avarokitei84のblog

*はじめに。 このブログは、ヤフー・ブログから移行したものです。当初は、釈尊(お釈迦様・ゴータマブッダ)と宮沢賢治を探究してましたが、ある時点で、両者と距離をおくことにしました。距離を置くとはどういうことかと言いますと、探究の対象を信仰しないということです。西暦2020年となった今でも、生存についても宇宙についても確かな答えは見つかっていません。解脱・涅槃も本当の幸せも、完全な答えではありません。沢山の天才が示してくれた色々な生き方の中の一つだと思います。例えば、日本は絶対戦争しないで平和を維持出来るとおもいますか?実態は、戦争する可能性のもとに核兵器で事実上の武装をしています。釈尊の教えを達成したり絶対帰依していれば、戦争が始まっても傍観しているだけです。実際、中世インドでイスラム軍団が侵攻してきたとき、仏教徒の多くは武力での応戦はしなかったそうです(イスラム側の記録)。それも一つの生き方です。私は、武装した平和主義ですから、同じ民族が殺戮や圧政(現にアジアの大国がやっている)に踏みにじられるのは見過ごせない。また、こうしてこういうブログを書いているのは、信仰を持っていない証拠です。

2010年11月

1、S.N.ゴエンカ先生の説明(「ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門」春秋社)

ヴィパッサナー瞑想法の修行によって、反応しないでいる、ということを学ぶことができる。ある瞬間、一つもサンカーラをつくらない、ひとつも心に新しい刺激をあたえない、そういう状態をつくる。すると心の流れはどうなるだろう? 完全に反応をやめても心の流れが瞬時に止まることはない。過去にたくわえた反応があるからだ。古い反応が心の表面に浮かび上がり、心の流れを継続させてゆく。過去の条件付けがはたらき、過去の反応が再現され、その力によって意識はつぎの瞬間へと継続して流れてゆく。過去の条件付けはそれぞれ特異なカラーパをつくってからだにあらわれる。瞑想者はそれを感覚として体験することになる。過去の嫌悪のサンカーラが浮かび上がり、それがカラーパとなって物質化し、からだが焼けるような不快な感覚を生じるかもしれない。その不快な感覚をきらって反応すると、新たな嫌悪が生じる。すると意識の流れに新たな刺激があたえられ、過去にたくわえた反応を表面に浮かび上がらせるチャンスを失う。
不快な感覚が起こってもそれに反応しなければ新しいサンカーラは生まれない。そのとき、心の奥底にたくわえられた過去のサンカーラが表面意識に浮かび上がり、そして消えてゆく。次の瞬間、また過去のサンカーラがからだの感覚となってあらわれる。こんども反応しないでいる。すると、またそのサンカーラが消えてゆく。このように、心を平静にしていれば古いサンカーラが感覚というかたちになって、つぎつぎと心の表面に浮かび上がる。だから、からだの感覚に気づき、心の平静さを保っていれば、徐々に過去の条件付けを消滅させることができるのである。(p153-154)

2、ルアンポル・ティアン師の説明(「A Manual of Self-Awareness」和訳文はavaroに文責))

今、100の思考が生じてきたとして、気づきが働いたのはたった10だったとしますと、私たちは残りの90(の生じてきた思考)に気づきを働かせることが出来なかったわけです。・・・・・。その結果今や、私たちは90の思考に気づきを働かせるようになり、さらに、95に気づきを働かせられるようになります。・・・。
この時点に到達する以前は、心は暗闇の中にあって、この(ニッバーナ達成へと確実につながる)ブッダの道を全く知らなかったのです。心が(次々生じてくる)思考に追いつき(100%気づきを働かせられるようになると)、心は自ら暗闇を明るく照らして光るのです。(勿論)この光は、肉眼で物を見る時のような(心の)外部にある光では有りません。心自体が何ものにも束縛されず光るのです。この光のことを智慧の光(wisdom eye)と呼び、ヴィパッサナーのパンニャ・ニャーニャ(Panna Nana of Vipassana)すなわち洞察力(Insight)が生じたと言います。
 ・・・・・・
訓練修行を続けなさい。パンニャ(洞察力・本当の智慧)が働くままにさせなさい。もはや、この活動に関してはどんな教師や聖典からも学ぶべきものはありません。
パンニャが洞察の対象をあるがままに知ってゆく(penetrate)と、心は一段一段開放されてゆきます。その階梯は5段階あります。第一ジャーナ(心で洞察の対象を見、知り、触れる段階)、・・・第五と続く。
私たちがこれらの洞察の対象を知り、見、あるがままに知ってゆく(understand)と、思考が生じるのがどんどん速くなります。
私たちが最終段階に達すると、ニャーニャ(Nana)が自ずから生じてきます。かつて私たちがこの段階に達した時、私は「ブッダはたった一度だけ自分の髪の毛を切ったのだ」という話しの真意が分かりました。
 ・・・・・・・
私が「これ」(”This”)を見て、知って、ありのままに知った時私は、「おー! ブッダは・・・切っただけなのだ」という話しは、実際に頭に生えている髪の毛のことを言っているのではないということを本当に理解できました。それは「これ」(”This”)を切ったということなのです。離れて立っている二本の柱にロープをピンと張っておいて、そのロープを真ん中で切ったならば、それぞれ(ロープは)柱のところへ飛んでゆきます。そして、ロープを二度と元通りに一本にくっ付けることは出来ません。(p32-33あたり)



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過去記事の再掲です。

*** お釈迦様のご遺戒を読む・These were the last words of the Tathagata ***
          (マハーパリニッバーナ・スッタより)


私がもっとも心に留めている句がマハーパリニッバーナ・スッタの第六章に記述されている下記の引用部分です。
ただ、今日までこの句は、中村先生の訳(下記の岩波文庫版)でのみ読んでいました。
パーリ原文は理解できないので、他に方法がなかったのです。

今回、ネット上に英訳を何種類か見つけたので、中村先生の訳を基本にして、較べながら読んで、お釈迦様の遺戒の意味するところを探ってみたい。

まず、お釈迦様の遺戒(弟子たちへの最後の教え)を読んでください。

①中村元訳

そこで尊師は修行僧たちに告げた。--
「さあ、修行僧たちよ。お前たちに告げよう、『もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成しなさい』と。」
 (「ブッダ最後の旅 大パリニッバーナ経」岩波文庫)

②Translated from the Pali by Thanissaro Bhikkhu

Then the Blessed One addressed the monks, "Now, then, monks, I exhort you: All fabrications are subject to decay. Bring about completion by being heedful."
Those were the Tathagata's last words.
 (http://www.greatwesternvehicle.org/ati_website/canon/index.html)

③Translated from the Pali by Sister Vajira & Francis Story

  • Then the Bhagava said to the bhikkhus:
    O Bhikkhus, I say this now to you: "All conditioned and compounded things (sankhara) have the nature of decay and disintegration. With mindfulness endeavour diligently* (to complete the task)"**
    These were the last words of the Tathagata.
    (www.dhammaweb.net )

  • ④翻訳者はミャンマーの方らしい

    8. And the Blessed One addressed the bhikkhus, saying: "Behold now, bhikkhus, I exhort you: All compounded things are subject to vanish. Strive with earnestness!"[58]
     This was the last word of the Tathagata.
    中村先生の註にこのような説明があります。

    (1) 怠ることなく修行を完成しなさい---ぼんやりと放心することなしに、気をつけて、一切のなすべきことを実現せよ。
    (2) これが経典自身のいうように、如来の最後の教えであるから、いかに重要視されていたかが解る。ブッダゴーサは註解して言う、『このように世尊は大パリニッバーナ(avaro註:般涅槃=完全な涅槃=完全な心の解脱・身体の止滅=普通の人のご臨終)の床によこたわって、45年間に説いた一切の教えを、<怠ることなかれ>という唯だ一つの句のうちに要約して、与えたのである。』
    これによると、仏教の要訣は、無常をさとることと、修行に精励することとの二つに尽きることになる。無常の教えは、釈尊が老いて死んだという事実によって何よりもなまなましく印象づけられる。それがまた経典作者の意図であった。ところが年代の経過とともにゴータマ・ブッダは仏として神格化され、仏の出現は稀であるとか、仏の身体がみごとであるとかいう神学的思弁が諸異説のうちに付加されることになった。

    先生の説明は傾聴に値するお言葉だと思います。

    しかし、私が気になって仕方がなかったのは、<もろもろの事象は過ぎ去るものである>です。これをどう解釈してどう訳しているか。

    ①”もろもろの事象は過ぎ去るものである”
    ②”All fabrications are subject to decay”
    ③”All conditioned and compounded things (sankhara) have the nature of decay and disintegration”
    ④”All compounded things are subject to vanish”

    これがお釈迦様の悟りの真実であり、修行はこのこと(無常性)を体験的に知ることだと思っているのですが、欧米人やミャンマー人はどう解釈しているのでしょうか。

    ②fabrication=作られたもの、という意味だが、同時に、うそ・でっちあげ(作り事--作り話)・偽造というような意味もある。
    subject=主題などの意味の他に、対象・被験者というような意味もあり、~する(される)モノ、というような感じか。英英に、the thing you are talking about or considring in a conversation, discussion etc.とある。
    decay=朽ちる、崩壊する、衰える。英英には、to be slowly destroyed by a natural chemical process.
    ③conditioned=to control or decide the way in which something can happen or exist.~を適当な状態にする、~を条件として設ける。
    compound=を混ぜ合わせる、を作り上げる、を構成する。英英には、to make something by mixing different parts or substances together.
    disintegration=崩壊、分解、風化。英英には、to become weaker or less united and be gradually destroyed.
    ④vanish=to disappear suddenly, to suddenly stop existing.突然見えなくなる、消える、消えてなくなる、姿を消す、去る

    さて、貧弱な英語力で適当な訳語を見つけて並べ立てました。

    中村先生の訳語、<事象>に相当する英語は、
     ②fabrications
    ③conditioned and compounded things (sankhara)
    ④compounded things

    であり、<過ぎ去るもの>に相当する英語は、
     ②subject to decay
    ③the nature of decay and disintegration
    ④subject to vanish

    です。

    ”事象”とは、作られたもの・構成されたものであり、作り話のような性格があると受け取られているらしい。重要なのは、sankhara(サンカーラ。五蘊の内の”行”に当てはまるもの。人間が外部や内部からの刺激に対応して作り出した想念--苦楽・快不快など、全ての価値観はこの”行”で人が作り出したもの)という語です。これが原語なのかもしれない。それと、conditionedには、縁起の考え方が込められているのかもしれない。この世の存在(現象)は、全て、因果関係で生じ滅するというのが仏教的な理解だと思いますから。~を条件として生じた、というような感じを持たせたのかもしれない。

    ”過ぎ去るもの”とは、衰え壊れてなくなるもの。消えてなくなるもの。

    これが欧米人やミャンマー人の「無常観」なのでしょうか。

    A.お釈迦様の人間観・世界観がこういうものであれば、もともと不変なものが有るはずがないということです。これが本当の”無我”なんでしょう。

    B.ところが、現実には、私たちは自分という確固たる自我を確信し、それを何よりも大事にしている。

    結論として、私の理解した”お釈迦様のご遺戒”はこうなります。

    ”この世のありとあらゆるものは、人が妄想で作り上げたものである。人が作り上げたものは、絶えず変化し、いずれ衰え、消えてなくなるものである。(そのことを体験的に知れば、心安らぐ。だから)ぼんやりと放心することなしに、気をつけて、一切のなすべきこと(体験的に知ること)を実現せよ。”

    ニッバーナ(涅槃)とは、まさに、BからAへのchangeです。
    しかも、ものすごく難しいchangeです。
    私に出来るか全く自信がない。


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    過去の記事の再掲です。
    涅槃を楽しんでいるお釈迦様に在家が問いかけます。

    ***** 森も藪も根こそぎにしました---サンユッタ・ニカーヤⅠ.7.2.7より *****


    或るとき尊師はコーサラ国で或る林の荒地にとどまっておられた。
    そのとき、新たなものによる職人であるバーラドヴァージャ姓のバラモンがその林の荒地で仕事をしていた。
    新たなものによる職人であるバーラドヴァージャ姓のバラモンは、尊師が或るサーラ(沙羅)の樹の根もとに坐して、足を組んで、身体を真っ直ぐに立てて、まのあたり気を落ちつけておられるのを見た。
    見てから、かれはこのように思った。--「わたしはこの林の荒地で、仕事をしながら楽しんでいる。この〈 道の人 〉ゴータマは何をして楽しんでいるのだろうか?」と。
    そこで、新たなものによる職人バーラドヴァージャ姓のバラモンは、尊師のもとにおもむいた。近づいてから、尊師に向かって詩で語りかけた。--
       「托鉢者よ。あなたは、サーラ樹の林でどんな仕事をなさるのですか?
     ゴータマよ。森の中にただ独りいて楽しみを見出すとは--」
    [尊師いわく、--]
       「わたしは、森の中で為すべきことはありません。
     森も藪も、わたしは根こそぎにしました。
    だからわたしは林の中にいても、煩悩の繁みなく、棘に刺されることもありません。
    わたしは不快を捨て去って、独りで楽しむ。」
    (この後は引用省略)
     (中村元訳「ブッダ 悪魔との対話 サンユッタ・ニカーヤ」岩波文庫)

    バーラドヴァージャ姓のバラモンは、”仕事”をして楽しんでいる。
    お釈迦様は、”何もせず(為すべきことなく)”楽しんでいる。

    ”森も藪も”は、煩悩の繁み、煩悩の刺激というような意味の比喩か。

    中村先生が註で言われているように、ここに描かれたお釈迦様は、托鉢者よ、ゴータマよ、と尊称なしで呼びかけられるような存在であった。

    私はこういう描写をされているお釈迦様が好きだ。
    ニッバーナとは何なのかをありのままに記述し私に教えてくれていると思えるから。

    同じような状況の出来事を記述したものがすぐ後にあった。
    しかし、表現はがらりと変わっているような気がする。
    偈の部分だけ引用させていただきます。

    サンユッタ・ニカーヤⅠ.7.2.8より

    バーラドヴァージャ姓のバラモンは・・・、尊師に向かって詩で語りかけた。--
       「奥深いすがたの、いとも恐ろしい林の中で、
     人を離れた、空虚な森に入って、
    あなたは、動揺せず、安立せる妙なるすがたで、いともみごとに瞑想する。托鉢修行者よ。
    歌詠もなく、音楽もない森の中で、
    聖者はただ一人で林に住んでおられる。
    ただ独りで心喜び林の中に住むとは、すばらしいことだと、わたくしにはおもわれます。
    この方は、無上の三天、世界の主(梵天)と共住することを望んでおられるのだ、とわたくしは思います。
    [そうでなければ]どうして、あなたは、梵天に達するために、人のいない森に住みついて、ここで苦行をなさるでしょう。」
    [尊師いわく、--]
       「人々がいろいろと種々の対象に依拠しているところのいかなる希望、    喜びでも、無知を根拠として現われ出たものであり、希求されているが、
    わたしはそれらをすべて根こそぎに断ってしまった。
    だから、わたしは、望むことなく、求めることなく、近づくことがない。
    あらゆる事柄について清らかに見とおしている。
    無上の、めでたいさとりに達して、わたしは、独り隠れて、恐れることなく、瞑想する。」

    実際にこういう対話があって、それを弟子が記憶していて言い伝え、後世文字にされたのだろうが、引用した二つの経典のどちらが元々のものなのか、それとも、お釈迦様が似たような対話をあちことでなさったのか。

    内容は同じだと思う。
    ただ、お釈迦様に対する態度が明らかに違う。

    あなたはどちらが気に入っただろうか?



