*「ダンマパダ」の経文は、①中村元訳「ブッダの真理の言葉」(岩波文庫)、②正田大観訳「ダンマパダ」(下記URL)より引用させていただきました。
小部経典 翻訳 (原典と正田大観師による日本語訳)
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『スズメバチも蜜を吸いに来る--第四章 花の章:49』
我が家の庭の花の疎林にも蝶や蜂、蝿、虻の仲間?などが蜜を吸いにやって来る。
特に蜜蜂が可愛い。
日本の蜜蜂の代表は、日本蜜蜂と西洋蜜蜂らしい。
なかなか区別が難しく、我が家の庭に西洋蜜蜂は確かにやって来ているが、日本蜜蜂を同定出来ないでいる。
去年は、福島原発爆発破損放射能放出の影響か、我が家の庭の草木の挙動が何となく普通でなく感じられた。
八手の花の咲き方が変だったのだ。
季節がずれているような感じがしたのだ。
昨年は、菊がたくさん咲いたので、まず、そこにいろんな虫たちがやって来て蜜を吸っていった。
菊より遅れて八手の花が咲いた。
この花には蜜が多いらしく、毎年、蜂・蝿・虻の仲間?などがたくさんやって来て蜜を吸って行く。
面白かったのは、もう秋が深まりかけた頃、大きな黄色スズメバチが蜜を吸いに来ていて、結構お腹に溜め込んだようだが、一見さんだったためか運搬係りがやって来ないため、飛び上がれず、ちょっと飛んでもドタンと落ちたりしていたことだった。
黄色スズメバチは、あのデッカイ身体に似合わず、礼儀正しく蜜を吸っていた。
『蜜蜂は(花の)色香を害ソコナわずに(蜜蜂が、色艶と香りある花を損なうことなく)』
というのは、観察した通りを述べたのだろうと思える。
だから、この偈頌の比喩は、直喩のようだが、花・色香・蜜(汁)はそれぞれ世俗の男女・人間関係・托鉢食を暗示しているので隠喩ととった方がいいのかな。
釈尊の教えに従う修行者(比丘)が、村や町に行くのは、乞食(托鉢)のためであろう。
だとすれば、「汁」「味(蜜)」とは、食物の比喩であろう。
だから、この偈頌の比喩は、直喩のようだが、花・色香・蜜(汁)はそれぞれ世俗の男女・人間関係・托鉢食を暗示しているので隠喩ととった方がいいのかな。
釈尊の教えに従う修行者(比丘)が、村や町に行くのは、乞食(托鉢)のためであろう。
だとすれば、「汁」「味(蜜)」とは、食物の比喩であろう。
釈尊は、比丘同士でも雑談を慎むように指導したらしいから、まして、世俗の男女と親しく会話するなどということは禁物であったろう。
釈尊の弟子は、当初、男性だけだったそうだから、「色香(色艶と香り)」という比喩が女性を連想させるが、そこまで深読みせず、人間関係とか会話という程度に読んでおく。
花の色香(色艶と香り)」が損なわれるということは、村人と比丘の間に相当深い関わりがあったことになる。
悪比丘という用語が経典の記述にあるので、そういうことを指しているのかもしれない。
村人(世俗人)を、
『花々を摘んでいる執着の意“おもい”ある人(花を摘むのに夢中になっている人)』に対して、『死神がかれを征服する(死神は〔思いのままに〕支配を為す)』
と比丘たちに注意喚起していたのだから、村人と親しく話しをしても修行の足しになることは得られない、悪くすれば堕落するのがオチというのが論理の一貫性であろう。
ごく普通の人間関係すらも拒否しなければ(というより、無視しなければ)修行が成立しないということだろう。
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49. 蜜蜂は(花の)色香を害ソコナわずに、汁をとって、花から飛び去る。聖者が、村に行くときは、そのようにせよ。(中村先生)
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49. また、蜜蜂が、色艶と香りある花を損なうことなく、味(蜜)を取って移り行くように、このように、牟尼(沈黙の聖者)は、村を歩むがよい。(正田師)
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49. 蜜蜂は(花の)色香を害ソコナわずに、汁をとって、花から飛び去る。聖者が、村に行くときは、そのようにせよ。(中村先生)
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49. また、蜜蜂が、色艶と香りある花を損なうことなく、味(蜜)を取って移り行くように、このように、牟尼(沈黙の聖者)は、村を歩むがよい。(正田師)
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比丘は沈黙したまま戸口に立つ。
村人はうやうやしく鉢に食べ物を入れる。
比丘は黙ったまま立ち去る。
礼も言わず、頭も下げないらしい。
ドライに考えれば、修行に励む比丘への布施(供養)は村人の善業(福徳)を高めるので、一種のバーター取引となっているかららしい。
村人はうやうやしく鉢に食べ物を入れる。
比丘は黙ったまま立ち去る。
礼も言わず、頭も下げないらしい。
ドライに考えれば、修行に励む比丘への布施(供養)は村人の善業(福徳)を高めるので、一種のバーター取引となっているかららしい。
この偈頌は、比丘のための教えだから、修行の妨げとなるようなことを一切するなということだろう。
物言いは美しいが込められている意味は苛烈である。
文章は、普通、誰かを仮想の対象にして書かれるのだろうと思う。
私の場合はどうなのかな?