avarokitei84のblog

*はじめに。 このブログは、ヤフー・ブログから移行したものです。当初は、釈尊(お釈迦様・ゴータマブッダ)と宮沢賢治を探究してましたが、ある時点で、両者と距離をおくことにしました。距離を置くとはどういうことかと言いますと、探究の対象を信仰しないということです。西暦2020年となった今でも、生存についても宇宙についても確かな答えは見つかっていません。解脱・涅槃も本当の幸せも、完全な答えではありません。沢山の天才が示してくれた色々な生き方の中の一つだと思います。例えば、日本は絶対戦争しないで平和を維持出来るとおもいますか?実態は、戦争する可能性のもとに核兵器で事実上の武装をしています。釈尊の教えを達成したり絶対帰依していれば、戦争が始まっても傍観しているだけです。実際、中世インドでイスラム軍団が侵攻してきたとき、仏教徒の多くは武力での応戦はしなかったそうです(イスラム側の記録)。それも一つの生き方です。私は、武装した平和主義ですから、同じ民族が殺戮や圧政(現にアジアの大国がやっている)に踏みにじられるのは見過ごせない。また、こうしてこういうブログを書いているのは、信仰を持っていない証拠です。

2010年12月

地上デジタル放送移行を前にしてチューナーやアンテナを設置すべきかどうか迷っている。
政府が7月にアナログ放送廃止を決断しても直ぐにチューナーやアンテナを購入するのを控えるだろう。
最大の理由は、NHKはもとより民放のコンテンツがまともに視聴する気になれないほど低級だからである。

そういいながら、日々のフラストレーション解消と何もやる気がしなくなった時のペット代わりに視聴している。
だから、この低俗なペットなんか無ければ無いで問題はない。
やるべきことに精を出せばいいだけのことである。

最も最低なコンテンツが報道番組つまりニュースである。
かつてNHKの啓蒙番組を熱心に視聴した私だが、ある時、そういう啓蒙番組の内容の軽薄さに気づき、それ以来視聴するのを止めた。
文字通り知識の切り売りであり穴埋め番組なのである。
今はNHKの番組を全く視聴していない。
NHKの体質も理念も嫌いだからである。

だから最低な報道番組(ニュース)というのは、民放の話しである。
何が最低なのか?
ニュースを見続けても、何も分からないからである。
政治経済のニュースは断片的でカメラの後ろや隣りが全く見えないのである。
しかも、追跡取材して報道するという基本すらも守っていない。
それなのに、どんどん縮小されている肝心のニュースの時間に、久美ちゃんと桃ちゃんとかいう正真正銘のオバサンと何とかいうオジサン報道記者の三角関係を根掘り葉掘り実に熱心に取材し、しかも、報道の基本姿勢である追跡取材をキチンと実践している。
うんざりしてチャンネルを切り替え、かなりしてからもう終わったろうとチャンネルを戻すと、まだやっているという体たらく。
まさに低俗瓦版である。
キャスターのとなりには、こういう低俗なニュースから高度な経済政治のニュースまで幅広く解説できるコメンテーターなる人物が鎮座している。
神の如くにバッタバッタと見事に斬り捨てる。
神は完全無欠だから責任どうのこうのと非難される恐れが無い。
ところがこの神様、カンカラ缶だなどと軽口を叩くカンカラカンなのである。

どうしてこうなってしまったのか?
これが日本の現状だからである。
いくらなんでも、民放全局の経営陣がもともとこれほど低級・低俗だとは思えない。
また、現場のスタッフが骨の髄まで腐っているとも思えない。
NHKのような収入源を持たない民放には、その弱点を突いた圧力がかかっていると判断すべきだろう。
つまり、我々はお仕着せを押し付けられているのである。
一方、視聴者もまた低俗であり従順なのである。

こういうTVにとにもかくにも満足し、地上デジタル放送への切り替え準備を進めている日本国民の宗教観の底も奥行きも見え見えである。

かつて私もスペイン・カタルニアに今も建造が進行中のサグラダ・ファミリアに興味を持ったことがある。
ゴシック様式の尖塔や高い天井の教会建築が嫌いだったが、印象の柔らかいサグラダ・ファミリアには好感が持てた。
だが、よく考えれば、これも低俗な宗教心の表れであることに変わりは無いと気づき関心が薄れた。
   
人は何故完全無欠恒常不変な神にばかり眼を向けるのか?
神は愛と慈悲の眼差しを「全ての」「人間」に向けている筈なのだ。
何故それを信じられないのか?
いくら尖塔を高くしても絶対に神には近づけない。
神はそんな愚かな行為を人間に求めていない。
どうして神の慈愛の視線の先を見ないのか?
尖塔が無いと信仰は揺らぐとでも言うのだろうか?
神の代行業者を気取る人たちのごてごてした高価な衣服を見よ!
神はそんな彼らなんか見ていないと思う。
「愛」が神から発したものなら、神は最も弱いものを見ているはずだ。
恐らくそのことに初めて気づいたのがイエスなのだろう。
私は神が嫌いだが、そういうイエスなら尊敬する。


これからの本当の宗教の精神は次の詩のようなものだと思う。



〔雨ニモマケズ〕

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイゝトイヒ
北ニケンクワヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

(宮沢賢治「(雨ニモマケズ)」 森羅情報サービス より拝借 URL下記)
          http://why.kenji.ne.jp/index.html  


https://philosophy.blogmura.com/buddhism/ にほんブログ村 仏教

知性が低いから詰らん事にも旺盛に好奇心が湧くジジイの馬鹿話しの続きです。

前回、夕焼け空の時、頭の上が青空なのはどうしてか? と自問して、「それは、直進するという光(電磁波)の性質のためである」という思い付きを書きました。

そうです。
私たちは直進する光(電磁波)を横から見ることは出来ないのです。

私たちは、太陽が昇れば、電灯が点れば、光が満ち溢れ、明るくなって当たり前と思っています。

だが、これは正しい観察の仕方ではありません。

正しくは、みずから発光する太陽や電灯の光が眼に飛び込んできて、その光を網膜の各器官がきちんと処理し、エネルギーである光を神経を伝達する信号に変換して脳に送り、脳が信号を解読したから明るいと感じられるのです。

太陽が東の空から昇って来ても、電灯が点けられても、その光が眼に飛び込んで来なければ、決して明るくはならないし、何も見えません。

たまたまこんなことを考えながら、今朝、雨戸を開けようとした時(午前9:30分頃で太陽はかなり高くなっていました)、古くなった雨戸が歪んで隙間ができていて、丁度スリット(狭い隙間)のようになっているのに気づきました。

縦のスリットのような雨戸の隙間から朝日が射し込んでいたのです。
ふと簡単な実験を思い立ち、ドアを閉め、光がスリット以外から入らないようにしました。
スリットを正面から見ると眩しく白く輝く朝日の光を見ることが出来ます。
ところが、案の定、スリットから射し込んでいるはずの眩しく白く輝く朝日の光を横から見ると、眩しくもなく、白くもなく、輝いてもいません。
スリットから射し込む光は横からは見えないのです。
確かに光は直進しているのです。
スリットから射し込む朝日の光を見ようとしたら、スリットに正対しなければならないのです。

光が直進していることをもっと実験して確かめたくなりました。
部屋は完全な暗室ではありませんから真っ暗ではないけれど、真っ暗に近い状態です。

まず、長い間洗濯していないカーテンをバサバサ振ってみました。
埃が出て、スリットから射し込む朝日の光の進路に漂います。
すると、埃が光を反射して見事に直進する光が見えるようになりました。

次に、蚊取り線香を焚いてみました。
射し込んだ光が煙の粒子で散乱・反射して、もっとはっきりと光の進路・筋道が見えました。
その筋道は真っ直ぐです。
光が直進することがはっきり分かりました。

ところで、光と色彩の記事を書きながら、もう一つの疑問がずっと解消できずにいました。

太陽の光は、無色透明なのか、白いのかどっちなんだという疑問です。
ニュートンのプリズムの実験の図解は、暗室に射し込む光を横から見ているシチュエーションとなっています。

