avarokitei84のblog

*はじめに。 このブログは、ヤフー・ブログから移行したものです。当初は、釈尊(お釈迦様・ゴータマブッダ)と宮沢賢治を探究してましたが、ある時点で、両者と距離をおくことにしました。距離を置くとはどういうことかと言いますと、探究の対象を信仰しないということです。西暦2020年となった今でも、生存についても宇宙についても確かな答えは見つかっていません。解脱・涅槃も本当の幸せも、完全な答えではありません。沢山の天才が示してくれた色々な生き方の中の一つだと思います。例えば、日本は絶対戦争しないで平和を維持出来るとおもいますか?実態は、戦争する可能性のもとに核兵器で事実上の武装をしています。釈尊の教えを達成したり絶対帰依していれば、戦争が始まっても傍観しているだけです。実際、中世インドでイスラム軍団が侵攻してきたとき、仏教徒の多くは武力での応戦はしなかったそうです(イスラム側の記録)。それも一つの生き方です。私は、武装した平和主義ですから、同じ民族が殺戮や圧政(現にアジアの大国がやっている)に踏みにじられるのは見過ごせない。また、こうしてこういうブログを書いているのは、信仰を持っていない証拠です。

2008年02月

哲学・宗教・思想・科学は、人間を完全に説明してないし、問題解決も出来ていない 2

 皆さんは、よく我慢して居られますね。

TVのニュースを見ていると、むかつくことばかり。

日本人の大半が詐欺師、嘘つき、横領犯、泥棒、強姦魔、ゆすり、たかり、知能犯だと報道している。

その背後には、ずうずうしく居直った暴君たちのシンジケート。

賢治当時の東北岩手の多数派の被支配者農民を苦しめていたのは、近代化を目指す中央日本の支配階級のバックアップを受けた地主・商業資本家たちだった。

かれらも江戸時代の風潮をそのままにずうずうしくのさばって、農民たち無産階級を苦しめた。

木嶋孝法著「宮沢賢治論」をインターネットで購入した。

今取り組んでいるこの賢治についての私考を続けていくために、読んでおかないとどうにも気になるキャッチコピーを読んでしまったので。

木嶋さんは、もうお亡くなりになられた人だそうです。

木嶋さんが、2000年に「booby trap 第28号」に発表された「下根子時代」を読むと、木嶋さんは、こういう時代背景をしっかり捉えながら賢治の羅須地人協会時代の行き詰まり状況を説明できていると思います。

木嶋さんの「宮沢賢治論」は、確かに良い本です。

もっと長生きされて、このまま賢治論を書き続けておられたらと思うと残念です。

僕は、木嶋さんの賢治論は未完であるような気がします。

今時51歳というのは早死にと言えるでしょう。

賢治はわずかに37歳。

もし、70・80まで生きたら、「春と修羅」シリーズをどう推敲したか。

それと同じように、木嶋さんの80・90の賢治論を読みたいものです。

その頃までに僕は完全な「空」となっていますが。

実は、僕が期待するのは、今手にしている「宮沢賢治論」の延長上に成立するであろう賢治論ではなく、100歳近くまで生きた木嶋さんが、どんな人間観を持つようになり、その人間観に立ってどんな人間論を書くのかが興味深いのです。

表題のように、僕は哲学者、思想家、宗教家などを賢治時代の農民に寄生していた地主・商業資本家と同列かそれ以下の存在と考えています。

20世紀まじかになって、これらの人々が自覚しているかいないかはともかく、一種の詐欺師か新興宗教家であることが暴露されました。

解るはずのないことを解ったように称え続けていたと言うことです。

そういうお仕事で飯を食い、それどころか、のうのうと人々の上にのさばっていたのです。

確かに、人々の生活を変換させた重要な思想も沢山あります。

ただ、その場合も、思想が先ではなく人々が先で、思想は人々に”変動変革の理由づけ”を提供したに過ぎないのです。

ローマ帝国に押し寄せる周辺のゲルマン人たちのように、時代のうねりが人々を動かすに充分となれば、思想が無くともうねりは起るのです。

中国の歴史を読むだけも、それははっきりしています。

科学も哲学も宗教も思想も芸術も、みんな信仰の一種です。

確実なのは、喜怒哀楽の果てに、人間は死ぬのだと言うたった一つの真実です。

賢治がある宗教を信じ、理想を胸に、真摯に生きた。

実は、それだけなのかもしれないのです。

今現在の人たちにとって、賢治の生涯と作品は、劇場で演じられる「イーハトーヴォ物語」であり、終演で人々は木枯らしのうら寂しい街路を嫌でも歩かなければなりません。

それ以上のなにがあるのでしょうか?

でも、木嶋さんは、何かを求めておられた。

何かを信じておられた。

だから、賢治論を書かねばならなかった。

何となく分かるような気もするが、結局は・・・と思ってしまう。

キャッチコピーは、賢治もしくは仏教を読み違えたもののような気がしています。

木嶋さんの解釈と僕の解釈の違いか、どちらかが完全に間違っているのか今のところはなんとも言えません。

「春と修羅」は、どうして日付順なのか、何故テーマ別でないのか?

 
 ご承知のように「春と修羅」の詩篇は、初版本の目次によれば、それがスケッチされた?日付順に配列されている。

ここにその目次全部引用してもしょうがないので、その一部を引用してみます。(旧)校本全集による。

 [初版本目次]

目次

春と修羅

   屈折率      …(1922.1. 6)…
   くらかけの雪 …(1922.1. 6)…
   日輪と太市    …(1922.1. 9)…
   丘の眩惑     …(1922.1.12)…
   ・・・・・・・・
   かわばた     …(1922.5.17)…

真空溶媒

   真空溶媒     …(1922.5.18)…
   ・・・・・・・・

小岩井農場

   小岩井農場    …(1922.5.21)…

グランド電柱

   林と思想     …(1922.6. 4)…
   霧とマッチ    …(1922.6. 4)…
   芝生       …(1922.6. 7)…
   ・・・・・・・・

東岩手山

   東岩手山     …(1922.9.18)…
   犬        …(1922.9.27)…
   ・・・・・・・

無声慟哭

   永訣の朝     …(1922.11.27)…
   ・・・・・・・

オホーツク挽歌

   青森挽歌     …(1923.8. 1)…

風景とオルゴール

   ・・・・・・・・・
   一本木野     …(1923.10.28)…
   溶岩流      …(1923.10.28)…
   イーハトヴの氷霧 …(1923.11.22)…
   冬と銀河鉄道   …(1923.12.10)…

そして、初版本目次には表記されていないが、序が書かれた日付は序の最後に大正13年1月20日(1924.1.20)となっている。

そして、もっと意味ありげなのが童話「注文の多い料理店」にも日付が付けてあることです。新校本全集によれば、その日付は、詩集とは違う配列になっている。日付だけ引用すると以下のようになる。

