avarokitei84のblog

*はじめに。 このブログは、ヤフー・ブログから移行したものです。当初は、釈尊(お釈迦様・ゴータマブッダ)と宮沢賢治を探究してましたが、ある時点で、両者と距離をおくことにしました。距離を置くとはどういうことかと言いますと、探究の対象を信仰しないということです。西暦2020年となった今でも、生存についても宇宙についても確かな答えは見つかっていません。解脱・涅槃も本当の幸せも、完全な答えではありません。沢山の天才が示してくれた色々な生き方の中の一つだと思います。例えば、日本は絶対戦争しないで平和を維持出来るとおもいますか?実態は、戦争する可能性のもとに核兵器で事実上の武装をしています。釈尊の教えを達成したり絶対帰依していれば、戦争が始まっても傍観しているだけです。実際、中世インドでイスラム軍団が侵攻してきたとき、仏教徒の多くは武力での応戦はしなかったそうです(イスラム側の記録)。それも一つの生き方です。私は、武装した平和主義ですから、同じ民族が殺戮や圧政(現にアジアの大国がやっている)に踏みにじられるのは見過ごせない。また、こうしてこういうブログを書いているのは、信仰を持っていない証拠です。

2008年05月

小さな宇宙


自戒を込めて(松岡さんにケチをつけた事を反省しながら)、他人のふんどしで相撲を取らせてもらいます。

アニメ「千と千尋の神隠し」のテーマソング「いつも何度でも」は大好きな歌です。
 (歌詞:http://www.jtw.zaq.ne.jp/animesong/se/sento/itumo.html)

何度も聞いているうちに、歌詞が気になりだしました。

特に次の部分です。



さよならのときの 静かな胸
ゼロになるからだが 耳をすませる

生きている不思議 死んでいく不思議
花も風も街も みんなおなじ



この詩での「さよなら」は、二つのさよならなんでしょうか。

次の「生きている不思議 死んでいく不思議」にかかる「さよなら」。

どっちかというと、「静かな胸 ゼロになるからだ」ですから、死んでいくものが最後に静に耳を澄ませている様子なんでしょうか。

釈迦仏教ファンとしては、「ゼロになるからだ」という句は、ごく自然な感覚(ほんとは凄く怖いことなんでしょうが)です。

しかし、現代っ子にはなじめない言葉ではないでしょうか。

死んでいく不思議さえも考えないでしょう。

ちょっとアニメソングにしては何か意味深な感じがして、作詞者名を確認しました。

てっきり作詞も木村弓さんと思って聴いていたのです(大変失礼しました)。

作詞者は、覚和歌子さんという詩人でした。

検索しているうちに、「ほぼ日刊イトイ新聞」を見つけました。
 (http://www.1101.com/dakarakarada/)

そこに、糸井重里さんが司会者になった、覚さん、谷川俊太郎さんの対談が載っています。

テーマは「だからからだ」(詩の言葉と身体は深い関係があるという話し)。

第一回を読んでみてますます覚さんに興味が湧いてきましたが、同時に、以下のようなことを考えました。

僕たちは、ほんとは内側にしかいない(主観世界---脳が構成している世界)のですが、普段はそういう風に意識していない。

むしろ、自分を含めて全てを自分も外に立っているつもりになって外側から見ている。

本当は、自分の内側だけを見ているのに。

本当の外は見えないのですから。

「生きている不思議」とうより、見えている不思議です。

詩篇「春と修羅」で、賢治はこんなことを書いています。


草地の黄金をすぎてくるもの
ことなくひとのかたちのもの
けらをまとひおれを見るその農夫
ほんたうにおれが見えるのか
まばゆい気圏の海のそこに


人は内側にいて感覚器官という窓(フィルター)を通して外界を感覚している(見ている)。

なんという不思議なんだろう。

農夫よ、君は本当にオレを見ているのか?

ああ、オレが君を見えて、君がオレを見えている。

なんという不思議、奇跡。

詩集「春と修羅」序にある、


(すべてわたくしと明滅し
 みんなが同時に感ずるもの)

(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
 みんなのおのおののなかのすべてですから)


かなり強引なこじつけですが、相対性原理のそもそもの発想原点、宇宙の出来事はすべて同じ原理で動いている(はず)という信念につながる考え方。

わたくしと一人一人のみんなという、本来は孤立した系が、お互いを認識しあえるのは、わたくしとみんなに共通した原理が働いているからなんだという信念。

覚さんの身体に対するこだわりと関係がありそうな気がしたのです。

影響を受けて、またまた、懲りずにアインシュタインの相対性理論を数学(数式)を使わずにその骨格を理解しようと挑戦しています。

図書館から、上記の条件をほぼ満たす「アインシュタインの相対性理論」の解説書を10冊以上借りてきて、ぽつぽつ読んでいます。

そもそもこの理論は物理学の理論ですし、デカルト・ガリレオ・ニュートン以降は、こういう理論はすべて数学を使って構築し、説明するようになっていますから、数式を使わずに(数学によらずに)理解しようとすること自体あまり意味の無いことなのかもしれません。

つまり、物理学理論構築の目的とは何か、ということです。

おそらく、近代科学興隆以前は、科学の理論と神学の理論との境界は無かったでしょうし、科学は神学の一部だったでしょうから、例えば天文学においても、天体の運動は必ず「神の完全さを照明するもの」であると考えられたのでしょう。

しかし、将来においてはともかく、現在において科学は神のような、観測によるデータ取得や実験観察による証明不可能な超自然的で神秘的なことがらは脇に置いて、もっぱら実験観察可能な自然の研究に特化しています。

そこで、物理他の科学の分野では、実験観察の対象となる外界の実在を仮定しなくてはなりません。

実在の仮定という言い方はおかしいでしょうが、実在すると前提していることは確かです。

言い換えれば、実在する物理世界のデータは、誰が観測しても同じ値となり、したがって、いわゆる客観性が確保されています。

観測データは数値化され、理論は数式にまとめられ、厳密な思考が可能なようにされています。

同じ方法で観察・実験を行なえば、同じ結果がで来るという事実があります。

これが、精神世界を対称にする学問との違いでしょう。

精神世界を表現する言語概念には曖昧さがつきまといます。

精神世界はつまるところ主観の世界ですから、データの客観化が難しい。

一方の物理学は、客観的なデータのみを扱い、数値化します。
理論を数学でまとめ、数式にします。

このようなやり方が、科学理論を工業などの分野で実用化するためにも役に立っていると思います。

そういうわけですから、釈迦の「さとり」のような、精神的な事柄(出来事)すなわち、各個人の脳内で進行している出来事の過程は、今のところ、外部からの精密な観測(客観的な観測)によるデータ取得や実験観察は不可能に近いですから、科学の対象にはなっていません。

当然、物理学の理論などを賢治の言う心象スケッチとか禅の「さとり」に適用したり、応用したりすることも不可能でしょう。

なによりも、心象スケッチの対象である賢治の精神世界や禅の「さとり」の状態の客観的なデータ(賢治や「さとり」の状態にいる方を観測する外部の観察者による)がないのですから、比較のしようが無いわけです。

こう考えると、賢治が詩集『春と修羅』や手紙などで「(記録や歴史、あるひは地史といふものも、それのいろいろの)論料(データ)」というような言い方をしていることは注目すべきでしょう。

 *新校本全集第十五巻書簡No214a「岩波茂雄あて」に次の記述『歴史やその論料、我々の感ずるその他の空間というようなことについてどうもおかしな感じようがしてたまりませんでした。わたくしはそういう方の勉強もせずまた風だの稲だのにとかくまぎれ勝ちでしたから、わたくしはあとで勉強するときの仕度にとそれぞれの心もちをそのとおり科学的に記載しておきました。その一部をわたくしは柄にもなく昨年の春本にしたのです。」

*同上No200「森佐一あて」にも「これらはみんな到底詩ではありません。私がこれから、何とかして完成したいと思って居ります、或る心理学的な仕事の支度に、正当な勉強のゆるされない間、境遇の許す限り、機会のある度毎に、いろいろな条件下で書き取って置く、ほんの粗硬な心象スケッチでしかありません。」

賢治自身は、心象スケッチも論料データとして利用可能と考えていたようです。

岩波茂雄あての手紙は本当に賢治のものなのか不思議なんですが、本当だとすると、賢治は心象スケッチを科学的なデータの一種と見なしていたことになりますから、賢治の中では、アインシュタインの相対性理論と賢治の心象スケッチの間は断絶なくつながっていた可能性があります。

しかし、そのつながり方は(僕のお粗末な理解では言明不能なのですが敢えて言えば)賢治の独断的な理解に基づくというしかないように思えます。

当然のことながら、心象スケッチの世界とアインシュタインの世界は違います。

賢治の世界は、心象世界(極言すれば、心理的で主観的な世界)であり、アインシュタインの世界は、僕たちの外部に実在する(僕たちの存在と無関係に---地質時代を考えれば、人間の出現はごく最近)客観的な世界です。

賢治は、詩集「春と修羅」で、心象スケッチの世界は必ずしも主観的ではないと主張しているようにも思えますが(「(すべてわたくしと明滅し/みんなが同時に感ずるもの)」とか「それが虚無ならば・・・ある程度まではみんなに共通いたします/(すべてがわたくしの中のみんなであるように/みんなのおのおののなかのすべてですから)」などと言っている)、これも賢治の一方的な主張だと見なされるでしょう。

アインシュタインは、主観で相対性理論をまとめたのではありません。

アインシュタインの相対性理論がまとめられるまでには、その理論の長い研究の歴史がありました。

ごく近い時代の研究者だけでも、ガリレオ、ニュートン、マックスウエル、ローレンツなどという名前が挙がっています。

彼等は、いずれも相対性理論につながる理論を数学的にまとめ、理論を数式にしています。

彼等の理論はいずれも自然の客観的な観察・観測によって得られたデータと適合し、それらのデータを下に理論が構築されています。

その理論は、実際に自然現象に当てはめられ検証されています。

そういう意味で主観的でなく、客観的だと言いたいのです。

アインシュタインの相対性理論も同様です。

もちろん、僕は検証どころか数式の操作も出来ませんから、これらは受け売りにすぎないのですが。

将来脳科学が、脳内の活動をどういうデータ形式にして客観化し、どういう風に処理し、検証可能にするか、僕には想像もつきません。

しかし、少なくとも、賢治の言う心象スケッチに対するデータの理解と、アインシュタインの相対性理論におけるデータの意味とは同列にないでしょう。

少なくとも、現在のところは、超自然的、神秘的な現象(異次元空間の幻覚等)や、心理現象を全く対象としていないアインシュタインの相対性理論や、それと同列にある、厳密な数学的理論であるミンコフスキーの理論が賢治の記録した心理的あるいは「こころもち」の世界とつなげようはないのではないかと思います。

ここまでの議論はいわば当たり前のことを述べているだけです。

もし、賢治の第四次延長がミンコフスキー時空(の理論)のことなら、とっくに数学の得意な賢治ファンがキチンと計算して、解を得て、詩集「春と修羅」の数学的な説明をしていることでしょう。

だが、それはありえないことです。

賢治自身はもしかしたら本気で、数学を会得して、数学で異次元の実在を証明しようとしたかもしれません。

しかし、実在は数学だけでは証明できません。

理論だけになってしまいます。

したがって、賢治が仮にアインシュタインの相対性理論に何か共感できるものを感じたとしても、それは、学問的に厳密なものでなく、たとえば、特殊相対性理論の基本原理の一つである光速不変の原理を比喩的に賢治の世界観に当てはめたというような理解の仕方しかできないのではないかと思う。

特殊相対性理論では、時間や空間が絶対的なものでなくなった代わりに、光速(光)が唯一絶対的な普遍なものとしてあらゆる系を貫くものとされた。

或は、ローレンツ変換のような理論を応用して、賢治の感じる異次元の事象を僕たちのいる世界の事象に変換しようとしたとか。

特殊相対性理論の核心が、ローレンツ変換によって、全ての慣性系の事象を他の慣性系に変換できることを証明したことで、普遍的な理論を構築したということらしいから。

このあたりになると馬脚があらわになるのでここまでにします。

*追加:

やはり勉強不足でした。お恥かしい。

ま、勉強しないで終わるより、間違っても、勘違いでも、勉強するほうが僕にとってはずっとましだから、恥かしい間違いも良しとしましょう。

アインシュタインの特殊相対性理論とミンコフスキー時空(空間)の関係を考え続けました。

ミンコフスキー時空(図)は、当然のことながら、アインシュタインの特殊相対性理論を満たすものでなければならない。

これについては勉強中。

ただ、その勉強中に本に載っていた図の説明を読んでいてアッと思った。

これは数学的な理解ではないので、ただ閃いたという程度のものだが、普通ミンコフスキー時空図は時間1次元と、空間一次元の二次元か、空間を二次元にした三次元時空図までが図示されている。

三次元時空図には、光円錐が示される。

四次元時空図は平面に描けないので説明文と合わせて想像させるようにしてある。

その説明文がこれです。

「各時点ごとに積み重なっていく三次元空間の系列を想像すればよい。」(三次元の文字は曖昧に読む)

まさにこの表現が賢治の文章の中に幾つもあったのです。
 *http://blogs.yahoo.co.jp/avaroikite/52046465.html
  http://blogs.yahoo.co.jp/avaroikite/52364076.html

僕自身は、ミンコフスキーの四次元時空の理解(イメージ)が無いので、賢治が心象風景の中に、具体的に四次元時空を見出していたかどうかの判定は出来ないが、少なくとも、「そんな考え方」をしていたのではないかなと思った次第です。

谷川哲三が賢治の四次元は、ミンコフスキーの四次元時空のことだという意味もこのことなのかと思う。

疑問は続く。

では、賢治はどうしてそれほどまでに心象世界(賢治の現実世界?)を、四次元時空としてみなければならなかったのかという素朴な疑問。

ここに、他の法華経信者に無い、賢治だけの法華経世界に対する強い憧憬と法華経世界の構造を知りたいという強烈な願望を垣間見ることができそう。

あなたは、自分の世界をニュートン的に見ていますか、それとも、ミンコフスキー的に見ていますか?

