avarokitei84のblog

*はじめに。 このブログは、ヤフー・ブログから移行したものです。当初は、釈尊(お釈迦様・ゴータマブッダ)と宮沢賢治を探究してましたが、ある時点で、両者と距離をおくことにしました。距離を置くとはどういうことかと言いますと、探究の対象を信仰しないということです。西暦2020年となった今でも、生存についても宇宙についても確かな答えは見つかっていません。解脱・涅槃も本当の幸せも、完全な答えではありません。沢山の天才が示してくれた色々な生き方の中の一つだと思います。例えば、日本は絶対戦争しないで平和を維持出来るとおもいますか?実態は、戦争する可能性のもとに核兵器で事実上の武装をしています。釈尊の教えを達成したり絶対帰依していれば、戦争が始まっても傍観しているだけです。実際、中世インドでイスラム軍団が侵攻してきたとき、仏教徒の多くは武力での応戦はしなかったそうです(イスラム側の記録)。それも一つの生き方です。私は、武装した平和主義ですから、同じ民族が殺戮や圧政(現にアジアの大国がやっている)に踏みにじられるのは見過ごせない。また、こうしてこういうブログを書いているのは、信仰を持っていない証拠です。

2008年04月

くらかけの雪

たよりになるのは
くらかけつづきの雪ばかり
野原もはやしも
ぽしゃぽしゃしたり黝んだりして
すこしもあてにならないので
ほんたうにそんな酵母のふうの
朧なふぶきですけれども
ほのかなのぞみを送るのは
くらかけ山の雪ばかり
 (ひとつの古風な信仰です)



この詩は、難しい語彙が出てこない。

そのくせ、読み取りにくい。

「屈折率」と同じ日付を持つ。
七つ森辺りでは縮れた亜鉛の雲だった空が雪に変わったのか。

「たよりになるのは」...賢治は道を失ったのか。
それとも、新しい出発を決意した新しい進路はまだまだ朧に吹雪で霞んでいるのか。

酵母のようなとは。
酵母なんて、スーパーで売っている麹ぐらいしか思い浮かばないので、この表現が醸す感覚がよく分からない。
吹雪だが、突き刺さるような寒気を伴わないのか。
それとも、やはり、吹雪なんだから道は分からなくなるし、満足に眼も開けていられないほどなのか。
僕も一回だけ12月の小岩井への道を一人で歩いたことがある。
風が唸っていて、雪は肌にぶつかってきた。
怖いくらいだった。
それがこの詩では、なんか、厳しい冷たさが伝わってこない。
「朧な」のせいか。

「古風な信仰」とは、明治以前なのか、それよりもずっと以前のことなのか。
例えば、鎌倉時代とかもっと前の最澄・空海のころ。
もし、鎌倉や平安末のような信仰がイキイキしていた時代を念頭にしていたら、古風という表現はしないだろう。

明治維新までは、日本では山岳信仰や修験道が盛んだったらしい。
日本はインドや南アジアとはずいぶん違う仏教が行なわれた国だ。
日本古来のアニミズム信仰と仏教が深く結びついている。
修験道はそういうものだろう。
自然が信仰の対象になっていた。
賢治自身もそういう傾向を持っていたような気がする。

刊本の推敲ではある本では、( )のこの行を削除し、ある本では下げ字・括弧なしにしている。

農民芸術概論綱要で、西洋自然科学の流入(と、明治政府の神道復古)で、宗教の影響力が極端に衰微したのを嘆いている。
やはり、明治以降の西洋一辺倒になる以前ととるか。

まさか、法華経そのものが賢治の中でも朧になってきたなんてことはないだろう。

古来の素朴だが真摯で純粋な信仰を捨てていない賢治は、ふぶいてきて、道を失いそうになった時、煙のように立つ冬木立の向こうにかすかに続く尾根道と、その先に見え隠れしているくらかけ山を見た。

その時賢治は、自分を導いている法華経を想起した。
標シルベでもある法華経だ。
法華経の信仰は、だんだん顧みられなくなってきている。
古風な信仰とも言われるようになってきている。
それでも、賢治を導くものはそれしかないと思った。

