avarokitei84のblog

*はじめに。 このブログは、ヤフー・ブログから移行したものです。当初は、釈尊(お釈迦様・ゴータマブッダ)と宮沢賢治を探究してましたが、ある時点で、両者と距離をおくことにしました。距離を置くとはどういうことかと言いますと、探究の対象を信仰しないということです。西暦2020年となった今でも、生存についても宇宙についても確かな答えは見つかっていません。解脱・涅槃も本当の幸せも、完全な答えではありません。沢山の天才が示してくれた色々な生き方の中の一つだと思います。例えば、日本は絶対戦争しないで平和を維持出来るとおもいますか?実態は、戦争する可能性のもとに核兵器で事実上の武装をしています。釈尊の教えを達成したり絶対帰依していれば、戦争が始まっても傍観しているだけです。実際、中世インドでイスラム軍団が侵攻してきたとき、仏教徒の多くは武力での応戦はしなかったそうです(イスラム側の記録)。それも一つの生き方です。私は、武装した平和主義ですから、同じ民族が殺戮や圧政(現にアジアの大国がやっている)に踏みにじられるのは見過ごせない。また、こうしてこういうブログを書いているのは、信仰を持っていない証拠です。

2008年12月

暦年で比較すると、宮沢賢治は私のこれまでの生の半分くらいしか生きられなかったが、中身の濃さでは、私よりずっと長い時間生きたと思う。

賢治は童貞だったといわれる。
今の私はそのことについて、童貞かどうかはどうでも良いことだと思う。

普通人は恋愛をし結婚をする。
一生の間、異性に何の衝動も感じない人はあまりいないだろう。
人間は恋愛をし結婚をするようにプログラムされているのだから。

人は自分がどうして人間のか自分ではいくら考えても本当のことはよく分からないように、何で異性を恋うのかよく分からないで恋愛をし結婚をしている。

賢治は、そういう普通の人と相当違う人生観を生きた。
だから、女性観も相当違う。

今の時代でも結婚しない人は結構いるようだ。
しかし恋愛にも性交渉にも全く興味がわかない人は珍しいだろう。
そういう人は相当変わったプログラムを持っているのだろう。

異性を避けている(いた)人は結構いる。
お釈迦様の弟子たちがそうだ。

宮沢賢治は、そういう弟子たちと共通する考えも持っていたが、全く違う考え方もしていた。


<引用開始>

浮世絵 北上山地の春 < 詩篇75「北上山地の春」下書稿(一) >
                一九二四、四、二〇、

 一、

かれくさもかげらふもぐらぐらに燃え
雲?抜がつぎつぎ青く稜を織るなかを   *avaro註:雲?抜ウンオウ=次々わいてくる雲のこと
女たちは黄や橙のかつぎによそひ
しめって黒い厩肥をになって
たのしくめぐるくいちれつ丘をのぼります   *avaro註:めぐるく=うきうきして

かたくりの花もその葉の班もゆらゆら
いま女たちは黄金のゴールを梢につけた   *avaro註:黄金のゴール=やどりぎの実
年経た栗のそのコバルトの陰影にあつまり
消え残りの鈴木春信の銀の雪から
燃える頬やうなじをひやしてゐます

 二、

風の透明な楔形文字が
ごつごつ暗いくるみの枝に来て鳴らし
またいろいろの鳥も来て軋ってゐますと
わかものたちは華奢に息熱い純血種サラーブレッドや
トロッターやアングロアラブ
またまっ白な重挽馬に
水いろや紺の羅紗を着せ
やなぎは蜜の花を噴き
笹やいぬがやのかゞやく中を
おぼろな雪融の流れを遡り
にぎやかな光の市場
その上流の種馬検査所に連れて行く

 三、

いそがしい四十雀のむれや
裸木の条影置くなかに
水ばせうの青じろい花
湯気立つ水のたまりには
ひきの卵の紐もぬるみ
向ふは古いスコットランド風の
円い塔ある事務所と厩舎
四角に積まれた厩肥の上で
ホークも白くひらめけば
風は青ぞらで鳴り
自然にカンデラーブルになった白樺もあって
その梢では二人のこどもが山刀を鳴らして
巨きな枝を落そうとする
こどもらは黄の芝原に円陣をつくり
まっ青な太陽のなかに三本脚の鳥を見れば
何か毛糸で編みながら
ステップ住民の春のまなざしをして
赤いかつぎの少女も座る

<引用終了>

この詩の日付は、詩集「春と修羅 序」の日付と同年で、ほんの三ヶ月後である。

序で、賢治は次ぎのように高らかに歌った。

<引用開始>

・・・・・・・・・
けだしわれわれがわれわれの感官や
風景や人物をかんずるやうに
そしてたゞ共通に感ずるだけであるやうに
記録や歴史、あるひは地史といふものも
それのいろいろの論料といっしょに
(因果の時空的制約のもとに)
われわれがかんじてゐるのに過ぎません
おそらくこれから二千年もたったころは
それ相當のちがった地質學が流用され
相當した證據もまた次次過去から現出し
みんなは二千年ぐらゐ前には
青ぞらいっぱいの無色な孔雀が居たとおもひ
新進の大學士たちは気圏のいちばんの上層
きらびやかな氷窒素のあたりから
すてきな化石を發堀したり
あるひは白堊紀砂岩の層面に
透明な人類の巨大な足跡を
発見するかもしれません

・・・・・・・・・・
<引用終了>

化石を掘っている大学士たちも、たぶんもう透明な時代の生き物になっているのだろう。

この序の考え方は、お釈迦様に共通していて、法華経の主張でもある。
もちろん、お釈迦様と法華経の主張はこの点ではほぼ同じでも、どこまでも一緒というわけではない。

人は生まれたままではこういう考え方にはほとんど到れない。
転換が必要なのだ。
お釈迦様と法華経(賢治)との違いはその転換の仕方・方法にあるのだ。

そして、普通最も人間らしいと思われている恋愛感情や家族愛が、実は、この転換にとっての最大の障害になるのだ。

賢治がそのことを詩篇「小岩井農場」の中で独白している。

賢治が「小岩井農場」でその独白をしたのは、「浮世絵 北上山地の春」の日付のほぼ二年前。


<引用開始>
・・・・・・・・・・・・
もしも正しいねがひに燃えて
じぶんとひとと萬象といっしょに
至上福しにいたらうとする
それをある宗教情操とするならば
そのねがひから碎けまたは疲れ
じぶんとそれからたったもひとつのたましひと
完全そして永久にどこまでもいっしょに行かうとする
この變態を戀愛といふ
そしてどこまでもその方向では
決して求め得られないその戀愛の本質的な部分を
むりにもごまかし求め得やうとする
この傾向を性慾といふ
・・・・・・・・・・
<引用終了>

お釈迦様の指導に従って涅槃を目指して修行していた比丘たちが、ひたすら己の内面を見つめていたのに対して、幸か不幸か、賢治は死の瞬間まで法華経の理想を信じ、みんなと共に幸せ(幸い)を得ようと努めた。

賢治は、出来れば仏ホトケになりたかっただろう。
それがかなわないなら、せめて天上に生まれ変わりたかったに違いない。
もちろん、自分とみんなの幸せを求めて。
そこでなら、寂しさを誤魔化す必要がないかもしれない。
性欲にせかされるような恋愛に悩むことなく。

大正13年4月、賢治は夜通し歩いて種馬検査所にやって来たらしい。
夜が明けるころ、各地から検査所に集まってきた人たちが、山道を一列になって登ってゆく。
みんな何か楽しげだ。
男たちと女たちと子供たちが一つになって楽しんでいる。

賢治は作品の中で、大人の”女”をあまり書かなかった。
普通に恋愛し、やがて大人になる、そんな”少女”も書かなかった。
この詩篇の中の女たちや少女たちも恋愛と無関係に描かれている。

賢治は”女”や”少女”との恋の代わりに自然に心を寄せた。

<引用開始>
風がおもてで呼んでゐる
「さあ起きて
赤いシャッツと
いつものぼろぼろの外套を着て
早くおもてへ出て来るんだ」と
風が交々叫んでゐる
「おれたちはみな
おまへの出るのを迎へるために
おまへのすきなみぞれの粒を
横ぞっぽうに飛ばしてゐる
おまへも早く飛び出して来て
あすこの稜ある巌の上
葉のない黒い林の中で
うつくしいソプラノをもった
おれたちのなかのひとりと
約束通り結婚しろ」と
繰り返し繰り返し
風がおもてで叫んでゐる
<引用終了>

その結果、とうとうこういうことになってしまった。
この詩は「疾中」(昭和3~5年)の中の一篇だから、「浮世絵 北上山地の春」から5年から7年後のことである。

賢治の心象は不気味な様相を呈している。

鴇色の風景も不気味だが、葉のない黒い林も不気味だ。

”じぶんとひとと萬象といっしょに
 至上福しにいたらうとする”

その具体的な方法は明確に賢治の口から語られなかったが、法華経の示す理想を何とか具現しなければならないと考えていた。

欲界に溺れることなく、色界に生まれては努力し、無色界から、仏国土へと人々を導こうとしていた。

法華経という旗を高く掲げていた賢治には、欲界で恋をする謂れはなかったらしい。

賢治にとって、法華経は旗であり、仏塔であったのだろう。

”じぶんとひとと萬象といっしょに
 至上福しにいたらうとする”

お釈迦様が居られたなら尋ねてみたい疑問だ。
果たして人間にそういうことは可能なのかと。

賢治は、私のような卑怯な考え方をしなかった。
ただ一途に邁進したように思える。

表題の部分について考えます。下記URL参照。
 http://blogs.yahoo.co.jp/avaroikite/56012619.html

何度も断っておきましたが、私はお釈迦様の道が人間にとってたった一つの正しい道だと言えないと思います。

たった一つの道と言えるのは、お釈迦様の教えを信じ、ニッバーナを目指す人にとってだけだと思います。

お釈迦様は勿論ご自分の教えを確信しておられたと思います。
これだけが”苦”を脱する道なんだ、と。

しかし生き方はお釈迦様が決めるものではありません。
人が自分で決めるものです。

リー師も「(お釈迦様の教えである)この宗教を実践することによって習得し完成したいと願っているなら、」と言っています。

私は”お釈迦様でも知らないことはたくさん有る(正しくは有った)”と思います。

もっとも身近な例は、医術です。
お釈迦様にはガンや精神病の治療は出来なかったでしょう。
次が、この今私が使っているエレクトロニクスの技術です。
お釈迦様にも、こういう時代が2500年後に来るとは知ることが出来なかったでしょう。

医術やエレクトロニクス技術は、お釈迦様の守備範囲ではないのです。

では、共存は有り得ないのでしょうか?
それも今私は探っているところなのです。

現代医術もエレクトロニクス技術も人の誕生と死や宇宙の誕生消滅をコントロールできる可能性はまだ見出せていません。
もちろん、お釈迦様にもそんなこと出来ません(と確信しています)。

では、どう折り合いがつけられるのでしょう?

目先ばかりを見て生きている限りは気づかないうちに死んでしまいますからどうでもいいのですが、すこしでも自分で考える人は、一度は虚無の底知れぬまっくらな淵を見て愕然としたでしょう。

医術もエレクトロニクスも手出しの出来ないこの驚愕と恐怖に答えられるのはお釈迦様の教えだけです。
お釈迦様は、”お前がそのまっくらな底知れぬ虚無を生み出したのだ”と静かに説き明かしてくれます。
少なくとも私はそう信じます。

観点を変化させれば、もちろん、他にも道はあります。
何かに頼る道です。
これも立派な道です。
それが自分に合っているなら、それでいいでしょう。
ただ、私にはそういう道が性に合わないのでお釈迦様の道を選んだのです。

さて、
<ある人々は、如何に彼等が高い教育を受けていたとしても、やっていることを見ると(教育に縁がない)未開文明の人たちと何ら変わらない。これが彼等が(己の本当の無知に無自覚なために)ただ浮かれて(自分ではちゃんとできると思っていても)雲の上の彼方へ飛んで行ってしまう理由なのです。>
と言って、リー師は、introductionの結論部で、経典の知識にだけ頼っている修行者や精神集中の重要性を認めようとしない修行者に苦言を呈しています。

テーラヴァーダ仏教の先生らしく、<(お釈迦様の教えである)この宗教を実践することによって習得し完成したいと願っているなら、これまでに説明したように、道を行くための三つの学ぶべきことがら---徳・精神集中・洞察---を養成しなければならないのです。>と言っています。

私も最近になってようやく戒(シーラ)の修習・完成の重要性に気づき始めました。
本当の土台は、戒の修習・完成にあるのではないかと思い始めたのです。

ニッバーナとは、一面では戒の成就であり、他の一面が精神集中であり、もう一面がパンニャの洞察なのではないかという、リー師の説明どおりの理解です。

何を分かったような分からないようなおかしなことを言っているのだと思うでしょう。
思い出してください。
スッタニパータに繰り返し出てくる修行者の生き方、在り方の教えを。
それこそが、ニッバーナに到った後の生活なのではないでしょうか?
それは、戒を保つ生き方と言って良いのではないか。
そもそもそういう(世間的には厳しい)生き方をしていない者は、訓練をしているようで実は訓練をしていないのと同じなのではないかと反省しているのです。

リー師の言葉を実践者の体験から出た言葉だと信じたい。
必要なことしか言わず、余計なことを言わない。
まして、体験もしていない事柄にまで口出しなんかしない、そういう実践者の言葉だと信じたい。

すでにアップ済みのリー師の説明(下記URL参照)を考えます。
 http://blogs.yahoo.co.jp/avaroikite/56012586.html