部屋に埃や煙や水蒸気が充満していなければ、ニュートンは射し込んでいる光も光の筋道も見えなかったはずです。
プリズムで分光された光が白い紙などに投射され、白い紙から七色の光が反射されてニュートンの目に飛び込んできて初めて(七色に分光された太陽の)光を確認できたはずです。

私はずっと光は透明だと思っていたのです。
今日始めてこの理解が間違っているのを知りました。

光は直進しているのですから、その光を見ようとしたら、光源に正対して、光源を直接見なければならないのです。
完全な暗室の中で光を横から見ようとしても光は眼に飛び込んで来ませんから、光を見ることは出来ないはずです。
この時、私は光を見ていないのですから、透明な光を「見ている」のではなく、「光を見ていない」だけのことなのです。

実験を終えて、雨戸を開け、ベランダに出て太陽に正対し太陽を直接見ました。
眩しいし危ない行為なので、ちょっと見ただけです。
太陽の色は、輝く白系の色でした。
確かに太陽の色は白系です。

二回目、今度は少しの間太陽を見続けました。
すると、何と太陽の色はたちまち紫系の色になっていったのです。
この認識(観察結果)が正常なものなのか、錯覚なのか、知識不足で判別できません。
仮に、正常であったとしても、太陽の色が紫系に変わった理由は説明できません。

ゴッホは太陽を黄色で描いています。
ゴッホには黄色に見えたのでしょうか?

昼間の空が明るく青いのはレイリー散乱のためだということを勉強しました。
散乱によって青系の光はめちゃくちゃな方向に進路を変えられます。
太陽から大気に入射した太陽光は大気の屈折率によって曲がった後は又同じ方向に直進を続けますが、レイリー散乱を受けた青系の光は、あらゆる方向から私たちの方に降り注いで来ます。
だから、空のどこを見てもあらゆる方向から青系の光がやってくるので、明るい青空を感じられるのです。

もし、散乱も反射も起こらなければ、太陽に正対し、太陽からの光を直接見なければ、月の場合と同じように、空は暗く、黒く見えるでしょう。
これは、光を見ていないということを意味します。

光が散乱・反射をしているから明るいのです。

 空の散乱反射のなかに
 古ぼけて黒くえぐるもの(詩「岩手山」)
や、
 「あ、あすこ石炭袋だよ。そらの孔だよ。」カムパネルラが少しそっちを避けるやうにしながら天の川のひととこを指さしました。ジョバンニはそっちを見てまるでぎくっとしてしまひました。天の川の一とこに大きなまっくらな孔がどほんとあいてゐるのです。その底がどれほど深いかその奥に何があるかいくら眼をこすってのぞいてもなんにも見えずたゞ眼がしんしんと痛むのでした。(童話「銀河鉄道の夜」)

で、宮沢賢治が光や暗黒について何かを訴えている時、この散乱・反射という現象は重大な意味を担っているような気がします。
賢治は、終生光(暗黒に対するものとして)の比喩を書き続けました。
 

では、部屋や、庭や、周囲の空間が明るいのはどうしてなのか?

冒頭で確認したように、明るいと感じるのは、光が眼に飛び込んでいて、眼の機能・神経経路・脳が正常に働いているからなので、最終的に脳が眼からの信号をキチンと解釈していなければ決して明るく感じることは無いようです。

しかし、太陽の光は頭上から直進してくるのですから、上を見上げないと光は眼に飛び込んできません。
光が眼に飛び込んで来なければ明るく感じません。

それなのに、周囲は明るいのです。
明るく感じているのですから、光が眼に飛び込んで来ているのです。

では、どこからやってきた光なのでしょう。

それはあなたの視野にある風物の名前を挙げてゆけば分かります。
明るいと感じているあなたが今見ている物から光はやって来ている筈なのです。

リビングのソファに座って庭や前の家を見ているならば、あなたの目に飛び込んでいる光は、庭にある枯れた草花、レンガ、枯葉、塀、石榴の木、メタセコイアの木、前の家の壁、屋根瓦、家と家の間にある青空などからやって来た光です。

昇ったばかりの朝日は空の低い位置に居ます。
太陽の光が直接当たっていない、北側の屋根・壁・窓がどうして見えるのでしょう?

これは乱反射のためのようです。
いわば、間接照明の効果です。

偽者説もある月面のビデオや写真を、本物と仮定すると、大気の無い月の地表付近は、この乱反射で何となく明るく感じます。

晴れた日の空は明るい青色です。
リビングから見た庭や前の家の周辺は、いろいろな物の明るい色や、やや暗い色などの光(色は光の成分)で明るいのです。

明るいのは、空を初めとしたいろいろな「物(風物)」の色を見ているから、明るく感じるのです。
眼に向かっていない進路を直進している光は、眼に飛び込んでこないのですから、見ていません。

「空間が透明に感じられるのは、眼に飛び込んで来ない進路の光だけが飛び交っているからなのでしょう」
つまり、透明に感じる空間というのは、実は、何も見えない(見ることが出来ない)空間なのです。
もっとはっきり言えば、「見ていない空間」なのです。

光が眼に飛び込んでくれば、色が見えるか、眩しく(白系の色に)見えるかのどちらかでしょう。
つまり、見えれば何かを感じる筈なのです。

ところで、光は真空中を秒速30万kmという途方も無いスピードで直進します。
これは裏返せば、秒速30万kmという有限の速さだとも言えます。

古代インドでは、究極の時間、これ以上分割できない(と正確に規定したかどうかまでは知りませんが)時間を刹那としたそうですが、現代では、時間はそれこそ無限に分割しています。
競馬でも、オリンピックでも0.00・・・・・・というような時間を識別しています。

何を言いたいのかというと、私たちの眼に飛び込んで来ている光は、光を発したり、反射・散乱している対象物の距離に応じて、異なる時間の光だと言えます。

星は非情に遠方にあるから分かりやすいのですが、太陽ですら、8分前の光です。
天の川銀河系の星の光ですら、最大十万光年という昔の光なのです。

普通私たちは、この時間差を考慮していません。
見ている物は、全て今この瞬間の同時刻に同時に存在している物だと感じています。

あそこに見えるあの家は、すぐ眼の前にある前の家より、0.00000・・・・・・秒前の家だなどと細かい計算をしていません。

太陽が8分前に大爆発を起こして消滅してしまっても、今この瞬間には、太陽はちゃんと空で輝いているのです。
脳は、眼に飛び込んできた情報を「今」と解釈しています。

実際には、同時である今というのは、それぞれの人の脳の中に再構成された世界にだけ存在するのです。


いや、こんな話しをこんな時間まで、ご苦労さんです。


https://philosophy.blogmura.com/buddhism/ にほんブログ村 仏教

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3


下:アメリカ・皆既月食・赤い月
 http://www.nationalgeographic.co.jp/news/news_article.php?file_id=2010122205&expand&source=gnews
もし皆既食の最中に月面にいたとしたら、「地球の周囲に赤い輪が見えるだろう。これは、その瞬間に地球上で見えるすべての夕焼けと朝焼けの赤だ」と、カリフォルニア州オークランドにあるチャボット宇宙科学センターの天文学者ベンジャミン・バレス氏は語る。
 同氏によると、地球の影にすっぽり覆われる皆既食でも月が完全に見えなくならないのは、「太陽光が地球の大気を通る際に屈折し、その一部が吸収されて、赤い光だけが月に届くから」だという。





光と色彩①~③の記事を書いた後も、いくつか引っかかることがあり時々思い出しては考えていました。

まず、明らかな間違いを訂正しておきます。

青い目の説明で、青く見えるのは<レンズの役割をしている水晶体中の微粒子で散乱する>というような説明をしましたが、『水晶体』は間違いです。
正しくは『虹彩』でした。
虹彩は、カメラの絞りと同じ役目をしているようです。
虹彩には、メラニン色素が含まれていて、その量が多いと黒っぽく見え、少ないと青に見えるようです。
キリヤ化学のサイトの説明では、メラニンの微粒子がレイリー散乱を起こしているとなっています。
 http://www.kiriya-chem.co.jp/q&a/q51.html

青い目に関する面白い記事です。
http://josh-wyxl.itmblog.com/2010/02/
BLUE EYED PEOPLE ARE ALL RELATED

Every blue-eyed person can be traced back to a shared共有する、共にする ancestor. The first pair of blue eyes appeared between 6,000 and 10,000 years ago as a result of a gene mutation突然変異, which caused a reduction削減、縮小 of melanin in one lucky human’s iris虹彩. A team of researchers analyzed 800 modern-day blue-eyed folk, from Northern Europe to the Middle East, and found that each individual shared a carbon copy of瓜二つの this particular mutated DNA segment. They concluded that all blue-eyed individuals are linked toに繋がっている the same ancestor.

