1、S.N.ゴエンカ先生の説明(「ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門」春秋社)
ヴィパッサナー瞑想法の修行によって、反応しないでいる、ということを学ぶことができる。ある瞬間、一つもサンカーラをつくらない、ひとつも心に新しい刺激をあたえない、そういう状態をつくる。すると心の流れはどうなるだろう? 完全に反応をやめても心の流れが瞬時に止まることはない。過去にたくわえた反応があるからだ。古い反応が心の表面に浮かび上がり、心の流れを継続させてゆく。過去の条件付けがはたらき、過去の反応が再現され、その力によって意識はつぎの瞬間へと継続して流れてゆく。過去の条件付けはそれぞれ特異なカラーパをつくってからだにあらわれる。瞑想者はそれを感覚として体験することになる。過去の嫌悪のサンカーラが浮かび上がり、それがカラーパとなって物質化し、からだが焼けるような不快な感覚を生じるかもしれない。その不快な感覚をきらって反応すると、新たな嫌悪が生じる。すると意識の流れに新たな刺激があたえられ、過去にたくわえた反応を表面に浮かび上がらせるチャンスを失う。
不快な感覚が起こってもそれに反応しなければ新しいサンカーラは生まれない。そのとき、心の奥底にたくわえられた過去のサンカーラが表面意識に浮かび上がり、そして消えてゆく。次の瞬間、また過去のサンカーラがからだの感覚となってあらわれる。こんども反応しないでいる。すると、またそのサンカーラが消えてゆく。このように、心を平静にしていれば古いサンカーラが感覚というかたちになって、つぎつぎと心の表面に浮かび上がる。だから、からだの感覚に気づき、心の平静さを保っていれば、徐々に過去の条件付けを消滅させることができるのである。(p153-154)
不快な感覚が起こってもそれに反応しなければ新しいサンカーラは生まれない。そのとき、心の奥底にたくわえられた過去のサンカーラが表面意識に浮かび上がり、そして消えてゆく。次の瞬間、また過去のサンカーラがからだの感覚となってあらわれる。こんども反応しないでいる。すると、またそのサンカーラが消えてゆく。このように、心を平静にしていれば古いサンカーラが感覚というかたちになって、つぎつぎと心の表面に浮かび上がる。だから、からだの感覚に気づき、心の平静さを保っていれば、徐々に過去の条件付けを消滅させることができるのである。(p153-154)
2、ルアンポル・ティアン師の説明(「A Manual of Self-Awareness」和訳文はavaroに文責))
今、100の思考が生じてきたとして、気づきが働いたのはたった10だったとしますと、私たちは残りの90(の生じてきた思考)に気づきを働かせることが出来なかったわけです。・・・・・。その結果今や、私たちは90の思考に気づきを働かせるようになり、さらに、95に気づきを働かせられるようになります。・・・。
この時点に到達する以前は、心は暗闇の中にあって、この(ニッバーナ達成へと確実につながる)ブッダの道を全く知らなかったのです。心が(次々生じてくる)思考に追いつき(100%気づきを働かせられるようになると)、心は自ら暗闇を明るく照らして光るのです。(勿論)この光は、肉眼で物を見る時のような(心の)外部にある光では有りません。心自体が何ものにも束縛されず光るのです。この光のことを智慧の光(wisdom eye)と呼び、ヴィパッサナーのパンニャ・ニャーニャ(Panna Nana of Vipassana)すなわち洞察力(Insight)が生じたと言います。
・・・・・・
訓練修行を続けなさい。パンニャ(洞察力・本当の智慧)が働くままにさせなさい。もはや、この活動に関してはどんな教師や聖典からも学ぶべきものはありません。
パンニャが洞察の対象をあるがままに知ってゆく(penetrate)と、心は一段一段開放されてゆきます。その階梯は5段階あります。第一ジャーナ(心で洞察の対象を見、知り、触れる段階)、・・・第五と続く。
私たちがこれらの洞察の対象を知り、見、あるがままに知ってゆく(understand)と、思考が生じるのがどんどん速くなります。
私たちが最終段階に達すると、ニャーニャ(Nana)が自ずから生じてきます。かつて私たちがこの段階に達した時、私は「ブッダはたった一度だけ自分の髪の毛を切ったのだ」という話しの真意が分かりました。
・・・・・・・
私が「これ」(”This”)を見て、知って、ありのままに知った時私は、「おー! ブッダは・・・切っただけなのだ」という話しは、実際に頭に生えている髪の毛のことを言っているのではないということを本当に理解できました。それは「これ」(”This”)を切ったということなのです。離れて立っている二本の柱にロープをピンと張っておいて、そのロープを真ん中で切ったならば、それぞれ(ロープは)柱のところへ飛んでゆきます。そして、ロープを二度と元通りに一本にくっ付けることは出来ません。(p32-33あたり)
この時点に到達する以前は、心は暗闇の中にあって、この(ニッバーナ達成へと確実につながる)ブッダの道を全く知らなかったのです。心が(次々生じてくる)思考に追いつき(100%気づきを働かせられるようになると)、心は自ら暗闇を明るく照らして光るのです。(勿論)この光は、肉眼で物を見る時のような(心の)外部にある光では有りません。心自体が何ものにも束縛されず光るのです。この光のことを智慧の光(wisdom eye)と呼び、ヴィパッサナーのパンニャ・ニャーニャ(Panna Nana of Vipassana)すなわち洞察力(Insight)が生じたと言います。
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訓練修行を続けなさい。パンニャ(洞察力・本当の智慧)が働くままにさせなさい。もはや、この活動に関してはどんな教師や聖典からも学ぶべきものはありません。
パンニャが洞察の対象をあるがままに知ってゆく(penetrate)と、心は一段一段開放されてゆきます。その階梯は5段階あります。第一ジャーナ(心で洞察の対象を見、知り、触れる段階)、・・・第五と続く。
私たちがこれらの洞察の対象を知り、見、あるがままに知ってゆく(understand)と、思考が生じるのがどんどん速くなります。
私たちが最終段階に達すると、ニャーニャ(Nana)が自ずから生じてきます。かつて私たちがこの段階に達した時、私は「ブッダはたった一度だけ自分の髪の毛を切ったのだ」という話しの真意が分かりました。
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私が「これ」(”This”)を見て、知って、ありのままに知った時私は、「おー! ブッダは・・・切っただけなのだ」という話しは、実際に頭に生えている髪の毛のことを言っているのではないということを本当に理解できました。それは「これ」(”This”)を切ったということなのです。離れて立っている二本の柱にロープをピンと張っておいて、そのロープを真ん中で切ったならば、それぞれ(ロープは)柱のところへ飛んでゆきます。そして、ロープを二度と元通りに一本にくっ付けることは出来ません。(p32-33あたり)
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