avarokitei84のblog

*はじめに。 このブログは、ヤフー・ブログから移行したものです。当初は、釈尊(お釈迦様・ゴータマブッダ)と宮沢賢治を探究してましたが、ある時点で、両者と距離をおくことにしました。距離を置くとはどういうことかと言いますと、探究の対象を信仰しないということです。西暦2020年となった今でも、生存についても宇宙についても確かな答えは見つかっていません。解脱・涅槃も本当の幸せも、完全な答えではありません。沢山の天才が示してくれた色々な生き方の中の一つだと思います。例えば、日本は絶対戦争しないで平和を維持出来るとおもいますか?実態は、戦争する可能性のもとに核兵器で事実上の武装をしています。釈尊の教えを達成したり絶対帰依していれば、戦争が始まっても傍観しているだけです。実際、中世インドでイスラム軍団が侵攻してきたとき、仏教徒の多くは武力での応戦はしなかったそうです(イスラム側の記録)。それも一つの生き方です。私は、武装した平和主義ですから、同じ民族が殺戮や圧政(現にアジアの大国がやっている)に踏みにじられるのは見過ごせない。また、こうしてこういうブログを書いているのは、信仰を持っていない証拠です。

2011年01月

英語は元々はthe great britainの言語であるが、今は、世界の標準語になりつつある。

だから、インターネットで広く知識を求めようとすると、英語の読み書きは言うに及ばず日本人の苦手な聞いて理解し自分の意志を伝えるために話すhearing,speaking,conversation能力が不可欠となる。
もうすぐ人生も終わろうという今頃になってまで英語の習得に拘っているのはそういう事情による。

さて、表題は日本語の「ご長寿」と「長命(長生き)」を和英辞書で引いた結果である。

日英では全く同じ語感ではないだろうが、寿命も長生きも広く生きとし生けるものの願いであろうから、ほぼ同じような意味合いの語だろうと思った。
expectancyには"期待"という意味合いと、"未来の予測"という意味合いが含まれるようなので、この語の場合どちらなのか微妙である。
他の辞書によれば、life expectancyは平均余命(平均寿命)となっているから、後者の意味合いが強いのだろう。

パーリ経典には、人の命の儚さや突然の死に対する警句が沢山ある。
2500年前のインドを引き合いに出さずとも、ほんの半世紀・一世紀前までは、日本人の寿命も短かった。

だから、70歳まで生きられればこれはそれだけでお目出度いことだった。

最近の有名人の訃報に接した時、年齢に注意していると、70台前後が多い。
有名人はそれだけご苦労が多かったのかもしれないが、実際の平均寿命がこのあたりなのかもしれない。

先日TVで長寿の秘訣を語る番組があった。
あまり信頼は出来ないが、尤もだと頷ける秘訣もあった。

例えば、階段を一段余計に昇る毎に寿命が4秒延びるという。

いくら心(頭)で「長生きしたい、長生きしたい」と念じても、残念ながらご長寿はそれほど確実にはならないだろう。

なぜなら、適度に階段を使うという日常の活動が本当に長寿につながるのだとすれば、この人の長寿を実現するのは、意識できない(自覚できない)脳を含む身体の仕組みが働きだすためだと考える他ない。

念ずることというのは意識的(自覚して)行える。
だが、階段昇りの場合は、意識的自覚的に行えるのは日頃階段を昇るようにして、エスカレーター・エレベーターに頼らないようにすることだけであろう。
その後身体の中で階段昇りの効果がどのように発効して行くのかはほとんど分からない(意識できない・自覚できない・認識できない)。

同じ番組の中で、食事量は「腹八分目」が良いとされた。
過ぎたるは及ばざるが如しという名言がある。
今私はなぜか良く食べる。
下っ腹大ポッコリで、ズボンがきつくなって苦しい。
「腹八分目」と言われて「うんうん」と頷くほかなかった。

では、腹八分目がなぜ良いのか?
余計なカロリーの摂取を防ぎ肥満を予防し、ひいては寿命も延ばすのだそうだ。
この場合の寿命を延ばすという意味が、肥満を予防し健康体を維持するというだけでなく、「腹八分目」という「脳」の満腹センサーからすれば、やや不足気味の食物摂取というデータが、身体に備わる(DNA由来の?)長寿システムを起動するらしいのである。

『仏教』は、「心」や「精神」が「身体(肉体)」とは異なる原理を持ち、俗っぽく言えば、身体(肉体)が死んで消滅しても、「心(精神)」は永続するはずだと考える。
だが、『仏教』信者は、自分自身の実感からして本当は「身体(肉体)」こそが「自己そのもの」であり、身体(肉体)が死滅すれば「後は野となれ山となれ」しかないと密かに思っているのだが、それではあまりに心細いので、しぶしぶ『仏教』のドグマに期待するほかないのだろう。