<しかし、(ものごとを言葉にして表わした)概念(concept)と絡み合った、眼に見えるもの、音、匂い、味、感触のようなものを通して知識を探し求めるならば、それはちょうど私たちが同時に六人の先生から学んでいるようなもので、それでは、私たちは真理(ありのままの真実)を明らかに観ることはできない。このやり方は、ちょうどブッダがまだ六人の先生について学んでいた時には、目覚める(悟る)ことがなかったのと同じです。その後ブッダは、(*註:六人の先生に付くのを止めて=六つの感覚器官に頼るのを止めて)自分自身の心(heart and mind)に目を向け、自分で自分を訓練することにして、そのための方法としてまず呼吸を追い続けることを始めて、最終的なゴールに達するまで徹底的にそれを続けた。>

もし、六人の先生が教え方は違うが教えようとしていることが同じで、正しい認識を得られるものだったら問題はなかったのですが、お釈迦様に言わせれば、この六人の先生は、いかにも正しいことのような内容をてんでんバラバラに教えるものだから、人はいつまで経っても無知なままなのだそうです。

目は、若い女性の魅惑的な肢体を最高の美しさと感じさせ、耳はその声に聞きほれるよう命じ、鼻はその肢体から良い匂いを嗅ぎ取らせ・・・、というように。

人の生き方次第で、お釈迦様のこの解釈について受け取り方が異なります。

生を受けたのだから、六人の先生の言う’ありのままの感受’を楽しむにしくなし、という生き方ならば、お釈迦様の解釈はちと偏りすぎだと言うでしょう。

今の世でも大勢はこの考え方だと言えるのではないでしょうか。

しかし、このブログは、お釈迦様の教えを正しいはずだと仮定して考えているので、兎に角、リー師の説明をそのまま受け止めます。

進化論の考え方を学んだ私は、お釈迦様の教えに真実があると考えます。

ほんの数世紀前まで、人は地球に(というより世に)現われた時から今のまま(身心すなわち姿形も智慧も)だったと信じていました。

だが本当は、姿形も智慧も変化し続けてきた(進化し続けてきた)のであって、祖先は全く違う生き物であったらしいのです。

ではなぜ、若い異性を何物にも変え難い美しいもの・大切なものと思ってしまうのでしょう。

それは、心の奥に生まれつき備えている衝動のようなもののせいだとお釈迦様は考え、進化論もそういう考え方をしていると思います。

どうして恋人が大切なのかよく分からずに大切にする。
どうして人は生まれて死ぬのかよく分からぬままに生きて死ぬのと同じだというわけです。

六人の先生の言うとおりに生きていては訳も分からぬままに死ぬことになるよ、というわけです。

では、心は正しい認識が出来るのでしょうか?
そもそも、心って何なんだ、どれなんだ?

何度も引用して恐縮ですが「自らを頼りとして」と言って、お釈迦様は、自分の心を自分でよく観察せよ、と教えました。

自分って何なんだ?

リー師は、これに続く部分で、心の集中(精神集中)と心の洞察という正しい認識の方法を説明しています。

心とか自分とか自らというのは、修行をする者のことなんだとしておきましょう。
心の集中(精神集中)と心の洞察というのは、修行者が無知を脱して正しい認識(と言っておきます)を得ることだとしておきます。

正しい認識がすなわちニッバーナです。
ニッバーナとは認識のことなんだと言って良いのかどうか私にはまだ分かりません。
しかし、他に言い様がないので、ニッバーナとは無知を脱して正しい認識を得た状態としておきます。

無知の意味なんですが、もしかしたら、アインシュタインもニッバーナの観点からは無知だったかもしれません。
物理の法則を信じ、神を信じていたようですので、お釈迦様から見れば無知な状態のままだったと言えそうです。

要するに、お釈迦様とアインシュタインとでは、自然をありのままに見ようとする点では同じなのですが、概念化(数や言葉による世界の再構成)の容認という点で分かれるのです。

アインシュタインが六人の先生の言うがままにならなかったのは正しいのですが、アインシュタインは感受する世界を有るべきだと信じました。
お釈迦様は、感受する世界に依存してはならない、それを”空き家のようなものだ”と思いなさいと教えました。

譬えて言えば、アインシュタインは愛する人を大切にしました。彼女との幸せを心から願いました。
お釈迦様はよく知られているように、妻も子供も親も捨てました。

何しろ、二人の生きた時代には、2500年という時代の壁がありますから、軽率に比較なんかすべきでないのですが、強いて較べるとこうなると言うことです。

生来、粗忽な私は、お釈迦様の言う正しい認識=ニッバーナを、いつか得られると漠然と期待しています。

では、その認識とはどういうものなんだと細かく考え始めるとどんどん難しくなってしまいます。

お釈迦様の悟りとはどういうものなのか、ということを考えながら、経典を検索しているうちに、お釈迦様の弟子の中で最も詩作に優れているとされるヴァンギーサの悩みを見つけました。

たまたま「スッタニパータ」を検索していて、全くそっくり同じ内容の文章が「テーラガーター」にもあることに気づきました。

内容理解のため、中村元先生と正田大観師の訳文を併記させていただきます。

ヴァンギーサの不安は次の質問によく表れています。

(引用開始)
354
〔涅槃の境地を〕義(目的)として、カッパーヤナ(カッパ)は梵行(禁欲清浄行)を行じおこなったのですが、はたして、それは、彼にとって、無駄ではないのですか。彼は、〔生存の依り所を残すことなく〕涅槃に到達したのですか、それとも、〔生存の〕依り所(身体)が有る者(有余依)〔として解脱したの〕ですか。〔彼が〕解脱者と成った〔経緯の〕とおりに、〔わたしたちは〕それを聞きたいのです」〔と〕。
Sn354  カッパ師が清らかな行いを行って達成しようとした目的は、かれにとって空しかったのでしょうか? かれは、消え滅びたのでしょうか(*かれは安らぎに帰したのでしょうか)? それとも生存の根源を残して安らぎに帰したのでしょうか? かれはどのように解脱したのでしょうか、──わたくしたちはそれを聞きたいのです。」
 (上:正田大観訳「スッタニパータ和訳」http://www7.ocn.ne.jp/~jkgyk/
下:中村元訳「ブッダのことば スッタニパータ」岩波文庫) 
(引用終了)

これと全く同じ詩偈(文)が「テーラガーター 第1274」にあります。正田師の訳も、中村先生の訳も「スッタニパータ」とほとんど同じ内容です。

ヴァンギーサの長々とした問いかけと、短いお釈迦様の答えは、「スッタニパータ」では、第343詩偈から第358詩偈まで、「テーラガーター」では、第1263詩偈から第1279詩偈までとなっています。「テーラガーター」では、一詩偈が付加されたようです。

お釈迦様の答えはこうなっています。

(引用開始)
355
世尊は〔答えた〕「〔カッパは〕名前と形態(名色:現象世界)にたいする渇愛を、この〔世において〕断ちました。長夜にわたり悪しき習いとなった、黒き者(悪魔)の流れを〔断ちました〕。余すところなく生と死を超えました」と。
 かくのごとく、五者(ブッダが最初に説法した五人の修行者)にとっての最勝の者、世尊は説いた。(正田師訳:スッタニパータ)
Sn355 師は答えた、「かれはこの世において、名称と形態とに関する妄執を断ち切ったのである。長いあいだ陥オチイっていた黒魔の流れを断ち切ったのである。(*かれは長い年月のあいだ陥っていた妄執の流れを断ち切り、生死=迷いの生存を残りなく超え渡った。)」五人の修行者の最上者であった尊き師はそのように語られた。(中村先生訳:スッタニパータ)
1275
世尊は〔答えた〕「〔カッパは〕名前と形態(名色:現象世界)にたいする渇愛を、この〔世において〕断ちました。長夜にわたり悪しき習いとなった、渇愛の流れを〔断ちました〕。余すところなく生と死を超えました」と。
 かくのごとく、五者(ブッダが最初に説法した五人の修行者)にとっての最勝の者、世尊は説いた。(正田師訳:テーラガーターhttp://www7.ocn.ne.jp/~jkgyk/)

中村先生の訳には、詩偈の前に散文があります。

(引用開始)
わたしがこのように聞いたところによると、──あるとき尊き師(ブッダ)はア-ラヴィーにおけるアッガーラヴァ霊樹のもとにおられた。そのとき、ヴァンギーサさんの師でニグローダ・カッパという名の長老が、アッガーラヴァ霊樹のもとで亡くなってから、間がなかった。そのときヴァンギーサさんは、ひとり閉じこもって沈思していたが、このような思念が心に起こった、──「わが師は実際に亡くなったんだろうか、あるいはまだ亡くなっていないのだろうか?」と。
そこでヴァンギーサさんは、夕方に沈思から起き出て、師のいますところに赴いた。そこで師に挨拶して、傍らに坐った。傍らに坐ったヴァンギーサさんは師にいった、「尊いお方さま。わたくしがひとり閉じこもって沈思していたとき、このような思念が心に起こりました。──<わが師は実際に亡くなったのだろうか、或いはまだ亡くなっていないのだろうか?>」と。
そこでヴァンギーサさんは座から立ち上がって、衣を左の肩にかけて右肩をあらわし、師に向かって合掌し、師にこの詩を以て呼びかけた。(この部分は中村先生の訳だけ。正田師の訳は無い)
(引用終了)

ヴァンギーサの不安は、「「わが師は実際に亡くなったんだろうか、あるいはまだ亡くなっていないのだろうか?」言い換えると、「彼は、〔生存の依り所を残すことなく〕涅槃に到達したのですか、それとも、〔生存の〕依り所(身体)が有る者(有余依)〔として解脱したの〕ですか。」ということのようです。

ヴァンギーサの師、ニグローダ・カッパが死亡したことは確かなようです。
では”実際に亡くなったのか、それとも、まだ亡くなっていないのだろうか。”という疑惑の意味は何でしょうか?

ヴァンギーサは、師のニグローダ・カッパが本当に涅槃を成就したのか心配していたようです。

ヴァンギーサの名前は経典にもよく出てくるようですから、お釈迦様の近くにいた比丘なのでしょうが、それでも、師の悟りに疑惑を抱くほど涅槃とか悟りというのは、他人からは判別しにくいものだったのかもしれません。

お釈迦様在世中からなのかどうか分かりませんが、涅槃にも階梯を設けています。

ここにも出てくる、有余依涅槃と無余依涅槃などです。

ヴァンギーサの心配は、あれほど修行を積んだのに、もしも師匠が完全な涅槃に達せずに死んだとしたら・・・という自分自身の努力への不安だったのかもしれません。

上の二つの涅槃の区別に関して、その違いが結果的にどう違ってくるのかはよく分かりません。

ちなみに、正田師訳「ヴィスッディマッガ(清浄道論)」第16章にも実にこまごました涅槃の定義が記述されています。

どうしてそういうこだわりをするのか?

そこには、古代インド人の拭いきれない来世への不安と願望が潜んでいるような気がします。

引用した経典の真意がイマイチ掴みにくいのですが、ヴァンギーサは、万が一の不安、すなわち、師ニグローダ・カッパが再び輪廻の生存に落ち込んだのではと心配しているような気がするのです。

ヴィスッディマッガを検索していて見つけたのですが、涅槃は形成作用の止滅であるというような言い方がありました。

これこそは、その人にしか分からないことです。
そして、自分ではよく分かることだと思います。

これが涅槃である、ということで良いような気がすんですが。

どうしてヴァンギーサの疑問が、テーラガーターの最終部分に載っているのでしょう。

(和訳開始)
(以上を)要約すると、訓練すべき基礎的ステップは以下の通りです。:

 1.こころから全ての悪い気を奪われるもの(preoccupations)を取り除く。
2.よい気を奪われるもの(preoccupations)をよく考える。
3.あらゆる善い気を奪われるものを一つにして、一点に集中させる。つまり、一点への精神集中the singleness of meditative absorption (ジャーナ)。
4.如何にその一つにされた気を奪われるもの(this one preoccupation)が、aniccamつまり無常(inconstant)であるか、dukkhamつまりストレス(苦)であるか、anattaつまりあなた自身ではなく、その他の何ものかでもないということ---つまり、空ということ(empty and void)---が分かるまで、このone preoccupationを考察しなさい。
5.あらゆる善いあるいは悪い気を奪われるもの(preoccupations)ありのままにしておきなさい。なぜなら、善いのもと悪いものとは、別々なものではなくいつも共に在るものであり、ありのままの状態においては同じもの(区別できないもの)なのです。心をありのままにしておきなさい。知ること(という過程)もありのままにしておきなさい。知ることというのは、生じてきて、(やがて)なくなってしまうようなものではありません(ここでは、”知ることと”と知ったもの=知識とを区別しているらしい)。これがサンティ-ダンマ即ち、平安(peace)のありのままの在り方なのです。そういう在り方で、善を知るのです。(本来)知ることが善ではないのです。(同様に)善とは、知ることではないのです。そういう在り方が悪を知るのです。知ることが悪ではないのです。悪とは、知ることではないのです。つまり、(この本来的な)知ることというのは、知識や、知る事柄との結びつきがないものなのです。その(在り方の)特徴は、本当の意味でのありのまま---蓮の葉の上にある一滴の水玉のように完璧で清浄な---なのです。これが、そのあり方がasankhata-dhatu即ち、形成されたものでない(unfabricated)、もともとの(property)、本来のありのままというふうに言われる理由です。 *itが何を指すか確定できていない。

あなたがこれらの五つのステップを(きちんと)たどれば、あなたの心の中に驚異的なものすなわち、平静さと洞察瞑想(ヴィパッサナー)の訓練の結果生じる熟練の技(skills)と完璧なもの(perfections)を見出すことができる。あなたは、すでに述べてように、二つのタイプの結果(成果・果)を得る。:
(その一つが)世俗的な智慧(mundane)で、それはあなたとあらゆる人々に身体の幸せ(輪廻をさっすることがないということか?)をもたらすものです。
そして(もう一つが)超俗・出世間的智慧(transcendent)で、それはあなたの心の幸せをもたらし、また、静かで、冷静で、しかも満開の花のように最高な幸福をもたらし、さらにまた、生まれること、老いること、病むこと、死ぬこと(という輪廻)を離れ(free)る解放(Liberation=nibbana=涅槃)へと(あなたを)導くものです。

