avarokitei84のblog

*はじめに。 このブログは、ヤフー・ブログから移行したものです。当初は、釈尊(お釈迦様・ゴータマブッダ)と宮沢賢治を探究してましたが、ある時点で、両者と距離をおくことにしました。距離を置くとはどういうことかと言いますと、探究の対象を信仰しないということです。西暦2020年となった今でも、生存についても宇宙についても確かな答えは見つかっていません。解脱・涅槃も本当の幸せも、完全な答えではありません。沢山の天才が示してくれた色々な生き方の中の一つだと思います。例えば、日本は絶対戦争しないで平和を維持出来るとおもいますか?実態は、戦争する可能性のもとに核兵器で事実上の武装をしています。釈尊の教えを達成したり絶対帰依していれば、戦争が始まっても傍観しているだけです。実際、中世インドでイスラム軍団が侵攻してきたとき、仏教徒の多くは武力での応戦はしなかったそうです(イスラム側の記録)。それも一つの生き方です。私は、武装した平和主義ですから、同じ民族が殺戮や圧政(現にアジアの大国がやっている)に踏みにじられるのは見過ごせない。また、こうしてこういうブログを書いているのは、信仰を持っていない証拠です。

2010年05月

書庫“私と釈迦仏教”の記事「当ブログの主要課題の一部変更について」から始まって、書庫“原始(初期)仏教を考える”の記事「賑やかになった原始仏教サブカテゴリー」以降の論究は、これまでの視点を一時的に変更して、ある仮説の検証を行っているものです。
従って、それまでの私の視点・進行方向を全面的に放棄してはおりません。
これは現在の私の帰依所ですから、簡単に消去できる性質のものではありません。

これまでの私の視点は、限りなく出家に近い位置に自分を置いているという仮定の上に成り立っていました。

それが今回検討しているいくつかの論文を読んで揺らいだために、再検討をしているわけです。

前回は経典によって、出家と在家の関係を調べてみました(如何にも素人作業でしたが)。

今回は、今日までお釈迦様時代の仏教を継承してきたと自ら称し、一般的にも最も原始仏教に近いとされるテーラヴァーダ仏教諸国における出家(僧=比丘・サンガ)と在家信徒(優婆塞ウパーサカ、優婆夷ウパーシカ)との関係の実態を見てみます。

幸い、実地調査報告論文を幾つか読むことが出来、ブログ・ホームページでも情報を得ることが出来ました。

参照した論文・報告は以下の通りです。引用した論文名を、以下の論文一覧の番号で代用することもあります。
 *論文・報告・情報からの引用ならびに記事はavaroの解釈によるものなので、引用を含むavaroの文章に疑義をもたれた方は、必ず元の論文等を全文お読みいただいた上でご批判なりをコメントしてください。
論文・報告をお読みになる場合は、アドビ・リーダーの最新versionをインストールして、CiNiiまたはJAIROのサーチャーに以下の論文等の題名を入力してアクセスしてください。
1.大岩 碩「スリランカ・シンハラ仏教徒のニワナ観とその変化について」
2.大岩 碩「シンハラ仏教徒の再生観について」
3.林行夫「東北タイ・ドンデーン村:葬儀をめぐるブン(功徳)と社会関係」
4.西本陽一「上座仏教における積徳と功徳の転送一北タイ「旧暦12月満月曰」の儀礼一」
5.神谷信明「スリランカ仏教における葬送と死の問題」
6.海恵宏樹「ビルマ仏教の輪廻説」
7.矢野秀武「タイ上座仏教と国家」
8.山田均「タイ国法における僧団の位置」
9.平木光二「ミャンマー上座仏教の制度改革」
10.羽矢辰夫「スリランカ仏教見聞備忘録」
11.亀山健志「報告 現代タイにおける得度と還俗」
お墓に関する情報を次のURLから拝借しました。
21.*http://franklloyd.blog68.fc2.com/blog-entry-120.html
22.*http://www5.ocn.ne.jp/~seishoji/mame21.html

論文を読んで色々なことを考えましたが、その中の一つが、市の図書館や小さな地方都市の書店の書棚に並んでいる仏教書のほとんどが「どうして私の読みたい本ではないのか」という長年の謎を解いてくれたことです。

簡単に言えば、私はまともな研究の書を求めていたのですが、図書館・書店の書棚に並んでいたのは、在家向けの説法集だったということです。

在家向けですから、功徳とか布施とか信心とか、輪廻とかのお話が中心になっていました。

つまり、私は出家を対象にして書かれた本を求めていたのに、在家を対象にした本しか(実際は多少研究書もありました)置いてないということです。

日本人はこの私の言葉を理解しがたいでしょう。
なぜなら、日本の宗派仏教は、出家と在家の区別があまり明確でないからです。
日本における自力の代表格、禅は、出家だけでなく在家(一般人・世間)に門戸を開いています。そして、一般人が「腑に落ちた」と言って、一種の悟りを開いたと称しているのです。
また、他力の代表格、浄土真宗は、自ら自分たちの宗派は在家宗教だと名乗っています。

日本の宗派仏教の多くは、形態上ほとんど出家とは言い難い程一般家庭(世間・在家)との区別がつきません。
職業が僧侶であることと、お寺・寺院に居住していることぐらいでしか判別できません。

一方テーラヴァーダ仏教諸国の僧(比丘)は、テーラヴァーダ仏教の共通の決まりであるヴィナヤの規定に則って出家・還俗が行われます(11)。
テーラヴァーダ仏教諸国における出家の原理(苅谷先生の論文にもあるように)に従って、明確に世間(在家)と一線を画した修行生活をするからこそ涅槃を目指せるのだし、社会(世間・在家)から特別な聖性を承認されているようなのです(「僧侶はこの世とあの世の接点に立つ人として位置づけられており、死の穢れとは無縁の超越的存在と見なされている。」5など)。

勿論日本でも葬送儀礼はお坊さんが行っているのですから、建前上は同じような原理が想定されるのですが、あらゆる面で世間(在家)と変わらない生活をしているため、その聖性には陰りが見えてしまいます。

記述は僧(比丘)に焦点が当てられているように感じるかもしれませんが、あくまでこの記事は、在家に焦点を当てています。
僧(比丘)に聖性・超越性が承認されるということは、在家と出家との格差が想像を絶するものだということが浮き彫りになるはずです。

分かりやすい出家と在家の道の違いは、テーラヴァーダ仏教諸国の葬送儀礼を見てみるのが良いようです。

「臨終が近くなると僧侶を家に招いてピリットを唱えてもらう。家族は死後悪霊や災禍が起こらないように、さらにはよき再生がもたらされるように僧侶に懇願する。・・・・・(まとめの文章)④死をめぐる儀礼については僧侶側と民衆側の観念にずれがあること。すなわち、民衆側では僧伽に功徳を積んで死後へのよりよき再生を願うのに対して、僧侶側は修行によって涅槃への到達を目標としているからである。」(5.神谷信明「スリランカ仏教における葬送と死の問題」)
葬儀に関する21、22の情報がもっと具体的に語ってくれています。
 *ピリット---wikipediaより引用。「雨安居(7月満月-10月満月)の終了後のカティナ(Kathina・僧衣寄進)や、葬式に際しては、僧侶はピリットという護呪経典を唱える儀礼を行ない、信者は現世での安穏を得たり、死者の功徳転送を行う。」

死者を送るという最も重要な儀式で、このように出家と在家との明確な相違が見られるのです。
なお、僧(比丘)の死後の行方はどうなるのかというと、直接論究した論文は入手出来ていないのですが、6.海恵宏樹「ビルマ仏教の輪廻説」からある程度推測できそうです。預流果以上になれば、輪廻転生の回数が限定的となるようですし、転生先もいわゆる特別席となるようです。