眼に関しては、光が網膜に届くまでに、一番外側から「角膜」、ついで「房水」層、次に「水晶体」、そして「硝子体」という組織を通過してきます。
いずれもタンパク質と水を主成分としていて、あまり光が反射・吸収・散乱されることなく、網膜まで届く構造になっているようです。
ようするに、透明(光が通り抜け易い構造)であるということです。

以前にも眼の仕組みに付いていろいろ調べたことがあり、生命体の持つ神秘的とも言える仕組みに感動したものです。

「房水」層と「硝子体」はほとんど水なんだそうですが、角膜と水晶体の主要成分はタンパク質だそうです。
角膜は、強膜とともに眼球を包む組織で、どちらもコラーゲン(タンパク質の一種)という繊維状のものが主成分なのですが、角膜の繊維の太さは可視光の波長より細い(薄い)ために光を通過させやすく透明なのだそうです。
一方の強膜の繊維の太さは、可視光の波長に近く、ミー散乱を起こすようで、そのため白く見える(白目)のだそうです。

一方、水晶体はまた別なタンパク質(クリスタリン α、β、γの三種がある)を成分としているようです。
クリスタリンも光を通過させるために、大きな粒や繊維にまとまったりかたまったりしないようにα、β、γの三種類のクリスタリンが適時作用しあうそうです(下記URL参照)。
 http://www.kiriya-chem.co.jp/q&a/q51.html

なんという巧妙な仕組みでしょう。
同じタンパク質を上手く使い分けている訳です。
これは目だけでなく、身体全体の構造や働きにも言えることです。

生き物たちは、こういう構造・仕組み・働きを進化の過程で獲得してきたのでしょう。

進化は、突然変異と結婚などの選択とによって行われてきたと言われます。
しかし、現在のような身体の構造・働きになるまでに、一体何回突然変異が繰り返され、選択が行われてきたのでしょう。

これらの構造や働きは、高貴な精神を持つ現生人類が誕生する以前にほぼ完成していたのでしょうから、私たちの精神は、身体より遅れて発達したことは明らかです。
私たちの精神を形成するのに必要な土台は、精神が猿以下の状態の頃にほぼ出来上がっていたのです。
その頃の人類の祖先は、神もアートマン・ブラフマンも全く知らなかったでしょう。
眼と人間独特の手がなければ、高貴な精神も獲得されなかったでしょう。

話しを眼に戻します。
瞳孔は、黒い瞳の人も、茶色の瞳の人も、青い瞳の人も、みんな同じく真っ黒なようです。
瞳孔が黒い(暗い)理由は、眼の一番奥の光を認識する組織、網膜の性質にあるようです。
網膜組織は、光を吸収しなければなりません。
もし、網膜組織で光が散乱したり、乱反射したら、やたら明るくなってしまい、フィルムが感光してしまうように、外部の様子を正しく認識できなくなってしまうでしょう。
網膜組織の一部(網膜色素上皮層)には、光を感じる視細胞(明暗を認識する桿体細胞(Rods)と、色を認識する錐体細胞(Cones))で吸収しきれず反射した光を吸収する役目があるそうです。
 http://www.kiriya-chem.co.jp/q&a/q52.html
 http://ja.wikipedia.org/wiki/瞳孔
このため、角膜→房水層→水晶体→硝子体→網膜と進んできた光は、反射・散乱などを起こさず、吸収されてしまうようです。
また、虹彩が絞りの役目を果たし、外界認識に必要なだけの光を通すようになっていることも黒い瞳孔の原因となるようです。

このことは、写真の赤目現象で分かります。
暗い場所では虹彩が開いて瞳孔が大きく開き光をたくさん通すようになっています。
その状態の時に、カメラのフラッシュが光ると、虹彩の機能が追いつかず、目の奥(網膜組織前後に)に大量の光が届いてしまいます。
大量の強い光は網膜の奥の血管が沢山ある脈絡膜にまで届き、さらに、そこにある血管の赤い色を反射させ、脈絡膜(の血管)→網膜→硝子体→水晶体→房水層→角膜という順で外に出てきてカメラのフィルム(デジカメの受光素子)に赤く記録されます。
フラッシュ写真の赤目現象は、目の機能が追いつかないほどの大量の光が入ってしまったために目の奥で反射が起こってしまったために起こる現象であるようです。
眼底出血の検査の時、瞳孔を無理に開きっぱなしにさせる薬を目にさされます。
この赤目現象と同じ原理だそうです。

気になって仕方がなかったのは、西の低い空の夕焼けと夕焼け空の上空から頭の上そして頭の後ろつまり東の空のやや暗い青色です。
夕焼けの赤い空の範囲は、日によって異なります。
ずっと上空まで赤い夕焼け空になる時もあれば、山際近くだけ夕焼けになる時もあります。
しかし、西空の上空から頭の上、さらに東の空まで全部真っ赤になることはないでしょう。
これはどういう訳なのか?

小学生になったつもりで推理しました。

西空を見る時、私たちは頭の上を見る時に較べ、ずっと厚い空気の層の先に太陽を見ていることになります。
しかし、厚い空気の層と言っても、地球の直径に較べれば薄いのでしょう。
ですから、私たちが見ている西空の上空は、どんどん頭の上に近い薄い空気の層(大気の層)になるのだろうと思います。
また、夕焼けの赤い光(太陽の可視光)は散乱や反射をしない、直進する太陽光な筈です。
それに対し西空の上空を通過してゆく太陽光(つまり散乱しない赤系の波長の光)は、はるか上空を直進して行ってしまうのですから、地上の私たちの目には入らないでしょう。
したがって、西空の上空・頭の上・東空からは散乱した青色の光が目に飛び込んでくるのでしょう。

では、夕焼け空がかなり上空まで広がるのはどういう時なのか?
それは、夕焼けの赤系の光だけが直進してくる途中にこの赤系の光を乱反射のように反射させる物質がある時ではないでしょうか?
これから強い北風が吹くようになります。
季節風の強風は、余計な物質をみんな吹き飛ばしてしまいます。
そうすると、邪魔者がなくなって、赤い夕焼けの光は直進してきますから、西空の夕焼けはあまり上空まで広がりません。
ところが、雲が多い日の夕焼け空はかなり上空まで赤く染まります。
赤い光のミー散乱ではないでしょうか(なんか変な言い方ですが)。

青空の原理と海の青い色とが同じ原理だと書いたのですが、この説明には異論があるようです。


最後につい先日北海道で観測された暗赤色の皆既日食のお話しです。

大昔の人たちは気味悪がったでしょうね。

本来皆既月食は太陽光を地球が完全に遮る現象ですから、月は太陽光を受けることが出来ず、全く光らない(見えない)はずなのですが、実際は、黒っぽい月から赤い月までいろいろな色合いで見えるのだそうです。
何故見えるのか?

