暦年で比較すると、宮沢賢治は私のこれまでの生の半分くらいしか生きられなかったが、中身の濃さでは、私よりずっと長い時間生きたと思う。
賢治は童貞だったといわれる。
今の私はそのことについて、童貞かどうかはどうでも良いことだと思う。
普通人は恋愛をし結婚をする。
一生の間、異性に何の衝動も感じない人はあまりいないだろう。
人間は恋愛をし結婚をするようにプログラムされているのだから。
人は自分がどうして人間のか自分ではいくら考えても本当のことはよく分からないように、何で異性を恋うのかよく分からないで恋愛をし結婚をしている。
賢治は、そういう普通の人と相当違う人生観を生きた。
だから、女性観も相当違う。
今の時代でも結婚しない人は結構いるようだ。
しかし恋愛にも性交渉にも全く興味がわかない人は珍しいだろう。
そういう人は相当変わったプログラムを持っているのだろう。
異性を避けている(いた)人は結構いる。
お釈迦様の弟子たちがそうだ。
宮沢賢治は、そういう弟子たちと共通する考えも持っていたが、全く違う考え方もしていた。
<引用開始>
浮世絵 北上山地の春 < 詩篇75「北上山地の春」下書稿(一) >
一九二四、四、二〇、
一、
かれくさもかげらふもぐらぐらに燃え
雲?抜がつぎつぎ青く稜を織るなかを *avaro註:雲?抜ウンオウ=次々わいてくる雲のこと
女たちは黄や橙のかつぎによそひ
しめって黒い厩肥をになって
たのしくめぐるくいちれつ丘をのぼります *avaro註:めぐるく=うきうきして
かたくりの花もその葉の班もゆらゆら
いま女たちは黄金のゴールを梢につけた *avaro註:黄金のゴール=やどりぎの実
年経た栗のそのコバルトの陰影にあつまり
消え残りの鈴木春信の銀の雪から
燃える頬やうなじをひやしてゐます
二、
風の透明な楔形文字が
ごつごつ暗いくるみの枝に来て鳴らし
またいろいろの鳥も来て軋ってゐますと
わかものたちは華奢に息熱い純血種サラーブレッドや
トロッターやアングロアラブ
またまっ白な重挽馬に
水いろや紺の羅紗を着せ
やなぎは蜜の花を噴き
笹やいぬがやのかゞやく中を
おぼろな雪融の流れを遡り
にぎやかな光の市場
その上流の種馬検査所に連れて行く
三、
いそがしい四十雀のむれや
裸木の条影置くなかに
水ばせうの青じろい花
湯気立つ水のたまりには
ひきの卵の紐もぬるみ
向ふは古いスコットランド風の
円い塔ある事務所と厩舎
四角に積まれた厩肥の上で
ホークも白くひらめけば
風は青ぞらで鳴り
自然にカンデラーブルになった白樺もあって
その梢では二人のこどもが山刀を鳴らして
巨きな枝を落そうとする
こどもらは黄の芝原に円陣をつくり
まっ青な太陽のなかに三本脚の鳥を見れば
何か毛糸で編みながら
ステップ住民の春のまなざしをして
赤いかつぎの少女も座る
<引用終了>
この詩の日付は、詩集「春と修羅 序」の日付と同年で、ほんの三ヶ月後である。
序で、賢治は次ぎのように高らかに歌った。
<引用開始>
・・・・・・・・・
けだしわれわれがわれわれの感官や
風景や人物をかんずるやうに
そしてたゞ共通に感ずるだけであるやうに
記録や歴史、あるひは地史といふものも
それのいろいろの論料といっしょに
(因果の時空的制約のもとに)
われわれがかんじてゐるのに過ぎません
おそらくこれから二千年もたったころは
それ相當のちがった地質學が流用され
相當した證據もまた次次過去から現出し
みんなは二千年ぐらゐ前には
青ぞらいっぱいの無色な孔雀が居たとおもひ
新進の大學士たちは気圏のいちばんの上層
きらびやかな氷窒素のあたりから
すてきな化石を發堀したり
あるひは白堊紀砂岩の層面に
透明な人類の巨大な足跡を
発見するかもしれません
・・・・・・・・・・
<引用終了>
化石を掘っている大学士たちも、たぶんもう透明な時代の生き物になっているのだろう。