僕にはほとんど無い、賢治の異常とも思える執着が感じられます。

表題のように、「キリスト教の二元論について」で、han_okinaさんの文章を考えましたその続きになります。

han_okinaさんの新しい文章が載りました。
 (http://blogs.yahoo.co.jp/han_okina/9304150.html)

そこで、han_okinaさんのお考えになっているキリスト教の二元論とはどういうものかが示されました。(以下に引用させていただきした。)

『洋の東西を問わず二元性というのはあるわけです。光と闇、善と悪、この世とあの世、東洋では陰と陽の対極なんてのもありますわな。

でも、キリスト教世界における根本的二元は、絶対的創造主である「神」と創造主によって創造された「私」という二元であろうと思うのです。こんなこと言いますとキリスト教者から、神と私を二元の片方に置くとはなに事だと、お叱りを受けるでしょうが。私はこれを「絶対的二元性」と勝手に言ってます。』

このhan_okinaさんの主張には賛成です。

僕も、本来の一元論とか二元論とかいう議論では、多分、神と人間は対等にはなれないと思います。

強いて言えば、神一元論とされるでしょう。

神一元論は、神を信じる方々から言えることであって、僕たちから見れば、自分と自分を救う神の二者が並置されているように見えます。

この信仰の問題点は、まず、「神は実在する」と信じなければならないことにあります。

次に、どうやってそう考えたのか分からないが、「神は人間を救ってくれる」と信じることにあります。

そこで(と僕は考えます)釈迦の言行録の一つとされる「スッタニパータ」において釈迦は、古来からの信仰(バラモン教)の妄信によっては救われないと考えた(と僕は思っている)。

ここで、han_okinaさんの文章の続きを読んでください。

『仏教では、このような絶対的なものを置かないんです、それが仏教の最大の特徴じゃないでしょうか。
「神」という絶対性を取っ払ってしまいますと、残るは「私」という実に頼りない不安定な存在です。
ここから自分探しの長い遍歴が始まるのです。自己との厳しい対決、時には命がけともなる対決が始まっていくのです。』

全ての根拠が神だったのが、その神を取り払ってしまったら、自分という存在の拠り所がなくなるわけですから、とんでもない不安に曝されます。

ただし、多くの日本人は、自分の存在を確かなものとしてくれているのは「唯一のわれらの神」だという信仰を持っていませんから、この「神」を取り払われても、痛くも痒くもないでしょう。

たとえば、やや虚無的な傾向を持つ(自分で勝手にそう決め付けているだけですが)僕も、一向に平気です。

スッタニパータの中で釈迦も、「火(を通して神の恩恵を受けたいという)の信仰」や「水(の力で汚れを払い救われたいという)の信仰」を退けています。

僕は思うに、ここまでのhan_okinaさんの議論は、自分を救うものは誰かというただその一点だけにテーマを絞って考えておられるように感じます。

現実の僕たちは、信仰だけに生きていられません。

今日のsonotamoromoroで紹介した政治と僕たちの現実は密接な関連を持っています。

こうしてインターネットで意見を交換できるのは、科学技術と工業技術、そして起業・経営といった経済活動の進展とも現実では深い関連を持っています。

これら科学技術と工業技術、そして起業・経営といった経済活動の進展といったものは、外界の実在を前提としています。

日本人の多くは、神を取り払う事は簡単ですが、これらの現実を無視することはほとんど出来ないでしょう。

han_okinaさんの議論は、多分に、精神世界に議論を特定しておられると思います。

神と人間という二元は、魂とか霊的とかいうことがらに的を絞った考え方だと思います。

僕にとっては、二元というのはやはり、精神と物質です。

言い換えれば、内なる自己と外なる外界という二元、もっと言えば、僕が見ているものは実在するかどうかということです。

仏教の多くの派(部派仏教各派、大乗仏教各派、日本の各宗派)でも、この精神と物質というテーマは最重要課題でした。

釈迦は一種の唯心論でこの難題を乗り切ったと僕は思っています。

さもないと、輪廻からの離脱を意味する不死とか解脱、さとりというものは実現不可能に思えるからです。

そのためには、釈迦は徹底した唯心論を押し通さなければならなかったようです。

(自分を含めた外界)実在論が主流のインドでは、これは大変難しく、その結果、釈迦の唯心論は退けられ(部派仏教)、結局中途半端な実在論である大乗仏教の興起となったと僕は思っています。

宮沢賢治は、まさにこの中途半端な実在論と唯心論との狭間で苦しんでいたような気もするのです。

han_okinaさんのブログに次の文章があります。

「春と修羅」につきましては今回初めて序の部分を読んでみました。これは非常に哲学的な文章ですね。
賢治は法華経を信奉していたということですが、「春と修羅」の序を見る限り仏教的な雰囲気というものは私にはあまり感じられません。むしろ西洋哲学であり、西洋哲学ということになるとその根底にあるのはキリスト教的な世界観、あるいは二元論的な世界観です。
賢治とキリスト教の関係は良く存じませんが、序を読む限りにおいては、仏教的というよりもキリスト教的なものを感じてしまいます。」
  (http://blogs.yahoo.co.jp/han_okina/8967148.html)

今までにも、禅を学ばれている(修行されている)方の文章に、同じような二元論的な考え方を批判的(?)に取り上げられることが多かったので、キリスト教的な二元論とはどういうものなのかを考えて見ます。

僕自身、キリスト教はほとんど知らないといったほうが良いので、参考になるテキストをまず提示します。

”Heaven -- Where Is It? How Do We Get There?” 
  Barbara Walters Explores the Meaning of Heaven and Afterlife
  Dec. 20, 2005
(天国--どこにあるの? どうやってそこへ行けるの?
バーバラ・ウオルターズの”天国とそこでの生活に関する探究explores” )

残念ながら、URLを記録しておかながったので、今検索しても、直ぐ出てきません。
 本日(5.24土)確認できました。下記のとおりです。
 http://abcnews.go.com/International/Beliefs/story?id=1374010

Barbara Walters女史のこの小論は、ダライラマを検索していてyoutubeで見つけた同女史のダライラマとの会見に興味を持って検索して見つけたものです。

この小論中に極めて具体的なキリスト教徒の二元論が出ていると思います。

『ワシントンD.C.の大司教にして、Catholic Universityの総長である、セオドア・マッキャリックTheodore McCarrick枢機卿が次ぎのように言っています。「私たちはこう信じています。天使というのは、私たちを守ってくれている者であり、神の御使いであり、神の特別な友であり、召使であると。」

「私はいつも天国というものを一切の悩みの無い場所だと考えています。天国はきっと平和で静かな場所です。」と、マッキャリックは言いました。カトリック教徒としてマッキャリックは、天国を霊的な場所そのものだと信じています。「カトリック教徒は、」とマッキャリックの説明を始めて「肉体は復活すると信じています」と結んだ。そして、マッキャリックはこう付け加えました。「私は(やがて再び、死んだ)父さんや母さん、家族たち皆に会えるのを楽しみにしているんです」と。』

霊的と言いながら、肉体は復活すると信じる、と矛盾した言い方をしていますが、これがキリスト教徒の素朴な信仰なのでしょう。ハリウッド映画では、常にこの信仰を鼓舞しているような気がします。

マッキャリックさんの言葉では今一つはっきりしていない霊魂と肉体の二元論が、次のユダヤ教のラビ(坊さん)の言葉で明確になります。
ユダヤ教の思想は、キリスト教思想の土台だろうと思いますので、ラビの言葉はそのままキリスト教的といっていいんじゃないかな。

『ニューヨークに在るユダヤ教神学校の哲学教授で、ラビのネイル・ギルマンRabbi Neil Gillmanは、ユダヤ教信徒の来世観を次ぎのように説明した。「過去2000年間、ほとんどのユダヤ人たちは、死に際して肉体と魂は分離して、肉体は大地に埋められ、分解してしまい、魂は神の御許へ旅立つのだと信じ続けてきた。」と、彼はウオルターズに話した。しかし実は、これが(彼の)話の全てではなかったのです。「the end of days*に、神は肉体を再生させ、魂と再統合させます。(そうやって再統合した)人the individualは彼や彼女の現世での生(行為)を弁明するために神の御前に出るのです。」とギルマンは語った。』

この部分だけ原文を引用します。

Rabbi Neil Gillman, a professor of philosophy at New York's Jewish Theological Seminary, expressed Judaism's perspective on the afterlife. "For the past 2,000 years, most Jews believed that at death the body and the soul separate, the body is interred and disintegrates in the Earth, the soul goes off to be with God," he tells Walters. But that's not the end of the story. "At the end of days, God will resurrect bodies, will reunite body and soul, and the individual will come before God to account for his or her life," Gillman said.

文中の”at death the body and the soul separate”は、実に明快な二元論的表現ではないでしょうか。

the end of daysとは、いわゆる「最後の審判」と似たような考え方なんでしょうが、検索をかけてユダヤ教の説明を見つけても難解で(英語力が無いので)理解し切れませんでした。
印象では、ちょっと違うような感じでした。

どうしてユダヤ教徒あるいはキリスト教徒が霊魂と同時に肉体に執着したのか良く分かりません。

旧約の創世記あたりにヒントがあるのかもしれません。
あまり関心が無いので深く詮索しませんでした。

僕の関心は、賢治がこういう二元論をキリスト教から取り入れていたかどうかです。

「序」の冒頭部分で、賢治が自己を規定するのに、「光」と「電燈」の比喩をあげています。

この比喩から、二元論か否かを求めれば良いような気がします。

僕の推量は、どちらかといえば観念論的(唯心論的)な受けとり方で、仏教的です。

*追加:

Barbara Waltersの小論には、キリスト教徒の考え方で、今まで知らなかった興味ある考え方が文中に出てきます。

『ニューヨークの有名なアビシニアン・バプティスト教会Abyssinian Baptist Churchの牧師で、博士号を持つカルバン・バッツ師は彼が長年思い描き続けた天国についての様々な見方をウオルターズに語った。彼は天国を涙を流すことの無いところ、哀悼の意をの述べることの無いところ、苦しみの無いところとして描写した。(天国では)あなたは、神と一体となっているのですから、そこには永遠の喜びと幸せがあるです。』

『「天国は(我々のいる場所とは全く異なる)異次元に在るのです。ですから、あなたが(天国を見つけようとして天の彼方・空を)見上げるのは意味のないことですが、注意深く心がければ天国を見る事は可能なのです。いうなれば、天国は第四の次元に在るのです。」と、バッツはウオルターズに語った。』

『福音主義者全国協会the National Association of Evangelicalsとその会衆his congregationの会長のテッド・ハガード牧師は、また現世の生とは永遠の棲家an eternal homeに至る道すがらに在る(天国に行く資格を計る)一種の計量所のようなものだと確信している。「ジーザズ・クライストは彼に従うすべての人々anybody that'll follow himに永遠の生を保証し約束している。…この(現世の)生の(本当の)目的とは、神を讃え、天国に行くことである。…天国こそが(本当の)我が棲家であるから。」』
 *この(現世)の生セイ(命イノチ)---this life

面白いのは、このハガード牧師の言葉が、イスラム教徒の言葉と奇妙に一致することです。

『イスラム教発展のためのアメリカ協会the American Society for Muslim Advancementの創設者であり、イマームImam*であるファイサル・アブドゥル・ラウフFeisal Abdul Raufは、天国は本当に物質的・物理的な場所だと信じているが、(同時にそこは)この世での行ない次第で行けるかどうか決まる場所だとも信じているとウオルターズに語った。「本当の生とは、(この現世の生ではなくて)来世の生the next lifeなのです。…現世でどういう生き方をしたかにかかっているのです。それで来世での我々の在り方が決まるのです。快適な家に住めて、絹製の寝椅子silk couchesに横になれるのだと、私たちは教えられるのです。…喜びに充ちたセックスや芳しいワイン、旨い食べ物、それらがどれも、喜びとか芳しさとか美味しさとかだけがあって、満たされないとか渋いとか不味いといったようなことが無いのですwithout their negative aspects。」』

「本当の生(命)The real life」 は、生きるという意味よりも、漠然とした「在り方」のような意味合いなんでしょうが、この言葉だけを取れば、大乗仏教徒の考え方と共通項があるような気がしませんか。
ただ、大乗仏教が最後に辿り着いたのは、キリスト教やイスラム教と違い、この世がそのまま浄土(仏の国土=理想郷)だという考え方だということでしょう。
「本当」がどこにあるかということで意見の相違があるようです。

今僕は、カルーゾー(Enrico Caruso)を聞きながらこれを書いている。

Carusoの名前は、「宮沢賢治辞典」(原子朗)の項目にもある。

「カルゾー:人、音(学関係)。エンリコ・カルゾー(1873-1921)のことか。ナポリ生まれ。歌劇王と呼ばれる大歌手。『アイーダ』のラダメス、・・・。容姿は美男とは言えないがドラマティックな力強さと表現力の豊かさでは右に出るものがない。・・・。詩[丘陵地を過ぎる]には『犬が吠え出したぞ。さう云っちゃ失礼だが/まず犬の中のカルゾーだな/喇叭のやうないゝ声だ』」

確かに映像で見るカルゾーは、顎が見事に割れていて、四角い感じの男性的だが、そういっちゃなんだけどマフィアのボスと言われても頷きたくなるような感じの顔だ。

検索中に出てきたカルゾーと並び称されるらしいTito Schipa(ティットゥ・スキッパ?聞いたこと無いので正しく読めない)のいかにも美男という容貌と見比べるとねぇ。

ちなみに、スキッパの声は、カルゾーよりも甘いような気がした。

30歳代を過ぎてから、突然「良い。」と感じて熱中しだしたクラシック。

誰かを好きになるのも、鉄塔が好きになるのも、音楽もみんな同じ原理なような気がする。

中には紙くずみたいなものを集めて仲間同士で見せ合って楽しんでいる人もいる。
ちなみに、こういうお仲間の中に「お宝鑑定団」のお仲間は入れていません。
金銭抜きですし、好きになったのは鑑定士が原因ではないでしょうから。


好きになる、気に入る、情が湧く、独占したくなるなんていう感情は、みんな、心の一番の奥底(といっても脳のことですから、広義のニュウロンのネットワークでしょうが)にある化石のような所から湧いてくるんでしょうね。

好きな人の一言。

「This is 100 years ago... Unfortunately we do not have a really good recording of this (the digitally remastered versions tend to reduce the quality of his voice). This one is the best I've found.」

その歌声は、初めて聞くのだが、どこか懐かしいのは、どうしてだろう。

子供の頃の我が家には、クラシックの影も形も無かったのだから。

著作権は問題ないのだろうか?

実に沢山アップされている。

多分賢治も聞いただろう歌声を聴けるのは幸いなことだ。


ところで、賢治が目指した「みんなの幸福」って何だろうって改めて考えます。

好きは嫌いと対。欲しいは欲しくないと対。

だから絶対に憧れる。

賢治の目指した「みんなの幸福」の最終地点が、仏だとすると、その仏は「法華経」では、みんな涅槃に入ってしまう。

だから、賢治の「みんなの幸福」とは、涅槃だということになる。

じゃ、涅槃ってどうなっちゃうことなんだ。

ちょうど、カルゾーが一曲歌い終わりました。

浅薄な僕も、大嫌いな米国語の語感を何となくかっこよく感じて片言を知ったかぶりに使いたくなる。
中華大帝国の辺縁から、きらびやかな唐カラの文化を憧憬した古代大和の遺伝子ミームが確かに僕の中にもある。

finalは、結論ではなく、このテーマに関するinferece(推論)の最終回程度の意味です。

もしも、僕の推論通りで、「竜と詩人」が、出奔上京によって賢治が得た新しい信仰の道に関する声明であるとすると、ここには、詩集「春と修羅」序や童話集「注文の多い料理店」序の主張や、森佐一(荘己池、惣一)への手紙における賢治自身による解説と重なる主張があるはずだ。

古い詩人アルタが、優勝した若い詩人スールダッタを称讃する偈(前回の記事参照)は、ほぼそのまま「注文の多い料理店」序の主張へとつながっていくと思う。

その童話集の序を全文引用します。


わたしたちは、氷砂糖をほしいくらゐもたないでも、きれいにすきとほった風をたべ、桃いろのうつくしい朝の日光をのむことができます。
 またわたくしは、はたけや森の中で、ひどいぼろぼろのきものが、いちばんすばらしいびらろうどや羅紗や、宝石いりのきものに、かはってゐるのをたびたび見ました。
 わたくしは、さういうきれいなたべものやきものをすきです。
 これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらってきたのです。
 ほんたうに、かしわばやしの青い夕方を、ひとりで通りかかったり、十一月の山の風のなかに、ふるえながら立ったりしますと、もうどうしてもこんな気がしてしかたないのです。
 ほんたうにもう、どうしてもこんなことがあるやうでしかたないといふことを、わたくしはそのとほり書いたまでです。
 ですから、これらのなかには、あなたのためになるところもあるでしょうし、ただそれっきりのところもあるでしょうが、わたくしには、そのみわけがよくつきません。なんのことだか、わけのわからないところもあるでしょうが、そんなところは、わたくしにもまた、わけがわからないのです。
 けれども、わたくしは、これらのちいさなものがたりの幾きれかが、おしまひ、あなたのすきとほったほんたうのたべものになることを、どんなにねがふかわかりません。
(http://why.kenji.ne.jp/douwa/00joh.htmlよりダウンロードさせていただきました。新仮名遣いを旧仮名遣いに戻しました。有り難うございました。)