まず、地球の大気が直進する太陽光を曲げる(屈折させる)からなんだそうです(大気差?)。
太陽も星の光を曲げます。
これは太陽の質量の大きさが原因なようです(一般相対性原理でいいかな)。
地球にはそんな大きな質量がないから、光が曲がる原因は異なる訳です。

次に、大気層で曲げられて月に届く光が赤系である理由は、これは、夕焼けの原理と同じだそうです。
青系の光は大気層で散乱しますから、月にまで届くのは赤系の波長の光だけと言うことのようです。
天体ショーもこういう理屈を考えながら見るのもいいものですね。

https://philosophy.blogmura.com/buddhism/ にほんブログ村 仏教

一切知とか一切知者とかいう言い回しがあります。

この言い回し(表現)をそのまま字面どおりに解釈すると、言い換えると、涅槃を知らない人たちの間で共通認識を得ている用語・概念で解釈するととんだ勘違いを犯すことになります。

この場合の一切とは、解脱・涅槃(苦の止滅)に関する一切という意味だと解釈しなければ矛盾が生じます。

つまり、この「一切」というのは、『「苦の止滅に関する」「一切」』というような条件(制約)を前提しなければならないと思います。
「苦の止滅に関する」という前提を絶対に外してはいけないし、また、お釈迦様の教え・方法は、「苦の止滅に関する」事柄以外には有効でないとも言えそうです。

もっと明確に、お釈迦様が修行し・悟られ・涅槃を説いた古代インドの時代背景を踏まえて説明すれば、お釈迦様は人生の最高の目的を「苦の止滅」すなわち、「解脱」「涅槃」の達成に求めていたのだのであって、現代人の大半が追い求めているような幸せとか充実感などは眼中に無かったと思うのです。

したがって、お釈迦様が知るべき事柄、会得すべき事柄は、ただもう「苦の止滅」を達成できる事柄だけで良かったはずです。

事実、そのような説法がパーリ経典の各所に見られます。

だから、ネーランジャラー河畔の瞑想で涅槃を達成すると、最早、「アートマン」について知る必要性もなくなり、まして、今日で言う五つの感官の外部にある対象と一つの受容器官の内部の対象に関してとことん追求し、その現象・実体・本体などに関して全て(一切)を知る必要など全く無かったはずなのです。

涅槃を成就する(苦を止滅できる智慧の働きを体得する)ということは、普通の人間とは違う一種の超能力者のような生き物に変身することではなく、苦を生じさせている生得的で世間的(生育した社会の常識を真だと確信する生き方)なアイデンティティに縛られなくする新しい智慧(新しい認識機構)を体得することなのだと思っています。

私はこの年になってつくづくこの世に生まれてきたことが幸運だったのか不運だったのか疑問に思っています。

生き物には、自明な、生きている理由や目的というものを見出せません。

そういう虚無感を脱する最も良い道は、お釈迦様の涅槃だろうと思います。

だが、現代において、私が主張しているような涅槃や涅槃で達成される平安・安らぎを自分の人生の目標にする人が何人居るでしょうか?

私がお釈迦様の教え・方法は、普遍的でもなく唯一の真理でもない、必ず、前提の承認を必要とし、その前提が真であれば、真となる類の真理であると主張するのはそのためなのです。

ご存じない方も多いようですが、テーラヴァーダ仏教の比丘には、無条件で誰でもなれるのではありません。

このことは、戒律(ヴィナヤ=227条の戒律とその解説・テーラヴァーダ仏教教団で出家すること還俗する事などの決まりなどの集成)に明記されていて、例えば両性具有者とか酷い伝染病を患っている人とか、幼い幼児は出家(比丘の見習いである沙弥にもなれない)を認められていません。

もっと酷い差別がテーラヴァーダ仏教にはあります。

ヴィナヤではっきりと比丘のサンガ(修行団体)の優位(男性優位)が明記されていて、その上現在、テーラヴァーダ仏教諸国では、比丘尼(女性の出家者)のサンガが存在しません。
ですから、輪廻を信じ、解脱や涅槃(タイではニワナと呼ぶ)を本気で願っている女性は、出家して自力で達成できないのです。
現在女性たち自身によって、この旧弊を打ち破ろうとする運動が辛抱強く行われているようです。

これだけ見ても、お釈迦さまの教えが普遍的だなんて言えないことが納得できそうです(が、納得しないのか知らないのか、相変わらず唯一の真理とか無二の法だなどと戯言を言う人が多い)。

普遍的で唯一の真理であれば、無条件でどんな難問にも応じられなければならないはずです。
これをすぐさま為せるのは、それこそが古代インド人が憧れた全知全能完全無欠のアートマンであり、ブラフマンだと思います。
だが、お釈迦様はアートマン・ブラフマンを棚上げして涅槃を採用しました。

ちょっと賢い人であれば、涅槃の明知を持たなくても、世間(ごく普通の幸せや快楽を求め、人々がそれぞれの思惑を持って妥協と出し抜き合戦を続けている現実世界)を変えるられるスーパーマンなど現れるはずがないと分かります。

お釈迦様からの2500年間の歴史がそのことを証明しています。

貪欲に他の生き物を食い漁り、他の生きもののテリトリーを略奪し続けていることを知りながら、「生きとし生けるものがしあわせでありますように?」などとノタマウ仏教者や「仏教が世界平和を実現できる」と明白な嘘をつく仏教者が引きも切らないなのはどういうことなんだろうと呆れます。

経済における市場原理・競争原理は、多くの欠陥があることが分かっていても、既得権益保持者がこのおいしい方法を放棄したがらないため、よほどの革命的な変革でも起こさない限り、もっと良い方法に切り替えるのは難しいでしょう。

マッチ売りの少女のような悲劇を引き起こさないようにしたいのですが、今のところ決定的な経済原理も思想も考案されていません。
結婚・家庭・家族の通念が変わらない限りたくさんのマッチ売り少女という犠牲者が生じてしまうでしょう。
経済についてもしかり、宗教や思想についてもしかり。

宗教も思想も経済も完全に近い方法を提示出来ていないのです。

お釈迦様の教え・方法も例外ではないと思います。

お腹の空いた赤ちゃんにとっては、お母さんのおっぱいこそが最上の癒しなのです。

お釈迦様の教え・方法が最上となるのは、その教えを納得出来る人にだけなのです。

タイ東北部で涅槃を達成し、説法を続けたルアンポル・ティアン師の説法集や語録には、テーラヴァーダ仏教諸国における一般民衆の無知が随所に記録されています。

彼らは、苦の真の意味も、涅槃も知らないのです。

ドグマと教団と自分自身の生存に忠実な比丘(僧侶)たちの歪曲された説法と地域社会の因習とに従う無知?な民衆なのです。

いずれ彼らも本当の仏教とはどういうものなのか知るでしょう。

その時、果たして仏教徒であり続けるかどうかは未知ですね。

最も無知なのはお坊さんや比丘の大多数、そして、お釈迦様をスーパースターだなどと持ち上げる人たちだと感じますよ。



https://philosophy.blogmura.com/buddhism/ にほんブログ村 仏教

テレビドラマ「相棒」は好きです。
と言っても最近はやるべきことをやる気がしない時に見ていることが多いのですが(主に再放送)。

今週のは酷く辛いテーマでした。
今週の主役は、水谷さんでもミッチーさんでもなく、人生八方塞となり「死を選ぶ他無くなった男」だと思います。

テレビを見ない人のためにテーマを説明しておきます。



医療関係の資格を取り、就職活動を続けていたある男が、30歳半ば近くなってやっと正社員採用通知を受けた矢先、会社の事情か何かで採用取消となってしまい、正社員就職をまって結婚する約束をしていた恋人とも破局となり、今度は生きて行くためだけに再び就職活動を続けるために兄に援助を求めに行ったが断られ、住居も失い、臨時の仕事も見つからなくなり、名義貸しで当座をしのぐ生活となる。
夜はネットカフェで過ごす生活になってしまった。
名義貸しもいつまでも続かず、ついに試食品を食べ歩いて飢えをしのぐほどに追い詰められる。
わずかな試食品では満腹にならず、歩いて次の店に行く。歩くのでお腹が空く。次の店でわずかな量を食べる。また、次の店に向かう。途中でお腹が空く。
杉下警部が死の真相を解き明かす手がかりとなった男の携帯には、徒歩圏内の幾つもの店の名前と日時が記録されていた。
間をおいて試食品を食べに行くためである。
名義貸しの生活に落ちる前、思い切って生活保護の申請に行った。しかし、担当者の役人は、上司の指示通り受給者の増加を抑えるため、申請しても受給要件を満たせないとして申請を諦めさせる方向で説得したため、これも諦めざるを得なかった。