この序の考え方は、お釈迦様に共通していて、法華経の主張でもある。
もちろん、お釈迦様と法華経の主張はこの点ではほぼ同じでも、どこまでも一緒というわけではない。
人は生まれたままではこういう考え方にはほとんど到れない。
転換が必要なのだ。
お釈迦様と法華経(賢治)との違いはその転換の仕方・方法にあるのだ。
そして、普通最も人間らしいと思われている恋愛感情や家族愛が、実は、この転換にとっての最大の障害になるのだ。
賢治がそのことを詩篇「小岩井農場」の中で独白している。
賢治が「小岩井農場」でその独白をしたのは、「浮世絵 北上山地の春」の日付のほぼ二年前。
<引用開始>
・・・・・・・・・・・・
もしも正しいねがひに燃えて
じぶんとひとと萬象といっしょに
至上福しにいたらうとする
それをある宗教情操とするならば
そのねがひから碎けまたは疲れ
じぶんとそれからたったもひとつのたましひと
完全そして永久にどこまでもいっしょに行かうとする
この變態を戀愛といふ
そしてどこまでもその方向では
決して求め得られないその戀愛の本質的な部分を
むりにもごまかし求め得やうとする
この傾向を性慾といふ
・・・・・・・・・・
<引用終了>
お釈迦様の指導に従って涅槃を目指して修行していた比丘たちが、ひたすら己の内面を見つめていたのに対して、幸か不幸か、賢治は死の瞬間まで法華経の理想を信じ、みんなと共に幸せ(幸い)を得ようと努めた。
賢治は、出来れば仏ホトケになりたかっただろう。
それがかなわないなら、せめて天上に生まれ変わりたかったに違いない。
もちろん、自分とみんなの幸せを求めて。
そこでなら、寂しさを誤魔化す必要がないかもしれない。
性欲にせかされるような恋愛に悩むことなく。
大正13年4月、賢治は夜通し歩いて種馬検査所にやって来たらしい。
夜が明けるころ、各地から検査所に集まってきた人たちが、山道を一列になって登ってゆく。
みんな何か楽しげだ。
男たちと女たちと子供たちが一つになって楽しんでいる。
賢治は作品の中で、大人の”女”をあまり書かなかった。
普通に恋愛し、やがて大人になる、そんな”少女”も書かなかった。
この詩篇の中の女たちや少女たちも恋愛と無関係に描かれている。
賢治は”女”や”少女”との恋の代わりに自然に心を寄せた。
<引用開始>
風がおもてで呼んでゐる
「さあ起きて
赤いシャッツと
いつものぼろぼろの外套を着て
早くおもてへ出て来るんだ」と
風が交々叫んでゐる
「おれたちはみな
おまへの出るのを迎へるために
おまへのすきなみぞれの粒を
横ぞっぽうに飛ばしてゐる
おまへも早く飛び出して来て
あすこの稜ある巌の上
葉のない黒い林の中で
うつくしいソプラノをもった
おれたちのなかのひとりと
約束通り結婚しろ」と
繰り返し繰り返し
風がおもてで叫んでゐる
<引用終了>
その結果、とうとうこういうことになってしまった。
この詩は「疾中」(昭和3~5年)の中の一篇だから、「浮世絵 北上山地の春」から5年から7年後のことである。
賢治の心象は不気味な様相を呈している。
鴇色の風景も不気味だが、葉のない黒い林も不気味だ。
”じぶんとひとと萬象といっしょに
至上福しにいたらうとする”
その具体的な方法は明確に賢治の口から語られなかったが、法華経の示す理想を何とか具現しなければならないと考えていた。
欲界に溺れることなく、色界に生まれては努力し、無色界から、仏国土へと人々を導こうとしていた。
法華経という旗を高く掲げていた賢治には、欲界で恋をする謂れはなかったらしい。
賢治にとって、法華経は旗であり、仏塔であったのだろう。
”じぶんとひとと萬象といっしょに
至上福しにいたらうとする”
お釈迦様が居られたなら尋ねてみたい疑問だ。
果たして人間にそういうことは可能なのかと。