『仏教』=お釈迦様の本当の教えなのではなくて、『仏教』の中のほんの一つが「本当のお釈迦様の教え」なのだと私は主張している。

古代インドの諸思想・宗教が「心(精神)」を「身体(肉体)」から分離させて、「心(精神)」の原理を追求した中で、お釈迦様は「心(精神)」=「高貴で究極の存在(不滅のアートマン)」と考えず、身体(肉体)が心(精神)と不可分に結合していることを認め、そのコントロールこそが現実的な対処法であることを証明したと思っている。

ご長寿は本来身体に備わっている仕組みが発動した時に実現するようである。
これは今はまだ、科学的に完全に説明し切れていないようだから、神秘的な側面があるが、解明されていないだけで科学研究の対象である物質の作用であることは確かなことでしょう。

身体(肉体)を大切にすることは、決してお釈迦様の教えに反することではないと考えている。
身体(肉体)と心(精神)の特性を良く知り、上手にコントロールして生きてゆくことが最善ではないか。

確かに経典では、身体(肉体)を重んじる表現は少ない。
これは、古代インドの知識水準があまりに低かったため、身体と心のつながりを誤解の無いように説明することが難しかったからであろう。
また、お釈迦様自身完全にアートマン・ブラフマン思想を乗り越えておられなかったと想像できるので、身体への執着を戒められたのだろう。

日本で声高に言われる「無我」観は、お釈迦様の教えとは無縁である。
 *一般的な無我観・・・実在の物質界を否定する考え方。
これはばかばかしい妄想である。
私たちは物質的な存在の単なる映像に過ぎない。
パソコンのモニタが、表示されている画面がどんなに不満であっても、モニタが勝手に表示を変更できるはずがない。
私たちの物質界は、想像力豊かな古代インド人も肝を潰すような奇怪至極なモノであるらしい。
古文書をためつすがめつこねくり回しているのでは埒なんかあくはずがない。
だが、本当のお釈迦様の教えを学べば、この不可解な物質界がどう変転しようとも動じることが無くなると考えている。

長寿の話しに戻ると、長寿に執着すれば、太陽系の滅亡まで生き続けなければならなくなる。
長寿に執着することなく長寿を楽しむことは、お釈迦様の教えに適うことだと思う。

五戒を無理することなく実行し、瞑想の実践によって苦(ストレス)を軽減して生きるならば、ごく自然に本来身体に備わる長寿システムを活性化させることになるのではないか。

「私」は実際には存在しない。
存在しているのは、無数の微細な物質の集合体である。
「私」は、物質が紡ぎだした「幻」に過ぎない。

「幻」を正しく「幻」と知って、その「幻」を楽しむ、それも良いのではないでしょうか。
ご長寿大いに結構!

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今朝の洗濯物をハンガーにかけ終わって、天気がいいので布団干しをした。
ところが、枕を干そうとしてベランダの手すりから落としてしまいカバーを洗濯する羽目になった。
カバー一枚なので水量は最低目盛りでいいと思ったら、洗濯機は二目盛りと判断した。
自家水道の水の出は遅い。
待つのが面倒くさい。
一計を案じた。
一目盛りの水量にちょっと追加したところで電源を切った。
間を置けばさっきのデータはクリアされる。
一呼吸を置いて電源を再投入。
洗濯スタートボタンを押す。
案の定洗濯が始まった。
機械だから杓子定規かと思えば案外そうでもない。
間抜けなところがある。

朝のルーティーンが終わって、例の3000円パソコンの電源を入れる。
上手く起動した。
上手くと言ったのは、メーカー製パソコンなので、OS起動の前にメーカーのロゴを表示するようになっている。
この表示プログラムが上手く起動しない場合があるのだ。
電源を切って(パソコンのではなく、コンセントの電源スイッチを切る、つまり、コンセントを引っこ抜くのと同じ)一呼吸を置き電源再投入で大体OK。
何故最初からOKでないのかは知識と技術がないので調べようがない。
こういう癖は他にもある。
このパソコン、買う時に気に入った理由が、HDドライブが二台ついていることだった。
一台駄目になっても、二台目にOSを入れれば使える。
しかし、よく考えるとHDを二台にするよりメインメモリを標準装備の500メガのままにしておくより、1ギガにしたほうが良かったと思う。
同じ疑問が二台のDVDドライブ装着の謎だった。
使っているうちにこれらの謎が解けたような気がする。
それがこれから話す律儀な機械にも関係がある。