この私も何度か「あゝ、もう耐えられない」と思うことがありました。
ただ、私は臆病者でいい加減な性格なので、自分をぎりぎりまで追い詰めてしまうことをせず、ある段階まで苦しくなると誰か他人を責めて誤魔化してきたので、今まで生き延びてきました。
私も何度か窓から身を乗り出して飛び降りてしまおうかなという衝動にかられそうになったことがありました(脈絡も無く突如そういう思いが湧いてきました)。
もしも、男ほどに追い込まれてしまったら、あるいは、ほんのちょっとしたきっかけでこの衝動に歯止めが効かなくなっただろうと思います。

杉下警部が例の淡々とした口調でミッチーに言った。
「もしも、彼や周囲がもう一歩踏み出す勇気を持ったならば、こういう結末にならなくて済んだのでしょうがね。」
確かにそのとおりです。
おそらく、シナリオライターの方は、この台詞に無理があるのを承知だったのでしょう。
一時間ドラマの制約、民法テレビ局の制約などなどを考えると、この台詞の前までがぎりぎりの線なのでしょう。

現実には、杉下警部のような才も何も無い男は、とうとう、最後の大芝居を演じつつ人生に幕を下ろしてしまいました。
いかにも誰かに襲われたかのような防御創を残すため自分で自分の身体に切りつけてから飛び降り自殺をしました。



30台半ばの男一人なら、広い世界のどこかに何とか生きてゆける場所がありそうな気がします。
今何とか生きている私がそんな風に頭の中で考えることは出来ます。
しかし、実際となると、広い世界は急激に狭くなるのだと思います。
その体験を私は去年、たった10万円を稼ぐための職探しとやっと得た炎天下の草刈という肉体労働でホンのちょっとだけ味わいました。
その仕事を共にした人たちが垣間見せた人生も厳しいものだと感じました。
自分で仕事を見つけ、お金を稼いで生きて行くということは簡単なようで今でも本当に難しいことなのですね。

結局男は孤立してしまったわけです。
孤立無援となったわけです。

実兄はどうして援助を断ったのでしょう。
これにはそれなりの訳があるでしょう。
私自身今その問題で苦しんでいます。
板ばさみとなるのです。
あちらを立てればこちらが立たず、こちらを立てればあちらが立たず、というジレンマとなるのです。

では、誰がこの男を支援できたのでしょう。

政府が企業に大盤振る舞いをするようです。
首相は、これで失業率も少し下がると言いました。
ところが、企業家は別な思惑を持っているとテレビで報じています。
雇用拡大を期待されても困ると言いたげなんだそうです。
それもそちらのもっともな言い分なんでしょう。

では、誰が彼を支援できるのでしょう。

多分、お釈迦様が現代に現れても、この問題にはホッカムリなされるでしょう。
出家を勧めても、男は断るでしょうから。

本当に誰が、相当たくさん居るであろう彼を支援できるのでしょう。


https://philosophy.blogmura.com/buddhism/ にほんブログ村 仏教

イメージ 1

イメージ 2

見せていただくビデオ・写真は、
①北極近くのアラスカ・フェアバンクス(北緯64°50′)の冬至の日の日の出から日没までの太陽と空の様子です。
カメラを固定し、一定の時間間隔を置いて撮影したものです。
正午になっても太陽は地平線の近くにあります。
 http://www.youtube.com/watch?v=MXxRcXHI_tI

そのため、
②下の日本の夕焼け空のビデオ・写真と同じように、太陽付近の空は赤い夕焼け空のようです。
 http://www.youtube.com/watch?v=S2lSeEUatrA
 http://cumulus.web.infoseek.co.jp/
①②とも、地平近くは夕焼け、上空は(やや暗い)青空という対比となっています。

空の青さ(青い色彩)は、レイリー散乱という原理によって生じた現象だそうですが、赤い夕日や夕焼け空もレイリー散乱の一種だそうです。
なぜ太陽が地平線に沈む頃になると地平に近い空は青いレイリー散乱ではなく、赤いレイリー散乱になるのか?
これは大気の層に真上から太陽光が入射する場合と、斜めから入射する場合の違いだそうです。
夕方、太陽光は大気層のなかを昼間よりもずっと長い距離進んでくるので、途中で波長の短い光(400nmに近い方、紫青系)がどんどん散乱させられ、見ている人の眼まで紫青系の波長の光が届かなくなるそうです。
そこでレイリー散乱を受けにくい赤橙黄系の波長(800nmに近い方)の光が見ている人の眼に飛び込んでくるので赤い夕焼け空となるようです。
ちなみに、欧米人の青い瞳もレイリー散乱によるそうで、その水晶体の成分*は青い波長を散乱させる大きさなのでしょう。

 * 間違いの訂正:青い瞳といわれるのは、『水晶体』ではなく、『虹彩』と呼ばれる部分だそう
   です。「虹彩」は光を通さず、カメラの「絞り」の役目をしているそうです。「水晶体」がレ
   イリー散乱を起こして青色であったら、世界が「青色系」になってしまいますね。お詫びして
   訂正します。

一方、私に進行中の白内障が酷くなると、レンズに相当する水晶体を構成するたんぱく質が変質しサイズが大きくなり恐らくミー散乱を起こすのでしょう(間違っているかも)。
瞳は白くなるようです。 

 *水晶体は普通瞳孔と呼ばれる部分です。「瞳が白くなる」は、「瞳孔が白くなる」と言うべき
  だったようです。


さて、私たちが日常眼にしている美しい色彩というものを科学知識を借りて考察すると、実は、色彩というものが複雑な現象なのだということが分かります。

木立ダーリア(皇帝ダーリア)の優雅な姿と花びらの気品ある色彩は、その茎・葉・花びらを構成する物質による太陽光(可視光の電磁波)の反射・吸収という原理によって優雅に見えたり、気品あるピンクに見えたりするのだということが分かりました。

では反射・吸収とはどういう現象なのでしょう?

皇帝ダーリアの茎・葉・花びらを構成する物質は、当然の事ながら、分子や原子のような物質の基本粒子ですし、電磁波も質量のないエネルギーの塊で、時に波のように振る舞い、時に、粒子(エネルギーの粒)として振舞うという不可思議なモノです。

反射とか吸収という現象を、物の表面が光をはね返す、光を吸い込んでしまうというように単純に考えていますが、実際は、物を構成する分子・原子とエネルギーの塊である光が激突することなのでしょうから、もっと複雑な現象が起こっているのでしょう。

そこには色彩などという人間的な感性の入り込む余地などない、自然の法則だけに基づいて進行する現象があるだけなのでしょう。
  *もっとも、眼と脳とによって色彩を見ることも、必ず、この自然の法則に
   基づいているはずなのですが。

丁度、宇宙の遠く離れた場所で、巨大な二つの銀河が衝突してお互いが相手から物質を奪い合っている壮絶な現象も、それを望遠鏡写真で見る私たちには、美しい色彩と壮大なドラマの展開ぐらいにしか見えないのと同じようなことです。

見えている色彩の世界がそのまま本当の世界の有様なのではないということのホンの一部を①②で考察してきました。

奇麗な花・明るい青空に浮かぶ真っ白な雲などといった色彩が実は同じ現象・同じ原理によるものではないということが分かりました。

花びらの色彩は、花びらを構成する物質が持つ反射・吸収特性によるもので、いわば、その花びら固有の色彩と言っても良いものでした。
一方、空の青・雲の白という色彩の原理は、大気や雲の「層」という一種の構造が色彩の原理であり、青・白という色彩は空(の成分)・雲(の成分)の色彩ではなく、太陽光(の成分=可視光のある波長)を直接見ているのと同じでした。