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    ここまでに提示した諸師、諸先生方の「ウダーナ 1-1~1-3及び8-1~8-4」の和訳・英訳(avaroの直訳)とそれらについてのavaroの解釈・感想を補強するために、「ウダーナ」以外の経典において、お釈迦様が「ニッバーナ(ニルヴァーナ=涅槃)」について説明している部分の抜書きを読んでいただきます。

    これから引用する抜書きを読めば、「ウダーナ」の比喩的な表現の意味がもう少し分かるようになるでしょう。
    また、パーリ経典の記述(すなわち、お釈迦様の説法)は、全て、「ニッバーナ(ニルヴァーナ=涅槃)」を説明しているものだということも納得できると思います。

     ***** サンユッタ・ニカーヤ より引用(過去の記事の再掲) *****

     ---------------- 死に導かれるさだめ ---------------------

    サンユッタ・ニカーヤ より

    [尊師いわく、--]
     生命は[死に]導かれる。寿命は短い。老いに導かれていった者には、救いがない。死についてのこの恐ろしさに注視して、世間の利欲を捨てて、静けさをめざせ。

     ☆第Ⅰ篇第一章第三節 (中村元訳「神々との対話サンユッタ・ニカーヤⅠ」岩波文庫)

    avaro感想:
    尊師とは勿論お釈迦様のこと。尊師の詩句の前に、神が尊師に問いかける詩句がある。
    ”生命は・・・・・この恐ろしさに注視して”までは同文。
    ”世間の・・・・・静けさをめざせ。”の部分が、神の詩句では、
    「安楽をもたらす善行をなせ。」となっている。

    古代インドの平均寿命は現代日本とは比べ物にならなかっただろう。お釈迦様の滅後、インドは他民族の侵入などがあり、戦乱が続いた時期があったそうだ。ひどい時は、平均寿命が一桁とか、せいぜい、十台といったありさまだったそうだ。

    そういう時代には、尚更に短い命を実感していただろう。寿命が延びた現代日本でも、私たちは刻一刻老いて行き、一歩一歩死に向かっている。

    中村先生は、神の詩句にある”安楽をもたらす善行”と、尊師の詩句にある”静けさ”について、註で以下のように説明されている。

    ”安楽をもたらす善行”---善行を行なって天界に生まれ神々となるように勧めている。当時の一般的な宗教的通念であった。
    ”静けさ”---一切のものから解脱し、ニルヴァーナを体得することを教えている。

    ニルヴァーナは、ニッバーナという古代インドの言語(パーリ語)のサンスクリット訳だそうで、涅槃のことである。wikipediaには、<ニルヴァーナは「吹き消すこと」「吹き消した状態」という意味だから、煩悩(ぼんのう)の火を吹き消した状態をいう。その意味で、滅とか寂滅とか寂静とか訳された。>とある。

    確かに、”燃えさかる”煩悩の炎が吹き消されれば”静まった”状態になる。

    さて、神の勧めるとおりに善行を積み、その功徳で天界に生まれ神々の一員となって”永遠”を謳歌すれば良いではないか。

    なぜ、尊師は、その神の勧めを退けたのだろうか?

    お釈迦様の教えを理解するためにモット知らなければならないのが、”静けさをめざせ。(涅槃)”の真意だと思っております。


    ”静まる”という言葉ですぐ思い出す詩句があります。

    ”- 樹を揺らす風、 風に揺れる樹 -
     by Phra Thakashi(Ochiai) Mahapungnyo(落合 隆さんという日本人比丘)”
        http://homepage2.nifty.com/dhammapada/kikoubunn.htm

    の文中にある詩句です。

     「逝ってしまって戻ることはない」
     「眠りから目覚めることはない」
     「生き返ることはありえない」
     「死を免れることはできない」

    ならびに、

     「風が吹いていた」
     「いろいろなことがあった」
     「風が止んだ」
     「すべてが終った」

    そして、

     もろもろの作られたものは 実に 無常であり、
     生じては滅びるきまりあるものである。
     生じては滅びる。
     それら(作られたもの)の静まるところに、安らぎがある。
                    --『マハーパリニッパーナ経』

    ここに静まること(涅槃)が説かれています。


     解脱の道 --------------------------
    サンユッタ・ニカーヤ より


    「きみよ。生けるものどもの解脱、解き放たれること、遠ざかり離れることを、あなたはどうして知っておられるのですか?」
    「『歓喜の愛にもとづく生存が尽き、表象や意識作用も尽きるが故に、感受作用が止滅するが故に、静止がある。』友よ。生けるものどもの解脱、解き放たれること、遠ざかり離れることを、わたしはこのように知っているのです。」

     ☆第Ⅰ篇第一章第二節 (中村元訳「神々との対話サンユッタ・ニカーヤⅠ」岩波文庫)


    題名どおりで、この本の詩句は神々との対話ですから、上の詩句も”きみよ。”と問いかける神に、尊師が”友よ。”と答える形式をとっています。

    この詩篇は、前のページの詩篇の直前にあるものです。

    上の詩篇を読むと、解脱とは”静止”のことでもある、と理解して良さそうです。

    ”静止”とは、静まることであり、”静けさ”をもたらすことだと言えそうです。

    ”静止”がどうやってもたらされるかというと、

    ”歓喜の愛にもとづく生存が尽き、表象や意識作用も尽きるが故に、感受作用が止滅するが故に”

    と説かれています。

    ”歓喜の愛にもとづく生存が尽き”というのは、死ぬことではないでしょう。歓喜の愛を生きがいとする生き方や歓喜の愛に引き回される生き方を終らせることを意味するのだと思います。

    歓喜の愛にもとづく生存とは、私たちの普通の生き方だと思います。
    また、恐らく次の語句との関係から、”歓喜の愛にもとづく生存”は、色(物質的な身体)の比喩ととっても良さそうです。

    続く、”表象(作用)や意識作用と感受作用ですが、中村先生の註がありません。

    原語(パーリ語)が分からないので、中村先生の別の本から推量します。

    色(ルーパ)が出ましたから、残りは、受・想・行・識(五蘊の一々)となりそうです。

    表象作用はサーンニャで”想”、意識作用はサンカーラで”行”、感受作用はヴェーダナーで”受”と考えられそうです。(中村元著「原始仏教の思想 上」春秋社 p159-160)

    つまり、静止の状態を実現するためには、普通の生き方、すなわち、五蘊の普通の働き方を離れればよい、ということのようです。


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    ウダーナ 8-1~8-4の英訳の直訳はこの8-4が最後になります。


      ***** 正田大観師の和訳 8-4 *****
    「〔何ものかに〕依存する者には、動揺がある。依存なき者には、動揺は存在しない。動揺が存在していないとき、安息がある。安息が存在しているとき、誘導は有りえない。誘導が存在していないとき、帰る所と赴く所(輪廻への去来)は有りえない。帰る所と赴く所が存在していないとき、死滅と再生は有りえない。死滅と再生が存在していないとき、まさしく、この〔世〕になく、あの〔世〕になく、両者の中間において〔何ものも存在し〕ない。これこそは、苦しみの終極である」と。
      **********************************

      ***** Thanissaro師の英訳 *****
    One who is dependent has wavering. One who is independent has no wavering. There being no wavering, there is calm. There being calm, there is no desire. There being no desire, there is no coming or going. There being no coming or going, there is no passing away or arising. There being no passing away or arising, there is neither a here nor a there nor a between-the-two. This, just this, is the end of stress.
     *avaro直訳:(誰か、何かに)依存し・頼っている者は、(心の)迷いがある。(誰にも、何ものにも)依存していない・頼っていない者は、(心の)迷いが無い。(心に)迷いが無いと、(心は)平静である。(心が)平静であると、渇望が無い。渇望が無いと、生じたり去ったりが無い。生じたり去ったりが無いと、死ぬことや再生することが無い。死ぬことや再生が無いと、こちら(この世)もあちら(あの世)も二つの中間も無い。これが、まさしく、苦の終わり(止滅)である。
      ********************************

      ***** ireland先生の英訳 *****
    For the supported there is instability, for the unsupported there is no instability; when there is no instability there is serenity; when there is serenity there is no inclination: when there is no inclination there is no coming-and-going; when there is no coming-and-going there is no decease-and-uprising; when there is no decease-and-uprising there is neither "here" nor "beyond" nor "in between the two." Just this is the end of suffering.
     *avaro直訳:(誰か何かに)支えられている者には不安定さがある。(誰か何かに)支えられていない者には不安定さが無い。不安定さが無い時、平静さがある。平静さがある時、何かに引き寄せられることが無い。何かに引き寄せられることが無い時、来ることと去ることが無い。来ることと去ることが無い時、死滅と再生が無い。死滅と再生が無い時、ここも無く、あちらも無く、二つの間も無い。まさにこれが苦の終わり(止滅)である。
      *******************************

      ***** Strong先生の英訳 *****
    "Where there is dependence, there is instability, where there is no dependence, there is no instability, where there is no instability, there is quietude, where there is quietude, there is no desire, where there is no desire, there is no coming and going, where there is no coming or going, there is no birth or death, where there is no birth or death, there is neither this world nor that world, nor both: that is the end of sorrow".
     *avaro直訳:(誰か何かに)頼る・依存することがある所には、不安定さがある。(誰にも何ものにも)頼らず・依存することが無いところには、不安定さは無い。不安定さが無いところには、(心の)落ち着き・静けさがある。(心の)落ち着き・静けさがあるところには、渇望が無い。渇望が無いところには来ることと去ることが無い。来ることと去ることが無いところには、誕生と死は無い。誕生と死が無いところには、この世もあの世もその両者とも無い。それが悲しみ・不幸の終わり(止滅)である。
      ******************************


    最初に対語(AとB)を置いて、涅槃の前と後を対比させています。
    『(A)〔何ものかに〕依存する者には、動揺がある。(B)依存なき者には、動揺は存在しない。』
    私は正に毎日「動揺(喜怒哀楽・苦楽など、wavering,instability)」し、さまざまな出来事に翻弄されています。
    自分では、誰にも何にも依存していないと力んでいるのですが、思うようにならないことやどうしようもないことが起こると、どうして良いか分からなくなり、いらいらし、怒りや嫌悪に支配されてしまいます。
    もしも、助けを求める相手があれば、きっと、その人にすがっているでしょう。
    そういう人が居ないから、頼ることが出来ないだけで、誰かに何かに頼りたいという気持ちがあるのは確かなのです。
    一番動揺するのは、家族・親族に関わる事柄です。
    お釈迦様の様に家や家族・親族を捨てることは出来ないので、おろおろするだけなのです。
    本当に涅槃を求めるなら、家も家族も親族も何もかも捨てなければならないということを痛感しています。

    続く文章、『動揺が存在していないとき、安息がある。安息が存在しているとき、誘導は有りえない。誘導が存在していないとき、帰る所と赴く所(輪廻への去来)は有りえない。帰る所と赴く所が存在していないとき、死滅と再生は有りえない。死滅と再生が存在していないとき、まさしく、この〔世〕になく、あの〔世〕になく、両者の中間において〔何ものも存在し〕ない。』は、涅槃が成就される過程を述べていると考えられます。
    ルアンポル・ティアン師が繰り返し述べている、Sati(気づき)が確立すれば自ずとSamadhi(安息、平静さ)が確立し、やがて自ずとPanna(智慧)が生じる。Pannaが誘導(渇望・渇愛の根源=無明)を見極めれば、突如、その時(涅槃成就の時)がやって来るようです。
    涅槃が成就されれば、『帰る所と赴く所(輪廻への去来)は有りえない。帰る所と赴く所が存在していないとき、死滅と再生は有りえない。死滅と再生が存在していないとき、まさしく、この〔世〕になく、あの〔世〕になく、両者の中間において〔何ものも存在し〕ない。』ことになるそうです。
    つまり、苦の終わり(止滅)です。



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    どうも有難うございました。

    人間は、いわゆる、時間(一日24時間)に縛られています。

    一つの系の中では、ほぼ同じ性能の時計で計測すれば、誰でも同じ時間を生きる筈です。

    同じ一時間でも、人によって密度に違いがあるというだろうが、それは仕事量/hが異なるだけで時計の進み方まで変わることはありません。
    確かに同じ人でも、同じ時間を短く感じたり、長く感じたりすることがあります。
    これも、その人の主観であって、どんなに長く感じたとしても、時計の針の進み方までが遅くなるということは無いと思います。
    同じ時間を長く感じられれば、平均寿命が2倍とか3倍になる(140歳とか210歳とかになる)ことは絶対に有り得ないでしょう。

