疑問がいろいろあるがどれも読み解くのが難しい。
何故この詩篇が冒頭に置かれなかったのか?
現在の位置に有るのは単に日付だけが理由なのか?
「まことのことば」は何時から無いのか?
「まことのことば」と法華経の関係は?
恋と「まことのことば」の関係は?
賢治の因果の法則は、どの経典・論あるいは、誰の論を採用しているのか?
科学の法則と因果の法則との接点は?
因果の法則からも科学の法則からも束縛されない如来を認識する手立てはあるのか?
*はじめに。 このブログは、ヤフー・ブログから移行したものです。当初は、釈尊(お釈迦様・ゴータマブッダ)と宮沢賢治を探究してましたが、ある時点で、両者と距離をおくことにしました。距離を置くとはどういうことかと言いますと、探究の対象を信仰しないということです。西暦2020年となった今でも、生存についても宇宙についても確かな答えは見つかっていません。解脱・涅槃も本当の幸せも、完全な答えではありません。沢山の天才が示してくれた色々な生き方の中の一つだと思います。例えば、日本は絶対戦争しないで平和を維持出来るとおもいますか?実態は、戦争する可能性のもとに核兵器で事実上の武装をしています。釈尊の教えを達成したり絶対帰依していれば、戦争が始まっても傍観しているだけです。実際、中世インドでイスラム軍団が侵攻してきたとき、仏教徒の多くは武力での応戦はしなかったそうです(イスラム側の記録)。それも一つの生き方です。私は、武装した平和主義ですから、同じ民族が殺戮や圧政(現にアジアの大国がやっている)に踏みにじられるのは見過ごせない。また、こうしてこういうブログを書いているのは、信仰を持っていない証拠です。
私の分からないところは、悟りを得た人が、瞑想を楽しむ、ということです。
悟ったあとでも、楽しみのために何かをするということが、ありえるのだろうか、ということです。
それで。私としては、瞑想中は、完全に悟りの中にいるが、瞑想から覚めると、それは、俗世に舞い戻ってしまっているのではないか、悟りからちょっと後退しているのではないか、と考えています。
だから、その間は、苦しみを感じることもあるんじゃないだろうか、煩悩が生まれることがあるんじゃないだろうか、と思っています。
といっても、悟りを開いた人ですから、煩悩への対処は、凡夫たる我々とは比べようもないほど、素早く、かつ、的確だったのだろうと思いますけどね。
といっても、これはあくまで、凡夫の浅知恵ですから、悟りは、そんなものじゃない、ということになるのでしょうね。
ところで、賢治が、夜中に歩き回ったのは、性欲を抑えるためだった、という話を読んだ記憶があります。涙ぐましいですよね。人柄がよく現れている気がします。
[ mag**iok ]
2008/6/12(木) 午前 5:29
和井恵と言うネームの方のブログで、三明智は漏尽智・宿明智・死生智だというのは間違いだといってます。
http://blog.goo.ne.jp/waikei2008/e/b2ffc0bc5e70bc5d21392bf2c4a368fe
テーラガータやテーリガータで三明智獲得を目指していたことが分かってましたが、私も疑問でした。和井さんの言う三明智は納得ですね。三明智の第一は漏尽智だと思いますが、その明智はどの程度生理現象までもコントロールできたのかが問題ですね。なにしろ、こういう微妙な事柄になると、経典のどの文言を信頼して考えれば良いのかと言う最も基本的なことが確実じゃないんですよね。
[ ABAPO-OTTANTUNO ]
2008/6/12(木) 午前 11:43
今朝アップしてからずっとそのことを考えています。例えば、人の目の前で空を飛ぶことは絶対に出来ないですよね。これは物理法則に従う肉体(物体)の運動ですから。ところが、マウドガリヤーヤナ(モッケンレン尊者)が、瞬時に天に居るブラフマンの前に行くことは可能ですよね。これは物理的な運動ではないからです。苦しみも種類分けできます。そのうち、過去や未来を思い煩うようなのは、精神的な苦しみです。下痢でお腹が痛いのは生理的感覚的肉体的な苦しみです。前者は綺麗さっぱりなくすことは可能なんでしょうね。後者は、精神鍛錬で和らげることは出来ても、失くすことは不可能のような気がします。