標準装備でついていたDVDドライブの問題はすぐに気づいた。
ボタンを押しても、右クリックメニューの"取り出し”でも、トレイが一回で出てこないのである。
間歇的にカタン、カタンとあせっている様子が聞こえるのだが、なかなか出ない。
しかし、後から追加した方のDVDドライブはのろいのでCDR焼付けには使えない。
ところが使っているうちにあることに気づいた。
トレイにディスクが入っていると一発でトレイが出てくるのである。
試してみた。
音楽CDをトレイに入れっぱなしにしておいてから取り出しボタンを押してみた。
一発でトレイが出てきた。
次に、右クリックメニューの"取り出し”をやってみた。
またも、一発OK。
DVDソフトを使う時は、ボタンを押してトレイを出して、音楽CDとDVDを入れ替えれば良い。
DVDを使い終わったら、トレイのDVDとCDを入れ替えて(CDを入れっぱなしにして)おけば良い。

どうしてトレイにディスクが置いてあると一発でトレイが出るのか理由は分からない。
分からないが、人間的に解釈すると何か律儀な感じがした。

だが、よく考えると(考えなくてもすぐ分かることだが)二つの機械の動作の原理は同じなのだろう。
センサーとアルゴリズムが一致した結果に過ぎない。
たまたま片一方が間抜けに思えて、もう片一方が律儀だなぁと感じただけなのだろう。

今日もテストしたが、DVDトレイの動作はキチンと繰り返されている。

二台目HD増設の理由。
恐らく、メーカーロゴ表示プログラム起動がミスるのでOS再インストールのためにHDの初期化を行ったのだろうが、どうしてもメーカーロゴ表示プログラムを消去できないので、止むを得ず二台目HD増設となったのだろう。
標準装備のメーカーロゴ表示プログラムが入っているHDはスリープに設定しておけば良い訳だから。
私が3000円で買った時も、HDからメーカーロゴ表示プログラムが消去されていなかったから、多分、面倒な操作が必要なのだろう。
二つの謎解きは私の浅智慧かもしれない。
例えばもしも、メーカーロゴ表示プログラムを消去してしまうと、リカバリーCDが起動しないかもしれない。

余計なことだが、グラフィックカードはほぼ問題なく動作してくれている。

洗濯機もパソコンもアルゴリズムがROM化されていて変化する事態に自動的に対応できないが、人間はそれが二通りに可能である。
一つ目は、DNAのアルゴリズム。
二つ目は、脳のアルゴリズム。
人間といわゆる機械の違いはこれだけなのかもしれない。

究極の紐の状態変化がクオークなどで、クオークなどの集合が原子で、原子の集合が分子で、原子や分子の集合が水などの物質で、生命もそういう階層原理に基づいているのだろう。
こういう自然界の原理を知らずに古代の文献ばかり研究して人間の運命を云々するのはそれこそが間抜けな機械のお仲間入りとなるのではないか。


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     名作アニメで英語学習 Alice in Wondreland① English-Japanese-Subtitle 
       http://www.youtube.com/watch?v=asXLvzZ8So4


 *この記事は、ディズニィのアニメを対象にしています。実写映画は全く無視
  します。

お馴染み、ルイス・キャロル原作の「Alice's Adventures in Wonderland」をディズニィがアニメ化した映画のスクリプトです。
多分無理でしょうが、機関銃のような台詞を耳で聞き取りたいといろいろ工夫を始めました。
今夜は眠れず、真夜中過ぎてからスクリプトやyoutubeにアップされている日本語字幕・英語字幕・語註がある語学学習用ディズニィ・アニメを勉強しているうちに、ふと気づきました。
「あれ、アリスは夢見る女の子のはずなんだけど、夢見る大人と同じじゃないのかな」って。
 * 上のURLがスクリプト(Disney's Alice In Wonderland movie script)、
   下がディズニィ・アニメを英語学習用にしてくれたもの(名作アニメで
   英語学習 Alice in Wondreland① English-Japanese-Subtitle)。
     http://www.scifiscripts.com/cartoon/AliceScript.htm
     http://www.youtube.com/watch?v=asXLvzZ8So4