 1921.9.19
1921.11.
1921.11.10
1921.12.21
1922.1.19
1922.4.7
1921.8.25
1921.9.14
1921.19.15(19は9の誤植)

 「注文の多い料理店」の序には、心象スケッチという言葉は出てきません。その代わり、童話各編が生まれた事情を次ぎのように記しています。

「ほんたうに、かしはばやしの青い夕方を、ひとりで通りかかったり、十一月の山の風のなかに、ふるえながら立ったりしますと、もうどうしてもこんな気がしてしかたないのです。ほんたうにもう、どうしてもこんなことがあるやうでしかたないといふことを、わたくしはそのとほり書いたまでです。」

この言葉から、賢治が、童話集も広義の心象スケッチなのだと考えているような気がします。

賢治は、自分と世界を対立や孤立で感じ取っていなかったようで、「春と修羅」序で、「(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに みんなのおのおののなかのすべてですから)」と考え(ようとし)ていたらしいし、農民芸術概論綱要では、「世界が一の意識になり生物となる」と願っていたようですから、直接賢治の感官が感じたものでなくとも、確かにそうだと信じ(ようとし)た可能性はありそうです。

さて、詩集の日付や童話集の日付の意味についてはすでに沢山の論議がなされていることでしょう。

誰でも、何だこれは、と気づくことですし、詩集の序でも、時間についての主張もありますから、探究の対象となったでしょう。

それらの諸議論と重なったり、主流の解釈とは全く違う見当はずれな解釈となるかもしれないが、僕のテーマの一つが「第四次延長」であり、これは、人間の時間に関わる問題ですので、僕なりに考えてみたいと思います。

これまで僕が読んだ範囲では、賢治の時間意識を論ずる時、相対性理論とか、ミンコフスキーの名が挙げられてきましたが、賢治が言う「宇宙意識」すなわち本原の法(妙法蓮華経に具現化された)を挙げて、この「宇宙意識」と賢治の考えていた時間との関わりを論じたものは無かったように思う。

「宇宙意識」については、農民芸術概論の末尾に、

「われらに要るものは銀河を包む透明な意志巨きな力と熱である」

農民芸術概論綱要には、

「自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する
 この方向は古い聖者の踏みまた教へた道ではないか
新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある」

 後に、こういう部分が全体主義(ファシズム)と混同され利用された(雨ニモ負ケズ・・・)らしいが、賢治が主張したのは”善なる意思”そのものとしての宇宙意思であり、一となった生き物であると僕は思う。この問題は、国柱会と賢治の関わりを研究することである程度はっきりすると思う。田中智学はどちらかというと、全体主義(ファシズム)を否定していなかったようだ。(吉田司「宮沢賢治殺人事件」)

この宇宙意思が、法華経として具現化され、永遠の釈迦仏が説いている。

つまり、宇宙意思は永遠なるモノなのである。

言い換えれば、時間も無ければ、変化もない。

恒ツネなるモノであり、不変なるモノなのであると思います。

賢治は、森羅万象あらゆるモノは、その本原の法からいできたり、死んで再びそこに帰ると考えたのだと思う。

ただし、我々は死ぬとすぐにそこに帰るのかどうかということになると、賢治自身の考えは混乱しています。

その問題が妹の死で露呈したのです。

このあたりが賢治の宗教の曖昧でいい加減なところです。

賢治が法華経を依拠の経典と定めて変らなかったなら、本原の法(法華経)を信ずる気持も変らなかったことになります。

恒常不変で永遠なるモノと、生々流転する無常な現象するモノとの関係を賢治は必死に思索したのだと思います。

当然、生々流転しなければならない現象たる生き物(それは、生まれて死ぬという時間に制約されたものでもある)の”宿命・時間”と宇宙意思の属性?である”永遠という無時間”との関係を考えることでもあると思うのです。

心象スケッチは賢治にとっては”科学的な”研究のためのデータでもあったので、”正確な時間の記録”が有用と考えたかもしれません。

賢治にとって、法華経の永遠性は、単なる経典の記述ではなかったようです。

岩波書店の岩波茂雄当ての書簡が本物であれば、見ず知らずの相手にさえも公言するほどに、賢治が見たはず(あるいは感官で感じ取ったはず)の異界や異界のモノドモの記憶は、賢治には真実だと思えたらしい。

その延長上に、法華経の世界が実在すると賢治が信じても不思議でない気がする。

この書簡でも(日付は大正14年12月、1925年)、心象スケッチについて「・・・六七年まえから歴史やその論料、われわれの感ずるそのほかの空間といふようなことについてどうもおかしな感じやうがしてたまりませんでした。・・・。わたくしはあとで勉強するときの仕度にとそれぞれの心もちをそのとほり科学的に記載しておきました。・・・」と言っている。

だから、日付順なのだと言えるかもしれません。

では、どうして幾つかの詩群にまとめたのかという疑問がでます。

糞の足しになるか? 苛立たないか?

 
時々自分に苛立つことがある。

時々じゃなく年中ですね。

僕の文章を読んでて苛立ちませんか?

僕のブログが不人気なのは、簡単に言えば面白くないからでしょう。

何が面白くないか?

すぐ前の記事、「丘の眩惑  いろいろ考えてみる」を読めば了解できますね。

どうでもいいような当て推量でずらずら文字を連ねているだけです。

よく分かっていないくせに、もっともらしく長々と説明を引っ張る。

最低!って言われてもしょうがない。

ほんと、糞の足しにもならない文章ですよね。

それでもこうやって書いている。

生きているから、書いている。

こういうのを業っていうんでしょうね。

僕はヤフーさんのお世話になっているお陰でこうやって戯言タワゴトを発信できる。

このブログやHPを、すべて自前で自費でやることになったら、僕は撤退する他ないですね。

金も技術もないのですから。

さて、ぼやきはこの位にして、それでも読んでくださる方がいる限りは、僕の考えたことを発信しよう。

生きていくということは、常に飽きずに何事かをし続けることなんですから。

何をする気(意欲)も無くなったら、それは、生きていないのと同じです。

この場合の、意欲の無くなった状態というのは、意識下・無意識下を含めた精神活動の状態を言います。

人間は、意識を失って、自我が消滅したように見えても、実は、無意識が活動しているようなのです。

ある説によれば、無意識の活動こそが本来の人間の状態だとされます。

喩えると、自覚されている意識とは、パソコンのモニターにあたり、人間精神の文字通りの本体はCPU・メモリなどであるということです。

この本体の活動は、なんらかの方法でモニタしないと、自分でも自分が何をやっているのか分からないですよね。

植物状態になった患者さんを、多くの人は、全く精神活動をしていないと思うでしょう。

それが意外とそうでないようなのです。

神秘主義の嫌いな僕でも、幾つもの実例を知っています。

意識が無いようでも、全感覚が働いていてそれが脳で統括され、キチンと対応がなされているらしいのです。

つまり、自分の置かれた状況や、周囲の出来事をなんらかのやり方で、不完全であっても認識している可能性が大だということです。

話が逸れました。

「丘の眩惑」を読んでみてあらためて思ったのですが、「春と修羅」の読者の皆さんは、ちゃんと、詩を読んでいるんでしょうかね。

僕の見聞の寡少を棚に挙げてこう言うのはなんですが、「春と修羅」全詩を一々取り上げて、この詩は、「春と修羅」の中で、こういう位置づけになる、詩集の第一グループ「春と修羅」のテーマはこれこれであり、「日輪と太市」は、そのテーマとこう関わる、というような説明を見たことがないのです。