[ ABAPO-OTTANTUNO ]
2008/6/12(木) 午前 11:43
眼から光が入ってくるのを(物理現象)辞めさせることは出来ないでしょう(眼をつぶるとかの問題ではなく)。また、そんな必要も無いとゴータマは考えていたような気がします。人間は、物理・化学現象である自分と宇宙を感覚器官を通して感覚しました。この段階では、いわゆるクオリアかそれより以前のカオス的な情報でしょう。これを脳が処理して、意識できる情報に変換したのでしょう。概念化とか分節化なんていうじゃないですか、こういう脳の働きのことを。不安感なんてのはどっちなんでしょうね。とにかく、ゴータマがコントロールできたのは、この処理の段階からの精神作用だけだと思います。カオスやクオリアはコントロールできなかったと思うのです。もし、ヴィパッサナの究極で、カオスやクオリアの認識(ごく広い意味での知る・意識する)が可能だとするなら、それはそれで結構なことでしょうが、あまり興味は無いですね。よけいな問題を作り出しただけになりそうだからです。こういう類のものが、禅のサトリのような気がしています。
[ ABAPO-OTTANTUNO ]
2008/6/12(木) 午前 11:44
川上 雪担師とのやり取り読みました。宝鏡三昧も少し読みました。この方、文章のスタイルが澤木興道ぶりで、ゴータマぶりではないので読みにくいですね。私より二つしか年上じゃないのに。確かに、老師はなにかを達観しているようにも感じられます。老師が最も自信を持っているのは、不動と確信している心の持ち様じゃないのでしょうか。比喩的にいえばクオリアです。一種の鍛錬の成果なんじゃないでしょうか。それで本人が納得ならばそれでも良いのかなって感じです。もしかしたら、ゴータマもカッサパもそんなものだったのかもしれませんね。
[ ABAPO-OTTANTUNO ]
2008/6/12(木) 午後 0:57
感覚器官が得た情報に、脳が、体が反応することによって起こる、痛み、苦しみ、を、自我が相手にしなければ、それは苦しみではない、という解釈がひとつできますよね。
禅宗において、放っておいて、手を付けない、というのがそれだと思っています。
ヨーガでは、肉体の痛みを、自我が相手にしない、ということを実現するために、あえて、痛みを起こしそうな姿勢で瞑想したりするようです。バンザイして、片足を上げたまま、長時間瞑想する、逆立ちしたまま瞑想する、というようなものです。
苦行をやる意義のひとつに、それもあるような気がします。
他方、感覚器官の情報そのものを、自我が全く相手にすることがなければ、そこには、肉体的な痛みも、苦しみも発生しない、と言えそうな気がします。
最終的には、古代インドの修行者は、そういうところを狙っていたのではないか、という気がします。
釈迦の悟りは、どのタイプなのか。
[ mag**iok ]
2008/6/13(金) 午前 11:23
肉体の痛み、苦しみの発生を抑えるタイプに限りなく近かった、肉体の痛み、苦しみは起きるけれども、それを自我が相手にしない、精神的な苦しみにはしない、というタイプではなかった、というふうに思っています。
でも、釈迦は、完全には、肉体の痛み、苦しみを滅することは出来なかった。それは仏伝にも現れていると思っています。
また、自我を滅して、自我とは無関係となった感覚器官の働きと、それに対する体の反応だけは残す、ということであるのかもしれない。それなら、肉体的な痛み、苦しみも当然そこにはない。痛み、苦しみを感じる自我がないのだから、という解釈もできそうです。
とはいえ、自我がなくて、感覚期間の働きとそれに対する体の反応だけで、人は、正常な社会生活が営めるのか、という疑問が湧きます。
自我が、肉体的な、痛み、苦しみを相手にしない、ということは、つまり、自我は痛み、苦しみを感じない、ということではないか、とも考えられます。
肉体的な痛み、苦しみを感じたけど、それを意識して自我が相手にしない、というのは、まだ修行の半ばである、というふうに解釈することも出来そうです。
[ mag**iok ]
2008/6/13(金) 午前 11:27
なんだか、訳が分からなくなってきましたね。
結局、そこに確たる回答は得られない。
そこに行ってみるしかない、ということになりそうな気がします。