それでは、movie scriptを読んでみて下さい。
 *スクリプトと名作アニメで英語学習の双方を参考にしました。


(歴史の本を読み聞かせている姉から”もっと集中して聞きなさい”と注意されて)
Alice: I'm sorry, but how can one possibly pay attention to a book with no pictures in it? ご免なさい。でも、絵のない本なんかに夢中になれないわ。
Sister: My dear child, there are a great many good books in this world without pictures.いいえアリス、この世界には絵が無くてもすばらしい本が沢山あるのよ。
Alice: In this world perhaps. But in my world, the books would be nothing but pictures.この世界にはね。でも、私の世界ではみんな絵のある本ばかりよ。
Sister: Your world? Huh, what nonsense. Now...アリスの世界?まあ、そんなのありえないでしょう。さて...
Alice: Nonsense? ありえない...?。
Sister: Once more. From the beginning.さあもう一度はじめから。
Alice: That's it, Dinah! If I had a world of my own, everything would be nonsense. Nothing would be what it is, because everything would be what it isn't. And contrariwise, what it is, it wouldn't be, and what it wouldn't be, it would. You see? そうなのよ、ダイナ!私の世界というものがあれば、そこではあらゆるものが在り得ないものなのよ。そこにはちゃんとしたものが何も無いの。なぜって、あらゆるものがちゃんとしてないものなんだから。あべこべなのよ。そこでは、ちゃんとしたものは無くて、ちゃんとしてないものが在るのよ。わかった?
Dinah: Meow!
Alice: In my world, you wouldn't say ‘meow’. You'd say ‘Yes, miss Alice’. ダイナ、私の世界ではね、あなたは”ミュー”って鳴かないの。あなたは、”はい、ミス・アリス”って言うのよ。
Dinah: Meow!
Alice: Oh, but you would! You'd be just like people, Dinah, and all the other animals too. Why, in my world... Cats and rabbits, would reside in fancy little houses, and be dressed in shoes and hats and trousers. In a world of my own. All the flowers would have very extra special powers, they would sit and talk to me for hours, when I'm lonely in a world of my own. There'd be new birds, lots of nice and friendly how-de-do(*how-do-you-do) birds, everyone would have a dozen bluebirds, within that world of my own. I could listen to a babbling brook and hear a song, that I could understand. I keep wishing it could be that way, because my world would be a wonderland.ダイナ。そうじゃないでしょう。あなたは人と同じようにしゃべるのよ、ダイナ。他の生き物も全部そうするのよ。どうしてって、私の世界では、ネコたちもウサギたちも、小さな素敵なお家に住んでいて、靴を履いて帽子をかぶってズボンもはいているの。私の世界ではね。花たちも皆んなとっても不思議な力を持っててね、私と一緒に座って何時間もお話ししてくれるの。私が私の世界に一人っきりな時にはね。きっとまだ知らない鳥たちも沢山いるわ。優しくて親しげに「初めまして」って挨拶してくれる鳥たちがきっと沢山いるわ。誰にだって青い鳥が沢山いるのよ。私の世界ではね。さらさら流れる小川に耳を澄ませば、歌が聞こえてくるし、歌詞もちゃんと分かるのよ。そんなだったら良いなぁっていつも夢見てるの、だって、私の世界はきっと不思議な国なんだもの。



まだまだ現実世界の体験が少なく、生きることの大変さも知らない、文字通りの夢見る少女の世界です。

そしてとうとう、姉の朗読を子守唄にして夢心地となり、行きたいと思っていたアリスの国、不思議な国Wonderlandへ案内してくれるおかしなウサギを見てしまうのです。

Wonderlandの冒険の始まりです。

ところが、アリスが夢見ていた不思議の国は、決して、楽しみにしていた通りではありませんでした。
子供が想像した世界は、自分に都合の良いように設計されています。
しかし、所詮子供の浅智慧。
実際の世界についての知識も体験もわずかで、不十分なことに気づいていません。
勿論、ありのまま世界なんて全く考えたこともありません。
世界は、大人だってまだまだ全部分かってはいないのです。
全部分かるかどうかさえよく分かっていないのです。
そう、2500年前の古代インドの全ての人たちと同じようにね。
訳知り顔の大人程世界どころか自分のこともほとんど分かっていないものなのです。
まして、8才のアリスがいくら賢くて想像力に富んでいてもねぇ。
この世界は、アリスの世界より不可思議で不気味なものなのかもしれないのです。
だから、Wonderlandは次第に本性を現すのでした。
だんだんケイオチック(chaoticカオス的)な世界に振り回され始め、さすがのアリスもどうして良いのか分からなくなります。

ちなみに、原作者ルイス・キャロルは数学者で論理学者でもあったそうな。

それにしても、アリスは賢くて芯の強いしっかり者ですね。
夢のなかだからそうなのか、現実世界でもそうなのかわかりませんがね。

多分、ルイス・キャロルのナンセンスワールドとディズニィのアニメワールドは多分同じじゃないでしょう。
この記事は、ディズニィ・アニメで考えています。

Wonderlandは、アリスにとっては当初それこそが本当の理想世界でした。
しかし、姉がそうだったように、みんな大人になれば、Wonderkandを卒業します。
ウェンディもネバーランドから戻ると少女から乙女へと成長し、子供部屋から一人部屋に移る決心をしました。
ネバーランドを本当に作ったつもりだったあの人は、眠れぬ夜に苦しまねばならなかったようですね。
あらためて、あの人が天国で神様から祝福されておりますようにと願いましょう。

さてそれにしても、大人は皆本当にWonderlandを卒業していて、そんなもの必要ないのでしょうか?


