Mさんとのコメントのやり取りで、「一切とは何か」ということに関する経典が問題となりました。
Mさんの引用は以下の通り。
「一切」とは、みなさん、いったい何でしょうか。
それは、眼と眼に見えるもの、耳と耳に聞こえるもの、鼻と鼻ににおうもの、舌と舌に味わわれるもの、身体と身体に接触されるもの、心と心の作用、のことです。
これが「一切」と呼ばれるものです。
誰かがこの「一切」を否定し、これとは別の「一切」を説こう、と主張するとき、それは結局、言葉だけに終わらざるを得ないでしょう。
さらに彼を問い詰めると、その主張を説明できず、病に倒れてしまうかも知れません。
何故でしょうか。何故なら、彼の主張が彼の知識領域を越えているからです。
(サンユッタニカーヤ 33.1.3)
Mさんが引用してくれた経文を読んだのですが、ちょっと読み取れないので、春秋社版「相応部経典Ⅱ」の「第4集 六処についての集 第1篇 六処についての集成 第1部 第1の50節 第3章 すべての章」を参照するために、第3章の経文を全て引用させていただきます。*書き出しや繰り返し部分は省略(・・・で示す)。
***引用はじめ
第1節 すべて(Mさんの引用では「一切」と訳されていました。引用文中の赤字は訳者の註が有るという印です)
「比丘たちよ、わたしは「すべて」〔について〕、あなたたちに説こう。それを聞きなさい。「すべて」とは何であるか。眼と色、耳と声、鼻と香、舌と味、身と触、意と法、比丘たちよ、それを「すべて」というのである。
もし誰かが〔わたしが説く〕このような「すべて」を捨てて、他の「すべて」を説くというのならば、それは単なる〔根拠のない〕言葉に過ぎない。また〔彼は〕質問されたならばいい返せないであろう。それ以上に、困惑することになるであろう。どうしてか。比丘たちよ、それは、〔本来不可能であることを行おうとしている、つまり、彼の能力の範囲の〕領域にいるのではないからである」と。
*訳者註:①それを「すべて」という・・・注釈書では「すべて」を四つに分けて説明している。つまり、すべてを含む「すべて」、感覚の領域としての「すべて」、身体的な「すべて」、部分的な「すべて」として、この節でいう「すべて」とは感覚的な領域としてのすべてをいうとする。②それは単なる・・・それら内と外との六つ領域(十二処)をこえては、「他の第一義的存在」があると認めることはできない、ということ。③質問されたなら・・・「他のすべてとは何であるか」と質問されたならば、「これである」とことばでもって表現することは不可能である、という意味。
第2節 捨てること(一)
「比丘たちよ、わたしは、すべてを捨てる(捨離)ための教えを、あなたたちに説こう。・・・。すべてを捨てるための教えとは何であるか。眼は捨てられるべきである。色は捨てられるべきである。眼の識別作用(眼識)は捨てられるべきである。眼〔と色と識別作用との〕接触(眼触)は捨てられるべきである。また、眼の接触によって生じるところの、楽と感じること、苦と感じること、苦でもなく楽でもないと感じること、それもまた、捨てられるべきである。・・・。比丘たちよ、実に、これがすべてを捨てるための教えである」。
第3節 捨てること(二)
「・・・。眼は自ら知り完全に知ることによって捨てられるべきである。・・・」
第4節 完全に知ること(一)
「比丘たちよ、すべてを自ら知ることなく、完全に知ること(遍知)なく、貪りを離れず、捨て去ることがないのなら、苦しみを滅ぼすことは不可能である。
・・・苦しみを滅ぼすことは不可能である〔というそのすべてとは〕何であるか。
眼を自ら知ることなく完全に知ることがなく、貪りを離れず、・・・不可能である。」
第5節 完全に知ること(二)
「比丘たちよ、すべてを自ら知ること(遍知)なく完全に知ることなく、貪りを離れず、捨て去ることがないのなら、苦しみを滅ぼすことは不可能である。
比丘たちよ、すべてを自ら知ることなく完全に知ることがなく、貪りを離れず、捨て去ることがないのなら、苦しみを滅ぼすことは不可能である〔というそのすべてとは〕何であるか。
眼と色、眼の識別作用(眼識)と眼の識別作用によって認識されるもの。・・・
。比丘たちよ、実に、これがすべて自ら知ることなく完全に知ることがなく、貪りを離れず、捨て去ることがないのなら、苦しみを滅ぼすことは不可能である〔というところのすべて〕である。
比丘たちよ、すべてを自ら知り完全に知り、貪りを離れ、捨て去るのなら、苦しみを滅ぼすことは可能である。
比丘たちよ、すべてを自ら知り完全に知り、貪りを離れ、捨て去るのなら、苦しみを滅ぼすことは可能である〔というそのすべてとは〕何であるか。
眼と色、眼の識別作用と眼の識別作用によって認識されるもの。・・・
比丘たちよ、実に、これが、すべてを自ら知り完全に知り、貪りを離れ、捨て去るのなら、苦しみを滅ぼすことは可能である〔というところのすべて〕である。
第6節 燃えている
「比丘たちよ、すべては燃えている。すべては燃えているとはどういうことか。眼は燃えている。色は燃えている。眼の識別作用(眼識)は燃えている。眼〔と色と識別作用と〕の接触(眼触)は燃えている。眼の接触によって生じるところの感受は、楽と感じること、苦と感じること、苦でもなく楽でもないと感じることであっても、それもまた燃えている。何によって燃えているのか。貪欲(貪)の火によって、嫌悪(瞋)の火によって、愚かさ(癡)の火によって燃えている。生まれ・老い・死・愁い・悲しみ・苦痛・憂い・悩みによって燃えている、とわたしは説くのである。・・・。