[ mag**iok ]
2008/6/13(金) 午前 11:28
これについてのご返信は、当ブログの本文で書きたいと思います。お釈迦さまってどういう人?No3のテーマにします。でも、おっしゃるとおりやってみて、到ってみなければ本当のところは分からないですよね。しかも、その到ったところさえ、ゴータマと同じかどうかの確証も無いような気がしてますし。とにかく、前進しましょう。
[ ABAPO-OTTANTUNO ]
2008/6/13(金) 午後 1:24
こんにちは。ネットの検索をしていて偶然ここを見つけました。
私のブログ(和井恵)を紹介してくださって有り難うございます。
これからも、よろしくお願いしますね♪
[ wai-kei777 ]
2009/12/30(水) 午後 8:57
ヨッシー様、こちらこそ、よろしくお願いします。
[ avarokitei ]
2009/12/30(水) 午後 9:33
修行者は、食べ物をもらえなくても、残念に思うことなく、もらうまでうろつきまわったりせずに、帰ってくるように、とも言われていたようですね。
生きることに執着しない、死ぬことにも執着しない、食事ができるかどうかは、全くの他人まかせ。
せっかく食事をもらっても、舌で味わってはならない、味に執着してはならない、とまで言われていたようですね。
宮沢賢治は、禁欲を貫き通したようですね。でも、財閥だった家の影響か、いい服や靴を身に付けて、チェロを習いに東京まで行ったりと、なにか独特の価値観があったような気がします。それでいて、食事は菜食主義をやってみたり、小作人なみに貧しい食生活したり。
芸術には惜しみなく金を使う、ということだったのだろうか、という気がしました。
[ mag**iok ]
2008/6/8(日) 午後 7:58
また性懲りもなく、自分好みのゴータマを創り出そうとしています。ゴータマは、「人間に関わるものはすべて過ぎ行く」と言いましたよね。それは「法」にも当てはまるんじゃないでしょうかね。たった一つの生き方なんてほんとは無いんじゃないでしょうか。つまり、悟りというのは、一人一人違うんじゃないかなってことです。ゴータマは人間の本質に迫る発見をして、それに対応する生き方を見つけ実践した。本当に修行をした坊さんは、一人一人生き方が違うような気がします。ゴータマの十大弟子はみんな個性的ですものね。お体よろしいんですか?私は、まだまだ腰痛と厳しい戦いをしなければなりません。賢治は本当に芸術に生きがいを持っていたのでしょうか。宗教家と言うより、芸術家なんでしょうかね。それにしても、みんなのためっていうのは大変なことですね。
[ ABAPO-OTTANTUNO ]
2008/6/8(日) 午後 8:39
悟りには、いろいろある、というのは、そのとおりだと思います。
経典から、自分なりの悟りを解釈する、ということでいいのではないかと思っています。
歌や踊りをするように、農業がやれたら、農業は芸術だ、というようなセリフが賢治の映画でありました。
農村には、過酷な労働と、生殖、それしかないというようなことも言っていたとどこかで読んだ気がします。
だから、芸術にこだわったのかなと思います。
[ mag**iok ]
2008/6/8(日) 午後 9:07
ただ、それがクラシックというのは、いかに自分が好きだからとはいえ、農村にいきなりそれでは、賛同してくれる人が少ないのは、無理もないでしょうね。
クラシックだなんて、金持ちの道楽、およそ貧乏人には縁がない、という世の中だったのですよね。
でも、芝居はよかったのでしょうね。それなら受け入れやすいですよね。
[ mag**iok ]
2008/6/8(日) 午後 9:10
仏の教えを芝居にする、というのは、古くから行われいた手法のようですから、それは、芸術と法華経の普及という両方の目的に合致していたでしょうね。
[ mag**iok ]
2008/6/8(日) 午後 9:12
ウオルターズ女史の訳文をアップしてました。ご返信は明日いたします。
[ ABAPO-OTTANTUNO ]
2008/6/9(月) 午前 2:00