以上が、呼吸の瞑想(breath meditation)の主要な原理の解説です。もしあなたがこれらの原理を訓練に取り入れようとして、疑問点がでたり、何か困難にぶつかったり、あるいはまた、これらの方針(リー師が説いたmain principlesに沿った)で指導してくれる指導者から直接学ぼうとしているのなら(つまり、リー師のセンターへ来ようと思うなら)、(お釈迦様の教えを実践する)宗教が目指すべき平安と幸せを我々(リー師のセンターの指導者)全員が到達できる(という確信を持って)全力であなた(の訓練)を応援したいと思っています。

さて、次に説明しようと思うmethod 2は、大部分の人に、これまでに説明したmehod 1よりずっとやさしくて、ずっと気楽にやれると感じるでしょう。
(和訳終了)

Method 2の和訳は公開しません。理由は、1を実践する方には必要ないと思うからです。

(和訳開始)
そこで、あなたが(世間的な段階から)超俗的出世間的な段階に進みたいなら、あなたが知るもの、見るものすべてをたった一つの心を向けるもの(preoccupation)---(つまり)ekaggatarammana=一点への精神集中(the singleness of mental absorption)に集約し(まとめ)なさい。(そうすることで)それら(all the things)すべてのものが同じ性質(特性nature)のものであるということを知りなさい。あなたがはっきりと真理を知るまで、あなたの全ての智慧と気づきを寄せ集め、それ(寄せ集めた全て)を一点に集中させなさい。
(その真理とは)あらゆる物がもともとはただ生じては滅して行くものなのだということです(that all of these things, by their nature, simply arise and pass away.)。あなたが知る(the things you know and see=anything fabricated)もの---あなたが心を奪われるものたち(preoccupations)---をあなたのものだと(勘違いして)それに執着して(latch onto)はいけません。これは(正しく)自分だという(as your own)、あなたの中から生じた知識(knowledge=自我の意識)を信じてそれに執着してはいけません。それらのものに関しては、ただ、それらが本来あるべきようにあらせなさい(Let these things be, in line with their own inherent nature.)。あなたが気を奪われるもの(preoccupations)に執着するなら、それはストレスや苦痛に執着し続けることなのです。あなたが知識に執着するなら、それはストレスの原因へと変わっていくのです。

つまり(So)、集中していて平静な心は、智慧を生じさせる。この智慧が道(path)なのです。あなたが知るあらゆる過ぎ行くものは、ストレス(の元)です。けっしてその知識(All of the things that come passing by for you to know)に心を縛り付け(執着させ)てはいけません。あなたが知る次々に現れる心を奪うもの(preoccupations)に心を執着させてはいけません。それら(them=preoccupations)をそのあるがままにさせておきなさい(それらにかかずらうなということらしいdon't fasten onto)。心を気楽にさせておきなさい。心を(何かに)縛り付けて(執着させて)、心とはこれであるとかあれであるなどと想像させてはいけません。あなたがあなた自身(自我)というものを想定し(suppose)続ける限り、気づきが覆い隠されてしまうため(無明の状態)苦しみを受けることになる。あなたがこれらのこと(以上の説明のような事柄)に関する真の知識(智慧=明智)を得ることが出来たなら、あなたに超俗・出世間の知慧---人が獲得可能な最高の善、最高の幸せ---が生ずるでしょう。
(和訳終了)

(和訳開始)
あなたがこの段階に達すると、ついに智慧(knowledge=*註 慧のこと)が顕われてきます。(そうすると)身体は綿毛のような光を発します。心は安らぎ爽やかになります。それは、何ものかに捉われることのない、真に自立した、何ものにも依存する必要のない状態(supple, solitary, and self-contained)なのです。(その時あなたには)肉体感覚上の喜びと心の安らぎというこの上ない感覚(an extreme sense of physical pleasure and mental ease)が生じます。

もしあなたが智慧と(瞑想の)技を努力してでも獲得したいのであれば、いつでも思うがままに、(瞑想に)入りたいときに入れるように、(瞑想から)出たい時に出られるように、(瞑想に)留まりたい時は留まれるようになるまで、これらのステップ(*註:入息・出息の気づきの,侶盈?ら、5番目のbaceを達成し、智慧が顕れるまでのことか)の訓練をしなさい。あなたがそれらのステップを習得できた時には、きらきら輝くような白い球体または光の一塊(に見える)呼吸(息)のニミッタをあなたが生じさせたい時にはいつでも生じさせることができるようになっているでしょう。智慧を得たいときは、(5番目のbaceで獲得する球体・光の塊の)輝き(brightness)とそれ(brightness)しかない状態(emptiness)のままにしておいて、ただ心を平静にさせ(still)、(心が)執着しているものの方に心を向ければいいのです。あなたが知りたいと思っている(*それについての智慧を得たいと思っている)もの、つまり、あなた自身や他の人たちに関係のあるものの内面や外面を1~2回考えなさい(*そのものに心を集中させること?)。そうすれば、智慧が生じてくるか、心の中に像が現われてきます。あなたが完璧な熟練者(expert)になるためには、可能なら、訓練を積んできた者で、またここまで説明したようなこと(訓練)に熟達している者から直接学びなさい。なぜなら、この種の智慧は、精神集中の訓練からのみ生じてくるからです(*註:知識を学ぶ時のような努力と、精神集中を習得する努力とは種類が違う、コツが違うということか。)

精神集中で生じる智慧は二種類ある。世俗的なもの(mundane)と、超俗的(出世間)なものです。

<<☆☆☆>>
 With mundane knowledge・・・true and false mixed together までは訳してない)。

--だが、ここで”真”というのは、単に心が形成するものの段階におけることである。そして、(そういう心で)形成されたものはなんでも、本来、変わるものであり、一定不変でないものであり、ある状態を持続できないものなのである。
(和訳終了)

ここらあたりまで来ると、私の経験では推測不能な領域となるのでしょうか。文章の意味することを読み取るのがものすごく大変。

私の経験不足という意味の中に、テーラヴァーダ仏教の常識不足も入っているかもしれません。

現在、ブッダゴーサの「ヴィシュッディマッガ(清浄道論)」をぽつぽつ読んでいるんですが、ぽつぽつではとても間に合いません。

テキストは、
 \掬賃膣兒嫐? 屮凜スッディ・マッガ(清浄道論)和訳」序言・上・中・下  http://www7.ocn.ne.jp/~jkgyk/にて公開中
◆Visuddhimgga the Path of Purification Translated from the Pali by Bikkhu Nanamoli

を利用。

△蓮▲董璽薀凜 璽栖愀犬留冓犬鯑匹爐箸、どうしても辞書だけでは意味の取れない語があり、専門の辞書(中村先生のものなど)を買うお金もないので、ヴィシュッディマッガの勉強と英語の勉強を兼ねてと思い買いました。

つまり、正田師の訳語とNanamoli師の英語を対応させようというわけです。
狙いは正しかったようで、大いに参考になっています。

訳せなかった箇所についても、Visuddhimaggaの説明と関連がありそうなので読み取り中です。

(和訳開始)
あなたの(訓練の深まりが)この段階に達すると、あなたは呼吸(息)によってニミッタと呼ばれる種々のしるしが生じてくるのが分かるでしょう。(種々のしるしとは)頭の中に(何かが)見えたり、暑い・冷たい・ひりひりする感覚を感じるなど。あなたは、青白く濁った霧状のものや、あなた自身の頭骸骨が見えるかもしれない。たとえそういうことが起っても、あなたは現われてきたものに惑わされて(のめり込んで)はいけない(don't be affected)。もしもあなたがニミッタが現われて欲しいと願わないなら(ニミッタに気を奪われたくないなら)、深く長い息をしなさい。(その息を)心(heart)の中に飲み込になさい。すると、たちどころに、ニミッタは消えてなくなります。
☆nimittaについて---三橋円寒訳「観息正念」p70-71.

さて、あなたがニミッタが現われたのを知ったとき(*註:の正しい対処法)は、慎重に注意深くあなたの気づき(awareness)をニミッタに集中させます(*註:してはいけないとリー師が言うのは、be affected by whatever appears=nimittaであって、やって良いのは、mindfully(注意深く) focus your awareness on it。it=nimitta.)ただし、一度に集中して良いのはたった一つだけです。すなわち、(現われるニミッタの中で一番気に入った(あなたにあっている)ものを一つだけ選んでそれに集中するのです。あなたが一度しっかりそのニミッタを捕まえたら、(今度は)そのニミッタをあなたの頭の大きさと同じまで拡大しなさい。きらめく白いニミッタは身体と心に有益で役に立ちます。そのきらめく白いニミッタは、あなたの体中の血液を浄め、肉体的な苦しみの感受を和らげ、消しさってくれる清浄な息です。
 ☆清浄な息---三橋円寒訳「観息正念」p54呼吸体参照。

あなたが今話した、頭と同じ大きさの白い光(のかたまり)をしっかり捕まえたら、(今度は)その白い光(のかたまり)を、5番目の留まる所(bace)となる胸の真ん中にもって行きなさい(bring)。その白い光(のかたまり)が(胸の真ん中に)しっかり固定されたら、その白い光(のかたまり)を胸いっぱいに拡大させなさい。(白い光のかたまりでもある)この息(*註:少し前にあったIt's a pure breathのことだと思う)をできる限り真っ白く、できる限り輝きを増すようにしなさい。それができたら、身体の各部分の上にその部分の像が現われる位にまで、その息と光の両方を体中に、毛穴の外までに拡大しなさい。もしその像が嫌だと感じたら、2、3回長い呼吸をしなさい。そうすれば、それらの像は消滅します。あなたの気づき(awareness)をしっかり固定し、拡大したままにしていなさい。けっして、他のニミッタがたまたま(今あなたの体の中で輝いている)息の輝きの中に紛れ込んできても、あなたの気づきがその(紛れ込んできた)ニミッタを掴んだり、(紛れ込んできた)ニミッタに惑わされたり(のめりこんだり)しないようにしなさい。心(mind)を注意深く見守り続けなさい。心を一つのままに保ちなさい(Keep it one意味するところがよく分からない)。心をたった一つのもの(single preoccupation)、新しく吸い込んだ息だけに集中させ(intent on)、この新しい息を身体全体に溢れるほどにいきわたらせる(suffuse the entire body)ようにしなさい。
(和訳終了)

(和訳開始)
そして今度は、(長い短い・粗い穏やか・浅い深いなどの)呼吸のいろいろな様相に気づき(attention)をしっかり向けながら、徐々に気づき(attention)を自分の内部に向けるようにしなさい。その重要な(呼吸の)様相が各種の直観力を生じさせる:(各種の直観力とは、以下のようなもの)
クレヤボヤンス(常人には見えないものを見通す力・天眼通)、クレヤオージャンス(常人にない聴力・天耳通)、他人の心を読める能力(他心通)、前世を思い出せる能力(宿命通)、人や動物が死んだ後どこに再生するか知る能力、身体とつながっていて身体の役に立つ各種の要素や潜在力(the various elements or potentials that are connected with, and can be of use to, the body)である。これらの要素は、呼吸(出入息)が留まる所(the bases of the breath)から生じる。(baceには以下のような身体の部分=所がある)

 ^貳嵬椶(呼吸が)留まる所(bace) 
(まず)鼻の先端に心(*註:=気づき)を集中させなさい。(集中できるようになったら)今度はゆっくり心を前頭部(額)の中央に移動させなさい。
◆‘麋嵬椶卜韻泙觸(bace)
気づき(*註:心)を拡げて、そのままにしなさい(Center the mindで一点に集中した心を)。少しの間心(*註:気づき)を額の中央に止トドめなさい。(少し経ったら)次に、心を鼻(の先端)に戻しなさい。(次に、鼻に戻した)ちょうど登山家が山を昇り降りするように、心を鼻と額の間で7回か往復させなさい。
(それができたら)今度は、心を額に固定しなさい。もう、心を鼻(の方)へ戻してはいけません。
 (それができたら、次は)ここ(額)から、心を三番目の留まる所へ移動させます。
三番目の留まる所は、頭のてっぺんの中央です。(心を、額から頭のてっぺんの中央に移動できたら)少しの間、心をそこ(頭のてっぺんの中央)に固定させなさい。心を拡げたままにしなさい(Keep your awareness broad)。その地点(頭のてっぺんの中央)で、息を吸いなさい。少しの間、今吸い込んだ息を頭全体に拡げるようにしなさい。それができたら、心を額の中央に戻しなさい。(次に)心を額と頭のてっぺんの間で7回往復させなさい。終ったら、心を頭のてっぺんに止トドめなさい。
ぁ∥海い董⊃瓦鮖揚嵬椶了澆瓩襪箸海蹇△垢覆錣繊脳のど真ん中に連れ込みます(*註:=移動させる)。
少しの間(脳のど真ん中から)心を動かさないようにしなさい。次に心を頭のてっぺんに連れ出しましょう(移動させましょう)。(それから)心を頭のてっぺんと脳のど真ん中の間で連れ込んだり、連れ出したりを繰り返させなさい。それが終ったら、心を頭のど真ん中に固定させなさい。心を拡げたままにしなさい。脳の中で新しく吸い込んだ息が、身体の下方部分まで広がるようにさせなさい。
☆ローゼンp63.
(和訳終了)

(和訳開始)
次にこれ以降は、呼吸(息)を数えずに行ないます。つまり、(数えないで)ただ、入息と同時に”bud”、出息と同時に”dho”を念じなさい。呼吸はリラックスして自然に行なうようにしましょう。心をできるだけ(あちこち彷徨わないように)じっとさせ、鼻孔を出入りする呼吸に(心を)集中させなさい。息を吐く時に、心がその息(出息)についてどこか外へ彷徨い出ないようにしなさい。同じように、息を吸ったときに、心がその入息の後について、中へふらふら入っていってしまわないようにしなさい。(呼吸に対する)気づき(awareness)は、大きく・明るく・ひろびろさせよう。決して心が力みすぎてはいけない。リラックス(することが大切)。ひろびろとした開けた大気の中で呼吸しているのだと思いなさい。心を海岸の渚に建てられた標識の柱(?)のようにしっかり落ち着いたもの(still)にしなさい。波が押し寄せてきて海面が上がっても、その標識の柱は海面としっしょに上がらない。潮が引いていっても、標識の柱は(引き潮と一緒に行かず)沈まないで(渚に立って)いる。