    しかも、人間の世界はマクロの世界なので、時間は一方向にしか流れない。
    知る限り絶対に過去へ向かうことは無い(タイムマシンは実現できていない)。
    したがって、同じ年に人生をスタートさせた同年齢の仲間は、同じ平均寿命を共有することになる筈です。

    余計なお世話のスリランカ人が、あなたは一日の内、毎日ゲームを2時間やっていますから、人生70年として、30歳のあなたは、これから40×365×2=29200時間もゲームで無駄にします、なんて忠告してました。

    じゃぁなにをすれば無駄にならないのかとこっちも余計なお世話を焼いちゃいます。

    大昔の変わり者が。人間は苦労して何かを身につけ、その技でほんのつかの間脚光を浴びるが、まもなく時間切れとなり(人生の)舞台から退かなければならない、なんていうこれまた余計なお世話を焼いてくれたようです。

    大半の人は、そんな余計なことを考えている暇なんかないし、思いつきもしないから、毎日あれやこれやと忙しさに追いまくられて生きていて、気がついたら終点だったということになっているようです。

    人は、自分が無駄なことをして時間を無駄遣いしているなんて考えません。

    もし、お前は時間の無駄遣いをしていると注意する人がいたら、じゃぁ何をすることが無駄遣いじゃないのか、と反問なんかすれば、人それぞれの価値観を押し付けられるだけですから、ハイハイと聞き流せばいいでしょう。

    ただ、傍から見ていてどうにもやり切れないのは、決して意欲がないわけではないのだが、どうしてもその人は何もやれない立場にあるという場合です。

    何事にも無責任でぐうたら・野放図な私のような人間でも、例えば、このブログのようなことでもやっていないとスワリが何となく悪い、落ち着かないのですから、普通以上の人にとっては何をすれば良いのか分からない、何も出来ないというのは辛いことでしょう。

    人は、何をすれば時間を無駄遣いしたと感じないのか。
    これはその人その人それぞれでしょうから、傍の人があれこれ世話を焼いても、決してその人のためにもならず、感謝もされないでしょう。
    まことに厄介なことです。

    現代人のほとんどは、瞑想や涅槃の人生に満足できるなんて想像だに出来ないでしょうから、このブログはゴミみたいなものとしか評価しないでしょう。

    一日は24時間だと決めたのは人間で、もともとは、地球の自転に人間が区切りをつけたものなのですが、一日・24時間という観念だけが重んじられ、地球の自転というもともとの現象は忘れられています。

    もっともあんまり自転自転ばかり考えていると終いに眼が回ってきますから、一日は24時間なのだというほうが無難ですね。

    しかし、面白いですね。
    マクロな世界には時間の矢なんていう不可逆的な変化の流れが確かにあると思えるのに、同じ世界のミクロの領域には確かに時間はなさそうなことです。

    解釈次第では、ミクロの領域(世界)にも一方向の流れがあるようにも思えますが、なにしろそこにあるのは、時間なんて屁とも思わない、極微の小さな小さな小さな粒子たちですから(私はそれらの巨大な集合体)くっ付いたり離れたりはするでしょうが、それが何だと開きなおる連中ですので、彼らにとって時間なんか全く無意味なんでしょう。
    対消滅なんていうことも、人間の価値観からは空恐ろしいことかもしれませんが、彼らにとってはAからBへ移動するだけかもしれません。
    それになにより、いちいち、変化だの移動だのと気に留めないでしょうから人間のような価値判断はアホらしいだけでしょう。

    時間の矢というのは、死ぬのを恐れ、舞台を強制退場させられる恐怖に取り付かれている人間だけの観念なんでしょうね。
    私の肉体は時間の矢を多少は気にしているようですが、その肉体の構成要素の粒子たちはたっまく無頓着でしょうね。
    自分が肉体(マクロ)だと思っているから怖がるだけで、粒子(ミクロ)だと思えれば、怖いものなしです。
    時間から自由になれるでしょう。
    問題はそう思えるかどうかです。

    だが、だが、誰にでもコンナ芸当は当たり前じゃありません。

    あゝ、願わくは、当たり前じゃない人の24時間が無駄じゃなくなるように。
    傍の私に出来ることは限られているものですから。


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    今回は、ウダーナ 8-3 の英訳を直訳してみます。かなり乱暴な和訳です。



       ******************************************

       ***** 正田大観師の和訳 *****
    「比丘たちよ、『生じたもの』でなく『成ったもの』でなく『作り為されたもの』でなく『形成されたもの(有為)』でないもの(涅槃)は存在する。比丘たちよ、もし、その、『生じたもの』でなく『成ったもの』でなく『作り為されたもの』でなく『形成されたもの』でないもの(涅槃)が有ることなくあったなら、ここに、『生じたもの』『成ったもの』『作り為されたもの』『形成されたもの』からの出離は覚知されないであろう。比丘たちよ、しかしながら、まさに、『生じたもの』でなく『成ったもの』でなく『作り為されたもの』でなく『形成されたもの』でないもの(涅槃)が存在することから、それゆえに、『生じたもの』『成ったもの』『作り為されたもの』『形成されたもの』からの出離が覚知される」と。
       ******************************

       ***** Thanissaro師の英訳 *****
    There is, monks, an unborn - unbecome - unmade - unfabricated. If there were not that unborn - unbecome - unmade - unfabricated, there would not be the case that emancipation from the born - become - made - fabricated would be discerned. But precisely because there is an unborn - unbecome - unmade - unfabricated, emancipation from the born - become - made - fabricated is discerned.
     *avaro直訳:比丘たちよ、生まれないこと、生存することがないこと、造られることがないこと、(妄想がが)形成されないことがある。もしもそういう生まれないこと・・・(妄想が)形成されないことがあるということが有り得ないのであるなら、生まれること、生存すること、造られること、(妄想が)形成されることからの離脱(開放)を明らかに知り得るという事実も有り得ないことになります。しかし、(私=お釈迦様が自分で目の当たり確認したように)確かに、生まれないこと・・・(妄想が)形成されないことというのはあるのですから、その故に、生まれること・・・(妄想が)形成されることからの離脱(開放)を明らかに知り得るのです。
       ********************************

       ***** Ireland先生の英訳 *****
    There is, bhikkhus, a not-born, a not-brought-to-being, a not-made, a not-conditioned. If, bhikkhus, there were no not-born, not-brought-to-being, not-made, not-conditioned, no escape would be discerned from what is born, brought-to-being, made, conditioned. But since there is a not-born, a not-brought-to-being, a not-made, a not-conditioned, therefore an escape is discerned from what is born, brought-to-being, made, conditioned.
     *avaroの直訳:比丘たちよ、生まれることが無いこと、生存に導かれないこと、つくられないこと、条件付けられない(縁起しない)ことというものはあるのです。比丘たちよ、もしも、生まれることが無いこと、・・・条件付けられない(縁起しない)ことというものが無いのならば、生まれること、・・・条件づけらる(縁起する)ことからの脱出(回避)を明らかに知ることも無いのです。しかし、生まれることが無いこと、・・・条件付けられない(縁起しない)ことというものがあるのだから、それゆえに、生まれること、・・・条件付けられる(縁起する)ことからの脱出(回避)を明らかに知り得るのです。
       *******************************

       ***** Strong先生の英訳 *****
    "There is, O Bhikkhus, an unborn, unoriginated, uncreated, unformed. Were there not, O Bhikkhus, this unborn, unoriginated, uncreated, unformed, there would be no escape from the world of the born, originated, created, formed.
    Since, O Bhikkhus, there is an unborn, unoriginated. uncreated, unformed, therefore is there an escape from the born, originated, created, formed".
     *avaroの直訳:さて、比丘たちよ、生まれることが無いこと、(無明に)起因して生じることが無いこと、つくりなされることが無いこと、形成されることが無いことというのはあるのです。そこで、比丘たちよ、この生まれることが無いこと、・・・形成されることが無いことというものが有ることが無いならば、生まれること、・・・形成されることという有り様(世界)からの脱出(回避)は有り得なくなるのです。比丘たちよ、生まれることが無い、・・・形成されることが無いことがあるのですから、それゆえに、生まれること、・・・形成されることからの脱出(回避)(ということ)が有るのです。
       ******************************

    私は、この 8-3 を、涅槃の原理を一言で述べたものと解釈します。
    正田師の和訳にある(涅槃)が形容するのは、『生じたもの』でなく『成ったもの』でなく『作り為されたもの』でなく『形成されたもの(有為)』でないもの、の四つ全てだと思います。
    つまり、涅槃とは、生じる、成る、作り為される、形成されるという(ここでは四つ)が無いことなのである、という理解です。

    ウダーナ1-1の十二縁起の説明にある、

    『これが存しているとき、これが有る。これの生起あることから、これが生起する。すなわち、この――無明(無明:無知)という縁から、諸々の形成〔作用〕(諸行:意志・衝動)が〔発生する〕。諸々の形成〔作用〕という縁から、識別〔作用〕(識:認識作用)が〔発生する〕。識別〔作用〕という縁から、名前と形態(名色:心と身体)が〔発生する〕。名前と形態という縁から、六つの〔認識の〕場所(六処)が〔発生する〕。六つの〔認識の〕場所という縁から、接触(触)が〔発生する〕。接触という縁から、感受(受)が〔発生する〕。感受という縁から、渇愛(愛)が〔発生する〕。渇愛という縁から、執取(取)が〔発生する〕。執取という縁から、生存(有)が〔発生する〕。生存という縁から、生(生)が〔発生する〕。生という縁から、老と死(老死)が〔発生し〕、憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤(愁悲苦憂悩)が発生する。このように、この全部の苦痛の範疇(苦蘊)の、集起が有る』

    という記述を、有や生存や自我(霊魂的な)や老死というような妄想の生起の原理に関する説明と解釈するなら、ウダーナ8-3の『生じたもの』『成ったもの』『作り為されたもの』『形成されたもの』はいずれも、十二縁起の原理に従って生起するものであり、瞑想で生じた智慧によって止滅可能なもの(勿論、死と引き換えにではなく、生きている時に達成可能で、達せした後も生きている)であると解釈して良いとおもいます。

    例えば、もしも、「生じたもの(the born,what is born)」を肉体と解釈すると、『「生じたもの」でないもの(an unborn, a not-born)』というものが何なのか説明しにくくなるでしょう。
    現代的に言うところの物質としての肉体を止滅させるためには、自殺しかあり得ません。
    これはナンセンスです。



    それにしても、英訳を上手く日本語に訳せませんでした。
    仏教用語として厳密にどういう語義なのか探索し切れていません。
    正田師の和訳におんぶに抱っこと甘えました。


    ご都合主義的で恐縮ですが、細かな語釈に拘らず、大意を読取るようにして読めば、ウダーナ1-1~1-3、8-1~8-4を以上のように読むことが可能で、これがお釈迦様の悟りであり、涅槃の説明であると解釈して、パーリ経典の全てをこのような涅槃解釈を基準として読み解くことが可能であると思います。
    事実、私はそのように読んでいます。
    辻褄も合うし、納得も出来ています。



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    ココロを広くおおらかに(私が一番身につけるべき倫理ですね)。

    イメージ 1

      このイメージは、ビデオから切り取ってavaroが加工しました。ビデオは、下記URLにあります。
       ARKive images of life on earth ( "Barn Owl in flight" )
    前回の記事にあるthe One とは、Binh Ansonさんが紹介されているAjahn Chah師(Ajahnがすでに先生とか師とかいう意味の敬称ですので、最後の師は不要なのですが、なにか呼び捨てにしているような感じなので蛇足を付けています)です。

    詳しくは知らないのですが、Ajahn Chah師の言葉を読むと、この方はダンマを見た方なのではないかなぁと感じます。
    この記事では、Ajahn Chah師の言葉をさらに幾つか引用させていただいています。引用先は下記。

     BuddhaSasana A Buddhist Page by Binh Anson
    http://www.buddhanet.net/budsas/index.htm
    引用させていただいたページは下記URL、
         Ajahn Chah's Wisdom by Binh Anson
      AnsonさんのホームにあるEnglsh(下線付き)をクリック、表示されたページの
            5. Other Dhamma Essays: にAjahn Chah's Wisdomの題名があります。これをクリック。


    ルアンポル・ティアン師の説法と同じ如実に体験した方の智慧を感じます。
    この言葉を単なる説教と読むか、それとも、如実知見の言葉と読むかはあなた次第でしょう。



      ***** Ajahn Chah's Wisdomより *****
    ☆ Only one book is worth reading : the heart.


    ☆ You say that you are too busy to meditate. Do you have time to breathe ? Meditation is your breath. Why do you have time to breathe but not to meditate ? Breathing is something vital to people's lives. If you see that Dhamma practice is vital to your life, then you will feel that beathing and practicing the Dhamma are equally important.


    ☆ First you understand the Dhamma with your thoughts. If you begin to understand it, you will practice it. And if you practice it, you will begin to see it. And when you see it, you are the Dhamma, and you have the joy of the Buddha.


    ☆ What is Dhamma ? Nothing isn't.


    ☆ Remember you don't meditate to "get" anything, but to get "rid" of things. We do it, not with desire, but with letting go. If you "want" anything, you won't find it.


    ☆ Once there was a layman who came to Ajahn Chah and asked him who Ajahn Chah was. Ajahn Chah, seeing that the spiritual development of the invidual was not very advanced, pointed to himself and said, "This, this is Ajahn Chah."
    On another occasion, Ajahn Chah was asked the same question by someone else. This time, however, seeing that the questioner's capacity to understand the Dhamma was higher, Ajahn Chah answered by saying: "Ajahn Chah ? There is NO Ajahn Chah !"


    ☆ A visiting Zen student asked Ajahn Chah, "How old are you? Do you live here all year round?" "I live nowhere," he replied. "There is no place you can find me. I have no age. To have age, you must exist, and to think you exist is already a problem. Don't make problems; then the world has none either. Don't make a self. There's nothing more to say."


