avarokitei84のblog

*はじめに。 このブログは、ヤフー・ブログから移行したものです。当初は、釈尊(お釈迦様・ゴータマブッダ)と宮沢賢治を探究してましたが、ある時点で、両者と距離をおくことにしました。距離を置くとはどういうことかと言いますと、探究の対象を信仰しないということです。西暦2020年となった今でも、生存についても宇宙についても確かな答えは見つかっていません。解脱・涅槃も本当の幸せも、完全な答えではありません。沢山の天才が示してくれた色々な生き方の中の一つだと思います。例えば、日本は絶対戦争しないで平和を維持出来るとおもいますか?実態は、戦争する可能性のもとに核兵器で事実上の武装をしています。釈尊の教えを達成したり絶対帰依していれば、戦争が始まっても傍観しているだけです。実際、中世インドでイスラム軍団が侵攻してきたとき、仏教徒の多くは武力での応戦はしなかったそうです(イスラム側の記録)。それも一つの生き方です。私は、武装した平和主義ですから、同じ民族が殺戮や圧政(現にアジアの大国がやっている)に踏みにじられるのは見過ごせない。また、こうしてこういうブログを書いているのは、信仰を持っていない証拠です。

2009年10月

今日のテーマは無我です。

Therag678 「一切の事物は我ワレならざるものである」(諸法非我)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。(中村元訳「仏弟子の告白 テーラガーター」岩波文庫)
678 「諸々の法(もの・こと)は、全てが自己ならざるものである(諸法無我)」と、知慧によって見るとき、しかして、〔人は〕諸々の苦しみを厭い離れる--これは、清浄への道である。(正田大観訳「テーラガーター和訳」http://www7.ocn.ne.jp/~jkgyk/

幾つかの経典に同じ文句で登場する詩句です。
これは世界で二番目に阿羅漢となったアンニャー・コンダンニャの詩句です。

瞑想訓練中に”無我”について面白い思い付きがでました。

ベッドで足を組み、sitting meditationです。
リズミカルに手を動かし続けます。
目標を持つなとティエン師は言うが、今日はやはりループ・ナーム・オブジェクトです。

After one has realizes Roop-Nahm Objects completely,...
ループ・ナーム・オブジェクトをありのままにはっきりと知ることが出来るようになったら、...(「A Manual of Self-Awareness」私読 part two②)

そのループ・ナームが一向にはっきり見えない。
30分が過ぎてもいつもとあまり変わらない。

次々考えが浮かぶ。


”When we have sati there is no moha and so no dukkha. When we move our hands we feel, and the awareness of this feeling is sati and when we have sati we are separate from thought and can see thought.”
(Chapter One--IT RAINS HARD ON A COVERED THINGより抜粋)
私たちにサティ(気づき)があれば、妄想(無知)は無く、従って、苦も無い。私たちが手を動かすならば、私たちは(その手の動き=動作を)感じる。まさに、この感じに気づくことがサティ(気づき)であり、私たちにサティがあれば、私たちは思考と分離するので(それまでは思考と一緒になっていた)、思考を見ることが出来るようになるのです。
 *ティエン師が別の譬えでこんなことを言っています。「ずっと家の中に居ては、家というものがどういうものなのか分からない。家の中から出てきて、外から家をよく見れば、家というものをはっきりと見ることが出来るようになる。」思考と(から)分離する、というのは、こういうことを意味しているのだと思います。
 ティエン師がこの文章で説明していることと、”To One That Feels"が結びついているならば、”feel”とは、特に”身体"の動き(動作)を感じることを意味すると言えそうです。(「To One That Feels」私読-はじめに-)

手の平を起こす。Be aware.
手を上に持ち上げる。Be aware........

ティエン師のループ・ナームとは、マハシ・セヤドーの「ヴィパッサナー修行書(ミャンマーの瞑想)」では、第3章見清浄(名色分離智慧)のことらしい。

前章の通り念じ、修行を続けてゆけば、念・定・智慧の三つが整って勢力を持つようになり、
 一、膨らみ(色)と
 二、「膨らんでいる」と念じる心(名)
 三、引っ込み(色)と
 四、「引っ込んでいる」と念じる心(名)...

など、対象(色)と念じる心(名)が、一対一、一つのペアになって、互いにぴったりと組み合っていることが、修行者に明瞭に分かってきます。...

確かに頭で考えるとそのことは分かる。
しかし、考えたのでは瞑想の智慧ではないはず...

第一そう考えている俺は脳の中にいると分かっているんだから、動いている手とそれを感じている心だけが見えるはずがない。
手(色)と感じている心(名)とそれを意識している俺(自我)......

待てよ。
”when we have sati we are separate from thought and can see thought.”

そうだ、次々湧いてくる思考の他に、今の俺は常に意識をしている(考え続けている)。
全く自覚していなかった思考があった。

俺が脳の中にいるという智慧は、どの智慧だ。
少なくとも③ではない。

①と②は思考(thought)のはずだ。
俺も、脳の中の俺も、思考の中にいる。

”when we have sati we are separate from thought and can see thought.”

もし、こうなれば、俺は無くなる。
諸法無我が真実となる。

”無我”というのは、知識ではなく、概念ではなく、体験なのか?
体験できなければ、無我ではないということかもしれない。
体験できなければ、諸法無我(非我)は絵に描いた餅に過ぎず、俺にとっては何の意味もないということなのか。

諸法無我の詩句を探していて、次のアーナンダの詩句に気づいた。
アーナンダは、身体の健康のことを言っていたのではないことに。
身体への気付き(satiサティ)を働かせていることを言いたかったのだ。

Therag1033 身体を[動かすのを]惜しんで、もの倦く思い、ただ肉体の快楽を貪るものには、どこから<道の人の>快ココロヨさが起るであろうか?――[身体が刻々に]衰えて行くのに奮起もしないで。
Therag1034 四方、さだかに見えず、教えもまた、わたしにとって明らかでない。善き友がこの世を去って、暗黒[に覆われたよう]に思われる。
Therag1035 友が世を去り、師も逝去されてしまった者にとっては、[もはや]<身体に関して心がけること>ほどの[良き]友は存在しない。(中村先生訳)
1033
〔身体が〕失われつつあるのに奮起せず、身体にたいする物惜しみ〔の思い〕を重んじ、肉体の楽しみを貪る者に、どうして、沙門の平穏〔の境地〕があるというのだろう。
1034
一切の方角は定まらず、諸々の法(教え)は、わたしには〔いまだ〕明白とはならない。善き朋友(サーリプッタ)が〔死へと〕赴いたとき、〔世界は〕暗黒であるかに見える。
1035
道友(サーリプッタ)が去り行き、教師(ブッダ)が過ぎ行き〔死へと〕赴いた〔このわたし〕には、身体の状態(時々刻々の身体のあり方)について〔常に〕気づき(念)あるような、このような朋友は、〔今となっては〕存在しない。(正田師訳)


おかしな話ですが、ネット上のテキストを読む限り、今日、お釈迦様の教えを最もよく理解して修行を行い、お釈迦様の道を生きているのは欧米人のような気がします(ごく少数の人たちですが)。

本当のお釈迦様の道を実践するのを阻むシガラミが西欧社会には無いからなんでしょうか。

既成仏教という宗教的な制約が一切無いですよね。
丁度、お釈迦様が成道し教えを広め始めた頃の状況と同じです。
バラモン教がキリスト教にあたります。

ま、これはちょっとした思い付きですからどうでもいいのですが。

さて、チューラパンタカの続きを。

チューラパンタカを漢訳の周梨槃特シュリハンドクと入力して、Googleで検索したら、1ページ目の記事は、いずれも、教訓話として、周梨槃特の故事を取り上げています。

周梨槃特の故事をお釈迦様の道まで切り込んだものはありません。
また、半分以上は、足拭きの布ではなく箒になっていて、テーラガーター以外の出典のようです。

三つの智慧の話に戻せば、これらの記事は、チューラパンタカが②の智慧によって悟りを開いたことになっているように読めます。

では、お釈迦様の”道“とは何でしょう。

ダンマパダの詩句です。

Dhp289 心ある人はこの道理を知って、戒律をまもり、すみやかにニルヴァーナに至る道を清くせよ。
Dhp274 これこそ道である。(真理を)見るはたらきを清めるためには、この他に道は無い。汝らはこの道を実践せよ。(中村先生訳「真理のことば(ダンマパダ) 感興のことば」岩波文庫)

道理とは何でしょう。

この道理という言葉をお釈迦様は、死の直前に、最後の弟子となるスバッダに次のように述べました。

スバッダよ。わたしは二十九歳で、何かしら善を求めて出家した。
スバッタよ。わたしは出家してから五十年余となった。
正理と法の領域のみを歩んできた。
これ以外には(道の人)なるものも存在しない。
 (ディーガ・ニカーヤ第16経 「マハーパリニッバーナ・スッタ(大パリニッバーナ経)」中村先生訳・岩波文庫より)

正理は正しい道理ということのようですので、正理=道理とします。

死の直前にご自分の一生を振り返って、「わたしは、正理(道理)と法の領域のみを歩んできた」と自信に満ちた言葉を述べています。

お釈迦様の弟子たちや後代の阿羅漢たちは、お釈迦様が見出されたこの道理を学び、その道理の指し示す道を通って解脱・ニッバーナの悟りを得たのでしょう。

お釈迦様最後の直弟子となったスバッダも(お釈迦様の滅後)、

教団に受け入れられてまもなく、尊者スバッダは、ひとりで、群集から離れて暮らし、怠ることなく、熱心に、精神修養に勤め励んでいた。まもなく、それを得るために立派な人々が家から出て家無き状態に正しく出家するところの、その無上の清浄行という究極の目標を、現世においてみずから、さとり、証し、具現していた。そうして『生存は尽きた。清浄行はすでに確立した。為すべきことは、すでに為し終わった。もはやこのような状態にもどることは無い』とさとった。尊者スバッダは、尊敬さるべき真人の一人となった。(中村元訳「ブッダ最後の旅 大パリニッバーナ経」岩波文庫)

と記述されているように、この道理によって阿羅漢の一人となったそうです。

道理とは、正しい理コトワリということでしょうね。
正しい筋道とも説明されています。

この他に道はない、とダンマパダにあるように、唯一つのニッバーナに到る道ということなんでしょう。

ティエン師に師事し、現在もタイで修行生活をされているオーストラリア人のVen. Phra Charles Nirodho師が次のようなことを言っているようです。
 *url: http://luangporteean.com/docs/VCN.DOC

The Buddhist teaching and practice is fundamentally and radically different from the values and understanding that we find in the world or in the society within which we find ourselves...
仏教の教えと実践修行というものは、世間や自分が所属する社会の価値観や考え方とは根本的に完全に異なったものなのです。

To accost the currents of Dukkha is a lifelong undertaking. It is not something that can be done as a minor interest. To deal with the problem of Dukkha, which is what the Buddha's teaching is for, means to confront fundamental issues of personal existence as a human being.
苦の流れに接近して行くということは一生の仕事なのです。ホンのちょっと興味があるからといって取り組んでやり遂げられるようなものではないのです。苦という課題への取り組み--ブッダの教えはそのためにあるのですが--それは人として自己の存在をかけた一大事に直面するということなのです。

つまり、片手間に学んで①の智慧を身につけ、時々考えて②の智慧を得て、社会生活に生かしつつ人生を豊かにする、というようなものとは全く異なる次元の取り組みがお釈迦様の道なのだとNirodho(ニロドー)師が言っているように読みました。

私はこれがお釈迦様の教えに忠実な生き方だと思います。

チューラパンタカの故事は、このような生き方を決意しなければ、”お釈迦様の道を生きる”ということに関してはほとんど役に立たないものだと思います。

そこで問題になるのが、文明が高度に発達し、人間や宇宙に関する合理的な知見も広く認められている現代社会で、実際にこのようなお釈迦様の道は現実的なのかどうかということです。