あなたの(訓練が進み、心の)平静さ(stillness)がこの程度のレベルになったら、(呼吸と同時に)”buddho”と念じるのを止めても大丈夫でしょう。ただ、呼吸の感覚(*註:鼻孔を出入りする感覚)を気づく(be aware of)だけにしなさい。
(和訳終了)

(和訳開始)
それでは、入息・出息を一組みとして息を数えながら、入息・出息を念じ(think)なさい。
 ,呂犬瓩蓮息を吸いながら(入息しながら)”bud-フド”と念じ、息を吐きながら(出息しながら)”dhoド-”と念じなさい。これ(入出息を一組にして)を10回繰り返しなさい。
◆,弔鼎い銅,のようにやりなさい。入息と同時に”buddhoブドゥ”と念じ、出息と同時に”buddho”と念じるのを7回繰り返しなさい。
 つづいて次ぎのようになりなさい。一回の入出息で、1回”buddho”と念じるのを、5回繰り返しなさい。
ぁ,弔鼎い銅,のようになりなさい。一回の入出息で、3回”buddho”と念じなさい。このようにして、3回、入出息を繰り返しなさい。
(和訳終了)

(和訳開始)
右足を左足の上に重ねて半跏趺座ハンカフザ(の坐法)で坐ります。その時、手のひらを上にして右手を左手に重ねて腿(lap)の上に置きます。身体を真直ぐに立てます(背すじを真直ぐにする)。そして、心を自分の前面に集中させます。尊敬の念を持って胸の前で両手のひらを合わせ(合掌し)、ブッダ・ダンマ・サンガの素晴らしさを心に念じなさい。:
(*註:http://www.no-fear.org/medchair.htmに瞑想するアーチャン・ムン師の写真があります。)

Buddho me natho -- The Buddha is my mainstay(頼みの綱・大黒柱). Dhammo me natho -- The Dhamma is my mainstay.
Sangho me natho -- The Sangha is my mainstay.

次に心の中で、”buddho, buddho; dhammo, dhammo; sangho, sangho”と念じなさい。(そしたら)、手を腿の上に戻し(て、右手を左手の上に置喜)、一つの言葉、”buddho”を心の中で三度念じなさい。
(和訳終了)

では心の集中の訓練にどんな風に取り掛かれば良いのか説明しましょう。訓練を始めるに当たって(心の準備をしましょう。まず)、胸の前で両手を合わせて(合掌して)跪ヒザマズきなさい。次に、以下のように唱えながら三宝を心から敬いなさい:

  Araham samma-sambuddho bhagava:
Buddham bhagavantam abhivademi. (bow down)

Svakkhato bhagavata dhammo:
Dhammam namassami. (bow down)

Supatipanno bhagavato savaka-sangho:
Sangham namami. (bow down)

つづいて、あなたの敬いを示すために、心でしっかり思い、言葉に表わし、態度でも示しながら、ブッダに敬意を払いなさい。

  Namo tassa bhagavato arahato samma-sambuddhasa (三回繰り返す)
(ナモ タッサ バガバット アラハット サンマ-サンブッダ)
(世尊であり、阿羅漢であり、正自覚者である、かのお方に敬礼し奉ります)*この訳は、http://hohi.at.webry.info/から頂きました。

続いて三宝への帰依を表明しなさい。

  Buddham saranam gacchami. (私はブッダに帰依いたします)
(ブッダム サラナム ガッチャーミ)
Dhammam saranam gacchami. (私はダンマに帰依いたします)
(ダンマム サラナム ガッチャーミ)
Sangham saranam gacchami. (私はサンガに帰依いたします)
(サンガム サラナム ガッチャーミ)

Dutiyampi buddham saranam gacchami.(再び私は・・・)
(ドゥチャムピ ブッダム ・・・)
Dutiyampi dhammam saranam gacchami.
Dutiyampi sangham saranam gacchami.

Tatiyampi buddham saranam gacchami. (三度私は・・・)
(タチヤムピ ブッダム ・・・)
Tatiyampi dhammam saranam gacchami.
Tatiyampi sangham saranam gacchami.

続いて、以下のような決意を表明しなさい:”私は今からこの命が終るまで、清浄なお方、完全に汚れを離れたお方であるブッダに帰命いたします。(ブッダの)教えであり、実践であり、(解脱の)達成であるダンマに帰依いたします。四つの階梯(預流果・一来果・不還果・阿羅漢果)を達成しているブッダのお弟子たちのサンガに帰依いたします。

  Buddham jivitam yava nibbanam saranam gacchami.
Dhammam jivitam yava nibbanam saranam gacchami.
Sangham jivitam yava nibbanam saranam gacchami.

次に、あなたが(毎日の生活の中でこれを)守ろうと決めている5、8、10、227の中の(あなたが守ると決めた)守るべき事柄(シーラ=戒)を、一言の誓いの言葉で表現して、それを守る決意をはっきり言いなさい。

  Imani pan~ca sikkhapadani samadiyami. (three times)
(上の誓いは、五つの戒(五戒)を守ろうする方のもので、意味は、”私は訓練のための五つの決まり(五戒)を守ることを約束します”:(五つの戒とは)
 \犬物の命を取りません(殺しません)。
◆‥陲澆鬚靴泙擦鵝
 道に外れた性行為をしません。
ぁ ̄海鬚弔ません。
ァ(酒や麻薬のような)人を酔わせ(て、正気を失わせ)るものを飲みません。

  Imani attha sikkhapadani samadiyami. (three times)
(上の誓いは、八つの戒を守ろうとする方のもので、意味は、”私は訓練のための八つの決まり(八戒)を守ることを約束します”:(八つの戒とは)
 \犬物の命を取りません(殺しません)。
◆‥陲澆鬚靴泙擦鵝
 性行為をしません。
ぁ ̄海鬚弔ません。
ァ(酒や麻薬のような)人を酔わせ(て、正気を失わせ)るものを飲みません。
Α\妓瓩ら夜明けまで食べ物を食べません。
А仝世物(歌舞音曲)を見たり、身体を美しく見せるために身を飾りません。
─∥が高く、豪華贅沢なベッドや椅子を使いません。

  Imani dasa sikkhapadani samadiyami. (three times)
(上の誓いは、十の戒を守ろうとする方のもので、意味は、”私は訓練のための十の決まり(十戒)を守ることを約束します”:(十の戒とは)
 銑Δ蓮八戒に同じ。
А仝世物(歌舞音曲)を見ません。
─/搬里鯣?靴見せるために身を飾りません。
 足が高く、豪華贅沢なベッドや椅子を使いません。
 お金の授受をしません。

  Parisuddho aham bhante. Parisuddhoti mam buddho dhammo sangho dharetu.
(上の誓いは、227戒を護ろうとする方のものです。)

今あなたは、三回ずつお辞儀をして、あなたの心の思いと言葉と行いとを、ブッダ・ダンマ・サンガのように清浄にすると言葉に出して誓いました。(それでは)坐って、胸の前で両手を合わせて、思いを落ち着かせて、善意・思いやり・感謝・平静さの四つの崇高な心構えを育みなさい。これらの(四つの崇高な心構えを育もうとする)思いを生きとし生けるものすべてにもれなく及ぼそうとするなら、(そういう思いは)計ることの出来ない崇高な心構え(四無量心のこと)と呼ばれます。(この四つの崇高な心構えを=四無量心)覚えられないで困っている方にぴったりな短いパーリ語の決まり文句があります。

  Metta(メッター=慈)---自分の幸せとあらゆる生き物の幸せを願う優しい思いやりと愛(心)
◆Karuna(カルナー=悲)---自分とあらゆる生き物のためを思う限りない思いやり(の心)
 Mudita(ムディター=喜)--- 自分とあらゆる生き物が持つ善い心に喜びを感じ感謝する(心)
ぁUpekkha(ウッペカー=捨)--- (和訳できませんでした) 
 *avaro註: 銑い蓮瓢楊砧命粥匹里海函

(和訳開始)
道の真理は常に真実(正しいもの)である:徳は真実であり、精神集中は真実であり、洞察は真実であり、解放(*註:解脱)は真実である。しかし(肝心の)私たちが真実で(で正しく)なかったなら、私たちは真実なものにめぐり合うことはない。もしも私たちの徳・精神集中・洞察の訓練が真実で正しいものでないなら、結局まやかしものや模造品を手にすることになるだけだろう。そして私たちがまやかしものや模造品を使用していると、私たちは面倒に巻き込まれるだろう。だから私たちは心が真実で正しく在らねばならない。私たちの心が真実で正しいならば、私たちはダンマ(*註:真理)の味わいを、世間にあるありとあらゆる味わいをはるかに凌ぐ味わいを堪能しつつ味わえるだろう。

こういうわけで、私は以下のような、”心が呼吸を捉え続ける(訓練)”のための手引書をまとめたのです。

平安でありますように!

  Phra Ajaan Lee Dhammadharo

1953年に、BangkokのWat Boromnivasにて。
(和訳終了)

以上でIntrodectionは終了です。

(和訳開始)
ある人々は、如何に彼等が高い教育を受けていたとしても、やっていることを見ると(教育に縁がない)未開文明の人たちと何ら変わらない。これが彼等が(己の本当の無知に無自覚なために)ただ浮かれて(自分ではちゃんとできると思っていても)雲の上の彼方へ飛んで行ってしまう理由なのです。ある人々は、高水準の学習や、考え方や見解だと信じるものは習得しているが、精神集中(を訓練すること)を彼等にふさわしいことだとは思っていないので、精神集中(心を集中させるため)の訓練をしようとしない。彼等は自分のことをそれよりも(精神集中の訓練なんかしないで)じかに洞察による解放(*註:解脱)を目指す資格のある者だと思っているのだ。事実、彼等は滑走路を見失ってしまったパイロットと同様、大惨事に向かってまっしぐらに突き進んでいるのだ。

心の集中の訓練というのは、自分自身の滑走路を建設していることなのだ。そうしていれば、洞察が生じた時に、安全確実に解放(*註:解脱)を達成できるのです。

(お釈迦様の教えである)この宗教を実践することによって習得し完成したいと願っているなら、これまでに説明したように、道を行くための三つの学ぶべきことがら---徳・精神集中・洞察---を養成しなければならないのです。そうしないならば、どうやって私たちは四つの聖なる真理(四聖諦)を了知した(know=*註:身につけた)と言い得るだろうか? というのは、道---神聖(見事)な道と言い得る---は、徳と精神集中と洞察(*註:慧)から成るのだからです。もし、私たちが自分の中でその道(徳と精神集中と洞察から成る)を養成していないならば、私たちはその道を知る(熟知し精通する*註:体得する)ことは出来ない。知ることができない時、私たちはどうすればいいのだろうか?

概してほとんどの人は、結果だけを早く得たがるが、土台作りはあまり好きではないようだ。私たちが善なるものと清浄なるもの以外を求めようとしないとしても、もし土台作りをしっかりやらないならば、私たちは(善なるものや清浄なるものを手に入れることが出来ないので、こういうものをもたない)貧しいままの状態を続ける他ない。お金は大好きだが働くのは大嫌いだという人と同じように。こういう人たちははたして善良で堅実な市民になれるのだろうか? 貧乏という金欠病にかかった時、彼等は堕落して身を落したり、犯罪に手を染めたりすることになるだろう。同様に、私たちが(お釈迦様の教えを受け継ぐ)宗教の分野においても結果だけを求め、仕事をしない(真面目に努力しない)なら、私たちは貧乏を続けなければならないだろう。そして私たちの心(heart)が貧乏なままなら、私たちは(神聖な道以外の)どこか他のところで(本当の善なるもの・清浄なるものではない、何かそれらの代わりになる)何か良いもの---貪欲とか利益とか高い地位とか楽しいものとか称賛とかの世間の誘惑---を探し求めなければならないだろう。よく分かっているように。これが私たちが正しく知っていない理由であり、その意味は、実際に私たちが正しくないことをやっているということなのだ(*註:正しくないこと=土台作りを嫌がること)。
(和訳終了)

(和訳開始)
しかし、(ものごとを言葉にして表わした)概念(concept)と絡み合った、眼に見えるもの、音、匂い、味、感触のようなものを通して知識を探し求めるならば、それはちょうど私たちが同時に六人の先生から学んでいるようなもので、それでは、私たちは真理(ありのままの真実)を明らかに観ることはできない。このやり方は、ちょうどブッダがまだ六人の先生について学んでいた時には、目覚める(悟る)ことがなかったのと同じです。その後ブッダは、(*註:六人の先生に付くのを止めて=六つの感覚器官に頼るのを止めて)自分自身の心(heart and mind)に目を向け、自分で自分を訓練することにして、そのための方法としてまず呼吸を追い続けることを始めて、最終的なゴールに達するまで徹底的にそれを続けた。あなたもこれからの六つの感覚器官から知識(真理)を求め続けるかぎりは、あなたは(何時までも)同時に六人の先生から学び続けることになります。しかしもしもあなたが誰にでもある呼吸に目を向けるなら、呼吸は心がとどまれる場所であり、心が集中できる場所なので、あなたにはありのままの真実---buddha(真の智慧・知ること)と呼ばれる---に出会う(体得する)可能性が生まれるのです。
 *註:n~ana-cakkhu--- the eye of wisdom (pan~n~a--cakkhu)