    ☆ If you want to wait around to meet the future Buddha, then just don't practice (the Dhamma). You'll probably be around long enough to see him when he comes.
      *************************************


    『What is Dhamma ? Nothing isn't.』を私は正しく読んでいるのかどうか、ちょっと自信がありません。
    一応、「ダンマとは何か?」「無いモノは無いのですよ。」と読みました。
    今読んでいるウダーナを思い出しました。
    Ajahn Chah師は、上記引用文中ではいずれもこのことを伝えようとしているような気がします。

    最初の二つは、ご自分の体験から導いた具体的な修行法を簡潔に述べています。
    『Only one book is worth reading: the heart.』は、ルアンポル・ティアン師も再三忠告してくれている言葉です。
    耳が痛い言葉です。

    最後の二つは、目指すものが異なる方への忠告でしょう。
    経典にもあるように、「あなたの目的地に到達したいなら『西へ』行きなさい」と教えたのに、『東へ』行ってしまう人は導きようがないのです、とお釈迦様も匙を投げています。

    Ajahn Chah師の言葉は、他の説法にも出てくるような言葉だ、と読むことも可能です。
    つまり、丸暗記の鸚鵡返しである、如実体験ではない、と。
    例えば、"This, this is Ajahn Chah." と "Ajahn Chah ? There is NO Ajahn Chah !"の対比などや、A visiting Zen studentへの回答などは、月並みで陳腐な表現であるとも読めます。
    手垢がついて使い古された言葉にも見えます。
    その疑問が生じたら、その言葉が記録されている説法を全部読んで見ればいいでしょう。

    言葉は謎が多い。
    謎解きは楽しい。


    最後に一言。
    『Remember you don't meditate to "get" anything, but to get "rid" of things. We do it, not with desire, but with letting go. If you "want" anything, you won't find it.』
    (直訳:何かを得る目的を持って瞑想をしてはならないのです。瞑想というのはあらゆるものを捨てるためにするのです。欲しがらずに、全てをなるがままにまかせて(成り行きに任せて)瞑想をするのです。もしも、何かを得ようとして瞑想するならば、(いくら瞑想を続けても)欲しかったモノを得ることはないでしょう。)

    座禅の「只管打坐」に通じるこの言葉こそが涅槃を体験した方が自分の体験から語る「涅槃を体験する秘訣」を示した智慧の言葉だと思います。

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    私の答えは、「いいえ(否)」です。

    この嘘つきめ、ちょっと前に「俺はStreamwinner(Sotapanna)だ」と公言したばかりではないか、と非難しますね。

    ご尤もです。

    私が知らない(無知である)といっている意味は、今この瞬間の私の無常という事実を如実に見ているかどうか(知っているか)ということなのです。
    そこまでは出来ていない、だから、まだ、ありのままに刻々の自分の心身を如実に見ることはできていないのですよ、ということです。

    非常に微視的ないわば刹那の無常を自分自身の心身に見ることは今の私には全く出来ていないということなのです。

    だから、一時的には、あるいは、瞑想中には、無常・苦・無我を観じて、三悪の虚構に騙されずに済むのですが、この程度の真理の眼というのは、三悪の真実を従来の智慧で納得した程度なので、三悪を破壊できる明知によって如実に、刻々の心身の無常を無常として、苦を苦として、無我を無我として、あるがままに見ることが出来るという段階には達していないのです。

    まだ、私の心身の一番奥の真っ暗闇は真っ暗なままなのです。
    その暗闇を見る術を身につけていないのです。
    私はまだ、私のダンマを見ていません。

    こういう風に告白することは決して恥ずかしいことではありません。

    Streamwinnerにすらなっていないで、お釈迦様の道の何たるかも知りもしないで、訳知り顔で体験して自分で確認していないことをこれだけが真理だと説教する方よりはずっとましなのです。

    私は、それほど真剣に、お釈迦様のたくさんの直弟子たちのような涅槃への熱望はありません。
    涅槃は、今日では、唯一の真理ではないからです。
    しかし、私はお釈迦様を尊敬し、出来るだけ近づきたいと思っています。
    お釈迦様の教えである、四諦は今日でも、確かな真理の一つです。
    私はその点に関しては、自分で確認できています。
    自信を持って、お釈迦様は真実を見たと断言できます。
    四諦をどのように実現すれば良いのかということも自分で確認して知っています。
    これがStreamwinnerの証です。

    私は間違いなくSotapannaです。
    しかし、AnagamiでもArahantでもありません。

    激流を激流だと知って、激流をどのように渡れば良いのかも知って、今、流れをさかのぼっている最中です。
    乗っている筏は雑な造りになってますが、筏のマニュアルの基本はしっかりと守っています。

    一見危うそうに見えるでしょうが、大丈夫、二度とこなたの岸に押し戻されることはありません。
    しっかりと彼方の岸を目指しています。



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    Once a visitor asked the One if he was an arahant. He said, "I am like a tree in a forest. Birds come to the tree, they sit on its branches and eat its fruits. To the birds, the fruit may be sweet or sour or whatever. The birds say sweet or they say sour, but from the tree's point of view, this is just the chattering of birds."


    Well, how did you read the One's word ?
    Could you understand the true meaning of his words ?

    If you really respect Shakya-Muni-Buddha, you have to understand this words and translate into Japanese, becouse you should disclose your understanding on the comment box below how did you understand this words, shouldn't you ?

    Please try !



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    最初に引用したのは、sat*atu**200*さんとのコメントの往復の一部です。
    なお、記事の題名中の( )内の言葉はavarokiteiが解釈して付け加えたものです。

     ***** sat*atu**200*さんのコメントに対するavarokiteiの返信。 *****
    最後に、<自己が悟ったが、そのまま、世界が悟った、そんな世界。/「山川草木、悉皆成仏」の広大な世界です。>
    についてですが、どうもこの考え方には馴染めません。
    大乗仏教の原点だろうと思うのですが、このことについて私の思い切った仮説を提示してみます。
    『大乗仏教は今日に至るまで、この「自己が悟った(ということ)が、そのまま、(それは)世界が悟った(事でもある)。山川草木、悉皆成仏」という理想を模索し続けているが理想実現の体系を未だに完成できていない。』
    大乗仏教をほとんど勉強していないで何をいい加減なことを言うかとお叱りを受けそうですが、インドはいうに及ばず(仏教が滅亡したのですから、大乗の理想は実現していません)、日本・世界の現状を見る時、お釈迦様成道以前と何も変わっていないと思えます
     *******************************************************************

     ***** 上記コメントに対するsat*atu**200*さんの返信 *****
    釈尊が、無責任にも、家族を捨て(出家)放浪生活に入ったのは、死の恐怖からです。
    そして、悟ったと同時に、死の恐怖から解放されていたのです。
    つまり、旧来は、自己=魂=アートマンが実在すると考えていたが、それは<言葉が要請するから生まれるもの>であり、虚構である。
    「アートマンというものは実在しないと解った」のです。
    だから、死は<アートマンにとっての死である>から、死の恐怖からも解放されたのです。
    しかし、解ったからと言って、この世は何も変わっていません。
    <自己と言う殻:虚構>がなくなれば、全ての世界が新しい自己となります。
    <旧来の自己と、世界とは>境界線がなくなります。
    それは、自己がなくなるからです。無我と言います。ハイ。
      2010/11/17(水) 午前 11:23 [ sat*atu**200* ] 
     sat*atu**200*さんのブログURLは下記↓。
      http://blogs.yahoo.co.jp/satoatusi2006
     *********************************************************

    上記コメントでsat*atu**200*さんがおっしゃろうとしていることを理解しようしている私には、はるか遠くに落ちている500円玉を見極めようとする時のもどかしさと同じものがあって、確認できたような出来ていないような曖昧さがあります。

    勿論、私が言いたいのは、sat*atu**200*さんのコメントが曖昧だとか、明快だとか言うことではなくて、おっしゃっている内容が、sat*atu**200*さんが実践されている禅にしろ、私が主張する釈迦仏教にしろ、それぞれが到達する究極の地点(段階)に言及しているため、理解も難しければ、表現も困難であるはずだということです。

    責任をもって返信コメントするためには、最低限、(悟り・涅槃)達成者の詳しいお話を根掘り葉掘りお聞きして納得しておかなければならないでしょう。
    一番確かなのは、自分で体験していることです。

    こういう但し書きをしたということは、以下の記事が私の想像や推理・推論あるいは願望に過ぎないということになります。
    それでもお読みになりたいと思っていただけるなら幸いです。

    (以下の6センテンス(句)は、sat*atu**200*さん以外の訪問者向けです)
    私は何度も記事の中で表明しているように、どうにか真理の眼を得たと思っています。
    いわゆる預流果に達したということです(錯覚の可能性は否定しません)。
    何を言う、眉唾もはなはだしい、と一笑に付されて結構です。
    しかし、悟りへの道のりはここからが正念場で厳しいようです。
    ですから、今後私が実践(瞑想他)を地道に続け、悟り体験(体得)出来る可能性についてはあまり過剰な期待はしていません。
    とまぁ、とんでもない大法螺ジジイなんです(本人は大真面目)。

    本日の記事は、sat*atu**200*さんの返信コメントに対するRe:Re:となります。


    sat*atu**200*さんの返信コメント中の、
    『「アートマンというものは実在しないと解った」のです。だから、死は<アートマンにとっての死である>から、死の恐怖からも解放されたのです。』

    私の預流果の眼で見れば、「アートマン(永遠不滅で常恒=変化しないので、病気にもならない、死ぬこともない、完全無欠な存在)」と古代インド人が呼んだモノが有るか無いかということは、出家した当初のお釈迦様にとっては最も重要な問題だったと思います。
    それは、①お釈迦様が苦行をしたという伝承や経典の記述と②古代インド人が解脱や悟りは「アートマン」によって存在しているに過ぎない体の不完全性を苦行によって改善すれば達成されると考えたということとを重ねれば納得できます。

    しかし、苦行をいくら重ねても苦を止滅させ(苦しみから解放される=涅槃を成就させ)ることができなかったため、「アートマン」に頼るのを止めました。

    それが五蘊のどこにも「アートマン」を見つけることが出来ないという有名な初転法輪の説法となったのでしょう。
    五蘊非我とも五蘊無我とも言います。

    この発見あたりがお釈迦様自身の預流果入りだったのでしょう。

    したがって、非我(無我)というのは、存在論ではなく、認識論となります。
    有るか無いかを論じても、証明はきわめて難しい、或いは、不可能です。
    一歩譲って、仮に、悟り体験によってお釈迦様が如実に「アートマン」の欠如を知っていたとしても、「四諦」の実践には不要な知識です。
    「四諦」は、アートマン論を必要としていません。
    私の小さな預流果の眼で観じても同様の結論となります。
    認識論という言い方で通じるのかどうか自信がないのですが、私が自分で確認することであって(つまり認識論)、私抜きでも有るか無いかという存在論ではない思います(おかしな言い方かも)。
    個人的には、五蘊非我を知った時に、お釈迦様はアートマン論を捨てたと思っています。

    そこで、次の『死は<アートマンにとっての死である>から、死の恐怖からも解放されたのです。』という存在論的な言明は、誤りとなります。
    ただし、その前の言明、『旧来は、自己=魂=アートマンが実在すると考えていたが、それは<言葉が要請するから生まれるもの>であり、虚構である。』と一緒に考えると、認識論的な解釈と受け取れますので、認識論的には全くの誤りとは言えなくなります。

    死については、もっと簡単に「死は虚構の概念である(つまり、妄想に過ぎない)」としてしまえばいいのではないかと思います。

    次の『解ったからと言って、この世は何も変わっていません。<自己と言う殻:虚構>がなくなれば、全ての世界が新しい自己となります。<旧来の自己と、世界とは>境界線がなくなります。それは、自己がなくなるからです。無我と言います。』には、問題があります。

    悟った人を阿羅漢とします。
    阿羅漢の見る世界は、悟る以前とは様変わりしているはずです。
    見るものすべてがただ見えるだけであって、美しいとも汚いとも愛しいとも何とも思えないのですから、私たちにとっては何とも味気ない世界です。
    恐らく、花は紅と見えるのでしょうが、そこに価値観が介入しないのですから、阿羅漢にとっては以前と同じ紅ではないでしょう。
    私たちから見たご馳走と糞と反吐とに何の区別もなくなるのだと思います。

    阿羅漢はことさらに自己を意識しないでしょう。
    ですから、自己と他人、世界(眼に入る風物など感覚の対象もしくは、内なる世界)との区別(分節化)もなくなるでしょうから、境界線が無くなる可能性を予感します。
    しかし、そういう風に認識していることにも価値が介入しませんから、新しい世界とか新しい自分というような意識とか認識も生じないはずです。
    さらに、『新しい自己』という表現も微妙な問題を孕みます。
    例えば、目の前で核爆発が起こったとします。
    核爆発はたくさんの人を一瞬にして蒸発させます。
    地獄絵図です。
    それも自己だということになりかねません。
    そんな場合も阿羅漢は慈悲の眼差しを向けるでしょうが、恐らく何もしません。
    互いに争って核爆弾でも爆発させる、そういうものが世間だからです。

    最後の「自他の境界線がなくなり、自己という分別がなくなるから無我」というのは、私の認識と大きく異なります。

    無常・苦・無我とセットで説かれる無我とは、自己の五蘊に対する観察結果です。
    自他の境界線がなくなることが無我(を悟るため)の必要条件ではないと思います。

    私はまだまだ体験的な無常・苦・無我体験をしていません。
    勿論、頭では十分分かっています。
    世間を見ていても十分に分かります(見えます)。
    しかし、自分自身の観察によって、体験的に無常・苦・無我を見ていません。

    sat*atu**200*さん、おっしゃりたいことは分かるような気がするのです。
    しかし、文字・文章を読むと、私が分かろうとしているようにお考えなのか、そうでないのか、判別できない箇所があるのです。

    多分、考えていることは同じなんじゃないかなと思います。
    以上Re:Re:です。

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    イメージ 1

    イメージ 2

    写真(上) Nephila clavata female with two males. Female is eating. Taken in Tokyo, Japan.
          http://ja.wikipedia.org/wiki/ジョロウグモ