心象スケッチといっても、詩の形態をとっているのですし、賢治自身も詩と理論は別物だ言っているようですから、科学論文のような理路整然というような説明はありえないと思うが、読者の側から読むのでなく、賢治の側にたって読む時、「春と修羅」全詩を個々に読むのでなく、全体とのかかわりで読むというような読み方はあってもいいのかなと思う。

著者が公開したら、作品はテキストという名で独り立ちし、その読み方は読者にすべて委ねられたという方もいるし、テキストをどう読むかは読者の自由だという方も居られるのですが、僕はそういう考え方も尤もだとは思うが、そもそも、著者は、何か言いたいことがあったのではないかなと思うほうが強いのです。

まして、賢治のように非常に特殊な主張を繰り返している著者の作品については、まずは、著者が言いたかったことをキチンと読み取り、それから、その作品を自分の肥やしなり、ゴミなりにすればいいのかなと思うのです。

賢治は、立派な理論を構築してそれを発表したのではなさそうです。

僕たちと同じように、悩みながらまず生きて、何事かを企図し、成功したり失敗したりしながら、37年の生涯を終えたわけです。

賢治がもっともっと限定されたテーマを取り上げ、研究していれば、それなりの権威を獲得できたかもしれません。

しかし、賢治はおそらく途方もない巨大なテーマを選んでしまった。

あるいは、選ばざるを得ない状況になってしまった。

僕だったらさっさと撤退するところを、あくまで進んだ。

そこに賢治の魅力があるのでしょう。

まだ確定的に言うことは出来ませんが、賢治が実現したかったある宗教的な生き方・人間の在り方というものは多分実現できなかったのではないかと思います。

多分実現できなかったのでは、と思いますが、ともかく、それがどういうもので、どのくらいまで固まっていたのか、その辺を探っているわけです。

何か完成したらしい、だからそれを知りたいというより、どういう目標を持ち、どういう努力をして、どんな問題に突き当たり、どう対処したか、などなど、賢治の生き方を読み取りたいのです。

そのことを作品を中心にして読み取れないかというのが、僕の課題なわけです。

今日は以上です。お粗末さま。

丘の眩惑 いろいろ想像してみる

 では、そういう浮世絵と「丘の眩惑」とはどういうかかわりがあるのか。

お粗末な想像をしてみます。

1922.1.12は木曜だったそうです(年譜)。

年譜によれば、翌年1923年の始業式は、1月16日となっているので、1月12日は冬季休業中だった可能性あり。

賢治は、前年1921年12月3日に農学校に就職してやっと一月が経った時です。

創作活動は非常に盛ん。

天気は晴れ。

笹の雪が燃え落ちる(融けて落ちている)ことから、時間的には午後。

雪におおわれた野原の道を歩いていた賢治がふと足を止めた。

 道の脇には電信中が立っているのだから、県道だろうか。

風花のような雪の切片が日の光でキラリ、キラリと光ながら沈んでくる。

どなたかが指摘したように、降ってくるとか、舞い降りてくるというのでなく、沈んでくるという表現が、修羅の棲む水中を連想させる。

「野原の果て」がシベリヤにつながるのなら、進行方向は北。

道の左手か右手に電信柱が並び、それほど高くない丘がある。

電信柱は、白い雪原に濃い藍色の影を長く伸ばしている。

午後の西日を反射して、丘の雪面がギラギラ光る。

電信柱が保坂嘉内との交友を思い出させたか。

あの短歌に歌った電信柱は夏の青山に立っていた。

今、丘は一面雪におおわれている。

丘の雪面はギラギラ光る。

その照り返しを見入っていると、そのぎらぎらの照り返しの中を合羽を着た農夫が歩いてきた。

その合羽の裾を見て賢治は、おやと思った。

あれは、まるで「一千八百十年代ダイの」光景ではないか。

あの佐野喜の木版にあった光景そのものだ。

あの木版画はこういう風景だったのだ。

賢治はしばらくその光景を見続けた。

ふっと我に返った。

それはぎらぎらの丘の起した幻惑かもしれない。

はげしい照り返しに一瞬惑わされたのかもしれない。

再び、眼を行く手の野原のはるか先に転ずると、そこはまさしくシベリヤの天末だ。

天椀の落ち込む空と地との界。

空にはトルコ石のようなかすかなひびがあり、そのつぎめも光っている。

お日さまは確かに白い火を焚いている。

丘の斜面の笹に積もった雪が融けて落ちている。

トルコ石やお日さまや融ける雪が象徴するものは分からない。

ともかく、この間ずっと賢治は一とこに立ちつくしていた。

賢治の心象風景は、ある時間を指したままそれほど経っていない。

これは賢治の浮世絵となったのかもしれない。


いや、難しい。

歩いていた賢治は何かを考えていた。

それがシベリヤなのか、お日さまなのか分からない。

そもそもどうしてシベリヤなのか。

その考えが突然中断された。

電柱とぎらぎらの照り返しによって。

そして、一千八百十年代ダイの農夫が突然出現した。

まだテーマが読めない。

気になる書評--- 賢治は「時空を超えた岩屋の中に身を隠して...」


その書評とは、木嶋孝法著『宮沢賢治論』(思潮社)の書評であります。
http://www.t-net.ne.jp/~kirita/simizu/simizu18.html

以下、書評の一部です。

『最後は《第四次延長》というような時空を超えた岩屋の中に身を隠して、この作品は完璧にその円環を閉じる。だが、作者の意図に逆らって、そこに、すべてを非実体化しようとした主体の貌が、いやおうなく浮かびあがってくる。(略)これが観念の上ではなく、現実に行われていたら、彼は無言で死んでいたに違いない』

『木嶋は現在の仏教学を典拠に「菩薩」の定位について「そもそも、自分のための覚りという概念自体、一切衆生のための覚りという概念を前提にしなければ成立しない。在家教徒が、ゴータマの覚りの目的に、自分たちの救われ(衆生済度)を盛り込んだとき、〈覚り〉という幻想にもまして、一切衆生のための〈覚り〉という新たな幻想を累加してしまうことになったのである」といっている。』

