「なぜ生きるのがよくて死ぬのは悪いことなのか」(p139〜140)にこんな文があります。
『なぜ人が死を恐れるのかがわかりません。だって、死は観念のなかにしかないんですよ。死体は存在しても、「私の死」は存在しない。正確には、「考えられない」ということですが、詭弁でも何でもなく、論理的に考えれば必ずそういう結論が出る。・・・。そこが哲学的な体質とそうじゃない人の違いです。私にとって死は存在しない。ないものを恐れて一生を過ごすのは不健全です。・・・。むろん私だって体は痛くないほうがいいですけど。それだって自然現象じゃないですか。自分だけにあり得ないことではない。そのへんの気がつき方が普通の人より鍛えられているかもしれません。生老病死は当たり前の事象。お釈迦様は四苦八苦と言ったけど、苦しみと捉えたところにお釈迦様の弱点があったのではないかとさえ思う。苦しいと思うのは人間の側の価値。価値と事実は違います。・・・。生死の問題は存在論という哲学上の大問題であって・・・。』
引用の最後のあたりで舌が空転してしまったようですが、こういう文脈上に子供云々の文があるのですね。
余計な一言ですが、お釈迦様は事実を徹底的に煎じ尽くして、古典力学も相対論も量子論も存在しなかった2500年以上前に池田さんとほとんど同じ結論を得、生死の問題を一応解決していたということを強調しておきます。
なお、上記の引用(命題)の妥当性は、あくまで、池田さんが依って立つ前提に依存していると思う。
さて、まだ池田さんの文脈は良く見えていません。
更に引用を続けさせて頂きます。