賢治は、私のような卑怯な考え方をしなかった。
ただ一途に邁進したように思える。
賢治は童貞だったといわれる。
今の私はそのことについて、童貞かどうかはどうでも良いことだと思う。
普通人は恋愛をし結婚をする。
一生の間、異性に何の衝動も感じない人はあまりいないだろう。
人間は恋愛をし結婚をするようにプログラムされているのだから。
人は自分がどうして人間のか自分ではいくら考えても本当のことはよく分からないように、何で異性を恋うのかよく分からないで恋愛をし結婚をしている。
賢治は、そういう普通の人と相当違う人生観を生きた。
だから、女性観も相当違う。
今の時代でも結婚しない人は結構いるようだ。
しかし恋愛にも性交渉にも全く興味がわかない人は珍しいだろう。
そういう人は相当変わったプログラムを持っているのだろう。
異性を避けている(いた)人は結構いる。
お釈迦様の弟子たちがそうだ。
宮沢賢治は、そういう弟子たちと共通する考えも持っていたが、全く違う考え方もしていた。
<引用開始>
浮世絵 北上山地の春 < 詩篇75「北上山地の春」下書稿(一) >
一九二四、四、二〇、
一、
かれくさもかげらふもぐらぐらに燃え
雲?抜がつぎつぎ青く稜を織るなかを *avaro註:雲?抜ウンオウ=次々わいてくる雲のこと
女たちは黄や橙のかつぎによそひ
しめって黒い厩肥をになって
たのしくめぐるくいちれつ丘をのぼります *avaro註:めぐるく=うきうきして
かたくりの花もその葉の班もゆらゆら
いま女たちは黄金のゴールを梢につけた *avaro註:黄金のゴール=やどりぎの実
年経た栗のそのコバルトの陰影にあつまり
消え残りの鈴木春信の銀の雪から
燃える頬やうなじをひやしてゐます
二、
風の透明な楔形文字が
ごつごつ暗いくるみの枝に来て鳴らし
またいろいろの鳥も来て軋ってゐますと
わかものたちは華奢に息熱い純血種サラーブレッドや
トロッターやアングロアラブ
またまっ白な重挽馬に
水いろや紺の羅紗を着せ
やなぎは蜜の花を噴き
笹やいぬがやのかゞやく中を
おぼろな雪融の流れを遡り
にぎやかな光の市場
その上流の種馬検査所に連れて行く
三、
いそがしい四十雀のむれや
裸木の条影置くなかに
水ばせうの青じろい花
湯気立つ水のたまりには
ひきの卵の紐もぬるみ
向ふは古いスコットランド風の
円い塔ある事務所と厩舎
四角に積まれた厩肥の上で
ホークも白くひらめけば
風は青ぞらで鳴り
自然にカンデラーブルになった白樺もあって
その梢では二人のこどもが山刀を鳴らして
巨きな枝を落そうとする
こどもらは黄の芝原に円陣をつくり
まっ青な太陽のなかに三本脚の鳥を見れば
何か毛糸で編みながら
ステップ住民の春のまなざしをして
赤いかつぎの少女も座る
<引用終了>
この詩の日付は、詩集「春と修羅 序」の日付と同年で、ほんの三ヶ月後である。
序で、賢治は次ぎのように高らかに歌った。
<引用開始>
・・・・・・・・・
けだしわれわれがわれわれの感官や
風景や人物をかんずるやうに
そしてたゞ共通に感ずるだけであるやうに
記録や歴史、あるひは地史といふものも
それのいろいろの論料といっしょに
(因果の時空的制約のもとに)
われわれがかんじてゐるのに過ぎません
おそらくこれから二千年もたったころは
それ相當のちがった地質學が流用され
相當した證據もまた次次過去から現出し
みんなは二千年ぐらゐ前には
青ぞらいっぱいの無色な孔雀が居たとおもひ
新進の大學士たちは気圏のいちばんの上層
きらびやかな氷窒素のあたりから
すてきな化石を發堀したり
あるひは白堊紀砂岩の層面に
透明な人類の巨大な足跡を
発見するかもしれません
・・・・・・・・・・
<引用終了>
化石を掘っている大学士たちも、たぶんもう透明な時代の生き物になっているのだろう。
この序の考え方は、お釈迦様に共通していて、法華経の主張でもある。