童話がどこからやってきたのかということを説明しています。
その説明は、「竜と詩人」で賢治が説明しているのとほとんど同じです。

序文の初めの方にある「氷砂糖」や「ぼろぼろの着物」というのは、前回述べた大乗仏教特有の思想、娑婆=寂光浄土*における娑婆の人々を暗示しているようです。
 *参考サイト:
http://homepage3.nifty.com/juhoukai/hidakashounin/jigagetex/zuisou02.html

娑婆は本当は人々が感じているようなものではない。
本当は、浄土そのものなのだ。
ただ、そのことに気づかず、感じ取れないだけなのだという思想。

釈迦仏教シンパの僕もそう思います。
ただし、法華経信者賢治とは違う意味で。

ここが僕の浅いところですが、賢治たちは、「空クウ」と言いながら、実体的ななものを読者に想定させています。
しかし、僕は本当に空だと思っているのです。

童話集序で賢治が言いたいのは、真実に目覚めれば、「風」や「朝日」がそのまま「氷砂糖」になるし、「ぼろぼろの着物」はそのまま「羅紗ラシャ」や「宝石」入りの着物なんですよ、ということなのです。

「本当の食べ物」という言葉に賢治の思いが込められているのではないでしょうか。

スールダッタは、詩賦を競う会で、きっとそういう歌(詩)を歌ったのです。

だから、「古い」詩人(預言者?)は、新しい時代を牽引できる若い(「新しい」)詩人スールダッタに席を譲り、スールダッタの本質を称讃し、雪山の麓(の道場)へと去ったのです。

賢治は詩人というものに、メッセージ=まことのことば受信し、それを詩に変換して人々に示し、導く人をイメージしていた。
もしかすると詩人=菩薩というイメージかもしれない。

新しい風が必要だと言う賢治の主張は、詩集「春と修羅」出版の翌年(1925年、大正14年)二月に森佐一宛にだした手紙(No200)にもあります。

『これらはみんな到底詩ではありません。私がこれから、何とかして完成したいと思って居ります、或る心理学的な仕事の支度に、正当な勉強の許されない間、境遇の許す限り、機会ある度毎に、いろいろな条件の下で書き取って置く、ほんの粗硬な心象のスケッチでしかありません。私はあの無謀な「春と修羅」に於いて、序文の考えを主張し、歴史や宗教の位置を全く変換しやうと企画し、それを基骨としたさまざまな生活を発表して、誰かに見て貰いたいと、愚かにも考えたのです。』

「全く変換しよう」としている、という文に賢治の思いが読み取れます。

愚かにも、と自嘲するのは、思わしい反応が返ってこず、せいぜい新しい「詩」という評価ぐらいで、ひどいものでは、「春と修養」というような勘違いまで来る始末だったことを受けているのでしょう。

到底詩ではない、というのは、賢治の本音なのでしょう。
賢治は宗教的なメッセージを発信しているつもりだったのでしょうから。

詩集「春と修羅」序の第四連の最終行あたりの不可思議な言葉もこれまで推理してみたような賢治の思想からすれば、それほど不可思議でなくなるでしょう。


おそらくこれから二千年もたったころは
それ相当のちがった地質学が流用され
相当した証拠もまた次次過去から現出し
みんなは二千年ぐらゐ前には
青ぞらいっぱいの無色な孔雀が居たとおもひ
新進の大学士たちは気圏のいちばんの上層
きらびやかな氷窒素のあたりから
すてきな化石を発掘したり
あるひは白亜紀砂岩の層面に
透明な人類の巨大な足跡を
発見するかもしれません


二千年というのは、賢治が希求した「まこと」が実現する時代なのでしょう。

その頃になると、人々は、現在の人たちのようなものの感じ方・考え方をしていなくて、きっと、本当の世界を見ることが出来るようになっているだろうから、今のひとたちには見えない(本当の)ものを見るでしょうと言って、いろいろあげているのです。

この解釈はどなたかの解釈を取り入れています。

二千年後の人々には見える新しいものが具体的にどういうものかは、僕には今は説明できません。

必要があれば探究してみましょう。

*追加*

finalとふってしまったので、同じページに続けます。

一つは、スールダッタを称讃して去っていった、古い詩人アルタについて。
二つ目は、書き忘れた、「竜と詩人」の最後のメッセージについて。

1.アルタについて

賢治はアルタを最初、「いちばん偉い詩人のアルタ」という風に書いています。

次に「古い詩人のアルタ」という言い方をしています。

このことから、アルタは「歴史や宗教の位置を全く変換しやうと」賢治が企画した時までの宗教、全く変換しなければならなくなっている旧来の宗教(教団)を代表している人だと読んでいいでしょう。

別な言い方をすれば、農民芸術概論綱要で賢治が「宗教は疲れて近代科学に置換され」という時の「疲れた宗教」すなわち、近代科学に対抗できなくなった既成の教団の硬直化した様子を指しているのです。

賢治がその位置を全く変換しなければならないと考えた時、宗教はどういう位置にあったのか。

国や社会の中核に位置していたとき宗教は、世界を説明したり、人々が生きる拠り所となっていたのです。

賢治が目指した新しく生まれ変わった宗教の位置づけは、たとえ話で言えば、詩集「春と修羅」序の第四連の最終行あたりの不可思議な言葉として先に引用紹介したような科学と宗教の一種の融合した状態として、世界を説明出来、人々の拠り所となっているそういう位置だと思います。

化石を発掘して研究するのは科学の範疇ですが、透明な人類の巨大な足跡は宗教の範疇です。この足跡の研究は、科学と宗教が協力しなければ不可能だと賢治は考えていたのでしょう。


2.「竜と詩人」の最後のメッセージ

スールダッタの最後のメッセージは、
 
 岾い貌?辰涜膩个鮹機廚襪海函
⇔気離船磧璽淵燭函嵜靴蕕靴だこΔ梁け弔諒?砲鬚まえと語り合」うこと。

この試みは、実に壮大で、賢治一人が一生で果たすには重過ぎる企画でした。

とうとう、未完成(?)の少年小説「銀河鉄道の夜」になっても到達できなかった目標でした。

賢治はこの企画の実現を、新しい賢治・ジョバンニに受け継がせようとしたようです。

「銀河鉄道の夜」(初期形三)より引用します。

『そして一しんに勉強しなけぁいけない。おまへは化学をならったらう。水は酸素と水素からできてゐるといふことを知ってゐる。いまはだれだってそれを疑やしない。実験して見るとほんたうにさうなんだから。けれども昔はそれを水銀と塩でできてゐると云ったり、水銀と硫黄でできてゐると云ったりいろいろ議論したのだ。みんながめいめいじぶんの神さまがほんたうの神さまだといふだらう、けれどもお互ほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだらう。それからぼくたちの心がいゝとかわるいとか議論するだらう。そして勝負がつかないだらう。けれどももしおまへがほんたうに勉強して実験でちゃんとほんたうの考えとうその考えを分けてしまへばその実験の方法さえへきまればもう信仰も化学と同じやうになる。けれども、ね、ちょっとこの本をごらん、いいかい、これは地理と歴史の辞典だよ。この本のこの頁はね、紀元前二千二百年の地理と歴史が書いてある。よくごらん紀元前二千二百年のことでないよ、紀元前二千二百年のころにみんなが考へてゐた地理と歴史といふものが書いてある。だからこの頁一つが一冊の地歴の本にあたるんだ。いゝかい、そしてこの中に書いてあることは紀元前二千二百年ころにはたいてい本統だ。さがすと証拠もぞくぞく出てゐる。けれどもそれが少しどうかなと斯う考へだしてごらん、そら、それは次の頁だよ。紀元前一千年 だいぶ、地理も歴史も変ってるだらう。このときは斯うなのだ。変な顔をしてはいけない。ぼくたちはぼくたちのからだだって考だって天の川だって汽車だってたゞさう感じてゐるのなんだから、・・・』(テキストはhttp://why.kenji.ne.jp/douwa/99ginga.htmlからダウンロードさせていただきました。有り難うございます。)

竜は水(海)の主であり、チャーナタも、罰せられてこの洞に閉じ込められる前は幾千由旬(数千km)もの海を自在に潜ったり、さらに、黒雲を巻いて空高く翔ぶことができた。

チャーナタが自在に操ることの出来るもの、それが雲であり、水(海)であり、空(風)であった。
また、「竜と詩人」では、後半部分で暗示されるように、竜は仏法の守護者でもある。

スールダッタに贈り物をすると言って『竜は一つの小さな赤い珠を吐いた。そのなかで幾億の火を燃した。(その珠は埋もれた諸経をたづねに海にはいるとき捧げるのである)』

なぜ諸経を求めて海にはいるのか、それはおそらく賢治が末法の世に仏法が滅びるという伝承を信じていて、滅んだ後また新たに仏法を求める者が現われることを確信していたからだ。
そのため賢治は自分も法華経を後世のために保存しておこうとして、経筒(法華経保存用の入れ物)のデザインをしたり、経筒を埋めて保存しておく山を選定したりしていた(経埋むべき山)。

チャーナタの素性の説明が終わると、場面が転換する。

若い詩人スールダッタが老いた竜、チャーナタに謝罪する場面となる。

スールダッタは、前日に行なわれた詩賦の競いの会で、自覚せずにスールダッタの歌(詩)を自分の作と信じて歌い優勝してしまったことを恥じて謝罪した。
竜も、自分の歌(詩)をスールダッタが自分の作にしたことを知らなかった。

人々がひそひそと、スールダッタの歌(詩)が、彼の作でないと陰口をたたいていた。
スールダッタがそれを聞いてしまい、自分でも思い当たるふしがあって、今、老いた竜、チャーナタの前で謝罪したのだ。

この場面に続く竜(チャーナタ)とスールダッタの対話の場面で初めて、散文「竜と詩人」のテーマが示される。

それは次のようなスールダッタを讃える偉大な詩人アルタの偈(詩)という形で示される。


『風がうたひ雲が応じ波が鳴らすそのうたをたゞちにうたふスールダッタ
 星がそうならうと思ひ陸地がそういふ形をとらうと覚悟する
あしたの世界に叶ふべきまことと 美との模型をつくり
やがては世界をこれにかなはしむる預言者、設計者スールダッタ』

星や陸地(天と地)までが従う模型とは、農民芸術概論綱要で賢治が示した、

『自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する
      ・・・・・・・
 新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある』

という理念に重なる考え方だと思う。

「竜と詩人」においては、竜(チャーナタ)は、『埋もれた諸経』に最も近い者とされている。

アルタの偈にある、スールダッタが歌った歌(詩)、『あしたの世界に叶ふべきまことと 美との模型』つまり、『世界が一の意識になり、生物』となるモデル(模型)は、もともとは諸経から発したものだと暗示している。

賢治は「竜と詩人」で、『あしたの世界に叶ふべきまことと 美との模型』を 『風がうたひ雲が応じ波が鳴らすそのうた』から聞き取ることができると主張しているのではないか。

大乗仏教各派に共通する思想は、「苦の世界とか穢土とか言われる娑婆世界が本当は仏の世界なのだが、普通の人々は心が転倒していて本当の世界が見えなくなっているだけだ」というものです。


『日輪と太市

日は今日は小さな天の銀盤で
雲がその面メンを
どんどん侵しかけてゐる
吹雪フキも光りだしたので
太市は毛布ケットの赤いズボンをはいた』

詩篇「日輪と太市」における、雪や吹雪は、本当の世界を人々の眼からくらますものなんだというメッセージだ。
(赤いズボンは本当の世界に至るためのもの、真実を覆い隠す日の陰りや吹雪から太市を守るもの)

賢治はおそらくこういうメッセージを自然から受けとれると信じていたようだ。

賢治は、穢土と浄土が二重になっているこの世界で法華経の理想を信じて生き、この世界を正しく見詰め、本当の世界からのメッセージを聞き取り、それを詩や童話に写して人々に示すことで、法華経の本当の布教を成し遂げようとしたのではないか。

詩作メモの一つがそのことを示しているようだ。

『詩は裸身にて理論の至り得ぬ
         堺を探り来る
   そのこと決死のわざなり
  イデオロギー下に詩をなすは
   直観粗雑の理論に
    屈したるなり』

風や雲からのメッセージは、表現が難しい。

上のメモで賢治は、詩がメッセージを表現するのに適していること、教義のようなイデオロギーだけに頼っていては出来ないと主張しているように思う。。
童話は散文の小説よりはずっと詩に近い表現が可能。

こうしてスールダッタ(賢治)は、竜(チャーナタ=法華経)の守護の元、『あしたの世界に叶ふべきまことと 美との模型』を知るべく 『風がうたひ雲が応じ波が鳴らすそのうた』を忠実に書き留めるべく新しい詩の技法・心象スケッチを開始することになる。

従って、スールダッタ(賢治)やチャーナタの目当てが、従来のような詩作と異なるものだという認識が明確にあった。

スールダッタ(賢治)にとっては、詩作がそのまま法華経の信仰・生活となり、やがてそれは、アルタの偈が示したように、理想世界の実現へとつながることになる。

こういう生活のあり方を、賢治が言う「宗教は芸術、芸術は宗教という生き方」と言えるのではないか。

ここまで僕は賢治の考え方を推理してきた。
賢治の理想をそのまま実現することは現代では難しいと思う。
賢治が依って立つ法華経に問題が多いからだ。
僕たちは新しい法華経の出現を待たなければならない。
あるいは、新しい賢治の出現だ。
遠い未来には、科学の探究によってほとんどの疑問が解決するかもしれない。
だが、近い未来にはほとんど不可能だろう。
だから、考えなければならない。
人とは何か。
世界とは何か。
そして、人はどう生きるべきか(どう死ぬべきか)。

* 詩集「春と修羅」の記録によれば、賢治はトシの死までは、さまざまなメッセージを受け取ることが出来た。
ところが、思わぬトシの死で、賢治はひどく性急にトシに関わるメッセージを求めた。
期待したメッセージは得られなかった。
賢治の信念、心象スケッチによってメッセージを受け取れるという信念が崩れかけた。
それが半年間の詩作のブランクとも考えられないか。

タイトルの意図は、賢治の「法華文学」とは何かを明らかにし、詩集「春と修羅」が法華文学であるということを確認することです。

 *「アメニモマケズ手帳」p135に
  「高知尾師の奨めにより
    法華文学の創作
      名をあらわさず、
      報をうけず、
    貢高の心を離れ、」
     *貢高の心--名誉心・野心? 貢---推挙の意味か?