空や雲固有の色だと思っていたものが、実は、太陽光の一部の色(電磁波)だったのに、私たちはそれが空や雲の色(色彩)だと思い込んでいたのです。

色彩を認識する機構(機能)を備えた私たち人間も、ある意味では(あるいはどうでもいいことかもしれないが)かなりいい加減な認識の仕方をしているわけです。

だから、私たちが見ている世界・風物・人などが、実は、見ている通り、思っている通りに存在しているのではないということになります。

例えば、人間の進化が別な方向に進み全く異なる外界認識法を獲得していたら(例えば蝙蝠人間のような高周波で外界を認識するような)色彩のない全く異なる世界を見ていたかもしれません。

また上で、*の独り言をしたように、色彩の認識や思考、感受性など私たちの全ての属性は、必ず自然界の法則に従うものでしょうから、人間が皇帝ダーリアの花びらをピンクと認識するのは法則に適っていると考えることも可能でしょう。

極端な推論をすれば、色彩を認識できる生き物が見ると世界には色彩が存在し、機器で観測すると電磁波が存在する、だから、色彩と電磁波(可視光の各波長)は解釈の仕方によって異なって認識されるのだ考えてもいいのでしょう。

ではどっちが本当なんでしょうか?
実に幼稚な疑問です。

ただ言えることは、私たちの認識の仕組みが存在するように、光(可視光の電磁波)も確かに存在し、光を反射・吸収する物質も確かに存在すると考える方が自然です。

そしてもう一つ、色彩は人間など生き物固有の認識であり、色彩が世界の本当の姿であるとは言えないということです。

本当はどれなのか、という疑問の回答は永遠に得られないのかもしれません。

とかく宗教家は、科学と宗教が対立するものの如く宣伝します。
しかし、正しい知識に縄張りはないはずです。
私はお釈迦様の教えと科学知識は決して対立しないと思います。

私たちは、科学知識を毛嫌いせず、お釈迦様の教えを学ぶ際にも大いに参照し、お釈迦様の教えを正しく学ぶ必要があると思います。


https://philosophy.blogmura.com/buddhism/ にほんブログ村 仏教

イメージ 1

イメージ 2

お釈迦様の教えの要点は、

① 自己(私)として認識できるもの(五蘊…身体と認識機構)のいずれもアートマンの特性すなわち不変性・恒常性を持っていないと承認するほかない。
② 自己(私)すなわち五蘊にアートマンの特性を見出せないので、アートマンを実現する(知る)ことで無常・苦(輪廻)から解脱出来る可能性は少ない。
③ 自己を観察することによって無常・苦(輪廻)の特性を洞察して無常・苦(輪廻)を超克(解脱)する方法を見つけた(涅槃の達成)。

簡単に言えば、人間は苦を生産する組織体であるから、苦の産生の原理を洞察できれば涅槃への道が見えてくるということだと考えています。

仏教を大乗仏教の側から学んで修行されている方には理解しにくいアプローチだろうと思います。

ところで、光と色彩の原理を喩えにして涅槃を説明すると以下のようになります。

光(可視光域の電磁波)→眼・脳→色
ありのまま→五蘊(認識する組織体)→苦(妄想)

あらゆるところを駆け巡っている光(電磁波)そのものには、色彩(色)はないそうです。
原始生命が進化を経て視覚を獲得し、色彩までも作り上げてしまったようなのです。
色彩は生命が自己の内部で創造したもののようです。
まさに世界は自己の内部にしか存在していないのだとも言えます。
ある意味でこれは素晴らしいことなのです。
しかし、人は色彩のある世界の美しさや喜びを知りましたが、その代償として、人は悲しみや苦しみも知らねばならなかったようです。

ニュートンがこの美しい世界を味気ない科学知識によって破壊していると誤解したゲーテは、ニュートンのようなものの見方に大反対をしたそうです。
ゲーテは芸術家ですから、世界を非情に分析する科学的な態度が許せなかったのでしょう。
本当かどうか知りませんが、伝聞資料によれば、死の直前ごろ(82歳で没)のゲーテが知人の孫(?)の少女に懸想してその知人に打ち明けたそうです。
ゲーテを尊敬していたその知人もさすがにこれにはうんざりして孫をゲーテから遠ざけたとか何とか書いてありました。
芸術家にはありそうな話しです。

ところが、齋藤さんによれば、そのゲーテが構造色に気づいていたらしいのです。

では、空の青・雲の白という色彩と皇帝ダーリア(の花弁)の気品のあるピンクの色彩との相違とは何なのでしょう?

まず光(電磁波)について確認をしておきます。

光(電磁波)は、波であり、粒子であるという二面性を併せ持っています。
その場に応じて、波として現れたり、粒子として現れるようです。
波として現れる時、光(電磁波)は、振動する波ですから、振動数と波長を確認できるそうです。
振動数はエネルギーの強さと関係し、波長は色彩と関係するようです。
脳が解釈できる光(電磁波)を可視光といい、紫色と解釈される400nm波長から赤色と解釈される800nm波長の範囲内の光(電磁波)です。
つまり、ニュートンが分光(分散)したように太陽光などの光(可視光の電磁波)は、無数の波長の波に分けることが可能だということです。(図参照)

では、色彩の二つの原理、
①皇帝ダーリアのピンクや緑・森の木立の緑(普通に言う色彩すなわち色の原理)
②空の青・雲の白(構造色の原理)
の相違点は何か?

①の色彩の原理は、皇帝ダーリアを例にとれば(単純化した説明です)、

皇帝ダーリアの花びら(花弁)は、赤系のピンクと解釈される長い波長の光を反射し、それ以外の波長の光を吸収する特性を持っているそうです。
①の原理の特徴は、光を反射したり吸収したりする物質自体が固有の反射・吸収特性を持っていることです。
皇帝ダーリアはピンクの波長の光を反射し、その他の波長は吸収するという固有の特性を持っているわけです。
眼に入った光の波長を色として解釈する脳から見れば、皇帝ダーリアはピンク色を持っているということになります。
また、①の原理では、反射は物質の表面(境界面)で行われます。

これに対して②の原理をまず空の青を例にとって説明すると、

空(空気、空気の成分である窒素・酸素・水蒸気などの気体分子)には、皇帝ダーリアのような固有の特性がなくて、空の成分である窒素などは無色なのだそうです。
つまり、特定の波長の光を反射・吸収しないということです。
脳から見れば、空の成分のいずれもが色彩を持っていないということになります。
このことが①の原理と②の原理の相違点の一つだと思います。
また、太陽光も青くはありません(太陽光は無色もしくは白色)。
では、晴れた日の空の色はどうして青いのでしょうか?
一言で言うと、空が青く見えるのは(脳が青いと解釈するのは)空の成分が光を散乱させるからなんだそうです。
散乱というのは、空の場合だと、窒素・酸素・水蒸気などの成分を含んだ層(媒質)の中を光が通過する際に起こります。
これに対して、①の反射は物質の表面(境界面)で起こります。
②の散乱も反射なのですが、空の層(媒質)は厚いし、空の成分は無数にありますから、ある波長の光はいろいろな成分にぶつかって何回も反射を繰り返すようです。
このように①表面(境界面)での反射と②空という一定の厚みを持った層(媒質)の中で繰り返される反射との違いが第二の相違点だと思います。
ここまで説明すると、なるほど、それでは空が青く見えるのだから、青い波長の光が空の成分にぶつかって何回も反射を繰り返すということか、とお考えでしょう。
実際そのようで、空の成分である窒素・酸素などの気体分子は小さいので、長い波長の光(赤橙黄系)はほとんどぶつからずに素通りして地上に達してしまうようです。
波長の短い(紫・藍・青系の)光が散乱を起こすようです。
また、短い波長の光全てが空の成分にぶつかって散乱し、地上に届かないのではないでしょうから、地上付近が赤橙黄色に見えることもなく、いわゆる透明な(白色の)光が一杯です。
太陽を直接見れば、太陽も太陽付近の空も青くは見えません。
太陽から離れた空が青く見えるのです。
散乱することなく全ての光の波長が地上に届けば、空は月の昼間のように暗く見えるのでしょうね(写真参照…散乱を起こしている地球の大気は青く見え、散乱という反射の無い宇宙空間は暗く見えます)。
可視光の全波長が眼に入れば、透明(もしくは白色)に見えるのですから。
空が青く見える散乱はレイリー散乱と呼ばれるそうです。
レイリー散乱によって空が青く見えるということは、ピンクの波長の光を反射する皇帝ダーリアの場合とことなり、分光(分散)した場合と同じある波長の光を直接見ていることになるようです。
つまり脳から見ると、空の青色というのは、物質の色ではなく、太陽の色の一部をそのまま見ているということのようです。
これが①と②の第三の相違点と言えそうです。