今現在の私の理解では、お釈迦様の道は、現代社会の諸問題と全く噛み合っていません。

もともとそういう教えなのだとは思いますが、このままでは単なる古典になってしまいます。

これまでに述べたような、本当のお釈迦様の道とはかなり違いますが、ペットやブランド品と同じ程度に心の慰めになる、妥協した仏教の方が現実的なのかもしれません。

お釈迦様の本当の道の探索と同時に、現代社会で本当のお釈迦様の道はどうあるべきなのかも考えてゆきます。

よろしくお願いします。


and then he returned home. There he taught his wife to practice the dynamic meditation he had just discovered during the retreat. Respecting him very highly, she followed the practice strictly, and after two years she came to know the Dhamma.
そしてそれから彼(ルアンポル・ティエン師)は自宅に戻った。そこで彼はリトリート(瞑想修行の会)での修行中に編み出したダイナミック・メディテーションの修行法を妻に教えた。妻は彼を心から尊敬していたので、その瞑想法の修行に一生懸命取り組んだ。そして、二年後彼女はダンマを知ることになった。
It was late morning while she was picking vegetables in the garden when she exclaimed, "What has happened to me?"
それは昼近くの頃彼女が庭で野菜を摘んでいる最中に起こった。突然彼女が「私どうなっちゃったの!」叫んだのだ。
"What?" Por Teean asked her.
「どうした?」と、ルアンポル・ティエン師が声をかけた。
"My body has lost all its 'taste'! It shrank like beef being salted!"身体がすごく変な感じなの! まるで塩漬けの牛肉みたいに縮んじゃったみたい!」
Por Teean told her not to do anything with it, but to let it be;
「落ち着いて。慌てなくても大丈夫だから、そのままにさせておきなさい。」とルアンポル・ティエン師が命じた。
afterwards she told him that she no longer experienced suffering.
後ほど、彼女はルアンポル・ティエン師に「それ以来二度と苦が生じなくなった」と話した。
(「THE DYNAMIC PRACTICES OF LUANGPOR TEEAN, A THAI MEDITATION MASTER」by Tavivat Puntarigvivat
 http://www.baus.org/sati/luangpor_teean_-t.htm  )

ルアンポル・ティエン師の瞑想法を紹介し続けているタイのPuntarigvivat教授のテキストの一部です。
この部分は、ルアンポル・ティエン師が在家の身分で瞑想の修行に参加し、ついに苦を生じさせないテクニックを開発会得し悟りを開いた後、自宅に戻って家族親族近隣の人たちにその瞑想法(ダイナミック・メディテーション)を指導し始めた頃のことを記述しています。

この頃、ルアンポル・ティエン師も妻も在家のままでした。
当然妻はごく普通の在家としての日常生活をしていたはずです。
修行に専念し、修行に明け暮れるという尼僧の生活ではなかったと思います。

妻はルアンポル・ティエン師が指導してくれた瞑想法を忠実に実践していたようです。

ルアンポル・ティエン師は「A Manual of Self-Awareness」の中で次のように指示しています。

○Practice the rhythmic movements continuously like a chain as the Buddha taught.
ブッダが教えたとおりに、鎖のように途切れることなく、リズミカルな動き(をやりながら行う)訓練修行をしなさい。
○Be aware of it at every moment; standing, walking, sitting, lying, bending or stretching.
そのリズミカルな動きに、いつも気づきを働かせていなさい。立つ、歩く、坐る、横になる、曲げる、伸ばすというような動きをする時です。
○When thought arises, be aware.
考え事が始まって何か考えが浮かんできたら、気づきを働かせなさい。
○Be aware of the movements all the time.
四六時中、(自分の身体や心に起こる)動きに気づきを働かせなさい。
○This is the shortest Path; when thought arises, be aware of it immediately. This is the authentic Dhamma Practice. Doing the rhythmic movement is only the technique
(which can help to see thought).
これ(これまでに述べたようなやり方)が(ニッバーナ達成への)最短路なのです(最も早くニッバーナを達成できる道なのです)。思考が生じてきたら、直ちにその思考に気づきを働かせなさい(気づきなさい)。これが確実なダンマの修行法なのです。リズミカルな動作(運動)をすることが唯一の技法(テクニック)なのです。(その技法=テクニックを習得することによって思考を見ることが出来るようになるのです。)

これがルアンポル・ティエン師の瞑想法の基本のようです。
身体の動作(運動・動き)の感覚を感じ取る、それが気づきを働かせることなのだそうです。

この気づきの働きを高めれば自動的にニッバーナを成就し、③の悟りの智慧が自ずから生じてくるのだそうです。

妻は、この基本を忠実に実行していたのでしょう。
その結果、二年後、彼女は突然悟りを開いたのです。

私はこの記述を信用したいと思っています。

お気づきのように、チューラパンタカがやっていたのは、まさにこのダイナミック・メディテーションと原理(テクニック)は同じだったと言って良いと思います。

ルアンポル・ティエン師の言葉です。

○This method is easy. It is not necessary to study the Scriptures because the Truth exists in man. Everyone can be aware of the movements of his own body and mind.
この瞑想法は易しいものです。この瞑想法を訓練するに当たって、経典やその注釈、解説書などを学ぶ必要はありません。なぜなら、(この瞑想法の訓練で獲得できる)真理(本当のこと)は(もともと)人の中にあるのだからです。(この瞑想法で訓練する)自分の身体と心の動き(運動・動作)に気づきを働かせる(気づく)ということは誰でも出来ることなのです。

経典を学ぶ時間を瞑想修行に当てたほうが良いというのがルアンポル・ティエン師の体験なのでしょう。

次のは、何回も引用したチューラパンタカの詩句です。

Therag560 慈しみの念をもって師は私に足拭きの布を与えられた。――「この浄らかな物をひたすらに専念して、気をつけていなさい」といって。(中村先生訳)
560 教師(ブッダ)は、慈しみ〔の思い〕によって、わたしに、足を拭く〔布〕を与えてくれた。
〔世尊は言った〕「一方に〔坐し〕、この清浄なる〔布〕を、〔気づきが〕善く確立されたものとして、〔意によって〕確立せよ」〔と〕。(正田師訳)

足拭きの布にひたすら専念して、気をつけていなさい。
足を拭く布によって気づきが確立するように。

お釈迦様は、手の動きや歩く足の感覚の代わりに、足拭きの布で雑巾がけをするという動作(動き・運動)の感覚に気づきを働かせる訓練をさせたようです。

身体と心は深いつながりがあります。

身体への気づきが鋭くなると、自然に、心の動きへの気づきも鋭くなる、ということをお釈迦様とルアンポル・ティエン師は気づいたようです。

きょろきょろしている猿のような、あるいは、御しにくい暴れ馬のような心を制御しコントロールする技法(テクニック)を体得したのでしょう。

これがチューラパンタカが熱心に行ったことであって、多分、お釈迦様の侍者の務めやお釈迦様の説法を暗記するのに忙しかったアーナンダに足りなかったことなのかなと思うのです。


頭のよいアーナンダが25年かけても悟れなかったのに、どうして頭の悪いチューラパンタカが短期間で悟れたのか?

伝承によれば、アーナンダは、お釈迦様滅後まもなく行われたお釈迦様の教えを保存するための重要な集会(第一結集)直前まで悟りを達成できず阿羅漢となることが出来なかったため、この重要な集会に参加する資格がなかったので夜も寝られなかったそうです。

なにしろアーナンダは抜群の記憶力でお釈迦様の説法を残さず記憶していたのですから、アーナンダ抜きにしては集会が成立しません。

しかし、集会の参加資格は阿羅漢(悟りを開いた人)です。

寝付かれぬまま必死にもがいていたアーナンダがふとした瞬間に一瞬にして悟りを開き、自分が阿羅漢になったことを自覚したようです。

この二人の違いは何か?
二人の逸話の真偽は一切問わずに、事実だったとして推理をします。

アーナンダは教え(経典)の修習に長けていました。
もちろん、お釈迦様が瞑想をされている時や弟子たちを指導している時には、アーナンダも瞑想修行をしていたはずです。
真面目なアーナンダですから、鬼の居ぬ間の洗濯なんてことはないし、お釈迦様の汚れ物を洗濯していて瞑想修行ができなかったということもありえません。

恐らくアーナンダは阿羅漢の悟りの一歩手前まで到達していたのでしょう。
しかし、頭が良すぎて馬鹿正直だったアーナンダは、最後の溝をエイッと跳び越す度量がなかったのかもしれません。
そして何より、溜めに溜め込んだ膨大な知識(記憶した8万4千の教え)が邪魔をしていたのかもしれません。

一方のチューラパンタカですが、彼も、お釈迦様の説法をずいぶん聞いたはずです。
その間、チューラパンタカが全くお釈迦様の説法を理解できなかったとも考えにくい。
もしそれほどの理解力の無い人だったら、そもそも出家しようという高尚な理想を抱くことが無いと思えます。
兄が一緒に出家したようですので、ただ何となく付いて来たのかもしれませんが、サンガでの修行生活の意味を理解できなかったら、辛くて退屈で一週間も居られなかったでしょう。
食事は一日一食で、まともな寝床もない、一日何時間も足を組んでじっと瞑想しなければならないのですから。
チューラパンタカは、ただ、覚えやすいように詩の形にしたお釈迦様の教えを記憶するのが大変苦手だっただけではなかったでしょうか。

チューラパンタカには、ニッバーナに対する真摯な思いが、アーナンダに負けないくらいあったと考えて良さそうです。

アーナンダは、ニッバーナ(阿羅漢の智慧)を①②の知識として知りすぎるほど知っていたのでしょう。
チューラパンタカは、ニッバーナの素晴らしさを漠然と理解し、強烈な憧れを抱いていたのだと思います。

こう見てくると、お釈迦様の教えを本当に理解するということは、もしかしたら、膨大な経典を暗記することでも、①②の知識として理解することでもないのかもしれません。

ポッティラ長老の逸話に関連するダンマパダを見てみましょう。

ポッティラ長老の逸話と関連するダンマパダ(法句経)第282の詩句は、次のように言っています。

Dhp282 実に心が統一されたならば、豊かな知慧が生じる。心が統一されないならば、豊かな知慧がほろびる。生じることとほろびることとのこの二種の道を知って、豊かな知慧が生ずるように自己をととのえよ。(中村先生訳)
282 まさに、道理あるがゆえに、英知は生まれる。道理なきがゆえに、英知の消滅がある。この、生起(有)と消滅(非有)の二種の道を〔あるがままに〕知って、英知が増え行くままに、そのように、自己を確たるものとするように。(正田師訳)

中村先生と正田師の日本語訳はまったく異なるようにも見えますが、どちらも(③)の智慧が生じるためには、きちんとした手順があると言っているのではないでしょうか。

そもそも、この第282偈は、ダンマパダの第20章 道 の中にあります。

道の章の第二番目の詩句(偈)はこう言っています。

Dhp274 これこそ道である。(真理を)見るはたらきを清めるためには、この他に道は無い。汝らはこの道を実践せよ。これこそ悪魔を迷わして(打ちひしぐ)ものである。(中村先生訳)
274  これこそは、道である。ものの見方を清浄にするための、他〔の道〕は存在しない。まさに、この〔道〕を、あなたたちは実践せよ。悪魔〔の結縛〕を解き放つ、この〔道〕を。(正田師訳)

そして、道の章の一番最後の詩句(偈)はこのように言っています。

Dhp289   心ある人はこの道理を知って、戒律をまもり、すみやかにニルヴァーナに至る道を清くせよ。(中村先生訳)
289  戒において〔自己が〕統御された賢者は、この、義(道理)の支配あるところを知って、涅槃に至る道を、ごくすみやかに清めるであろう。(正田師訳)

この章は、お釈迦様の教えを”実践しなければならない”ことと、その実践の果報がニルヴァーナ(ニッバーナ=涅槃=悪魔の結縛を解き放つこと)であることとを説いているようです。

三つの智慧のお話を述べた「ミャンマーの瞑想 ウィパッサナー観法」の訳者、ウ・ウィジャナンダー大僧正も、ルアンポル・ティエン・チッタスポ師も、③の智慧はノーベル賞を受賞するような大天才でも私でもやっている生まれつきの考える(知的といわれる)行為によっては生じて来ないと言っております。

今や私たちは、人間の一切の智慧が脳と関わりがあることを知っています。

それでも、この(①②の智慧と③の智慧の)区別は合理的なように思えます。

人間の脳には、まだ科学が解明できていない能力が秘められていて、実際に今でも③の智慧を生じさせることが可能なのかもしれません。

科学的には証明できていませんが、お釈迦様から始まって、これまでに沢山の阿羅漢たちが体験的に証明してきたと言えないこともないと思います。

チューラパンタカは、実は原理的には(道理としては)お釈迦様の体験を追体験したのだ言えそうです。

テーラガーターの詩句です。

Therag560 慈しみの念をもって師は私に足拭きの布を与えられた。――「この浄らかな物をひたすらに専念して、気をつけていなさい」といって。
Therag561 わたしは師のことばを聞いて、教えを楽しみながら、最上の道理に到達するために、精神統一を実践した。(中村先生訳)
560 教師(ブッダ)は、慈しみ〔の思い〕によって、わたしに、足を拭く〔布〕を与えてくれた。
〔世尊は言った〕「一方に〔坐し〕、この清浄なる〔布〕を、〔気づきが〕善く確立されたものとして、〔意によって〕確立せよ」〔と〕。
561 彼の言葉を聞いて、わたしは、〔覚者の〕教えに喜びある者として住し、最上の義(目的)を得るため、〔心の〕統一(定:三昧の境地)を実践した。
(正田師訳)