一部の人たちは、心を集中させる(精神集中の)訓練をする必要はないと信じている。というのは、それらの人たちによれば、それらの人たちがpan~n~a-vimutti(智慧による解脱=deliverance through wisdom)と呼ぶ洞察力(discernment)だけに取り組むことで、洞察力による解放(*註:release=解脱)を達成できると信じているからです。しかし、これは決して本当だとは言えません。(なぜなら)洞察による解脱(release through discernment)も心の平静さによる解脱(release through stillness of mind=ceto-vimutti)も、実はどちらも、心の集中(精神集中)に基づいて可能だからです(*註:どちらも精神集中が獲得されているから可能なのだと言いたいようです)。これら二つの間の違いというのは、(何を重んじるかという)度合いの違いに過ぎない。このことを、歩行に譬えてみます。通常、人は片脚だけでは歩けません。では、どっちの足を大事だと考えるべきなのかというと、それは人それぞれの習慣や特徴で決まることなのだと言えるだけなのです(右足だという人にとっては右足が大事だというただそれだけのことだ、つまり、どっちも必要で、どっちかに決められないと言いたいようだ)。

洞察による解放(=*註:解脱)というのは、心が徐々に静止した状態(*註:平静な状態)になるまで世界のさまざまな事象や様相を深く考えること(熟考)から始まる。そして、一たび心が静まると(平静になると)、直感的に洞察(insight =vipassana-n~ana=*註:慧)の解放を引き起こす(*註:直観的な慧が生じる)。それは四つの聖なる真理(ariya sacca=*註:四聖諦)に関するはっきりした本当の理解であります。(一方)心の平静さによる解放(=*註:解脱)の場合には、しかしながら、それほど複雑な熟考を必要としない。心が確固とした洞察(fixed penetration=*註:慧)の段階に達するまで心はひたすら平静となることに集中しているだけなのです。それこそが、心がものごとをありのままに観る(to see things for what they are)ことができるようになる直感的洞察(intuitive insight=*慧)が生じる場(面)なのです。これが心の平静さによる解放(*註:解脱)なのです。まず精神集中が生じ、次に洞察(discernment)が生じるのです。仏典に関して広範な知識を持ち、経典に記述されている字句とその意味に精通していて、その(経典に関する)教義のあらゆる重要項目を明快に正しく説明できるのだが、心のインナーセンター(精神集中)を欠いている人というのは、丁度、雲や星はよく見えているのだが、(肝心の)滑走路がどこにあるのか分からないままで飛行機を飛ばしている(操縦している)パイロットのようなものなのです。彼の行く手には面倒なことが待ちかまえています。もし(どこを目指せば良いのか分からずに)空高く舞い上がれば、大気圏外に飛び出してしまう。結局彼がやれることと言ったら燃料切れになるまでぐるぐる飛び回ることだけで、結局最後にはどこかの荒野に墜落することになる。
(和訳終了)

(和訳開始)
私たちが心の集中と平静を養成したならば、(必ず)洞察力が生じます。ここで言う洞察力というのは、いわゆる私たちが日常的に使用する洞察という言葉(の意味するもの)とは違います。それは直接心と関わった時だけ得られる洞察力(insight=*註:ものごとの真実を見抜く力=直観のようなこと)のことなのです。例えばそういう洞察力というのは、過去世の生存を思い出せる能力だったり、来世でどこにどんな生き物として生まれ変わるかを知る能力だったり、心に積もり積もった汚れの滓を洗い流してきれいにする能力だったりです。これら三種類の直観(These three forms of intuition=*註:洞察力=insightのこと)---これらは、nana cakkhu=心の目と名付けらている---は、自らを訓練する人々の心(heart and mind)の中に生ずる。
 *訳者註:三つの直観は、六神通の内の、宿命通・天眼通・漏尽通のことらしい。
(和訳終了)

”私たちが心の集中と平静を養成したならば、(必ず)洞察力が生じます。”
これまでの文章をお読みいただければ、洞察(洞察力)とは、慧(知恵)を生じる瞑想=ヴィパッサナーに関わることだとお分かりいただけるでしょう。

テーラヴァーダの瞑想マニュアルでは、大体が、定(サマディ)によって精神集中を養成し、平静な心を獲得できるとしています。

”平静な心”というものが、実際の場面でどう働くのか、まだ私には実感がありません。

例えば、如何なる恐怖に直面しても動じないようなことなのかどうか、よく分からないのです。

自分のことでいえば、私は一種のパニック障害(あるいは恐怖症)がありますので、ある現象に直面すると、どうしようもなく怖くなります。
いい歳をしてと自分でも呆れるのですがどうしようもありません。

瞑想を始めると、そういう恐怖が湧いてくることがあります。
もう瞑想どころではありません。
”平静な心”を養成すれば、そういう恐怖に直面できるようになるのかなぁと期待しています。

「ゴエンカ氏の・・・」を読むと、ヴィパッサナーにおいては、そういう恐怖と対決する(という言い方は良くないかも)場面があるかもしれないと書いてあります。

”苦”の根元を辿り、それを観察し続け、それによって洞察を得て、慧を獲得するのであれば、強固な心が必要でしょう。
あるいは、精神の集中にはそれ以上の力・働きがあるのかもしれません。

しかし、その次にある説明は理解不能です。すなわち、

”例えばそういう洞察力というのは、過去世の生存を思い出せる能力だったり、来世でどこにどんな生き物として生まれ変わるかを知る能力だったり”

というような説明です。

もしこれが一種の付録のようなもので、獲得してもしなくてもどっちでも良いんだよ、というような説明がついていれば納得できないこともないのですが、いかにもこれが重要であるような説明をされると困惑するのです。

お釈迦様が過去世というものを本当はどう捉えていたのかがよく分からないのです。

私は、そんな能力の必要性を納得できないのであります。
過去世を知ったことで、”苦”の生存を離脱できるというのであれば必要かもしれないが、どうも経典はそういう説明をしていないようなのです。

まして、涅槃という目標は、来世を予定していないのですから、全く不要なものとしか考えられないのです。

では、どうしてこういう説明がされるのでしょうか。
それは、テーラヴァーダ仏教の修行の根本マニュアルである、5世紀ごろの学僧ブッダゴーサ著「ヴィシュッディマッガ(清浄道論)」の影響らしいのです。
*ヴィシュッディマッガは勉強中なので、これ以上の説明不可。
したがって、この説明部分については私はパスします。

(和訳開始)
私たちが仏・法・僧というものの本質に迫ろうとするなら(同等の物を体得しようとするなら)、道は一つしかありません。その道は、心を養成する訓練(バーヴァナーbhavana)という道です。
(和訳終了)

短いフレーズですが、問題の多いフレーズです。

訓練という言葉は日常よく使う言葉ですから理解しやすい。

原文を引用させてもらいます。

There is only one way we can properly reach the qualities of the Buddha, Dhamma, and Sangha, and that's through the practice of mental development (bhavana).

訓練は英語ではpracticeです。プラクティスというカタカナ語もよく使います。
これを(多分)パーリ語では、bhavanaバーヴァナーと言うようです。

参考とするために、ウィリアム・ハート著「ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門 豊かな人生の技法」(太田陽太郎訳 春秋社)から引用させていただきます。

(引用開始)
問題は心のなかにある。だから心の次元で対処しなければならない。そのためにはバーヴァナーの修行を行なう必要がある。バーヴァナーのほんらいの意味は「心の開発」だが、平たくいえば瞑想のことである。・・・。バーヴァナーには、精神集中(サマーディ)の訓練と知恵(パンニャー)の訓練という二つの意味がふくまれる。精神集中の訓練は「平静さの育成」(サマタ・バーヴァナー)とも呼ばれ、知恵の訓練は「洞察力の育成」(ヴィパッサナー・バーヴァナー)とも呼ばれる。バーヴァナーの修行はまず精神集中から始めることになるが、この精神集中のは「聖なる八つの道(八支の道・八正道)」の第二部を構成する。
(引用終了)

バーヴァナーは、前回出てきた三学の内の二つ、定(サマーディ)と慧(パーンニャ)の訓練のことだとされています。

和訳の中で言われている”たった一つの道”とは、お釈迦様の示された道であり、今で言う三学のことになります。
リー師も、”仏・法・僧というものの本質に迫ろうとするなら(同等の物を体得しようとするなら)”道は一つしかありませんよと、キチンと説明しています。

ところが、この一つの道に関してこんな説明もあります。

タイの高名な比丘、ブッダダーサ(プッタタート)比丘の講義録「観息正念Mindfulness with Breathing」(三橋ヴィプラティッサ円寒訳 プッタタート財団)から引用させてもらいます。

(引用開始)
サマーディバーヴァナー(正定修行・集中による精神鍛錬・瞑想)、または、ヴィパッサナー(無常、皆苦、無我を洞察する瞑想)は、そのいろいろな体系、形式、様式、方法がたくさんの異なる名称と指導者により教えられています。しかしここでは、特に釈尊ブッダにより詳細に説かれ広められた、サマーディバーヴァナーのアーナーパーナサティ(観息正念)を論議することにします。
この方法は、パーリ・ピタカ(南方三蔵)のなかに、その「概説」と「詳細な解説」の二つが載っております。アーナーパーナサティはブッダの体系であり、「ブッダのサマーディバーヴァナー」なのです。そして、昨今、一部で強く薦められている、ビルマや中国、スリランカの様式ではありません。また、それと同じように、今日日、だれかの言い張る、アーチャンだれそれ、師匠だれそれ、または、だれそれ師、だれそれ先生の体系でもありません。さらには、スアンモークは、どこかの修行林の様式でもありません。そうではなく、この様式はひとえにブッダの薦められた正しい実践法なのです。ブッダご自身が、サマーディバーヴァナーの形式をとおして、「完全な覚醒へのダンマ」を悟られたのだと「アーナーパーナサティスッタ(観息正念の教え)」で明らかにされております。スアンモークでは、この体系を学び、実践しております。本書では、特にサマーディバーヴァナー、または、ヴィパッサナーの様式としてこれを論ずるつもりです。
(引用終了)

*.汽泪妊バーヴァナー=サマタバーヴァナー ▲僉璽蝓Ε團織=テーラヴァーダ仏教の三蔵 アーチャン=タイでの比丘の尊称、先生と言うような意味らしい。日本語の阿闍梨に相当。い世譴修譴琉譴弔多分ゴエンカ氏。 ゥ好▲鵐癲璽=タイにあるブッダダーサ師の瞑想センター

三橋師の訳に従えば、practiceは、鍛錬とか実践と訳しても良いようです。あるいは、修行でも良いような気がします。

さて、ブッダダーサ師の打ち明け話を読むと、同じ三学の修行(訓練)と言っても、それこそ”たった一つのやり方”があるのでなく、実は、指導者や地域によってかなり違いがあるのだなぁということが分かります。

そのいずれもが、お釈迦様正統の修行法だと主張しているようですから不思議です。
どうしてこういう事態が生じるのでしょう。

それは、いわゆる三蔵(経蔵=スッタピタカ、律蔵=ヴィナヤピタカ、論蔵アビダンマピタカ)に残されたお釈迦様の説明が簡略なためだと思われます。

私もそういう事情を承知して諸師方の説明を読むようにしています。

そして、もう一つ大事なことは、このたった一つの道は、お釈迦様の教えを納得する者にとってだけ”たった一つ”だと言うことです。

(和訳開始)
(今あなたが進もうとしている)道で、第一に体得するものは徳(正しい行いをすること)で、最後に体得するものは洞察なのですが、この二つ(徳と洞察力)の体得は、特段に困難なものではありません。しかし、道で第二に体得する、心に集中力をつけ、その状態を維持するということは、かなりの努力が要る。というのは、心に集中力をつけ維持するということは、努力して心をある状態(集中した状態のこと)に仕上げる(形にする)ということにほかならないからだ。間違いなく、心を集中させるということは、河の真ん中に杭を打ち込み(橋げたを作り)橋を架けるのに似ていて、困難な仕事なのだ。しかし心はいったん適切にしっかりと確立されると(橋が正しい場所に架けられたように)、その心は徳と洞察力の養成向上に大変役に立つこととなる。(譬えてみれば)徳というのは、こちらの岸に(橋げた用の)杭を打ち込んであるようなもので、洞察力というのは向こう岸に杭を打ち込んであるようなものなのです。だが、(この二つ、こっち岸の杭と向こうの岸の杭があっても)河の真ん中の杭(すなわち集中した心)が、あるべき場所にがっちりと打ち込まれていないと、苦という激流(の河)にどうやっても橋を架けようがないのです。
(和訳終了)

テーラヴァーダ仏教の修行法、戒定慧の三学の説明を橋脚の譬えでしています。

”徳”と言っているのが、”戒(シーラ)”のことです。
”洞察”が”慧(パーンニャ)”です。
そして、”心に集中力をつけ維持する”が”定(サマディ)”です。

リー師は、特にサマディが習得も難しいし、働きも重要だと言っているように思えます。

私にとっては、戒も定も慧もどれも難しそうです。
どれも中途半端です。

簡単な言葉遣いですが、重要なことを伝えようとしている部分です。

私たちが自分の外にあると思っている物事が実は心の中にあるのだと言っていると思います。

”心頭滅却すれば火もまた涼し”です。
お釈迦様の教えの核心だと思います。

<なぜなら、この世界においてもっとも力のあるもの---それはあらゆる善と悪、喜びと痛みを生じさせるたった一つの力---は、心(heart)なのだからです>

善とか悪がまずあるのでなく、まず善・悪だと思う”心”(の機能---遺伝子と学習)があって、その心が善や悪だと判断するのだいうことだと思う。

火が熱いというのは事実です。
しかし、同時に、熱いというのは心(脳)で感じるだけのことでもあるのです。
熱いというのは、生物イキモノである人間の”反応の仕方”であるということです。
熱いというのは、別な言い方をすれば、物質の振動・運動の程度の問題です。

人が善悪と判断することも、ライオンの立場に立てば(立てばの話ですが)善でも悪でもないはずです。

木の譬えで、心を心材と言っていますが、タイではこういう譬えが一般的なんでしょうか。
訳語が不適当なんでしょうか。
言いたいことは何となく分かるんですが。

性根が腐っていると人間全体が駄目になるという言い回しと同じなんでしょうね。

性根を定めないといつまでたってもふらふらした人間のままですよと言いたいようです。

今の所分からないのは、心をheartとmindの二通りに表現している部分です。
私は区別できなかったので、まとめて心としましたが、他の部分にもこの使い分けがあったような気がします。

訓練された心(集中力のついた心)には何が出来るのかという重要なことを伝えようとしている部分です。

”心を集中させること(精神集中と)とは、心が本来持っている潜在的な力を一つにまとめることなのです。もともと持っているそれらの潜在力がちょうどいい具合に一つにまとまると、(一つにまとめられた)それらの潜在力は、(あなたの心を汚したままにし、無知のままにしておく)敵の破壊を可能にする力となるのです。”

私が知っているお釈迦様の遺言とされるものは、

「さあ、修行僧たちよ。お前たちに告げよう。『もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成しなさい。』と。」(中村元訳『ブッダ最後の旅 大パリニッバーナ経』岩波文庫)

という、ディーガ・ニカーヤ第16経「マハーパリニッバーナスッタ」第6章の最期にある言葉です。

その修行のやり方についても、おなじ第16経の第2章で、お釈迦様がこう教えています。

「それ故に、この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ。では、修行僧が自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとしないでいるということは、どうして起るのであるか?