ただ、日本的な宗教風土(無宗教と言ってもいいほどの)にいると、テーラヴァーダ仏教諸国の在家の人たちの態度がむしろ不思議に思えてきます。

今回参照したどの論文や調査を見ても、テーラヴァーダ仏教諸国のほとんどの在家の方が輪廻転生を信じているようだとしています。

どうして疑わないのか。
少なくとも私はテーラヴァーダ仏教諸国の仏教徒(在家)にはなりたくない、というのが今現在の心境です。

次回はさらに具体的にテーラヴァーダ仏教諸国の実態を見てます。


私がこれまで経典・研究書などで釈迦仏教を勉強してきたのは、単なる趣味や興味本位のものではなく、出来るだけ自分で体験することを目指したものでした。

ただ、最近、仏教関係の論文の一部を読んでかなり考え方が変わりました。

「インドにあって、仏教は元来から『出家者による、出家者のための宗教』(出家の宗教)であり、しかも『出家の宗教』は当時から数多く存在し、仏教はその中の一つに過ぎなかった。・・・・・・般若・空思想や如来蔵思想、中観や唯識思想などの大乗仏教も、仏教である限りにおいて、全て出家者の、出家者による、出家者のためのものであった。ただ、龍樹以前の大乗仏教すなわち初期大乗仏教だけは『善男子・善女人』と呼びかけて一般民衆すなわち在家者を取り込もうとしており、そこに初期大乗の特異性が認められる。」(苅谷定彦「出家とは何か--大乗仏教の起源をめぐって--」)

この論文を読んで、これまでの、何となく何とかなるだろうという漠然とした自分の仏教観の変更を決断しました。

先生は明快に「仏教は出家者のためのもの」と断定しています。

私も原始仏教の到達目標である涅槃は、出家しなければ難しいと感じていました。
しかし、そう断定してしまうには、何か割り切れないものがあり、何とかなるだろうと曖昧にしてきたのです。
しかし、実際に、私は出家とはなれないので、このままではお釈迦様の教えを実践することは難しいことになってしまいます。
これまでの勉強がフイになってしまいかねません。

また、割り切れないものというのは、一時熱心に研究していた「お釈迦様は在家が天に転生することをどういう風に解釈していたのか」というテーマにも絡んでいます。
この問題は、お釈迦様が輪廻転生を本当はどう考えていたのかという問題でもあります。

苅谷先生は、お釈迦様が出家を決意するころまでにすでに古代インド社会には、出家を容認する思想風土・信仰が一般化していたとします。
すなわち、当時のインド社会には、「業による輪廻・転生」という宗教観念が存在し、世間一般の人たちは、自由意志による善根功徳(の積み上げ)によって現世安穏・後生善処(次生に善根功徳によってのみ行く処すなわち楽なる人・天に生まれる)が実現できるという信仰が存在しており、出家に対する礼拝供養がその善根を積む行為だという信仰があったとします。

しかし、善根功徳で天に至ってもそれが最終解決ではないという通念もあり、出家という行為がその最終解決の手段であったとされます。

「すなわち、せっかく手に入れた天界での生も善根功徳の尽きる時には終りを迎え、つぎに己の業のままに別の生を取って輪廻・転生する他ない。・・・。すなわち、ここには出口がないのである。ここに真の不死、永遠の幸福を求めていわば強引に非常出口をこじ開けるのが出家という行為に他ならない。」(苅谷先生上記論文)
 *「善根功徳の尽きる時」に関しては、前回引用した「シンハラ仏教徒の再生観について」(大岩 碩)に具体的で詳しい説明あり。

恐らくバラモン教によって広められた業による輪廻・転生の再生・再死の繰り返しに対処する方法は、一般世間の人たちには、善根功徳の積み上げによる現世安穏・後生善処しかなかったが、出家という手段をとればこの永劫の苦しみを終わらせる(再生・再死を終わらせる真の不死の実現)ことが出来ると信じられるようになっていたというのです。

在家の積徳行為と出家と在家の関係について、スッタニパータ(中村元訳「ブッダことば スッタニパータ」岩波文庫)でも次のように説いています。


     +++++ ○ +++++

十、アーラヴァカという神霊
Sn188 信仰あり在家の生活を営む人に、誠実、真理、堅固、施与というこれらの四種の徳があれば、かれは来世に至って憂えることがない。

        *** 

第二小なる章 十四、ダンミカ
Sn393 次に在家の者の行うつとめを汝らに語ろう。このように実行する人は善い<教えを聞く人>(仏弟子)である。純然たる出家修行者に関する規定は、所有のわずらいある人(在家者)がこれを達成するのは実に容易ではない。
Sn394 生きものを(みずから)殺してはならぬ。また(他人をして)殺さしめてはならぬ。
 ・・・・・。
Sn403 ウポーサタを行なった<ものごとの解った人>は次に、きよく澄んだ心で喜びながら、翌朝早く食物と飲物とを適宜テキギに修行僧の集いにわかち与えよ。
Sn404 正しい法(に従って得た)財を以て母と父とを養え。正しい商売を行え。つとめ励んでこのように怠ることなく暮らしている在家者は、(死後に)<みずから光を放つ>という名の神々のもとに赴く。」

        ***

六、老 い
Sn804 ああ短いかな、人の生命よ。百歳にたっせずせして死す。たといそれよりも長く生きたとしても、また老衰のために死ぬ。
Sn805 人々は「わがものである」と執著した物のために悲しむ。(自己の)所有しているものは常住ではないからである。この世のものはただ変滅するものである、と見て、在家にとどまっていてはならない。

     +++++ ○ +++++

「アーラヴィカという神霊」・「ダンミカ」では、在家信徒がお釈迦様が示す正しい生活をすれば、来世で憂えることなく、また、神々のもとに赴くと言っています。
これは、上に見たとおりの「『業による輪廻・転生』という宗教観念が存在し、世間一般の人たちは、自由意志による善根功徳(の積み上げ)によって現世安穏・後生善処(次生に善根功徳によってのみ行く処すなわち楽なる人・天に生まれる)が実現できるという」お釈迦様以前からの信仰を承認しただけだとも解釈できる詩句です。
「ダンミカ」で説かれている五戒や八戒と同様の教えはジャイナ教でも説かれていたようです。

しかし、三番目に引用した詩句「老い」には、「この世のものはただ変滅するものである、と見て、在家にとどまっていてはならない。」という詩句があり、お釈迦様に帰依した在家信者(仏教徒)には、最終手段が常に開かれているというようにも読めます。

このように、言葉は同じ「在家」でも、お釈迦様を信じ、帰依した在家信徒(優婆塞ウパーサカ、優婆夷ウパーシカ)と、お釈迦様以前からの諸宗教・思想の信徒である在家の二種類が存在していたはずです。

前回の記事で引用した
「Sn431 わたしにはその(世間の)善業を求める必要は微塵もない。悪魔は善業の功徳を求める人々にこそ語るがよい。」
とお釈迦様が退けた世間(在家)の道すなわち、
「Sn428 あなたがヴェーダ学生としての清らかな行いをなし、聖火に供物をささげてこそ、多くの功徳を積むことができる。」
という在家の積徳(善根功徳)の道は恐らく二番目のお釈迦様以前から存在した宗教、バラモン教の信徒のものだろうと思われます。

次に、ダンマパダ(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫)の中から積徳に関する詩句を抽出してみましょう。

①まず、当時の人を恐怖させた詩句です。

Dhp235   汝はいまや枯葉のようなものである。閻魔王の従卒もまた汝に近づいた。汝はいま死出の門路に立っている。しかし汝には旅の資糧カテさえも存在しない。
Dhp236   だから、自己のよりどころをつくれ。すみやかに努めよ。賢明であれ。汚れをはらい、罪過ツミトガがなければ、天の尊い処に至るであろう。
Dhp237   汝の生涯は終りに近づいた。汝は、閻魔王の近くにおもむいた。汝には、みちすがら休らう宿もなく、旅の資糧も存在しない。

この詩句は全ての人々に向けて説かれたものでしょう。
旅の資糧とは、積み上げた功徳を指すのでしょう。
この後参照するテーラヴァーダ仏教諸国における出家と在家の関係を論じた論文・報告などを読むと、235-237の詩句は真実味を増します。
明確に輪廻転生を語っています。

②次に後生善処すなわちよりよい次の生存(転生)を実現するために何をなすべきか説いた詩句です。善いことを為せ、悪いことをするな、と説いています。

Dhp17 悪いことをなす者は、この世で悔いに悩み、来世でも悔いに悩み、ふたつのところで悔いに悩む。「わたくしは悪いことをしました」といって悔いに悩み、苦難のところ(=地獄など)におもむいて(罪のむくいを受けて)さらに悩む。
Dhp18  善いことをなす者は、この世で歓喜し、来世でも歓喜し、ふたつのところで共に歓喜する。「わたくしは善いことをしました」といって歓喜し、幸あるところ(=天の世界)におもむいて、さらに喜ぶ。
          