あらゆる執着を執着と知り、さらにその理解を明智にまで高める。サマタやヴィパッサナーなども瞑想修行によって。おそらくこのタイプの修行者の方は、完全に執着を断って一生世間的な一切のことに興味関心を持たずに過ごすでしょう。輪廻からの離脱を考えなければ、この修行者の人生は、私たちがあれこれとふらつきながら生きがいや楽しみを求めて生きていくのに対して、ある一つの境地に満足するというだけの話しです。おそらく人間には、そのどちらかの生き方しか無いのではないかと思います。そこで、私にとって大問題になるのは、輪廻や三世が有るのかどうかです。あるとすれば、それをどうやって確認できるのかが次の課題です。賢治はこの問題を追及していたのではないかと思います。賢治は有ると考えていたと思います。
[ ABAPO-OTTANTUNO ]
2008/6/10(火) 午前 0:47
私自身の考えは、ゴータマは無いと考えていたと思っています。来世が無い、やがて自分は無になるということが現実だと思うと、耐えられないほどの恐怖感に取り付かれたんでしょうね、古代インド人は。だから、ゴータマはそのあたりを柔らかくオブラートに包んで説いた。精神や自己、自我が進化論的に脳の発達に伴って今のような高度な機能になったのか、それとも、超神秘的ななにものかによって創造されたものなのか、無神論的に考えるか、神秘的に考えるか、私には分かりません。独断で言えば、無に帰する、無神論的な考えです。経典にもあるように、誰もどちらなのか実証的には答えられないのです。あとは、一種のゲームになるのかもしれません。
[ ABAPO-OTTANTUNO ]
2008/6/10(火) 午前 1:11
賢治の一生はそのゲームに費やされたのだと思います。父正次郎さんは実業で成功するという人生ゲームに賭け、一応成功した。それだけなんだと言えなくも無い。父は、賢治やトシは思い通りの大人にさせられなかったが、その他の子供たちはみんな立派な社会人に育て、父母に孝養をつくし、社会的な地位もそれなりに獲得する結果となった。父は、仕掛けたゲームに勝ったが、賢治はまったく別なゲームに賭け、中途で人生が終了した。外見的には、それだけだと言えなくもない。しかし、これは、外部から他人がとやかく解釈しているだけのことで、本質ではない。
[ ABAPO-OTTANTUNO ]
2008/6/10(火) 午前 1:13
本質的なことは、賢治は、当時の人たちが手をつけようとしなかった宗教の変革と人々の生活の質の向上の実現に取り組んで、実践したということだと思う。思索し、社会に向かって行動を起こし、人々に働きかけて、理想を実現しようと実践したことが本質的に重要なことなんだと思う。今の私のように、自分の中に閉じこもって、小さな窓から外を見て、ぶつぶつ独り言を言っているのも生きることだが、それだけではあんまり情けない。充実感が無い。ただ、これも一つの人生、生き方なのは事実です。じっとしていても、私たちと私たちを取り巻く世界は過ぎ去っていきます。どう生きるか、何をするかという人生の目標を自分で考えて決め、やり遂げる。ゴータマが「成し遂げよ」と遺訓を残しました。何かを決めて成し遂げる。これが生きることでしょうね。賢治の目標の中に芸術の普及があったことは確かなようです。ただ、中小作農民との距離は思いの外遠かったようです。
[ ABAPO-OTTANTUNO ]
2008/6/10(火) 午前 1:48
ところで今日深夜放送(6チャンネル)で、youtubeのことをいろいろ検証していました。私は、ちょっとはまっています。毎日、夢のようなvideoを視聴しています。歌詞自体はつまらない恋の歌なんですが、カルーゾ、ジリやパヴァロッティ、クラウス、ディ・ステファノが歌う「Una Furtiva Lagrima」を聞き比べられるのです。ほんと、夢心地ですよ。私にとっては、十分な音質です。彼等の伸びやかな歌声のなんと素晴らしいことか。それに比して、歌詞のなんと平凡なことか。ただ、おっしゃるようにこれらの歌曲の雰囲気はまさにクラシックですね。時代的です。今の私は痺れますが、若い人はどうなんでしょうね。
[ ABAPO-OTTANTUNO ]
2008/6/10(火) 午前 2:01
ここのところ夜更かし気味です。これからちょっと彼等の歌声を聞いてから寝ます。
[ ABAPO-OTTANTUNO ]