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『慈悲』に関しては、『慈悲』という名目で過去幾多の無慈悲な行為が繰り返されたことでしょう。
『慈悲』という用語も多義であり、漠然とした語義が罷り通っているようです。

お釈迦様の教えを考える時、『慈悲』という語は、必ず、「人間観」と対にして考えるべき用語です。

出家をしたお釈迦様が目指されたのは、生死という不条理に翻弄される人間を静かに見つめることだったのです。
これも一言で言えば、輪廻からの解脱です。
生死を繰り返す輪廻に翻弄されなくなること、それが解脱です。
お釈迦様はどうやって解脱できたのか?
涅槃という体験による智慧を得たからです。
この智慧は、(体験したことがないので分からないが)恐らく、修行という心身全体を駆使する実践的な活動でしか得られないと思っています。

つまり、お釈迦様が考える理想的な生き方は、涅槃・解脱を体得し、輪廻の桎梏から開放された生き方だったのです。
これを最高の幸せ、安らぎと呼びました。

ところが、古代インド人の大半が、お釈迦様の説法を聴いても、出家して涅槃・解脱の実践修行を行わなかったようです。
一般人の大半は、輪廻する生存の繰り返しを選んだのです。
ただし、お釈迦様ら修行僧たちを供養して福徳を積み(貯金し)よりよい来世への生まれ変わり(天に生まれる)を目指したようです。
何故でしょうか?

それはあなた自身が一番よく知っているはずです。
古代インド人の大半も、恋愛も家庭も衣食住の楽しみも一切合切を捨てる出家修行を敬遠したのです。
また、家を捨てる出家は、親や先祖を捨てることでもあり、祖霊を祭る跡継ぎの子孫を残さないことになり、輪廻を彷徨うそれらの祖霊の苦しみを放置することでもあったのです(現代東南アジアでは、出家こそが祖霊を救う最善の道だとされている)。

さて、お釈迦様にとって輪廻の苦しみに彷徨う一般人に向ける慈悲とは何だかもうお分かりになりますよね。

それは、出家して涅槃解脱を目指し、修行によって涅槃解脱という出家の目的・為すべきことを成し遂げることだったはずです。
人々を涅槃解脱に導くことこそがお釈迦様の慈悲だと言えるでしょう。

ところが、現代日本人の中に一体何人こんな思想を信じて、人生を賭けようとする者がいるでしょうか?

お釈迦様の本当の慈悲と現代日本人の求める事柄には齟齬が見え隠れしています。

飢えという肉体的な苦しみに関しては、お釈迦様も発熱で苦しみ、托鉢食や雨安居ウアンゴ時の衣食住に事欠き飢えに苦しんだこともあったようです(パーリ律の記事)。
だが、お釈迦様は出家ですから、生業に従いません、つまり、衣食を稼ぐ仕事をしません。
経済活動は一般人の為すべきことです。
一般人の事柄は一般人に任せるほかありません。
全く無関心だったか、ホッカムリをしたかは分かりませんが、すくなくとも、飢餓や病気の苦しみなどを直接救済するつもりは無かったようです(比丘たちによる病気快癒の祈祷の禁止・結婚の斡旋活動の禁止など---パーリ律)。
もし、こういう一般社会の困苦を解消したかったのであれば、スッドーダナ(浄飯)王の後を継いで王となればよかったのです。
お釈迦様はそういう一般人の苦しみの根底にあるもっと大きな苦しみを解消させたいと願ったのです。
勿論、生死を繰り返す輪廻からの解脱です。
また、転輪聖王の道は仏伝などでは奇麗事として語られていますが、アショーカ王の事跡(カリンガ戦争の殺戮)でも分かるように、決して奇麗事で成し遂げられるものではありません。
理念を追い求めることすら許されない環境が政治の世界でしょう。
しかも、政治的な解決は常に一時的なものです。
お釈迦様に帰依した同年輩のビンビサーラ王は、実子のアジャータサットー王によって殺されます。
お釈迦様よりずっと後の出来事ですが、アショーカ王も晩年不遇であったという伝承があるようです。

ここで人間観が重要な役割を果たします。
人間の本質を問うことです。
本当の幸せとは何かという問いです。

当時の古代インド人にとって最大の問題、輪廻転生の苦しみの解消をみずから体得し、人々を涅槃解脱に至らしめる修行法も開発し、慈悲をもって忍耐強く人々を導きました。
涅槃解脱達成(成道)後、およそ四十年の長きにわたり人々を導き続けました。

お釈迦様を無慈悲と非難する方は、お釈迦様の本当の慈悲を知らないのです。
人生いろいろ、何が有るか分からないのは、2500年前の古代インドとあまり変わりません。
幸せや喜びのすぐ脇や後ろに不幸や苦しみが潜んでいるのが人生です。

目先の苦しみは妄想であるかもしれないのです(もっとも、私は物質主義者ですから、お釈迦様の涅槃解脱一辺倒ではないのですが)。
正しく、お釈迦様の本当の教えを理解することは現代日本においても非常に効用があります。