では、何が善いことなのでしょうか。

Dhp177   物惜しみする人々は天の神々の世界におもむかない。愚かな人々は分かちあうことをたたえない。しかし心ある人は分かちあうことを喜んで、そのゆえに来世には幸せとなる。
          ***
Dhp195、196  すでに虚妄な論議をのりこえ、憂いと苦しみをわたり、何ものをも恐れず、安らぎに帰した、拝むにふさわしいそのような人々、もろもろのブッダまたその弟子たちを供養するならば、この功徳はいかなる人でもそれを計ることができない。
          ***
Dhp356   田畑は雑草によって害われ、この世は人々は愛欲によって害われる。それ故に愛欲を離れた人々に供養して与えるならば、大いなる果報を受ける。

(ブッダとその弟子たちに)物惜しみせず分かち与えること(供養)が重要だと説いていますが、スッタニパータで見たのと同じ内容です。

③ダンマパダにも、出家と在家の関係が説かれています。

Dhp126   或る人々は[人の]胎に宿り、悪をなした者どもは地獄に墜ち、行ないの良い人々は天におもむき、汚れの無い人々は全き安らぎに入る。
          ***
Dhp177   物惜しみする人々は天の神々の世界におもむかない。愚かな人々は分かちあうことをたたえない。しかし心ある人は分かちあうことを喜んで、そのゆえに来世には幸せとなる。
Dhp178   大地の唯一の支配者となるよりも、天に至るよりも、全世界の主権者となるよりも、聖者の第一階梯カイテイ(預流果ヨルカ)のほうがすぐれている。

お釈迦様は、天に至るよりももっと優れた果報があると説いています。
それは、安らぎに入ることであり、預流果(涅槃の門をくぐった)に達することです。
お釈迦様に帰依した在家信者(仏教徒)には、最終手段が常に開かれているということでしょう。

ごく簡単に経典で説かれている出家と在家の関係を見たのですが、前回も確認したように、在家は今生では輪廻転生の苦しみから離脱することは出来ないと説かれていることが確認できます。

出家は涅槃へ、在家は輪廻のより善い転生先(天?)へというそれぞれ違う道を歩むことになります。

では、出家となれない私は到底信じることが出来そうにもない天あるいは再度人間に転生する道を歩む他無いのでしょうか?
何より私は業による輪廻転生が納得できません。

パーリ経典に忠実だとされるテーラヴァーダ仏教諸国の実情はどうなんでしょう、次回考えます。


今現在、原始仏教(初期仏教、釈迦仏教)を実践している人間はいないはずである。

わが修行の道こそがお釈迦様の道(原始仏教・初期仏教)であると主張する教団・指導者が存在するようだが、それらの教団・指導者の間では、お釈迦様が何を指導されたのかということ一つでさえも意見の一致を見ていない。

あるものは「人は『仏』になれる」と主張し、あるものは「人は『阿羅漢』にはなれるが『仏』にはなれない」と主張している。
あるいは、大乗だの、小乗だのと非難しあっている。

仏教の起源を学問として研究している方々の意見も分かれているようである。

当ブログは、こういう問題を大雑把に扱っている。
なぜなら、私にとって大事なことは、仏教指導者の意見が一致することでも、学問的に結論が出ることでもなく、私の苦しみを実際に和らげたり、消滅させてくれることなのである。

2500年前ごろに、お釈迦様が実際に体験し、そのご自分の体験を踏まえて、このようにすればお前たちは苦を消滅させることができるのだよ、と言って指導し、実際に苦を消滅させたような、ご自分の体験を踏まえた修行法を知りたいのである。

スッタニパータ「第三 大いなる章 二, つとめはげむこと」に次のような記述がある。(中村元訳「ブッダのことば スッタニパータ」岩波文庫)

     +++++ ○ +++++

Sn425 ネーランジャラー河の畔ホトリにあって、安穏を得るために、つとめはげみ専心し、努力して瞑想していたわたくしに、
Sn426 (悪魔)ナムチはいたわりのことばを発しつつ近づいてきて、言った、あなたは痩せていて、顔色も悪い。あなたの死が近づいた。
Sn427 あなたが死なないで生きられる見込みは、千に一つの割合だ。きみよ、生きよ。生きたほうがよい。命があってこそ諸々の善行をもなすこともできるのだ。
Sn428 あなたがヴェーダ学生としての清らかな行いをなし、聖火に供物をささげてこそ、多くの功徳を積むことができる。(苦行に)つとめはげんだところで、何になろうか。
Sn429 つとめはげむ道は、行きがたく、行いがたく、達しがたい。」
この詩を唱えて、悪魔は目ざめた人(ブッダ)の側に立っていた。
Sn430 かの悪魔がこのように語ったときに、尊師(ブッダ)は次のように告げた。──
「怠け者の親族よ、悪しき者よ。汝は(世間の)善業を求めてここに来たのだが、
Sn431 わたしにはその(世間の)善業を求める必要は微塵もない。悪魔は善業の功徳を求める人々にこそ語るがよい。

Sn441 或る修行者たち・バラモンどもは、この(汝の軍隊)のうちに埋没してしまって、姿が見えない。そうして徳行ある人々の行く道をも知っていない。
Sn442 軍勢が四方を包囲し、悪魔が象に乗ったのを見たからには、わたくしは立ち迎えてかれらと戦おう。わたくしをこの場所から退シリゾけることなかれ。
Sn443 神々も世間の人々も汝の軍勢を破り得ないが、わたくしは智慧の力で汝の軍勢をうち破る。──焼いてない生の土鉢を石で砕くように。
Sn444 みずから思いを制し、よく念オモい(注意)を確立し、国から国へと遍歴しよう。──教えを聞く人々をひろく導きながら。
Sn445 かれらは、無欲となったわたくしの教えを実行しつつ、怠ることなく、専心している。そこに行けば憂ウレえることのない境地に、かれらは赴くであろう。」

     +++++ ○ +++++

この経の悪魔が言っていることは、悪魔らしくない内容である。
私たちに悪魔が囁く時は、いわゆる悪いこと(悪行)をやれと唆す。

しかし、この悪魔が勧めているのはお釈迦様当時のインドにおける、いわゆる常識的な生き方であって、決して悪事(悪行)をやれとけしかけているのではない。

それは、よりよい来世(輪廻の信仰)を目指すために善業を積む作業である。

CiNiiの論文を読むと、今でもテーラヴァーダ諸国(タイ・ミャンマー・スリランカなど)の在家の人々は、素朴に輪廻を信じ、よりよい来世を願い、本気で功徳を積もうとしているそうだ。

悪魔ナムチが勧めているのは、そういう善いことを行う(功徳を積み、善業を積み上げる)ためには、人として生きていることが最適なのだということである。

「成就できるか否か甚だ難しい修行(つとめはげみ)に身命をすり減らして死んでしまっては、功徳を積めないぞ。」
「積んだ功徳が少なければ、悪所(三悪道)に堕ちかねないぞ。」と脅しているとも考えられる。

スリランカのある村の人たち(在家)のほとんどは、涅槃の成就などは何度も何度も生まれ変わらなければ達成できないと考えているそうだ(その調査によれば、村人たちの多くは、正しい涅槃の知識すら持っていないそうだ)。
 *「シンハラ仏教徒の再生観について」大岩 碩
 *シンハラとは、スリランカ人の民族名で大方が仏教徒。他に、南インド由来のタミル人(ヒンドゥ教徒)という少数民族がいる。

そう勧める悪魔に対してお釈迦様は力強く次のように宣言した。

「Sn431 わたしにはその(世間の)善業を求める必要は微塵もない。悪魔は善業の功徳を求める人々にこそ語るがよい。」

「Sn443 神々も世間の人々も汝の軍勢を破り得ないが、わたくしは智慧の力で汝の軍勢をうち破る。──焼いてない生の土鉢を石で砕くように。
Sn444 みずから思いを制し、よく念オモい(注意)を確立し、国から国へと遍歴しよう。──教えを聞く人々をひろく導きながら。
Sn445 かれらは、無欲となったわたくしの教えを実行しつつ、怠ることなく、専心している。そこに行けば憂ウレえることのない境地に、かれらは赴くであろう。」

この文章を読めば、悪魔の軍勢の正体を想像できる。
悪魔の軍勢とは、無明(無知・渇愛・妄想)の譬えである。

また、443の詩句にある「智慧」とは、涅槃を成就する際に獲得する明知であり、私たちの智慧とは全く異なるものだと考えられる。
この智慧を獲得するためにお釈迦様が指導された修行法を実践するのである。

