今日のテーマは無我です。
Therag678 「一切の事物は我ワレならざるものである」(諸法非我)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。(中村元訳「仏弟子の告白 テーラガーター」岩波文庫)
678 「諸々の法(もの・こと)は、全てが自己ならざるものである(諸法無我)」と、知慧によって見るとき、しかして、〔人は〕諸々の苦しみを厭い離れる--これは、清浄への道である。(正田大観訳「テーラガーター和訳」http://www7.ocn.ne.jp/~jkgyk/
678 「諸々の法(もの・こと)は、全てが自己ならざるものである(諸法無我)」と、知慧によって見るとき、しかして、〔人は〕諸々の苦しみを厭い離れる--これは、清浄への道である。(正田大観訳「テーラガーター和訳」http://www7.ocn.ne.jp/~jkgyk/
幾つかの経典に同じ文句で登場する詩句です。
これは世界で二番目に阿羅漢となったアンニャー・コンダンニャの詩句です。
これは世界で二番目に阿羅漢となったアンニャー・コンダンニャの詩句です。
瞑想訓練中に”無我”について面白い思い付きがでました。
ベッドで足を組み、sitting meditationです。
リズミカルに手を動かし続けます。
目標を持つなとティエン師は言うが、今日はやはりループ・ナーム・オブジェクトです。
リズミカルに手を動かし続けます。
目標を持つなとティエン師は言うが、今日はやはりループ・ナーム・オブジェクトです。
After one has realizes Roop-Nahm Objects completely,...
ループ・ナーム・オブジェクトをありのままにはっきりと知ることが出来るようになったら、...(「A Manual of Self-Awareness」私読 part two②)
ループ・ナーム・オブジェクトをありのままにはっきりと知ることが出来るようになったら、...(「A Manual of Self-Awareness」私読 part two②)
そのループ・ナームが一向にはっきり見えない。
30分が過ぎてもいつもとあまり変わらない。
30分が過ぎてもいつもとあまり変わらない。
次々考えが浮かぶ。
”When we have sati there is no moha and so no dukkha. When we move our hands we feel, and the awareness of this feeling is sati and when we have sati we are separate from thought and can see thought.”
*ティエン師が別の譬えでこんなことを言っています。「ずっと家の中に居ては、家というものがどういうものなのか分からない。家の中から出てきて、外から家をよく見れば、家というものをはっきりと見ることが出来るようになる。」思考と(から)分離する、というのは、こういうことを意味しているのだと思います。
ティエン師がこの文章で説明していることと、”To One That Feels"が結びついているならば、”feel”とは、特に”身体"の動き(動作)を感じることを意味すると言えそうです。(「To One That Feels」私読-はじめに-)
(Chapter One--IT RAINS HARD ON A COVERED THINGより抜粋)
私たちにサティ(気づき)があれば、妄想(無知)は無く、従って、苦も無い。私たちが手を動かすならば、私たちは(その手の動き=動作を)感じる。まさに、この感じに気づくことがサティ(気づき)であり、私たちにサティがあれば、私たちは思考と分離するので(それまでは思考と一緒になっていた)、思考を見ることが出来るようになるのです。*ティエン師が別の譬えでこんなことを言っています。「ずっと家の中に居ては、家というものがどういうものなのか分からない。家の中から出てきて、外から家をよく見れば、家というものをはっきりと見ることが出来るようになる。」思考と(から)分離する、というのは、こういうことを意味しているのだと思います。
ティエン師がこの文章で説明していることと、”To One That Feels"が結びついているならば、”feel”とは、特に”身体"の動き(動作)を感じることを意味すると言えそうです。(「To One That Feels」私読-はじめに-)
手の平を起こす。Be aware.
手を上に持ち上げる。Be aware........
手を上に持ち上げる。Be aware........
ティエン師のループ・ナームとは、マハシ・セヤドーの「ヴィパッサナー修行書(ミャンマーの瞑想)」では、第3章見清浄(名色分離智慧)のことらしい。
前章の通り念じ、修行を続けてゆけば、念・定・智慧の三つが整って勢力を持つようになり、
一、膨らみ(色)と
二、「膨らんでいる」と念じる心(名)
三、引っ込み(色)と
四、「引っ込んでいる」と念じる心(名)...
一、膨らみ(色)と
二、「膨らんでいる」と念じる心(名)
三、引っ込み(色)と
四、「引っ込んでいる」と念じる心(名)...