人生の生き方も色々あっていいはずです。
古いとかダサいと言う前に、一度先入観をクリアし、心の目でお釈迦様の説法に向き合って御覧なさい。
多少難解な比喩の背後に透徹した人間観を見出せます(お釈迦様の教えは、哲学でも宗教でもありません。まして、カルトとは無縁です)。
 *哲学…論理的な理解を目指す。したがって、言語が不可欠。
  宗教…論理的な理解を超えた啓示に従う。啓示が不可欠。
  カルト…超論理・超自然・反科学的な啓示に従う。反倫理的であることが多い。


お釈迦様の教えを知ること、それは、必ず、良い意味であなたの人生に対する意識を変えてくれるでしょう。

大乗仏典一辺倒ではなく、ぜひ一度、パーリ仏典をお読みください。

『仏教』を鵜呑みにして分かったつもりにならないで、お釈迦様の正しい教えを知りましょう。


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はたして、現代世界のどこかに、本当のお釈迦様の教えを体現している人を見つけられるでしょうか?

見つけられれば、俗に言う『仏教』が幻想であると分かるでしょう。

このお正月には、TVの再々再々再々再々再放送の映画を何本か視聴しました。
 *TV局よ、客寄せパンダタレントにばかり金をバラマカズ良い映画にも金
  を使いたまえ!
その中にハリソン・フォードの「インディ・ジョーンズ」シリーズ「最後の聖戦」がありました。

大好きなイギリスの俳優、ショーン・コネリーがジョーンズの父親役です。
余計な話しですが、以前はハリソン・フォードも好きでした。
理由はさっぱりした感じと愛妻家で家庭人だという触れ込みを信じたことでした。
 *残念ながら、この両方とも過去形となってしまい、ハリソンは娘のような若
  い女性と再婚し、衰えた筋肉を酷使して新妻のために金を稼ぐ哀れな老人に
  成り果て、私は愛想を尽かしました。ま、彼が普通なんだといえばそれま
  でですが。ショーン・コネリーも同じ穴の狢なんでしょうね。

ところで大事なことは、インディアナ(ジョーンズ)もヘンリー(父親)も共に人並みはずれた学識の持ち主つまり超インテリであるという点です。
ヨーロッパの政治家には、インテリが多かったようです。
 *最近は、ベ***コー*や*ルコ*などという下半身事情で忙しい政治家ば
  かり眼につきますが、イギリスの首相は伝統を守っているようです。
ラテン語ギリシャ語はもとよりさまざまな古代世界の言語に精通しているのがジョーンズ親子です。

ただし、映画上ではこの親子の精神はアンバランスで、インテリなのに俗っぽいという奇妙な特徴があります。
ハリウッドや観客の要望に応えて、本気で聖杯などというイカガワシイものを捜そうとしたのです。
まるで、現代世界のどこかに本物の『仏教』を捜すようなものですね。
 *『仏教』を捜すのではなく、阿羅漢を捜すべきなのです。ジョーンズ親子も、
  『聖杯』ではなく、イエス様が説いた神の愛を捜すべきだったのです。

ジョーンズ親子のように、お釈迦様の本当の教えを体現している聖人(阿羅漢)を見つけようとしたら、まず、お釈迦様の本当の教えを完璧に理解しなければなりません。

なぜなら、インディが聖杯を識別したように、阿羅漢を識別する必要があるからです。

そのためには、お釈迦様の教えを現代に伝える文書を読破し、現在行われている修行法を研究理解し、お釈迦様の教えを体現するとはどういうことなのかを知っている必要があります。
 *これは涅槃を目指す修行ではありません。あくまで、学問であり、研究であ
  り、探索であります。

お釈迦様は、キリスト様と違い、インドを中心とした南アジアをテリトリーとしていましたし、その教え(普通『仏教』と呼ばれている)は、南アジア・東南アジア・西域アジア・東アジアへ広まったので、文書は、サンスクリット語・パーリ語・南伝諸国語(シンハラ語・タイ語・ビルマ(ミャンマー)語など)・北伝諸国語(西域の諸言語・漢語・朝鮮語・日本語など)で書かれており、それらに精通しなければならず、また、お釈迦様の優れた研究はヨーロッパ諸国でも為されているので、英・仏・独などの言語にも堪能でなければなりません。

本当のお釈迦様の教えの体現者を見つけるには、インディ親子のような学識が必要不可欠でしょう。
その学識は、阿羅漢捜しの場合、南アジア・東南アジア・西域・東アジアの古典に精通することでしょう。

こういう手続きを省略して『仏教』について論じたり、お釈迦様のことをとやかく言い募るのは、私同様の俗人の戯言です。

『仏教』という用語に対応する普遍的で単一の思想はありません。
『仏教』という用語は、雑多で多様な思想を総称する概念です。
ですから、”『仏教』というものは・・・・・・である。”という言明は、明晰さに欠け、意味不明となります。
『仏教』の定義が不明確なままでは、『仏教』の雑多で多様な思想のうちのどれについて論じているのか不明だからです。
つまり、全く無駄な議論となってしまいます。
そもそも、”『仏教』は・・・・・である”、と議論を始める人は、何のことはない、自分が『仏教』に無知だということを宣言しているようなものなのです。