この詩句から、お釈迦様の修行法(実践法)の一つのポイントが”気づき(サティ=sati)”の確立にあると読んでいいような気がします。
560,561の詩句によれば、気づきを確立することが、心の統一につながると言っていると読むのです。

チューラパンタカは、薄ぼんやりと理解したニッバーナへの道の記憶を頼りに、休むことなく真摯に雑巾がけ(の動作)に気づきを持ち続けたのでしょう。

あるいは、そういう知識がなくとも、チューラパンタカのような一途な綺麗な心の持ち主ならば、雑巾がけを教えられたように続ければ③の智慧がおのずと生じてくるようになっているのでしょう。

お二人の先生の翻訳の細かな事柄は議論せず、ポイントだけに絞って考えます。

チューラパンタカが行った雑巾がけに心を集中し、自分の動作への気づきを高める行為は、実はお釈迦様が指導していた瞑想法の真髄だったので、チューラパンタカは最終的に身体と心の本当のあり方、真理、ダンマを体得したのだと読みたいと思います。

お釈迦様の言いつけ通りにするならば、雑巾がけが立派な修行(実践)なのだということです。
ポイントをはずせば、ただの雑巾がけに終わってしまい、何年やっても果報は生じないのでしょう。


Appendix 付録(付表)

Objects of Insight *
 *原注:The spiritual objects which one will realize when selfawareness is full and complete.
自己への気づきの働きが十分かつ完璧である時、人が本当に知ることになる精神的な対象(心の目で見る・知ることが出来るもの)
* avaro註:ティエン師の瞑想法を訓練して行くと大きく二つのステージ(ステップ)を体験するようです。Basic stage と Seeing Thought-Mind Stage です。そこで体験し体得することがらの呼び名については日本語に直すことが出来ませんので、皆さんで研究してください。
 
●Basic stage: Roop-Naham (body-mind) Objects:

-Roop, Nahm; Roop acting, Nahm acting; Roop disease, Nahm disease
-Dukkham-Aniccam-Anatta (unbearable-unstable-uncontrollable)
-Sammati (supposition)
-Sasana (religion), Buddhasasana (Buddhism)
-Papa (sin), Punna (merit)

●Seeing Thought-Mind Stage: Paramattha (mind-touchable)Objects:

-Vatthu (matter), Paramattha (actual existance), Akara(changingness)
-Dosa-Moha-Lobha (anger-delusion-greed)
-Vedana-Sanna-Sankhara-Vinnana (feeling-perception-mental
formation-knowledge)
-Kilesa-Tanha-Upadana-Kamma (defilement/stickness-craving/
heaviness-attachment-action)
-Silakhandha-Samadhikhamdha-Pannakhanddha
-Kamasava-Bhavasava-Avijjasava
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-Bad bodily action, how it causes suffering, if there is hell, Which level we would fall. How many days, months, years would it be?
-Bad verbal action
-Bad mental action
-Bad bodily, verbal and mental action altogether
-Good bodily action, how is is blissful, if there is heaven or Nirvana, which level we would it be? How many days, months, years would it be?
-Good verbal action
- Good mental action
- Good bodily, verbal and mental action altogether
-Birth-Extinction State (the End of Suffering)

以上で、テキスト「A Manual of Self-Awareness」の読みを終了します。ぜひ実践してみましょう。
あらためて、今は亡きルアンポル・ティエン・チッタスポ師ならびにこのテキストをWebで配布してくださった皆様に厚く御礼申し上げます。有り難うございました。

① You should not practice according to your own content, opinion or thought. In order to make your practice progress, you should be obedient to the instruction of the "craftsman・(the Teacher)”.
今現在のあなたの状態や判断や考え方に合わせて瞑想の訓練をしてはいけません。瞑想訓練を成果のあるものにしようと思うならば、瞑想訓練を熟知した指導者の支持に忠実に従って行うべきです。
② You should avoid talking to each other and refrain from taking all kinds of addictive things such as cigarettes, tea, coffee, etc. otherwise your mind will be attached to them.
瞑想訓練に参加しているもの同士の会話は控えなさい、また、たばこ・紅茶・コーヒーなどのような常習癖がつきやすいものの摂取は控えなさい。さもなければ(思い切って絶たなければ)、あなたの心はそれらへの執着(愛着)を持ち続けるでしょう。
③ You should practice with determination. Do not deceive yourself.
断固とした決意を持って瞑想の訓練をしなければいけません。(訓練をサボるために)あれこれ言い訳をしてはいけません。
④ Do not sit still. Keep doing rhythmic movements continuously.
動かずにじっと坐って訓練してはいけません。リズミカルな運動(動き・動作)を切れ目なく継続しなさい。
⑤ Do not concentrate.
精神集中してはなりません。
⑥ Practice with ease.
緊張せずに気持ちを楽にして瞑想訓練をしなさい。
⑦ Open your eyes.
目は開けていなさい。
⑧ Let thoughts arise freely, do not suppress them.
思考は自由に生ずるがままにさせなさい。生じた思考を無理矢理抑え込んではいけません。
⑨ For this method, you will see, know and understand this way (see Appendix). If you see other than以外の this, it is not correct.
この瞑想法を訓練すれば、あなたは以下のように(Appendixに記述したようなことがらを)見て、知って、理解するようになるでしょう。これ以外(Appendixに記述した)のモノを見る(知る)としたら、間違ったモノを見ている(知った)ことになります。
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[ 7 ]

Being aware of the movements of the body and the mind can lead us to this point (the End of Suffering). This is the Path to walk by one's self. It is the one and only Path.
This Path is different from others.
身体と心の動き(運動・動作)に気づきが働くようになっていれば、私たちはこの地点(苦の止滅)に到達できるのです。これは自分自身の努力(自力)で歩む道です。それは唯一の道です。
この道は他(の道)とは違うものです。

You will realize Roop-Nahm Objects within 5-10 days, if you practice earnestly. One who practices seriously, within 1-3 months, his state of mind will change. It is the beginning of the Path. If you are a conscientious man, no longer than 3 years, you will attain the End of Suffering. For one who is not serious enough, it is useless even after 10 years. I have challenged many people to practice. More or less, some must have realized.
あなたが熱心に瞑想の訓練(修行)をすれば、5~10日でループ・ナーム・オブジェクトを体験的に知るでしょう。ものすごく真剣に瞑想の訓練をするならば、1~3ヶ月以内に、その人の心の有り方(状態)に変化が起こるでしょう。それが"道"の始まりです。自己を偽ることのない真面目な人(言い訳をせず努力する人)ならば、3年以内に苦の止滅を達成するでしょう。しかし、真剣に努力しない人には、10年経っても目立った成果は期待できないのです。
これまでに私は沢山の人々に瞑想の訓練をするよう強く勧めてきました。程度の差はあるが、その中の幾人かは目的を達成したはずです。


[ 6 ]
"Cutting the hair only once"・means the body returns to its original state and the mind returns to its original state by the Law of Nature. "This" is neither long nor short. It is insipid, wonderful and respectable. You have never attained it before.
髪の毛はたった一度切っただけなのだという故事が意味しているのは、その人に元々備わっていた原理に従って、身体が再びその元々の状態に戻って、心もその元々の状態に戻ったということなのです。これは長すぎもせず短すぎもしません。それは面白みがなく、不思議で、立派なものです。あなたはこれまでにそれを達成してはいません。
 *avaro註:どうしてもinsipidの意味がしっくりきません。

Dhamma is not what you can imagine, you have to practice until attaining the state of "Being"・
ダンマはあなたが想像力を働かせてイメージできるようなものではありません。ですから、生存の状態を達成するまで瞑想の訓練をしなければなりません。
  • avaro註:the state of "Being" は、後に続く文にある、the state of dying と対をなす用語だと思われます。また、やはり、この後の文にある”This”や the Ultimate Truth、Birth-Extinction state とほぼ同じ内容ではないかと思います。真実を知るということだろうと思います。Appendix で、Objects of Insight(瞑想の対象=体験するべきもの)の最後にあるのがBirth-Extinction State (the End of Suffering)つまり悟りです。生存の真実とは、生もなく死も無いということを知ることではないかと思います。ただし、自信はありません。

Everyone should keep in mind that if we do not attain this state, when we are nearly die, about 1-2 seconds to 5 minutes before the last breath, we will experience "This"・ then our breathing stops. "This" is the Truth, the Ultimate Truth.
もしも私たちがこの状態を達成しないままに、まもなく死ぬという時、そう、最後の呼吸の1-2秒から5分前ごろ、”これ”を体験し、その直後に私たちの呼吸は停止するのだということをすべての人が肝に銘じておくべきです。”これ”が真理、究極の真理なのです。

Everyone must die and will experience "This"・ If we do not realize "This"・ we will live in the mundane world.
すべての人は死ぬものなのです。そして、”これ”を体験するものなのです。もしも私たちが”これ”を体得していなければ、私たちは世俗世界(世間=苦の世界)で生きるほかないでしょう。
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If we realize "This"・ it is the way out. When we see "This"(Birth-Extinction state), we will realize the state of dying. It must be like this. We will know how to die. Everyone must come to this point. No one can escape because everyone must die. This Truth is unchangeable whether one realizes it or not. It is so.
もしも私たちが”これ”を体得したならば、それが出口なのです。私たちが”これ“(生まれと止滅・絶滅の状態)を見るならば、私たちは死の状態を本当に知ることになるでしょう。それはこれと同じはずです。私たちは死に方を知るでしょう。すべての人はこの段階まで達するべきなのです。誰一人逃れられないのです。なぜなら、すべての人は必ず死ぬからです。この真理は人がそれを本当に知ろうと、知るまいと、変えようがないことなのです。その通りなのです。
 * ”This" とは、いわゆる解脱・涅槃(ニッバーナ)のことだろうと思います。死の状態とか死に方を知るということは、死の苦しみや恐怖を知ることではなく、生も死も私たちがこれまで思っていたようなものではないのだということを知的に理解する(知る)のではなく、体験的な智慧で知って、生への執著や死への恐怖と縁を切ることなのでしょう。


[ 5 ]
The rhythmic bodily movements and the cultivating of self-awareness cause Panna. This Panna does not arise from intellect. It arises from the Law of Nature. We call it Nana Panna of Vipassana (Wisdom of Insight).
(この瞑想法の)リズミカルな身体動作(運動・動き)と自己への気づきを高める訓練を続けるとついにパンニャを生じさせる。このパンニャは知的な働きによって生じたものではありません*。それは(その人に)元々備わっていた原理に基づいて生じてきたものなのです。それをヴィパッサナのニャーニャ・パンニャ(洞察する智慧)と呼んでいます。