大正10年の出奔上京の熱狂に完全に幕を下ろした、同年夏の帰花。

帰花した賢治は、在京中から引き続く猛烈な創作意欲に突き動かされて童話を書き続けていた。

年譜によれば、その頃に(現存稿の位置づけは翌大正11年)散文の短編「竜と詩人」が書かれたとあります。

考証という分野は僕の性格、ねちねちして批判的な精神にぴったりなんですが、いかんせんこの分野で功を揚げるには、博覧強記の頭脳が必要なのに、僕にはありません。

したがって、年譜をそのまま採用する他ありません。
年譜の記述が誤りなら、この推論は根底から崩壊します。
それでも、推論の楽しみには代えられません。

この文章は、
 1.なかなか進まない詩篇「春と修羅」読解の準備の一つ
2.kokiaさんの歌に触発された(viva kokia!)
ものです。

手元に「竜と詩人」のテキストがなければ、森羅情報サービスの下記URLで。
 http://why.kenji.ne.jp/douwa/sinla2.html

「竜と詩人」テキストを読んでいきます。『 』内は引用です。森羅情報サービスからコピーさせていただきました。有り難うございます。

竜のチャーナタは、朝の気配で目覚めたのか、それとも、悔恨と感謝でずっと寝ることは無かったのか分からない。

潮が満ちてきたので、深い洞の底から潮の上へと身を捻って浮き上がろうとした。



『洞の隙間から朝日がきらきら射して来て水底の岩の凹凸をはっきり陰影で浮き出させ、またその岩につくたくさんの赤や白の動物を写し出した。
チャーナタはうっとりその青くすこし朧ろな水を見た。それから洞のすきまを通して火のようにきらきら光る海の水と浅黄いろの天末にかかる火球日天子の座を見た。』

 
  * 朧な---ほのかなこと。ぼんやりかすんでいること。
 浅黄いろ---薄い黄色。日本の伝統色のページなどでは、青系の色。
 日本の伝統色のURL:http://www.rakuten.ne.jp/gold/marutomo/value/color/index.html。この場合は、こちらの色だと思う。
   天末---地平線、今は海だから水平線。天と海との接する境界。
火球日天子---太陽。ほんとに火球なのだ。



散文詩「やまなし」の描写を思い浮かべるほど、美しい描写です。

身を起こしかけた老竜チャーナタの眼前には、何時見ても美しい夜明け方の水の世界が広がっています。
うっとりと青い、少しにごりのある洞の水中。
沢山の生き物がチャーナタの洞にも住んでいる。
濁りがあるので、差し込む朝日は光の帯になって見えたかもしれません。
チンダル現象。
 *チンダル現象のサイト
   http://www.asahi-net.or.jp/~rk8h-od/gallery.53-10.htm
   http://www.chem.gunma-ct.ac.jp/H13kokaikoza/files/textbook/colloid.html
   http://www.buturigaku.net/main03/Chemistry/Chemistry_Colloid.html
 *チンダル現象で「青く朧な水」
   http://blogs.yahoo.co.jp/knights92712/rss.xml

水中から洞の海水面に躍り出た老竜チャーナタは、わずかな洞の隙間から外洋と天末を見た。

日本の伝統色にある「藍」よりも濃かった夜空が、朝日でかなり明るい「浅黄(葱)色」に変わり、その浅黄色の天末からこちらの海は、きらきら火のように赤く光る。
夕日の黄金色に対して、朝日は赤い色で表現されますね。

天と海とのあわい(間)、天末から静かに昇って行く火球のような太陽。

荘厳な一瞬です。

命の夜明けです。

1.詩集「春と修羅」は本当に詩集なんだろうか?
2.なぜ賢治は宗教家の道を突き進まなかったのか?
3.賢治が死んだトシの行方を執拗に求めた理由は?



1.詩集「春と修羅」は本当に詩集なんだろうか?


詩とは何か、という問いに『かつてポール・ヴァレリーは語った。「散文は歩行であり、詩は舞踏である」と。』(岡部淳太郎さんの下記URLより引用)
 *http://www16.ocn.ne.jp/~juntaro/index.html

岡部さんご自身のことばで詩というものを説明するなら、「歩行と舞踏と言うのではなく、動画と静止画と言った方が現代の人にとってはずっと通りがいいだろう。」と詩についてのご自身の見方を示しています。

映画と舞台劇の違いと言い換えてもいいのかななんて、岡部さんの文を読みながら思いました。

詩とは何かという問いに対するこれらの比喩的な答えは、あくまで比喩であって、厳密な定義ではないでしょう。

しかし、賢治の詩集「春と修羅」に収載された詩篇が「詩」なのか「散文」なのかという疑問に対して重要なヒントを提供してくれています。

別な方が、詩とくに現代詩は、新聞の記事のような限定された意味内容を担った文章ではないのだから、いわゆる「分かる」ろうとする必要はない、というようなことを述べています。

もし、詩というものが新聞記事のような、ある一つの意味内容を伝達する目的で書かれたとするなら、僕なんかにはとてつもなく難解な表現に思える(現代)詩特有のことさらに難しくしたような表現法をする必要はない。

「僕はやっぱり君という女性無しには生きて行けない」ということ言いたいだけなら、恐ろしく意味深な言い回しや語彙をちりばめて読者を振り回す権利なんか無い。

画家がある素晴らしい情景の感動を感受した時、どうやってその情景と感動を他人に伝えるべきか悩み工夫する時、突如彼だけに描ける絵が誕生するように、新聞記事を書く表現法では表現できない詩人の感受したものを懸命の苦労で文字表現したものが詩なんでしょう。

ヴァレリーの舞踏や岡部さんの静止画という比喩に込められているのは、こういう風にして創作された一枚の絵と同じようなものだと思う。

「東名高速で玉突き事故が発生しました」という新聞記事は、たった一つの内容しか伝えていない。(もちろん、その「事実」を伝達する記事を読む側がいろいろな思いで読むだろうが、記事の意味内容は一つしかない)

同じ事実でも、詩人が感受した事実は、詩によってしか表現できないのだろう。

そうなると、読み手も大変です。

詩人が呻吟してやっと形にした表現を「読まなければならない」のですから。

読むというより感じ取るのでしょうか。

いやいや、僕はまだ、岡部さんの言う散文の読み方に捉われています。

詩は「詩」として読めばいいのでしょう。

後は読み手次第。

読めば読むほど「詩」でしかえられない何かを感じ、心が豊かになると言われます。

もし、賢治の詩が本当に「こういう詩」であるなら、僕の読み方は全くの見当違いとなります。

ただ、今まで詩集「春と修羅」の詩篇を鑑賞してきて感じたことは、賢治が詩という表現法を愛していたこと、散文では伝えにくい何かがあったろうことなど、賢治が詩という形式へのこだわりが強かったということです。

賢治が童話・詩を書き、小説を書かなかったあるいは書けなかったといわれる理由もここにあると思う。

結論は、完了するかしないか見通しは無いが、今のまま続けていって答えが自然に出てくるのを待つほかないでしょう。



2.なぜ賢治は宗教家の道を突き進まなかったのか?


賢治が詩集「春と修羅」に、僕の読み方のような宗教的意図を込めていたとしたら、何も難解な表現や専門用語を多く含む多彩な語彙をちりばめて読み取りにくくするよりも、平明な表現で多くの読者が理解しやすいようにした方がよっぽど目的を達成しやすいだろう。

それよりも法華経を布教するなら、折伏を目指すなら宗教家になり、その道に専念すれば良かったはずだ。

お気づきのように、賢治は一度宗教家の道を歩む熱情を高め、とうとう実行したのです。

大正10年一月の出奔上京と国柱会訪問です。

この時賢治が目指していたのは宗教家の道だと言って良いでしょう。

ところが、賢治に何かが起こって、出奔上京時までのあの熱情に大きな変化が生じたのです。

国柱会での活動や東京での生活で賢治は宗教家として専念する道に見切りをつけたようです。

年譜、伝聞・伝記では、トシの容態悪化の知らせで帰花したとしています。

帰花の理由つまり、国柱会で法華経宣布の活動に専念し、宿願である「みんなの幸い」の実現を目指す道を中途で断念した理由は明確ではありません。

国柱会そのものに対する批判が原因とする説や、もともと出奔上京は宗教的情熱というより学問・文学に対する情熱が主体だったが、中央文壇は賢治をついに受け入れなかったためとする説などある。

そしてもう一つが、国柱会を初めて訪れた時応対に出た国柱会理事、高知尾智耀の勧めで法華経の宣布を文学を通して行なう方向に転換したとする説だ。
 *「アメニモマケズ手帳」p135に
  「高知尾師の奨めにより
       法華文学の創作
         名をあらわさず、
            報をうけず、
          貢高の心を離れ、」
             *貢高の心--名誉心・野心? 貢---推挙の意味か?
   隣の、p136には法華経を収める経筒のスケッチがある。

その他にも、中央学会や文壇の権威に対するコンプレックスとか反感を東京で強くしたとする見方もある。

恐らく、そういうもの全てが絡んでいたのだろう。

そして、決定的なのが保坂嘉内との決別ではないか。
保坂嘉内が詳しい事情を書き残してくれていれば良かったのだろうが、決別前後の彼の日記には

     七月十八日  晴
        宮沢賢治
          面会来

とページ一杯に大きな字で書かれ、それらの字に一本の斜線を引き、抹消しようとする意志が記録されているそうだ。

年譜など分かる帰花後の賢治の活動は、明らかに法華文学創作中心になっている。

賢治は、出家という形の宗教家ではないが、間違いなく、宗教家の道に一度は入った。

そして、その道を変更したのです。

法華文学創作による布教宣布という方法へと。

こう考えていいのなら、詩集「春と修羅」には、法華文学という性格があるはずだ。

そして、もう一つ。

法華経の本当の実現は、実生活・普通の生活で理想が実現することです。

賢治は一人の生活者として法華経を生きようとしたのではないか。

日蓮や田中智学の教義を敷衍する文学ではなく、現実に生身で生きる法華経信徒を生きて、それを文学で表現することで布教宣布しようとしたのではないか。

まず、生きてみよう。

それが、詩集「春と修羅」の原点ではないか。

新校本全集第十三巻の「詩法メモ」

    詩は裸身にて理論の至り得ぬ
        堺を探り来る
       そのこと決死のわざなり
     イデオロギー下に詩をなすは
         直観粗雑の理論に
           屈したるなり



3.賢治が死んだトシの行方を執拗に求めた理由は?


僕は賢治を真の意味での宗教家と考えている。

その作品は、宗教文学(教義の普及を目指した)作品としてだけでなく、広義の文学作品としても読める多面性・多様性・深みを持っているといえるかもしれない。

だが、彼の多くの作品に取り上げられている妹トシへの執拗で異常なまでの執着は、宗教家賢治という視点を欠いては正しい理解は得られないだろう。

詩「永訣の朝」を、読み手がそれぞれに読むことに問題はない。

どういう感動を受けとるか、それこそ多様性があっていい。

だが、賢治がこの詩で始まるトシに関する作品の試みの背後にあるものを、賢治の立場で理解しようとするなら、宗教を排除してはいけない。

宗教家賢治は、トシのことを同じ宗教・法華経の信仰の道連れであると詩の中でも表明している。

それなのに、どうして賢治は死後のトシの行方や、死後のトシの有様をあれほど執拗に気にかけたのだろうか。

法華経は、トシにとって一体なんだったのか。

賢治は法華経の何を信仰していたのか。

経典「妙法蓮華経(「法華経」の漢訳名の一つ。サンスクリット語では「正しい教えの白蓮」とも訳される)」を流し読みすると、繰り返し繰り返し、人々は法華経を信じれば、「さとり」を得、「仏ホトケ」になれると説いている。

トシは賢治に勧められ、恐らく熱心な法華経信者になっていたはずだ。

ならば、たとえ信仰した期間が短かろうと、厚い信心の功徳はあって当然だろう。

法華経に説くように、死後すぐに「さとり」を得なくても、すぐ「ほとけ」にならなくても、すくなくとも、確実に「さとり」「ほとけ」への道に進んだと賢治にも確信できたのではないか。

それなのに、賢治は執拗に確証を得ようとした。
トシからの通信を求め、通信できると信じ、確かめようとした。

それどころではない。

賢治はトシが悪いところに堕ちたかもしれないと危惧してもいる。

一体これはどういうことなんだろうと思わずにいられない。

賢治とトシとの近親相姦などというとんでもない憶測が出てくる所以だろう。

賢治が父の後を継いで質屋になったり、国柱会でマジメに活動して出世して幹部にでもなっていたら、おそらく、賢治はトシの死後の行方をあれほど執拗に追及しようとしなかったろう。

詩集「春と修羅」で、賢治は法華経を生きようとした。

一人の人間として真摯に、異常なほど真摯に法華経に生きようとした。

漫然と教義を受け入れ、漫然と人に説き、漫然と宗教家をやるのでなく、命がけというほど真摯に法華経に生きようとした結果、何らかの問題を抱えこんでしまったのではないか。

賢治はこれまた執拗に「まことのことば」の不在を嘆き、その「顕現」を希求し続けた。

賢治にとって法華経は絶対的なものだが、賢治の現前にはいまだ法華経の理想が実現していなかった。

法華経の存在は賢治が生きる世界の各所に感じられ、信仰に揺らぎはなかった。

だが、理想はいまだ実現していないという事実も厳然たるものだったに違いない。

それがトシの死に直面した時、賢治を疑惑の深淵に突き落としたのではないか。

喩えていえば、末法思想そのものだ。
 *法華堂建立勧進文参照
 http://blogs.yahoo.co.jp/avaroikite/52439489.html

この課題も、これからさらに詮索して行かなければならない。

詩「春と修羅」が書かれる前後に、賢治はどんな作品を書いていたのだろうか。

前年大正10年夏の終わりごろに花巻に戻ってから、盛んに童話の創作が行なわれたことが年譜から分かる。
多くが、童話集「注文の多い料理店」所収の作品です。

その他物語形式のものに、「革トランク」「竜と詩人」「図書館幻想」「雪渡り」(以上大正10年)「花椰菜ハナヤサイ」「あけがた」(2篇とも新校本全集第十に巻)

詩・童謡に、「あまの川」「冬のスケッチ」(両者とも大正10年)そして、大正11年2月の「(花巻農学校)精神歌」がある。歌曲としては、やや後になるが行進歌や応援歌も同じ位置づけにあるし、農学校の生徒に演じさせた劇中の歌曲も同様に扱うべきと思う。

今回は、「(花巻農学校)精神歌」を読んでみたい。

まず、歌詞を引用します。


花巻農学校精神歌

(一)
日ハ君臨シ   カガヤキハ     *日---太陽
白金ノアメ   ソソギタリ     *白金ノアメ---日光。「まこと」を育てる。
ワレラハ黒き  ツチニ俯シ     *ツチニ俯シ---畑の土にかがみ込んで。
マコトノクサノ タネマケリ     *マコト---真実・真理。法華経の理想。

(二)
日ハ君臨シ   穹窿ニ       *穹窿キュウリュウ--- 天空をドーム型天井と見た。
ミナギリワタス 青ビカリ      *青ビカリ---空の散乱反射(の光)。
ヒカリノアセヲ 感ズレバ      *ヒカリノアセ---?
気圏ノキワミ  隈モナシ      *気圏ノキワミ---スカイライン。地平線。

(三)
日ハ君臨シ   玻璃ノマド     *玻璃ノマド---校舎のガラス窓or天球?
清澄ニシテ   寂カナリ      *寂カナリ---寂光浄土の寂。本当の幸い。
サアレマコトヲ 索メテハ      *マコト---如来の説く真実の言葉。(一)と同。
白堊ノ霧モ   アビヌベシ     *白堊---白土。チョークの粉のような。

(四)
日ハ君臨シ   カガヤキノ     *日は君臨し  輝きの
太陽系ハ    マヒルナリ     *太陽系は   真昼なり
ケハシキタビノ ナカニシテ     *険しき旅の  途上にして  
ワレラヒカリノ ミチヲフム     *我等光の   道を踏む
                 *印以下は、僕の註です。


僕の詩作技法(レトリック)の知識は皆無。
それなのに、賢治はレトリックを駆使しているらしい(恩田さんの研究など)
従って、完全に自己流の読み。

(一)~(四)は、いずれもレトリックとしては、天上と地上の対比という構成と僕は読む。

各連とも、前半は天上を歌い、後半で地上(の賢治たち)を歌う。

そう読むとき、第三連の「玻璃ノマド」を、ごく普通にガラス窓と読むと、校舎ぐらいしか想起できない。
しかし、これを「穹窿」の同義語と読めば、全体の統一がとれる。

「マド」を「窓」と読むほかないと思うのだが、僕は「玻璃の窓」を、「気圏」とか「穹窿」と読めるのではないかと思う。

広大な宇宙の地球との境界、それが「玻璃ノマド」だろうか?
気宇壮大というのはこういうことですね。
なんとも壮大な感覚と視野です。

この歌曲の歌詞は、一見、農学校の生徒たちとともに明るい恵みの陽光の下で畑作業に励む頼もしい姿を歌っているように見えますが、一寸読み方を変えると、詩集「春と修羅」の冒頭部分の詩篇に共通する宗教的願望も読み取れると思います。