 本を手にしていないので、ホンのさわりを読まされるだけなのですが、かなり、厳しい賢治評がありそうな感じです。

ヤフーブックスの紹介文は以下のようであります。

『著書は宮沢賢治に、近代日本の知識人のひとつの典型を見ていた。賢治の「覚り」という幻想についても、そのことだけにとどまらず、近代日本が抱える諸問題の一環として捉えていた。「試行」連載、仏教思想に基づくユニークな宮沢賢治論。』

どんな人なのかと思い検索してみると、以下のサイトが見つかった。

この本出版のいきさつであります。意外な人物でした。
http://www.haizara.net/~kirita/unite/unite03.html

 真剣勝負で賢治に渡り合ったようです。読むのを楽しみにしています。

詩「丘の眩惑」---浮世絵版画は第四次延長と関わる重要なキー 2

コメントに腹を立てて。議論を吹っかけてこられるのは大歓迎なのですが、ご自分のブログやHP、それも、僕が全く対象にしていないことがらを売り物にする目論見を持ったブログ・HPの宣伝に使われるのは全く腹立たしい。ドウセ、読む方の程度が低いか、僕の論の程度が低いかめちゃくちゃなためか、まともなコメントを望めそうもないので、当分、コメントは不可とします。ゲストブックを没にしたのも同じ理由です。あしからず。


 どうして賢治は版画にこだわったのか、その2です。

 賢治は「浮世絵版画の話」で、浮世絵作品の鑑賞が賢治の詩作、正確には心象スケッチのより高度な記録にとって大きななヒントになったような気がします。

「浮世絵広告文」の「あらゆる古き情事の夢を永久トハにひめる丹唇や、もとより春信清長の童話の国のかたらひと、・・・、まことに浮世絵版画こそ、さながら古き日本の、復本でこそありました。」という文章は、心象スケッチの説明だと言ってもいい位ではないでしょうか。

復本、それは換言すると論料(データ)ともなりうる、と読めないでしょうか。

賢治は、浮世絵から、古い時代の人々の心の風物、確かに記録された景色として真剣に見入ったのではないか。

「浮世絵広告文」「浮世絵版画の話」は、賢治最晩年の昭和6年頃の文章だと、森荘己池「宮沢賢治の肖像」にあります。

しかし、「春と修羅」にかなり近い頃の文章にも浮世絵のことが書かれています。

それらしい言い方が、東京詩篇中の1928.6.15の「浮世絵博覧会印象」(新校本全集第六巻詩()にでてくるのです。

この詩は、えんえん8ページにわたる長いものです。

そこから恣意的に抜書きすれば以下のような言葉が現われます。

「・・・・・・・・
    いまそこに
  あやしく刻みいだされる
   雪肉乃至象牙のいろの半肉彫像
   愛染される
   一乃至九の単色調
   それは光波のたびごとに
   もろくも崩れて色あせる
見たまへこれら古い時代の数十の頬は
あるひは解き得ぬわらひを湛え
あるひは解き得てあまりに熱い情熱を
その細やかな眼にも移して
褐色タイルの[]方室のなか
茶いろなラッグの[]壁上に
巨きな四次の[軌]跡をのぞく
窓でもあるかとかかってゐる
・・・・・

・・・・・
あゝ浮世絵の命は刹那
あらゆる刹那のなやみも夢も
にかはと楮コウゾのごく敏感なシートの上に
化石のやうに固定され
しかもそれらは空気に息づき
光に色のすがたをも変へ
湿気にその身を増減して
幾片幾片[]
不敵な微笑をつづけてゐる
・・・・・
やがて来るべき新しい時代のために
わらっておのおの十字架を負う
そのやさしく勇気ある日本の紳士女の群れは
すべての苦痛をもまた快楽と感じ得る」

 これらの言葉の中に、賢治が浮世絵に感じ取った時間性を読み取れないだろうか。

「巨きな四次の[軌]跡をのぞく
窓でもあるかとかかってゐる」

 「あらゆる刹那のなやみも夢も
にかはと楮コウゾのごく敏感なシートの上に
化石のやうに固定され」

 賢治は、「春と修羅」序の中で、こう言っています。

「風景やみんなといっしょに
  せはしくせはしく明滅しながら
  いかにもたしかにともりつづける」

 「紙と鑛質インクをつらね
  (すべてわたくしと明滅し
  みんなが同時に感ずるもの)
  ここまでたもちつゞけられた
  かげとひかりのひとくさりづつ
  そのとほりの心象スケッチです」

 「けれどもこれら新世代沖積世の
  巨大に明るい時間の集積のなかで
  正しくうつされた筈のこれらのことばが
  わづかその一點にも均しい明暗のうちに」

 「すべてこれらの命題は
  心象や時間それ自身の性質として
  第四次延長のなかで主張されます」

 心象スケッチは、賢治の心象に起居した風景を記録したものです。

しかもその風景は、明滅しています。

「春と修羅」の「小岩井農場」パート一の終りの方にこういう言葉があります。

「それよりもこんなせわしい心象の明滅をつらね
 すみやかなすみやかな万法流転マンポウルテンのなかに
小岩井のきれいな野はらや牧場の標本が
いかにも確かに継起するといふことが
どんなに新鮮な奇蹟だらう」

 万法マンポウすなわち森羅万象、人間を含めた自然宇宙が、一緒に明滅しながら流れ続けていると賢治は考えました。

心象は風景であり風物(森羅万象)であります。

「あらゆる刹那のなやみも夢も
にかはと楮コウゾのごく敏感なシートの上に
化石のやうに固定され」たものです。

その心象は明滅する刹那刹那という性質をもちます。

刹那刹那の継起が時間です。

すなわち、
 「すべてこれらの命題は
  心象や時間それ自身の性質として
  第四次延長のなかで主張されます」
 と賢治が言うように、刹那刹那という固定された風物が時間軸に沿って継起するのです。

こういうものの見方を「第四次延長」と呼んだのではないか。

それまでには無かった世界観・自然観・時間観念です。

浮世絵とは、ある刹那を切り取って固定したものだったのです。

賢治によれば、第四次延長の法則は
 「けれどもこれら新世代沖積世の
  巨大に明るい時間の集積のなかで」
 時間(過去)を化石のように積み上げていっているのです。