What is the meaning of Panna arising?
It means Panna arises from the realization of a set of Insight Formulas. It is not necessary to learn these formulas from the Scriptures.
パンニャが生じたということは何を意味するのだろうか?
それは、洞察がパンニャを生じさせるための一定の公式をちゃんとやった結果なのだということです(ティエン師の瞑想法に従って訓練すればこの公式が自ずから働くということ)。この公式を(わざわざ)経典などから学び取る必要はありません。
This set of Insight Formulas means success which is within the formulas themselves, as diamond buried in the mud, after being sifted, only the diamond remains.
洞察の公式のこの一連の流れというのは、丁度初め土に埋まっていたダイヤモンドが、(土の中から掘り出されて)篩フルイにかけられた後(やっと)ダイヤモンドだけが残るように、公式自身の中に(パンニャが生じるという)成功が元々あるということを意味しています。
 *avaro註:ティエン師の瞑想法を信じて続けていれば自ずからパンニャが生じてくるということを言っているようです。人は誰でもそういう能力を秘めているということのようです。実は、こういう考え方は経典をよく読んでいると見えてくることなんです。自性清浄心とか仏性とかいう語に通じるもののような気がします。
45
We should practice until these formulas appear naturally and exists permanently. Everybody has this set of formulas within himself.
私たちはこれらの公式が自ずから現れ、いつまでも(自分の中に)あり続けるようになるまで(リズミカルな運動と気づきの働きを高める訓練)瞑想の訓練をしなければなりません。
すべての人が自分自身の中にこの(パンニャを生じさせる)一連の公式を持っているのです。
After attaining the End of Suffering, Nana will arise, Birth is extinguished, Existence is extinguished, the religious life is complete and there is nothing left to do・ The studying of Buddhism ends here.
苦の止滅(苦の根源を絶ったこと)を達成すると、ニャーニャ(ナーナ)が生じて、生まれることがなくなり、生存もなくなり、宗教生活は完成し、もはや為すべきことはなくなります。仏教の学習はそこで完了となるのです。
 *avaro註:Birth is extinguished, Existence is extinguished, は、上のように読んでいいと思うのですが、これでは言葉を置き換えただけです。この段落から、次の[6]にかけて、Birth, Existence, Death, Birth-Extinction stateという語が登場します。ティエン師が獲得した智慧の奥義を語っているようです。本当に理解するためには、瞑想を完成し、Nanaを獲得する他ないでしょう。

[ 4 ]

There are two kinds of calmness.
The first is the calmness under unawareness, a dull calmness like a brick or stone. It is called calmness without Panna or calmness under delusion.
平静さ(calmness)は二種類あります。
一つ目が、気づきが働いていない平静さであり、それはレンガや石のように愚鈍な平静さです(確かにレンガや石はどっしり静かですが、キレがあるとは思えない。馬鹿と鋏は使いようというが、そこらに転がっている石やレンガはただ静かにしているだけものです。石が悟りを開くことはあり得ない)。この平静さは、パンニャ(智慧)を欠く平静さ、あるいは、妄想に支配されたままの平静さと呼ぶべきものです。
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The second is calmness with awareness. It may not be called calmness, but should be called Enlightenment.
This kind of calmness is calmness without anger-greed-delusion,
calmness without ignorance, calmness without unawareness. Whatever you call it, it is only words.
Calmness with awareness means we do not want anything else. We no longer seek for teachers or methods or places. Calmness means cessation.
二つ目のは、気づきが働いている平静さです。それはもはや平静さと呼ぶよりも、悟り(Enlightenment)と呼んだほうが適当だといえます。
この種の平静さは、怒り・貪欲・妄想を伴わない(に支配されていない)平静さであり、無知に支配されていない平静さであり、気づきが常に働いている平静さなのです。もっともその平静さを何と名づけようとも、それはただ言葉にすぎません(気づきが働いている平静さを体得したということは、言葉の表現を超えたものだということでしょう)。
気づきが働いている平静さがあるということは、私たちはもはやこれ以上何も必要としないということを意味します。私たちはもはやこれ以上指導者や瞑想法のような技法や適切な場所を捜し求める必要がなくなったのです。(この)平静さがあるということは(苦の)止滅(消滅)を意味しているのです。


[ 3 ]
When we cultivate self-awareness, we should let every part of the body and the mind work naturally. Do not force them against their nature.
私たちが自己への気づきを働かせられるように訓練しようとするならば、自分の身体や心のあらゆる働きが無理なく自然に働くようにしなければいけません。決して身体や心に備わった性質を無視して無理な働きをさせてはならないのです。
This technique can be applied naturally, and does not do anything against the body's functions:
Eyes--to see
Ears--to hear
Nose--to smell
この瞑想の技法(瞑想法)は本来のものを損なわないように用いられるものです。また、この瞑想法は身体の本来の機能以外の何かを強制的にさせようとするものではありません。
 目には、見るという機能だけを求め、耳には聞くという機能だけを求め、鼻には臭いを嗅ぐという機能だけを求めます。

The bodily movements must be done in a natural manner according to their functions.
身体の動き(運動・動作)は、その本来の機能にしたがって適切に活動(=動き・運動・動作)させなければなりません(無理な姿勢のようなことを求めない)。
The mind generates thoughts freely.
Do not do anything against the natural functions (of the body and the mind), but cultivate the self-awareness to catch up with the movements (of the body and the mind).
心は自由に思考を生じさせます。
決して(身体や心の)本来の機能以外のことをさせようとするのではなく、身体や心の動き(動作・運動)に気づきが働くように訓練しなさい。
 *ヨーガの修行法やテーラヴァーダ仏教諸国で行われているティエン師の瞑想法以外の瞑想法のような、やや不自然な身体的、心的訓練のことを念頭に置いてこう言っているのでしょうか。


Epilogue エピローグ①②

[ 1 ]
If we have right understanding, Dhamma practice will not be difficult. The Truth that the Buddha taught exists in man. What he taught, everyone can do.
(瞑想訓練に当たって)私たちが(訓練法などに関する)正しい理解を持てるならば、ダンマの訓練(瞑想)は、難しくはなくなるだろう。ブッダが説いた真理(本当のこと)は、人の中にあるのです。ブッダが説いて教えてくれたことは、誰にでも行えることなのです。

[ 2 ]
This method is easy. It is not necessary to study the Scriptures because the Truth exists in man. Everyone can be aware of the movements of his own body and mind.
この瞑想法は易しいものです。この瞑想法を訓練するに当たって、経典やその注釈、解説書などを学ぶ必要はありません。なぜなら、(この瞑想法の訓練で獲得できる)真理(本当のこと)は(もともと)人の中にあるのだからです。(この瞑想法で訓練する)自分の身体と心の動き(運動・動作)に気づきを働かせる(気づく)ということは誰でも出来ることなのです。

Though we are not aware of ourselves, the bodies still move and thoughts arise, but we are not aware of them.
The mind will conjure up unreality if we are not aware of the movements of the body and the mind.
しかしながら、私たちが自分自身(the movements of his own body and mind)に気づきを働かせられないならば、身体が動き続けていても、思考が生じ続けていても、私たちはそれら(the movements of the body and the mindあるいは、the body and the mind=ループ・ナーム)に気づきが働かないのです(気づきが無い)。
 *ちょっと分かりにくいが、自分自身すなわち内なるものに目を向けず、経典・教師の教え・伝統的な訓練法などの外的なものに目を向けていてはこの瞑想法の要である”気づき”が生じない、と言っているようです。

This method is nothing other than being aware of the movements of the body and the mind. In other methods, there are many activities, for example, keeping precepts or practicing concentration.
This method is not related to anything else. Why not? Because the Truth exists within ourselves.
この瞑想法で行うことは身体と心の動き(動作・運動)に気づきを働かせる(気づきを持つ・気づく)ようになることだけなのです。他の瞑想法では、沢山やるべきことがあります。例えば、戒律を守るとか精神集中の訓練をするとか(ある瞑想法では、こんな風に幾つも――この例では二つ--やらなければならないことがあるよと言っているようです)。この瞑想法は、(気づきを養成する以外に、上の例のように幾つもの)他のことがらも習得しなければならないということはありません。どうして必要ないのでしょう。それは真理(本当のこと)は自分自身の中に存在するからなのです。


<< Summary Part Threeのまとめ >> * これは、Part Three 「Obstacles and Solutions(瞑想訓練の障害物と対処法)」② の後に続きます。
 http://blogs.yahoo.co.jp/avaroikite/58082795.html

If there is strain, dizziness, giddiness or suffocation, we should do the movements gently. Do not concentrate.
Do it with ease, look far away, then the uncomfortable feelings will loosen by themselves.
過度の緊張・めまい・くらみ・息苦しを感じたならば、動作(リズミックな運動・動き)をあまり力まず力を抜いてゆったりとやるようにすればいいのです。精神集中してはいけません。気を楽にして、遠くを見るようにして(リズミック動作を)やるようにしましょう。そうすれば、不快な感覚は自ずから消えてなくなるものです。
The solving method of Jintanana is the same.
ジンタニャーニャの解決法も上の方法と同じです。
Vipassanu and Jintanana must be solved by correcting the technique. Do not review the Objects of Insight.
ヴィパッサヌーとジンタニャーニャに直面した時には、(この瞑想法の)技法の原則に立ち戻ることで解決するようにしましょう(ヴィパッサヌーの項を参照)。
In the case of Vipallasa, we must review the Objects of Insight (Paramattha Objects). Practice with ease. When the Objects are clear, the strain will gradually decrease.
ヴィパラッサに陥った時は、洞察の対象(心の目でしか見えない対象)をよく調べなおさなくてはなりません。気持ちを楽にしてやりなさい。(洞察の=パラマッタの=心の目でしか見ることの出来ない)対象がはっきりと見えるようになったら、緊張や力みは自ずから減少していくでしょう。
Let thoughts arise, do not suppress them.
思考は生じてくるがままにさせなさい。けっして思考を抑え込もうとしてはなりません。
When you practice, you must take care of yourself.
Do not expect other people to take care of you.
(瞑想法の)訓練をする時は、自分のこと(身の安全など)は自分で十分に気を配っていなさい。決して他人に気を配って貰おうなんて思ってはいけません。
When anything that is not normal arises, you must stop practicing immediately. The abnormal state will gradually decrease by itself.
もしも普通でないような何かが生じたならば、直ぐに訓練を中止しなさい。(そういう)異常な状態は自ずから徐々に消えてゆくものですから(訓練を中止して、消えるのを待ちなさい)。


<< Recommendations part twoの留意点 >> * これは、Part Two⑤の後に続く文章です。http://blogs.yahoo.co.jp/avaroikite/58028322.html

There are two kinds of thought.
The thought that comes in a flash then goes away.
This kind of thought brings anger, greed or delusion.
The second kind is the thought that we deliberately think. This one does not bring anger, greed or delusion, because we intend to think with mindful-knowledge.
思考は2種類あります。
一つ目の思考とは、パッと生じてきて、それから、消えてしまうものです。この手の思考は、怒り・貪欲・妄想をもたらします。
二番目のものは、私たちがゆっくり慎重に考えるという種類の思考です。この手の思考は怒り・貪欲・妄想をもたらすことがありません。どうしてかというと、気づきで得た知見でもって考えようとするからです。
35
In this method, do not try to suppress thoughts. Let thoughts arise naturally. The more thoughts arise, the more we are aware. Some people feel annoyed with the distractions and worried that there is no Samadhi (Meditation).
This is a misunderstanding. Distraction is a good thing because the more thoughts arise, the more we are aware.
この瞑想法を訓練中には、決して思考を抑え付けようとしてはいけません。思考が自然に生ずるがままにさせなさい。思考が生ずれば生ずるほど、私たちの気づきは高まるのです(気づきの働きが)。精神が集中できず心があちこち彷徨う注意散漫な自分の状態にいらいらして、サマディに入れないと心配する人たちがいます。(だがこの瞑想法では)注意散漫を善いことだと考えます。なぜならば、(注意散漫な時には)思考がより生じやすくなり、それだけ私たちの気づきの働きが高まるからです。

Keep on cultivating self-awareness earnestly, but do not concentrate.
自己への気づきの働きを高める訓練を続けなさい、しかし、決して精神集中の訓練にならないようにしなさい(サマタの精神集中をしてはならない)。

When thoughts arise, do not suppress them but detach from by being aware of the bodily movements. Selfawareness will replace the "unawareness"・
思考が生じたときには、生じてきた思考を押さえつけてはいけません。そうではなくて、身体の動作(運動・動き)への気づきによって生じてきた思考から(自分を)引き離すのです(思考を無理矢理抑え付けて無くそうとするのでなく、自己への気づき=自己の身体の動作・運動への気づきを働かせて思考をやり過ごすことで、思考に引きずられないように、思考についていかないようにして、怒りなどに発展しないようにする)。(そうすれば)自己への気づきが強まり、気づきの無い状態と置き換わる(常に気づきが働くようになる)。

Observing thought is the most important thing, which most people ignore. When thought arises, we begin to criticize or make comment on it. This means that we "get into" thought. It is not "letting go"・of thought. It is "knowing" thought, not "seeing"・thought.
思考を注意深く見ることは一番大切なことです。大半の人はこのことに気づいていないのです(思考を見ることの大切さに関して無知)。思考が生じてきた時、大半の人は生じてきた思考のことを事細かに分析し始めたり、自分の意見を述べ始めたりする。このような行動の意味するところは、その大半の人は生じてきた思考に夢中になってしまい、思考の中にのめり込んでいるということなのです。そういう行動は、生じてきた思考をやり過ごして(思考に巻き込まれず、ついて行かず、思考が生じてやがて生滅していくのをただ見ていること)いません。その行動は、思考(に興味を持ってしまい、事細かに思考)を知ろうとしているのであり、見(るだけにしようとし)ているのではありません。
*observe---観察する(note with attention),気づく、看取する(notice,percieve)、監視する、観測する(天体など)