アーナンダよ。ここに修行僧は身体について身体を感じ、熱心に、よく気をつけて、念じていて、世間における貪欲と憂いとを除くべきである。
感受について感受を観察し、熱心に、よく気をつけて、念じていて、世間における貪欲と憂いとを除くべきである。
心について心を観察し、熱心に、よく気をつけて、念じていて、世間における貪欲と憂いとを除くべきである。
諸々の事象について諸々の事象を観察し、熱心に、よく気をつけて、念じていて、世間における貪欲と憂いとを除くべきである。

アーナンダよ。このようにして、修行僧は自らを島とし、・・・、他のものをよりどころとしないでいるのである。

アーナンダよ。今でも、またわたしの死後にでも、誰でも自らを島とし、・・・、他のものをよりどころとしないでいる人々がいるならば、かれらはわが修行僧として最高の境地にあるであろう、--誰でも学ぼうと望む人々は--。」(中村元訳 岩波文庫)

ここでお釈迦様が述べられている四つの観察対象とは、ブッダダーサ師の説く修行法「観息正念」(三橋円観訳)の”瞑想すべき四つの対象”(四念処)のことです。
身体(カーヤ)、感受(ウェダナー)、心(チッタ)、諸々の事象(ダンマ)です。

この修行法はアーナーパーナサティスッタやマハーサティパッターナスッタで詳しく説明されています(詳しくと言ってもハウツウものとは趣が違い、難解)。

お釈迦様は言います。

”自分を頼りとし、法を頼りとし、他人や他のものを頼りとしないでどうしてわたし(お釈迦様)の言う最高の境地に到れるのか、それは、・・・」

この場合の法とは、現今の仏教で言う”法”ではありません。
それは、お釈迦様が生前に指導した、どう生きれば良いのかという教えとその具体的な実践法のことです。
それを要約したものが、マハーパリニッバーナスッタからの引用文であり、それをもう少し詳しくしたのが、上の二つの経典だと思います。

核心は ”もろもろの事象は過ぎ去るものである。”という真実を体得することだと思います。

他人や他のものとは、当時の理論・哲学・聖仙の教えと、ブラフマン・アートマン、ガンジスの聖水や聖なる木、聖なる火などの信仰の対象のことだと思います(お釈迦様以前のバラモン教の信仰や新しく興った思想のこと)。

それらの理論や聖なるものは正しいかもしれないが間違っているかもしれない。
それを確かめようがない。
いくら議論しても、考えても、実践しようにも、具体的な合理的な手がかりがない。

それに対して、”自分”は誰でも確かに知っている、確認できる。
自分だけが”苦”を実感しているし、実感できる。
”法”は、お釈迦様が実際に目の当たりに体得したものだとお釈迦様自身が確認したものであります(お釈迦様が亡くなってしまった現在からすれば、それも聖仙の言葉かもしれないが)。

そして観察(瞑想)の対象の四つも、誰でも確認できるものであり、それを観察するというのは決して不合理なことではない(四つ目の諸々の事象=ダンマがちょっと曲者ですが)。

お釈迦様が目指したのは解脱(再死の輪廻からの離脱)といわれるが、それより現代の私には、”苦”の止滅だけが目標だったという説明の方が説得力がある。

確実な”苦”の止滅のためには、果てしない議論をするような”考え方”や”も”のをあてにすることは出来ない。
丁度現代科学で行なうように、確実なものとそうでないものを慎重に選別していったのではないか。
お釈迦様が現在経典に残されている方法をどうやって獲得できたのかも非常に参考になる事柄かもしれないが、もっと差し迫った事柄は、すでにある確実な方法を実践して成就することです。

確実なものとは、誰でも出来る”はず”の現実的な方法です。
コロンブスの卵です。
その確実性”はず”は、現代科学の実証を重んずる考え方に通ずるものです。

自分は誰でも確認できる。
呼吸も確認できる。
出来なければ死んでいるわけですから。
では、呼吸に対する気づきによって精神集中は誰にでも体験できるのか。
確実に出来るのでしょう。
多くの人が体験(実証)しているようですから。

問題は次の段階です。
この精神集中の助けによって自分の中で起こっている通常無意識領域の活動あるいは生理的反応のようなものまで観察す(知る)ことが出来るのかどうかです。
お釈迦様の説明によれば、これも体験(実証)出来なければならないのです。
テーラヴァーダ仏教の教義書、「ヴィシュッディマッガ(清浄道論)」やそれを実践しているミャンマー・タイ・スリランカの比丘たちは体験(実証)したと言っています。(ヴィシュッディマッガは読書中)

このあたりからが本当の議論の対象です。
精神集中については諸師の言っていることが同じようです。
ところが、一番肝心な”常に気づきを持っていなければならない”、と上の引用文でお釈迦様が言っておられるその気づいていることに関する記述にばらつきがあるような気がします。

確かにそうですね。

この部分も科学的精神で記述しなければ現代に通用しません(賢治もこんなことを言っていたような気がします)。
何とかやってみたいですね。
頑張ってやりましょう。
(ちょっと尻切れトンボで申し訳ない。)

お釈迦様の教えというのは、心を中心にした事柄ですから、当然”脳”が深く関わってくる。

経典によれば、お釈迦様自身も自分の身心の中に”恒常不変な本当の自分(アートマン=我=心)”を探したとされる。

その結果、身心のどこにも”恒常不変な本当の自分(アートマン)”は見つけられずに、”無我(非我)”の真実を知ったとされる。
アートマンというのは恒常不変ですから、その人の赤ちゃんの時のアートマンと青年になった時のアートマンとは、全く同じモノでなくてはならない。
大きくなったり、皺がよったり、傷がついたりするはずがないものがアートマンの定義なんだそうだ。
確かにそんなものあるわけがない。

昔、ある人から真顔で心は心臓にあると言われた時は、正直ビックリした。

現代では、脳科学が急速に発達しているようで、心とか意識とか自我とか理性とか言われているものは全て脳の機能の一面であると考えられるようになっていると思っている。

脳はもちろん変化するものだから、経年劣化のような変質(神経変性疾患)があるようだ。

最近TVでよく取り上げられ、映画にもなった記憶を失う病もそういう変質の一例なのだろう。

記憶、特に自分の過去の出来事の記憶は大切なものだ。
過去の出来事の記憶をエピソード記憶と言うそうだが、このエピソード記憶はSF映画でも利用され、アンドロイドが人工的に自分のエピソード記憶を埋め込まれアルバムの写真を懐かしげに見る場面があったりする。

逆にこのエピソード記憶を失うと自分が分からなくなってしまう。
いわゆるアイデンティティを失ってしまう。
医者からそういう病気を宣告されたら本当に絶望するだろう。
エピソード記憶こそがその人そのものといっても良いのだから。
恋人の記憶も家族の記憶も無くなってしまうことを考えればどんなとんでもないことなのか想像がつくだろう。

アルツハイマー病がそういう病気の一つらしい。
病気というよりも、どうやら、一種の緩慢な老化現象であるらしい。

脳の機能は、意識とか思考とかエピソード記憶に関わるだけでなく、私たちが生きていくために必要なあらゆることをやっている。
呼吸をする、心臓を動かす、物を飲み込む、咀嚼する、排泄する、歩く、坐る、立つ、じっとしている、寝る、歌を歌う、恋をするなどなど。
脳の神経細胞が破壊されれば生きていくことすらできなくなる可能性もあるのだ。

脳とは、神経細胞の集合体だそうだ。
構造的には、腎臓が血管の集合体なのと同じだろう。
高血圧が腎臓に良くないのはそのためだ。

人の身体を構成している細胞にはいろんな種類があるそうだ。
例えば、皮膚を作る細胞は、どんどん作りかえられている。
怪我をしても新しい細胞が周囲から成長してきて傷を塞いでくれる。

ところが、脳の神経細胞は完成すると死ぬまで同じ細胞のままなのだそうだ。
従って、私のように隠れ脳梗塞が発生し始めると、確実に脳細胞の数は減少する。
アルツハイマーでは、この減少速度が猛烈なんだろう。

隠れ脳梗塞とは、脳の細い血管がつまって(栓塞)そこから先の細胞に血液(酸素や栄養)が行かなくなり、それらの神経細胞(脳細胞)が死んでしまうという現象なのだ。
脳のどの位置の神経細胞がどのくらい死んだかによって、障害の種類やひどさが変わってくる。
肺の活動に関わる部分が全滅すれば、窒息死となるんだろう。

さて、アルツハイマー(病)は、私には関係ないかななんて思っていたのだが、ある本の記述を読んで愕然とした。

アルツハイマー(病)は、大別して二種類あるそうだ。
晩期発症型と早期発症型だ。
私に関係するのは晩期の方だ。

愕然としたのは次の二つの記事による。

 仝蛭性アルツハイマー病(遺伝的でない)の発症リスクは、80歳を過ぎてから、急激に上昇します。欧米のデータでは、85歳で4人に1人、100歳では実質的に10人中9人が影響を受けている。
◆.▲襯張魯ぅ沺蕊造梁臠召蓮■牽虻舒聞澆鉾症します。2000年前の日本人の平均寿命は20歳ほどだったそうです。数百年さかのぼっても、80歳以上生きる人間はほとんどいなかったでしょう。したがって、本章で扱っているような脳老化のプロセスを特異的かつ積極的に制御するような機構は、元来合目的的な意味で存在しないだけでなく、進化による淘汰も受けていないと考えられます。加齢はガンを含む多くの疾患の危険因子ですが、アルツハイマー病が特徴的なのは、高齢者の羅患率の高さです。人類は文明の進歩によって予想もしなかった難問に直面したことになります。
 このように考えると、50歳以降の数十年は、人類にとって「新しい生命時間」だということになります。老いは身心の衰えとしてとらえられがちですが、人類進化の観点から考えれば、新しい冒険の時代だと言い換えることができると思います。(「脳研究の最前線 下 第7章 アルツハイマー病を科学する 西道隆臣著」 講談社ブルーバックス)

自民党と高級官僚たちに読ませたいものだ。
こんな素敵な冒険ってないだろう。
一人一人が考え、行動して幾つまで健康で生きられるかなんて、なんという素敵な冒険だろう。
それとも、後期高齢者は穀潰し(ごくつぶし)ですかねぇ。
後期高齢者が切り開かないと、人類の新しい時代は来ないんだよ。
官僚諸君もいずれ後期高齢者になり、25%以上の確立でアルツハイマー病になる危険があるんだよ。

西道さんが言っていることは、アルツハイマーは病気ではないということのようだね。

人類はつい最近までこれほどの長寿が実現したことがなかったため、脳の進化が高齢化に適応できていないということのようだ。
進化は選択だよね。
選択は結婚を前提にする。
しかし、超高齢者は結婚出産が難しい。
一体どうやって進化適応すればいいんだろう。

こういう時代に仏教はどう対応すべきだろう。

科学って面白いですなぁ。

このところ私はちょっと看護疲れ、妻も新しい状態に移り行く場面にあって、二人の歯車がまことにちぐはぐで、イライラ苛々の毎日です。

最近自分の診断では、私は躁鬱気味です。
なんということもないのに心が軽い時と、どうしようもなく閉塞的な時が交互にやって来るような気がするからです。
多分誤診でしょうが。

そんなこんなで、昨夜は久しぶりにkokiaさんの歌を聞きました。
「ありがとう」「祈りにも似た美しい世界」
kokiaさんの歌は透明で良いですね。

でも、パリのBataclanでkokiaファンと一緒に公演を楽しむkokiaさんの歌を聞いていて思ったんです。
「ありがとう」も「祈りにも似た美しい世界」も、相手が居るということをです。
もう一度”ありがとう”と伝えたい相手が。
音楽の楽しみ癒しを共有する相手が。
そもそも祈りというのは、祈る相手が必ず居ます。

ファンとkokiaさんが一体になって歌が楽しみとなり、癒しとなっているのだなぁとほほえましく感じました。

もしも、ファンが一人も居ないガランとした劇場で歌を歌うのだとしたら、それは限りなく寂しいことでしょう。

文字通り人は、人と支えあい共有し合い生きて行けるのでしょう。
人の限界を越える事柄については、超越的な力(絶対者・仏・法・神など)に自分を委ねきることで。

しかし、お釈迦様はそういう人間古来の生き方の限界に絶望し、新しい生き方を見出そうとしたのではないでしょうか。

お釈迦様以前は、愛や友情と同じように、信仰というのは、自分を支える拠り所を自分の外に求める方法だったようです。

自分の外にあるそのどれもが絶対的にお釈迦様を支えてくれないことを確かめ、自分の拠り所を自分の奥へと探しに入ったのだと思います。

自分のありのままを知る(観察し・洞察する)というのはこのことだと思う。

その方法として、サマタ・ヴィパッサナーを用いた。

その結果、それまでお釈迦様を翻弄していたものの正体を知ることが出来た。

人間というものがどういうものであるのかを知ったのだと思います。
人間を一切の既成概念によって見ることなく、お釈迦様自身の心だけで、ありのままに観て知ったというので、如実知見なんていう言い方があるのだと思います。
それまでお釈迦様が渇望したり嫌悪したりしていた行動には、お釈迦様が認め得るような価値がないことが分かったのだと思います。