雲が白く見えるのは、ミー散乱によるそうです。
ミー散乱は、どの波長の光も反射するため、脳から見れば、再び交じり合った各波長の光が白色と成るのだそうです。
ミー散乱はあくまで散乱ですから、光の波長に比べてずっと大きい浮遊する水滴や小さな氷によって四方八方に滅茶苦茶に反射散乱された各波長の光は、ニュートンの分光実験のような直進する光とは異なるので、混じり方が異なり、透明ではなく白色として脳が解釈することになるのでしょう。

(続く)


https://philosophy.blogmura.com/buddhism/ にほんブログ村 仏教

イメージ 1

  コウテイダリア(木立ダリア/帝王ダリア) Dahlia Imperialis
このお写真は、「花花花[花の家]花花花」サイトからお借りしました。サイトURLは、
    http://www.azami.sakura.ne.jp/hana/index.html
   お写真のページは、お花(私の育てた花)の「園芸種」をクリック→「こ」行の「コウテイダリヤ」
   をクリックしてください。
   



「皇帝ダーリア(Dahlia Imperialis)」またの名を「木立ダーリア(Tree Dahlia)」というダリアをご存知でしょうか?

たまたま、さるブログ(URL下記)を拝見していて奇妙な名前のダリアを見つけ、調べてみました。この方のブログでは欧州ダリアと記載されています。
 http://blogs.yahoo.co.jp/kumotarou238/28117092.html

ご自分の庭の花と三浦半島の花などを紹介されている、”花花花[花の家]花花花”というサイト(URL下記)
  http://www.azami.sakura.ne.jp/hana/index.html
に、この皇帝(帝王)ダーリアの実物を見るような見事なお写真が載っています(写真は拡大可能ですので、モニタ一杯に写して見ると実感が増します)。
いわゆるダリアの一種のようなのですが、何と言ってもその特徴はその背の高さにあるようです。
"花花花[花の家]花花花”によると、3~4メートルにもなるとのことです。
面白いことにこのダリアは、まるで上から下を見下ろすように花が下向きに咲くようです。
ですから、人の背丈をはるかに越える高さの花なのに、その美しさを見上げることが出来るようです。

さて、これまで何度も色彩を喩えにして、涅槃の説明(勝手な思い込みの)をしてきました。

この記事は、その延長です。
ま、例によって堂々巡りです。
気が向いたらお読みください。

”花花花[花の家]花花花”サイトのお写真を無断で拝借して、今日の記事の説明をします。

お借りしたお写真は、画像のサイズが536Kバイトもあり、実に鮮明であり、詳細な観察が可能で、ありがたい限りです。
この方の実直さが良く現れているような気がします。
見る者への深い気遣いが感じ取れます。

では、本題に入ります。

お写真には、見事な青空と白い雲、緑の木立を背景にして、優美な薄いピンク色の皇帝ダーリアが写っています。

お写真をご覧になる皆さんも、同じ色彩を見ているものと思います。

そして、実はこのお写真には、もう一つ非常に重要なものが写っているのですが、それは誰もお気づきにならないでしょう。

それは色彩にとって無くてはならないモノ、太陽光、すなわち、光です。

大方の皆さんは、このお写真に写っている空・雲・木立・皇帝ダーリアなどの色彩(色)は、空・雲・木立・皇帝ダーリアの側にそのような色として存在しているのではないということをご存知のことと思います。

太陽光は、プリズムを通すことで虹の七色に分光可能であることを発見し、さらに、分光した七色をレンズとプリズムで再び混ぜ合わせると元の透明な(もしくは白色の)光になり、その光を再びプリズムで分光すると七色の虹となる、という実験を行って光と色との関係を考察したニュートンは、鋭く、光と色との関係の本質を捉えていたそうです。(齋藤勝裕著「光と色彩の科学」講談社 BLUE BACKS)

齋藤さんによれば、

『ニュートンがすぐれていたのは、彼の行った一連の実験から得られそうな結論、「赤い光には赤い色彩がある」に飛びつかなかったことです。彼は赤い光を「赤い光」とは呼ばず、「赤を作る光」と呼びました。これは光と感覚の本質を突いた言葉といわざるを得ないでしょう。』

そうです。
色(色彩)は、私たちの内部にあるのです。
光(電磁波)には、私たちが見ているような色彩(色)は無いということです。
色彩は、眼に飛び込んできた光(電磁波のうちの可視光)を網膜の視神経が電気信号に変換したものを脳が色として認識しているのだとされます。
色彩(色)は、脳が作り出したものだということです。

さて、お写真に戻ります。

このお写真に写っている色彩(色)は、実は、全く異なる2種類の色彩(色)の原理に分類できるのだそうです。
皆さんは、すぐに「あゝ、あれとあれが一つ目で、これとこれがもう一種類だよ」とすぐさま言えますでしょうか?
私は齋藤さんの本(上掲)を読んで初めて知りました。

二種類とは、
①皇帝ダーリアのピンクや緑・森の木立の緑(普通に言う色彩すなわち色の原理)
②空の青・雲の白(構造色の原理)

そもそも、色彩(色)というのは光(電磁波のうちの可視光)を脳が解釈したもののようです。
眼に飛び込む光は大きく分けて二種類あります。
A.太陽や月・星あるいは蛍光灯・レーザー光・蛍イカなどのように、自ら発光するものが放つ光と、
B.自ら発光するものが放った光を、自らは発光しないいろいろな物質(この中に皇帝ダーリアも入る)が反射(吸収)した光との二種類だそうです。

今日の記事は、「B.物質が反射(吸収)した光」について考えています。

つまり、お写真に写っている二種類の色彩原理とは、反射(吸収)の仕組みが二種類あるということなのです。

(続く)


https://philosophy.blogmura.com/buddhism/ にほんブログ村 仏教

ご訪問頂くごく少数の方々に心から御礼申し上げます。
いろいろ事情がありしばらく記事をアップできませんでした。
まだ、当分このような状態が続きますので、ご了解願います。
そろそろ、出来ることなら、私も私なりの「為すべきことは為し終えた」と言いたいところですが、これは永久に起こらないでしょう。
死ぬまで記事を書き続けることになるでしょう。
「ウダーナ」の読みのまとめ記事をアップしなければならないのですが、まだ纏まっていません。
アップ症候群の症状として思いつき記事をアップします。


さて、表題にある「特殊」と「普遍」とは、
①「特殊」…特殊相対論のように、ある条件の下で成立する事柄。
②「普遍」…特殊な条件を仮定せずとも成立する事柄。

私は、素人ではあるが、多少の学習と少々鈍らではあるが時に鋭利となる直感とによって、「仏教」という概念は、非常に多義であると断定している。
したがって、「仏教」という用語をのっけから一義的に前提し、何の概念規定もなしに議論を進めている者が居たら、彼を悪意(他意)ある者と見るか、無知な者であると見るかを見極めてから議論に加わるべきであろう。