言い換えれば、いくら経典を読んで、哲学しても、思索しても、熟考してもこの智慧(明知)は生じないと考えられる。

只一つの方法は、お釈迦様の修行法なのである。
私の場合は、ルアンポル・ティエン師の瞑想法が最も可能性のある修行法だと思い実践している。

このように、原始仏教(初期仏教)では(私の勉強から推理すると)、出家と在家では、全く異なる道を歩んでいることになる(Sn431)。

お釈迦様の教えが世にでるまでは、「ヴェーダ学生としての清らかな行いをなし、聖火に供物をささげてこそ、多くの功徳を積むことができる。」とされていたのだ。
これは天の神々の世界を目指す道である。

これに対してお釈迦様は在家の生活一切を放擲し捨てて、出家となり、「(苦行に)つとめはげんだ」のである。
これは解脱・涅槃を目指す道である。

今は、お釈迦様が輪廻の実在を認めたか否かという議論をいまは行わない。

言えることは、お釈迦様が、世間の人たちは輪廻を信じ、少なくとも次の生で三悪道に落ちることは避けようとしていたことを認めていることである。

もう一つ問題になるのが、在家(つまりお釈迦様に帰依した仏教徒)は、どっちの道を歩んだのかということである。

この問題は次回考える。


日本ブログ村に始めて参加した頃は、このサブカテゴリーは無人だった。

何しろ現在世界のどこにも原始仏教(初期仏教)という看板を掲げられる仏教部派は存在しないのだから、宣伝部隊もさすがに気が引けたものと見えた。

原始仏教を勉強している者として空き家に蜘蛛の巣が張ったままにしておくのは無念なので、名前だけ載せておいた。

それがここにきて一つ二つと登録ブログが増えている。
ある意味喜ばしいことだ。

しかし、気になることもある。
宣伝部隊の登場である。
容易周到な剃刀部隊もあれば能天気なムード派もあるだろう。

自称原始仏教(初期仏教)という部派は日本にも来ているが、本国の総本山は勿論立派な部派仏教である。

私は多少宗教団体の裏事情を知っているので、説教師の口車に乗ることはないが、仏教も宗教団体というものの内輪も知らない者はウッカリしていると上手く勧誘されてしまう。

そもそもこの原始仏教(初期仏教)とう概念自体よく考えれば奇妙なネーミングなのだ。

お釈迦様が、ご自分の教えを原始仏教(初期仏教)と称されたはずはない。

この名称は、仏教を研究している研究者が研究対象を識別するためにある研究対象に与えた識別子に過ぎない。

現在から過去を展望しているものなのである。

つまり、総本山が日本人受けするネーミングを借りたのである。

ただし、研究者の先生方のご意見と総本山の主張はだいぶ食い違っているようだ。

かつて、日本には、諸外国から何度かそれら国の宗教(の宣伝隊)がやってきた。

仏教もそういう外来宗教の一つだった。

しかし、学校の歴史で勉強したのでよく覚えているだろうが、華々しいのは何と言ってもイエズス会の宣教活動である。

当時幕藩体制の一角を担っていた日本仏教とも衝突し論戦も行われたそうだが、イエズス会の実態はカトリックの失地回復運動と本国の海外進出という二つの利害がタイアップした侵略行為だった。

ユダヤ・キリスト両宗教の世界制覇の夢はまだまだ潰えていないので要注意だが、今じわじわと勢力を伸ばしているパーリ仏教も似た様なものである。

日本人は、世界でも指折りのアニミズミストなので、世界一理知的な原始仏教が根を下ろすことは難しいだろうが、ムードが大好きなので、擬似原始仏教にいいようにあしらわれる危険性があり、人事ながら気の毒な気がしている。

原始仏教は徹底的な自力救済の修行法であるということをまず認識して欲しい。

ブランド「信仰」とは縁エンも縁ユカリもない修行法なのである。

「崇拝」にも「信心」にも縁がない。


主要課題とは、

1. 仏教の視点から宮沢賢治を読むこと
2. お釈迦様の仏教を研究すること
3. 1,2を通して、自分の生き方を考えることである(釈迦仏教の再現、実践)。

お釈迦様の仏教に最も近いものを原始仏教(初期仏教)と呼んでいるようだが、私は、もっと踏み込んでお釈迦様在世当時の仏教を知りたいと思い、在世当時の仏教を釈迦仏教と呼んて研究してきた。

釈迦仏教を多様な仏教のなかから区別し、お釈迦様の教えを知り、出来ればそれを実践したいと思っていた。

そして、釈迦仏教がどういうものなのか、ほぼ分かったつもりになっていた。

さて、ある方に教えていただき、この数日、国立情報学研究所論文情報ナビケイタ(CiNii)の無料アクセス可能な仏教情報を読んでいた。

原始仏教関係の論文を読んでいるうちに、幾つか気づくことがあり、上記の私の課題を多少変更することにした。

私は深く考えずに自分が釈迦仏教を実践できるものと思っていたのだが、論文を読むにつれ、この考えが軽はずみなものであることが分かったてきた。

当たり前のことだが、釈迦仏教というのは、お釈迦様般涅槃時の出家生活であるのだから、当然、それが受戒儀式に始まり、サンガへの所属が不可欠となる。

既存サンガへの帰属は望むところではない。
そこには、すでに家庭の塵埃同類のものが積もっている。

私は、身体は家庭を離れることは出来ないが、心は塵埃のすくない広々とした野外にありたい。
お釈迦様のサンガ草創期の頃のように。

そこであつかましくも、私は私の道を見つけ歩いてゆくべきだと考えた次第である。
お釈迦様を見習って、お釈迦様をも乗り越えてゆくべきだということである。
つまり、釈迦仏教の研究と体験を通して、自分なりに新しい生き方を見つけてみたいということである。

もともと、教団だとか、宗派だとか信仰だとかいう、ちまちました宗教世間の中に自分をとじこめるつもりはなかったが、釈迦仏教という枠も捨てることでさっぱりした。
21世紀の人間の生き方を、なんて大風呂敷を広げると後が苦しくなるが、せめて心は自由に広い宇宙を舞台にしたいものである。

托鉢もしなければ、糞掃衣も着ない。
適当に働き自分で収入を得、シンプルな衣食住とする(私はすでに家持なのでこれはイメージ)。
業とも功徳とも縁のない生き方である。

自分(これがなかなか面白い)を中州とし、ありのままなるダンマを中州としてゆこう。

勿論人里はなれた深井戸に蟄居するのではないから、何でも読む。
だが、私の頼りは自分であり、未知なるダンマである。


瞑想という行は、仏教における重要な修行法の一つです。
日本では坐禅という修行法が代表的な瞑想の行です。
日本では瞑想は止観とも呼ばれます。
テーラヴァーダ仏教諸国では、サマタとヴィパッサナという二種類の瞑想の行を行っています。

サマタやヴィパッサナは、呼吸・お腹の膨らみとへこみに注意を集中させ、あるいは、ティエン師のように身体の動作を感じ取り、気づきを活性化させ、最終的に心をありのままに見る(観る)ことが出来るようにします。

何故呼吸やお腹の動き、身体の動作などを介して心を見る(観る)のでしょうか?