ちょっと考えてみれば誰にも納得ゆくことです。

私たちがやっていることは、”ただ生きてゆくためだけに”価値があることだけなのではないでしょうか。
もちろんこの言葉の重い意味を分かったうえで言っています。
この言葉を実践するのは大変な勇気が必要ですから。

人間が人間にしか出来ないさまざまなことをやりながら生きているといっても、実は本質的には、鼠が生きていくためにやっていることと大差がないのだということをお釈迦様が知ったのだと思うのです。

そんなこと言うと、病気になっても診察してやらないぞって脅かされそうです。
確かに今の生活を捨てようとはなかなか決心できません。

私は生きることは”苦”に満ち溢れているということをこの身で体験しつつあります。

お釈迦様はその”苦”を除去することだけに的を絞って工夫されたのではないでしょうか。
その除去法では、いま私が勉強している観息正念という修行法が示すように、自分の内奥の現象だけを対象にしています。    

従って、自分の”苦”の除去は、自分にしか出来ません。
”苦”の除去に当たっては、自分の内部だけを対象にし、それだけに専念します。
外部とは出来るだけ関わりを持たないようにします。

例えば世間話のようなコミュニケーションすらも排除します。
経典の中でお釈迦様は「無駄口をしない比丘たち」を誉めています。
これはひたすら自己の内部だけを見つめ続けるためです。

”苦”を引き起こしかねない事柄を極力排除します。
戒を守るのはそういう意味でしょう。

殺生戒というのがあります。

世間の人々は肉を食べます。
お釈迦様の托鉢食にも肉が混じっているかもしれません。

この問題をお釈迦様はこう考えたと思います。

お釈迦様は今自分の内部に”苦”が生じないように修行している。
そのためにお釈迦様は自分の内部に専念しています。
世間とは関わりを持たないようにしています。

それに世間が肉食をすることはそもそもお釈迦様が修行したからといってどうなるものでもありません。
お釈迦様の信者になった王様が戦争をやめたかというと、そんなことはありません。
それが世間であり、それだから”苦”なのです。

お釈迦様も特に食についてだけは世間に寄食するほかありません。
当然、世間の人の食べ残しを貰うわけです。
後には、お釈迦様のためだけに食事が作られることもありましたが、原則的には世間の食べ残しを食べたわけです。
お釈迦様が好みの食べ物をつまみ食いしたのなら、殺生戒を破ることになるかもしれないが、世間に寄食するだけなら、やむを得ないことだと考える他ないでしょう。

つまりこうです。
肉食を認めたとか一部認めたとかいう問題なのではないのだと思う。
肉食というのは、世間の食の問題です。
お釈迦様の食は、世間の食の観念とは違う。
すなわち托鉢食(今御呼ばれ食は考えない)は、命をつなぐためだけのもの、世間的な食ではない、ということです。
美味しいとか美味しくないということは問題外なのです。
実際に「味わって食うな」と経典に書いてあります。

もし、お釈迦様が”肉を食べたいなぁ”とちょっとでも思ったら殺生戒を破ったことになるでしょう。

糞掃衣・樹下住・托鉢食というのはそういうことなのではないでしょうか。
衣住食に一切の執着を抱いていない、関心がないということです。

関心があるのはただ一つ、自分の内奥の現象の解明だけです。

スッタニパータがお釈迦様の教えの真髄を伝えているとした場合、いたるところに上述の事柄を証明する記述があります。

和訳に入る前にabsorptionの定義を。

ブッダダーサ師の「ANAPANASATI-MINDFULNESS WITH BREATHIN(観息正念--三橋円寒師訳)」にabsorptionに関して、次のような説明があります。

  Jhana means "to gaze, to focus" but the exact significance varies with the context. Here it signifies a high level of samadhi often translated "absorption.">
◆ jhana, (Common translations such as "absorption" and "trance" are unsatisfactory, but we have nothing better.) as a verb, to gaze, to focus, to look at intently; as a noun, deep samadhi in which the mind locks onto one object exclusively.>

ただし、これらの文章は本文ではなく、脚注や巻末の用語集の文章なので、三橋師の訳はありません。

´△砲茲譴弌単にジャーナ=absorptionとする場合もあり◆△泙拭absorptionが、深いジャーナ(完全な入定・禅定)=a high level of samadhi、deep samadhi in which the mind locks onto one object exclusively をさす場合もあるというように読めます。

この和訳では、禅定(ジャーナ)とします。

(和訳開始)
Q: Is it necessary to be able to enter absorption in our practice? 瞑想には禅定(ジャーナ)を達成しているということが必須なんでしょうか?

A: No, absorption is not necessary.いいえ、禅定(ジャーナ)は必須ではありません。
You must establish a modicum of tranquillity and one-pointedness of mind.ただし、ある程度、心の平静と一点集中(エッカガッタ)とが出来るようになっていなければなりません。
Then you use this to examine yourself.そうすれば、これ(平静・一点集中)によって自分自身を観察できます。
Nothing special is needed.特別な何かを必要としません(この場合は完全な入定(禅定)を指すのか)。
If absorption comes in your practice, this is OK too.仮に、瞑想に於いて禅定(ジャーナ)に達するならば、それはそれで良いことです(拒む必要はない)。
Just don't hold on to it.ただしかし、その禅定(ジャーナ)にしがみ付いてはいけません。
Some people get hung up with absorption.ある人々は(達成できた)禅定(ジャーナ)から離れられなくなっている。
It can be great fun to play with.禅定(ジャーナ)にはまっているとものすごく楽しい気持になれる。
You must know proper limits.(禅定を楽しむ場合は)適切な限界を知っているべきです。
If you are wise, then you will know the uses and limitations of absorption, just as you know the limitations of children verses grown men. あなたが賢い人ならば、まさにあなたが子供達と成人した男達の勝負には限界があることを知っているように、禅定(ジャーナ)の使い方と限界を知るでしょう。

 *the limitations of children verses grown menの部文、特にverses が分かりません。名詞なのか動詞なのか。あるサイトの英語学習の記事をヒントにして、versesを対戦のような意味にとって、一応上のように訳しましたが、意味が通らない感じ。
(和訳終了)

二つのQ & Aを読んで感じるのは、チャー師がサマタとヴィパッサナーの違いをうんぬんするのは意味がないと言いながら、逆にサマタの限界を強調しているような気がする。

(和訳開始)
Q: You have said that samatha and vipassana- or concentration and insight are the same. Could you explain this further?

A:
It is quite simple.ごく簡単です。
Concentration (samatha) and wisdom (vipassana-) work together.精神集中(サマタ)と智慧(ヴィパッサナー)は協同して働きます。
First the mind becomes still by holding on to a meditation object.まず、心が瞑想の対象に固着することで静まり(平静になり)ます。
It is quiet only while you are sitting with your eyes closed.心はあなたが目を閉じて坐っている間だけ静まって(平静なままで)います。
This is samatha and eventually this sama-dhi-base is the cause for wisdom or vipassana- to arise.これがサマタです。そして、この(サマタによって生じた)サマディの状態が智慧またはヴィパッサナーを生じさせることになるのです。
Then the mind is still whether you sit with your eyes closed or walk around in a busy city.そうすると、心はあなたが目を閉じて坐っていようが、賑やかな街中を歩き回っていようが、静まっている(平静なままでいる)のです。
It's like this.それはこんな感じです(以下の文を指示している)
Once you were a child.昔あなたは子供でした。
Now you are an adult.今あなたは大人です。
Are the child and the adult the same person? その子供と大人は同じ人ですか。
You can say that they are, or looking at it another way, you can say that they are different.あなたは”彼等は同じ人ですよ。”とも言えるし、見方を変えれば、”彼等は違う人ですよ。”とも言えます。
In this way samatha and vipassana- could also be looked at as separate.このようにサマタとヴィパッサナーは全く別々のものであるとも見なすことが出来ます。
Or it is like food and feces.一方、それは食べ物と排泄物(の関係)のようでもあるのです。
Food and feces could be called the same and they can be called different.食べ物と排泄物は同じものだとすることが出来ます。同時に、その二つは別なものだとすることも出来ます。
Don't just believe what I say, do your practice and see for yourself.((そういう訳で)まあとにかく、私の言うことを鵜呑みにしないで、自分で(瞑想)を行ってみなさい。そして、これらのことを自分で確かめなさい。
Nothing special is needed.何か特別な秘訣のようなものはないのです。
If you examine how concentration and wisdom arise, you will know the truth for yourself.あなたが(実際に)精神集中(サマタ)と智慧(ヴィパッサナー)がどんな風に生じるのかを体験すれば、真実を自分で確認できるのです。
These days many people cling to the words.現今、大抵の人が言葉(というもの)に捉われすぎています。
They call their practice vipassana.ある人々は自分がやっている瞑想を重要視します。
Samatha is looked down on.(それで)サマタを軽視します。
Or they call their practice samatha.一方ある人々は自分のやっているサマタを重視します。
It is essential to do samatha before vipassana-, they say.彼等は、ヴィパッサナーを始める前にサマタを実践することが必須だと主張します。
All this is silly.どちらも馬鹿げています。
Don't bother to think about it in this way.こんな風にこの問題(サマタとヴィパッサナーの関係)を考えて悩むことはありません。
Simply do the practice and you'll see for yourself. ただとにかく(瞑想=サマタとヴィパッサナーを)実際に始めれば良いのです。そうすれば、(答えを)自分で見つけられますよ。
(和訳終了)


このQ & Aで、アーチャン・チャー(チャー師)は、こう言いたいのでしょうか。

サマタとヴィパッサナーはそれぞれ違う働きをするが、この二つはお互いに何の関係もない全く別なもの(separate)でもない。
それは、丁度同じ人の子供時代と大人になった時のように、食べ物と排泄物のように、同じ機構の中で働いているものである。

だが、一番肝要なことは、言葉であれこれ規定したり想像したりしていては、いつまで経っても本当の事が分からないということのようです。(These days many people cling to the words.)

あれこれ憶測している暇があったら、今すぐ瞑想(サマタとヴィパッサナー)を始めなさい、ということなんでしょうかね。

その瞑想がなかなか進歩しないんでついついあれこれ見回してしまうんですね。

サマタとヴィパッサナー及びジャーナ(完全な入定)

(Questions and Answers:A Dhammatalk by Ajahn Chahより
 http://www.ajahnchah.org/book/Questions_Answers1.php)

*Ajahn Chah(チャー師)は、ラリー・ローゼンバーグの本によく名前の出てくるタイの瞑想指導者です。

チャー師のダンマトークの中のQ & A に「あなた(チャー師)は、サマタとヴィパッサナーとは同じ(もの)である、と言われました。このことについてもう少し詳しく説明してもらえませんか?」という質問があり、それに対する答えがあります。さらにその次には、「瞑想(の修行practice)では”没我の境地absorption”(=完全なジャーナ---「観息正念」p75)に入る必要があるでしょうか?」という質問とそれに対する回答があります。回答は、「観息正念」の説明と同じだと思います。

Q: You have said that samatha and vipassana- or concentration and insight are the same. Could you explain this further?

A: It is quite simple. Concentration (samatha) and wisdom (vipassana-) work together. First the mind becomes still by holding on to a meditation object. It is quiet only while you are sitting with your eyes closed. This is samatha and eventually this sama-dhi-base is the cause for wisdom or vipassana- to arise. Then the mind is still whether you sit with your eyes closed or walk around in a busy city. It's like this. Once you were a child. Now you are an adult. Are the child and the adult the same person? You can say that they are, or looking at it another way, you can say that they are different. In this way samatha and vipassana- could also be looked at as separate. Or it is like food and feces. Food and feces could be called the same and they can be called different. Don't just believe what I say, do your practice and see for yourself. Nothing special is needed. If you examine how concentration and wisdom arise, you will know the truth for yourself. These days many people cling to the words. They call their practice vipassana. Samatha is looked down on. Or they call their practice samatha. It is essential to do samatha before vipassana-, they say. All this is silly. Don't bother to think about it in this way. Simply do the practice and you'll see for yourself.

Q: Is it necessary to be able to enter absorption in our practice?

A: No, absorption is not necessary. You must establish a modicum of tranquillity and one-pointedness of mind. Then you use this to examine yourself. Nothing special is needed. If absorption comes in your practice, this is OK too. Just don't hold on to it. Some people get hung up with absorption. It can be great fun to play with. You must know proper limits. If you are wise, then you will know the uses and limitations of absorption, just as you know the limitations of children verses grown men.