浮世絵は、そういう過去の一刹那の化石でもあるのです。

しかし、巧みにこしらえられた浮世絵という化石は、
「巨きな四次の[軌]跡をのぞく
窓でもあるかとかかってゐる」のです。

 同様に、賢治の心象スケッチは、やがて後世の人々から浮世絵のように読み取られて、本当の世界・宇宙の姿を読み取ってもらえる、そう賢治は信じたかったのでしょうね。

詩「丘の眩惑」---浮世絵版画とは? 1

「春と修羅」第四番目の詩が「丘の眩惑」であります。

「丘の眩惑

 ひとかけづつきれいにひかりながら
 そらから雪はしづんでくる
 電デンしんばしらの影の藍じょうインディゴや
 ぎらぎらの丘の照りかへし
 
  あそこの農夫の合羽カッパのはじが
  どこかの風に鋭く截りとられて来たことは
  一千八百十年代ダイの
  佐野喜の木版に相当する
 
 野はらのはてはシベリヤの天末マツ
 土耳古玉製玲瓏ギョクセイレイラウのつぎ目も光り
    (お日さまは
     そらの遠くで白い火を
     どしどしお焚きなさいます)
 
 笹の雪が
 燃え落ちる 燃え落ちる」

 僕にとっては、この詩も読み応えのある詩であります。

用語は、それほど化学の用語も無く難しいと感じさせないが、賢治が一体何を伝えたかったのかがすぐにピンとこない。

つまり、難しい。

「屈折率」で、”ひかり”が屈折する水の中に棲むもの・修羅の自覚を抱いた賢治は、暗い空の下を目指して出発した。

「くらかけの雪」は、亜鉛の雲に向かって歩く賢治にとっては、ほのかな望みだった。

古い信仰のような。

それから三日後、どこかで見かけた太市(大人か子供か)が、ただでさえ小さな天の銀板を、雲がどんどんその面を犯し始めたのを見て、赤い毛布ケットのズボンをはいたのを見て「日輪と太市」に記録した。

更にその三日後に記録したのが「丘の眩惑」であります。

同じ日の夜にはそこはかとない情感ただよう「カーバイト倉庫」が記録されます。

たぶん、「春と修羅」の詩篇は、1922.1.6に始まった心象スケッチの記録全てではないでしょう。

しかし、編纂者賢治は、これもたぶん、漫然と日付順に羅列したということもないでしょう。

詩篇の取捨選択と配列には、賢治なりのきちんとした意図があるはずです。

伝聞によれば、賢治は「春と修羅」を交響楽曲として作ったとも言われます。

緻密な組み立て・構造を持たせたと言いたいのではないでしょうか。

執拗と言われるほどの推敲によって、無駄な言葉をそぎ落としていたとすると、ここには、版を組む時点では余計な言葉はないはずです。

さて、今日のテーマは、浮世絵版画と賢治です。

作品の中でも頻繁に浮世絵(言い方は色々)に言及していますし、直接、浮世絵について論じたり、心象スケッチしたものもあります。

もともとそれほど浮世絵に魅力を感じていなかった僕には、とっつきにくい作品群でした。

何故古臭い浮世絵なのかずっと分からないでいました。

どうして賢治は、こうも浮世絵にこだわったのか。

伝聞によれば、浮世絵の蒐集について父から激しくなじられたがそれでも蒐集し保持しつづけたらしい、又、ある伝聞によれば、賢治は浮世絵の一種、春画(あるいは枕絵---男女の性器をやや誇張しているがあからさまに描き、交合の様子をそのまま描いたもの)を農学校の職員室に持ち込んで、同僚と論議したとも言われる。

後の方の伝聞資料は、清純な賢治を敬愛するファンにとっては理解し難いものでありましょう。

僕も相当長い間、やはり、賢治も人の子なんだと思う根拠にしていました。

人は自分にさえも分からない複雑なモノですから、あらゆる矛盾が有るのも止むを得ないのだろうか?

いや、それにしても入れ込みすぎだ。

明らかに、賢治は浮世絵に特別な意味を持たせていたと思われます。

そこで、「丘の眩惑」の浮世絵(木版画)の意味を読む前に、賢治自身が書き残した他の作品や文章から、賢治が浮世絵(木版画)をどう考えていたか見てみよう。

まず、鑑賞の対象としての浮世絵(木版画)について賢治が書いている文章がある。

新校本全集第十四巻雑纂に載っている「浮世絵広告文」「浮世絵版画の話」であります。

「浮世絵広告文」では、浮世絵の再評価に縁って賢治も木版錦絵(浮世絵)を絶賛します。そして、その本質をこう述べています。

「そこには初代広重の・・・あらゆる古き情事の夢を永久トハにひめる丹唇や、もとより春信清長の童話の国のかたらひと、・・・、まことに浮世絵版画こそ、さながら古き日本の、復本でこそありました。・・・」

賢治にとっては、浮世絵版画には、確かにふるい日本の(人々の)夢の後が再現可能な状態になっていたのでしょう。

「浮世絵版画の話」では、主として鑑賞もしくは購入の対象としての浮世絵をどう見るべきかという、鑑賞眼の要点を述べているようです。

要点は五つにまとめられています。

第一は、木版画の特質を、肉筆画との比較を通して浮き彫りにしようとしている。

第二には、海外でsinging lineと評価されている歌麿の版画の曲線を例に、春信の肉筆と木版を比べ、木版の持つ「あの高雅清純は詩の国は生まれなかったらう」という。木版独特の曲線のリズムを称讃している。

第三が、浮世絵に関する賢治の最も入れ込んだ点らしい。それだけに重要な意味を含んでいそうです。「第三は神秘性である。」と書き出します。版画という特殊な制約から、表現単純化が必然する。高度な作品になればなるほど、鑑賞眼の高さが要求される。「進んだ芸術鑑賞者に対してはただその材料を作家の如何としても抜くべからざる意図に於いて暗示的に構造するを以って必要にして充分なりとする。浮世絵人物の表情に関しては海外の多数の評論みなこれを不可解とし神秘とする。日本では野口米次郎氏の如きこの表情は浮世絵の秘戯画を検した後初めて理解さるるといったりしている。」これは賢治の結論ではない。結論は「然しながら事実は版画がそういふ微妙な表情を示すべく適当なものでないことにある。・・・あらゆるしぐさに対して常に表情の変らない同一の仮面といふことが何かそのものを超人的なものに想像させるといふ仮面劇の原理によるもの」としている。

第四は、工芸的美性であるとする。他の絵画にない、材質と木版の特質の醸す独特の美を見よと主張する。

第五は、浮世絵が木版刷りという特性から、超高価なものではない、大衆も手にするチャンスのあるものということである。

「これからの宗教は芸術で、芸術は宗教だ」という賢治の主張に適したものが浮世絵だと言えそうです。

第三の要点のなかでは、秘戯画(春画のこと)に触れた部分があり、もしかしたら、賢治が春画を入手し鑑賞していたのも、こういう主張と関係するのかもしれません。

究めるためには、清濁を選ばないのでしょうか。(続く)

「透明な幽霊の複合体」とはどういうことか? 2


「春と修羅」序の冒頭部分です。

「わたくしといふ現象は
 仮定された有機交流電燈の
 ひとつの青い照明です
 (あらゆる透明な幽霊の複合体)
 風景やみんなといっしょに
 せわしくせわしく明滅しながら
 いかにもたしかにともりつづける
 因果交流電燈の
 一つの青い照明です
 (ひかりはたもち その電燈は失はれ)」

今日のテーマは、”生きること”です。

 ”生きること”を自分に当てはめて言うとどう言うべきか?

