この記事は、YAHOO!ブログのエディタに直書きしている。
前回S長老を批判する記事を書いた。
この人、そもそも、書き過ぎる。
書くのではなく、背中で示せば良いのに。
書き物はそのまま事実や真実ではない。
「背中」こそが事実であり、真実なのだ。
読み易い受け入れ易い言葉(文章)は、多くが次元が低い。
読み手に合わせて書いたからである。
一体このS長老、誰の為に、何の為に、こうも次々と本を買いては売っているのだろうか?
物書きの多くには、まず、書きたいという抑えがたい欲望があり、次に、収入や名声などがある。
宗教関係の物書きは、これにもう一つ重要な動機があって、「密かな意図」を書く文章に巧みに織り込む。
その宗教物書きの技量が高ければ高いほど、織り込まれたモノは読み手に気づかれない。
気づかれずにいつの間にか当初の目的を立派に果たしてしまう。
「洗脳(マインドコントロール)」である。
日本のマスコミ(テレビ/新聞等)がこのマインドコントロールを大々的に堂々とやっている。
俺みたいな露骨な文章は決して書かない。
読み手にすぐバレるからである。
紙背を透徹出来ない輩が、こういう密かな動機を織り込んだ文章を読んでも簡単には見抜けない。
読み手の心をくすぐる術に長けている書き手の文章は読めば読むほど心地よくなる。
麻薬効果である。
要するに知らないうちに中毒患者になり、その物書きに依存するようになるのだ。
冷静に良く考えれば惚れ込んだ文章の数々、実は、ほとんど何の役にも立たないものだらけなのだ。
そんなもの読むくらいなら、大変でも原典(パーリ仏典)を読む方がずっと役に立つ。
表題をもう一度よく見てほしい。
「一切の形成されたものは苦しみである」
この文言通りの言い方を釈尊が説法で述べたかどうかは不明。
だが、この様な内容のことを説いたことは事実だと想う。
「一切の形成されたものは無常であり、苦しみなのだ」という認識は、釈尊の教えの根幹なのである。
そのことを知識や概念として知るのではなく、骨身にしみて体感し、体得し、いわばこの三法印が血肉となっていなければならないのだ。
それは、S長老が耳に心地よくても涅槃にはほとんど役に立たない文章とは程遠いAnotherWorld(別な領域・日常)への転移を意味するのだ。
「一切の形成されたものは無常・苦」という領域に生きたままで、幸せも平和も有り得ない。
有り得ないから釈尊は解脱し、涅槃の領域にジャンプしたのだ(ジャンプしても肉体は無常・苦の領域にありつづける)。
「一切の形成されたものは無常・苦」という領域で得られるのは、「島唄」の歌詞ではないが、「ささやかな幸せ」であり、それはまた、「無常・苦」と背中合わせだから、「泡沫(うたかた)ぬ波の花」なのだ。
もう一つ重要なことを読み手は知らないままに、甘い言葉に聞き惚れている。
重要なこととは、解脱・涅槃を達成出来ない者は、いずれ、人生で積み上げた徳(善悪の行いの果)に応じて輪廻しなければならないというテーラヴァーダ(上座部)仏教の教義のことだ。
この世に生きていくということは、綺麗事だけで済まされない。
誰も善より悪を積み上げるだろう。
最悪地獄行きだって有り得るのだ。
もちろん俺はそんな教義アホらしくて聞く気にもならんが、S長老はこの教義を否定できないだろう。
俺みたいに自由にならなければな。
テーラヴァーダ仏教の宣教師という立場にしがみつき、NT協会の長老という地位にしがみついていては、輪廻を無視出来ない筈だ。
「輪廻なんてどうやって証明出来るんだ。」なぁんてほざいちゃったらテーラヴァーダ仏教教団では高い地位にはいられない。
釈尊(S長老は「仏陀=ブッダ」と表記)は決して既成のもの(思想/哲学/宗教など)を鵜呑みにしなかった。
だから、まったく新しい生き方を見つけることが出来、世に示すことが出来たのだ。
だが、そのことは同時に、釈尊の教えに盲従してはならないという教訓ともなるのだ。
パーリ経典(名目は釈尊の説法集)には、釈尊が輪廻(天・地獄・死後のあり方等)に触れている経文が結構ある。
しかし、いかな釈尊にも、錯覚でもなく思い込みでもない、本物の天や地獄、死後の有様は絶対に見聞出来なかったはずだ。
つまり、脳を含む肉体以外に、認識機能があるという確証を提示出来なければならないということだ。
釈尊は、自己の本体(実体)を決して否定しなかった。
それは釈尊がそのことを否定も肯定もどちらとも決定できなかったからだと思っている。
つまり、釈尊は、心などの精神現象を脳(肉体)の機能だなどと想像も出来なかった筈である。
輪廻を、いかなる説明法をもってするにしても、承認する為には、「脳」を中心とした肉体の機能・原理で説明出来なければ、脳以外の機能・原理(魂等)を承認しなければならなくなる。
言い換えれば、釈尊の教えが完全無欠ではないということだ。
どだいそんなもの人間には縁の無いものだと、実は、釈尊が証明しているのだと俺は考えている。
無常・苦のこの世に生きるなら、あまり欲をかかないことだ。
無常・苦は常にあなたの傍にピッタリ張り付いて離れてくれないのだから。
これは無常そのもの、つまり、あなたの思い通りにならないことなのだ。
どうしてもS長老が好きでどうしようもないというのなら、「ボク、長老の本、命なの」ってのを止めて、読んで気に入った文章があったら、あらゆる方法でその文章を検証すべきだろう。
ま、恋は盲目だから言うだけ野暮かもしれないが。
前回S長老を批判する記事を書いた。
この人、そもそも、書き過ぎる。
書くのではなく、背中で示せば良いのに。
書き物はそのまま事実や真実ではない。
「背中」こそが事実であり、真実なのだ。
読み易い受け入れ易い言葉(文章)は、多くが次元が低い。
読み手に合わせて書いたからである。
一体このS長老、誰の為に、何の為に、こうも次々と本を買いては売っているのだろうか?
