何を考察するにしても、私たち人間には大きな制約があるのではないか?

それは、まだ、ほとんど解明されていない「人間の認識能力」だ。

現在までに、「人間の認識能力」は、肉体の一部である「脳神経系」の活動に由来するということがわかっている。

最先端の物理学研究成果から古代インドの釈迦(釈尊=ゴータマ・ブッダ)の悟りに至るまで、すべて、この「人間が生得的に持つ認識能力」の範囲内にある。

言い換えれば、肉体の一部である「脳神経系組織」の機能の限界内にあるということだ。

現在では、脳神経系その他の臓器、筋肉・骨格などの肉体の構成要素は、すべて、たった3種類の素粒子(アップクォーク・ダウンクオーク・エレクトロン。物質の基本構成要素=波でもあり粒子でもある)で構成されていると考えられている。

認識能力つまり精神の起源は肉体にありという私の主張と呼応するような釈尊の説法がある。

それは、このブログで、2009年2月に書いた次の記事中のサンユッタ・ニカーヤの次のような経文の中にある。
  https://blogs.yahoo.co.jp/avaroikite/56638242.html

それは、ヤッカと呼ばれる土地神のようなものと釈尊との対話である。

ヤッカは、いわば、古代インドの宗教思想を代表している。

それに対する釈尊の答えが、読みようによっては大変に現代的なのだ。

   *** 自分のブログからの引用 ***

サンユッタ・ニカーヤⅠ.Ⅹ.1「インダカ」より

(インダカというヤッカが尊師に向かって詩を以て話しかけた。)
  「身のかたちが生命なのではない、と諸々の覚者は語る。
   この[生命]は、いかにしてこの身体を見出すのであろうか?
   骨と肉体よりなるこの身体は、どこからかれに来るのであろうか?
   いかにしてこの[生命]は、母胎のうちに付着するのであるか?」
[尊師答えていわく、--]
  「まずカララができ上がる。カララからアッブダができ上がる。アッブダからペーシーが生じる。ペーシーからガナが生じる。
   ガナからパサーカ(身体の肢節の分かれる状態)が生まれ、髪や毛や爪が生ずる。
   かれの母が食べて摂取するもの、--食物と飲料と吸うて食べるもの、--
   母胎のうちにいる人は、それによってそこで成長する。」
(中村元訳「ブッダ 悪魔との対話 サンユッタ・ニカーヤⅡ」(岩波文庫)

中村先生の註によれば、カララからパサーカに至る胎児の成長過程の表現は、当時のインド医学の知識だとされる。

訳者不明の英訳を見つけた。

英訳:
Then the non-human Indaka approached the Blessed One and said this stanza:
(Q)
The Enlightened Ones say, there is no life in matter.
When there is no strength, how is the body to know?
How is a skeleton formed for him?
And without strength what clings in the womb ?
(A)
First there is the suitable soil. In it there is a swelling
In the swelling rises a lump of flesh.
The lump of flesh becomes a hard mass.
Then major and minor limbs arise in the hard mass.
And hair of the head and body and nails arise.
He is nourished with the eatables and drinks eaten by the mother. Thus the man gone to the mother's womb is nourished.
(avaro読み:
そして、人でないものインダカは幸せなお方のお傍に行き、次の詩を唱えた。
(Q)
  悟りを開いた方々が言うには、物質には生命は無いそうだ。
  (生命そのものである知)力がないならば、身体(物質)はどうやって知ることができるか?
  骨はどうやって彼のものとなるのか?
  (生命そのものである知)力がないとしたら、何が母胎にくっつくのか?
(A)
  まず、必要量の地(固形のもの)がある。そのなかに瘤がある。
  その瘤の中に肉の塊が出来る。
  肉の塊が固いものの塊になる。
  固い塊の中に大小の肢が出来る。
  次第に頭の毛や胴体や爪が出来る。
  彼は、母が食べた食べ物と飲み物で養われる。
  このように、母の子宮に入った人は養われる(育つ)。
   *strength=パーリ語のsatti、balaの英訳だと推量して、知の力とした。調べたがpali原文には、sattiもbalaもない。だが、生命の原語と思われるjivaの英訳は、 jiva=life, vital principle, individual soul. とある。)