If we keep observing thoughts without any bodily movement, when thoughts arise, we will "get into"・them easily.
Therefore, it is necessary to be aware of the bodily movements. When thought arises, we will see, we will know.
もしも、私たちがいかなる身体運動・動作もせずに(身体動作への気づき=selfawareness無しに)思考を監視し(見)つづけるならば、思考が生じてきた時、私たちはたやすく生じてきた思考に夢中になり、のめり込んでしまいます(普段我々がやっていることで、その結果苦が生じている)。それゆえに、(思考を監視し観察し見続けるときには=observe)身体運動・動作への気づきが不可欠なのです。(そういう風にしていれば)思考が生じてきた時、私たちは見ることが出来るでしょうし、知ることも出来るでしょう。
*重要課題---最後のseeとknowの違い。ならびに、It is "knowing" thought, not "seeing"・thought.における、seeとknowとの関係。

Whenever we see ghosts, deities, Buddha images, crystal balls or even the Lord Buddha, that is not true seeing.
It happens because the mind wanders away. We do not see the thought so the mind concocts by itself. It concocts because we do not see "the source of thoughts"・
私たちが幽霊や神々、ブッダの像、水晶球はてはブッダそのものさえ見ることがありますが、そういうものを見る時がどんな時であっても、本当のモノを見ているのではありません。そういうことは(それを見る人の)心が迷いの中にあるから起こるのです(心が定まっておらず、何が真実かを見極められずさ迷い歩いている)。(そのような時)その人たちは思考を見ていません。そのために、心は自ら(虚構を)でっち上げてしまうのです(つまり、本当のモノでない、幽霊や果てはブッダさえも見てしまう)。心がでっち上げの誤りを犯してしまう理由は、私たち(本当のモノでないモノを見てしまうような)が、思考の根源・源流を見ていないからなのです。
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When thought arises without our seeing, it will conjure up ghosts, colors, lights, deities, hell or heaven.
私たちが思考を見ることが出来ないでいる時に思考が生じてくると、その思考が幽霊や様々な色、光、神々、地獄や天を心に思い描かせてしまうでしょう。
Whatever it is, we will see it as such. It is an illusion. It is
the mind's trick.
たとえそれがどんなものであっても、私たちは思考をそのように見るでしょう。それ(そのように見てしまうこと・もの)は幻です。それは心の迷い・幻覚なのです。
The seeing is true. What is seen is not true, so it cannot free the mind. Only if we see realities, the mind will be free from suffering.
見ることによって真実(本当のこと)が表れます。ただ見えているものは真実(本当のこと)ではありません、したがってただ見えているものは心を解放できません。私たちが本当のことを見るときにだけ、心は苦から解放されるのです。
This is the shortest Path; when thought arises, be aware of it immediately. This is the authentic Dhamma Practice. Doing the rhythmic movement is only the technique
(which can help to see thought).
これ(これまでに述べたようなやり方)が(ニッバーナ達成への)最短路なのです(最も早くニッバーナを達成できる道なのです)。思考が生じてきたら、直ちにその思考に気づきを働かせなさい(気づきなさい)。これが確実なダンマの修行法なのです。リズミカルな動作(運動)をすることが唯一の技法(テクニック)なのです。(その技法=テクニックを習得することによって思考を見ることが出来るようになるのです。)


断るまでも無いことですが、私はほとんど何も達成していません。
全く普通(あるいは、普通以下)のままのただの人です。

ミャンマーの瞑想指導者、マハシ・セヤドー著「ヴィパッサナー(観法)修行書(1942)」の日本語訳「ミャンマーの瞑想 ヴィパッサナー観法」(ウ・ウィジャナンダー大僧正訳 国際語学社)の”まえがき”(訳者ウ・ウィジャナンダー師の)に、3種類の”智慧”のお話しがあります。

①聞所成智慧Sutamayanana *この記事のパーリ語の表記は正確ではありません。
 これは、子供の時から人を通じて教えてもらった智慧。例えば、親・先生・友人・他の人々、あるいは、新聞・ラジオ・テレビなどである。
②思惟所成智慧Cintamayanana
 ①の聞所成智慧に基づいて、自分で考えたり、考察したり、考慮したりすることなど自己の努力によって得た智慧。
③修習所成智慧Bhavanamayanana
 修行を実践し、自ら体験したことによって得た智慧。

この智慧の分類は、恐らく、ブッダゴーサ著「清浄道論ヴィスッディマッガVISUDDHIMAGGA」の分類をもとにしたものでしょう。

私の智慧はほとんどが①で、最近やっと②を持てるようになったかなと勝手に決めています。
まだまだ原始仏教(初期仏教)研究家の先生方や瞑想指導者の先生方の本の受け売りから進歩できていないでしょう。
ホンの少しだけ自分で考えられるようになったかなぁという程度です。

お釈迦様や阿羅漢たちの智慧は③で、それは体験によって自分で獲得しなければならないもののようです。
なお、推測に過ぎませんが、③は智慧といっても言語によって表現可能な知識や思考力のことではないと思っています。

ウ・ウィジャナンダー師は、この3種類の智慧についてポッティラ長老というお釈迦様の弟子の話を紹介しています。下記URL参照。
 http://blogs.yahoo.co.jp/avaroikite/56352967.html

このお話しは、The Dhammapada: Verses and Stories by Daw Mya Tin, M.A.(http://www.tipitaka.net/tipitaka/dhp/verseload.php?verse=282)によれば、ダンマパダ第282偈とかかわりがありそうだ。

第282偈は、③の智慧が瞑想修行を実践しなければ生じないと諭しているようです。

お釈迦様の悟りとは、この智慧を獲得したことだと言っていいと思っています。

お釈迦様から”空っぽのポッティラ”というあだ名で呼ばれていた頃のポッティラ長老の智慧は①と②だったんでしょう。

この例え話から気づけることがあります。

お釈迦様は、①や②の智慧を説いたのではないということです。

つまり、パーリ経典(アーガマ。ディーガ・マッジマ・サンユッタ・アングッタラ・クッダカの五分類の経典)は、①②のような智慧を説いているのではないということです。

ルアンポル・ティエン師が「A Manual of Self-Awareness」の中で、こう言っています。

This method is easy. It is not necessary to study the Scriptures because the Truth exists in man. Everyone can be aware of the movements of his own body and mind.
この瞑想法は易しいものです。この瞑想法を訓練するに当たって、経典やその注釈、解説書などを学ぶ必要はありません。なぜなら、(この瞑想法の訓練で獲得できる)真理(本当のこと)は(もともと)人の中にあるのだからです。(この瞑想法で訓練する)自分の身体と心の動き(運動・動作)に気づきを働かせる(気づく)ということは誰でも出来ることなのです。
Though we are not aware of ourselves, the bodies still move and thoughts arise, but we are not aware of them.
The mind will conjure up unreality if we are not aware of the movements of the body and the mind.
しかしながら、私たちが自分自身(the movements of his own body and mind)に気づきを働かせられないならば、身体が動き続けていても、思考が生じ続けていても、私たちはそれら(the movements of the body and the mindあるいは、the body and the mind=ループ・ナーム)に気づきが働かないのです(気づきが無い)。
 *ちょっと分かりにくいが、自分自身すなわち内なるものに目を向けず、経典・教師の教え・伝統的な訓練法などの外的なものに目を向けていてはこの瞑想法の要である”気づき”が生じない、と言っているようです。

もちろん、ティエン師のこの言葉は、経典とか注釈書、解説書の学習をいくら積み重ねても、それは①②の智慧を獲得するだけで、お釈迦様が指導していた③の智慧の獲得の役には立たないということを強調するためのレトリックだと私は読んでいます。

①②の智慧も大切だが、それらをいくら身につけても、肝心の③の智慧を体得するための実践修行をしなければ、お釈迦様の仏教を身につけることは出来ないのだと言いたいのだと思います。

ポッティラ長老の例え話はこのことを言っているのでしょう。

ちょっと考えても分かることですが、お釈迦様の説法をまとめた経典(アーガマ)は、8万4千の法門といわれる膨大なものですが、これをお釈迦様が毎回毎回説いていたはずがありません。

時間的にも不可能です。
それにいくら記憶力がすぐれたインド人でも覚えきれないでしょう。

恐らく瞑想修行の目標や注意事項を説明し、直ぐに実践すなわち瞑想修行の指導をされたのだと思います。

ちなみに、お釈迦様の説法のほとんどを暗記していたアーナンダが、25年も毎日毎日お釈迦様の説法を聞いていたにもかかわらず、お釈迦様が亡くなった時までに悟りを開けないでいたと言い伝えられているようです。

ポッティラ長老と似たような例え話です。

一方、インド人にしては珍しい、記憶力の劣るチューラパンタカ長老の話があります(テーラガーターの第557-569 中村元先生訳「仏弟子の告白 テーラガーター」岩波文庫)。 *( )はavaroの要約。

557 (わずか一行ほどのお釈迦様の教えも暗記できないので(当時はノートを取らないで、すべて暗記したそうです)兄に罵倒されサンガを追い出された。)
558 (諦めきれずにサンガの小道の傍の小屋のあたりでしょんぼりしていた。)
559 そこへ尊き師が来られて、私の頭を撫でて、私の手を執って、僧園(サンガ)のなかに連れて行かれた。
560 慈しみの念をもって師は私に足拭きの布を与えられた。――「この浄らかな物をひたすらに専念して、気をつけていなさい」といって。
561 わたしは師のことばを聞いて、教えを楽しみながら、最上の道理に到達するために、精神統一を実践した。
562 私は過去世の状態を知った。見通す眼(天眼)は浄められた。三つの明知は体得された。ブッダの教えはなしとげられた。

この明知というのが、③の智慧で、頭の悪い(とみんなから馬鹿にされていた)チューラパンタカは、雑巾がけという修行で悟りを開いてしまったのです。

私は、これらの例え話や言い伝えをよく読み取れば、お釈迦様の仏教が本当はどんなものだったのかということが分かると思っています。


今週から仏教カテゴリーに参加したavarokiteiです。
よろしくお願いします。

プロフィールに書いたように、私はお釈迦様(=シャカ=ゴータマ・ブッダ=仏陀=釈尊)の悟りと成道後の生き方を究明しようとしている者です。

スッタニパータなどのパーリ経典(アーガマ)や原始仏教(初期仏教)を研究されている先生方の本を読んで勉強してきました。

しかし、いくら読んでもお釈迦様の悟りというものが見えてきませんでした。

次の引用は中村元先生訳「仏弟子の告白 テーラガーター」(岩波文庫)にある、アヌルッダが残したとされる言葉です(*Theragはテーラガーターの略号)。

Therag918 わたくしは、師(ブッダ)に仕え、ブッダの教え(の実行)をなしとげました。重い荷をおろし、迷いの生存にみちびくものを、根こそぎにしました。
Therag919 ヴァッジ族のヴェールヴァ村において、竹の叢林のうちで(一つの竹の)下で、生命が尽きたならば、汚れなく、安らぎに入るでしょう。 

918で、アヌルッダは「・・・。ブッダの教え(の実行)をなしとげました。重い荷をおろし、迷いの生存にみちびくものを、根こそぎにしました。」と言っています。

これが悟り・解脱・涅槃(ニッバーナ)と呼ばれるものだろうと思いますが、あまり具体的な説明ではありません。

お釈迦様が指導した修行法の中心は瞑想(サマタとかヴィパッサナ)だろうと思ったのですが、なかなか良いマニュアルが見つかりませんでした。
アヌルッダは一体どんな瞑想法を修行したのでしょう?

それに、テーラヴァーダ仏教諸国の瞑想マニュアルに書かれている修行法と仏典の記述とが一致していない感じがしました。

次のスッタニパータの一節をどう読まれますか(中村元訳「ブッダのことば スッタニパータ」岩波文庫)?