だが、古風な信仰という表現がどうもしっくりこない。
刊本を手にして推敲を重ねた。

*参考サイト 
くらかけ山の登山記録と写真
 http://tsubuyaki.bg.cat-v.ne.jp/article/289500.html
 http://tsubuyaki.bg.cat-v.ne.jp/article/290891.html

屈折率

七つ森のこっちのひとつが
みずのなかよりもっと明るく
そしてたいへん巨きいのに
わたくしはでこぼこ凍ったみちをふみ
このでこぼこの雪をふみ
向ふの縮れた亜鉛の雲へ
陰気な郵便脚夫のやうに
 (またアラッディン 洋燈とり)
急がなければならないのか



詩集「春と修羅」(第一集)冒頭の詩。
詩の文字に色づけしようとしてはたと考えた。
明るい水色か、はたまた、暗い亜鉛色(灰色)にするか。

表題「屈折率」は、明らかに第一行から三行までの七つ森の景色のことであろう。
屈折とは、発光源からの光を変化させる仕組みである。

「水の中より」も「明るくて…巨き」く見えると言っているので、通常とは違ういわば異常な状態に見えているということだろう。
つまり、今、七つ森は異様な見え方をしているのだ。

第四行以下は、対照的に暗くて陰気だ。
ありのままの現実そのものだ。
これはなにやら、二つの場所の比較、賢治が向かい合っていた二つのものを対比しているようだ。

実際より明るく巨きく感じられた東京・国柱会や保坂嘉内とともにそこでなそうとしていた活動(布教や創作・発表など)を七つ森の幻想的な風景にたとえ、今始まったばかりの花巻での活動をありのままの目の前の風景で表現したのか。

この詩で賢治は、前者(屈折率で拡大され異常に明るく巨きく見えるもの)を背にして、後者(陰気で暗い東北の現実)に踏み込もうと宣言しているように思える。

だが、その陰気で暗い現実の彼方に、賢治は一筋の希望を見ている。
賢治の愛読したアラビアンナイトのアラッディンが手にして幸せを掴んだあの魔法のランプだ。
賢治の年来の希望をかなえてくれるはずの強大な魔法の宝物だ。

(「またアラッディン 洋燈とり』)の「また」とは、前年の「ランプとり」を受けた言葉なのだ。
前年のランプとりは、中途挫折で成功しなかった。
今度こそはという意気込みが込められている。
刊本に手入れをするまでは、賢治はそう確信していたはずだ。

だから、詩「屈折率」は、古びたアラッディンの魔法のランプの色、すすけた薄ねずみ色にした。(FC2ブログの場合)

そのランプの力を信じ、その力を実現する方法を見つけ、皆の幸せを実現することが賢治の本来の目標だった。
勿論ランプとは法華経だろう。

詩「屈折率」の日付は、1922.1.6(大正11年)。

それは、前年の出奔上京から一年後、花巻に帰還してから約半年後、そして、父たちの後押し(コネ)により、稗貫(花巻)農学校の教師になってからわずか半月後だ。

八月前後に花巻に無念の帰還をした後、店番をしながら童話を書き、短歌に代わる新しい表現方法を模索して「冬のスケッチ」を書き溜めていたらしい。
文芸による法華経の布教という新しい方法と目標を持ち、就職もして、賢治は新しい道に踏み出そうとしていた。

詩集「春と修羅」(第一集)巻頭の詩「屈折率」は、大正10年(1911年)までの賢治と決別し、大きな決意で新しい道に踏み出した賢治の決意表明なのだろう。

既に賢治は童話集「注文の多い料理店」の多くの篇を書いていて(目次の日付に従えば、前年、大正10年8月から)眼をしっかりと郷土花巻周辺にむけ、そこに新しい世界を見出そうとしていた。

イーハトーボ(イーハトヴ)の誕生だ。


*参考サイト

◎神戸宮沢賢治の会 会報(「屈折率」から「恋と熱病」までの読み) 
 http://www.eonet.ne.jp/~misty/kenji/kaiho/36.htm