いわば『仏教』は玉石混交の宝石箱です。
本当の宝玉はたった一つです。
それは「阿羅漢」が体現しているものだけなのです。
大変なのは、雑多で多様な宝石箱の中から、このたった一つの宝玉を見つけなければならないことなのです。
 *宮沢賢治もインディのように、一生を掛けてこのたった一つの宝玉を見つけ
  ようとしました(「貝の火」「銀河鉄道の夜」「春と修羅」など参照)。ただ
  し、賢治が求めた宝玉は阿羅漢ではなく、スーパースター如来が体現してい
  るとされる本源の法(法華経が説くもの)でした。

『仏教』の議論と同じように、『仏教』の代名詞、『慈悲』や『福田』『布施』『托鉢食』などの概念と実態に関する無知が多々見られます。

そもそも、お釈迦様出家の動機は、お釈迦様当時の古代インドの求道思想家たち(バラモンやシュラマナ(沙門)などの出家修行者たち)の理想にありました。

真のバラモン・真の沙門たらんとしたわけです。

当時のインドでは、出家修行は人生の究極活動であり、出家修行者の支援(衣食住の)という行為は善い行いであり、将来の果報(天への再生)をもたらす福徳(チケット・お金)を貯金する行為になると信じられていました。

出家修行者は、衣食住獲得のために修行しているつもりはなく、究極の目標達成を目指す己の修行活動が、一般人にとっては福田という果報をもたらす福徳の源泉であるという認識があり、支援者もこの認識を共有していたのです。

ですから、托鉢に出て食事や衣服を布施・供養された時、ペコペコお礼をしたら、逆に偽修行者と疑われかねなかったでしょう。
ペコペコお礼をしたりすれば、それこそが物乞いをする乞食コジキの証拠となってしまったでしょう。

修行者が黙って門前に立てば、その修行者に真実を求めても良いと考えた一般人たちが福徳を得るために衣食を捧げる(供養する)のです。
修行者は、寝る間も惜しんで修行をするため、衣食住のための労働をしないのです。
福徳を求める一般人は、そういう修行者たち(福田)を必要としていたのです。
これが古代インド社会の通念であり、暗黙の了解事項だったのです。
ありていに言えば、お互いに利益を得ることができたというわけです(相互依存)。
この社会通念は輪廻思想を抜きにしては考えられません。
現代でも、インドや東南アジア諸国では輪廻思想が根強く人々を支配しています(拙ブログの記事参照)。
まして、2500年前の古代インドでは。

托鉢食一つをとっても、その歴史的背景、思想風土の変遷を無視しては議論が成り立ちません。



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 上:青色(R:122、G:218、B:250)
 下:クロード・モネ作『積みわら、夕陽(積みわら、日没)』
   http://www.salvastyle.com/menu_impressionism/monet_meulesa.html 




光と色彩、まだまだ疑問が山ほどあります。
ただし、光と色彩との根本的な関係に関してはこれまでの記事で明らかになっています。

光と色彩の記事を書き始めてからどんどん観察が深まっています。

空の青さは、全天一様ではなく、天頂ほど濃い青(藍)色だし、色彩の母、太陽の移動と共に微妙に変化しています。

「花は紅、柳は緑」と言語化(概念化)し抽象化してしまうと、後は、言葉遊びの世界が展開されるだけになります。
それは「苦」という概念と実際の「苦」とが異なるものであるのと同じです。
「苦」の哲学は構築可能でも、その哲学によって「実際の苦」を止滅できない理由でもあります。

朝日が昇るに従い、前の家の東向きの壁・雨戸と北向きの壁・雨戸は刻々とその色彩を変化させます。

朝日の直射を受けている東の壁と塗装の剥げた雨戸が強い光の影響で輝くような明るい色彩を反射しています。
一方、北向きの壁・雨戸は、東からの朝日の乱反射だけを反射しているため、輝きはなく、明るさも東向きと較べるとずっと弱い。
東向きと北向きの壁が同じ色のペンキで塗られたとは思えません(全く異なった色に見えます)。
明るさや鮮やかさの違いだけでなく、色彩も異なるのではないかと思われます。
このあたりの判断は、計器によるデータがないと正確さを欠くでしょう。

こうして可視光と色彩の変化を観察していると、例えば空の青色というものを、上の画像の青色(R:122、G:218、B:250)のように、ある値だけに固定しても意味がないことを実感できます(太陽の可視光を感受する人の網膜の細胞は、R・G・Bの三原色分しかない)。