例えば、「般若心経」についての解釈を本にまとめて世に問う場合、対象とする読者が専門家(般若心経の研究者)であり、彼らの間ではすでに「仏教」という用語の概念規定が了解されている(大多数が同じ語釈に同意している)なら、いきなり、「仏教どは」という風に議論に入っても差し支えないだろう。あるいは、自分の宗派(例えば、「般若心経」を依拠の経典とする宗派…<日本では仏教各派、特に法相宗・天台宗・真言宗・禅宗が般若心経を使用し、その宗派独特の解釈を行っている。from wikipedia>)の専門家・信徒向けの本でもそれで通るだろう。
しかし、一般向けの(専門家・宗派・一般人向け、つまり、あらゆる人を対象にした)本として公開するのであれば、良心的な著者であるなら、「仏教」の概念規定から始めるであろう。なぜなら、日本においては、「仏教」の概念規定は未だに曖昧であり、あるいは、故意に曖昧なままに放置されているからである。
他意ある著者や無知な著者のためにもう少し分かりやすく言うと、多々ある仏教の支流(セクト・部派・宗派)のどれに立脚した本なのかを正直に述べて、著者の仏教的立場・観点を明確に読者に示すべきなのである。
勿論、本の冒頭(前書き・はじめに・序言など)にこれを明示すべきである。
出版社は(或いは、儲けを狙っているのであれば著者も)販路を狭めるこういう表明は嫌うであろうが、断固としてこれを行うべきである。

このことは、「経典」「ブッダ」「如来」というような「仏教」の議論に必ず使用される概念についても同様に適用される。
いずれも、初期(原始)仏教・部派仏教・初期中期大乗仏教・後期大乗仏教・日本の宗派仏教(特に鎌倉以降の)における語義が異なると思われるからである。

巨視的に見ると、日本という国は宗教的に中立であると勘違いされそうなくらい宗教に関して無関心であり、寛容である。だが、微視的に見れば、小さな宗派グループ同士・グループ内での対立は激烈な様である。
日本では「仏教」は、宗教であるという認識(「仏教」の概念規定の一部)は不動なようであり、異なる宗教同士はなかなか融和し難い。

科学の議論は、必ず検証を伴うので、最終的には一義的な方向に進まざるを得ないが、宗教の議論は検証不可能な事柄が多く、したがって、融和(普遍化)の方向に進み難い特性がある。
全ての宗教が、精神を物質よりも優位にあると固執せずに、精神は物質の下位に位置するものだと合意すれば案外すんなり融和が進むのだが、なかなかこれは精神的に受容しづらいであろう。

一般向けに公開(市販)されている本は、専門知識の無い一般人を啓蒙するという重要な役割を果たしている。
無知は誤解を拡大し、いらざる不安を煽り、無益で不毛な対立の元となりかねない。
正しい啓蒙は重要である。
しかし、悪意(他意)ある意図的な動機付けを目論んだり、著者が無知であるためにかえって無知を増幅するような本は、啓蒙書としての役割を果たさず、むしろ、害悪でさえある。

お釈迦様の教えの根幹は、涅槃にありと私は断定している。
これまで素人なりに、お釈迦様の「涅槃」とは何かを定義しようと努力してきた。
一応私なりの定義はほぼ終了した。
つまり、「涅槃」の概念規定を提示できそうな時点まで来たと思っている。
勿論、私は阿羅漢ではないから、涅槃達成者の視点・観点からの定義ではない。
これからお釈迦様の教えを実践しようとする修行者・瞑想者の視点・観点からの定義である。
つまり、私はこれから何を目指して精進しようとしているのかを確認することであり、いわば、八正道の正見に当たる。
阿羅漢は無学であり、八正道という筏は不要である。
八正道も筏であり、涅槃に至る手段の一つに過ぎない。

まとめの作業は少々時間を要する。

普通「仏教」は、物理学でいう完全な統一理論(あらゆる現象を説明できる理論)のようなものだと説明される。
つまり、普遍性を持っていると「仏教」関係者は自認しているようなのだ。

しかし、私はこの認識に納得が行かない。
お釈迦様の「涅槃」は、「特殊」の範疇に入るものだと思えるのだ。
お釈迦様の「涅槃」が「普遍」の範疇に入るものだと仮定すると、「無記(大方が納得する結論を導けそうに無い問題解決の棚上げ)」が障害となる。
「普遍」であるなら、あらゆる現象を明解に説明できなければならないと思うからである。
同じ現象を説明する普遍性を持った理論が複数あったら、これは普遍とは言えないだろう。
日本の仏教論のほとんどは「特殊」理論であると思っている。
これは他のどんな宗教理論についても当てはまると思う。    

「特殊相対論」が、加速や減速の無い一様な運動(静止も運動のひとつ)という前提で成り立つように、お釈迦様の「涅槃」というのは、「無記」と「非我(自己のどこにもアートマンを確認できなかった)」を前提にして、無常・苦の克服法を確立したものなのではないかという予想が可能である。

したがって、現象と実体(アートマン・ブラフマン)というお釈迦様以前の課題は未解決なままである可能性が高い。
お釈迦様は、断滅論(肉体の死とともに精神も消滅する)と常住論(肉体と精神はことなり、精神は不滅)のどちらかを支持することなく、その決断を棚上げにしたとされる。
そういう意味で、お釈迦様の「涅槃」論は、特殊(前提条件を必要とする)理論である可能性があるということ。

パーリ経典のホンの一部しか読んでおらず、実践も深まっていない者が偉そうにいえる事柄ではないのだが、自分のためだけにも、決着をつけておくべき問題である。
多くの経典で、涅槃達成者が、「最後の身体を保つ」という言い方をしており、無余涅槃という言い方もあることから、お釈迦様や他の阿羅漢たちが、涅槃達成後にも「身体」の影響を無視できなかったことがうかがわれる。
明らかに「身体」は「縁起」や「涅槃」の外側に在ると想像できる。
  *輪廻思想における輪廻する主体・実体(のようなモノ)は、身体(肉体)ではない。
   なぜなら身体(肉体)は死ぬと消滅してしまうことが誰の眼にも明らかだったからだ。
   インドでも中国でも、輪廻するモノは両親の性交中に体内に入り込むと説明されている。
   アートマンの思想を結びつければ分かりやすい。
   アートマンは身体(肉体)ではない。 
分かりやすく言えば、三悪(生死の妄想や怒り嫌悪苦楽などの思い)は涅槃という手段で超克可能だが、身体(肉体)は「死」によってのみ止滅可能だったということ。
涅槃によって身体(からの働きかけ)のコントロールは可能となったが、身体(肉体)の活動そのものを止めようとすると自殺(絶食などによる衰弱死を含む)以外方法が無かった。
お釈迦様でも身体からの働きかけは常にあった。
  *食欲(とは言いたがらないが)や排尿欲が無くなったらお釈迦様でも死ぬし、風邪を引いたり
   下痢をすれば発熱し苦痛もおこる。お釈迦様もこういう時は、涅槃のコントロールだけでは
   耐え切れない場合があったようだ。いわゆる薬・湯を弟子を通して布施されている。
   お釈迦様の死をアーナンダのせいにする経典があるが、実際は激しい下痢を伴う食あたり・
   感染症と老衰の合併症であろう。
   妄想の死(魔)には勝利したが、身体(肉体)の衰弱老化疾病には勝てなかったのだ。
   ただし、お釈迦様の涅槃にとっては、これは敗北ではない。
   衰弱老化疾病に勝てないことが分かっていたから涅槃を必要としたのである。
その働きかけをコントロールする技が涅槃である(涅槃達成者における気づきsatiに関しては研究中)。
つまり、身体は涅槃の埒外であるということである。
したがって、一切は現象に過ぎないとか、実体は無いとか、全ては縁起しているだけだというような軽い真理観には到底納得出来ないので、「涅槃」の最後の詰めは大変面白くなりそうだ。



https://philosophy.blogmura.com/buddhism/ にほんブログ村 仏教
       ↑
 この記事に多少でも納得したらクリックしてください。

↑このページのトップヘ