以下の説明は、私の考えです。

”Breathing is never glad or sad”というフレーズに注目します。
お釈迦様の時代、人々もお釈迦様も、呼吸そのものが考えるということはありえないことだと信じていました。
同様に、手(腕を含む)が考えることもありえないことだと考えたのです。

考えるのは、心です。
重要なことは、あれこれ心が思い悩むから問題が起こると考えられていたことです。
心はいつもあれこれ考え悩むものなのです。

心で心を見る(観る)とますます混乱してきます。

そこで、考え混乱することのない身体や身体の働きを利用することで心を静めることを始めたのでしょう。
身体や身体の働きは、心のように考えたりしませんが、心と微妙な連関を持っています。

簡単な結論ですが、考えて思い悩み混乱することがない身体やその働きを利用して心をコントロールする技術が瞑想であり、何故、身体の動作なのかと言う理由であると考えています。

以前引用しておいたティエン師の説法の一部を訳してみました。

m106.Breathing is never glad or sad; it never hates anybody or likes anybody. What is angry is the mind that is thinking. What is pleased is also the mind that is thinking. So we come to see only this point. To see this point is to be aware of thought. In order to see thought, don’t enter thought. As soon as it thinks, detach from thought, like a cat catching a rat. We don’t have to teach the cat to catch rats, but whenever a rat comes the cat will get it. The clear knowing and real knowing is the same thing. Most people understand panna only as memorizing and recognizing. Very few know clearly and know really. Anyone that will clearly know and really know must make an effort always. Wherever they go they always watch thought; going to the toilet, eating food, whatever they do they look at thought. When we watch thought a lot, like a cat watching for rats, then when thought arises sati or panna will clearly see immediately. This is called panna getting rid of the subtle kilesa.
呼吸というもの(呼吸という機能そのモノ)が、喜んだり、悲しんだりしているのではありません。呼吸が誰かを嫌ったり、誰かを好きになったりするのではありません。怒るのはナニモノナノなのかと言いますと、思考している(考えるという機能が働いている)心なのです。喜ぶのも、また、思考している心なのです。そこで私たちは、この(怒る、喜ぶというのは、心が思考しているのだという)特徴にしっかり目を向けるべきなのです。この特徴に目を向けるとは何をすることなのかと言いますと、思考に気づきを働かす(思考に気づく)ということなのです。思考を見るためには、思考の中に入っていってはなりません(思考の中に入るというのは、心が思考を続けることを意味する。つまり、考えごとに熱中すること。thoughtはティエン師の独特の用語)。思考が生じたら(心が考え始めたら)、丁度、猫がネズミを捕まえ(てネズミを駆除す)るように、思考をとり除きなさい。猫というものは、ネズミの捕まえ方を教えなくとも、ネズミが現れれば捕まえるものなのです。明晰に知ることと、ありのままに知ることというのは、それ(猫はもともとネズミを捕まえるように生まれついていること)と同じことなのです。ほとんどの人は、パンニャをただ記憶のことだとか、認識のことだと思っています。ごく少数の人たちだけが、明晰に知り、ありのままに知っています。明晰に知りありのままに知りたいと希求している者は常に努力しなければなりません。そう希求している人は、どこに行くにしても常に思考を見続けているものなのです。トイレに行く、モノを食べるなど何をする時も思考を見ているのです。猫がネズミを見つようとしている時のように私たちがいつも見張っているならば、思考が生じるや否や気づき(サティ)もしくはパンニャが直ちにはっきりと(思考を)見るのです。このことを微細なキレッサを除去するパンニャと呼ぶのです。
  • kilesa [gileht]: Defilement, corruption, impurity, impairment; all the things that defile, dull darken and sadden the mind; ‘stickiness’ in the mind. (“To One That Feels"の用語集)いずれの語義も心を本来の清浄な状態から汚れた不純な状態にすることを意味しています。ティエン師は、心は本来太陽のように常に輝き一点の曇りもないものだいう風にと譬えます。kilesaは思考によって生じると説きます。心に本来具わっているこのような働きをダンマと呼んでいるようです。
*m100.Next, we use sati to see the mind: panna will arise, and we will know the source of kilesa ("defilement", stickiness), tanha ("craving", heaviness), upadana (attachment) and kamma (action).(”To One That Feels";)


お釈迦様の教えの忠実な実践者であり、現代社会生活で十分実践可能な修行法(瞑想法)の指導者である、ルアンポル・ティエン師が、慈・悲についてお話しています

どのように読まれたでしょうか?

今回は、私の意訳を試みてみます。なお、日本語訳文の内容は全てavaroの解釈で、ティエン師や英訳者の註ではありません。

m129.AUDIENCE: When we give charity we usually think ofで頭が一杯になる metta (loving-kindness) and Karuna (compassion). So where is karuna and where is metta?
普通慈善行動をとるとき、頭の中は慈愛とか憐れみで一杯になります。その慈愛とか憐れみ(の心)というのは、どこにあるものなのですか(心の中にあると思うのですがどうでしょう)?
<<<<<
  • loving-kindness---親愛、慈愛(慈しみ)
  • metta- : [f.] amity; benevolence.
  • metta-: 'loving-kindness', is one of the 4 sublime abodes (brahma-viha-ra, q.v.).
  • metta [mettaa]:Loving-kindness; goodwill. One of the ten perfections (paramis) and one of the four "sublime abodes" (brahma-vihara).
>>>>>
LUANGPOR: Those are just words for talking. It is not Dhamma. It is social.
それら慈愛も憐れみもただの言葉に過ぎません。それはダンマではありません(確かに心の中にあるのはダンマだけ---ただし、ダンマという実態的なものがあるのではない)。それは世間(社会生活の場)的なものに過ぎません。
m130.AUDIENCE: If we don’t have metta and karuna, how can we have the motive to do good for others?
仮に(ティエン師が言うように、私たちの心の中に)慈愛とか憐れみ(の心)というものが無いのだしたら、どうして私たちは他の人たちの為に善行を為そうとする思いがあるのでしょうか(慈愛・憐れみが善行を促すはずだ)?
LUANGPOR: That is the beginning stage, or the foundation for ethics of the world.
そういう考え方は、初心者の考えることであり、また、それが世間の倫理観なのです。
m131.AUDIENCE: In the case of Luangpor, who is trying to help us to be free from dukkha, isn’t it the metta of Luangpor?
(では)ルアンポル(ティエン師)はこうして説法などによって、私たちを苦から解放しようとして下さっていますが、それ(解放しようとしている行為)はルアンポルの慈愛(の心)なのではないでしょうか?
LUANGPOR: Not metta. Anybody that would like to have Dhamma, just accept it. We don’t have gladness or sadness. It is like when we see someone that is drowning, we jump into the water and help them without thinking anything.
そうではありません、慈愛(の心)でやっているのではありません。ダンマを持ちたいと望んでいる者は誰でもそうするのです。私たち(の心)の中に喜びとか悲しみ(という何か)がもともとあるのではありません。譬えて言えば、溺れている人を見ると私たちは(私はあの溺れている人を助けなくてはならないのだなどと)考えることなく(すぐに水の中に)飛び込んでいって、溺れている人を助けるものなのです。
m132.AUDIENCE: When that person sees someone drowning and helps immediately, is it the result of social ethics or is it their own nature?
では、溺れている人を見て直ちに助けるのは、世間的な倫理観によるものなのでしょうか、それとも、(助ける人が)元々持っている性質なのでしょうか(この場合、natureには、慈愛・憐憫・楽・哀というような事柄は含まれていない)?
LUANGPOR: It is their own nature. But when we try to help other people we don’t see our mind, but the nature of the mind is already there, the indifference is already there, we never come to see it and we try some other way. That is why we don’t have real calmness.
もともと持っている性質です。しかしながら、私たちが他の人たちを助けようとする時に、(一々)私たちは自分の心(の中を)見てはいません。(見てはいませんが実はその時にも)私たちの心のもともとの性質というものは前からあったのです。その前からあったもともとの性質というのは、indifference(ウペッカ)なのです。ところが、(心の中を見る能力が未熟なため)indifference(ウペッカ)を見つけるのは難しく、(溺れている人を助けようとする心の働きを)他に求めようとするのです。そのために私たちは本当のcalmness(の働き)を得られないのです。
  • Real calmness is clearly seeing, really knowing and really understanding. This kind of calmness, everyone can do it when they know the source of moha.("To One That Feels" m102)


にほんブログ村 仏教

コメント数が多くなると、コメントを入力するコメント欄を表示するまでスクロールするのが大変なので、ページを移動しました。
よろしくお願いします。

説法を聞いている聴衆がルアンポル・ティエン師に質問しました。
「喜びはどんなものであろうとも苦なのであると、ルアンポルが言いましたね。苦じゃない喜びもあるのじゃないでしょうか?例えば、夫と妻との愛(お互いに愛し合っていること)のような。」
ルアンポル・ティエン師が答えました。
「全て苦です。」
聴衆が再び質問しました。
「ダンマに関してはどうなんですか(ダンマは喜びではないのか)? あるいは、お日様の光を浴びて幸せだと感じるのはどうなんでしょうか?」
ルアンポル・ティエン師が答えました。
「それは苦ではなく、幸せでもなく、喜びでもなく、悲しみでもないものです。そういうもの(感じること)がウペッカ(upekha : [f.] neutrality; equanimity; indifference. )なのです。」

 *ウペッカ--- ものごとを完全にニュートラルな視点でとらえる、ウペッカ(捨)という平和で静寂な状態(ものごとの好き嫌いを判断しない、完全な平等性の要素)
 この語釈は、下記URLから拝借しました。
   http://www.geocities.jp/bodaijubunko/h/paauk.jhana.htm

m123.AUDIENCE: Luangpor said that all kinds of gladness are dukkha. Is there some kind of gladness that is not dukkha, for example love between husband and wife?