この二つは直接関係しません。
世界平和とお釈迦様の教えが現実的にはほとんど関連しないのと同じです。

お釈迦様の教えは、個人の内面の問題に対する対策です。
すべての個人がお釈迦様の教えに従って内面の対策を行なえば、結果的に世界平和は実現できます。
しかし、お釈迦様の教えに従って個人の内面を変革しないままでは、お釈迦様の教えによる世界平和は不可能です。

これに対して、新型インフルエンザ封じ込め対策は、内面の問題とはほとんど関係ありません。
お釈迦様の教えが私たちの精神・心の領域にかかわるのに対して、新型インフルエンザ封じ込め対策は、人の物質面・身体にかかわることがらです。

お釈迦様の教えは徹頭徹尾個人の行為(実践修行)を前提としています。
しかし、新型インフルエンザ封じ込め対策は、個人では遂行が不可能に近い。
H5N1新型インフルエンザ封じ込め対策は国家レベルでの緻密な対策が不可欠です。

お釈迦様自身は世俗的な人生を肯定されなかったと思いますが、決して人類の生存を否定したりはしていないと思います。
「人は自分(の命)をかけがえのないものとして愛する。ならば、他の誰もがそれぞれ(の命)をかけがえのないものとして愛しているはずだろう。だから、他人の命をむやみに奪ってはならない。」
お釈迦様は人が必死に生きようとしている現実を見つめておられたのだと思います。

新型インフルエンザで子供たちがバタバタと死んでいくのを見過ごしていて良いとは絶対に思われなかったでしょう。

TBSの特番で、進藤奈那子医師の活動を観ました。
その中で、日本とエジプトの対応の違いを指摘されていました。

エジプトは、宗教のために鳥を食べるのだそうです。
そのため、鳥を沢山飼育していて、しかも、中国南部や東南アジア諸国のように、人と鳥が混住しているそうです。

エジプトでは、既に相当数のH5N1ウィルス患者が出ているそうです。
エジプト(政府?)は、エジプトの鳥と人との関係を踏まえて、相当以前から、新型インフルエンザ封じ込め対策を立案し、システムを構築し、隔離施設・医薬(タミフルなど)・医師・啓蒙担当者の育成などの対策を実践してきたそうです。

エジプトはオイルによる収入があるのかもしれないし、TBS特番で紹介された対策がエジプト全土をカバーしているのかどうかは不明ですが、少なくとも、日本の現状よりはましな感じがした。

私が仮に新型インフルエンザにかかったかもしれないと思ったとき、どの病院に行けば良いのかわからない。
どの病院も、新型インフルエンザかどうか診断可能な体制になっているのかどうか、なによりも日本の新型インフルエンザ対策として、レポートに出てきたエジプトの病院のような、「予防的に先手先手の対応をする」という国家的(?)指針が確立しているとは思えないからだ。

病院のたらいまわしの現実をTVで見るにつけ、厚生省・政府の対応に不安感を持つ。

新型インフルエンザに関しては、お釈迦様も政府・関係省庁・地方自治体・医療関係者・製薬会社などが利害打算ヲ脇に置いて、子供たちの命を守るよう願うことだろう。
新型インフルエンザ封じ込めは、お釈迦様の力が及ばないことがらですから。

「法(真理)にかなった利益に満足して商売をしなさい。」
「自分を愛するように、他の生き物を愛しなさい。」

私はほとんどのビックーを誹謗し続けています。
それはそれらビックーたちの言説に嘘を感じるからです。

もちろん、私自身はもっといい加減ですから、それらのビックーたちは私をそしる価値も見いいだせないでしょうが。

あるビックニーの説法の一部です。
私はこの方の説法から沢山学んでいます。
ですから、二重に悪行を犯しているといえるかもしれません。

(引用開始)
 八戒について、もう少し説明をしたいと思います。戒が一番基礎になっているわけで、皆さんがそれを理解できていれば良いのですが。八戒の第一は生き物を殺さないということで、すべての生き物に対して慈悲の心をもって接するということです。たとえば、蚊や、蟻に対しても同じことで、蚊が手に止まったとしても、それを殺すということをしません。心で殺そうと思うのも良くありません。殺すという意志を持つと、悪いカルマを作ってしまうからです。

 生きものを殺すという時に、三つの理由があります。一つは欲のため、二つは怒りのため、三つ目は物事がよく分からない、無知のためです。例えば殺したいという欲が起こった時は、生き物も私たちと同じように体と心を持っていて、同じように苦しみを味わっていると、そういう風に思うことによって欲望から離れることができます。

 またもう一つの方法として、自分が殺されるような目にあったら、どんな風に思うだろうかと反省し、思ってみて、その時の恐れや驚いた時の気持ちを感じてみます。それを自分のなかに見ることによって、慈悲の心を持ち、殺したいという欲望を断ち切っていくことができます。
 そして毎朝、慈悲の瞑想をします。「すべてのものが苦しみから自由でありますように。危険から自由でありますように」という風に、瞑想します。それで自分の家族に対して、「幸せでありますように」と言うだけではなく、すべての生きているものに対して慈悲を広げていくことにより、慈悲の心が深まって行きます。

 それで、慈悲の瞑想をして慈悲の心を養って行くと、心がとっても柔らかくなり、しかも自分の心が幸福感を感じることができるようになります。他の戒律、第一以下の戒律も、同じようにして、 原因があって結果があるということを見て、自分で護るようにして行きます。
(引用終了)

この方は、ご自分の身体を移動する時は必ず下を向いて、たった一匹の蟻さえも踏み殺さないようにして、水を飲むときは必ず濾し布で濾して飲み、食べるものはすべて悲鳴をあげるのを構わず血を流して殺さなければならないモノを避けているでしょう。
そしてもう一つ、きっと、この方は僧院から一歩も外の社会へ出たことがないのでしょう。

私が反発するのは、説法の相手はだれなんだろうか? という疑問が湧くからです。

このようなビックー・ビックニーを含めてほとんどの人間(ベジタリアンも)は、血を流さない食べ物を口に出来ない時代になってしまったのです。

どんな生き物の血でしょうか?

それは農民であり、労働者であり、一般市民であり、老人であり、子供であり、家畜であり、すべての陸や海の生き物たちです。

略奪や殺戮の代償が、今日私やあなたが食べる食べ物なのです。
ビックニーが直接手を下していなくても、穀物を栽培する農民が多くの害虫を殺して栽培しているからです。
あなたの部屋を温めるエネルギー源は、多くの血が流された紛争地域から供給されています。
あなたの代わりに兵士たちが血を流し合って戦っているのです。

H5N1の汚染地帯で、蚊を殺すなと言えるでしょうか?

慈悲とは何でしょう?

私たちはただひたすら生きています。
より幸福に生きたいと願って競い合っています。

その結果、ミャンマーでは、圧制が続いています。
オバマは、自分の支持者たちを満足させられるかもしれないが、それがchangeの限界でしょう。

今や時代は、慈悲とか平和とかいう言葉がむなしい響きを奏でる時なのです。

生きるということは、一人でいれば、常に戦いに勝ち、何かを食べ続けることなのです。

お釈迦様は何の矛盾も感じずに生きておられたのでしょうか?

まず、”お釈迦様の真実--なぜ臨終でジャーナを修したか”を読んでいただきたい。(下記URL)
 http://blogs.yahoo.co.jp/avaroikite/55212597.html

この文章で、お釈迦様が死に直面して何故ジャーナを修したのかという疑問の答えは明確にされたわけではないことを改めて確認しました。

それにしても仏教関係者はどうしてこんな重要な疑問を見過ごしているのでしょう。

まさか、お釈迦様は”仏”というスーパー何とかになったから”死”などという人間的な出来事は問題外だなんてお考えなんではないでしょうね。

涅槃(ニッバーナ)や般涅槃(パリニッバーナ)という”概念”に納得しているのかもしれませんね。
生きているお釈迦様のニッバーナとは具体的にどういうことなのか、お釈迦様の死によって完成したパリニッバーナの本当の意味っていうのは、皆さん、まだよくわかっていないのでないかなぁ、なんて。

”なぜ臨終でジャーナを修したか”part2を書くきっかけは、以下の文章との出合いです。

 悗気蕕法△泙拭◆婿爐砲ける〕最後の諸々の入息と出息の〔意に〕知られた状態(臨終時に呼吸を意識化している状態)を作り為すがゆえにもまた、その〔呼吸についての気づき〕には、大いなる福利あることが知られるべきである。まさに、このことが、〔世尊によって〕説かれた。「ラーフラ(人名)よ、まさに、呼吸についての気づきが、このように習い修められ、このように多く為されたとき、たとえ、それらが、あなたにとって、〔死における〕最後の諸々の入息と出息であるとして、それらもまた、まさしく、〔意に〕知られたものとして、消滅します。知られざるものとして、ではありません」(マッジマ・ニカーヤ1pp.425-6)と。』(正田大観師訳「清浄道論 第八章〔他の〕時々刻々の気づきたる〔心を定める〕行為の拠点についての釈示 9呼吸についての気づき(291-293)」)

◆悄屮蕁璽侫蕕茵△海里茲Δ妨撞曚紡个靴得鎖世鮟乎罎垢觸す圓鮟す圓掘△海里茲Δ某多く行なえば、大きな結果があり、大きな利益がある。ラーフラよ、このように呼吸に対して精神を集中する修行を修行し、[426]このように数多く行なうことによって、その最期の呼吸は感知されながら消滅する。感知されずに[消滅]しない」』(浪花宣明訳「第62経 入出息念の修行法(大ラーフラ教戒経)」春秋社)

リー師の英文を和訳していて和訳どころか理解さえ出来ない箇所があります。英文や用語の意味が理解できない場合もあります。
ブッダダーサ師の「観息正念」の英文は手元にあるので、検索をしてみたのですが、リー師(英訳者:タニッサロ師)の用語が出てきません。

そこで、リー師が依拠しているというブッダゴーサの「清浄道論」を読んでみようということになり、この文章に出会ったわけです。
出典が明示されていたので、その原典(「入出息念の修行法(大ラーフラ教戒経)」)を見ると、「清浄道論」に引用されている文章がありました()。

”あなたにとって、〔死における〕最後の諸々の入息と出息であるとして、それらもまた、まさしく、〔意に〕知られたものとして、消滅します。知られざるものとして、ではありません”(正田師訳)
”その最期の呼吸は感知されながら消滅する。感知されずに[消滅]しない” (浪花氏訳)

何故、マハーパリニッバーナスッタンタで、お釈迦様が死に直面してジャーナを修したと記述しているのか。
その理由は、ここにあるのではないだろうかと閃いたのです。

「入出息念の修行法(大ラーフラ教戒経)」の最後の締めでお釈迦様がおっしゃっていることの重大な意味は、単に”死に面して”ということだけでなく、お釈迦様の”悟り”そのものに関しても重大な意味を持っているような気がします。

この先は、正直推量できていません。
あなたがお考え下さい。

万愁庵は尼寺らしい質素だが心配りが行き届い住居兼道場だった。
小さいながら玄関もあり、下足箱もあった。
周り廊下もあり、廊下伝いに行けば狭い回廊で庫裏につながってもいた。

主室は万愁さんの部屋で、奥は床トコになっており、野草と庭園の草花が生けられていた。

襖で仕切られた隣の少し小さな部屋が蓮華尼の居室兼道場だった。
奥は押入れになっていて、二人の尼の寝具や着替えが片付けられていた。

瞑想の時間と就寝時だけ襖は閉められ、昼は二間続きの部屋として使われていた。
炊事は庫裏で行なっていた。
電気はそれぞれの部屋の電燈にしか使われていなかった。

道元禅師は越後の冬の寒さに年々体力を消耗し、ついに衰弱してなくなったといわれる。
この地が太平洋の暖流に面しているとはいえ冬の寒さは相当きつい。
冬に万愁さんを訪ねた時は、寒い部屋で講話を聴くのでちょっと辛かった。
信二があんまり寒そうだったので、次に訪ねた時には万愁さん手作りだというどてらのような綿入れを用意していてくれた。
お二人も綿入れを着込んでいた。

今は盛夏だが、もちろん冷房は入っていない。
裏山から涼しい空気が降りてくるのでなんとか凌げた。

「蓮華尼さん、こちらにいらっしゃい。」

万愁さんが声を掛けると、回廊から周り廊下へとすり足の音がして蓮華尼がやって来た。

蓮華尼は部屋に入るなり「あっ!」と声をあげた。

「やはりあなたはすぐに分かりましたか? いつも一緒に私の講話を聴いていたのですからね。」
「庵主さま。そんな......。そんなことが...!」
「私にもまだ本当に信じられません。でも、こうして目の前で起きていることなんですよ。信じる他ありません。」

蓮華尼は驚きのあまり立ち尽くしたままだった。

「蓮華尼さん、僕が分かるのですか?」

蓮華尼は興奮して少し震えていた。
震えながら何度も頷いた。

「蓮華尼さん、お座りなさい。」

万愁さんに促されて蓮華尼も信二の隣に坐った。

お二人はいつも柿色の衣コロモを着ていた。
万愁さんの衣は色が褪せ、よれよれに見えた。

蓮華尼はいつもは正面に目を凝らすような風をしていた。
眼に障害があるのだと万愁尼が言っていた。
信二と同い年くらいの蓮華尼が万愁尼に弟子入りした訳の一つだった。

信二の身体が生きていた頃、若い蓮華尼も信二の訪問を待ちわびていたようだった。
万愁尼に対するのとは違う若いもの同士の心の通いあいがあったからだ。

その信二が交通事故で死んだと聞いた時、蓮華尼は失神してしまった。
やっとこのごろ時折笑顔を見せるようになっていた。

今日は蓮華尼は真正面から信二を見ていた。
ぼんやりと見える眼で必死に信二を見ようとしていた。

「蓮華尼はあなたの事故死の知らせで失神してしまったのです。ずいぶん苦しんだようです。」

蓮華尼は信二から目を離さなかった。
信二は驚いた。
父ちゃん母ちゃん以外の人たちがこんなに自分を心配してくれていたなんて全く知らなかったのだから。

「心配をかけてごめんなさい。蓮華尼さん、今の僕の身体が見えてきましたか? 僕は、前の僕の身体じゃないんですよ。」
「ええ。見えます。まだぼんやりだけれど、お顔が違いますね。」

やっと蓮華尼の顔が微笑んだ。
蓮華尼がいきなり信二の両手をしっかりと掴んだ。
今度は信二がビックリした。

そしてまた、蓮華尼が急いで信二の両手を離した。

「信二さん、本当に生きてらしたのですね。........」

信二はふと花梨のことを思い出した。

花梨は真剣に竜一に思いを寄せていた。
それが信二にもよく分かった。

しかし、今蓮華尼から伝わってきた感じは花梨のものとは違っていた。
花梨が竜一に寄せる愛の思いとは違うものだと思った。

↑このページのトップヘ