Sn1069  ウバシーヴァさんがたずねた、「シャカ族の方よ。わたしは、独りで他のものにたよることなくして大きな煩悩の激流をわたることはできません。わたしがたよってこの激流をわたり得る<よりどころ>をお説きください。あまねく見る方よ。」
Sn1070  師(ブッダ)は言われた、「ウバシーヴァよ。よく気をつけて、無所有をめざしつつ、<なにも存在しない>と思うことによって、煩悩の激流を渡れ。諸々の欲望を捨てて、諸々の疑惑を離れ、妄執の消滅を昼夜に観ぜよ。」
Sn1071  ウバシーヴァさんがいった、「あらゆる欲望に対する貪りを離れ、無所有にもとづいて、その他のものを捨て、最上の<想いからの解脱(有想ウソウ解脱)>において解脱した人、──かれは退きあともどりすることがなく、そこに安住するでありましょうか?」
Sn1072  師は答えた、「ウバシーヴァよ。あらゆる欲望に対する貪りを離れ、無所有にもとづいて、その他のものを捨て、最上の<想いからの解脱>において解脱した人、──かれは退きあともどりすることなく、そこに安住するであろう。」
Sn1073 「あまねく見る方よ。もしもかれがそこから退きあともどりしないで多年そこにとどまるならば、かれはそこで解脱して、清涼となるのでしょうか? またそのような人の識別作用(識)は(あとまで)存在するのでしょうか?」
Sn1074  師が答えた、「ウバシーヴァよ。たとえば強風に吹き飛ばされた火炎は滅びてしまって(火としては)数えられないように、そのように聖者は名称と身体から解脱して滅びてしまって、(生存するものとしては)数えられないのである。」
Sn1075 「滅びてしまったその人は存在しないのでしょうか? 或いはまた常住であって、そこなわれないのでしょうか? 聖者さま。どうかそれをわたくしに説明してください。あなたはこの理法をあるがままに知っておられるからです。」
Sn1076  師は答えた、「ウバシーヴァよ。滅びてしまった者には、それを測る基準が存在しない。かれを、ああだ、こうだと論ずるよすがが、かれには存在しない。あらゆることがらがすっかり絶やされたとき、あらゆる論議の道はすっかり絶えてしまったのである。」

質問者(ウパシーヴァ)とお釈迦様のやり取りはあまり噛み合っていないように思えます。

今読み返すと、お釈迦様がはっきりと悟り・解脱・涅槃について説明しているのが分かります。
ただし、ゴエンカ先生の文章を読むまでは、ウパシーヴァがなかなか納得できなかったように、私もほとんど理解できませんでした。

もっと詳しい記述があるディーガ・ニカーヤ(阿含経長部経典)、マッジマ・ニカーヤ(中部経典)の説明も記述は詳しいのですが、分かりにくさはあまり変わらないと感じました。

そんな状態の時に、偶然WebでS.N.ゴエンカ先生の文章を見つけました。

それを読んでいてパッと閃いたのです。
いろんな疑問が一度に分かったような気がしたのです。

そのことを文章にして公開したのが、下記URLの記事です。

「ヴィパッサナ瞑想とスッタニパータと大念処経がつながった!」
http://www.geocities.jp/avarokitei/blog/vipassana-suttanipata.html

瞑想に関する本を何冊か購入して勉強しました。

お釈迦様の瞑想法(修行法)を説明した経典も幾つか分かりました。

○心の専注の確立(大念処経)Maha-Satipatthana Suttanta(ディーガ・ニカーヤ第22)
○出入息観(治意経)Anapanasati Sutta(マッジマ・ニカーヤ第118)

そして、とうとうティエン師(Luangpor Teean Jittasubho (Pann Itapew)) に出会いました。
もちろん、Web上でです。

今現在もティエン師のテキストを読みつつ勉強中です。


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比丘  このサイトからお借りしました---http://www.no-fear.org/thai2/
     画像(上)のAjahn Mun Bhuridatta師については、下記URLを参照してください。
       http://blogs.yahoo.co.jp/avaroikite/57069159.html
     画像(上)のLuangpor Teean Jittasubho師については、下記URLを参照してください。
       http://www.mahasati.org/


                          *****

           阿羅漢にして 正等覚者たる かの世尊に 礼拝し奉る

                          *****

933 また、この法(教え)を了知して、比丘は、〔常に正しく〕弁別している者として、常に気づきある者として、〔怠ることなく〕学ぶように。寂滅〔の境地〕(涅槃)を、『〔真の〕寂静である』と知って、ゴータマ(ブッダ)の教えにおいて、〔気づきを〕怠らないように。
934 まさに、彼(ブッダ)は、〔煩悩を〕征服する者、〔煩悩に〕征服されざる者です。伝え聞きではない、自ら体現した法(真理)を、〔彼は〕見ました。それゆえに、まさに、世尊である彼の教えにおいて、〔気づきを〕怠ることなく、常に〔彼を〕礼拝しながら、〔彼に〕学ぶように」〔と〕。
    (正田大観師訳「スッタニパータ聖典(経集)」http://tipitaka.cocolog-nifty.com/blog/

                          *****



  スッタニパータ アッタカ・ヴァッガ 第十経 変壊の前に
   (正田大観師訳「スッタニパータ聖典(経集)」http://tipitaka.cocolog-nifty.com/blog/

848 〔対話者が尋ねた〕「どのように見ある者が、どのように戒ある者が、『寂静者』と呼ばれるのですか。ゴータマ〔姓〕の方(ブッダ)よ、それを、わたしに説いてください。〔問いを〕尋ねられた者として、最上の人のことを」〔と〕。

849 かくのごとく、世尊は〔答えた〕「〔身体の〕破壊(死)の前に、渇愛〔の思い〕を離れ、過去の極(過去の記憶)に依存せず、〔過去と未来の〕中間(現在)において名称されない者――彼には、〔特別なものとして〕偏重された〔表象や見解〕は存在しません。

850 忿激なく、畏怖なく、誇らず、悔やまず、智慮によって語り、〔心が〕高ぶらない者――まさに、彼は、言葉を制した牟尼(沈黙の聖者)です。

851 未来について執着なき者は、過去を憂いません。諸々の接触(触:感覚・経験)について遠離を見る者は、諸々の見解についても導かれません。

852 〔欲望の対象から〕退去し、虚言なく、羨望〔の思い〕なく、物惜しみ〔の思い〕なき者は、尊大ならず、〔他者に〕忌避されず、中傷〔の思い〕に陥る者でもありません。

853  諸々の快楽に溺れない者は、高慢〔の思い〕に陥る者でもありません。そして、〔所作進退が〕優雅で〔隙なく〕、即応即答〔の知慧〕ある者は、信仰なく、離貪しません(今に生きる者は、限定された特定の信仰を持たず、無執着の者には、離貪という行為自体が存在しない)。

854 利得(行乞の施物)を欲して学ばず、利得がないときも怒りません。そして、〔他者の道を〕遮らない者(他者にたいし敵意なき者)は、諸々の味について渇愛〔の思い〕で貪りません。

855 〔愛憎の思いを〕放捨した、常に気づきある者は、世において、〔自己と他者について〕『等しい』と思いません。『勝る』〔とも思い〕ません。『より劣る』〔とも思い〕ません。彼には、諸々の増長〔の思い〕は存在しません。

856 彼に、〔他者に〕依存することが存在しないなら、法(真理)を知って、依存なき者となります。彼に、〔迷いの〕生存への〔渇愛の思いが〕、あるいは、〔迷いの〕生存から離れることへの渇愛〔の思い〕が、見い出されないなら---

857 〔わたしは〕彼を、諸々の欲望〔の対象〕について期待なき者を、『寂静者』と説きます。彼に、諸々の拘束は見い出されません。彼は、執着〔の思い〕を超えたのです。

858 彼に、子供たち、家畜たち、田畑、そして、地所は見い出されません。あるいは、また、自己が、あるいは、自己ではないものが、彼においては、〔対象として〕認められないのです。

859 それをもって、〔世の〕凡夫たちが、しかして、沙門や婆羅門たちが、彼のことを〔種々に〕説くとして、そのことは、彼にとって偏重されることではありません(どうでもいいことである)。それゆえに、諸々の論にたいし〔いささかも〕動じないのです。

860 貪求〔の思い〕を離れ、物惜しみ〔の思い〕なく、牟尼は、増長している者たちのなかで〔論を〕説きません。等しい者たちのなかで〔論を説き〕ません。卑下している者たちのなかで〔論を説き〕ません。〔概念化した〕時間(時計の時間・分別妄想・輪廻的あり方)なき者は、〔概念化した〕時間に至らないのです(輪廻しない・妄想しない)。

861 世において、彼に、自らのもの〔という思い〕が存在しないなら、しかして、〔彼は〕所有するものがないので、〔もはや、何ものにも〕憂い悲しまず、さらには、諸々の法(見解)にたいし赴かず、まさに、彼は、『寂静者』と呼ばれます」〔と〕。


               ************************

          

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面白いテーマですし、スッタニパータを修身の教科書のように読んでおられる方もいらっしゃるようですので、この経典「マーガンディヤ」の先を読んでみたいと思います(英文とにらめっこを続けていると頭が痛くなって疲れてしまうので、息抜きです)。

前回は、マーガンディヤが古代インドの正統多数派だったバラモン教の教義やバラモン教の教師たちの主張、バラモン教徒の理想の生き方(四住期=①学生となってバラモン教を学ぶ②家督を継いで一族の繁栄を目指し、祖先の供養を継続する③家を離れ、一種の出家・隠棲の生活に入る。一切を捨て無欲の生活をしながら修行する④人生の総決算としての解脱を求め遍歴遊行に入る。)などを踏まえて、バラモン教徒の理想と全く異なる考えを示したブッダ(シャカ)に質問を畳み掛けました。

マーガンディヤの
(Sn836)「もしもあなたが、多くの王者がもとめた女、このような宝、が欲しくないならば、あなたはどのような見解を、どのような戒律・道徳・生活法を、またどのような生存状態に生まれかわることを説くのですか?」(中村先生訳)
という主張は、古代インドのバラモン教徒にとっては正統的な考え方だったわけです。

そして、現代日本人の考え方も実はマーガンディヤの考え方とそれほどかけ離れたものではないと思います。

とにもかくにも、受験競争を勝ち抜き良い会社に就職し出世しお金を稼ぎ理想の相手と結婚し家族を作り夢と妥協しながら良い家を建て、親孝行もし、家族を大切にし、お盆・お彼岸にたまにはお墓参りをし、歳を取ったら後生を願うという生き方をしているならば、どこがマーガンディヤと違いますか?

さて、前回のブッダとマーガンディヤのやり取りの続きを見ていきます。

Sn835から839にかけての返答の中でブッダは、マーガンディヤが信頼しているバラモン教徒の常識や理想を否定するような発言をしてマーガンディヤを怒らせました。

マーガンディヤは言いました。
(Sn840)「…と説くのであれば、それはばかばしい教えである、とわたくしは考えます。教義によって清らかになることができる、と或る人々は考えます。」(中村先生訳)
「…それによってもまた、〔清浄を言わ〕ないなら、わたしは〔それを〕、まさしく、迷愚の法(教え)と思うのです。或る者たちは、見解によって清浄を〔認知し〕信受します」と。(正田師訳)

どんな宗教の信者もマーガンディヤと同じことを言うでしょう。
教義を否定するということは、その宗教の信者を辞めることを意味するのですから。

しかし、ブッダ(シャカ)も、ここで妥協したら、今度はブッダの負けです。
その時点で仏教は消滅してしまいます。

Sn840のマーガンディヤの怒りの質問にブッダはこう答えます。

Sn841 師は答えた、「マーガンディヤよ。あなたは(自分の)教義にもとづいて尋タズね求めるものだから、執著したことがらについて迷妄に陥ったのです。あなたはこの(内心の平安)について微かな想いをさえもいだいていない。だから、あなたは(わたしの説を)『ばかばかしい』とみなすのです。(中村先生訳)
841
世尊は〔答えた〕「マーガンディヤさん、しかして、〔あなたは〕見解(特定の主義・主張)に依存して尋ねているのです。諸々の執着のうちで迷妄へと陥り、しかして、〔わたしが示した〕この〔法〕から、〔正しい〕表象(想:認識対象を表象し概念化する働き)を、微塵でさえも見なかったのです。それゆえに、あなたは、〔わたしの法を〕『迷愚である』と決め付けるのです。(正田師訳)
Magandiya Sutta Sn 4.9 .7(Sn841)
The Buddha:
Asking questions
dependent on view,
you're confused
by what you have grasped.
And so you don't glimpse
even
the slightest
notion
[of what I am saying].
That's why you think
it's confused.(by Thanissaro Bikkhu)
(http://www.accesstoinsight.org/tipitaka/kn/snp/index.html)