◎七つ森の写真が以下のURLにあります。
 http://www.bekkoame.ne.jp/~kakurai/kenji/event/57/7mori.htm
   この写真を見て、思わず「うむ!」となりました。
   七つ森だったのを忘れていました。
   「七つ森のこっちのひとつが」だったのです。
   上の読みでは、七つ森という一つの森を考えていました。

◎教育者賢治
 http://blogs.yahoo.co.jp/yosh0316/9220001.html
   しかし、教育者で有りながら同時に修羅の自覚がこの詩に屈折を与える、見えぬ筈の遠くの
   森が(私の理想が)水の屈折率のお蔭で今は明るく大きく見える、しかし、......

◎『春と修羅』の読み方(1) -修羅意識の基盤- 高野保夫
 http://ir.lib.fukushima-u.ac.jp/dspace/bitstream/10270/222/1/7-153.pdf
   したがって「屈折率」の詩人の内部に拡がるものは,友との別れの
悲しさ・哀しさであり,思い屈した感情であり,再び故郷へ戻った
苦い想いなのである。そして暗い雲の方向に足を進める詩人にみる
ものは,頼りになるものは誰でもない自分自身なのだという自覚で
あるが,その背後には孤独・絶望・喪失などの感情が流れているし
信仰のあり方に即して言えば,折伏されるべき相手は他ならぬ自分
であるという自覚である。

◎修羅の存在論 -宮沢賢治の『春と修羅』序を読む- 中路正恒
 http://fuunichi.hp.infoseek.co.jp/Studies/ShuraOntologyE.html 
   そして、私の見るところでは、賢治は、『春と修羅』の序において、
心象のみを実在とする存在論を語った。この存在論は実に重たい。
というのも、この存在論は、まさに修羅の存在論を語っているよう
にみえるからだ。そこには仏は存在せず、仏の救いの光の片鱗すら
存在しないようにみえるのである。そして賢治は、それとは別の存
在論を、実際どこにおいても語っていないように見えるのである。

*追加・変更 2008.5.4

「また」にこだわっているうちに、今度は「陰気な」「郵便脚夫」という言い方も引っかかってきました。

まず、「また」から。

「また」は、文法では、文・句を繋ぐ「または…」の意味と、前の文を受けて、「また再び…」という意味に使われることがある。

「または」ととった場合、次ぎのように読める。
「陰気な郵便脚夫のように(ただひたすら)配達先を巡り歩くのだ。
 あるいはまた、アラビアンナイトのアラッディンのように魔法のランプを求めてゆくのだ。」

「また再び…」ととった場合は、僕の本文のような読みが可能だろう。

ここで、刊本(初版本)への手入れ・推敲をどう解釈するかという問題もおこる。
推敲は、まず、「(またアラッディン 洋燈とり)」を削除し、次に詩「屈折率」全体に×をつけ、全部抹消しようとしたことだ。

「また」の解釈はともかく、「アラッディン ランプとり」がなくなると、読み方は相当変わってくる。そして、なぜ「郵便脚夫」なのか、という問題が大きくなる。 

郵便脚夫とは、便り・文書を人々に配達して回る者だ。
陰気なのは、彼の行く手が縮れた亜鉛の雲に覆われているからだ。
陰気にならざるを得ない事情があるからだ。
巨きな明るいところに(あえて)背を向けて行かなければならないからだ。
便り・文書---それは賢治が人々に配達したかったものだろう。
でも、賢治はその便り・文書を大きなかばんの中に持っているのだろうか。
持っている。
序文にあるように、賢治は人々に届けるべき便り・文書を書き綴りながら配達するのだ。
既に童話は幾つも書き終わっている。
ならば、どうして陰気なのか。
縮れた亜鉛の雲は堅持の今の内面だ。
解かなければならない課題がある。
それをこれからやろうとしているのだ。