    写真(下) 錫の匙(Tin Spoon) 交接中の女郎蜘蛛雌雄
          http://rosa2007.exblog.jp/9229448/




    早くも11月半ばとなる。
    あの地獄のような猛暑をすっかり忘れてしまったほど寒くなってきた。

    今日はハラハラと石榴の黄葉が散り始めた。

    その石榴の枝先と隣の杏の枝先を糸で繋いで大きな蜘蛛の巣を張っていた女郎蜘蛛が今年も網を広げている。
    ただし、昨年杏の太枝を全部きってしまったため、今年は杏の枝は無い。

    そこで、今年は石榴と杏の中間に立てた長芋の枯れ蔓を杏の代わりにして網を張っている。

    女郎蜘蛛は勿論去年の彼女ではない。
    彼女は去年の12月だったかに落命した。

    だから今網を張っているのは、彼女の子供の一人(一匹)である可能性が高い。

    先週か先々週、今年の彼女の網をしげしげと観察した。
    大きな彼女のちょっと上の方に、彼女よりもはるかに小さな蜘蛛がもう一匹いるのを見つけたのだ。
    「あれ、そういえば軒下にも小さな蜘蛛が網を張っていたよなぁ」と思い出して、軒下を見上げてみた。
    蜘蛛の巣の残骸しか見当たらない。
    「ははん、この小さいのがあそこに居た奴か」と見当をつけた。

    オシドリとか目白のように身体をくっつけるような距離感ではなく、雌雄の間には微妙な間隔がある。
    確実ではないらしいが、蟷螂と同じように、女郎蜘蛛のメスも交尾(交接)中にオスを食ってしまうと言われているらしい(Tin Spoonさんのお写真と文を参照されたい)。

    昨年私は女郎蜘蛛を「空」を観ずる行者に見立てた。
    じりじりするような陽光に焼かれようが、身を切る北風に吹かれようが、足を網にしっかと引っ掛け身じろぎもせずに何時間もじっとして居るのである。

    勿論、こういう憶測はあくまで人間側の見立てに過ぎず、女郎蜘蛛には全く関わりの無い事柄であろう。
    あの小さな頭か身体の節のどこかにある小さな中枢神経には、「空」どころか、苦楽という妄想すら湧かないであろう。
    彼女には、生まれたという想いも、老病死という憂いや悲しみ・恐怖も無いだろう。
    彼女にも、人間が「生まれた・生存している・恋をした・子を身ごもった・子が生まれた・年を取った」などと名づけている現象が生起するのだが、彼女はその現象をいちいち気に留めていないし、人間のような面倒な解釈もしていないだろう。
    したがって、憂い悲しみは無いと思う。
    本能的に死を避けようとするだけであって、いつも死の影に怯えたり、悩んだりはしないだろうと思う。

    女郎蜘蛛の彼女には、瞑想修行も悟りも解脱も涅槃も心の平安も全く関わりのないものである。

    彼女と私に共通する現象は、世間一般の人間の言葉で表現すれば、誕生し成長し、仕事を見つけて働き(自前の網を張って餌を捕まえ)、恋をして結婚し、子を儲け、いつの間にか歳を取り、ある日ぽっくり死ぬことであろう。

    この現象を科学的な記述で表現すれば、もっと両者が同じ現象の経過を辿ることが明確になるだろう。
    人間の場合、中間の現象に修飾が過剰なだけであるかもしれない。

    「生きとし生けるものが幸せでありますように」(パーリ Sabbe satta bhavantu sukhitatta)という決まり文句は、人間にしか通じない、しかも、世間用語であるから、世間にしか通じないマイナーな呟きなのである。

    女郎蜘蛛には始めっから人間の想いは通じないし、仮に通じても無視される。
    人間の戯言は、彼女にとっては無意味なものの数珠繋ぎに過ぎないからだ。

    女郎蜘蛛が本気で「生きとし生けるものが幸せでありますように」なんて悩みだしたら、正直で舌は一枚だけの生粋のプレデターである彼女は自己矛盾で憤死しかねない。
    恥ずかしくてとても私はそんなことを彼女の面前で臆面もなく述べ立てる気になれない。

    今年はチビ雄が、まだ、彼女にへばりついているから、彼らはまだ交接(交尾)を済ませていない可能性がある。
    彼女にとっては由々しき事態であろう。
    今年の猛暑が影を落としているに違いない。
    彼女と彼にとっては、餌が適度に得られることと無事交接が済み、受胎し、卵を軒下か何処かに産み付けることが何より大事である。

    涅槃などという戯言は糞食らえであろう。

    で、私は彼女と彼が目出度く交接し、子孫を残せることを心より願う。


    ところで、私は彼女と彼を居候と決め付けているのだが、肉食で毒まで持っているプレデターの彼女はプライドが高いから、むしろ、私を居候と思っているかもしれない。

    私も彼女とは適当な距離を保とう。



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    ウダーナ 8-1 の経文に沿った解釈的読みは、8-1~4 まとめてやります。

    今回は、ウダーナ 8-2 を読みます。

      ***** 正田大観師和訳 *****
     「見難きは、まさに、終極なきもの(涅槃)。なぜなら、真理は、見易きものではないからである。〔しかしながら、あるがままに〕知っている者にとって、渇愛〔の思い〕は〔あるがままに〕理解されたのであり、〔あるがままに〕見ている者にとって、〔常恒なるものは〕何ものも存在しない」と。
      ****************************

      ***** Thanissaro師英訳 *****
    It's hard to see the unaffected, 心が何ものにも動かされなくなることは見難い、
    for the truth isn't easily seen. 真理は見難いものだから。
    Craving is pierced (真実を)知ったものの中において
    in one who knows; 渇愛(の正体)は見抜かれた(洞察された);
    For one who sees, (真実をありのままに)見たものにとっては、
    there is nothing. (彼の内には)何も無い。
      ******************************

      ***** Ireland先生英訳 *****
    The uninclined is hard to see, 欲求が無くなることは見難い、
    The truth is not easy to see; 真理を見るのは容易いことではない;
    Craving is penetrated by one who knows, 渇愛は知った人に(正体を)見抜かれた、
    For one who sees there is nothing. (真実を)見ているものにとっては何も無い。
      *****************************

      ***** Strong先生英訳 *****
    "Hard is it to realize the essential, (道の)精髄を体得するのは難しい、
    The truth is not easily preceived(perceived) 真理は見抜けない、
    Desire is mastered by him who knows', 渇愛は知るものによって調教された、
    To him who sees (aright) all things are naught. 正しく見ているものには、あらゆるもの・ことは無価値である(無である)。
      ****************************


    正田師の和訳一行目の「終極なきもの」は、(涅槃)という注釈がなければ、読取れない難語です。
    この語にあたるのは、Thanissaro師、Ireland先生、Strong先生の順に、
    the unaffected、The uninclined、to realize the essential
    ですが、Thanissaro師、Ireland先生の英訳の語義は、ほぼ同じ感じで、
    『(内外の)何かの影響をうけたり、何かに心惹かれることがなくなる』
    と解釈してよさそうです。
    この語義は、内外の刺激を感受して妄想しなくなる涅槃の特徴を比喩的に表現していると考えてよさそうです(この解釈は、正田師の(涅槃)という注釈に基づく)。
    Strong先生の”to realize the essential”は、ずばり涅槃を表現している感じです。

    さて、ウダーナ 8-2 のポイントは、
    「〔あるがままに〕見ている者にとって、〔常恒なるものは〕何ものも存在しない」
    だと思います。
    正田師は、パーリ原文の文脈から、[あるがままに]、[常恒なるものは]という補助語を補ったのだと思います。
    [あるがまま]は納得しやすいのですが、「何ものも存在しない」に[常恒なるものは]と補ってあれば、そのように読めるのですが、別な読み方も出来そうだなとひらめいたものがあります。
    それは、ウダーナ 8-1 と関連させて読む読み方です。
    8-1 では、「・・・も無い、・・・も無い.....」とされていました。
    それを受けて、8-2 でも、「〔あるがままに〕見ている者にとって、何ものも存在しない」
    と読んでも良いのかなぁと思うのです。
    正田師の和訳を見ると、8-4 でも次のようになっています。

    『依存なき者には、動揺は存在しない。動揺が存在していないとき、安息がある。安息が存在しているとき、誘導は有りえない。誘導が存在していないとき、帰る所と赴く所(輪廻への去来)は有りえない。帰る所と赴く所が存在していないとき、死滅と再生は有りえない。死滅と再生が存在していないとき、まさしく、この〔世〕になく、あの〔世〕になく、両者の中間において〔何ものも存在し〕ない。これこそは、苦しみの終極である』

    何が無いのか、存在しないのか?
    私は、涅槃ということから考えて、『妄想が無い、存在しない』ということなのではないかと思います。

    三つの英訳では、
    『(正しく)見ている者に(とって)は、何も無い(there is nothing、all things are naught)』と文字通り、常恒なるものを含めてありとあらゆるものが無い、と断言されているという感じです。


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    では、何が明らかになったのか?

    天啓とかではありません。
    お釈迦様は自分の心の眼でしっかりと観たようです。
    言い換えると、自分自身で確実に体験し、その真実を体得したようです。
    この時知ったこと(体得したこと)をまとめて”智慧”と言っていると思います。
    自分で体験しただけでなく、同じことをやろうと思えば誰でも体験できるとまで言っています。

    知ったこととは、「(諸々の法が生じては滅する、まさにその、あるがままのあり方が明らかに成るとき)」であり、その仕組みを説明するのが「(因によって法が生起する道理、つまりは、縁起の法を覚知する)」であると思います。

    では、どこで何が、「生じては滅する」のか?
    それと、どういう因がどこにあると「法が生起する」のか?

    「どこ」とは、広い意味での”心”です。
    「生じて滅するもの」は、喜怒哀楽、苦楽などの感情・思いであり、俺は俺だと言うことに代表される認識・知識です。
    これらの生じて滅するものを法と呼んでいます。

    次の「因」が難しい。
    この「因もしくは因果」が、縁起として、輪廻と結びつけて理解されているのが日本の仏教だと思います。
    しかし、輪廻は体験不可能です。
    経典にも三種の明智などとして、過去の生存(前世)を知ることが出来ると記述されていますが、私は理解できません。

    因も因果も今この時、私の身心特に心の中で現象している事柄だと理解しています。

    怒りという感情を例にしてみましょう。
    誰かの言動や記憶がきっかけになって、怒りが湧き上がります。

    意識できる事柄だけで説明すると、
    誰かの言動や記憶を感知したことが直接の「因」だとすると、
    (そして、モット手強い生まれつき心の奥に持っている「怒り」発生装置が本当の「因」ですが、これを観るには修行を要する。)
    ”生じた”ものは「怒り」という感情の”萌芽”です。
    そのままにしておくと、この萌芽は、立派な怒りの感情に成長してしまいます。
    だが、もし、誰かの言動に接して何か心の変動を感じ取った時、直ちに心を落ち着け・冷静になって、じっと心の動きを見つめていると、怒りの感情は爆発を免れ、やがて、その激しい衝動は静まってゆくでしょう。
    こうして「怒り」という激しい感情の爆発が”滅していった”のです。
    しかし、普通の人では、一度静めたはずの怒りは、心のおく深くに沈潜してしまう場合があります。
    これが将来の怒りの「因」となる可能性があります。

    このことをアーチャン・リー師は、こんな風に説明しています。

    ”あらゆる物がもともとはただ生じては滅して行くものなのだということです(that all of these things, by their nature, simply arise and pass away.)。”
    ”それら(them=preoccupations)をそのあるがままにさせておきなさい(それらにかかずらうなということらしいdon't fasten onto)。心を気楽にさせておきなさい。”
    ”心を(何かに)縛り付けて(執着させて)、心とはこれであるとかあれであるなどと想像させてはいけません。”
    ”あなたがあなた自身(自我)というものを想定し(suppose)続ける限り、気づきが覆い隠されてしまうため(無明の状態)苦しみを受けることになる。”
     (アーチャン・リー師の講義より)

    私には、この説明を理解できないことはないのですが、実際に実行は出来ません。
    実行できるようにするためには、お釈迦様が勧めた瞑想を含む訓練を積まなければならないと思っています。
    多分、特殊な意識(のようなもの、意思のようなもの=精神集中とか智慧と呼ぶ)を養成しなければならないのかなと思っています。

    無茶苦茶ですよね。
    お釈迦様の悟りをたった数十行で説明しようってんですから。
    だがもしみなさんが、お釈迦様が教えたことは、私たちにも実現可能なのだ、と思えたら有り難い。
        *******************



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    この記事は、過去にアップした記事そのままです。

    <彼の、諸々の疑惑は、全てが消え去る(悟りの瞬間)①>
    これがその時の題名です。

    以下<彼の、諸々の疑惑は、全てが消え去る(悟りの瞬間)①>の本文です。
    またどなたかに堂々巡りと言われそうですね。
    みんな堂々巡りをしているのですが、そのみんなが「いや、俺は違う。堂々巡りなんかしていない」と思っているだけなんですがねぇ。
    文字数制限を越えてしまったので、2分割します。

       ***************
    ウダーナより


    お釈迦様の悟りという歴史的瞬間の思いを(後に)お釈迦様自身が弟子たちに語ったとされる感興の偈であります。
    感興の偈とは、感極まって思わず口をついて出た言葉だそうです。

    偈の中の、婆羅門バラモン・brahman(ブラーマン)・Brahmana(ブラーフマナ)とは、本来は古代インドの身分制度(カースト)の最高位であり、バラモン教の神官(バラモン・ブラーマン・ブラーフマナ)のことですが、この偈では正田師の(ブッダ)という補注にあるように、ブッダすなわちお釈迦様自身のことを指しています。

    ウダーナ冒頭の三つの偈(Ⅰ,1~Ⅰ,3)は、お釈迦様の悟りを表現した偈としていろいろな本に引用されています。
    今回は、その第一偈(Ⅰ,1)を読んでみます。

    英訳の下に、宮本先生が訳された「大品」に納められた偈を引用させていただきました。(「大品」とは、パーリ律蔵のマハーヴァッガ(大いなる章=大品)と呼ばれる仏伝すなわちお釈迦様の伝記のことです。)