このように見て、比丘たちよ、教えを聞いたすぐれた弟子たちは、・・・、意を厭い離れ、法・意の識別作用・意と法と識別作用との接触を厭い離れ、意の接触によって生じるところの感受において、楽と感じること、苦と感じること、苦でもなく楽でもないと感じるものであろうとも、それもまた、厭い離れる。厭い離れて、貪りを離れる。貪りを離れることで解脱する。解脱したとき、「わたしは解脱した」と知ることになる。「生まれは尽き、貞潔行(梵行)は修せられ、なすべきことはなされた。さらにこの世の生存を受けることはない」と知るのである。
第7節 制圧された
「比丘たちよ、すべては制圧されている。制圧されているとは何であるか。眼は制圧されている。・・・。意は制圧されている。法は制圧されている。。意の識別作用(意識)は制圧されている。意と法と認識作用との接触(意触)は制圧されている。意の接触によって生じるところの感受は、楽と感じること、苦と感じること、苦でもなく楽でもないと感じることであっても、それもまた制圧されている。何によって制圧されているのか。生まれ・老い・死・愁い・悲しみ・苦痛・憂い・悩みによって制圧されているのである、とわたしは説くのである。このように見て、比丘たちよ、教えを聞いたすぐれた弟子たちは、眼を厭い離れ、・・・、意を厭い離れ、法・意の識別作用・意と識別作用との接触を厭い離れ、・・・、さらにこの世の生存を受けることはない」と知るのである。
第8節 誤った考えを根絶するに適した道
「・・・。意を〔自己である〕と考えず、意において〔自己があると〕考えず、意より〔自己があると〕考えず、意は「わたしのものである」と考えない。法を〔自己であると〕考えず、法において〔自己があると〕考えず、法より〔自己があると〕考えず、法は「わたしのものである」と考えない。意の識別作用(意識)を〔自己であると〕考えず、意の識別作用において〔自己があると〕考えず、意の識別作用から〔自己があると〕考えず、意の識別作用は「わたしのものである」と考えない。意〔と法と識別作用と〕の接触(意触)を〔自己であると〕考えず、意〔と法と識別作用と〕の接触において〔自己があると〕考えず、意〔と法と識別作用と〕の接触から〔自己があると〕考えず、意〔と法と識別作用と〕の接触は「わたしのものである」と考えない。意の接触によって生じるところの感受、楽と感じること、苦と感じること、苦でもなく楽でもないと感じることであっても、また、それを〔自己であると〕と考えず、それにおいて〔自己があると〕と考えず、それから〔自己がある〕と考えず、それは「わたしのものである」と考えない。
すべてを〔自己であると〕考えず、すべてにおいて〔自己があると〕考えず、すべてから〔自己があると〕考えず、すべては「わたしのものである」と考えない。彼はこのように考えることがないので、世間の何ものにも執着しない。執着することがないので、恐れることがない。恐れることがないので、自ら安らぎに到達するのである。「生まれは尽き、貞潔行(梵行)は修せられ、なすべきことはなされた。さらにこの世に生存を受けることはない」と知るのであると。・・・。」
第9節 誤った考えを根絶するにふさわしい道(一)
「意を〔じこであると〕かんがえず、・・・、それから自己があると考えず、それは「わたしのものである」と考えない。
比丘たちよ、それを〔自己であると〕考え、それに〔自己があると〕考え、それから〔自己があると〕考え、それを「わたしのものである」と考えるところのそのものは、それとは(わたしたちが考えるのとは)異なったもの(ありよう)となる。異なったものになるものであるが(変化をさけられないものであるが)、世の人々は、それに執着し、まさに、おおいに喜んでいる。
比丘たちよ、〔五つの〕構成要素(蘊)、〔十八の〕要素(界)、〔十二の〕領域(処)において、それを〔自己であると〕考えず、・・・」
第10節 誤った考えを根絶するにふさわしい道(二)
・・・。
「・・・、眼は常住であるか、無常であるか」。
「尊い方よ、無常です」。
「では、無常であるものは苦しみであるか、あるいは楽しみであるか」。
・・・
***引用終わり
引用させていただいた相応部経典の記述は、よく読むと大変興味深い意味深な言い回しが有るように感じます。
第1節の次の部分。
何故なら、彼の主張が彼の知識領域を越えているからです(Mさんの引用)。
どうしてか。比丘たちよ、それは、〔本来不可能であることを行おうとしている、つまり、彼の能力の範囲の〕領域にいるのではないからである」と(春秋社版)。
このような言い回しを読むと、釈尊は、次のようなことを言いたかったのではないか、と憶測してしまいます。
「比丘たちよ、お前たちがすべてを知ろうとしても限(キリ)がないのだよ。
お前たちが知ることが出来るのは、私が述べた「一切」に限られるのだから。
それ以上を知りたければ修行をして解脱しなさい。」
なんてね。
というのは、釈尊は別な経典の中で、
ある時には、土塊(ツチクレ)を指先につまんで示し、この指先の土と世界全体の土とどっちが多い、
とか、
ある時には、森の前で、森の木から落ちた枯葉をつまみ上げて示し、この指でつまんだ葉っぱと、森全体の葉っぱとどっちが多いか、
なんていう質問をして、
弟子たちが、地球全体とか森全体とか答えると、
私が知ったことは地球全体や森全体ほどあるが、それらは修行を完成するために必要ではない。
なんて説法をする。
普通これらの譬えは、単に、修行に必要な事柄を強調するために用いたたとえ話なのだと理解されるようだが、経典の記述を読めばイマイチ納得がいかない。
これらの記述の解釈は、いかようにも出来よう。
例えば、
1、