手入れをしながら賢治は思った。
郵便脚夫だと自己規定したあとで、あの時は、ふと、これはまるでアラッディンだと閃いた。
だが、今読み返してみると、自分はアラッディンではないと気づいた。
賢治は、アラッディンのような無智無目的な者ではない。
アラッディンは、ランプの正体を知らずに宝の蔵に入っていった。
賢治は、はっきりそれを知っている。
ただ、どうやってその力を解放すすれば良いのかが、まだ分からないのだ。
それに賢治は、その偉大なものの力を解放して人々皆を同じような幸せに導きたいと心から願っている(と賢治は自負していた)。
だから、賢治は自分はアラッディンではないと思った。
こんなところなのか、僕の想像はこのあたりが限界だ。

そして、手入れの最後は、『屈折率」全体に斜線を引き、抹消削除してしまった。

この手入れは宮沢家本と呼ばれる初版本になされた手入れである。

ところが、藤原本と呼ばれる初版本では、「屈折率」への手入れは全くなされていない。
各手入れされた本への手入れ(推敲)がどんな状況でなされたのか分からないのだから、本によってバラバラになるのは止むを得ないのだろう。
博覧強記の賢治もそこまではコンピュータのようではなかった。

「千の風になって」…宗教で救われないのに…


 他の目的で「千の風になって」を検索していて、youtubeユーチューブに秋川雅史さんの「千の風になって」のビデオがたくさん登録されているのを知りました。

久しぶりに秋川さんの歌声を聞かせていただきました。

何回も聞きました。

毎日聞いています。

違法行為で申し訳ないのですがダウンロードもしてしまいました。(youtubeは無法地帯だという声もありました。)

ほんとに不思議な歌です。

youtubeのビデオで、訳詩・作曲者の新井満さんのお顔も初めて見ました。

哲学者のような風貌の方だったのですね。

意外と年配にお見受けしました。

新井さんのもとには数千通というファンからのお手紙があるのだそうです。

たくさんの方がこの歌で救われたと書いてきているそうです。

新井さんの歌で感激した人と秋川さんの歌で感激した人が違うように(僕はどちらかというとクラシック好みですので、秋川さんの歌い方が好きです)、大切な人を亡くした人たちがお葬式では癒されなかった心をこの歌で救われるというのはホントに不思議なことです。