など、対象(色)と念じる心(名)が、一対一、一つのペアになって、互いにぴったりと組み合っていることが、修行者に明瞭に分かってきます。...
確かに頭で考えるとそのことは分かる。
しかし、考えたのでは瞑想の智慧ではないはず...
しかし、考えたのでは瞑想の智慧ではないはず...
第一そう考えている俺は脳の中にいると分かっているんだから、動いている手とそれを感じている心だけが見えるはずがない。
手(色)と感じている心(名)とそれを意識している俺(自我)......
手(色)と感じている心(名)とそれを意識している俺(自我)......
待てよ。
”when we have sati we are separate from thought and can see thought.”
”when we have sati we are separate from thought and can see thought.”
そうだ、次々湧いてくる思考の他に、今の俺は常に意識をしている(考え続けている)。
全く自覚していなかった思考があった。
全く自覚していなかった思考があった。
俺が脳の中にいるという智慧は、どの智慧だ。
少なくとも③ではない。
少なくとも③ではない。
①と②は思考(thought)のはずだ。
俺も、脳の中の俺も、思考の中にいる。
俺も、脳の中の俺も、思考の中にいる。
”when we have sati we are separate from thought and can see thought.”
もし、こうなれば、俺は無くなる。
諸法無我が真実となる。
諸法無我が真実となる。
”無我”というのは、知識ではなく、概念ではなく、体験なのか?
体験できなければ、無我ではないということかもしれない。
体験できなければ、諸法無我(非我)は絵に描いた餅に過ぎず、俺にとっては何の意味もないということなのか。
体験できなければ、無我ではないということかもしれない。
体験できなければ、諸法無我(非我)は絵に描いた餅に過ぎず、俺にとっては何の意味もないということなのか。
諸法無我の詩句を探していて、次のアーナンダの詩句に気づいた。
アーナンダは、身体の健康のことを言っていたのではないことに。
身体への気付き(satiサティ)を働かせていることを言いたかったのだ。
アーナンダは、身体の健康のことを言っていたのではないことに。
身体への気付き(satiサティ)を働かせていることを言いたかったのだ。
Therag1033 身体を[動かすのを]惜しんで、もの倦く思い、ただ肉体の快楽を貪るものには、どこから<道の人の>快ココロヨさが起るであろうか?――[身体が刻々に]衰えて行くのに奮起もしないで。
Therag1034 四方、さだかに見えず、教えもまた、わたしにとって明らかでない。善き友がこの世を去って、暗黒[に覆われたよう]に思われる。
Therag1035 友が世を去り、師も逝去されてしまった者にとっては、[もはや]<身体に関して心がけること>ほどの[良き]友は存在しない。(中村先生訳)
1033
〔身体が〕失われつつあるのに奮起せず、身体にたいする物惜しみ〔の思い〕を重んじ、肉体の楽しみを貪る者に、どうして、沙門の平穏〔の境地〕があるというのだろう。
1034
一切の方角は定まらず、諸々の法(教え)は、わたしには〔いまだ〕明白とはならない。善き朋友(サーリプッタ)が〔死へと〕赴いたとき、〔世界は〕暗黒であるかに見える。
1035
道友(サーリプッタ)が去り行き、教師(ブッダ)が過ぎ行き〔死へと〕赴いた〔このわたし〕には、身体の状態(時々刻々の身体のあり方)について〔常に〕気づき(念)あるような、このような朋友は、〔今となっては〕存在しない。(正田師訳)
Therag1034 四方、さだかに見えず、教えもまた、わたしにとって明らかでない。善き友がこの世を去って、暗黒[に覆われたよう]に思われる。
Therag1035 友が世を去り、師も逝去されてしまった者にとっては、[もはや]<身体に関して心がけること>ほどの[良き]友は存在しない。(中村先生訳)
1033
〔身体が〕失われつつあるのに奮起せず、身体にたいする物惜しみ〔の思い〕を重んじ、肉体の楽しみを貪る者に、どうして、沙門の平穏〔の境地〕があるというのだろう。
1034
一切の方角は定まらず、諸々の法(教え)は、わたしには〔いまだ〕明白とはならない。善き朋友(サーリプッタ)が〔死へと〕赴いたとき、〔世界は〕暗黒であるかに見える。
1035
道友(サーリプッタ)が去り行き、教師(ブッダ)が過ぎ行き〔死へと〕赴いた〔このわたし〕には、身体の状態(時々刻々の身体のあり方)について〔常に〕気づき(念)あるような、このような朋友は、〔今となっては〕存在しない。(正田師訳)