    ①正田大観訳「ウダーナ・イティヴッタカ和訳」
    1・1
    熱情ある者に、瞑想する婆羅門(ブッダ)に、まさに、諸々の法(もの・こと)が明らかに成るとき(諸々の法が生じては滅する、まさにその、あるがままのあり方が明らかに成るとき)、しかして、彼の、諸々の疑惑は、全てが消え去る--因を有する法(もの・こと)を覚知するがゆえに(因によって法が生起する道理、つまりは、縁起の法を覚知する)。
      (http://www7.ocn.ne.jp/~jkgyk/)

    ②Translated from the Pali by Thanissaro Bhikkhu

      As phenomena grow clear 現象が明らかになるとき
    to the brahman -- ardent, absorbed -- 熱心に没頭しているバラモンに
    his doubts all vanish 彼の疑問はすべて解消する
    when he discerns what has a cause. 原因を持つものが何なのか明らかに知るとき
     (http://www.accesstoinsight.org/tipitaka/kn/ud/ud.1.01.than.html)

    ③Translated from the Pali by John D. Ireland

      When things become manifest ものごとが明白になる時
    To the ardent meditating brahman, 熱心に瞑想するバラモンに
    All his doubts then vanish since he understands 彼の全ての疑問は解消する
    Each thing along with its cause.それぞれのもの・ことを原因と一緒に理解して以来
     (http://www.accesstoinsight.org/tipitaka/kn/ud/ud.1.01.than.html) 

    ④Translated from the Pali by Dawsonne Melanchthon Strong

    "When the conditions of existence dawn upon the strenuous meditative Brahmana, 存在の条件(or縁起or因果の因)が熱心に瞑想するバラモンに分かってくる時(*今回、conditions of existenceの訳を変更しました。元は、存在するものの状態)
    When he understands the nature of cause and effect,
    Then all doubts depart." 彼が因果の本質を理解する時全ての疑問は去る
     (http://www.sacred-texts.com/bud/udn/index.htm
      http://tipitaka.wikia.com/wiki/Udana)


    ⑤宮元啓一訳

      努力して瞑想しているバラモン(清らかな修行者)にもろもろのものごと[が因果関係の鎖を成していること]が顕わになった時、
    彼はもろもろの原因を持つものごと(ものごとは原因があって生ずるということ)を知ったので、彼の疑念はすべて消え去る。
    (宮元啓一訳「仏教かく始まりき パーリ仏典『大品』を読む」春秋社)


    偈の中で、もっとも重要な言葉は、①「諸々の法(もの・こと)」だと思います。この言葉は、②③④⑤ではそれぞれ次ぎのように訳されています。
     ②phenomena
    ③things
    ④the conditions of existence
    ⑤もろもろのものごと

    正田師の訳で、「法」とされているので、原語はdhamma(ダルマ)だと思われます。(原文らしきものを見つけてじっと睨んだのですが、確かにdhammaに相当する語があります。http://www.tipitaka.org/romn/ 偈は一番最後にあります。)

    dhamma(法・ダルマ)という語は、ものすごい沢山の語義があるそうです。
    仏教で「法」といえば、まず、お釈迦様の教えを指します。次に、時代が下ると、お釈迦様が説いた「法」は、永遠の真理であり、お釈迦様が説く以前から永遠の真理として存在したというようなニュートン的な真理観に変容します。

    しかし、この偈においては、dhamma(法・ダルマ)は、お釈迦様の教えとか真理とかという意味合いで使われていないようです。

    ①~⑤の訳を較べて分かるように、この偈のdhamma(法・ダルマ)は、①もの・こと②事象・現象③もの・こと④存在するものの在り方⑤もろもろのものごと、というように、私たちが日常体験している「こと(現象・事象)」を指しています。

    そして、この法(もの・こと・現象)は、大パリニッバーナ経でお釈迦様が遺誡として述べたとされる言葉にある、
    「もろもろの事象」に深い関連のある言葉だと思います。


    彼の、諸々の疑惑は、全てが消え去る(悟りの瞬間)②----------

    では、お釈迦様は、法(もの・こと・現象)の何を知ったので、思わず「おお、そうだったのか!」と感嘆の声を発したのでしょう。

    お釈迦様が知った法(もの・こと・現象)と私たちが日常経験している法(もの・こと・現象)はどこか違いがあるのでしょうか。

    法(もの・こと・現象)をどう解釈し、それにどう対処するかという点で違いが出てきます。

    法(もの・こと・現象)の真実を知ることができたので、思わず感興の声を発したのです。

    それを知るには、私たちが日常、法(もの・こと・現象)をどのように理解しているかを確認する必要があります。

    自分(という”法=もの・こと・現象”)について私たちが日常どう理解しているかを確認してみましょう。

    私は、自分というもの(自己・自我・私というもの)が確かにあると素朴に信じています。
    ではその自分というのは、何時の時点の自分ですか、と聞かれると返事に困る。自分はずっと同じだと思っているからです。

    何を言っているんですか、あなたはどんどん老フけていますよ。
    身体も心も一瞬一瞬変わっていますよ。
    そして、いずれ確実に死にます。
    もし、変わらないのであれば、昨日怒りくるったままですよ。
    あのひどい下痢がずっと続くんですよ。
    なんて言われちゃいますね。(悪い方ばかり強調しましたが)

    もう一つ、また、美人のことを考えてみましょう。
    美人は本当に美人ですか?
    ええ、私はやっぱり美人に弱い。

    では、あなたは美人の何に惹かれるのですか?
    整った顔立ち、スマートでしかも魅惑的な肢体ですね。
    それに知性あり、情あり、優しくて賢い。

    そんな条件の女性なら沢山いますよ。
    どの女性なのですか?
    え、あの人。
    どうしてあの人なのですか?
    あっちの人の方がモット魅力的じゃぁないですか?

    普通人は、法(もの・こと・現象)を自分の価値観という色眼鏡で判断しています。
    その価値観は、どちらかと言うと、自覚されていません。
    ほとんど無意識領域で判断しています。

    どうしてあの女性じゃなければならなくなったのでしょう?
    この難問を解いて、理路整然とした説明を出来る人はいないでしょう。
    そして、どうしてだか分からないけれど、あの人と一緒になれなければ俺はもう駄目だ、と思い込むから、あの人と自分との関係でいろいろな”苦”が発生します。

    この偈で、法(dhamma)と同じくらい重要な言葉が、①「(諸々の法=もの・こと)が明らかに成るとき」です。以下、
    ②grow clear③become manifest④dawn upon⑤顕わになった。
    と訳されています。

    これこそが悟りの核心ではないかと思うのです。
    お釈迦様が人類史上始めて如実に知った(体得した)真実です。

    経典というのは、このこと、お釈迦様が明らかに知った真実をいろいろな仕方で繰り返し説明しているものだと思います。
    つまり、経典のどこを読んでも、この真実に触れていないものはないと思います。



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    これから読んでみるウダーナ1-1~1-3の感興の言葉に初めて接したのは、増谷文雄先生の本を読んでいる時でした。

    その時は、これが涅槃に関する説明だとは分かりませんでした。

    一般的にも、お釈迦様を悟りに導いた超自然的なもの(法と呼ぶもの)があり、それがお釈迦様の熱意にホダサレ降臨したような説明がされているようです。

    だが、正田大観師の全文和訳を読むと、これは明らかにお釈迦様の悟りすなわち涅槃達成を説明する経文であると考えざるを得ません。

    「法」などというものが無い、有るのは、お釈迦様が開発した涅槃への道だけであり、それで十分であるということです。
    お釈迦様が感興の言葉で言っている「法」とは、涅槃を達成する道筋だと解釈すべきでしょう。

    ただ、ウダーナ全体を読むと、全文全てがお釈迦様の言葉なのかどうか納得しかねるものがあります(あくまで独断)。
    もしかすると、当初は感興の言葉だけが確定し伝承されていたが、それに付随する伝承もあり、それらが編集しなおされ現在の経文となったのかもしれません。

    私にとって必要なのは、涅槃に関する経文ですので、納得しかねるような経文や、あまり涅槃の理解に必要ない経文は切り捨てても不都合がありませんので、あくまで、経文を読む時の基準は、「涅槃」とは何か・どのように涅槃は達成可能なのかというようなことになります。

    以前に他のサイトで公開してくださっていた正田大観師訳「ウダーナ」は、感興の言葉だけでしたので、下記引用のような構成になっているとは気がつきませんでした。
    (英訳を見たのですが、記憶が曖昧)

    引用経文中には、十二縁起が語られています。
    果たして、第一結集の時に、現存ウダーナのような構成だったのかどうかは多分分からないのでしょう。

    私が読む限りでは、縁起の部分と感興の言葉とは上手く整合性が取れているように思われます。

    今までに何度かこの縁起の読みに挑戦してきましたが、今回は、はっきりと涅槃が可能な理由をこの縁起の説明文から読取れそうな気がします(あくまで気がするだけ)。

    この縁起の経文の一番の要は、次の部分では無いでしょうか?

    『渇愛という縁から、執取(取)が〔発生する〕。執取という縁から、生存(有)が〔発生する〕。生存という縁から、生(生)が〔発生する〕。生という縁から、老と死(老死)が〔発生し〕、憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤(愁悲苦憂悩)が発生する。このように、この全部の苦痛の範疇(苦蘊)の、集起が有る』

    まさに縁起しているだけ、ということを説明しているように読めます。

    人には、無明という生まれつきのどうしようもない傾向がある。さらに、形成作用・識別作用などの機能がある。無明は自分や自分の周囲をありのままに見ない傾向でもあり、これに渇愛・執着という無明と結びついた機能によって、ありのままに見られるようになればそのように見えない生存という想いが生じてしまう。それは生への執着となり、病・老化・死への恐怖に発展し、そのために憂いや嘆き苦痛が生じる。
    つまり、私たちが普通に育つと誰でも「俺は居る」「この身体は俺の身体だ」「これは俺だ」「俺は生きている」「俺は死ぬ」というような想いが正しい、当然だと思うようになるということです。
    お釈迦様は、実は、その思いは間違っているのだということを発見したのだということです。

    縁起の法すなわち瞑想の原理の説明であると読めないか、ということです。
    縁起の法ですが、ウダーナ 1-2の苦の滅の手順をあまり難しく語順通りに読まなくてもいいじゃないかと思うのです。

    問題の全ては、ありのままに見ることがない無明という生まれつきの傾向に原因がある。
    もしも、この無明がどうにもならないものであるなら、涅槃は不可能であろう。

    しかし、お釈迦様は、長い修行の体験の中でこの無明を退治する方法を感じ取り、ネーランジャラーの岸辺、菩提樹下の瞑想でついに対処法を見つけた。それが、涅槃を達成する方法であり、無明の傾向を打ち破る智慧を獲得する方法でもある、というふうに読みます。

    そのように(どのようにですか?と反問が出そうですが)読めば、縁起の説明文と感興の言葉はごく自然につながりそうです。

    ウダーナ和訳からの以下の引用文は、1-1~3の全文ではありません。抜粋です。
    全文は下記サイトでお読みください。
     正田大観師和訳「ウダーナ」全文
      http://aranavihaara.web.fc2.com/index.html
       アラナ精舎→tipitakaパーリ経典→小部経典(短いお経の集まり)訳者:正田大観 の順にクリックしてください。


       ***** 正田大観師和訳「ウダーナ 1-1~3」******           
    ウダーナ 1-1 「かくのごとく、これが存しているとき、これが有る。これの生起あることから、これが生起する。すなわち、この――無明(無明:無知)という縁から、諸々の形成〔作用〕(諸行:意志・衝動)が〔発生する〕。諸々の形成〔作用〕という縁から、識別〔作用〕(識:認識作用)が〔発生する〕。識別〔作用〕という縁から、名前と形態(名色:心と身体)が〔発生する〕。名前と形態という縁から、六つの〔認識の〕場所(六処)が〔発生する〕。六つの〔認識の〕場所という縁から、接触(触)が〔発生する〕。接触という縁から、感受(受)が〔発生する〕。感受という縁から、渇愛(愛)が〔発生する〕。渇愛という縁から、執取(取)が〔発生する〕。執取という縁から、生存(有)が〔発生する〕。生存という縁から、生(生)が〔発生する〕。生という縁から、老と死(老死)が〔発生し〕、憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤(愁悲苦憂悩)が発生する。このように、この全部の苦痛の範疇(苦蘊)の、集起が有る」と。

     そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を知って、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。


     「熱情ある者に、〔常に〕瞑想している婆羅門に、まさに、諸々の法(性質)が明らかと成るとき(物事が生じては滅する、まさに、その、あるがままのあり方が明らかになるとき)、しかして、彼の、諸々の疑惑は、全てが消え去る――因を有する法(性質)を、〔あるがままに〕覚知するがゆえに(物事が因縁によって生起する道理、つまりは、縁起の理法を覚知するからである)」と。


    ウダーナ 1-2 「かくのごとく、これが存していないとき、これが有ることはない。これの止滅あることから、これが止滅する。すなわち、この――無明(無明:無知)の止滅あることから、諸々の形成〔作用〕(諸行:意志・衝動)の止滅がある。諸々の形成〔作用〕の止滅あることから、識別〔作用〕(識:認識作用)の止滅がある。識別〔作用〕の止滅あることから、名前と形態(名色:心と身体)の止滅がある。名前と形態の止滅あることから、六つの〔認識の〕場所(六処)の止滅がある。六つの〔認識の〕場所の止滅あることから、接触(触)の止滅がある。接触の止滅あることから、感受(受)の止滅がある。感受の止滅あることから、渇愛(愛)の止滅がある。渇愛の止滅あることから、執取(取)の止滅がある。執取の止滅あることから、生存(有)の止滅がある。生存の止滅あることから、生(生)の止滅がある。生の止滅あることから、老と死(老死)が〔止滅し〕、憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤(愁悲苦憂悩)が止滅する。このように、この全部の苦痛の範疇(苦蘊)の、止滅が有る」と。

     そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を知って、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。


     「熱情ある者に、〔常に〕瞑想している婆羅門に、まさに、諸々の法(性質)が明らかと成るとき(物事が生じては滅する、まさに、その、あるがままのあり方が明らかになるとき)、しかして、彼の、諸々の疑惑は、全てが消え去る――諸々の縁の滅尽を、〔あるがままに〕知ったがゆえに(物事が因縁によって止滅する道理、つまりは、縁起の理法を覚知するからである)」と。