物書きの多くには、まず、書きたいという抑えがたい欲望があり、次に、収入や名声などがある。
宗教関係の物書きは、これにもう一つ重要な動機があって、「密かな意図」を書く文章に巧みに織り込む。
その宗教物書きの技量が高ければ高いほど、織り込まれたモノは読み手に気づかれない。
気づかれずにいつの間にか当初の目的を立派に果たしてしまう。
「洗脳(マインドコントロール)」である。
日本のマスコミ(テレビ/新聞等)がこのマインドコントロールを大々的に堂々とやっている。
俺みたいな露骨な文章は決して書かない。
読み手にすぐバレるからである。
紙背を透徹出来ない輩が、こういう密かな動機を織り込んだ文章を読んでも簡単には見抜けない。
読み手の心をくすぐる術に長けている書き手の文章は読めば読むほど心地よくなる。
麻薬効果である。
要するに知らないうちに中毒患者になり、その物書きに依存するようになるのだ。
冷静に良く考えれば惚れ込んだ文章の数々、実は、ほとんど何の役にも立たないものだらけなのだ。
そんなもの読むくらいなら、大変でも原典(パーリ仏典)を読む方がずっと役に立つ。
表題をもう一度よく見てほしい。
「一切の形成されたものは苦しみである」
この文言通りの言い方を釈尊が説法で述べたかどうかは不明。
だが、この様な内容のことを説いたことは事実だと想う。
「一切の形成されたものは無常であり、苦しみなのだ」という認識は、釈尊の教えの根幹なのである。
そのことを知識や概念として知るのではなく、骨身にしみて体感し、体得し、いわばこの三法印が血肉となっていなければならないのだ。
それは、S長老が耳に心地よくても涅槃にはほとんど役に立たない文章とは程遠いAnotherWorld(別な領域・日常)への転移を意味するのだ。
「一切の形成されたものは無常・苦」という領域に生きたままで、幸せも平和も有り得ない。
有り得ないから釈尊は解脱し、涅槃の領域にジャンプしたのだ(ジャンプしても肉体は無常・苦の領域にありつづける)。
「一切の形成されたものは無常・苦」という領域で得られるのは、「島唄」の歌詞ではないが、「ささやかな幸せ」であり、それはまた、「無常・苦」と背中合わせだから、「泡沫(うたかた)ぬ波の花」なのだ。
もう一つ重要なことを読み手は知らないままに、甘い言葉に聞き惚れている。
重要なこととは、解脱・涅槃を達成出来ない者は、いずれ、人生で積み上げた徳(善悪の行いの果)に応じて輪廻しなければならないというテーラヴァーダ(上座部)仏教の教義のことだ。
この世に生きていくということは、綺麗事だけで済まされない。
誰も善より悪を積み上げるだろう。
最悪地獄行きだって有り得るのだ。
もちろん俺はそんな教義アホらしくて聞く気にもならんが、S長老はこの教義を否定できないだろう。
俺みたいに自由にならなければな。
テーラヴァーダ仏教の宣教師という立場にしがみつき、NT協会の長老という地位にしがみついていては、輪廻を無視出来ない筈だ。
「輪廻なんてどうやって証明出来るんだ。」なぁんてほざいちゃったらテーラヴァーダ仏教教団では高い地位にはいられない。
釈尊(S長老は「仏陀=ブッダ」と表記)は決して既成のもの(思想/哲学/宗教など)を鵜呑みにしなかった。
だから、まったく新しい生き方を見つけることが出来、世に示すことが出来たのだ。
だが、そのことは同時に、釈尊の教えに盲従してはならないという教訓ともなるのだ。
パーリ経典(名目は釈尊の説法集)には、釈尊が輪廻(天・地獄・死後のあり方等)に触れている経文が結構ある。
しかし、いかな釈尊にも、錯覚でもなく思い込みでもない、本物の天や地獄、死後の有様は絶対に見聞出来なかったはずだ。
つまり、脳を含む肉体以外に、認識機能があるという確証を提示出来なければならないということだ。
釈尊は、自己の本体(実体)を決して否定しなかった。
それは釈尊がそのことを否定も肯定もどちらとも決定できなかったからだと思っている。
つまり、釈尊は、心などの精神現象を脳(肉体)の機能だなどと想像も出来なかった筈である。
輪廻を、いかなる説明法をもってするにしても、承認する為には、「脳」を中心とした肉体の機能・原理で説明出来なければ、脳以外の機能・原理(魂等)を承認しなければならなくなる。
言い換えれば、釈尊の教えが完全無欠ではないということだ。
どだいそんなもの人間には縁の無いものだと、実は、釈尊が証明しているのだと俺は考えている。
無常・苦のこの世に生きるなら、あまり欲をかかないことだ。
無常・苦は常にあなたの傍にピッタリ張り付いて離れてくれないのだから。
これは無常そのもの、つまり、あなたの思い通りにならないことなのだ。
どうしてもS長老が好きでどうしようもないというのなら、「ボク、長老の本、命なの」ってのを止めて、読んで気に入った文章があったら、あらゆる方法でその文章を検証すべきだろう。
ま、恋は盲目だから言うだけ野暮かもしれないが。