もちろん、お釈迦様と法華経の主張はこの点ではほぼ同じでも、どこまでも一緒というわけではない。
人は生まれたままではこういう考え方にはほとんど到れない。
転換が必要なのだ。
お釈迦様と法華経(賢治)との違いはその転換の仕方・方法にあるのだ。
そして、普通最も人間らしいと思われている恋愛感情や家族愛が、実は、この転換にとっての最大の障害になるのだ。
賢治がそのことを詩篇「小岩井農場」の中で独白している。
賢治が「小岩井農場」でその独白をしたのは、「浮世絵 北上山地の春」の日付のほぼ二年前。
<引用開始>
・・・・・・・・・・・・
もしも正しいねがひに燃えて
じぶんとひとと萬象といっしょに
至上福しにいたらうとする
それをある宗教情操とするならば
そのねがひから碎けまたは疲れ
じぶんとそれからたったもひとつのたましひと
完全そして永久にどこまでもいっしょに行かうとする
この變態を戀愛といふ
そしてどこまでもその方向では
決して求め得られないその戀愛の本質的な部分を
むりにもごまかし求め得やうとする
この傾向を性慾といふ
・・・・・・・・・・
<引用終了>
お釈迦様の指導に従って涅槃を目指して修行していた比丘たちが、ひたすら己の内面を見つめていたのに対して、幸か不幸か、賢治は死の瞬間まで法華経の理想を信じ、みんなと共に幸せ(幸い)を得ようと努めた。
賢治は、出来れば仏ホトケになりたかっただろう。
それがかなわないなら、せめて天上に生まれ変わりたかったに違いない。
もちろん、自分とみんなの幸せを求めて。
そこでなら、寂しさを誤魔化す必要がないかもしれない。
性欲にせかされるような恋愛に悩むことなく。
大正13年4月、賢治は夜通し歩いて種馬検査所にやって来たらしい。
夜が明けるころ、各地から検査所に集まってきた人たちが、山道を一列になって登ってゆく。
みんな何か楽しげだ。
男たちと女たちと子供たちが一つになって楽しんでいる。
賢治は作品の中で、大人の”女”をあまり書かなかった。
普通に恋愛し、やがて大人になる、そんな”少女”も書かなかった。
この詩篇の中の女たちや少女たちも恋愛と無関係に描かれている。
賢治は”女”や”少女”との恋の代わりに自然に心を寄せた。
<引用開始>
風がおもてで呼んでゐる
「さあ起きて
赤いシャッツと
いつものぼろぼろの外套を着て
早くおもてへ出て来るんだ」と
風が交々叫んでゐる
「おれたちはみな
おまへの出るのを迎へるために
おまへのすきなみぞれの粒を
横ぞっぽうに飛ばしてゐる
おまへも早く飛び出して来て
あすこの稜ある巌の上
葉のない黒い林の中で
うつくしいソプラノをもった
おれたちのなかのひとりと
約束通り結婚しろ」と
繰り返し繰り返し
風がおもてで叫んでゐる
<引用終了>
その結果、とうとうこういうことになってしまった。
この詩は「疾中」(昭和3~5年)の中の一篇だから、「浮世絵 北上山地の春」から5年から7年後のことである。
賢治の心象は不気味な様相を呈している。
鴇色の風景も不気味だが、葉のない黒い林も不気味だ。
”じぶんとひとと萬象といっしょに
至上福しにいたらうとする”
その具体的な方法は明確に賢治の口から語られなかったが、法華経の示す理想を何とか具現しなければならないと考えていた。
欲界に溺れることなく、色界に生まれては努力し、無色界から、仏国土へと人々を導こうとしていた。
法華経という旗を高く掲げていた賢治には、欲界で恋をする謂れはなかったらしい。
賢治にとって、法華経は旗であり、仏塔であったのだろう。
”じぶんとひとと萬象といっしょに
至上福しにいたらうとする”
お釈迦様が居られたなら尋ねてみたい疑問だ。
果たして人間にそういうことは可能なのかと。
賢治は、私のような卑怯な考え方をしなかった。
ただ一途に邁進したように思える。