第一連。
真理そのものである法華経の具現者太陽が、まことのことばを燦燦と降り注ぐ恵み深き黒土の耕地に、人々にマコト(幸い)をもたらすものの種を蒔いている。

第二連。
マコトをもたらす日の光はドームのように見える空全体に漲り渡っている。散乱反射で空は明るく青く晴れ渡っている。農作業する生徒達よ、マコトの言葉を陽光のように浴びて、マコトの種を蒔いている生徒達よ、お前たちの汗にマコトを感じ取れば、どうだ、ドームの裾、大地と接する地平線まで、光の行き渡らないところは無い。

第三連。
マコトがあるところ、この地球の気圏は澄み切って清浄な硝子の窓ではないか。森羅万象はあるがままでしずまっている。今われらが住んでいるここが浄土なのだ。だが、地上でマコトを求めるということは、チョークのような霧に遮られることもある。

第四連。
さあれ、諸君。太陽はこうして輝き渡っている。光は隅々まで照らし明るく暖かい。前途に待ちかまえるいかなる困難にもめげず、前進しよう。


こんな風に読めば、当時賢治が結構明るい未来を予想していたようにも思える。

ただ、この歌が手放しの太陽讃歌でないことも確かです。

賢治は、太陽が地上の生き物を生かし育てることを繰り返し歌うが、同時に、地上の人々の努力が欠かせないものであることも繰り返し歌っています。

浅薄な知識ですが、大乗仏教の各派は、様々な問題だらけのこの娑婆世界は、本当は問題なんかなくて、浄土のように本当に平安なんだ。ただ、人々にそう見えず、そう思えないだけなんだ、というような理屈を展開しています。

法華経も、賢治もそういう考え方だと思います。

だが、この娑婆を浄土に変えるのは容易なことではないようです。

修羅が歯軋りしながら涙を流すのも、マコトの種を育てることの難しさを知ったからでしょう。
何時、どこで。
それが大正10年の出奔上京だと思うのです。

法華経の記述も、地上にマコト(全ての人の本当の幸い)を実現するために、特に菩薩に対して非常に厳しい努力を課しています。

このように、歌曲「(花巻農学校)精神歌」には、詩「春と修羅」に通じる考え方、語彙が見られ、大いに参考に出来そうだ。

詩「春と修羅」の読みにとりかかれない。

難しい。

詩が長い、複雑、語彙も多様でしかも重要なのが目白押し。

春、修羅、心象、はがね、くも、腐食の湿地、諂曲、いかりのにがさ、気層、ひかり、天の海、まことのことば、などなど。

恩田逸夫「宮沢賢治論 2 詩研究」をぽつぽつ読んでいます。

その中の「室内における賢治の心象」において、恩田さんは春と修羅第一集~三集の詩篇中屋内の詩作と思えるものはホンの極わずかだと指摘している。

賢治の詩は、自然の中で書かれた。

自然の中で賢治はインスピレーションを得た。

恩田さんはさらに「詩章『風景とオルゴール』の性格」で賢治と自然の関係を分析しています。

「賢治の信仰の対象は、彼が『宇宙意志』と呼んでいるものである。・・・。この宇宙根元力こそは永遠に真実なるものであって、宇宙感情を体得した生活こそもっとも正しく価値ある『まこと』の生き方である、という主張である。・・・。賢治の自然尊重は、自然がもっとも端的に宇宙感情を顕現していると考えるからである。」(p208―209)

では、賢治が詩集「春と修羅」を書いた頃に、自然の何から「まこと」につながる聖なるモノを得られると考えていたか、それを童話集「注文の多い料理店」序から読み取ってみよう。

詩集と違い、童話集の序は短く平明な文章です。

読者が低年齢の子供だったからでしょう。

賢治は童話集の序で、自然から得られる聖なるものの例として、
  
1、きれいに透き通った風
2、桃色の美しい朝の日光
を挙げ、さらに賢治は、
  3、虹
4、月明かり
から、童話集に載せた話し(聖なるもの)を得た、と述べている。

賢治は「雲の詩人」とも言われるようです。

「雲の詩人」ということは、賢治が雲も聖なるもののうちに数えていたことになる可能性があります。

しかし、ざっと雲の表現を見ても、賢治が雲にも1の風や2の日光、3の虹、4の月明かりのような意味を見出していたとは思えない。

詩「恋と病熱」まで読んできたように、少なくとも「雲」は自然の中で聖なる位置にはないように思える。

詩「永訣の朝」で雲は次のような表現をされている。

  1、うすあかくいっさう陰惨インサンな雲から
2、蒼鉛ソウエンいろの暗い雲から

トシの死を目前にしている。

陰惨、蒼鉛といった形容をされた雲とはどういう位置づけをされているのか。
 *ただし、雲の変容したもの「雪」はこの詩では特別な意味合いを持たされている。さらに検討しなければならない。

賢治にとって自然は全てが聖なるものではないのだろう。

仏教一般でいう、六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天(神)の存在を信じていれば、賢治を囲む自然の中にそれらが存在しなければならない。

詩「小岩井農場」にも、異界を思わせる表現がある。

それが六道のいずれかなのか、それともまた別なものなのかは分からない。

僕が何気なく見ている僕の外にある自然を、賢治はたんなる景色・風物や己の心情を代弁するものとしてだけ感覚していたのでないということがこういうことからも説明できる。

もちろん、あまりにこじつけすぎるのも良くない。
間違った解釈になる危険性がある。
それは分かっている。

やはり、僕は闇夜の嵐の海に小船で漕ぎ出してしまったようだ。

こんなぼろ舟で、大洋を渡れるのか、不安だぁ~。

以下の引用は、パート九の引用の一部です。



ちいさな自分を劃クギることのできない
この不可思議な大きな心象宙宇のなかで
もしも正しいねがひに燃えて
じぶんとひとと万象といっしょに
至上福しにいたらうとする
それをある宗教情操とするならば



小さな自分とは、(自我意識としての)個々人を指すと考えます。

「劃クギる」とは、一様な質のもの、または、一つにとけあっているものを幾つかに区画し、区分けすることと解釈します。

心象は観念、宙は空間、宇は時間。心象宙宇は、心象世界と同じ意味。大乗仏教の「空」の理念に近い、観念の対象となる人間外部の実体を想定しない世界観。僕等の通念とは違う、「世界(宇宙)」を内部の観念と外部の実体(視覚の対象が実在すると考える立場)との二つに分けて考えない世界観。

賢治は心象宙宇(心象世界)だけしか認めなかった。

「至上」とは、これ以上無いこと。「福し」は、福祉であろうから、幸せと同じ意味ととる。
「至上福し」とは、恐らく幸不幸のような相対的な幸せではなく、浮世離れした理想だが、幸せだけの幸せ。世間的な幸せとは違う気がする。

宗教情操については、この概念が、恋愛・性欲という概念と関連付けて取り上げられていることに注目する。
この三つの概念は、高貴・善~卑俗・悪という上位下位の関係で考えられている。
賢治は、引用部分のような宗教情操がもっとも善い上位に位置するもので、性欲を最も下位に位置づけている。
情操の語意を、高潔な志を貫こうとする強い意志というような意味にとる。

この詩で賢治は高潔な志を、「正しいねがひに燃えて、じぶんとひとと万象といっしょに、至上福しにいたらうとする」と規定している。

これが、かつて高農の頃、保坂嘉内にも明かしたことのある賢治の誓いの核心だろうと思う。

そして、それが晩年まで賢治を内部から突き動かしたものだと思う。

「ちいさな自分を劃クギることのできない
 この不可思議な大きな心象宙宇のなかで」
とは、賢治が農民芸術概論綱要(序論)で、「自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する」と言っていることに対応する。
賢治は各個人やあらゆるものは、本来一体の大きな宇宙の一部なのだと考えた。

本来は個々に孤立しているべきでないのだが、穢土エドの現世では、個人個人に孤立し、格差がある(と人々は感じている)。

だが、もしも、人が 「正しいねがひに燃えて、じぶんとひとと万象といっしょに、至上福しにいたらうとする」意志を持ち、それを貫徹するなら、そういう孤立や格差は必ず解消されると賢治は信じた。

恐らく、大正10年出奔上京後暫くまでは、賢治自身がそういう意志を持って努力していると自負していた。

宗教情操の宗教とは、賢治の場合、法華経の信仰です。

賢治にとっては、日蓮よりも、田中智学よりも上位に法華経があったはずです。

法華経の中で、「正しいねがひに燃えて、じぶんとひとと万象といっしょに、至上福しにいたらうとする」意志を貫徹しようとする者は、菩薩と呼ばれている。

こういう議論をするなら、菩薩とは何かについても、菩薩と如来の関係もキチンとしなければいけないのですが、それは後日。

僕は、引用部分全体を、「本来、宇宙全体が一体であるはずなのが、人はそう意識できず、個々人の意識を分かれ、幸不幸の格差に苦しんでいる。そういう人々の真の幸せを願い、その実現に向けて真摯に努力する菩薩の道を行くことは」と読みます。

さて、こういう賢治の願いがこめられた詩をどう読むべきでしょう。

一つの読み方は、僕が今やっているように、宗教という観点だけから読む読み方です。
法華経を唯一無二の聖典と信じ、信仰し、法華経のみに従って読み、賢治が表明している考えを自分の行動の指針とする読み方です。

もう一つの読み方は、法華経と賢治の言葉を、一つの啓示(人類共通の願い理想)と読み、賢治の願いを正しく読み取り、現実的な実践の道を考案し、理想の実現を目指す。
宗教に捉われない立場。

実際賢治自身も生前、通常の意味での宗教家としてだけ実践していたわけではない(広い意味では、賢治こそ本当の宗教家だったような気がするが)。

時には、労農運動を支援する政治的活動に手を染め、多くは、農業科学者・技術者として農民の支援をした。
また、芸術が人生を豊かにする(理想の仏国土は花に充ち、舞楽が演じられるところでもあるから、現世を楽土とするために)と信じ、演劇・舞踊・詩作・音楽などの普及にも努めた。

現実的な対応をしていた。

肥料設計がその象徴となる。

今東北は、賢治当時に比べれば、ずっと暮らしが良くなっているだろう。
日本経済の発展に伴う、国全体の経済構造の質的向上の結果だろう。

農業の機械化、化学肥料・農薬の普及、小作制度の改革、大消費地の購買力の向上、政治的配慮による補助金などなど。

これらは、ほとんど法華経にも宗教にもあまりかかわりなく発展したことがらだろう。

日本経済の発展を担った多くの人々の向上心とたゆまぬ創意工夫・研究や努力の賜物だろう。

まさか、本気で今の日本経済の発展は、何々という宗教のお陰だとは言わないだろう。

賢治の科学知識・技術の親である盛岡農高や師・関豊太郎教授は、宗教とはかかわりないはずだ。

「人の幸せ」の多くは、経済と関わりが深い。

では、賢治の作品はもはや単なる古典文学となってしまうのだろうか。

皆さんも、今の日本が万人にとって良い方向に向かっていると手放しに礼賛も楽観視もできないでしょう。

個人や家計の格差が開いているのは事実だし、それを少しでも解消させるために機能しなければならない政治がその役割を果たせていない。

日本を背負うべき政治家・企業家・資本家の腐敗・堕落。

さらに遠い将来、子供や孫、ひ孫の世代の日本を考えると背筋の凍るような不安がよぎる。

食糧・環境・遺伝子操作に対する不安などなど。

身近なところでは、都市部の華麗華美享楽過剰な暮らしと地方農山漁村部の暮らしとの巨大な格差。
富・社会資本・消費の極端な都市偏重。
あるいは、イジメ・不登校などなど。

かつての小作貧農を髣髴させる派遣労働者・パート労働者などの経済弱者を踏み台にした経済繁栄。

精神面でも実生活面でも、日本は問題山積です。

僕のような冷めた人間には諦めが先に立ってしまうが、それでも、今の日本には、賢治のように高い理想を掲げ、真摯にその実現を追い求める姿勢に学ぶものが多いのではないかと思う。

その時、当然、賢治が信仰した法華経、賢治が目指した新しい宗教(理念)が問題となる。
それは、これから検討していくほかない。

高潔な宗教情操(宗教のごく広い意味での)のない、高潔な理念の無い幸せは、かつて人間がそうであり今でもそうでないかと疑われる、大昔の野生時代の意識が都会生活を満喫しているだけのいわば野獣の文化でしかないと思う。

詩「小岩井農場」 パート九 より

さうです 農場のこのへんは
まったく不思議におもはれます
どうしてかわたくしはここらを
der heilige Punkt と
呼びたいやうな気がします
この冬だって耕耘部まで用事で来て
こゝいらの匂のいゝふぶきのなかで
なにとはなしに聖いこころもちがして
凍えさうになりながらいつまでもいつまでも
いったり来たりしてゐました
さっきもさうです
どこの子どもらですかあの瓔珞ヨウラクをつけた子は
  《そんなことでだまされてはいけない
   ちがった空間にはいろいろちがったものがゐる
   それにだいいちさっきからの考へやうが
   まるで銅版のやうなのに気がつかないか》
雨のなかでひばりが鳴いてゐるのです
あなたがたは赤い瑪瑙の棘でいっぱいな野はらも
その貝殻のやうに白くひかり
底の平らな巨きなすあしにふむのでせう
   もう決定した そっちへ行くな
   これらはみんなただしくない
   いま疲れてかたちを更カへたおまへの信仰から
   發散して酸えたひかりの澱だ
  ちいさな自分を劃クギることのできない
 この不可思議な大きな心象宙宇のなかで
もしも正しいねがひに燃えて
じぶんとひとと万象といっしょに
至上福しにいたらうとする
それをある宗教情操とするならば
そのねがひから碎けまたは疲れ
じぶんとそれからたったもひとつのたましひと
完全そして永久にどこまでもいっしょに行かうとする
この變態を戀愛といふ
そしてどこまでもその方向では
決して求め得られないその戀愛の本質的な部分を
むりにもごまかし求め得やうとする
この傾向を性慾といふ
すべてこれら漸移のなかのさまざまな過程に從って
さまざまな眼に見えまた見えない生物の種類がある
この命題は可逆的にもまた正しく
わたくしにはあんまり恐ろしいことだ
けれどもいくら恐ろしいといっても
それがほんたうならしかたない
さあはっきり眼をあいてたれにも見え
明確に物理學の法則にしたがふ
これら實在の現象のなかから
あたらしくまっすぐに起て
明るい雨がこんなにたのしくそそぐのに
馬車が行く 馬はぬれて黒い
ひとはくるまに立って行く
もうけっしてさびしくはない
なんべんさびしくないと云ったとこで
またさびしくなるのはきまってゐる
けれどもここはこれでいいのだ
すべてさびしさと悲傷とを焚いて
ひとは透明な軋道をすすむ
ラリックス ラリックス いよいよ青く
雲はますます縮れてひかり
わたくしはかっきりみちをまがる


詩「小岩井農場」の最終章、パート九の後半です。

詩集「春と修羅」を浅薄な知識・能力にたじろぎもせず、自己流の読みを続けています。
順番で行けば、この回は「春と修羅」なんですが、さすがこの詩篇は、慎重に読みたい。

