書庫“私と釈迦仏教”の記事「当ブログの主要課題の一部変更について」から始まって、書庫“原始(初期)仏教を考える”の記事「賑やかになった原始仏教サブカテゴリー」以降の論究は、これまでの視点を一時的に変更して、ある仮説の検証を行っているものです。
従って、それまでの私の視点・進行方向を全面的に放棄してはおりません。
これは現在の私の帰依所ですから、簡単に消去できる性質のものではありません。
従って、それまでの私の視点・進行方向を全面的に放棄してはおりません。
これは現在の私の帰依所ですから、簡単に消去できる性質のものではありません。
これまでの私の視点は、限りなく出家に近い位置に自分を置いているという仮定の上に成り立っていました。
それが今回検討しているいくつかの論文を読んで揺らいだために、再検討をしているわけです。
前回は経典によって、出家と在家の関係を調べてみました(如何にも素人作業でしたが)。
今回は、今日までお釈迦様時代の仏教を継承してきたと自ら称し、一般的にも最も原始仏教に近いとされるテーラヴァーダ仏教諸国における出家(僧=比丘・サンガ)と在家信徒(優婆塞ウパーサカ、優婆夷ウパーシカ)との関係の実態を見てみます。
幸い、実地調査報告論文を幾つか読むことが出来、ブログ・ホームページでも情報を得ることが出来ました。
参照した論文・報告は以下の通りです。引用した論文名を、以下の論文一覧の番号で代用することもあります。
*論文・報告・情報からの引用ならびに記事はavaroの解釈によるものなので、引用を含むavaroの文章に疑義をもたれた方は、必ず元の論文等を全文お読みいただいた上でご批判なりをコメントしてください。
論文・報告をお読みになる場合は、アドビ・リーダーの最新versionをインストールして、CiNiiまたはJAIROのサーチャーに以下の論文等の題名を入力してアクセスしてください。
1.大岩 碩「スリランカ・シンハラ仏教徒のニワナ観とその変化について」
2.大岩 碩「シンハラ仏教徒の再生観について」
3.林行夫「東北タイ・ドンデーン村:葬儀をめぐるブン(功徳)と社会関係」
4.西本陽一「上座仏教における積徳と功徳の転送一北タイ「旧暦12月満月曰」の儀礼一」
5.神谷信明「スリランカ仏教における葬送と死の問題」
6.海恵宏樹「ビルマ仏教の輪廻説」
7.矢野秀武「タイ上座仏教と国家」
8.山田均「タイ国法における僧団の位置」
9.平木光二「ミャンマー上座仏教の制度改革」
10.羽矢辰夫「スリランカ仏教見聞備忘録」
11.亀山健志「報告 現代タイにおける得度と還俗」
お墓に関する情報を次のURLから拝借しました。
21.*http://franklloyd.blog68.fc2.com/blog-entry-120.html
22.*http://www5.ocn.ne.jp/~seishoji/mame21.html
*論文・報告・情報からの引用ならびに記事はavaroの解釈によるものなので、引用を含むavaroの文章に疑義をもたれた方は、必ず元の論文等を全文お読みいただいた上でご批判なりをコメントしてください。
論文・報告をお読みになる場合は、アドビ・リーダーの最新versionをインストールして、CiNiiまたはJAIROのサーチャーに以下の論文等の題名を入力してアクセスしてください。
1.大岩 碩「スリランカ・シンハラ仏教徒のニワナ観とその変化について」
2.大岩 碩「シンハラ仏教徒の再生観について」
3.林行夫「東北タイ・ドンデーン村:葬儀をめぐるブン(功徳)と社会関係」
4.西本陽一「上座仏教における積徳と功徳の転送一北タイ「旧暦12月満月曰」の儀礼一」
5.神谷信明「スリランカ仏教における葬送と死の問題」
6.海恵宏樹「ビルマ仏教の輪廻説」
7.矢野秀武「タイ上座仏教と国家」
8.山田均「タイ国法における僧団の位置」
9.平木光二「ミャンマー上座仏教の制度改革」
10.羽矢辰夫「スリランカ仏教見聞備忘録」
11.亀山健志「報告 現代タイにおける得度と還俗」
お墓に関する情報を次のURLから拝借しました。
21.*http://franklloyd.blog68.fc2.com/blog-entry-120.html
22.*http://www5.ocn.ne.jp/~seishoji/mame21.html
論文を読んで色々なことを考えましたが、その中の一つが、市の図書館や小さな地方都市の書店の書棚に並んでいる仏教書のほとんどが「どうして私の読みたい本ではないのか」という長年の謎を解いてくれたことです。
簡単に言えば、私はまともな研究の書を求めていたのですが、図書館・書店の書棚に並んでいたのは、在家向けの説法集だったということです。
在家向けですから、功徳とか布施とか信心とか、輪廻とかのお話が中心になっていました。
つまり、私は出家を対象にして書かれた本を求めていたのに、在家を対象にした本しか(実際は多少研究書もありました)置いてないということです。
日本人はこの私の言葉を理解しがたいでしょう。
なぜなら、日本の宗派仏教は、出家と在家の区別があまり明確でないからです。