    ウダーナ 1-3 「かくのごとく、これが存しているとき、これが有る。これの生起あることから、これが生起する。すなわち、この――無明という縁から、諸々の形成〔作用〕が〔発生する〕。諸々の形成〔作用〕という縁から、識別〔作用〕が〔発生する〕。識別〔作用〕という縁から、名前と形態が〔発生する〕。名前と形態という縁から、六つの〔認識の〕場所が〔発生する〕。六つの〔認識の〕場所という縁から、接触が〔発生する〕。接触という縁から、感受が〔発生する〕。感受という縁から、渇愛が〔発生する〕。渇愛という縁から、執取が〔発生する〕。執取という縁から、生存が〔発生する〕。生存という縁から、生が〔発生する〕。生という縁から、老と死が〔発生し〕、憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が発生する。このように、この全部の苦痛の範疇の、集起が有る。

     まさしく、しかるに、無明の残りなき離貪による止滅あることから、諸々の形成〔作用〕の止滅がある。諸々の形成〔作用〕の止滅あることから、識別〔作用〕の止滅がある。識別〔作用〕の止滅あることから、名前と形態の止滅がある。名前と形態の止滅あることから、六つの〔認識の〕場所の止滅がある。六つの〔認識の〕場所の止滅あることから、接触の止滅がある。接触の止滅あることから、感受の止滅がある。感受の止滅あることから、渇愛の止滅がある。渇愛の止滅あることから、執取の止滅がある。執取の止滅あることから、生存の止滅がある。生存の止滅あることから、生の止滅がある。生の止滅あることから、老と死が〔止滅し〕、憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が止滅する。このように、この全部の苦痛の範疇の、止滅が有る」と。

     そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を知って、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。


     「熱情ある者に、〔常に〕瞑想している婆羅門に、まさに、諸々の法(性質)が明らかと成るとき、〔彼は〕悪魔の軍団を砕破しながら、〔世に〕止住する――太陽が、空中を照らすように」と。
       *******************************************




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    テーラヴァーダ仏教諸国の中でも、いろいろな分派(セクト)があり、国によっても何を重視するかが異なるようです。

    私が傾倒しているのは、どちらかというとテーラヴァーダ仏教諸国では異端だなどと呼ばれるマイナーな分派(セクト)に分類される方々のようです。
    ルアンポル・ティアン(ティエン)師、プッタタート比丘、S.N.ゴエンカ先生、マン(ムン)師、マハーシ長老など。

    これらの方々にほぼ共通することは、現世で涅槃を成就できるとお釈迦様が説いたと確信して努力し、ついに涅槃を達成したと思われることです。
    また、自分だけが涅槃を達成して満足するのでなく、さらに工夫努力されて、涅槃を成就したいと熱心に願う一般の人たちのために、涅槃を成就させるための、より分かりやすい方法を開発していることです。

    本にしろ経典にしろ、初めて読んだ時には真意やその重要性に気づけないことがよくあります。

    ゴエンカ先生の「ゴエンカ氏のヴィパッサナー入門」を初めて読んだ時は、私が、お釈迦様の本当の教えに気づいた時であり、やっと経典の読み方を会得した時でした。

    つい最近、この本を参照するために読み返しているうちに、この本の付録「ブッダの教えにおけるヴェーダナーの重要性」も読み直し、改めてその重要性に気づきました。
    ゴエンカ先生が述べていることは、ほぼそのまま、ルアンポル・ティアン師の瞑想法に当てはまることに気がついたのです。

    ゴエンカ先生の論、「ブッダの教えにおけるヴェーダナーの重要性」の中に、次のような経典の引用があります(p212)。

       ***** titthayatana sutta アングッタラ・ニカーヤ *****
    感覚を体験する者に、なにが苦であり、なにが苦の原因であり、なにが苦の止滅であり、なにが苦の止滅への道であるかを悟る道を教えよう。
       *******************************************************

    「なにが」で始まる四つの句は、四(聖)諦のことですから、この経文は、四(聖)諦の要カナメが何であるのかを説いていることになります。

    注意してルアンポル・ティアン師の「To One That Feels」を読んでくださった方は、この経文が「To One That Feels」のことであるとお気づきになられたでしょう。
    To One That Feelsとは、次の句から取ったもののようです。

    “It is to one that feels that I teach Dhamma, not to one that does not feel.”(私がダンマを教えるのは感じる人であって、感じない人にではない。) ---「To One That Feels」より

    ルアンポル・ティアン師が"feel(感覚を感じる)”と言っている語がすなわちヴェーダナー(感覚)であると考えて良いようです。
    ただし、ルアンポル・ティアン師とゴエンカ先生とでは、ヴェーダナー(feel、感覚)の語法が多少異なります。
    ルアンポル・ティアン師は、ゴエンカ先生のヴェーダナーの内容にあたるものを「Thought(思考)」と呼んで、その思考を、”感覚によって導かれた気づき”によって見て(サティ)、どんなものを見ても動揺せずに(サマディ)、洞察する(パンニャ)ことで明知を生じさせ、苦を止滅させられると説いています。

    ゴエンカ先生は、お釈迦様が、ディーガ・ニカーヤ第22経、マッジマ・ニカーヤ第10経「サティパッターナ・スッタSatipatthana Suttanta(気づきの確立の教えor大念住経)」の中で、ヴェーダナー(感覚)こそが気づきを導くものであり、心の真実へと導くものであり、無常・苦・無我の体得へと導くものであり、涅槃へと導くものであると説いている、と言っています。

    『この経典は、まずサティパッターナの目的、気づきの確立の目的を述べている。「生きるものすべてを浄化し、悲しみや嘆きを超越し、苦痛と苦悩を消し去り、真理の道を歩み、究極の真理ニッバーナを直接体験すること」。つぎに、どのようにして目的を達成したらいいのか、短く説明している。「ここで、一人の瞑想者が熱心に修行し、完全に真理を理解し、するどい意識を保ち、からだのなかにからだを観察し、感覚のなかに感覚を観察し、心のなかに心を観察し、心の中身のなかに心の中身を観察し、この世への渇望と嫌悪を捨てる」(p215)』
     *なお、「心の中身」をダンマ(法)としてありますが、ダンマ(法)という語は多義であり、ここでのダンマ(法)とルアンポル・ティアン師の説法に頻出するダンマは同義語とは思えません。これについては、別の機会に検討します。

    四つの観察の対象は、①身体、②感受(感覚)、③心、④心の中身(ダンマ=法)ですが、ルアンポル・ティアン師は、これを二つにまとめています。
    すなわち、身体(ループ)と心(ナーム)の二つです。
    「するどい意識を保ち、」とは、まさに「気づき」を持つことだと私は解釈します。

    このことをゴエンカ先生は、「ブッダの教えにおけるヴェーダナーの重要性」で詳しく論じています。

    「ブッダの教えにおけるヴェーダナーの重要性」の冒頭でゴエンカ先生はこう言っています。

    『ブッダの教えは、自己改革の手段として自己洞察を強めてゆくシステムである。自分自身の内なる真実を体験的に理解すれば、誤った思い込みが取り除かれ、わるい行動を取って不幸になることが少なくなる。現実に即した行動が取れるから、実り多い、価値ある、幸福な人生を送れるようになれる。
    「サティパッターナ・スッタ」すなわち「気づきの確立の教え」(大念住経)という経典の中で、ブッダは自己観察によって自己洞察を深めてゆくという実践的な方法を示している。それがヴィパッサナー瞑想法である。(p210)』

    『自己の真実を観察しようとすると、「自分自身」と呼んでいるものには、肉体と精神、からだと心、という二つの側面があることに気づく。その両方を観察する必要がある。だが実際には、どのようにしてからだと心の真実を体験することができるのだろう?(p210)』

    『心の中身というのは、思考、感情、記憶、希望、恐怖など、ありとあらゆる精神作用をいう。からだと感覚とを切り離して体験することはできないが、心と心の中身もべつべつに観察することができない。そのうえ、心と物、心とからだは深く関係している。一方に起こったことが他方に反映する。これはブッダの重要な発見であり、その教えのなかで決定的な意味を持っている。ブッダはこう述べている。「心のなかでに起こることは、すべて感覚をともなう(Mulaka Sutta, Samiddhi Sutta ともに、アングッタラ・ニカーヤ)」。つまり、感覚を観察することによって、心とからだの両面から自分をトータルに見つめることができるのである。(p211)』

    『しかし、ヴェーダナーを観察することによって、四つの側面(身体、感受、心、心の中身)をまるごと体験できるのである。だから、ブッダはヴェーダナーに気づくことの重要性をとくに強調している。重要な経典の一つである「ブラマジャーラ・スッタ(アングッタラ・ニカーヤ)」(*註)のなかで、ブッダは言う。「さとりを開いた人は、執着をありのままに見て、そこから真に自由になった。感覚の去来を見、感覚の味わいを見、感覚のワナを見、感覚からの開放を見たのだ。」(p212)』
     *註: 訂正です。「ブラマジャーラ・スッタ(アングッタラ・ニカーヤ)」→「ブラマジャーラ・スッタ(ディーガ・ニカーヤ)」。ブラマジャーラ・スッタ(梵網経)はディーガ・ニカーヤ第一経でした。申し訳ありません。

    (続く)



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    次はStrong先生の英訳→直訳です。


       ***** 正田大観師の和訳 **********************************
    「比丘たちよ、その場所(処)は存在する――そこにおいては、まさしく、地なく、水なく、火なく、風なく、虚空無辺なる〔認識の〕場所(空無辺処:虚空のように終わりはない、という瞑想の境地)なく、識別無辺なる〔認識の〕場所(識無辺処:心意識に終わりはない、という瞑想の境地)なく、無所有なる〔認識の〕場所(無所有処:いかなるものも断片的対象物として存在しない、という瞑想の境地)なく、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所(非想非非想処:表象があるでもなく表象がないでもない、という瞑想の境地)なく、この世なく、他世なく、月と日の両者はない。比丘たちよ、そこにおいて、また、わたしは、まさしく、帰る所(現世)を説かず、赴く所(来世)を〔説か〕ず、止住を〔説か〕ず、死滅を〔説か〕ず、再生を〔説か〕ず、これ(涅槃)を、依って立つところなきものと〔説き〕、〔対象として〕転起されることなきものと〔説き〕、まさしく、〔転起された〕対象ならざるものと〔説く〕。これこそは、苦しみの終極“おわり”である」
    • **********************************************************

       ***** Strong先生の英訳 **********************************
    "There is, O Bhikkhus, a state where there is neither earth, nor water, nor heat nor air, neither infinity of space, nor infinity of consciousness, nor nothingness, nor perception, nor non-perception, neither this world nor that world, both sun und moon.

    That, O Bhikkhus, I term neither coming nor going, nor standing, neither death nor birth. It is without stability without procession, without a basis: that is the end of sorrow".
    • ***********************************************************

       ***** Strong先生の英訳に対するavaroの直訳 ****************
    さて比丘たちよ、地も無く、水も無く、熱も無く、空気も無く、空間の無限性も無く、意識の無限性も無く、何も無いということも無く、認識も無く、認識が無いということも無く、この世も無く、あの世も、太陽と月の両方とも無いという状況は(確かに)あるのです。
    さて比丘たちよ、それ(状況)を私は、生じることも去り行くこと(消滅)もそのままで有り続けることも無い(状況)と名づけ、また、死ぬことも生まれることも無いと名づけます。それ(状況)は、不変性を欠き、継続性を欠き、(よりどころとなる)基盤を欠いているのです。これ(以上に述べたこと)が不幸・難儀の終わりなのです。
      **************************************************************

    * state は「状態」を表わす最も一般的な語で, 人・事物とそれをとりまく状況とのあるがままの状態という辞書の語義を採用しました。


    Thanissaro師、Ireland先生、Strong先生の英訳を直訳してみましたが、お粗末で訳したなどと言える代物ではないのですが、無謀なことも自分でやってみればそれなりに勉強になります。

    8-1の感興の言葉の中では、場所・dimension・base・stateという訳語は、どれも今一つずばり表現しきれていない感じがしました。
    この語は、涅槃(ニッバーナ)を比喩的に表現したもののようなので、ぴったりの言葉そのものが見当たらないのかもしれません。
    英語の語義は、nativeならどう読取るのかなと想像するだけで、nativeの直感は働きませんでした。
    この四つの訳語を無理やり一つのグループの中に押し込んでみると、stateの注釈「state は「状態」を表わす最も一般的な語で, 人・事物とそれをとりまく状況とのあるがままの状態」という読み方でいいのかなと思います。
    場所・dimension・base・stateは、自宅とか日本とか地球・宇宙というような人々が存在する一般的な場所を意味するのではなく、涅槃を成就した人その人が感じている状況のことなのだという解釈です。

    次に難しかったのが、正田師訳で言うと「比丘たちよ、そこにおいて、また、わたしは、まさしく、・・・・・・これ(涅槃)を、依って立つところなきものと〔説き〕、〔対象として〕転起されることなきものと〔説き〕、まさしく、〔転起された〕対象ならざるものと〔説く〕。」にあたる文章です。
    まず、「そこにおいて」に当たる語が、Thanissaro師は「there」、Ireland先生は「Here」、Strong先生は「That」と訳していて、それぞれが指示する対象が違うのではないかと思えるほどでした。
    直訳では、お釈迦様が「涅槃というものは・・・・・である」、と説いたものと解釈してほぼ同じ意味となるように訳しました。
    この段落中の難解語は、Thanissaro師の訳語「unestablished, unevolving」に該当する語でした。
    これらの語が意味することは、おそらく、涅槃の境地に入ると、日常当然であった現象が一切感じ取れなくなるということなのだろうと思います。
    私たちは、見たもの聞いたもの...全てに意味づけを行っています。太陽一つにしても、明るい・暖かい・まぶしい・母・神などと解釈しています。
    太陽が無いというのは、観測されている太陽が無いという意味ではなく、意味づけを施した頭の中の太陽が無くなったという意味に解釈するということです。
    果たしてそんな風になるのかどうか分かりませんが、太陽を見ても、見ただけであり、「あ、太陽だ。」という「認識」が起こらないし、まして、「暖かい・明るい...」という「思い」も湧かないのかなという感じです。
    涅槃の境地に入った阿羅漢は、そういう意味づけが無くなるということなのではないかと推理すれば、四人の方の訳がほぼ同じ意味に取れそうです。
    意味づけをせず、拠り所を持たず、というのは常人のままではとても耐え難い状況だと思われます。
    ここに瞑想修行の必要性があるのだと思います。