 〇笋生きている。

◆〇笋論犬ている。

 私はいきている?

・・・(いろいろな主張が可能です)・・・

ともかく、人はみんな一生懸命生きています。

ホントに一生懸命生きているのです。

自我の強い人は、 Δ修Δ任發覆た佑廊◆Φ燭た爾た佑廊、というふうにして。

賢治も懸命に生きたと思います。

さて、表題の”幽霊”ですが、もし、
「(ひかりはたもち その電燈は失はれ)」
の”ひかり”を、本源の法・宇宙であるとすると、もしかしたら、”幽霊”も、同じ意味になりそうではないかと考えました。

この幽霊を、わたくしすなわち賢治と解釈するか、それとも、賢治の”本体”と解釈するかです。

もう一つの読み方は、この”幽霊”と”ひかり”を、わたくし=賢治と読んで、あらゆる透明な幽霊=私の中の”みんな”と読み、”ひかり”がなぜ保つのかを、本源の法に帰するからと読むこともできるかなと思います。

表現の才能とはすばらしいものです。

ここで賢治が言おうとしたことを、僕が今書いているような説明文で表現したら、ドグマチックな文となり、読みたい人と読みたくない人がはっきり分かれてしまったでしょう。

「序」の表現は実にいい手法です。

それに、もしかしたら、賢治の言いたかったことは、かなり、言語表現の難しいことがらだったのかも知れません。

言語で表現しにくい事柄をどうやって相手に分かってもらうか。

今見た通り、詩という表現は最適なのでしょう。

賢治は、詩の形式で心象スケッチという手法を開発したのかもしれません。

ところで、詩人は、一々、説明をしないようです。

心象スケッチは、データ収集だったはずですから、もっと説明してもよかったのではないかと思いますが、いきなり、

「わたくしといふ現象は
 仮定された有機交流電燈の
 ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)

 と始めました。

本来の詩人だったらそれでもいいのでしょうが、賢治が自分の気持を、感情を分かってもらいたくて「春と修羅」を公開したのでないと考えると、伝聞通り解説を残しておくべきだったような気もします。

さて、生きるということです。

賢治は、晩年にも”自分(われ=わたくし)”を考える言葉を残しています。

「われやがて死なん
  今日又は明日
  あたらしくまたわれとは何かを考へる」
・・・・・・
われわが身と外界とをしかく感じ  
  これらの物質諸種に働く
  その法則をわれと云ふ
  われ死して真空に帰するや  
  ふたたびわれと感ずるや
  ともにそこにあるは一の法則(因縁)のみ  
  その本原の法の名を妙法蓮華経と名づくといへり
  そのこと人に菩提の心あるを以って菩薩を信ず
  菩薩を信ずる事を以って仏を信ず
  諸仏無数億而も仏もまた法なり
  諸仏の本原の法これ妙法蓮華経なり
   帰命妙法蓮華経  
   生もこれ妙法の生
   死もこれ妙法の死
   今身より仏身に至るまでよく持ち奉る」

 以前引用した「疾中」詩篇の中の「(一九二九年二月)」です。

賢治がいきなり、「わたくしという現象は ・・・」と始めたのは、この考え方を前提にしていたからだと思います。

賢治は、このような考え方を”生きていた”のではないでしょうか。

つねに、わたしく=賢治は、本源の法と向き合っていたと思います。

賢治の感官は、本源の法の世界を感じていた、あるいは、感じようとしていたと言えるのではないでしょうか。

日蓮が法華経によって実現する世界を感じていたように、最澄や空海が理想とする世界を感じていたように。

では、なぜ賢治は仏教学者・学僧(島地大等のような)とか、僧にならなかったのか。

いつかは分かりませんが、賢治は、何時かある時から、法華経を依拠の経典とする新しい世界観を築き、新しい生き方を見つけようとしていたのではないでしょうか。

理論家として生きるのではなく、実践という生き方を選んだのではないでしょうか。

「銀河鉄道の夜」でジョバンニが、あれでもない、これでもない、それでもないと否定を繰り返したとおり、それまでの宗教とは違う宗教を考えていたのではないか。

その宗教は、生活即宗教というようなもので、賢治は、羅須地人協会によって、このような生活を(宗教と呼ばないまま)実現したかったのではないか。

そう考えれば、学僧にならなかった理由も分かるような気がします。

「これからの宗教は芸術で、芸術は宗教」という生活の実現を目指す。

賢治は、実際にどう生きたかを「春と修羅」一集、二集、三集その他の詩や童話、少年小説として記録し続けました。

その時々の心情を綴ったのでなく、ある生き方を記録し続けたのです。

これこそが本当の生きている宗教です。

生きることと宗教とが一致していたのです。

当然、寺院の高みから人々を見下ろすような生き方にはなりません。

最後に、わたくしという照明はどうして青いのでしょう?

青は修羅の色なのでしょう。

では、賢治はどうして修羅になったのでしょう。

どうして、日蓮二世ではいけなかったのでしょう。

又、課題が出来ました。

業の花びら 2

 追っかけ・お宅・ファン、どれも自分以外の何か・誰かに言いようのない憧れや親近感を抱き、それらと関わることで癒され・充たされ・満足できる人たちのことで、その対象には、足元の石ころから宇宙の果て、隣のお姉さんから芸術家まで、ありとあらゆるモノ・コト・ヒトが選ばれている。

宗教的信念も学問や政治経済などの世俗的信念も、本質的には共通するところがあると思う。

壮麗な宮殿と忠実な家臣・妖艶なハーレムの女たち、賑わう市街と市場が有ろうと無かろうと、人は生まれると死ぬまで生きていかなければならない。

ほとんど光の無い深海を、身体をくねらせてひたすら泳ぎ続けなければならない深海生物と共通するところであります。

彼等はそうやって暗闇の中で生まれ、暗闇の中でひっそりと死んで行きます。

この生命の原点には、罪も業も無いと思います。

釈迦は、この原点に気づき、その原点から飛翔し生き死にを超越したのだと思います。

だが、賢治は釈迦の道を歩まなかったようです。

人が長い年月をかけて築いた世界(心象の世界)は、変容はするものの確かに現象していると信じたようです。

芸術こそある意味での業であり罪でもあると言えないでしょうか。

人は無意識に生きています。

釈迦はその無意識に気づいたのです。

人はこの無意識の上に巨大な楼閣を築いてきたのです。

ここで言う無意識とは、釈迦の言う無明・無智です。

生き物がひたすら生きようとするのも無明のなせる業だと釈迦は言います。

しかし、ほとんどの人は、そんな忠告に耳を貸しません。

人は生きていくその先にだけ希望を託します。

「春と修羅」で賢治は、生きていく自分を素直に見詰め続けたのかなと思います。

しかし、生きていく道の果ての果てにも、恐らく賢治の望むものは存在しないでしょう。

果てしなく生きていくものなのだよと釈迦が言うように。

空海や最澄が法の存在を確信し、法然や親鸞が浄土を確信し、道元があるがままという本然のものを確信し、それぞれ各自にひたすら求めたのに対して、日蓮は現実の世界の変革を確信してしまいました。