2008/6/10(火) 午前 2:03
羽のある人は、飛びたくなる。
ナイフを持ったら使いたくなる。
羽もナイフもない人は、飛べないことを、ナイフを使えないことを嘆いても仕方ない、とそう思うようにしています。
せめて他者に迷惑かけないようにしたいと思っています。
賢治でいうなら、「褒められもせず、苦にもされず」というところでしょうか。
輪廻については、それが最大の関心事である、という人も多いのでしょうね。
youtubeは、よく知らないのですが、ほんとに便利な世の中ですね。
今の若い人の歌っているのは、ほとんど心に響きません。やはりその時期特有の感性なのでしょうね。
[ mag**iok ]
2008/6/10(火) 午前 8:03
お早うございます。今の私は、わずかな年金を分け合って文化的で最低限度の生活の下を行くつつましい経済生活をしています。今年は衣類は、靴下とTシャツしか買っていません(自分のは)。こういう生活に関して妻にはほんとに済まないと心でわびています。でも、私はすこしも惨めだなんて思いはありません。しかもそれでも私は羽とナイフ(mag**iokさんのいう意味とは違うかもしれませんが)も持っているつもりです。私の羽は自分とインターネットなど、ナイフは頑固で偏屈でしぶとい(面の皮の)思考です。70を過ぎて、妻といつも一緒に居る生活は、これがどちらかが死ぬまで恐らくそのままです。賢治は意思の自由・優れた素質と父の財産という羽とナイフを頼りに自分の人生を切り開きつつ生きたと思います。今あるものを使って生きる。釈迦の大切な遺訓だと思っています。腰の痛みとの闘いもいつか私が負けるでしょう。それも釈迦の遺訓です。だが生きているうちは生きる。工夫をして生きる。もしかしたら、遺訓を無視した執着まみれなんでしょうか。
[ ABAPO-OTTANTUNO ]
2008/6/10(火) 午前 9:36
もし私が、あと半年の命と宣告されたら、贅沢に暮らせるだけの蓄えがあります。
でも、あと何年生きるか分からず、年金受給年齢までは18年もあります。しかも、早くに仕事を辞めていますから、年金額もわずかです。
自分でお金を稼げる体はありません。でも、障害者にも認定してもらえません。
死ぬのは、怖くてできません。
最後は、野垂れ死にでいい、死ぬまで生きようと思っています。といっても、まだまだ蓄えがあるので、そんな気楽なことが言えるのだろうと思います。
今は、釈迦の悟りを解明したい、体現したい、ということを、頼りにして生きている、という感じです。
人生、なんでもいい、と自分に言い聞かせています。金がなくなったら、そのときは、生活保護がある、それがだめなら、餓死するだけのこと、なんてことまで考えたりします。これもまだまだ、切羽詰っていないから言えることですね。
釈迦は、生にも、死にも執着するなと説きました。それを本当に実行できる人など、いるだろうか、と思います。
[ mag**iok ]
2008/6/10(火) 午前 10:44
すいませんでした。私にはどんなわずかでも今のところは年金があります。その事情を忘却してました。しかし、私も不安だらけです。もし、体が動かなくなったら、寝たきりになったら(いつかそうなるんですから)、年金制度を突然打ち切られたら(可能性がありそうで特に不安)、妻が徘徊でも始めたら(私がそうなる確率も高い)、私が突然死したら妻はどうなる?それに、もっと不安なことがあるんです。これは言えません。私が狒々爺だとか、詐欺師だとか言う自分自身のことではないんですが、自分のことより心配なことです。きりが無いほど悩みはありますよ。今は、とにかく、二ヶ月に一度年金が手にはいるからこんなのんきにうそぶいていられる、その通りでしょうね。ブログでは願望を書き連ねていますが、生身の私は煩悩の塊です。最近は少し開き直ってきました。良寛さんというより、一休さんの方に開き直ってます。たぶん。
[ ABAPO-OTTANTUNO ]
2008/6/10(火) 午前 11:32
最後の二行について:私は居られると思います。ぜひとも居てほしい。ただ、そういうお方はインターネットで記事等書き連ねないでしょう。来る者は拒まず、去る者は追わず、静かに生きておられるでしょう。百千万劫にも会い難いかもしれませんね。私はあんまり会いたいと思いません。どうせ弟子入りはしないでしょうから。それに、もう私には敬慕する師がいます。師は、一人で十分です。
