小さな宇宙
自戒を込めて(松岡さんにケチをつけた事を反省しながら)、他人のふんどしで相撲を取らせてもらいます。
アニメ「千と千尋の神隠し」のテーマソング「いつも何度でも」は大好きな歌です。
(歌詞:http://www.jtw.zaq.ne.jp/animesong/se/sento/itumo.html)
何度も聞いているうちに、歌詞が気になりだしました。
特に次の部分です。
さよならのときの 静かな胸
ゼロになるからだが 耳をすませる
生きている不思議 死んでいく不思議
花も風も街も みんなおなじ
この詩での「さよなら」は、二つのさよならなんでしょうか。
次の「生きている不思議 死んでいく不思議」にかかる「さよなら」。
どっちかというと、「静かな胸 ゼロになるからだ」ですから、死んでいくものが最後に静に耳を澄ませている様子なんでしょうか。
釈迦仏教ファンとしては、「ゼロになるからだ」という句は、ごく自然な感覚(ほんとは凄く怖いことなんでしょうが)です。
しかし、現代っ子にはなじめない言葉ではないでしょうか。
死んでいく不思議さえも考えないでしょう。
ちょっとアニメソングにしては何か意味深な感じがして、作詞者名を確認しました。
てっきり作詞も木村弓さんと思って聴いていたのです(大変失礼しました)。
作詞者は、覚和歌子さんという詩人でした。
検索しているうちに、「ほぼ日刊イトイ新聞」を見つけました。
(http://www.1101.com/dakarakarada/)
そこに、糸井重里さんが司会者になった、覚さん、谷川俊太郎さんの対談が載っています。
テーマは「だからからだ」(詩の言葉と身体は深い関係があるという話し)。
第一回を読んでみてますます覚さんに興味が湧いてきましたが、同時に、以下のようなことを考えました。
僕たちは、ほんとは内側にしかいない(主観世界---脳が構成している世界)のですが、普段はそういう風に意識していない。
むしろ、自分を含めて全てを自分も外に立っているつもりになって外側から見ている。
本当は、自分の内側だけを見ているのに。
本当の外は見えないのですから。
「生きている不思議」とうより、見えている不思議です。
詩篇「春と修羅」で、賢治はこんなことを書いています。
草地の黄金をすぎてくるもの
ことなくひとのかたちのもの
けらをまとひおれを見るその農夫
ほんたうにおれが見えるのか
まばゆい気圏の海のそこに
人は内側にいて感覚器官という窓(フィルター)を通して外界を感覚している(見ている)。
なんという不思議なんだろう。
農夫よ、君は本当にオレを見ているのか?
ああ、オレが君を見えて、君がオレを見えている。
なんという不思議、奇跡。
詩集「春と修羅」序にある、
(すべてわたくしと明滅し
みんなが同時に感ずるもの)
(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
みんなのおのおののなかのすべてですから)
かなり強引なこじつけですが、相対性原理のそもそもの発想原点、宇宙の出来事はすべて同じ原理で動いている(はず)という信念につながる考え方。
わたくしと一人一人のみんなという、本来は孤立した系が、お互いを認識しあえるのは、わたくしとみんなに共通した原理が働いているからなんだという信念。
覚さんの身体に対するこだわりと関係がありそうな気がしたのです。
自戒を込めて(松岡さんにケチをつけた事を反省しながら)、他人のふんどしで相撲を取らせてもらいます。
アニメ「千と千尋の神隠し」のテーマソング「いつも何度でも」は大好きな歌です。
(歌詞:http://www.jtw.zaq.ne.jp/animesong/se/sento/itumo.html)
何度も聞いているうちに、歌詞が気になりだしました。
特に次の部分です。
さよならのときの 静かな胸
ゼロになるからだが 耳をすませる
生きている不思議 死んでいく不思議
花も風も街も みんなおなじ
この詩での「さよなら」は、二つのさよならなんでしょうか。
次の「生きている不思議 死んでいく不思議」にかかる「さよなら」。
どっちかというと、「静かな胸 ゼロになるからだ」ですから、死んでいくものが最後に静に耳を澄ませている様子なんでしょうか。
釈迦仏教ファンとしては、「ゼロになるからだ」という句は、ごく自然な感覚(ほんとは凄く怖いことなんでしょうが)です。
しかし、現代っ子にはなじめない言葉ではないでしょうか。
死んでいく不思議さえも考えないでしょう。
ちょっとアニメソングにしては何か意味深な感じがして、作詞者名を確認しました。
てっきり作詞も木村弓さんと思って聴いていたのです(大変失礼しました)。
作詞者は、覚和歌子さんという詩人でした。
検索しているうちに、「ほぼ日刊イトイ新聞」を見つけました。
(http://www.1101.com/dakarakarada/)
そこに、糸井重里さんが司会者になった、覚さん、谷川俊太郎さんの対談が載っています。
テーマは「だからからだ」(詩の言葉と身体は深い関係があるという話し)。
第一回を読んでみてますます覚さんに興味が湧いてきましたが、同時に、以下のようなことを考えました。
僕たちは、ほんとは内側にしかいない(主観世界---脳が構成している世界)のですが、普段はそういう風に意識していない。
むしろ、自分を含めて全てを自分も外に立っているつもりになって外側から見ている。
本当は、自分の内側だけを見ているのに。
本当の外は見えないのですから。
「生きている不思議」とうより、見えている不思議です。
詩篇「春と修羅」で、賢治はこんなことを書いています。
草地の黄金をすぎてくるもの
ことなくひとのかたちのもの
けらをまとひおれを見るその農夫
ほんたうにおれが見えるのか
まばゆい気圏の海のそこに
人は内側にいて感覚器官という窓(フィルター)を通して外界を感覚している(見ている)。
なんという不思議なんだろう。
農夫よ、君は本当にオレを見ているのか?
ああ、オレが君を見えて、君がオレを見えている。
なんという不思議、奇跡。
詩集「春と修羅」序にある、
(すべてわたくしと明滅し
みんなが同時に感ずるもの)
(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
みんなのおのおののなかのすべてですから)
かなり強引なこじつけですが、相対性原理のそもそもの発想原点、宇宙の出来事はすべて同じ原理で動いている(はず)という信念につながる考え方。
わたくしと一人一人のみんなという、本来は孤立した系が、お互いを認識しあえるのは、わたくしとみんなに共通した原理が働いているからなんだという信念。
覚さんの身体に対するこだわりと関係がありそうな気がしたのです。