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     今度は、Ireland先生の英訳→直訳です。

    Ireland先生の英訳で難しかったのは、

    1. base
    2. uprising
    3. fixed
    4. movable

    あたりでした。

        ***************** 正田大観師の和訳 *******************
    「比丘たちよ、その場所(処)は存在する――そこにおいては、まさしく、地なく、水なく、火なく、風なく、虚空無辺なる〔認識の〕場所(空無辺処:虚空のように終わりはない、という瞑想の境地)なく、識別無辺なる〔認識の〕場所(識無辺処:心意識に終わりはない、という瞑想の境地)なく、無所有なる〔認識の〕場所(無所有処:いかなるものも断片的対象物として存在しない、という瞑想の境地)なく、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所(非想非非想処:表象があるでもなく表象がないでもない、という瞑想の境地)なく、この世なく、他世なく、月と日の両者はない。比丘たちよ、そこにおいて、また、わたしは、まさしく、帰る所(現世)を説かず、赴く所(来世)を〔説か〕ず、止住を〔説か〕ず、死滅を〔説か〕ず、再生を〔説か〕ず、これ(涅槃)を、依って立つところなきものと〔説き〕、〔対象として〕転起されることなきものと〔説き〕、まさしく、〔転起された〕対象ならざるものと〔説く〕。これこそは、苦しみの終極“おわり”である」
      ***********************************************************

        *******Ireland先生の英訳***********************************
    There is, bhikkhus, that base where there is no earth, no water, no fire, no air; no base consisting of the infinity of space, no base consisting of the infinity of consciousness, no base consisting of nothingness, no base consisting of neither-perception-nor-non-perception; neither this world nor another world nor both; neither sun nor moon. Here, bhikkhus, I say there is no coming, no going, no staying, no deceasing, no uprising. Not fixed, not movable, it has no support. Just this is the end of suffering.
    • ************************************************************

      • **** Ireland先生の英訳に対するavaroの直訳 ************* 
    比丘たちよ、そういう拠点は(確かに)あるのです。そこには、地も無く、水も無く、風も無く、火も無い。また、その拠点は、空間が無限であるというような所でもなく、意識が無限であるというような所でもなく、何も無いというような所でもなく、認識が有るので無いのでもないというような所でもない。また、そこには、この世も無く、あの世も無く、両方とも無い。また、そこには、太陽も無く、月も無い。今ここで私は言っておきます。比丘たちよ、生じてくることもなく、過ぎ去って消えてしまうこともなく、止まるということもなく、断滅もなく、再生も無いのです。その拠点というものは、不動でもなく、可動でもなく、なんの支え(依拠するもの)も無いのです。まさしくこれが苦の止滅なのです。
    • ***********************************************************

    * baseを以下のような意味にとりました。Online dictionaryより。

     ○ the place where you are stationed and from which missions start and end.
     ○ the main place where you live or stay or where a business operates from.

    * uprising 辞書をいくら読み直しても、再生とか生まれるというような訳語は見つからなかった。立ち上がる、起きる、昇るというような語義しかない。問題はIreland先生が何故この訳語を選んだかである。Thanissaro師はarising、Strong先生はbirthと英訳している。やむなく、deceaseを断滅と訳し、反対語として(来世への)再生としました。




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    イメージ 1

              お前は           誰                     何






    母の胎内・から生まれ・出て父母・に愛しまれ食べ物・で養育され・大人にならなかったら私は私・を私だと思うだろうか?






    サンユッタ・ニカーヤⅠ.Ⅹ.1「インダカ」より



    (インダカというヤッカが尊師に向かって詩を以て話しかけた。)
      「身のかたちが生命なのではない、と諸々の覚者は語る。
       この[生命]は、いかにしてこの身体を見出すのであろうか?
       骨と肉体よりなるこの身体は、どこからかれに来るのであろうか?
       いかにしてこの[生命]は、母胎のうちに付着するのであるか?」
    [尊師答えていわく、--]
      「まずカララができ上がる。カララからアッブダができ上がる。アッブダからペーシーが生じる。ペーシーからガナが生じる。
       ガナからパサーカ(身体の肢節の分かれる状態)が生まれ、髪や毛や爪が生ずる。
       かれの母が食べて摂取するもの、--食物と飲料と吸うて食べるもの、--
       母胎のうちにいる人は、それによってそこで成長する。」
    (中村元訳「ブッダ 悪魔との対話 サンユッタ・ニカーヤⅡ」(岩波文庫)

    訳者不明の英訳:
    Then the non-human Indaka approached the Blessed One and said this stanza:
    (Q)
    The Enlightened Ones say, there is no life in matter.
    When there is no strength, how is the body to know?
    How is a skeleton formed for him?
    And without strength what clings in the womb ?
    (A)
    First there is the suitable soil. In it there is a swelling
    In the swelling rises a lump of flesh.
    The lump of flesh becomes a hard mass.
    Then major and minor limbs arise in the hard mass.
    And hair of the head and body and nails arise.
    He is nourished with the eatables and drinks eaten by the mother. Thus the man gone to the mother's womb is nourished.
    (avaro読み:
    そして、人でないものインダカは幸せなお方のお傍に行き、次の詩を唱えた。
    (Q)
      悟りを開いた方々が言うには、物質には生命は無いそうだ。
      (生命そのものである知)力がないならば、身体(物質)はどうやって知ることができるか?
      骨はどうやって彼のものとなるのか?
      (生命そのものである知)力がないとしたら、何が母胎にくっつくのか?
    (A)
      まず、必要量の地(固形のもの)がある。そのなかに瘤がある。
      その瘤の中に肉の塊が出来る。
      肉の塊が固いものの塊になる。
      固い塊の中に大小の肢が出来る。
      次第に頭の毛や胴体や爪が出来る。
      彼は、母が食べた食べ物と飲み物で養われる。
      このように、母の子宮に入った人は養われる(育つ)。


    私は言う。"インダカよ、お前はその先入観を捨てなさい。私もこのようにして母の胎より生まれ出ました。瘤は瘤であり、肉塊は肉塊に過ぎないのです。母に愛しまれ、養育され、ようやく私は私となったのです”と。

    ハートレーは孤独なまま孤独を感じずに極微の物質の海をその日まで飛び続ける。

    これが私なのだと気づくものは少ない。 

    人は、第三の目を使いお前を見るであろう。

    目を獲得したものの子孫がお前であり私なのだ。

    目は光を感じずには居れない。
    光は電磁波であり、イメージは微弱な電気信号と化学作用に依存する。
    言葉もイメージであり、紙は物質である。
    文字も文法もイメージであり、親から子へと、師から弟子へと受け継がれる。
    目と耳と鼻と舌と触覚とで学びの蔵を豊かにする。

    そのようにしてお前に苦悩と快楽が生じ、生存と死滅が生じた。

    ハートレーにも、極微の海にも、私の身体にも、言葉を見出すことは出来ない。
    言葉はイメージに過ぎない。
    イメージはお前の心の主である。

    インダカよ、お前はかつて母の胎内にあった時は小さな瘤に過ぎなかったのだ。











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    次の作業は、正田師、Thanissaro師、Ireland先生、Strong先生、(ゴエンカ先生の訳は意訳ですのでそのまま)、の諸師・先生方の訳文を私がどのように読んだのか、テキストに沿って解釈的意訳的に書き出すことです。

    その前に、Thanissaro師らの英訳を、正田師の和訳を全面的に参照しつつ日本語に直訳してみます。それから、解釈的意訳的な読み方をしてみます。

    まず、Thanissaro師の英訳→直訳から始めます。

    • ******正田大観師の和訳************************************
    「比丘たちよ、その場所(処)は存在する――そこにおいては、まさしく、地なく、水なく、火なく、風なく、虚空無辺なる〔認識の〕場所(空無辺処:虚空のように終わりはない、という瞑想の境地)なく、識別無辺なる〔認識の〕場所(識無辺処:心意識に終わりはない、という瞑想の境地)なく、無所有なる〔認識の〕場所(無所有処:いかなるものも断片的対象物として存在しない、という瞑想の境地)なく、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所(非想非非想処:表象があるでもなく表象がないでもない、という瞑想の境地)なく、この世なく、他世なく、月と日の両者はない。比丘たちよ、そこにおいて、また、わたしは、まさしく、帰る所(現世)を説かず、赴く所(来世)を〔説か〕ず、止住を〔説か〕ず、死滅を〔説か〕ず、再生を〔説か〕ず、これ(涅槃)を、依って立つところなきものと〔説き〕、〔対象として〕転起されることなきものと〔説き〕、まさしく、〔転起された〕対象ならざるものと〔説く〕。これこそは、苦しみの終極“おわり”である」
    • **********************************************************

    • ******Thanissaro師の英訳**********************************
    There is that dimension where there is neither earth, nor water, nor fire, nor wind; neither dimension of the infinitude of space, nor dimension of the infinitude of consciousness, nor dimension of nothingness, nor dimension of neither perception nor non-perception; neither this world, nor the next world, nor sun, nor moon. And there, I say, there is neither coming, nor going, nor staying; neither passing away nor arising: unestablished, unevolving, without support (mental object).[1] This, just this, is the end of stress.
    http://www.accesstoinsight.org/tipitaka/kn/ud/ud.8.01.than.html
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    • **** Thanissaro師の英訳に対するavaroの直訳 *************
    地も無く、水も無く、火も無く、風も無く、また、空間が無限であるという次元も無く、意識が無限であるという次元も無く、何も無いという次元も無く、認識が有るのでも無く無いのでも無いという次元も無く、この世も無く、次の世も無く、太陽も無く、月も無いというようなそういう次元が(確かに)あるのです。また、そこには、(この世に)やって来るということも無く、(次の世に)去ってゆくということも無く、(この世に永遠に)とどまるということも無く、あるいは、死ぬということも無く、生まれる(再生する)ということも無い、あるいは、(世界観が)確立すること無く、進展すること無く、支えとなるもの(心の対象)も無い。これが、まさにこれが、苦の止滅なのです(つまり、ニッバーナの達成)。

     * 次元(dimension)をThanissaro師は、下記のサイトの英訳では、sphere(領域)と英訳しています。
       http://www.buddhismtoday.com/english/texts/khuddaka/udana/ud8-1.html
    しかし、sphereでは、nibbanaを達成した者の「ものの感じ方・知り方・了解の仕方」という意味のパーリ語ayatanaの意味するものを上手く読者に伝えられないと考えて、dimensionと訳しなおしたのか、反対に、dimensionでは分かりにくそうなので、sphereとしたのか分かりません。
    dimensionを次元と訳しましたが、この次元の意味するものは、数学の「次元」でもなく、物理学の「次元」とも異なる意味内容を持たせたものだと解釈しています。
    Thanissaro師が実際どういう意味をお考えだったのかは註もないので分かりません。
    このあたりが素人のいい加減さですね。
    学者だったら、こんないい加減は許されないでしょう。
    とにかく、ayatana(dimension,sphere)を実在の時空という風に解釈すべきではないと思います。その点、私の感じでは、sphereよりもdimensionの方がいいのかなということになります。
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     学の無い私は、用語の知識が乏しく、パーリ→漢・和・英の総合的な語彙の蓄積がないので、こういう作業は苦手。
    経典の意味するところはほぼ了解できているつもりでも、逐語的な解釈がちゃんとできなければ説得力が無い。
     ウダーナ 8-1~4 は、お釈迦様の悟りを圧縮したような経文ですから、表現も特殊で翻訳が難しい。

     
    * 補足:

     その場所(dimension, sphere)を比喩的に次のように考えることも可能なのかなと思います。
     まず、正田大観師訳「スッタニパータ和訳(第五章 彼岸へと至るもの)」第十六経を読んでください。

         ***** 第十六経 学生モーガラージャンの問い(十五) ******


    1116
    尊者モーガラージャンが〔尋ねた〕「わたしは、〔かつて〕二度、サッカ(釈迦)〔族〕の方(ブッダ)に問い尋ねましたが、眼ある方(ブッダ)は、わたしに説き示してくれませんでした。しかしながら、『天の聖賢(ブッダ)は、三度目には説き示してくれる』と、わたしは聞きました。
    1117
    この世、他世、天〔界〕を含む梵の世〔界〕は、あなたの、福徳あるゴータマ(ブッダ)の、〔あるがままの〕見[まなざし]を証知しません。
    1118
    このように、崇高なる見者への問い尋ねを義(目的)として、〔わたしは〕やってまいりました。どのように世〔界〕を観察する者を、死魔の王は見ないのですか」と。
    1119
    〔世尊は答えた〕「モーガラージャンさん、常に気づきある者として、世〔界〕を『空[くう]である』と観察しなさい。自己についての誤った見解を取り去って、このように、死を超え渡る者として存するように。このように、世〔界〕を観察する者を、死魔の王は見ないのです」〔と〕。

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    涅槃を体得し、その場所(dimension, sphere)に至れば、そこは死魔の王さえも出入り出来ない場所(dimension, sphere)なので、もはや、死魔の王に見つかって、死の世界(輪廻転生、再生・再死の繰り返しの領域)へ引っ張って行かれることは無くなる。文字通り、次元が異なるという訳です。
    つまり、これが解脱であるというような解釈。
    ただし、こういう風に何処かに実際にそういう場所(dimension, sphere)がある、というニュアンスを持たせるのは、かなり無知な一般民衆や頑迷な保守的宗教家・思想家に対するものだと思います。
    このように、死魔の王とか輪廻とか再死・再生というような用語と組み合わせると、場所・dimension・sphereという語法は分かりやすいかもしれませんね。
    このような語法だと、dimensionなどは実にぴったりな表現だと思います。

    (続く)


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