LUANGPOR: All are dukkha.

m124.AUDIENCE: How about gladness in Dhamma, or sometimes when we look at the sunshine we feel happy?

LUANGPOR: That is not dukkha, not suffering or happiness, not gladness or sadness. It is indifference, equanimity.


このページに移動しました。
よろしくお願いします。

お釈迦様の教えに最も忠実な実践者であり、しかも、現代社会でも十分に実践可能な仏教の指導者だと私が判断しているルアンポル・ティエン師の説法の一部です。なぜ、「息」や「手」が瞑想の対象となるのかを説明している部分です。
m105.So we don’t have to do anything with calmness, because it is already there. The only thing we have to do is know the method of practice. The method of practice is to know the movements of the body - we don’t have to watch the movements of our breathing - we have to know the movements of the physical body and then see the movement of the mind.

m106.Breathing is never glad or sad; it never hates anybody or likes anybody. What is angry is the mind that is thinking. What is pleased is also the mind that is thinking. So we come to see only this point. To see this point is to be aware of thought. In order to see thought, don’t enter thought. As soon as it thinks, detach from thought, like a cat catching a rat. We don’t have to teach the cat to catch rats, but whenever a rat comes the cat will get it. The clear knowing and real knowing is the same thing. Most people understand panna only as memorizing and recognizing. Very few know clearly and know really. Anyone that will clearly know and really know must make an effort always. Wherever they go they always watch thought; going to the toilet, eating food, whatever they do they look at thought. When we watch thought a lot, like a cat watching for rats, then when thought arises sati or panna will clearly see immediately. This is called panna getting rid of the subtle kilesa.

m107.When we come to this point it is like the hidden thing is revealed, and we will know all religion, we will see with self-understanding the teaching of any religion. We will understand Hinduism or Christianity. We don’t understand now because we just memorize from the texts. That is only a kind of history. Now we come to study at ourself. Reality is in us. Texts are only the words of other people. We come to see our own mind, and we will be another knowing individual.
I will stop now. Anyone that has questions can ask.

m108.AUDIENCE: Luangpor teaches that when we go to the toilet we also watch thought. Shall we watch our walking, or shall we watch thought or what shall we watch?

LUANGPOR: Thought arises even when we do not pay attention to it. So when it arises we will see it, we will know it, we will understand it. If we pay too much attention trying to see it, it will not think. So we should practice in an indifferent, detached way. When it thinks we will know. Samadhi is also awareness. When you are aware of yourself, that is samadhi. When it thinks and you see thought, that is samadhi.

m109.AUDIENCE: When I sit I can watch the thought, but when I walk to the toilet and intend to see the thought, when thought arises should I stop walking and see the thought or what should I do?

LUANGPOR: You don’t have to stop walking, just be aware of yourself. When we are aware of ourself, that is samadhi. Whatever movement we make we will know it. Unintended thought will arise by itself. If we do not see it we will attach to it, and this is dukkha. So we come to know the cause of dukkha. Normally our mind is indifferent. It can think without dukkha, and we know that it thinks without dukkha. But when we do not see thought we follow thought, we enter thought, we enter the cave, and that is dukkha. To see thought is difficult for somebody who doesn’t understand, but it is easy for one that understands. To see thought doesn’t concern any kind of work. We can write and when thought arises we see it. When we walk to the bathroom, or when we are bathing, and it thinks, we just see it. So we don’t
have to do anything with calmness, because calmness is already there. The real calmness is when we see thought.

[https://philosophy.blogmura.com/buddhism/ にほんブログ村 仏教]

防砂堤のコンクリートに老人が坐っている。

視線は茫洋とかすむ水平線のあたりに止まっている。

背後の黒い松の林の帯は珍しく森閑としている。

「おじちゃん、なにしてるの?」
男の子が脇に腰を下ろしながら聞いてきた。

「一休みじゃよ。」

男の子も老人の視線を追った。
はるか彼方の空と海とのあわいは青が青に溶け込んでいた。
男の子はただ一心にそのあわいを見つめてみた。

「おじちゃん、空と海が溶けてるよ。」
「ほほう、その通りじゃな、坊よ。」

「おもしろいね。」
「そうじゃな。」
「うん。」

「おじちゃん、一休みしたらまた何かするの?」
「歩くんじゃよ。」
「歩くの?」
「そうじゃよ。」
「歩いてどこへ行くの?」
「北じゃよ。」
「北のどこ?」
「北が終わることろじゃよ。」
「北が終わるところってどこ?」
「この国の北の端っこじゃよ。」
「ふーん、遠いの?」
「遠いじゃろうな。」
「疲れないの?」
「疲れるんじゃよ。だから、時々こうして一休みするんじゃ。」
「そうだったの。」

小さな波頭が砕けてするすると綺麗な潮と汚れた泡とが砂浜を駆け上がる。

「おじちゃん、水が透き通っているよ。」
「ほう、そうじゃな。」
「泡は汚れてるね。」
「どうしてじゃろうな?」
「きっと、海のお洗濯をしたんだよ。」
「ほう。なるほどな。」

砂浜の奥へ駆け上がってきた潮水が一刹那止まる。
その刹那後、砂浜に細い泡の帯を残して潮水は海の方へどんどん引いていった。

「海は疲れないね。」
「うむ。その通りじゃなぁ、坊よ。」
「どうして海は疲れないのかなぁ?」
「どうしてかのぉ?」

微かな微かな海風が顕な素肌を心地よく吹いて行く。

「おじちゃん、北のはじっこについたら何をするの?」
「また歩くんじゃよ。」
「だって、もうはじっこなんでしょう?」
「そうじゃよ。端っこに着いたら今度はな、南へ歩くんじゃよ。」
「へえー。どうしてそんなに歩くの。疲れるのに。」
「楽しいからじゃよ。」
「楽しいの? 疲れても?」
「そうじゃよ、坊。」
「お遊びしないの?」
「そうじゃな、少しはするな。」
「どんなお遊びするの?」
「こうして坊とお話しのお遊びしてるじゃろ。」
「なぁんだ、お話だけ?」
「うむ。」
「僕はね、お遊びも好きだし、お勉強も好きだし、ジュリーも大好きなんだよ。」
「ジュリーというのは何かのぉ?」
「僕のお友達。」
「ほう、どこの国の子なんじゃ?」
「おじちゃん、おかしいや。どこの国の子だなんて。猫だよぉ。」
「おう、そうじゃったか。ジュリーと一緒だと楽しいかの?」
「うん、とっても。おじちゃんはペットいないの?」
「ははは。わしは毎日歩いておるでのぉ。」
「そうか。ペットが疲れちゃうもんね。」
「そうじゃな。」
「おじちゃん。歩いてばかりじゃ飽きちゃはないの?」
「坊よ、お前さんにはまだ分からんじゃろうのぉ。わしはもう歩くことだけが楽しみなんじゃよ。」
「ふーん。やっぱり分かんないなぁ。」
「善い善い。坊もいずれわかるじゃろ。」
「ほんとう?」
「うむ。」



すると正田師、中村先生の訳では、つながりがよく見えない詩句が出てきます。

それは、詩句145の第二段落から147の終りまでに説かれている「一切の有情(生類)は、安楽で、平安の者たちと成れ--自己〔自ら〕が楽しむ者たちと成れ。」というフレーズです。

修行者に対する心がけを説いているのに、この部分だけは、正田師と中村先生の訳では、修行者は…を心がけよ、という言い回しになっていない。

ところが、英訳をした三師は、申し合わせたように、修行者は、~ということを思いやりなさい、という言い回しを補っている。

Thanissaro師:Think(配慮せよ)
Nanamoli師:let him think(同上)
Buddharakkhita師:let him cultivate the thought(思いやりの心を養え)

チョッとこじつけになりますが、一切の有情(生類)というのは、修行者を含めた人によって、踏みつけられたり、狩られたりなどして傷害されるどちらかというと弱い者たちを意味しているのかなぁ、と想像します。