また、この詩には多くの方の解釈・読みがなされ、公開されています。
それらにももう一度眼を通しておきたい。

「春と修羅」の読みは暫く後になります。

このブログの冒頭で僕は、賢治の孤独を明かにします、と表明しました。

引用した「小岩井農場」パート九の後半には、賢治の孤独の様相の一つが現われていると思います。

賢治は決して世捨て人とか仙人になって、永久に他人との交渉を断とうと思ったことは無いでしょう。
そもそも賢治の人生目標そのものが、他人の幸せを実現する道を探ることだったらしいのですから。

しかし、賢治生前も今も、本当の賢治の願いを理解し、ともにその理想の実現に向けて同じ道を歩こうとする人は現われていないように感じます。
だから、このブログを書いているともいえるのです。

それが賢治の孤独だと思う。

「もしも正しいねがひに燃えて
じぶんとひとと万象といっしょに
至上福しにいたらうとする
それをある宗教情操とするならば
そのねがひから碎けまたは疲れ
じぶんとそれからたったもひとつのたましひと
完全そして永久にどこまでもいっしょに行かうとする
この變態を戀愛といふ」

引用部分の中ほどに、賢治のこの時点での恋愛論が述べられている。

賢治が目指したのは、どこまでも「宗教情操」に生きることだった。

ところが、現在の賢治はその道から外れてしまった。

正しい「宗教情操」から変容してした(変態した)別な生き物になってしまった。

これが大正10年8~9月の帰花以後の賢治の自己認識だろう。
「恋と病熱」の恋が念頭にあるのだろう。

どうして「恋」する生き物に変態してしまったのか。
「宗教情操」を堅持できず、孤独に耐え切れなかったのか。

この難題と対決すべく小岩井農場にやってきて、パート九でやっとこの結論を得た。
しかし、結論とは言っても、悟りではない。
理性と感情は乖離することが多い。

「もうけっしてさびしくはない
なんべんさびしくないと云ったとこで
またさびしくなるのはきまってゐる」

と、正直に本音を吐いている。

「すべてさびしさと悲傷とを焚いて
ひとは透明な軋道をすすむ
ラリックス ラリックス いよいよ青く
雲はますます縮れてひかり
わたくしはかっきりみちをまがる」

「さびしさと悲傷とを焚いて」、とは美しい言葉です。

孤独に耐えて行こうというのでしょうか。

ともかくも、一応の決着をつけたので、賢治はこれまで歩いていた道を転換します。
恋との決別となるのでしょうか。
その可否は詩「小岩井農場」の読みの中で。

「わたくしはかっきりみちをまがる」

この言葉は、これから賢治の進む道(道路ではない)・向かうべき方向を転換したことを示しているのだ、とどなたかが説明されてました。
いい読み方だと思います。

さて、賢治は必ず全ての人を幸せに出来る方法があり、仏国土のような理想郷があると確信していたようです。
死の直前まで信じていたようです。

みなさんも、漠然といつか幸せを手に出来ると思っているでしょう。
賢治の理想とあなたの幸せが同じかどうかはともかく。

でも、そうやって明日は、明日はと希望を託し続けて、やがて人は人生を終了します。

その時(死が確実になった)、人はいろいろな態度をとります。

賢治は、最後まで目標を実現したいと願い続けました。
そして、本当に今日が今生の最後の日だと確信した時、次の辞世の歌を書き付けました。

「病イタツキのゆゑにもくちん
   いのちなり
みのりに棄てば
  うれしからまし」

病ヤマイで今死んでいくこの身(自分)だが、今年の豊かな稔り(この年、花巻周辺は豊作)に捧げることができたのは嬉しい限りだ。

自分がやってきたことを振り返って、何がしかの貢献を果たせたと満足しているようにも思える。

稔りは、同時に御法(みのり=法華経)を意味し、法華経の理想実現に励んできた人生をも誇りに思っている。

もはや、この時点の賢治には、「さびしさ」は縁の無いものごとであり、その「すべてさびしさと悲傷とを焚いて ひとは透明な軋道をすすむ」こともない。
孤独とも縁が切れるのです。
これが諦念というものだろう。

立派な覚悟だと思う。

恋と病熱

けふはぼくのたましひは疾ヤみ
烏カラスさへ正視ができない
 あいつはちやうどいまごろから
つめたい青銅ブロンヅの病室で
透明薔薇バラの火に燃される
ほんたうに けれども妹よ
けふはぼくもあんまりひどいから
やなぎの花もとらない


日付は3月20日(月曜)。
稗貫農学校第一回卒業式を四日後に控えていた。

詩に出てくる妹はトシだろう。

この日付の頃のトシの病状はどの程度だったのか。
7月6日に桜の別宅へ移すと年譜にある。
妹シゲの回想(年譜)によると、病状は悪くなっていて、食欲は極度に無いとある。
当時は結核の特効薬はまだ開発されてなくてヒトエニ病人の体力次第だった。
食欲がなくなった、または、無いということは、病状の厳しさを意味する。

もっとも、森佐一(荘己池ソウイチ)の「宮沢賢治の肖像」によれば、別宅から再び町の自宅に戻った11月(19日)ごろはともかく、別宅に移った当初はトシも結構明るく振舞っていたようにも思える。

ただ、トシは別宅から家に戻ると本当にどんどん容態が悪化し、戻ってから10日もしないで亡くなった(27日)。

なくなる直前のトシは、それこそ歩くのもままならないようで、背中を指一本でちょいと押してもすぐ倒れてしまいそうな半死半生の状態だったそうだ。

そういう事態が、この詩からわずか8ヶ月後に訪れるのである。
この詩を書いた時、勿論賢治にその事態を明確に予測できなかったろう。
しかし、詩集をまとめた時には、この時間の関係は分かっていたのだ。

詩「栗鼠と色鉛筆」まで詩集の半分以上が、トシへの挽歌群の前になる。
トシは、どの詩までを読んでいたのだろうか。

7月に桜の別宅に移ってからは、賢治は泊り込みで看病することがあったそうだ。
別宅には看護婦代わりにトシの面倒を見てくれるキヨさんという年配の方が雇われていて一階のトシのベッドの傍に寝起きしていた。
賢治は二階で寝た。

そんな時、自作の詩や童話を読み聞かせないはずはないだろう。

トシは賢治の短歌を清書したりしていた。
そんなことも回想したかもしれない。

題名にある「病熱」は、結核特有の時間性をもったトシの発熱と分かる。
では「恋」とは何か?

詩「ぬすびと」の賢治は何か悩み事を持っていた。
それで明け方の町を歩いていた。

賢治はその悩み事を「盗む」ことと同じような悪いことと考えていたらしい。
仏教には信徒が守るべき五つの戒(守るべきことがら)というものがある。

〆憤奮阿僚?と交わるな(修行者は女性に接してはならない)盗むな殺すなけ海鬚弔な(修行者は悟ったと嘘を言うな)ゼ鬚飽獷泙譴襪(酒を飲むな)の五つ。

自分の影が店先の甕に忍び寄っただけなのに、「ぬすびと」と反応してしまうほどに悩んでいた。

この頃の賢治は人にも結婚や性交渉などの害を話していたとされる。

あるいは、禁欲によって何らかの力が高まることを期待していた風にも取れる発言をしていたらしい。
一種の霊力、あるいは、詩想の高まりなどを期待していたのだと。

しかし、賢治も人間、思いどおりにはいかなかったようだ。
たまらなくなると外に飛び出し、おさまるまで歩いたと人に語っていたようだ。

「恋」。
恋も自然に湧いてくる情動だ。
だが、恋の心はやがて様々な現実的行動に移ってゆく。
恋心でおさまらないのが問題なのだ。
人を一時的にせよ、盲目にもしてしまう。
恋が様々なトラブルの発生源にもなる。
場合によっては信仰を失わせることも。

賢治には恋を思わせる短歌が結構ある。
短歌から心象スケッチに移行する直前に「冬のスケッチ」という詩群がある。
そこにも恋の歌らしきものがある。

詩集「春と修羅」にも、カーバイト倉庫、ぬすびと、恋と病熱、春と修羅、春光呪詛、有明、小岩井農場、マサニエロなど、結構恋に縁のありそうな詩が並ぶ。

「カーバイト倉庫」で現われたテーマは、「ぬすびと」を経て、「恋と病熱」ではっきり姿を顕わしたのか。

賢治はやがて詩「小岩井農場」で、この情動・思いと対決し一つの結論を出す。

「と」で二つのものを結びつけた題名はこの詩集にかなりある。
日輪と太市、恋と病熱、春と修羅、陽ざしとかれくさ、林と思想、霧とマッチ、栗鼠と色鉛筆、雲とはんのき、風景とオルゴール、冬と銀河ステーション。

恋は賢治のものだろう。
この恋が恋愛感情だったことは二つ後の詩「春光呪詛」で分かる。

だがこの頃の賢治は、短歌の恋の歌の頃のように、自分の恋に一途にはなれなかった。
自分が明るい早春の外でもの思う時、トシは恋も出来ずにあの薄暗い病室で熱にうなされているではないか。
(トシは八ヵ月後に、別宅から戻る時、あそこは嫌だ、あそこに戻れば死ぬと怖れていたその薄暗い病室で死ぬことになる。)
自分だけが恋することを罪悪と意識する。
トシとともに歩んできた信仰の道からもはずれる。

恐らく、病床のトシが季節の野の花木を求めていたのだろう。
トシが好きな花木を見つけると折り取って持っていってたのだろう。

だが、3月20日は、それどころではなかった。
何がどうなのかはよく分からないが、恋の熱情とそれに反比例するように罪悪感がひどくなっていた。
春の象徴「やなぎ(ねこやなぎ?)」の花を今日は到底トシの前に差し出せない。
自分の心を恥じているのだ。
烏さえ正視できないほどだという(正確な意味はまだ分からない)。
たましい(魂)が病んでいると自嘲している。

同じ信仰の道を歩んでいるはずの賢治とトシ。
恋をしたくても病床にいて出来ないトシ。
トシを欺き自分一人恋に落ちてゆく賢治。
自分の誓いからも外れていく賢治。
だから恥じているのだろう。

この詩の主題は、賢治の自己嫌悪。
やなぎ(ねこやなぎ=ベムベロ=はこやなぎ)が引き金。
ああ、俺は今ベムベロの咲く明るい外にいる。
恋なんかに悩んでいる。
それなのに、トシはちょうど今頃から陰気な薄暗い病室で高熱に苦しめられなければならない。
賢治の、かつてトシとも誓いあった、あらゆる人の幸せを実現する道を開くというその精進の誓いはどうなったのだ。
烏さえまともに見ることが出来ない今日の自分へのはげしい嫌悪感。

そのエネルギーが次の詩、詩「春と修羅」で一気に解き放たれる。
賢治は自己嫌悪と矛盾の塊、修羅となって人気の無い森の中にその思いを解き放つ。

太陽(光)と雲(水)のテーマは出てこない。

これは、詩「春と修羅」の序奏。

*参考サイト

 一言。詩の題名からか、詩そのものからか、関心が高い。たくさんあります。

◎神戸宮沢賢治の会 会報(「屈折率」から「恋と熱病」までの読み) 
 http://www.eonet.ne.jp/~misty/kenji/kaiho/36.htm

◎幻燈
 http://blogs.yahoo.co.jp/mmsh2315/4576355.html

◎遠藤富士雄の詩人俳人(賢治の恋4)
 http://enfuji.cool.ne.jp/miyazawakenji4.htm

◎イーハトヴ・ガーデン(やなぎの花)
 http://nenemu8921.exblog.jp/tags/%E3%83%99%E3%83%A0%E3%83%99%E3%83%AD/

◎宮沢賢治論~賢治詩におけるとし子の死について~
 http://www3.kcn.ne.jp/~schoko/soturon3.html

◎第48回例会報告
 http://www.eonet.ne.jp/~misty/kenji/kaiho/38.htm

◎「カーバイト倉庫」の詩人が見つめたもの 「早春独白」を併せ読むとき
 http://www.kenji.gr.jp/kaiho/kaiho24.html

これまでのところ、何とか僕の読み方を維持できた。

すなわち、賢治がこの詩集所収の詩篇を綴り始めた時、賢治は明らかに一つの意図を秘めていた、という僕の読み方です。
序の主張です。

しかし、「ぬすびと」は難しい。
とにかく、詩を引用しておく。



ぬすびと

青じろい骸骨星座のよあけがた
凍えた泥の乱反射をわたり
店さきにひとつ置かれた
提婆のかめをぬすんだもの
にわかにもその長く黒い脚をやめ
二つの耳に二つの手をあて
電線のオルゴールを聴く



難しいので、どうしても、いろいろな方カタの読みを参考にしないと。
詩や文学の素養つまり読解力が乏しい僕は頭も固いし、語彙・知識も貧弱だし。
ノン・インテリなんで。

まず、「猫の事務所」所収の下記のページを参照させてもらいます。

「ぬすびと」の創作(猫の事務所)
http://www.bekkoame.ne.jp/~kakurai/kenji/history/h4/19220302.htm

このテーマを取り上げた、kakuraiさんも詩人ですが、草下英明さんという方も詩人の魂を持っておられます。

賢治の詩想のすばらしさ。
「骸骨星座」考案の賢治の詩心にあらためて敬意を表します。

綺麗な空気の広い高原に仰向けに寝て、kakuraiさんのページをマニュアルにして、遷り行く骸骨星座の夜明け方に身をまかせられたら幸せです。

このためだけで旅行する価値があります。

賢治の視点。

この詩の着想は、どの時点なのでしょう。
「提婆のかめ」か「オルゴール」か。
それとも、時間順か。

電線、店先とあるから、市内(といっても当時は宿場のような町並みだけの)だろう。
kakuraiさんのマニュアルにあるサソリ座は低い位置にあるので、つねに視線の前方にはなかったでしょう。(あるいは、当時の町並みは隙間だらけだった。)
時々空を見上げていた。
ある時点で、星が骸骨になる、と閃いた。

仏の教えを説き明かしたり、修行の補助具として使われたものに、九相図クソウズというのがあります。(現物を見たことはありません。)

ある九相図は、小野小町をモデルにしているそうです。
当時の風葬つまり死体を野天に野晒しにして自然に処理させようとする葬送法。
さしもの美人も無常の原理に従って、死に、死体はガスで膨れ、腐り、ぐじゃぐじゃになって膿が流れ出し、蛆も湧き、鳥獣微生物に食われ、肉は変色し、やがて骨が現われ、ついに、髪の毛と骨だけになり、それもバラバラに散らばって、いつか地中に埋もれる、というものです。

釈迦仏教の修行そのものです。
今時は流行ハヤりませんが。

賢治はもしかしたら、九相図を見たかもしれません。
いずれにしろ、骸骨にロマンはなじまないでしょう。
その骸骨か背景の空の色は青じろいのですからなお更です。


「乱反射」、どんなかすかでも光があったのです。
星星がまだ骸骨だけになって消えかかっている空からのあかり。
まさか街燈はなかっただろうから。
かすかなかすかな太陽の光。
空を濃い藍色から青じろい夜明けの兆候へと変えている曙光のきざし。
ナニモノカの脚の長い影を店先の陶磁の甕のうえに忍び寄るように伸ばすかすかな光。

誰かが、長い黒い脚を、電柱だと読んでました。

二つの耳を二つの手と記述したわけは?
電柱だとすると、横木が二本。
碍子の耳は片側一つずつ、計四つ。

僕は、電柱ではなく賢治自身だと読みたい。
歩いていると、自分の長い影が店先の甕の方へ忍び寄るように伸びていった。
影が長くなるのは、曙光だから。

後の手入れ推敲で、提婆ダイバを「青磁」に変えたり、抹消したまま代わりの言葉を書かずにおいたりしている。

ただの甕でも良かったのか。

提婆(デーヴァダッタ、提婆達多)は釈迦の親族。
釈迦と確執を持ち、釈迦の教団(サンガ、僧伽、僧=人ではなく教団のこと)の乗っ取りを図ったり、釈迦を殺そうとしたので地獄に堕ちたとされる。
仏法の敵、大悪人と決めつけられている。