風になっているというのは、空気になっているということでしょう。

原詩作者は宇宙的な感覚よりも地球的な感覚を大切にする人だったのでしょう。

親しい者に地球を離れて行ってほしくないという気持が強かったのでしょう。

あるいは、もっと身近なトライバルエリアにいつまでも留まっていて欲しいという素朴な気持なのかもしれません。

原宗教的な風合いです。

原詩はともかく、新井さんの訳詩は日本人の宗教感覚にもぴったりだったのでしょう。

秋川さんのコンサートビデオを視聴していて思ったのは、これも宗教の一種なんだなということです。

そもそも歌謡と宗教との間に区画なんか引けるのかなと疑問になってきました。

宗教は一種のマジックです。

受け入れたくない現実や恐ろしい現実に押しつぶされている人を癒すマジックです。

唯最近は宗教のマジックの魔力が薄れてきた観がありますが。

歌もマジックと言えなくもない。

歌によって癒されるのですから。

癒されてまた生きつづけて行けるのですから。

日本人はこれで充分なのでしょう。

恐らく。  

春と修羅 目次 Part2

  *このページは、春と修羅 目次 Part1の続きです。



 春と修羅における第四次延長は相対性原理のことではない  3
   http://blogs.yahoo.co.jp/avaroikite/52364076.html
 賢治は「悟って」いたかor「菩薩」を自負していたか?  …法華経は何を説いているのか… 8
   http://blogs.yahoo.co.jp/avaroikite/52388559.html
 賢治は「悟って」いたかor「菩薩」を自負していたか?  …法華経は何を説いているのか… 9
   http://blogs.yahoo.co.jp/avaroikite/52397635.html
 賢治は「悟って」いたかor「菩薩」を自負していたか?  …法華経は何を説いているのか…10
   http://blogs.yahoo.co.jp/avaroikite/52401801.html
 「法華堂建立勧進文」と「(雨ニモマケズ)」における賢治の信仰
   http://blogs.yahoo.co.jp/avaroikite/52439489.html
 賢治は「悟って」いたかor「菩薩」を自負していたか?  …法華経は何を説いているのか…11
   http://blogs.yahoo.co.jp/avaroikite/52475973.html
 授記の時間論 <譬喩品第三が引き起こす問題>
   http://blogs.yahoo.co.jp/avaroikite/52488289.html
 法華経は本当に真理なのだろうか? 賢治作品は完璧なのだろうか?
   http://blogs.yahoo.co.jp/avaroikite/52498939.html
 科学宗教で見えること、見えないこと
   http://blogs.yahoo.co.jp/avaroikite/52554469.html
 「千の風になって」…宗教で救われないのに…
   http://blogs.yahoo.co.jp/avaroikite/52989789.html
 詩「屈折率」を読む
   http://blogs.yahoo.co.jp/avaroikite/53024549.html   
 詩「くらかけ山の雪」を読む
   http://blogs.yahoo.co.jp/avaroikite/53027362.html
 詩「日輪と太市」を読む
   http://blogs.yahoo.co.jp/avaroikite/53035418.html
 風樹…含蓄のある言葉…
   http://blogs.yahoo.co.jp/avaroikite/53040721.html
 詩「丘の眩惑」を読む 4
   http://blogs.yahoo.co.jp/avaroikite/53041879.html
 詩「カーバイト倉庫」を読む
   http://blogs.yahoo.co.jp/avaroikite/53064392.html
 詩「コバルト山地」を読む
   http://blogs.yahoo.co.jp/avaroikite/53069914.html
 詩「ぬすびと」を読む
   http://blogs.yahoo.co.jp/avaroikite/53082983.html
 詩「恋と病熱」を読む
   http://blogs.yahoo.co.jp/avaroikite/53089916.html 
 生きるということと死に直面することと
   http://blogs.yahoo.co.jp/avaroikite/53108785.html

光が消え、闇が俺を包んだ。

「懐かしい曲だ。」

老人が呟いた。

「どういう意味だ。」

俺は尋ねた。

人は、一つのことだけに執らわれ振り回されていると、もっと大事なことを見過ごしてしまう。

後で、それに気づき後悔する。

それが人だ。

獣はただ一つしか考えていない。

今を生き延びることだ。

自分と、子を持てば、子を。

人間は、実に欲深い。

だから、考えなければならないことがいつも湧いて出る。

俺もだんだん人間の悪い癖に馴染みだしたようだ。

幻魔出現の時も、眼が泳ぎだした時も、あれは以前の俺でなかった。

 森で兄弟たちと暮らしていた時も、勿論、兄弟たちのために何度も命を懸けた。

 だが、森の生きもものたちは皆、目の前の危険だけを何とか逃げ延びようとするだけだった。

 何が何でも守り抜こうとしても森では守り通せるものではなかったからだ。

 だが、今俺はそうしようとしているような気がする。

返事を求めて老人を見た。

少女が老人の腕の中で眠っていた。

俺も岩屋の中や岩棚で、お師匠の胡弓を聞きながらいつも寝てしまった。

初夏の日差しと風と胡弓の安らかな音色に包まれるとすぐ寝てしまった。

「老人、娘を床に寝かせよう。」

俺はそっと抱き上げて、老人の隣に寝かせた。

老人は静に身を起こして敷物を少女に掛けてやった。

「お前さんに出会ったのはどうやら偶然のことではなさそうだな。」

俺たちは少女の傍を少し離れた。

俺は枯葉をかき寄せて仰向けに寝た。

老人は木に背をもたせて坐ると暫く考え込んでいるようだった。

「わしはこの国の生まれではない。今はこの国の属州となっている、交易の盛んな国が母国だった。」

仰向けに寝たまま俺は老人の長い話を黙って聞いた。


わしの生国はかつて兪ユと呼ばれた一つの国じゃった。今はこの国の属州とされ、兪州と呼ばれているあたりじゃ。兪の中心は港町でのぉ。そこは今でも一年中明るく、澄明な水と瀟洒な家並が美しいじゃろう。