こんなことを考えているうちにふと画家のモネを思い出しました。
光の画家(印象派)たちの一人であるモネは、特に色彩の変化に強い関心を抱いたようです。

上の画像(クロード・モネ作『積みわら、夕陽(積みわら、日没)』)の解説文の一部をお借ります(画像もお借りしました)。URLは下記。
  http://www.salvastyle.com/menu_impressionism/monet_meulesa.html

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本作は、画家が1888年頃から手がけ始めた≪積みわら≫を描いた一連の作品群の中の一枚で、この頃の連作群で画家が一心に取り組んだ、(同一の)対象が刻々と変化してゆく様≪状態性≫、風景を特徴つける要因の時間軸≪瞬間性≫、周囲を包む光の効果≪大気性≫がよく表れている
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モネ以前の画家たちが気づかなかった新しい美の世界を発見したモネは夢中になって絵を描いたことでしょう。
もっとも、色彩感覚が未発達な私は、(20年以上前に初めて)実際にモネ他の印象派の画家たちの絵を西洋美術館で見るまでは、つまらない藁の山の絵にはどうしても共感ができませんでした(確か、モネの積み藁の絵は展示されていなかったが)。
それ以来光の画家たちの大ファンです。

当然のことだが、モネは画家であって科学者ではありません。
しかし、実際に対象に向き合い、対象を深くするどく観察して絵を描こうとする姿勢は科学者の精神に通じるものがあります。

モネは、ゲーテと同じように、人の感受を信じ、享受しようとしました。

この姿勢は、科学者であるニュートンとは微妙に異なります。
ニュートンは、人の感受の仕組みそのものに鋭い観察の眼を向けたのです。

この立場の違いを、桜井邦朋著「光と物質」(東京教学社)からの引用で見てみます。

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そうして、ニュートンによれば、色の種類は光の物理的な属性としてあるのではなく、今の言葉でいえば、振動数(または波長)によって決まるにすぎないのだということになります。・・・・・・・。このように考えると、光から色という属性は消えてなくなってしまいます。これが、ニュートンの考えた光の本性なのです。だとすると、この光のもたらす色は、私たちの目や脳の機能により作りだされたもので、生理的なものだといってよいでしょう。・・・・・・・。ゲーテがニュートンを許せなかった最大の理由は、光から色を捨象し、波長、あるいは振動数という人間味の全然ない物理量で光の性質を表したことにあります。ゲーテの場合、自然はいろいろな要因が織り成す統一体であるはずで、自然光を切り刻んで、例えば、振動数のようなものによって表す工夫をしてしまうことに我慢がならなかったのです。
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もちろん、この対立はどちらが正しい、誤っているという類のものではなくて、どちらも認めてよいものであるはずです。

  *私の独断偏見ですが、「生理的なも」のと「物理量」とは対立概念では
   ないような気がします。今は「生理的なもの」は「物理量」として計測
   しにくいようですが、「生理的なもの」も「物理的なもの」の一部であ
   るはずだからです。

どちらも、人にとっては必要で大切な立場であり、モノであると思います。

実は、光と色彩を考えているうちに、宮沢賢治研究の新しい観点を得たような気がしています。
賢治は、科学の観点と宗教・芸術の観点の両方の立場を両立させようとしていたようなのですが、その両者を取り持つものの一つが「光」と「色彩」ではないかと気づいたのです(詳しくは後日記事にします)。
賢治は、現実に立ち向かわず、陋習のうちに閉じこもっている宗教家たちに心象スケッチ「春と修羅」を突きつけたのでしょう。

さて話しを戻します。
どうやら、ニュートンだって、ゲーテと同じような立場もとることがあったのです。
それは、例えば、引力の背後に神の存在を想定するとか、安物の金属を高貴で高価な金キンに変えることが出来ると信じた錬金術に夢中になっていたらしいことなどから推理できます。
引力という物理的現象を神という心理的な現象で納得するのはゲーテ的ですし、錬金術にいたっては、とことん自然を切り分けて法則を見出そうとするのでなく、名誉欲などの人間的な感情のままに信念だけで初志を貫徹しようとしたのですから、芸術家よりもずっと生々しい人間性を見て取れます。冷徹な観察眼はどこへ行ったのでしょうか。


こうして光と色彩について考えてみるだけでも、私たち現代人と、遥か2500年以上昔、お釈迦様が活動されていた頃の古代インドの人たちとの相違を実感せずにいられません。

古代インドの人たちがモネの絵を見たらどんなリアクションをしてくれるでしょう。
想像するだけでも楽しいですね。

それにしても、お釈迦様の悟りを考える時、古代インドという制約を無視できないのは当然ですが、出家の動機といい、七年間の修行の経過といい、ネーランジャラー河畔での悟りといい、決してご自分で納得するまでは、いかなる権威にも屈せず、鵜呑みしないという姿勢は、むしろ現代人に近いような気がします。


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