一方、法華経では、提婆は前世で釈迦の師であったりする。

また賢治の好きな西遊記のモデル、三蔵玄奘の大唐西域記には、後世まで提婆の教団が存在したとも記述される。

どういう連想なのか分からない。
手入れ推敲を見れば、提婆に拘らなくてもよさそうだ。
鋭い考証家の方は提婆と甕、盗むの関係を読み解いているかもしれません。

「その長く黒い脚をやめ」。
「止トめ」ではなく、「やめ」。
「凍えた泥の乱反射をわたり」とあるが、賢治は歩いていなかった。
空の骸骨を見上げた後、自分の影がゆっくりと凍った水溜りを渡って伸びていくのを見た。
渡ったのは賢治自身ではなく、賢治の影だった。
とうとう、影は店先の甕まで伸びていった。
上体は甕を覆うまでに伸びていき、脚だけが店の方に向かって長く影を引いている。
影が忍びよるように伸びていったので、甕を盗むと想像したのか。

その時、ふいと音楽が聞こえてきた。
電線のオルゴールだ。
影の伸びる様サマの想像を「やめ」、オルゴールに聞き入った。
「ぬすびと」になった「その長く黒い脚」の精神状態をやめてそこからぬけだした。

耳に手を当てて聴くのだから、オルゴールはかすかに奏でている。
オルゴールの音色に賢治は初めて気づいたのか。
オルゴールの主題は、詩集後半に一章設けてある

日付は3月2日(木曜)。
前月に「精神歌」が書かれ、3月には曲がつけられた。
3月24日の卒業式で「精神歌」が歌われたそうだ。
この頃から、レコードの蒐集が始まったともある。
藤原嘉藤治との交友もあった。

音、楽曲に夢中になっていた。

音あるいは楽曲。
新しく登場したテーマです。
ずっと後に、もう30歳を過ぎたのに定職もなく、事実上実家に寄食しつつ、東京までセロ(チェロ)を習いに行ったりするようになる。
羅須地人協会では合奏団をつくり練習していた。
いずれ、劇同様公開する積りだったのだろう。

弟清六さんの回想によると、レコードで交響曲を聴いて「俺もこういうのを書く」と言ったとか。

清六さんは、詩集「春と修羅」を念頭に置いたようです。

この読みの難点は、影が伸びると読んだ点です。

朝日が昇る時、影はだんだん短くなる。
だから、影は伸びたのではなく、移動したのかもしれない。
短時間で賢治を中心とする影が移動するはずはない。
影が平行移動していたと読むのであれば、賢治はゆっくり歩いていた。
歩きながら、影の動きに気づき、甕に向かう様子を盗むと想像した。

さて、もう一度「ぬすびと」を読んでみよう。
四行目までが一つの連。

骸骨星座のイメージは、文字面ほどには暗くはない。
草下さんの解釈はむしろ詩的だ。

しかし、賢治は決してロマンチックではなかった。
それを青じろい色が象徴しているし、影は黒く、とうとう盗みまでしてしまう。

3月2日、明け方。
こんな時間にこれから学校に出勤とは考えられないので、何かがあって未明の町に飛び出して歩き廻っていたのか。
青白く、黒い、盗みをするような気分。
性欲の発散とは違うようだ。

提婆は、釈迦に背いた。
そのことと関係があるのか。
盗み=悪心。

賢治の仏教は、九相図を前にして深く自己を見詰めるような修行法ではない。
家族との確執か、信仰の問題か。
悪人、提婆のようになろうとした時、オルゴールが聞こえてきた。

一行目、二行目にある光は、光であっても、これはカーバイト倉庫の電燈と同じ光だろう。

この詩では、賢治を導くものは音である。
音は波。

うまく賢治の心を読めない。


参考サイト:

◎神戸宮沢賢治の会 会報(「屈折率」から「恋と熱病」までの読み) 
 http://www.eonet.ne.jp/~misty/kenji/kaiho/36.htm


◎rain tree
 http://www.interq.or.jp/sun/raintree/rain26/kenzi.html

コバルト山地

コバルト山地サンチの氷霧ヒョウムのなかで
あやしい朝の火が燃えてゐます
毛無森ケナシノモリのきり跡あたりの見当ケンタウです
たしかにせいしんてきの白い火が
水より強くどしどしどしどし燃えてゐます


コバルト山地というのは、北上平野から見た北上山地のことだという。
東の方向に山地を見るのだろう。

コバルトは金属で、色は遠くの山の色としてはあまりぱっとしない灰色だそうだ。
この詩でいうコバルトは、コバルトブルーだという。
ガラスにコバルトを混ぜるとその色になるのだそうだ。

検索してみると、どうもコバルトブルーという色が同定できない。
皆それぞれにこれがコバルトブルーだと主張している。
遠くの山の青い色、その青が何か際立って見えるのをコバルト色としたのだろう。

青は賢治の色の一つだ。
コバルトブルーはそういう青の中でどんな位置なのかここで説明できれば良い。
だが、分からない。

賢治は北上山地を愛した。
だが、賢治の青はブルーな気分のブルーだ。
「ひとつの青い照明です」というのは、序詩で自己規定した賢治のことだ。

決して輝くような太陽の色ではない。
どちらかといえば、カーバイト倉庫の軒で透き通って冷たく光る電燈に近い。

詩集「春と修羅」の賢治は、おそらく、輝く太陽のような光に憧れる、色々な悩みを抱えた小さな青い光だったのだろう。

宮沢賢治語彙辞典によれば、毛無森は北上山地にある早池峰山の尾根の一つだと推定している。
あるサイトでは、盛岡市内の森(百数十mの高さ)だとしている。

賢治がこの詩のコバルト山地をどこで見たかで変わるが、盛岡近辺の山だとすると、賢治は盛岡のあたりにいたことになり、早池峰山の尾根の一つだとすると、花巻にいたことになる。

花巻からだと、東北東の方向に早池峰山・毛無森がある。
あやしい朝の火は太陽だから東から昇ってくるし、この日1月22日は日曜だから、賢治は花巻でこバルト山地を見たのではないか。

不思議なことに、年譜には1月22日の記録が無い。
「コバルト山地」制作の記述も無い。

wikipediaによれば、氷霧は-30℃以下の低温で発生する現象で、氷の粒が空中に浮いていることなのだそうだ。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B7%E9%9C%A7)
花巻で-30℃はあるのだろうか。
はるか遠くのコバルト山地の氷霧をどうやって見分けたのか。

もし賢治がこの日、早池峰近辺にいたとすれば、氷霧は見分けられるが、北上山地(早池峰が属する山地)はコバルトブルーにはならない。

同じwikipediaによれば、氷霧の氷の粒が朝日を散乱して(普段よりも)輝くという。
賢治は異様に輝く朝日で北上の氷霧を判断したのか。
きり跡というのは、切り株のことだろうか。
いかにも賢治らしい表現とするべきか。

それともここにもなにか意味を込めているのか、分からない。

朝、ふと東を見ると、いつものコバルト山地は氷霧に覆われている。
覆うもの、それは水の系列。

突然、コバルト山地の毛霧森のきり跡あたりがあやしく燃え始めた。
輝きはどんどん増していく。
賢治は引きこまれるように見入った。

あれは確かに精神的なものだ。
あの白い火が法華経なのだ。

精神的な白い火は、覆い尽くそうとする氷霧(水)に負けず、どしどし燃えている。

タンタンとした表現だが、賢治は心に深く感じるものがあった。


* 白い火は法華経なのだと決めつけたら詩の鑑賞にはならないでしょう。
しかし、一度こういう読みをしておくことも必要だと思う。

何べんも繰り返しますが、僕は釈迦仏教のシンパです。
法華の信徒ではありません。


*参考サイト

◎韓国語のサイトにある、日本語で書かれた「コバルト山地」の読みです。
http://www.dbpia.com/view/is_view.asp?pid=950&isid=38282&topmenu=&topmenu1=&viewflag=3

◎神戸宮沢賢治の会 会報(「屈折率」から「恋と熱病」までの読み) 
 http://www.eonet.ne.jp/~misty/kenji/kaiho/36.htm

カーバイト倉庫

まちなみのなつかしい灯ヒとおもって
いそいでわたくしは雪と蛇紋岩サーペンタインとの
山峡をでてきましたのに
これはカーバイト倉庫の軒
すきとほってつめたい電燈です
  (薄明ハクメイどきのみぞれにぬれたのだから
   巻烟草マキタバコに一本火をつけるがいい)
これらなつかしさの擦過サッカは
寒さからだけ来たのでなく
またさびしいためからだけでもない


これは初版本の形態です。

賢治がその刊本(初版本)に手入れした推敲を書いておく。

。供腺傾毀
  (みぞれにすっかりぬれたのだから
 烟草に一本火をつけろ)  
■弦毀
 まず、
   いま擦過するなまめかしさは
 としてから、さらに推敲して、
   汗といっしょに擦過する
この薄明のなまめかしさは
 とした。
10行目
   さびしさからだけ来たのでもない
 とした。   
 
僕が初めて読んだこの詩篇の解釈は宮沢賢治研究叢書「薄明穹ハクメイキュウを行く  賢治詩私読」の小沢俊郎さんのものでした。

小沢さんは、,鉢を推敲完成と解釈して採用し、初版本の6~7行目と10行目を入れ替えたものをテキストにして読んでいました。

小沢さんの解釈を読んだ時は分かりやすいし、それまでの賢治菩薩的な色彩もなかったので、受け入れやすかった。

最も、この小沢さんの解釈は、ドストエフスキー研究家(D文学研究会)清水正さんの弟子、山下聖美さんの書評(「検証・宮沢賢治論」)では全くの酷評でした。

賢治菩薩にはうんざりしていましたが、かといって、非常に分かりにくい天沢退二郎さんの賢治論もどこを目指しているのか分からずあきていましたので、小沢さんのような分かりやすいものか、清水さんのような意味深な読み方に興味が向いていました。

しかし今は、正直どちらも物足りません。

今までのところ僕は詩集「春と修羅」全詩篇の読み方とそれに基づくこの詩集全体の解釈を見たことがありません。

総論的な解説はありますが、各論がなかったと思うのです。

総論と各詩篇(全詩篇)を関連づけて説明しなければ説得力がありません。

そんな難しいことを僕は始めてしまいました。

始めてはみましたが、僕には多分最後まで読む力はないでしょう。

ただ、賢治自身も述べているように(序ならびに手紙)、賢治はこの詩集に、詩集以上の何かを期していたと思う。

「丘の眩惑」まで強引に読んできたのは、何とか全編に流れるものを読み取りたいためです。


「カーバイト倉庫」の場所は、賢治研究者によって賢治時代の岩手軽便鉄道(後のJR釜石線)、岩根橋(達曽部川橋梁)近くにあったとされています。

ちなみに、岩根橋は、同じ村にある通称めがね橋(宮守川橋梁)と同じ形のめがね橋で、「銀河鉄道の夜」の鉄道のイメージとされる有名な写真(弁慶号のような旧式の蒸気機関車がおもちゃのような客車を牽いて橋を渡る写真)に写っているものです(写真の橋は、めがね橋なのか岩根橋なのか議論が分かれるようだが)。

カーバイト倉庫とあるが、倉庫兼工場だったようだ。

詳しくは下記URLを参照。
http://www.gijyutu.com/ooki/tanken/tanken2005/tassobe/tassobe.htm
(達曽部川橋梁・・・宮守村岩根橋周辺 カーバイト倉庫)

近隣に豊富な石灰岩と岩根橋近くに建設された水力発電所の電力でカーバイトを作り、そのカーバイトから窒素肥料や、アセチレンガスを作っていたそうだ。

水力発電所の完成が大正7年、「カーバイト倉庫」が大正11年だからわずか5年後のことだ。

当時最先端の化学工業もしくは工場ということだろう。

当然、倉庫の軒の電燈もこの水力発電所から電気を引いていたのだろう。
交流電気だろう。

日付は、「丘の眩惑」と同じ日(木曜日)。

おそらく、「丘の眩惑」からそのまま、山を歩いていたのだろう。

次に、薄明。
どっちなんだろう。
明け方(黎明)か夕暮れ(黄昏)か、薄明は薄明かりの時間帯だそうだ。

「薄明穹を行く」によれば、賢治は薄明(黎明と黄昏)をよく詠んでいるそうだ。

1月12日(木曜)、旧正月はもっと後だし、新暦だとしてももう正月は終わっている。
カーバイト倉庫(工場)は操業していたろう。
倉庫には人の気配も無いようだし、1月の夕まぐれだったら、まだ、倉庫で働く人が居そうなものだから、この薄明は明け方かもしれない。

ただ、明け方とするには賢治の体力が心配だ。
昼からずっと歩きづめかもしれないからだ。
小沢さんは夕方にしている。

地図を持ち歩き、読めた賢治が、倉庫の電燈を町の灯りと勘違いしているということは、賢治は初めて岩根橋のあたりに来たということだ。
地図で見てみると(国土地理院地図閲覧サービス2万5千分の1地形図* すごく見やすくなった)賢治が、釜石と花巻を結ぶ釜石街道に出ようとしていたらしいことが分かる。
花巻まで歩いて帰るつもりだったのか。
そうだとすると、薄明は夕暮れ時か。
ざっと見ても、岩根橋から花巻までは20km以上はありそうなので、前日の昼から歩き詰めはいくらなんでも無理だろう。
やはり、夕暮れか。

昼の丘のあたりでは風花カザハナのような雪が、霙ミゾレに変わったらしい。
慣れない山道は雪道でおまけに霙に降られたのでは心細い。
よくこんな経験をしていたらしい賢治も心細かったのか。

このカーバイト倉庫の詩からは、風物以外に賢治の内面が直接表現されるようになる。

つまり、これまでの主題・太陽(光、この詩では電燈)と雲(雪)に、さびしさ・なつかしさ(賢治の情念)という新しい主題が加わった。

詩集「春と修羅」は、この三つの主題をいろいろに変奏しているのではないか。

間にメンタルスケッチモディファイッドやアイネファンタジックインモルゲンなどというモノを挟み込んで。

雪という覆うものと蛇紋岩(恐らく賢治は今まで歩いてきた北上山地が蛇紋岩の地質だと知っていた)という変成してできたもの、粘っこいもの、姫神につながるもの(宮沢賢治語彙辞典より)に囲まれた山峡から、なつかしい灯り(電燈=光)を目指して急いできた。

詩作の発想は、山峡からはるかに倉庫の灯りを見た時に浮かび、倉庫の冷たい光を確認したところで、この二つの対比がまとまったのだろう。

光を目指して急いでいるのだが、まだ手に出来ない。
目指して(求めて)いた光は、透き通って冷たい。
霙に濡れた賢治を温めてはくれない。

思わず煙草を思った。
実際に火をつけてふかした(煙草を吸った)かもしれない。

この時賢治は自分の状況を「寒さ」と「さびしさ」の中にいると捉えていた。
その「寒さ」と「さびしさ」を倉庫の電燈の光は癒してくれなかった。
倉庫の電燈は、賢治の期待を裏切ったナニモノかだろう。