わしがまだ少年だった頃、一生に一度の出会いがありましたのじゃ。

それは夏の日差しが厳しい昼下がりじゃった。わしはそれまでに聴いたことのない不思議な調べを聴ましたのじゃ。

兪は今でも大きな港町じゃが、兪の町中には広場が幾つもありましての。どの広場にも大きな木が枝を広げておったものでした。町の人たちはその木を大切にしておりました。

不思議な音色を聞いたのは、わしが東の広場にさしかかった時でした。

広場の大きな木の根方で結跏趺坐して楽器を奏でるおかしな風体の行者らしい男が居りました。

わしは、その音色に誘われ海風にゆっくり揺すれる大きな枝の下に入ったのじゃ。わしはその行者様の真ん前に坐り曲に聴き入っておりました。

通りがかりの人々はたまに立ち止まりましたが、暫くするとすぐに行ってしまいましたな。

わしだけがずっと聴いていおりましたのじゃ。

行者様の身なりは粗末でしたな。一枚の布を身体に巻きつける天竺の服装をしていいまして、驚くほど痩せていましたのじゃ。

わしは不思議じゃった。

広場を通り過ぎる町の人たちは、まるでその音色が気に入らないような風でしたのじゃ。

 わしにはその音色が言い様もなく優しく懐かしく美しく感じたのじゃ。

眼を瞑って聴いていると、だんだん体が宙に浮くような気さえしたのでした。
 それなのに、人々は振り向きもせず通り過ぎておったのじゃ。

行者様は暫くすると演奏を止ヤめて瞑想に入ってしまいましたのじゃ。

日が沈むまでわしは待っておりました。

もっとその音色が聞きたかったのでな。

行者様は瞑想からなかなか出てきませんでな。

そのうち、すっかり日が落ちて広場は家々の明かりだけの薄闇につつまれましたのじゃ。

この行者様、お食事はどうなさるんだろう。

わしは心配になってすぐ家に戻り、父母に行者様の風体や音楽の話しをしてから、行者様を晩餐に招待してくれるよう頼にましたのじゃ。

父が優しくわしに言いました。

「そのお方は恐らく浮屠の行者様であろう。浮屠の行者様が楽器を弾くとは聞いたことがないが、行者様は、日に一度昼前に食事を摂るだけだと聞いておるよ。だが、お泊りになる場所がないようなら、我が家にお泊り頂きなさい。」

父母は、道士の教えを信仰しておりましたが、父は他のどの行者に対しても供養を惜しみませんでした。敷地の中に行者用の別棟も用意していたくらいでした。

「明日のお食事をお受けくださるようお願いしてきなさい。」

父の言葉を背にしてわしは脱兎のように家を飛び出しました。

まだ、広場の木の下に居られるだろうか。

いっさんに走った。

家々の明かりだけのほの暗い木の下を行者様がゆっくりと歩いておりました。大きく張り出した枝の端を辿ってゆっくり歩いていおりましたのじゃ。のちになって、その歩みが経行キンヒンだと知りましたがの。

「行者様にお願い申し上げます。今夜わたくしの家にお泊り下さい。明日は、行者様にお食事を御供養させて下さい。そう父が申し上げよと言い付かってまいりました。」

「若者よ。お受けしよう。」

「はい。有り難うございます。すぐにご案内してよろしいでしょうか。」

行者様は黙って頷きました。

父は瞑想の間を淨めて行者様の到着を待っておりました。

「これは行者様、お越しいただき心より感謝申し上げます。どうぞお心のままにお休みくださいますよう。」

母がいつもの蜂蜜を入れた軽い飲み物を勧めました。行者様は会釈して、甘い湯を飲んみました。飲み終わり、もう一度父母に会釈しました。

「行者様、粗末なところではございますが、今夜はどうかごゆっくり休まれますように。淳廉ジュンレンや、行者様をご案内申し上げなさい。」

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