[ ABAPO-OTTANTUNO ]
2008/6/10(火) 午前 11:33
苦しみは、そのときに、苦しめばいい、今じゃない、という言葉があるようですね。
私は、それを自分に言い聞かせています。なかなか、難しいですけどね。
[ mag**iok ]
2008/6/10(火) 午後 10:48
いつものことなんですが、送信してしまってから、うまく気持を伝えられていないと分かる。考えがまとまっていないんですね。言いたいのは、ボンクラの僕でも、とても不安で仕様が無いということなんです。とにかく、ゴータマの勉強をして良かったと思っているし、スッタニパータの和訳があってよかったと思っています。ゴータマがわが師です。ところで、「苦しみは、そのときに、苦しめばいい、今じゃない、という言葉があるようですね。」もう少し説明してください。何となくは分かるような気がするんですが、やっぱり分からないことは知ったかぶりせず教えてもらったほうが誤解がなくて良い。よろしくお願いします。
[ ABAPO-OTTANTUNO ]
2008/6/11(水) 午前 2:07
将来のことを考えて苦しんでも仕方ない、今晩死ぬかもしれないのだから。
将来の苦しみは、そのときに苦しめばいいのであって、なにも今苦しむ必要はない、という意味です。
過去は、もうない。
未来は、まだない。
あるのは、今だけ。
という経典の文句を解説している文章にそうあったような気がします。
[ mag**iok ]
2008/6/11(水) 午前 8:04
分かりました。ゴータマの教えの核心だったんですね。教えていただくまでこの決まり文句が浮かびませんでした。でも、これ、頭では分かるけれど、おっしゃるように実際は非常に難しいことですね。本当に生きることは苦と向き合うことなんですね。時々、自分はほんとのバカだったほうが苦しみを感じなくて良かったんじゃないかなんて想うことがありました。中途半端な理解力があるばかりに苦しみだけを味わう羽目になっているなんてそれこそ馬鹿な考えをしたのです。ずっと昔です。今は、多少なりともゴータマの言葉に癒されています。
[ ABAPO-OTTANTUNO ]
2008/6/11(水) 午後 3:05
俗世の感覚で言うと、馬鹿になれ、というのが仏教かも、という気がするときがあります。
俗世の馬鹿は、仏教においては、賢者、という感じです。
[ mag**iok ]
2008/6/12(木) 午前 5:12
確かに私たち現代の日本人は、宗教について「怪しい」と思うと同時にヒューマニズムを持っていて当然といった相反するイメージを抱いていますね。宗教の本質はヒューマニズムではなく、それはごく一面に過ぎない。ほとんどの日本人がこのことを誤解していると感じます。そして、宗教が広まっていくモチベーションはヒューマニズムでは決してなく、一種のロマンチシズムこそが最も大きな原動力ではないかと考えています。
[ pori313 ]
2008/6/18(水) 午後 3:45
私燃そう思っています。もし、ヒューマニズムで信仰するのであれば、戦争は出来ないはずですから。ロマンチシズムというご指摘同感です。私は本当の釈迦の弟子(現代でも在り得ると思う)は、ほとんどの既成の宗教団体からはみ出してしまうと思います。逆に言えば、大きな宗教団体に所属して飯を食っている坊さんは、かなり、妖しいと睨んでいます。勿論、自分を棚に挙げた身勝手な主張に過ぎませんが。トップページのお気に入り四人のお一人に加えさせていただきました。
[ ABAPO-OTTANTUNO ]
2008/6/19(木) 午後 1:23
マイクロソフトの日本誤変換のそれも相当古いversionなので、誤変換が多くて大変です。”私燃”は、「私も」です。もしかしたら、誤変換ではなくて、誤入力かもしれません。MSFEP、失礼しました。
[ ABAPO-OTTANTUNO ]
2008/6/19(木) 午後 1:26
またまた、誤変換です。”日本誤”は、「日本語」です。
[ ABAPO-OTTANTUNO ]
2008/6/19(木) 午後 1:28