このあたり、日蓮はちょっと時代遅れの感なきにしもあらずかななんておもいますが。

賢治は、法華経と日蓮の信念を現実化できると確信したのでしょうか。

混沌こそが生きるということだとすれば、果てしない信仰に生きることは可能でも、現実そのものを変革しようとする信念は、途方もない業ともなり罪ともなるでしょう。

人も動物も植物も細菌もウィルスもそれぞれ勝手な生き方をします。

それこそ、「半陰地選定」の中で、ミクロトームで薄い薄片とされた光の膜をくぐりぬけつつてんでばらばらと飛びかう百が単位の羽虫の群れのように。

無意識なのですから統制のとりようがありません。

人々は果てしなく要求し、果てしなく争うでしょう。

「神には神の身土がある」という呟きが人から発せられたものか、それとも神から発せられたものか。

賢治にとっては、森羅万象が本然の法にもとづくものであれば、神も人も法の前では同じであろう。

そして、賢治にとっては神も輪廻を避けられないもの。

衆生の一つかもしれない。

〔北いっぱいの星ぞらに〕(1924.8.17)に
「あゝ東方の普賢菩薩よ
  微かに神威を垂れ給ひ
  ・・・・・・
  覚者の意志に住するもの
  衆生の業にしたがふもの
  この星ぞらに指し給へ 」

 とある、衆生の業と業の花びらが同じなのか。

空の業の花びらは、空に在るのか、空から限キリもなく降りかかってくるものなのか。

この頃から、賢治の心境に変化があったらしい。

「異途への出発」(1925.1.5)

 「こんや旅だつこのみちも
 じつはたゞしいものでなく
誰のためにもならないのだと
いままでにしろわかっていて
それでどうにもならないのだ」

 こういう独白は、1924.7.17の「薤露青」にもあります。

「……たえず企画したえずかなしみ
    たえず窮乏をつゞけながら
    どこまでもながれて行くもの……」

 人々を法の世界へと導く道を見出そうとしていた賢治にとって、「春と修羅」の試みがなかなか現実を動かせない焦りか苛立ち。

本日はここまで。(未完)

業の花びら

 自分の文章もまともに書けていない僕が、他人の文章を正しく読み取るなどというのは、難しいことなのかなぁとつくづく思うようになった。

本当に読むというのは、難しいことですよね。

何だこの人は、何を言ってるんだと反発し、理解できない、おかしいと思って打っちゃっておいた本(文章)を、何かのきっかけで、後で読み直すと、「あっ、そうだったのか。あぁぁ!」と気づいて、自分の以前の態度を大いに恥じながら読み直すことが多くなってきました。

 「みんなの幸せ ジョバンニとブドリの夢と現実 未知の賢治ワールド」を書き始めてしばらくしてから、自分の考えが何とか成立するだろうかどうだろうかと心配になり、以前決別した本を取り出して、読み直しました。

恩田逸夫著「宮沢賢治論 2 詩研究」、「文芸読本 宮沢賢治」所収の梅原猛氏の「修羅の世界を超えて」など。

中村稔氏や天沢退二郎氏などの賢治論より恐らく一時代前の賢治論だと思う。

中村氏や天沢氏と違い、恩田氏も梅原氏も賢治を詩人・童話作家(文学者)というよりも、思想家という視点で見ているように思える。(もっとも、文学者も思想家も同じようなものだといえばその通りだが。)

従ってその作品群の読み方も、その背後の思想に注意しながら読むという姿勢を持っていると言えそうです。

ま、こういう感じ方は、今僕が賢治を両氏が評価するような読み方で読んでいるせいかもしれないが。 

そして、手元に持っていたのだが、読み取れていなかった本が二冊ある。

丹治昭義著「宗教詩人 宮沢賢治 大乗仏教にもとづく世界観」、マロリ・フロム著 川端康雄訳「宮沢賢治の理想」であります。

さらに、つい最近知ったのが、同じようなテーマを追求している韓国の賢治研究者・呉 善華氏です。「宮沢賢治の法華文学 彷徨する魂」の著者です。

今日の表題、「業の花びら」を取り上げたのは、呉先生の「宮沢賢治の法華文学 彷徨する魂」の第二章 二 因果の時空的制約のもとに--「よだかの星」を読んだのがきっかけです。

この詩を思い出したのです。

呉先生は、「よだか」を「貝の火」のホモイがその業を因として再生したものと読んでいます。「貝の火」は「鳥」の宝でした。同時に呉先生は、「よだか」の存在そのものを「宿業」、生き物の持つ避け様のない業としてもとらえています。


「業の花びら(校本全集の新題名「[夜の湿気と風がさびしくいりまじり]」の下書き稿 二)
                    1924・10・5

「夜の湿気が風とさびしくいりまじり
松ややなぎの林はくろく
そらには暗い業の花びらがいっぱいで
わたくしは神々の名を録したことから
はげしく寒くふるえてゐる
   ……遠くで鷺が啼いてゐる
     夜どほし赤い眼を燃して
     つめたい沼に立ってゐるのか……
松並木から雫がふり
わづかばかりの星群が
西で雲から洗はれて
その偶然な二っつが
黄いろな芒で結んだり
残りの巨きな草穂の影が
ぼんやり白くうつったりする」
* 芒=光、光の先端、ススキ(萱)

 校本全集によると、この下書き稿の余白に、次の詩行があるそうです。

「ああ誰か来てわたくしに云へ
億の巨匠が並んで生まれ
しかも互ひに相犯さない
明るい世界はかならず来ると
 どこかでさぎが鳴いてゐる」
  *丹治先生によるとこの詩行は、下書き稿 二 の第五行目に続くように挿入され、「……遠くで鷺が啼いてゐる」へとつながる原稿解釈もあるそうです。

さて、日付の1924年は賢治にとって忘れられない年でしょう。

四月に「春と修羅」を刊行、12月には童話「注文の多い料理店」を刊行しました。

10月、賢治はまだ「春と修羅」公開の興奮を持続していたでしょうか。

「注文の多い料理店」の準備に燃えていたはずではないのでしょうか。

だが、この詩からは、そういう熱気とは異質な雰囲気が感じられるような気がします。

詩が苦手な僕にとってこの詩は難しい。

同じ日付の「産業組合青年会」と呼応する内容なのかなとも思うが。

この青年会の会合に出席した帰り道なのでしょうか。

松ややなぎの林は暗く、霙もよいの雨が降り、近くには沼もあるようです。

冷たい霙交じりの雨に濡れ、鷺の声を聞く賢治には、霙の雨が業の花びらのように感じ、鷺の声で自分が赤い眼をして何かを待つ身だと感じたのでしょうか。

或いは、賢治は「春と修羅」の主張がなかなか思うような反応として還ってこないので、焦燥感に捕われていたのでしょうか。

神々の名を録したとは、どういうことなのか?