このナニモノカは惰性で存続する仏教とも思えるが、文脈からは農民芸術概論綱要を引き合いに出すべきか。
賢治が立っているのは近代科学を象徴するカーバイト倉庫の前なのだから。
有名な一節、「宗教は疲れて近代科学に置換され然も科学は冷たく暗い」だ。
カーバイト倉庫の電燈を山峡から見たときは希望の灯りだった。
だが、間近に接した先端科学技術のカーバイト倉庫(工場)を象徴する軒の電燈は透き通るほどに冷たい。
再び賢治に寒さとさびしさがどっと襲ってきた。

さびしさ。
賢治はどうしてさびしいのか。
求めて一人になっていたのではないのか。

そんな時に賢治の心にそっと忍び込むものがある。
煙草の誘惑。
賢治は煙草をどういう風に捉えていたのか。
酒や女と同列に見たのか。
刹那の癒しというふうに。
火をつけて吸う。
薄明時の艶かしいようななつかしさがよぎる。
求めるもの(本当の光)に出会えない心の隙に忍び寄るものだ。

まだ、この主題はそっと提示されただけだ。

*さびしさをもっと追求しよう。


参考になるサイト:
*国土地理院地図閲覧サービス 2万5千分1地形図
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?meshcode=59410250 
 マウス左ボタンを押したまま動かすと地図も動く。

「カーバイト倉庫」の詩人が見つめたもの
http://www.kenji.gr.jp/kaiho/kaiho24.html

宮沢賢治の詩 詩で見る国柱会批判
http://www.ne.jp/asahi/sindaijou/ohta/hpohta/fl-kenjinosi/kokuchukai.htm

もう何十年か前になる。

東京上野の美術館など、美術館通いに熱中したことがある。
それまでほとんど縁の無い分野だった。
何となく興味が湧いて見に行った。
お陰で点描派(印象派)の巨匠たちの原画を見ることが出来た。
やはり実物は良い。

そうやって美術館通いを続けているうちに面白いことに気づいた。

絵を見に来ている皆さん、意外と見ていないのです。
何が気に入らないのか、分からないのか、ついついと先へ先へ歩かれる。
へ、彼等はどうやって絵を鑑賞しているんだろうって思った。

僕なんかに無い鑑賞眼や鑑賞法を身につけていて、チラッと見ればもう頭に入っちゃうのかなとも考えた。
だがどうもそうじゃないらしい。
とにかく忙しいらしい。

チラッと見るのか好きなんだと分かった。

僕は絵は分からない。
専門家や好事家のようには分からない。

だが好きな絵は幾つもあった。
その前で、ためつすがめつ飽きずに見入った。

椅子が置いてあればいつまででも見ていられる。

同じように、賢治の詩をみんなホントに読んでいるのかなと疑問になりだした。

詩集「春と修羅」の詩を自分流に読みそれを公開するようになって気づいた。
自分の解釈に自信が無いので、それぞれの詩篇の題名を入力して検索した。
あまり引っかかってこない。
著作権の切れた賢治の詩をただ入力したものがほとんど。
中には朗読も幾つか。
僕はどうも朗読になじめない。

自分なりの読み・解釈の公開サイト・ブログは、各詩篇、多くて3,4サイト。
それでも大いに参考になる。
神戸の同好会は「春と修羅」全詩篇の読みを公開してくれている。

中には、韓国の方のサイトがあった。
韓国語の中に、日本語の部分も入れてくれていたので貴重な解釈を読むことができた。
ありがたい。

正統派の賢治サイトにも詩篇の読みが増えてきた。
嬉しいことだ。
たとえ、正統派という制約の中にあっても僕には参考になる。

神戸の同好会のようにどんどん自分の読みを公開すれば良い。

詩はいろんな読みが可能だろう。

ただ、好き~って言われたって。
う~ん、そうなのって思うだけだもの。

感想とか読みとか解釈を公開してくれれば、ああ、やっぱ僕の読みでも良いんだなとか、う~ん、読み違いかななんていろいろ楽しめる。

なによりも、新しい読みに眼を開かせられる。
眼からうろこ。
好きだったらきっと色々考えていると思う。

もっともっと、賢治の色々な読み方を公開してくれるサイト・ブログが増えて欲しい。


独断で押し付けがましい僕の文章はなかなか読んでもらえない。
来訪者のほとんどが自動読み込みらしい。
多分読んでくれていない。
悲しい。
情け無い。
ちょっと腹が立つ。
でもそれがインターネットなんだ。
受け入れたくないが......

一寸飽きちゃったのと、厄介なのとで、「賢治は「悟って」いたかor「菩薩」を自負していたか?  …法華経は何を説いているのか」はお休みにしている。
早く再開しなければと多少焦る。
自分のための勉強なのだから。

コメント欄を再開すれば、また、変な書き込みばかりだろう。
困ったもんです。
ま、僕の文章がおかしいんだからしょうがないけれど。

それにしても、自動読み込みに設定した変なブログサイト何とかならないか。

イメージ 1

* 白蓮華(分陀利=pundarika プンダリカ)  photo by < http://lotusbio.com/ >
   慧観「法華宗要序」…『像の美なるものは蓮華を以って上と為す。蓮華の秀でたるは
      分陀利(pundarika)を最と為す。』(出典:岩波文庫「法華経」解説:坂本幸男)


この文章は、以下のURLにある「丘の眩惑」の読みの続きになります。
 http://blogs.yahoo.co.jp/avaroikite/52045142.html
http://blogs.yahoo.co.jp/avaroikite/52046465.html
http://blogs.yahoo.co.jp/avaroikite/52052132.html
これらの文章との重複や矛盾は、素人考えに免じてご容赦下さい。
再度、詩を引用します。


丘の眩惑

ひとかけづつきれいにひかりながら
そらから雪はしづんでくる
電デンしんばしらの影の藍じょうインディゴや
ぎらぎらの丘の照りかへし
 
 あそこの農夫の合羽カッパのはじが
 どこかの風に鋭く截りとられて来たことは
 一千八百十年代ダイの
 佐野喜の木版に相当する
 
野はらのはてはシベリヤの天末マツ
土耳古玉製玲瓏ギョクセイレイラウのつぎ目も光り
   (お日さまは
    そらの遠くで白い火を
    どしどしお焚きなさいます)
 
笹の雪が
燃え落ちる 燃え落ちる


1月6日、賢治は七つ森やくらかけ山の辺りを歩いていた。
どこかへ向かっていた。

「屈折率」では、まるでスポットライトに浮き出したような七つ森の風景と、今自分が歩いているでこぼこの雪道と行く手の亜鉛色のぐしゃぐしゃした雲の下の対比が、賢治の今の状況をよく象徴しているのに気づいた。自分はあくまでもアラッディンのように魔法のランプ(法華経の真実)を求めていくんだと心に誓った。

「くらかけの雪」で賢治は、あたりを覆い包んでいく酵母のような吹雪の中で、雪に覆われているがしっかりと賢治の道しるべとなっているくらかけ山(の存在の意義)を発見した。

「日輪と太市」で、賢治は、天を仰ぎ日輪が覆い隠されていく様子を何かの象徴として感じた。その時、一人の子供が何気ない行動をとった。赤い毛布ケットのズボンを履いた。覆い隠される日輪と、少年が履いた赤いズボン。賢治はハッとした。

そして、この「丘の眩惑」。

ここまでのいずれの詩にも出ているのが、二種類のもの、すなわち、∥斥(光)と◆岷澄廚修諒儔修靴拭崟磧廚任后

ここまでの詩では、太陽は覆われ侵されていました。
雲と雪が太陽(と、その光)を侵し、覆い隠そうとしていたのです。

やっと、四番目の詩「丘の眩惑」で太陽が空一杯に光り輝いたようです。

太陽を侵し、覆い隠そうとしていたもの(雪)は、今大地を一面に覆っています。
これまでは空や太陽、あたりを一面に覆っていた雲や雪は、今、ひとひらずつ綺麗に光りながら空から賢治のいるところへと沈んできている。

どうして綺麗に光るのか?

太陽が煌かしているからだ。

だが、まだ覆うもの(雪)は勢いを失っていない。

大地を覆う雪は、ギラギラ光りながら、太陽の光を照り返している。
すさまじい執念だ。
太陽と雪の闘いだ。

明らかに太陽(の光)と雪は敵対している。

その時賢治は、向こうを歩いている農民を見た。
その瞬間賢治は、半年前まで居た懐かしい東京と国柱会を思い出した。

展覧会か博物館で見た佐野喜の木版が脳裏に蘇った。
まるでこの景色はあの木版画そのものではないか。

田中智学に身命を捧げるつもりで出奔上京した一年前。
もし、智学が命じれば賢治はシベリヤの凍土の地へでも勇躍出陣するつもりでいたのだ。

目路のはるか北、天椀の下は正しく今でもシベリヤの天末だ。
願いは変わらない。
きっと、光は恐ろしい雪をきらめく光に変えるに違いない。

陽の光は強くなり、笹の雪をどんどん融かしている。

雪は、陽の光を浴びて燃えている。
燃えて昇華して行く。

「お日さまは
 そらの遠くで白い火を」
お日さま=太陽は、「白い」色で形容されている。
白いもの、それは、法華経の表題「白蓮華pundarika」を指していると思います。
オホーツク挽歌・樺太鉄道で繰り返されるお題目。
ナモサダルマプフンダリカサスートラ(南無妙法蓮華経)のプフンダリカが白蓮華。
ナモは、南無(帰依を表す)。
サダルマプフンダリカは、白蓮の如き正しい教え。
スートラはお経のこと。
賢治は、法華経の漢訳者たちや中国の法華主義者達が、分陀利を白蓮華としていたことを知っていたと思う。

* 太陽と雪を対立関係で読もうとしたが、しっくりしない。
 「丘の眩惑」とは、丘(の雪)が眩惑しているのか。
 眩惑と、「電デンしんばしらの影の藍じょうインディゴや ぎらぎらの丘の照りかへし」の関係は?
 藍じょう(インディゴ)とは何か?
 眩惑・・・賢治がどう眩惑されたのか?
 燃える太陽(の強大な威力)や、太陽の光と熱で消えていく雪までもが眩惑されて見たものではないだろう。  

* 参考サイト:http://www2s.biglobe.ne.jp/~SHUJI/kenji/okanoge1.htm

以下のURLを開いてみてください。

http://homepage2.nifty.com/dhammapada/kikoubunn.htm

次の言葉をキーワードにしてページ内検索をかけてください。

キーワード: 樹を揺らす風

ページの中ほどに、「- 樹を揺らす風、 風に揺れる樹 -」(落合 隆 2005年2月 チェンマイにて)

という文章があります。

『「逝ってしまって戻ることはない」
 「眠りから目覚めることはない」
 「生き返ることはありえない」
 「死を免れることはできない」』
『「風が吹いていた」
 「いろいろなことがあった」
 「風が止んだ」
 「すべてが終った」』
『「風樹」 ― 樹(き)静かならんと欲すれど、風やまず。』
『「この」風が止んだだけだと知り、「私」のすべてが終っただけなんだと深くうなずく時、すでに「私」はいない。』

こんな文章がちりばめられています。

宮沢賢治の思想とは相当に違う、仏教の原点に限り無く近いテーラワーダ仏教の最も良い面に触れられる文章だと思う。

詩「日輪と太市」(春と修羅第一集)を読む

日輪と太市

日は今日は小さな天の銀盤で
雲がその面メンを
どんどん侵しかけてゐる
吹雪フキも光りだしたので
太市は毛布ケットの赤いズボンをはいた


日付は同年1月9日。

一体この短い詩は何を伝えようとしているのか?

僕はずっと分からなかった。

太市は少年だろうか、大人だろうか。
場所はどこなんだろう。
実家の付近か、年譜の1月9日の欄には、詩「日輪と太市」制作としか書いてない。
農学校の始業式は1月16日前後なので、春休み中だったはず。
まだ、実家にいた賢治だから、近所に農民はいない。
太市は農民とは限らないか。
やはり、子供なのか。
農民だとすれば、賢治は散策の途中だった。
太市を見守る賢治の視線は暖かいような気がする。

語彙は前詩同様それほど難しいものは無い。

「日」はむろん太陽のこと。
賢治が見上げる今日の冬の空には薄雲がかかり、太陽は輝きの無い銀製の円盤のように見えた。
まもなく、もっと厚い雲がやってきてその銀盤さえも覆い隠す勢いになってきた。

おまけに吹雪フキまでも飛び始めた。

吹雪は本来降雪とは違い、横なぐりに吹き付ける強い風雪。
「吹雪フキも光はじめた」と言っているが、ダイヤモンドダストのように光っているのではないと思う。
この辺は現地の人の意見を聞きたい。
きらきら光るのではないような気がする。

「吹雪フキも光りだした」と書いた賢治は、どうしてこの一行を書き込んだのか。

僕はこの詩には、かなり厳しい寒さを感じる。
賢治は立ち止まっているだろう。
雪の中を歩くのは結構な運動になるので、よほど疲れていたり空腹だったりしなければ、身体は結構温まっているはずだ。
汗をかくので、むしろ、立ち止まった時が嫌なのだ。
汗がすぐに冷えるので一気に冷たくなるからだ。

太市は何をしていたのだろうか。
農作業だろうか。

それとも家の前にでも居たのか。
農作業で畑に来る時、厚い毛布ケットのズボンを持ち歩かないような気がするから。
花巻の人たちはズボンを持ち歩いていたのだろうか。
そんなことは有り得ない。
太市は子供だろう。
場所は家の前だろう。

毛布ケットとは何だろう。
赤いケットは、研究者のどなたかが指摘されていたように、童話「水仙月の四日」のカリメラ少年が羽織っていたものと同じだろう。

「ひとりの子供が、赤い毛布ケットにくるまって、しきりにカリメラのことを考へながら・・・」
「雪童子ユキワラスは笑ひながら、手をのばして、その赤い毛布を上からすっかりかけてやりました。」
「雪狼ユキオイノどもは、たちまち後足で、そこらの雪をけたてました。・・・。『もう良いよ。』雪童子は子供の赤い毛布のはじが、ちらっと雪から出たのをみて叫びました。」(童話「水仙月の四日」より)

毛布ケットは、今で言う毛布でいいのだろう。
毛糸の厚織りと考えて良いと思う。

カリメラ少年は、雪童子の思いやりと赤い毛布のお陰で命拾いする(救済される)のです。

だから、毛布の色が問題なのです。

毛布の赤は、赤い経巻の「赤」の暗喩なのでは。
これも研究者の方の指摘にありました。
すなわち、毛布の赤が指し示すのは、賢治座右の書、赤い表紙の「法華経」です。

この詩では、太陽が人にとって大事な何かを象徴している。
その太陽を雲や雪が侵しつつある。
この雲や雪は、「屈折率」の縮れた亜鉛の雲や「くらかけの雪」の朧な吹雪と同じように、賢治が鋭く感じとっている善くない状況の元凶だ。

かろうじて輝いていた太陽がとうとう雲と雪に侵されて、急に寒くなってきた。
東北の一月は、銀盤のような太陽が見えようが見えまいが、とにかく、寒いはずだ。
薄雲に隠されている太陽が輝かなくとも、寒さはそれほど変わらないような気がする。
だが、賢治の心象風景の中では太陽が隠されてしまうのは、厳しい寒さ(よく無い状況)を予感させたのだろう。

目の前の太市が慌てて赤い毛布ケットのズボンをはいたのを見た賢治は、太市の慌てた動作とその赤い色に鋭く反応したのでしょう。
あらゆる人に幸せをもたらす赤い経巻が賢治の心に鮮やかに浮かび上がった。

「水仙月の四日」で、カリメラ少年が赤い色の毛布ケットを羽織っていたのも偶然ではない。
賢治は、この毛布の色にメッセージを託したのだと思う。
人々が今置かれた状況とそういう状況から人を救済するものが赤い経巻なのだということをメッセージとしたこの詩に埋め込んだのではないか。

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