   *** 引用終了 ***

インダカは、はっきりと、生命(life=我=アッタン)と肉体(body・Skelton)とを区別している。

それに対して、釈尊は、生命(life=我=アッタン)については触れていない。

観察可能な肉体についてのみ説明している。

では、釈尊は、肉体(身体)をどのように考えていたのであろうか、スッタニパータの記述から見てみよう。

   *** 引用開始 ***

Sn193 或いは歩み、或いは立ち、或いは坐り、或いは臥し、身を屈め、或いは伸ばす、──これは身体の動作である。
Sn194 身体は、骨と筋とによってつながれ、深皮と肉とで塗られ、表皮に覆われていて、ありのまま見られることがない。
Sn195 身体は腸に充ち、胃に充ち、肝臓の塊・膀胱・心臓・肺臓・腎臓・脾臓あり、
Sn196 鼻汁・粘液・汗・脂肪・血・関節液・胆汁・膏がある。
Sn197 またその九つの孔アナからはつねに不浄物が流れ出る。眼からは目やに、耳からは耳垢、
Sn198 鼻からは鼻汁、口からは或るときは胆汁を吐き、或るときは痰を吐く。全身からは汗と垢とを排泄する。
Sn199 またその頭(頭蓋骨)は空洞であり、脳髄にみちている。しかるに愚か者は無明に誘われて、身体を清らかなものだと思いなす。
Sn200 また身体が死んで臥するときには、膨れて、青黒くなり、墓場に棄てられて、親族もこれを顧みない。
Sn201 犬や野狐や狼やは虫類がこれをくらい、鳥や鷲やその他の生きものがこれを啄ツイバムむ。
Sn202 この世において知慧ある修行者は、覚った人(ブッダ)の言葉を聞いて、このことを完全に了解する。なんとなれば、かれはあるがままに見るからである。
Sn203(かの死んだ身も、この生きた身のごとくであった。この生きた身も、かの死んだ身のごとくになるであろう)と、内面的にも外面的にも身体に対する欲を離れるべきである。
Sn204 この世において愛欲を離れ、知慧ある修行者は、不死・平安・不滅なるニルヴァーナの境地に達した。
Sn205 人間のこの身体は、不浄で、悪臭を放ち、(花や香を以て)まもられている。種々の汚物が充満し、ここかしこから流れ出ている。
Sn206 このような身体をもちながら、自分を偉いものだと思い、また他人を軽蔑するならば、かれは(見る視力が無い)という以外の何だろう。
 (中村元訳「ブッダのことば スッタニパータ」岩波文庫)
 https://blogs.yahoo.co.jp/avaroikite/56719357.html

    *** 引用終了 ***

釈尊は、はっきりと、肉体(身体)のことを、

 Sn199 またその頭(頭蓋骨)は空洞であり、脳髄にみちている。しかるに愚か者は無明に誘われて、身体を清らかなものだと思いなす。
 Sn200 また身体が死んで臥するときには、膨れて、青黒くなり、墓場に棄てられて、親族もこれを顧みない。

というように、脳を含めて死すべきもの・死んで腐敗し消滅するものと考えている。

まさか、釈尊が肉体をキョンシーだとは考えていなかっただろうから、もしかしたら、脳髄が神経系であり、神経系が肉体を動かすと理解していたかもしれないが、脳髄=我(認識主体)=アッタンだとは全く考えていなかったと思う。


ここからが、本記事の眼目なのだが、

 わたしは、物資の基本要素である3っの素粒子で構成され、活動する脳神経系(肉体の一部)が認識=精神≒古代インド人が考えた「我=アッタン」の起源であると考えているが、

 釈尊は、明確に脳神経系(肉体の一部である脳髄)と我=アッタンとを区別していると思われる。

だから、釈尊にとっては「悟り」「涅槃」「解脱」が可能だったのだと言いたいのだ。

もっと分かり易く言えば、釈尊は、肉体とは別な精神的な機能を持つ「我=アッタン」のようなものを信じていたからこそ、修行によって到達した境地(認識)を、「悟り」「涅槃」「解脱」だと確信したのではないかという推理だ。


現代でも、残念ながら、認識の本当の起源(つまり、脳神経系がどうして認識という機能を発揮できるのかという原理)は解明できていないようだ。

物質を構成する、たった3っの素粒子(二つのクオークと一つのエレクトロン)、および、それら物質構成素粒子の相互作用を可能にする三つの力を担う素粒子(フォトン・グルーオン・ウィークボソン)とによって、脳神経系は活動し、認識を生み出している。

脳その他の神経系を構成する原子(元素)は、グルーオンがクオークを結び付け原子核の構成要素の陽子や中性子を構成し、エレクトロンがフォトンによって原子核と結びついて出来ている。

脳神経系の要素、ニューロン(脳神経の信号をやり取りする軸索=いわゆる神経を含む)や感覚器などすべてがたった3っの素粒子と3っのボソン(物質同士の結合・分離の力を提供する素粒子)の相互作用で作られ、活動しているわけだが、どんな法則(原理)によって、認識が生じるのかが良く分かっていないらしいのだ。

つまり、ほとんど分かっていないのは、この素粒子と認識との関係なのだ。

だから、ほんのわずかなのだろうが、釈尊の説明(説法)が正しい可能性は残っているのかもしれない。