古代インドの修行者たちは、雨季になると遍歴や托鉢を中止したとされます。その理由が、増水して道が河のようになるため、元道だった川に紛れ込んだ生き物を踏みつけて殺したりしないようにするためだったと聞いています。

そのように考えると、正田師の訳「一切の有情(生類)は、安楽で、平安の者たちと成れ--自己〔自ら〕が楽しむ者たちと成れ。」特に、「自己〔自ら〕が楽しむ者たちと成れ」という訳の意味することが分かるような気がします。

不意に殺されるような心配をせずに、それぞれの生き方を恙無くできるようにと配慮しなければならない、と読めると思うのです。

もっと端的に言えば、「修行者よ、お前はどんな小さな生き物でも、細心の注意を払って、殺したりしてはならない」と訓戒しているのだと読めるということです。

古代インドでも、現代でも、人は互いに殺しあいます。
お釈迦様に帰依したアジャータサットー王は、自分の父(王)を殺して王座を奪いました。
野生の世界は、弱肉強食の日常です。
だからこそ、生存は「苦」であり、その生存に執着することは最上ではないのです。

もしも、「一切の生きとし生けるものは、幸せであれ。」というフレーズだけが語られたなら、なんとも空々しく響きます。
「修行者たちよ、少なくともお前たちだけは、決してどんな生き物も、殺したり傷つけたりしてはならない。全ての生き物は、たとえどれだけの時間生きられるか分からないとしても、その間、彼等がのびのびと生きられるように配慮せよ。」と解釈するしかないでしょう。

人以外の生き物は、涅槃を求めることが出来ない。

だから、

149 母が自分の子を〔守るように、それも〕命がけで独り子を守るように、また、このように、一切の生類にたいし、無量なる〔慈愛の〕意[こころ]を修めるように。

修行者は、心がけなければならないのである、と続くのでしょう。
まさしく、「情けは人の為ならず」なのではないでしょうか。

慈愛(慈しみ)の心を持つということは、ただ単に生き物をいたわるというだけでなく、もっと深い意味は、修行者の心を高める訓練的な意味合いが強いということです。

命がけで、小さな虫けらの命を護るということは、私には到底出来ないことです。
自分の命が可愛いからです。

訓練と書きましたが、命がけで虫の命を護ることが出来たなら、これはもう訓練などという範疇ではなくなります。

パーリ三蔵の律蔵(ヴィナヤ)によれば、戒律の項目に、大声を出してはならぬとあったので、夜中に僧院に忍び込んできた虎に噛みつかれ、脚を食われても、ジッと耐え忍んで声を上げなかったそうです。

慈愛の訓練は、虫けらのためでもありますが、それ以上に、修行者のためであったのだと思います。

こういう風に解釈すると、お釈迦様が説いた慈愛(慈しみ)の語義が、涅槃(を目指す修行)と深く関わっていることがお分かりいただけると思います。


今度は慈悲(慈愛)を説いた教典を読んでみます。

「慈悲」は、仏教では「慈(いつくしみ)」と「悲(あわれみ)」という二つの言葉(概念)をくっつけた言葉のようです。「慈愛」は、正田師の訳と中村先生の訳を付き合わせると、「慈しみ」と同義語と考えて良さそうです。また、悲(あわれみ)は、慈悲と同義語として訳されているようです。
そこで、以下の記事では「慈しみ(慈愛」とします。
  • 四無量心(慈・悲・喜・捨)などの仏教用語がありますが、この記事では、「慈しみ(慈愛)」を日常使う語義と較べながら解釈します。仏教用語との関係については考えません。

ちなみに、これから読む経「スッタニパータ第1蛇の章 8.慈しみ(中村訳)」を正田師は、「8.慈愛」と訳しています。
なお、この経の訳語には、悲(あわれみ)・慈悲という訳語は見当たりませんので、この記事では「慈しみ(慈愛)」について考えます。

なお、慈愛(正田師)・慈しみ(中村先生)を、Thanissaro師は「good will(善意・親切・好意)」と、Nanamoli師は「with love」、Buddharakkhita師は「all-embracing(包括的な、全てを包み込むような) mind of love」と訳しています。
 http://www.accesstoinsight.org/tipitaka/kn/snp/index.html

涅槃(ニッバーナ)の視点からすれば、日常語としての「慈」も「悲」も「死」や「病」「愛」「幸せ」などと同じ範疇の錯誤・妄想であるはずで、「慈」「悲」だけが特に例外であるはずがないと思えます。

従って、「慈しみ(慈愛)」あるいは、good will(love)等の訳語を見て、普段使い慣れているそれらの言葉の語義を当てはめるのは早計であると思います。

そこで、「慈しみ(慈愛)」という用語を経典でどのような意味で用いているか、何を伝えようとしているかを慎重に読み込むことが重要になってきます。

まず、経典を読んでみましょう。
今回は、正田大観師の訳を引用させていただきます。
正田師は、より原文に近い訳し方をしていると思えるからです。

     +++++ ○ +++++

 第八経 慈愛

143 かの、寂静の境地を知悉して、〔解脱という〕義(目的)に智ある者(出家修行者)が為すべきことは、〔以下のとおりである〕。
 有能で、なおかつ、真っすぐで、そのうえ、極めて正直で、かつまた、素直で、柔和で、増慢〔の思い〕なき者として、〔世に〕存するように。
144 また、〔足ることを知り、常に〕満ち足りている者として、なおかつ、〔他者を煩わせない〕扶養し易き者として、さらには、為すべきこと(世俗の義務)少なき者として、軽素な生活者として、かつまた、寂静なる〔感官〕機能(根)の者として、しかして、賢明なる者として、尊大ならず、〔行乞する〕家々に貪りなき者として、〔世に存するように〕。
145 また、他の識者たちが批判するであろうなら、どんなに小さなことであっても、行じおこなわないように。あるいは、一切の有情(生類)は、安楽で、平安の者たちと成れ--自己〔自ら〕が楽しむ者たちと成れ。
146 何であれ、生き物と成ったものが〔世に〕存するなら、あるいは、動くものたちも、あるいは、動かないものたちも、残りなく、あるいは、長いものたちも、あるいは、大きいものたちも、中くらいのものたちも、短いものたちも、微細や粗大のものたちも--
147 あるいは、〔かつて〕見たものたちも、あるいは、〔いまだ〕見たことがないものたちも、さらには、遠くに〔住むものたちも〕、遠からざるところに住むものたちも、あるいは、〔すでに〕生まれ落ちたものたちも、あるいは、〔これから〕生まれ来ることを求めるものたちも、一切の有情(生類)は、自己〔自ら〕が楽しむ者たちと成れ。
148 他者が他者を欺くことがないように。どこにあろうと、誰であろうと、軽んじることがないように。怒りから、憤りの想い(想:認識対象を表象し概念化する働き)から、互いに他の苦しみを求めることがないように。
149 母が自分の子を〔守るように、それも〕命がけで独り子を守るように、また、このように、一切の生類にたいし、無量なる〔慈愛の〕意[こころ]を修めるように。
150 しかして、一切世〔界〕にたいし、無量なる慈愛の意を修めるように。上に、また、下に、さらには、横に、隔てなく、怨みなく、敵のない〔意〕を〔修めるように〕。
151 立ち、歩き、あるいは、坐していても、あるいは、臥していても、眠気を離れ去った者として存するかぎりは、この〔行住坐臥の〕気づき(念)を〔瞬間瞬間に〕確立するように。この〔行住坐臥の気づき〕を、「この〔世における〕梵住〔の境地〕(理想の生活)」と言う。
152 しかして、〔誤った〕見解へと近づき行くことなくして、〔正しい〕ものの見方を成就した、戒ある者は、諸々の欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕を取り除いて、もはや、胎内へとふたたび至り行くことは、まさに、ない。

+++++ ○ +++++

慈愛というこの経の題名は、

149 母が自分の子を〔守るように、それも〕命がけで独り子を守るように、また、このように、一切の生類にたいし、無量なる〔慈愛の〕意[こころ]を修めるように。
150 しかして、一切世〔界〕にたいし、無量なる慈愛の意を修めるように。上に、また、下に、さらには、横に、隔てなく、怨みなく、敵のない〔意〕を〔修めるように〕。