ブッダの側からすれば、このブッダの言葉は至極正当なものです。

しかし、はたしてこの指摘を受けてマーガンディヤは納得できたでしょうか?
前回も述べたように、実は、私はまだ納得できていないのです。

Sn841でブッダが指摘した事柄は表面的にはそんな難しいことではありません。

ブッダはこう言っているのです。

「マーガンディヤよ、あなたは自分の信念にあまりに固執しすぎて頑迷固陋の域に閉じ込められているようですね。それだから、私(ブッダ)の説明を鼻っから受け付けようとしていません。それではいくら議論しても一歩も進展しませんよ。」

「ああ、そうおっしゃられてもブッダよ、あなたの説明はとんでもなさ過ぎてとてもついていけないのです。」とマーガンディヤが言えたら少しはブッダの教えを理解出来たかもしれませんが、「マーガンディヤ」という経典の続き(Sn842~847)には、残念ながらマーガンディヤの反論も同意も何も記述されていません。

Sn842~847では、ブッダの説法が続くだけです。

さて、いろいろな経典の中でお釈迦様(ブッダ)は、論争の無意味さ、害を説いています。

マーガンディヤとブッダのやり取りを読めば、どうしてお釈迦様が論争をするなと言ったか分かるような気がします。

私たちは、古代インドで一時仏教が全盛期を迎えたような記述を読むことがあるので、バラモン教徒(仏滅後ヒンドゥー教徒となる)の多くが仏教徒になったような錯覚を持ちますが、実際は、バラモン教(ヒンドゥー教)がインドの宗教の正統の地位を保ち続けたと考える方が正しいようです。

このことは、現在のインドにおける仏教の地位を冷静に見れば納得できるでしょう(なんと、ブッダはヒンドゥー教の神の化身の一つとされているのです。もちろん、化身のブッダは、生前のブッダが説いていた内心の平安とか内なる寂静なんておくびにも出さないでしょう)。

ですから、恐らくマーガンディヤは現実には改宗しなかった、ブッダの説明に納得しなかったと想像できます。

では、Sn842~847でブッダ(シャカ)は何を説いているのでしょうか?

一言で言えば、ニッバーナを達成した者とはこういうものだ、こういう行動をするのだ、というようなことを述べていると思います。

間接的にニッバーナの何たるかを説いているようです。

スッタニパータは、スリランカの大学僧(学者比丘)、ブッダゴーサが編集し、パーリ仏典に編入し、改変削除を厳重に禁じた結果今日に伝承されてきたとされています。

残存する他の部派の仏典には、断片でしか残されていないようで、スッタニパータを含む小部(クッダカ・ニカーヤ)という分類自体がスリランカで確定したパーリ仏典にのみ存在することからも何らかの意図を感じる。

そういう意味では、スッタニパータはブッダゴーサが構築したテーラヴァーダ仏教から切り離して考えられないようでもある。

クッダカ・ニカーヤには、ブッダゴーサが重視した修行実践マニュアルである『無碍解道』(Patisambhidamagga)が収載されています。

スッタニパータのニッバーナは修習法を含めてブッダゴーサ以後のテーラヴァーダ仏教の教義を抜きには研究できないでしょう。

またも尻切れトンボです。
申し訳ない。

スッタニパータ・アッタカヴァッガ第九 「マーガンディヤ」の前半部分の引用です。(中村元訳「ブッダのことば スッタニパータ」岩波文庫より。なお、WEB上には、正田大観師訳「スッタニパータ和訳」http://www7.ocn.ne.jp/~jkgyk/
 がありますので、ぜひ一緒にご覧下さい。)

マーガンディヤとブッダ(シャカ)のやりとりにおいては、当然のことですがマーガンディヤが世俗を代表し、世俗の知識人(インテリ)の考え方・生き方にもとづいてブッダに問いかけます。

ブッダは、その世俗の考え方・生き方に対してニッバーナの悟り・真の平安を楽しむ生き方を説きます。

マーガンディヤは頑迷で自分の知性・生き方に絶対の自信を持っているため、全くブッダのニッバーナを理解できず、関心すら湧いてきません。

<引用開始>
Sn835 (師((ブッダ))は語った)、「われは(昔さとりを開こうとした時に)、愛執と嫌悪と貪欲(という三人の魔女)を見ても、かれらと婬欲の交わりをしたいという欲望さえも起らなかった。糞尿に満ちたこの(女が)そもそも何ものなのだろう。わたくしはそれに足でさえも触れたくないのだ。」
Sn836 (マーガンディヤがいった)、「もしもあなたが、多くの王者がもとめた女、このような宝、が欲しくないならば、あなたはどのような見解を、どのような戒律・道徳・生活法を、またどのような生存状態に生まれかわることを説くのですか?」
Sn837  師が答えた、「マーガンディヤよ。『わたくしはこのことを説く』、ということがわたくしにはない。諸々の事物に対する執著を執著であると確かに知って、諸々の偏見における(過誤カゴを)見て、固執することなく、省察しつつ内心の安らぎをわたくしは見た。」
Sn838 マーガンディヤがいった、「聖者さま。あなたは考えて構成された偏見の定説を固執することなしに、<内心の安らぎ>ということをお説きになりますが、そのことわりを諸々の賢人はどのように説いておられるのでしょうか?」
Sn839  師は答えた、「マーガンディヤよ。『教義によって、学問によって、知識によって、戒律や道徳によって清らかになることができる』とは、わたくしは説かない。『教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる』とも説かない。それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。(これが内心の平安である。)」
Sn840 マーガンディヤがいった、「もしも、『教義によっても、学問によっても、知識によっても、戒律や道徳によっても清らかになのことができない』と説き、また『教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができない』と説くのであれば、それはばかばしい教えである、とわたくしは考えます。教義によって清らかになることができる、と或る人々は考えます。」
Sn841 師は答えた、「マーガンディヤよ。あなたは(自分の)教義にもとづいて尋タズね求めるものだから、執著したことがらについて迷妄に陥ったのです。あなたはこの(内心の平安)について微かな想いをさえもいだいていない。だから、あなたは(わたしの説を)『ばかばかしい』とみなすのです。
<引用終了>


マーガンディヤは、
”あなたはどのような見解を、どのような戒律・道徳・生活法を、またどのような生存状態に生まれかわることを説くのですか?”
と、見解・戒律・道徳・法・来世のあり方のような、世俗的な知的な事柄を教えて欲しいと求めます。

それに対してブッダ(シャカ)は、
”『わたくしはこのことを説く』、ということがわたくしにはない。"
と切り出します。この部分の正田師の訳は、
”『〔わたしは〕これを説く』という〔執着は〕、彼(ブッダ)には有りません。”
となっています。

この部分の後に続くブッダの言葉から上の言葉を判断すると、ブッダが説きたいのは、ブッダが自ら体得したものは<内心の安らぎ(中村先生訳)・内なる寂静(正田師訳)>なので、見解・戒律・道徳・法・来世というカテゴリーで説明出来ないものなのですよ、と言っているようです。

”諸々の偏見における(過誤カゴを)見て、固執することなく、省察しつつ(中村訳)””諸々の見解について〔あるがままに〕見ている者は、〔それらを〕執持せずして、〔正しく〕弁別しつつ(正田訳)”と、世俗で信奉されている考え方を否定するようなブッダの言葉を聞いてムッとしたマーガンディヤが食い下がります。

”そのことわり(ブッダが体得した内心の安らぎ・内なる寂静)を諸々の賢人はどのように説いておられるのでしょうか?”と。
マーガンディヤは、ブッダが言った<内心の安らぎ・内なる寂静>なんて聞いたことが無いし、古今の賢人・先生方が評価しているとは思えなかったのです。

案の定、ブッダはとんでもないことを言い出しました。

教義・学問・知識・戒律・道徳を修習すれば良いとか、そんなもの修習する必要が無いとかいう論争があるが、ブッダはそのいずれのやり方でもない別な方法で<内心の安らぎ・内なる寂静>を体得したと言うのです。

”それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。(これが内心の平安である。)(中村訳)””これらを放棄し、執持せずして、〔心が〕寂静となり、〔何ものにも〕依存せずして、〔迷いの〕生存を渇望しないのです」と。(正田訳)”

これがまさしくニッバーナの説明だと思います。
ニッバーナは哲学でも理論でも学説でも信仰でもなく、ブッダだけが体験的に発見したものですので、ブッダの方法のみによって体得できるものです。

従来の学説・理論などでは全く説かれていない方法なのだと、ブッダは言ったのです。

しかし、ブッダが何を説こうとしているのか考える気持ちのゆとりの無いマーガンディヤは、何を馬鹿なことを言っているんだと憤ります。

”それはばかばしい教えである、とわたくしは考えます。(中村訳)””わたしは〔それを〕、まさしく、迷愚の法(教え)と思うのです。(正田訳)”

この記事で私、avaroが言いたいのは、実は、この部分のやり取りに関することなのです。

私の家族も兄弟も親族も(友人はいないので不明ですが)、誰もが、マーガンディヤ派なのです。

そして、未だに私自身もきょろきょろしているのです。

馬鹿の一つ覚えのように、ブッダ(シャカ)が説いていることは、現代科学がはっきり実証しているように、確かな真実です、ともう一度明言します。

「われは(昔さとりを開こうとした時に)、愛執と嫌悪と貪欲(という三人の魔女)を見ても、かれらと婬欲の交わりをしたいという欲望さえも起らなかった。糞尿に満ちたこの(女が)そもそも何ものなのだろう。わたくしはそれに足でさえも触れたくないのだ。」とブッダは、比喩を以って世俗の考え方・生き方は真実ではないと諭します。

確かに、世界は人が虚構したものなのだとも言えます。

それは大体分かったつもりです。
さらに詳しく知るために今も勉強中です。
非力を承知で物理なんかに取り組んでいるのもそのためです。

では、ブッダがはじめて明確に解き明かした虚構は、捨て去る他ないものなのでしょうか?

つまり、ブッダ(シャカ)の<内心の安らぎ・内なる寂静>を唯一のものとすべきかどうかが判断がつかないのです。

マーガンディヤのように、ブッダの明智に関心すら持てず、頑迷に世俗的に生きるのも納得できませんが、<迷いの生存>を捨て去ることが本当に正しいのか迷うのです。

今回、野天で直射日光に曝されて一日中草取りをするという正に生きるための活動をして痛感したのが、生きることの大変さです。

年齢・経歴のことなるアルバイト仲間たちは、みんなほんとにいい人たちで、一生懸命働いていました。

ほとんどが私よりずっと若い人たちです。
生きることの大変さを再確認したのです。

この仲間たちとあのきついアルバイトをしている時には、<迷いの生存を願ってはならぬ(中村訳)・〔迷いの〕生存を渇望しないのです(正田訳)>というブッダの言葉はかなり浮いてしまうのです。

そんな時ふっと、古代インドで大乗仏教が興った事情を垣間見るような気もしました。

残念ながら、大乗仏教興起当時の世界認識・人間認識は科学的ではなかったため、どんどんあらぬ方向に逸れてしまったような気がして残念です。

それはとにかく、私は未だにマーガンディヤとブッダ(シャカ)の中間の宙ぶらりん状態です。
(この記事も中途半端で終わります。)



昨日か一昨日のことである。

朝食か昼食の後、皿洗いをしていた。

皿洗いは嫌いである。

だから、皿洗いを始める前から心の奥に不満と怒りが湧き上がっていてもおかしくない。

皿洗いをしている間中イライラしている。

漫然とした動作の結果皿を落としたりすると一瞬で怒りが奔騰し大声で怒鳴る。

これがいつもの皿洗いをする時の私である。

その瞬間も、シンクの縁にはみ出すように置かれた数枚の皿に不注意で手が触れて皿が音を立ててシンクに落ちた。

目が落ちた皿を注視した。

その直後に、無意識を見たような不可思議な感覚を自覚した。

心(頭)の中で何かが一瞬動き、それが怒りのようなモノとして見えた(ような)気がしたのだ。

そのモノは感じた(見た)ら直ぐ消えた。

いつもなら、皿が落ちた瞬間、内奥の怒りのマグマが口汚い怒鳴り声になっていたのだが、この時は、本当に静かだった。
心が、不思議なくらい穏やかだった。

すぐに、”あ。もしかして、今見えたのが思考(thought)なんじゃないか?”と思った。

ただし、私はまだループナームどころか、継続的な気づきの訓練も疎かな状態である。
sitting meditation(リズミック・ムーブメントへの気づきの訓練)も怠りがちである。