日本における自力の代表格、禅は、出家だけでなく在家(一般人・世間)に門戸を開いています。そして、一般人が「腑に落ちた」と言って、一種の悟りを開いたと称しているのです。
また、他力の代表格、浄土真宗は、自ら自分たちの宗派は在家宗教だと名乗っています。
なぜなら、日本の宗派仏教は、出家と在家の区別があまり明確でないからです。
日本における自力の代表格、禅は、出家だけでなく在家(一般人・世間)に門戸を開いています。そして、一般人が「腑に落ちた」と言って、一種の悟りを開いたと称しているのです。
また、他力の代表格、浄土真宗は、自ら自分たちの宗派は在家宗教だと名乗っています。
日本の宗派仏教の多くは、形態上ほとんど出家とは言い難い程一般家庭(世間・在家)との区別がつきません。
職業が僧侶であることと、お寺・寺院に居住していることぐらいでしか判別できません。
職業が僧侶であることと、お寺・寺院に居住していることぐらいでしか判別できません。
一方テーラヴァーダ仏教諸国の僧(比丘)は、テーラヴァーダ仏教の共通の決まりであるヴィナヤの規定に則って出家・還俗が行われます(11)。
テーラヴァーダ仏教諸国における出家の原理(苅谷先生の論文にもあるように)に従って、明確に世間(在家)と一線を画した修行生活をするからこそ涅槃を目指せるのだし、社会(世間・在家)から特別な聖性を承認されているようなのです(「僧侶はこの世とあの世の接点に立つ人として位置づけられており、死の穢れとは無縁の超越的存在と見なされている。」5など)。
テーラヴァーダ仏教諸国における出家の原理(苅谷先生の論文にもあるように)に従って、明確に世間(在家)と一線を画した修行生活をするからこそ涅槃を目指せるのだし、社会(世間・在家)から特別な聖性を承認されているようなのです(「僧侶はこの世とあの世の接点に立つ人として位置づけられており、死の穢れとは無縁の超越的存在と見なされている。」5など)。
勿論日本でも葬送儀礼はお坊さんが行っているのですから、建前上は同じような原理が想定されるのですが、あらゆる面で世間(在家)と変わらない生活をしているため、その聖性には陰りが見えてしまいます。
記述は僧(比丘)に焦点が当てられているように感じるかもしれませんが、あくまでこの記事は、在家に焦点を当てています。
僧(比丘)に聖性・超越性が承認されるということは、在家と出家との格差が想像を絶するものだということが浮き彫りになるはずです。
僧(比丘)に聖性・超越性が承認されるということは、在家と出家との格差が想像を絶するものだということが浮き彫りになるはずです。
分かりやすい出家と在家の道の違いは、テーラヴァーダ仏教諸国の葬送儀礼を見てみるのが良いようです。
「臨終が近くなると僧侶を家に招いてピリットを唱えてもらう。家族は死後悪霊や災禍が起こらないように、さらにはよき再生がもたらされるように僧侶に懇願する。・・・・・(まとめの文章)④死をめぐる儀礼については僧侶側と民衆側の観念にずれがあること。すなわち、民衆側では僧伽に功徳を積んで死後へのよりよき再生を願うのに対して、僧侶側は修行によって涅槃への到達を目標としているからである。」(5.神谷信明「スリランカ仏教における葬送と死の問題」)
葬儀に関する21、22の情報がもっと具体的に語ってくれています。
*ピリット---wikipediaより引用。「雨安居(7月満月-10月満月)の終了後のカティナ(Kathina・僧衣寄進)や、葬式に際しては、僧侶はピリットという護呪経典を唱える儀礼を行ない、信者は現世での安穏を得たり、死者の功徳転送を行う。」
葬儀に関する21、22の情報がもっと具体的に語ってくれています。
*ピリット---wikipediaより引用。「雨安居(7月満月-10月満月)の終了後のカティナ(Kathina・僧衣寄進)や、葬式に際しては、僧侶はピリットという護呪経典を唱える儀礼を行ない、信者は現世での安穏を得たり、死者の功徳転送を行う。」
死者を送るという最も重要な儀式で、このように出家と在家との明確な相違が見られるのです。
なお、僧(比丘)の死後の行方はどうなるのかというと、直接論究した論文は入手出来ていないのですが、6.海恵宏樹「ビルマ仏教の輪廻説」からある程度推測できそうです。預流果以上になれば、輪廻転生の回数が限定的となるようですし、転生先もいわゆる特別席となるようです。
なお、僧(比丘)の死後の行方はどうなるのかというと、直接論究した論文は入手出来ていないのですが、6.海恵宏樹「ビルマ仏教の輪廻説」からある程度推測できそうです。預流果以上になれば、輪廻転生の回数が限定的となるようですし、転生先もいわゆる特別席となるようです。
ただ、日本的な宗教風土(無宗教と言ってもいいほどの)にいると、テーラヴァーダ仏教諸国の在家の人たちの態度がむしろ不思議に思えてきます。
今回参照したどの論文や調査を見ても、テーラヴァーダ仏教諸国のほとんどの在家の方が輪廻転生を信じているようだとしています。
どうして疑わないのか。
少なくとも私はテーラヴァーダ仏教諸国の仏教徒(在家)にはなりたくない、というのが今現在の心境です。
少なくとも私はテーラヴァーダ仏教諸国の仏教徒(在家)にはなりたくない、というのが今現在の心境です。
次回はさらに具体的にテーラヴァーダ仏教諸国の実態を見てます。