という詩句からとられているのかな、思いました。

149の詩句を読むと、この経が説いている慈愛(慈しみ)の語義を、「母がわが子に注ぐような限りない慈愛(慈しみ)の心」というように、普通に使われる語義と同じだと理解するのではないかと思います。

普通、母の慈愛(慈しみ)は、わが子だけに向けられるものであり、当然、わが子とわが子以外の全ての者とを明確に区別し、わが子だけが安穏であるように計らいます。
母は、理屈ぬきに(動機が不明なまま)わが子への限界のない慈愛を注ぎます。

ここでは、母の慈愛(慈しみ)の善悪を考えません。
思春期になると普通の男女は異性を恋い求めるように、母は、普通はそうするものなのだと考えます。

お釈迦様や阿羅漢は、すでに涅槃を達成した時点で、こういう自分でも分からない動機(無明)に突き動かされることはなくなっているはずです。
そこで、この経を考える場合も、私は、涅槃と結びつけて考える必要があると思います。
そこで、149、150にある慈愛(慈しみ)という用語の語義を、それ以外の詩句との関連で考えつつ、涅槃の視点で読めるかどうか探ってみましょう。

「第八経 慈愛」という経は、全体としては、涅槃を目指す修行者の「心得」を説いていると読めそうです。この解釈は、

143 「寂静の境地を知悉して、〔解脱という〕義(目的)に智ある者(出家修行者)が為すべきことは、〔以下のとおりである〕。」
151 「この〔行住坐臥の気づき〕を、「この〔世における〕梵住〔の境地〕(理想の生活)」と言う。」
152 「もはや、胎内へとふたたび至り行くことは、まさに、ない。」

等の詩句から明らかだと思う。
151、152の詩句は、涅槃を比喩的に述べていると読みます。

ただし、中村先生の訳によれば、
「Sn143 究極の理想に通じた人が、この平安の境地に達してなすべきことは、次のとおりである。」
となっていて、これから涅槃を目指して143以下に説かれているような修行をするというのではなく、涅槃を成就した者(阿羅漢)の在り方という風な意味になります。

正田師の訳は、読みようによっては、これから涅槃を目指す者とも読めるし、中村先生と同じように、すでに涅槃を成就した者とも読めると思います。

そこで、三人の師の英訳を参照してみます。

Thanissaro師:This is to be done by one skilled in aims who wants to break through to the state of peace:(以下に述べる)これが、困難を乗り越え安らぎの境地に達したいと願い、そのためにはどうすればよいのかをよく知っている者(修行者)によって為されるべきである。

Nanamoli師:What should be done by one skillful in good, So as to gain the State of Peace is this;:安らぎの境地を獲得するために、力量が優れている者(修行者)によって為されるべきこととは、これである。

Buddharakkhita師:Who seeks to promote his welfare, Having glimpsed the state of perfect peace, Should be able,完全なやすらいの境地を間じかに見て、さらにその境地に深く進みたいと思っている者(修行者)は、~であるべきである。

ということで、143の詩句は、「涅槃を目指す修行者は、」と読みます。

従って、143の詩句の第二段落から151の詩句の第一段落までは、修行者が心がけ行うべきことがらを述べている、という風に解釈します。




ネットで偶然に、表題の講演記録を見つけ読み始めたところです。

アドビのpdfファイルで30ページのテキストです。
まだ、数ページしか読んでいませんが、ここまでの記述は非常に納得できるものです。

玉城先生の説については、異論があると聞いていました。

しかし、この講演の記録を数ページ読んだ限りでは、大変興味深い考え方であると思えます。

全部読み終わったら、私の感想を記事にしたいと思います。
ご一緒に読んでみませんか?

テキストアドレス(URL)は下記。

①は、クイックビユーというファイルで、ちょっと読みづらいと思います。
 クリックして開くと、htmlファイルが表示されます。これはほとんど使い物になりません。
 クイックビューを表示させるためには、下記URLを全部コピーして、ブラウザのアドレス欄に貼り付けてアクセスして下さい。

http://docs.google.com/viewer?a=v&q=cache:jngtQZKagVYJ:www.nanzan-u.ac.jp/SHUBUNKEN/Shuppanbutsu/sono_ta/Touzai_Shukyo/pdf/DJZ5-Tamaki(1).pdf+%E5%8E%9F%E5%A7%8B%E4%BB%8F%E6%95%99&hl=ja&gl=jp&pid=bl&srcid=ADGEESgYPb15WAjvlCCXnXs5uP8NEyc7xssr5Q6l-57MUIyjij5SDAN53IE1L2cnoIT0WflqNonx3UC-OTfXH7MlGnriF0HlGHoPxR_RSJefx3h9JWwAx-2W8G-wAS2YwcaKKeNQnqEc&sig=AHIEtbQ-MADbLcci5-HcMjncnpz2guqUwA

②はpdfファイルですが、なかなか表示されません。
タイムアウトする可能性あり。
ダウンロード可能。



最近は結構熱心に、ティエン師の瞑想訓練に励んでいる。

ティエン師の指示に従って、「何か変化が現れることを期待せず、ただ、リズミック・ムーヴメント・メディテーション(Sitting meditation中心)をやり、腕の動きを感じ取ることで「気づき」を高める」ことだけに専念しているつもりである。

ところが最近は、訓練に入ると、すぐ集中するようになり、まもなく視覚に微かな異常が現れるようになった。
目の前の物が歪んできて、自分の身体がふらふら揺れだし、空間の歪みのような感じまで生じることがある。
恐らく、腕の動作に集中しすぎてしまったためか、あるいは、気づきというこれまであまりやってなかった精神活動を集中的にはじめたために脳の中で何らかの急激な変化が起こっているのだろうと判断し、視線を遠くに移動したりして集中をほぐすようにしている。
「集中をしてはならない」、或いは、「何か強い異常・違和感を感じたら、すぐに訓練を一時停止せよ」と、ティエン師が指示しているのを思い出した。
凝集をほぐすと異常な感じは収まる。

それ以外の変化はない。

瞑想訓練の深化に関して、以前から気が付いていたことがある。
何度かこのアーカイブに記述してきたことである。
これは、ティエン師が「訓練は中断せず、出来る限り24時間、鎖のように途切れることなく継続せよ」という指示と関連がある。

私の場合、いまだに、瞑想訓練中も私の意識(自意識・自我などと呼べる)が途切れることなく存在している(同じ意識が変化せずにというような意味ではなく)。
言い換えると、常に「俺は今・・・・・をしている、感じている、考えている、思っている......」という意識があることを意識しているということである。

訓練が終われば、私はいつも通りの欲求パターンで行動する。

言い換えると、ティエン師が「m35.Sila ("keeping moral precepts";) is normality. Sila is the result of a normal mind.
シーラ(徳目を実践すること)というのは、ノーマリティ(常態、あるいは、正規の在り方*詳しくは下記註参照)のことなのです。シーラとは、普通の(正規の)心の成果なのです。」と説いている、シーラがほとんど実現できていない。
つまり、私の心のあり方(行動規範)は、ノーマルではなく、アブノーマルなままなのである。

私のいつも通りの欲求パターンというのは、ティエン師の言うノーマリティの反対、アブノーマルな状態のままだということなのだと思う。

ティエン師が24時間、鎖のように気づきの訓練を継続せよと言うのは、折角訓練中に、アブノーマルを少しずつ気づき(ここではティエン師のシーラ)と入れ替えたのに、気づきの訓練を完全に中断してしまえば、たちまち、アブノーマルが気づき(ティエン師のシーラ)に再び入れ替わってしまう、深化が進まない、ということなのかなと思った次第。

私はやっとそのせめぎあいに気付き、鎖のように気づきの訓練を継続することの重要性に気付いた。

解決不可能なストレスや本能的な欲求(ティエン師のThought)などに常に気づきを働かせ続けるのだから大変である。
Sitting meditationやWalking meditationよりも、そういうちゃんとした訓練時間以外の気づきの訓練のほうが、ずっと重要で大変なのだとやっと気づいた。

それにしても、これは、常に生じてくる三毒(ティエン師のThought)を見(やり過ごさ)ねばならないのだから簡単な事ではない。

頓知時代の一休さんのように、三毒発生時は何時如何なる時・場所でも、直ちにSitting meditationにはいらなければならないのかもしれない。
日常活動をしながらの気づきの訓練程度では、三毒のドラ猫を睨み倒すのは容易ではないだろう。


↑このページのトップヘ