ベィシック・ステージの入り口をうろうろしているのが正直なところである。

したがって、この体験を、”I could see Thought." のだとも、気づきが働いたのだとも自信を持って言えない。

ただ確かに言えるのは、突発事を契機に自分の行動を見直そうとしてきたし、自分を常に見ていようと心がけていることだ。


とにかく、毎日今までに読んだティエン師のテキストを繰り返し読み返している。

以下に引用させていただくのは、Leon M. Lederman and Christopher T. Hill「Symmetry And The Beautiful Universe(「対称性」小林茂樹訳 白揚社)」の慣性の項の一部(p149-155)であります。

宗教の議論は、近・現代科学が必要不可欠としている立証という基本原則を無視して議論を進めるため、私には納得しがたい内容を読まされることが多いと感じています。

信仰や信心は、あくまで当人が確信したり、依存したりして行う行為ですから、当人だけの事柄である間は、他人に無害です。

しかし、その信仰や信心をあたかも万人にとっても真理であるとか、真実であるなどと公に述べ立て始めると要らざる摩擦が生じます。

そういうタイプの議論の中に、お釈迦様を巻き込んだ傍迷惑なものが沢山あります。

そういう議論を仕掛ける方は、次のような科学の歴史をぜひ読んでいただきたいと思います。

<引用開始>
近代科学、さらに言えば近代世界は、慣性の原理からはじまる。慣性の原理は、われわれの知っている最も重要な自然の法則である。この原理は、ニュートンが運動の第一法則として表現した形で次のように言うことができる。
静止している物体または一直線上で一様運動(等速運動)をしている物体は、外部の力を受けない限り、静止の状態または一直線上の一様運動をそのままつづける。
これが運動について言うことが出来る最も簡単な表現である。これが運動を支配する基本原理といわれる。
実際、物体にはたらく物理法則は、一様な運動状態においては同一、つまり不変である。したがって、慣性の原理は実は自然科学の対称性であり、物体に対しても、われわれに対しても、実験室に対しても、いかなるものに対しても一様運動のすべての状態における物理法則の対称性すなわち同一性を表している。ガリレイは慣性の原理をこのように理解していた。(省略)。
慣性のような概念を説明し、それらの概念を対称性の考えと結びつけようとする場合、われわれは物理的世界の異なるものの間の関係を深く見極め、意味の拡張された新しい語彙にであう。しかし、慣性の原理がなぜ存在するのか、あるいは関連する対称性の原理がなぜ自然に存在するのかということは、実際にはわからないだろう。科学がなしうる最善のことは、ものごとを観察することである--ものごとがどのように縫い合わされて、どのように関係し合っているかを観察することである--そしてまた、ものごとをどのように記述し利用するかを考えることかもしれない。まだ説明されていない多くのことがらに加えて、さらに別の未解答のなぜが絶えず出てくる。慣性がなぜあるのかをわれわれが本当に理解することは決してないと思われるが、慣性があるということを確実に観察しなければならない。
(続いて、ファインマン博士の自伝を引用して、博士が幼い頃に発見した慣性に関する不思議についての話しや自転車・つまづいて倒れる場合などのような身近で気づくことが出来る慣性の原理の例を挙げている。子供だったファインマン博士は、子供用のワゴンに載せたボールの動きを例に挙げている。この部分省略)
それでは、歴史上かなり後になって--実際にはルネサンス末に--ようやく学者たちが慣性に気づいたのはなぜだろうか?それ以前の何世紀にもわたって多くの文明や文化があり、そこにはピタゴラスからアルキメデスまでのすぐれたギリシャの哲学者をはじめ賢い人々が大勢いたはずだ。それにもかかわらず、明らかにその人たちは、運動の最も基本的な性質である慣性をはっきりとは理解していなかった。慣性を理解することが、古代のすぐれた思想家や観察者にとっても、これほどむずかしかったのはなぜだろうか?
幾何学を発明した古代ギリシャの哲学者たちは、物理的世界で万物がどのように作動するのかを説明しようとしていた。彼らはこの追求のなかで、今日のわれわれと同じように、対称性を基本的な指導原理と考えていたが、これは彼らの幾何学的な伝統から受け継がれたものである。天空における惑星の運行のような自然現象が、対称性を含む理論によって説明できれば、その説明はもっと満足のいくものになると考えられた。そうすれば、その理論は、自然についてさらに奥深い真実を明らかにするだろう。理論そのものが、さらに信頼の置けるものになるはずである。
しかし、摩擦のない運動とか、理想的な真空の概念とかは、ギリシャの哲学者たちの時代には飛躍しすぎた概念だった。重い石やオリーブ油の壷を、使い古した軸受けのついた木製の荷車にのせて苦労して運んでいた時代で(ヘルメットや安全靴もなかった)、日常の経験は汗やうめき声と切り離せないものだった。もし力を加えなければ、重い物体が「一直線上の一様運動」をつづけるとはとても思えなかった。運動をしているすべてのものは、最後には静止という自然状態になろうとする--アリストテレスはこう言った。質量は、一般に、静止状態に戻ろうとする物質の傾向の尺度、そして持ち上げたり、押したり、引っ張ったりするとき汗やうめき声を出させる物質の傾向の尺度のように見えた。ギリシャ人は摩擦が支配する世界に生きていた。慣性に気づくどころではなかった。ギリシャ人は、純粋に理想化された運動の概念と、摩擦の概念とを切り離すことができなかった。ギリシャ人が運動の最も基本的概念を誤って理解した理由はここにあると思う。
これをファインマンの子供の頃の体験と比べてみるとよい。ファインマンは小さいおもちゃの特急ワゴンとボールを使って慣性に気づいたが、この簡単な実験装置でさえも、高度な現代技術の成果を表している。おもちゃのワゴンには、鋼鉄の軸受けを支える油のきいた鋼鉄製の摩擦のないベアリングが使われ、精密な鋳造車軸と引っ張って動かしやすいようにタイヤがついていたと思われる。このワゴンが置かれていのは舗装された歩道のかなり滑らかな平面であって、丸石を敷いた手作りの道路ではなかった。ワゴンにのせられていたボールは、地元の雑貨店で売っているテニスボールか何かで、安価で手に入りやすく、しかも申し分のない球形である。こういったことのすべてが現代の所産である。つまり、だれにでも安い値段で手に入る商業技術が普及しており、洞察力があって面倒見のよい父親のもとで大恐慌のさなかに育ち、後日、量子電磁力学を発見することになる天才少年にも利用できたのだ。古代ギリシャ人は、この種のインフラストラクチャーを全然もっていなかった。
<引用終了>

ギリシャ人が慣性に気づけなかった事情の説明で使われた例えは、
 ①古代ローマの敷石で敷き詰められたアッピア街道よりももっとガタガタ道の丸石を敷いた古代ギリシャ時代の道。
 ②古代ギリシャ時代の道に較べたらはるかに摩擦抵抗の少ない、したがって一直線の一様運動にずっと近い運動を観察できる摩擦のほとんどないベアリング付きのワゴン、申し分のない球形のボール、平坦な道路というインフラストラクチャーなど。
という対比で理解させようとしてくれているようです。

近代科学勃興以前のヨーロッパは、ギリシャの後、実用本位のローマ時代、続いてギリシャ・ローマの文化を破壊するだけで継承できなかった民族移動の時代、さらに宗教の教理がヨーロッパ全土を支配する中世の時代が続き、その後にやっとルネサンスが始まったので、慣性の原理発見はガリレオの登場まで遅れたのでしょう。

「慣性がなぜあるのかをわれわれが本当に理解することは決してないと思われるが、慣性があるということを確実に観察しなければならない。」

これが現代科学の態度だろうと思う。

お釈迦様も、ギリシャ人たちと同じように、時代の制約の中で考え、実践に励み、悟りという体験をしたはずです。

その態度は、基本的には、この現代科学の態度に似たものだったと思っています。

自然界などには、人間には立証不可能な事柄が沢山あります。
かつては、哲学者や宗教家がそれらに関していろいろな説明を試みてきました。
しかし、お釈迦様は、説明不可能な事柄に関してあれこれ推論することの無意味さを理解し、確かにあって、しかも、観察可能(体験・体得可能)な事柄のうち、お釈迦様が最も求めていた事柄について取り組み、発見をし・体験し・体得したのだと思います。

それがニッバーナの体験・体得であり、これが悟りの中身だと思っています。

したがって、お釈迦様は世界や宇宙のすべてを解明できたはずがありません。
また、お釈迦様自身そうした解明を求めなかったはずです。

お釈迦様のニッバーナすなわち悟りは、お釈迦様の生きた古代インドという時代の制約の中で可能だった、ある限定された事柄に関する説明と体得マニュアルであると思います。

釈迦は何を悟り、何を人々に説いたのか?

解釈は自由である。

その解釈通りに実践が可能であり、獲得したものに納得できればそれで良い。

今は、真理の基準は曖昧であり、唯一という絶対的な基準の基準自体が茫洋としている。

釈迦は恐らくニッバーナ(涅槃)を目指せと説いたろう。
言い換えれば四聖諦である。
その根拠は、釈迦自身の体験である。

釈迦在世当時の古代インド人は、ニッバーナを目指しニッバーナの境地を生きる人生というものを納得できたのだろう。

人間や宇宙、世界に関する認識が哲学的あるいは宗教的解釈が中心だった当時、例えば、”五蘊(人の身心)非我あるいは無我”というような解釈(認識)が無理なく人々に受け入れられた。

当時は、身体と心はそれぞれ独立した原理に従うとされていたようだ。

先入観を持たず素直にスッタニパータを読めば、釈迦自身もインドの思想風土の中で生きていたことが分かる。
身体と心を明確に区別し、身体ではなく心を重視していたと思える。

また釈迦は、非我とか無我という時、我(アートマン)という、存在の根本原理あるいは人の本体(実体)という概念に対する態度を決めねばならなかった。

もし釈迦が修行によってアートマンを体験していれば、ニッバーナではなくアートマンを説いたかもしれない。
五蘊非我(無我)説で言うように、アートマンは本質的に苦に侵されないものなのだから。

先に述べたように、現代は絶対的な基準を見失い、新しい基準を確立していないから、あらゆる生き方が可能であり、ニッバーナを生きるのも本人が納得していれば立派な生き方である。

しかし、ニッバーナを生きるという目標は、もしかしたら釈迦亡き後何百年かすると、古代インド人を納得させられなくなってしまったのかもしれない。

五蘊を"空”と観じ、感官を迷妄の門と観ずるニッバーナは、自然と、人間や宇宙、世界を”空”と観ずる方向へと遷移させたのだろう。

釈迦亡き後5~600年たった頃には、体得するニッバーナの空観から、哲学的な思弁的な空観が成立した。

人間や宇宙・世界に関する認識は相変わらず哲学的、宗教的アプローチが主流だったので、体験を重んずる釈迦の道は再び振り出しに戻ってしまった。

思弁的な空観を納得するならば、四聖諦の道は忘れられてしまう。

近代科学の興起に始まり、現代科学の驚異的な進展に伴い、人間や宇宙・世界に関する認識は大いに改まった。

哲学的あるいは宗教的な思弁によるのでなく、釈迦の道に相通ずる体験的な認識を根拠とする現代科学の方法と発見に現代人は納得せざるを得ない。

釈迦は体験的に”五蘊非我(無我)”を確認した。
その上で、不可知のアートマンに頼らずに理想の生き方を可能にする道を見出した。

だが、現代人の視点で考えれば、釈迦は確かに古代インドの精神風土の中で最も価値ある生き方、ニッバーナを体現したと言える。

一方現代科学は、ニッバーナの体験によらずに、人間や宇宙・世界が確かに”空”なのだと認識せざるを得ないことを解き明かしつつある。

ただし、科学による認識は、知識であるため、釈迦のニッバーナは現代でも有効である。

しかし、思弁による哲学的空観は体験・体得するものでないから、現代科学で置き換え可能である。

私はまだまだ釈迦のニッバーナの真実を確認できていない。
それがアートマンの包容力を秘めたものなのか、虚無の地平すれすれにあるものなのか、それとも。

心もとないのは、アートマンが曖昧模糊となってしまった現代、科学が暴き出す”空”という虚無と向きあっても、心豊かに生きられる道を確立出来るのかどうかだ。
この探索の行く手に、釈迦のニッバーナ体験が活路を開いてくれるのだろうか?


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