賢治は、「春と修羅」序の主張を通して、新しい世界観・価値観を人々に示そうと意気込んでいたのではないかと思うのですが、なぜ、これほどに引いてしまったのでしょう。

業(の花びら)が空にあるというのも分かりにくい。

この詩の解釈をされている、梅原先生や丹治先生の説明を読んでも、どうもしっくりこない。

「注文の多い料理店」刊行を前にしての、この逡巡はどうしたことなのかが分からない。

実は、賢治が宇宙そのものであると言う「法」と、「現象」である僕たちやその周りの世界との関係がよく分からないのであります。

釈迦仏教や部派仏教でいう「業カルマ」は、古代インドの思想ですから、ヴェーダやウパニシャッドを勉強すれば一応分かります。

そういう思想が芽生え発展した様子も何となく理解できます。

そして、業や輪廻から解放されたいと望んだ古代インドの人たちの願いも分かります。

では、賢治は「業」をどのように理解していたのか、となると、分からなくなるのです。

今回は課題の提示で終わります。

 追記:以下のURLに、この詩についてのすばらしい分析・解釈があります。下は、メインページ

   http://www.ihatov.cc/blog/archives/2006/01/1_21.htm
   http://www.ihatov.cc/

釈迦仏教と賢治仏教  2

 ここまでの僕の話をよく読んでくれれば、

1.「仏教」という言葉は、僕の教判すなわち新仏教分類法の大分類で言えば、ー甓猜教部派仏教B臂菠教っ羚駟教ツ鮮仏教ζ鐱槓教を包摂した言葉だということ。

2.今現在の僕の理解では、上記の 銑Δ粒栃教は、釈迦仏教を除くと、いずれも説明又は証明不可能なある原理(たとえば、本源の法)を信じることから始まる信仰であること。ところが、賢治が思い描いていた宗教は、その原理そのものを何とか証明しようとしていたらしいと思われるので、上記 銑Δ里匹譴砲眤阿気覆い隼廚Δ海函

この二つの理由によって、僕は、賢治が主張していた宗教は、大分類の一番最後に、「Г海譴らの仏教」として新たな分類を加え、さらに、そのЭ靴燭癖教の一つとして、「賢治仏教」を加えたい。

 もちろん、僕が勝手にこういう分類表を作って、一人で納得している間は、唯の賢治お宅(本物のお宅諸君には”ご免なさい”)の弄モテアソぶ唯の空想で終わることは分かっている。

だが一見表面的には正常に見える現代世界が、真理の眼を具えてじっと観察すれば、あまりに異常であることが分かり、思わず眼を覆い、顔を覆うことになる。

僕たち生き物の一番の大元は、まず、生きていることです。

その「生きている」状態を維持するために必要なもの、つまり、生き物にとって一番必要なものは、まず、食べ物です。栄養です。

食べ物を生産しているのは、農林水産業に従事する人たちです。

石油からも蛋白を合成することが出来るかもしれませんが、それを本気で毎日食べたいと思う人はいないでしょう。

最も、その石油を生産するのも、農林水産業の仲間、鉱業ですが。

特に都市に住んでいて、誰かが生産し流通させ店頭に陳列してくれている食べ物を、お金で買って食べて生きている人たちは、この重要なことを分かっていない。

僕もよく分かっていない。

僕も農林水産業に従事した経験がないのです。

今、多くの日本人は都会こそ理想の場所だと信じています。

きらきらした都会の素敵に大きなビルの冷暖房のよく効いた大きな部屋で、綺麗な洋服に身を包み、きらびやかに装い化粧し、笑顔でTVに登場する人たち、キャスター、芸人、評論家、芸人化した政治家などなど。

これら都会至上主義音人たちとは、賢治が嫌った町の金貸し・大商人、そうです、あの「なめとこ山の熊」に登場する、小十郎から安く毛皮を買い叩く店の旦那、そして、賢治の父のように、「金」という財産で、たとえ飢饉の年でも飢えずに済む、そういう立場にいる人たちの現代版です。

一方、本当に必要な仕事をしている農林水産業の現場、農山漁村に住む人たちの現状はどうなのでしょう。

市場経済の原理によって、過疎化が進み、無医村が当たり前になり、耕地は放棄され荒れています。

社会資本の充実もどころかライフラインの確保さえ危い状況です。

高い軽油(舟やハウス暖房用の燃料)を買わされ、獲った魚やピーマンを安く買い叩かれているのは、本当は僕たちの命を繋いでくれる尊い仕事をしている人たちなのに。

評論家は、適当な予想を述べ立てて、投資家のお金を吸い上げます。

予想は当たっても当たらなくても彼等は収入を得ます。

知識の切り売りが高価で売れ、命の大元を生産する労働が惨めなほどの安値で良いのでしょうか。

これらの矛盾の背後には、僕がどうしても解きたい謎、金融業があります。

統制経済でもなく、自由経済(市場経済)でもない、そう、賢治が夢見た新しい宗教のような、そういう、新しい経済の原理を見つけたい。

命を繋ぐ尊い仕事をしている農林水産業者の皆さんが本当に誇りと喜びを持ちつつ仕事が出来、ちゃんとした正しい報酬が得られるような経済の仕組みを見つけたい。

又、話がどんどん逸れてしまいました。

都市を支配する原理は、不善なる要素を多く含んでいます。

市場経済を支配する原理は、もっと不善なる要素を含んでいます。

市場経済の原理は、人々に「誰にでも豊かになれるチャンスがある」という夢をちらつかせて虜にしています。

確かにこれまでのところは、古い階級制度の特権を破壊し、多くの人々の暮らしを以前よりは豊かにしました。

そして、今のところはこの市場原理に代わる新しい原理は登場していません。

かく言う僕も、この原理のお陰で、自分の土地と家を持て、何とか生活しています。

しかし、市場原理は、過酷な競争を強います。

人々を競争原理に熱中させ、狂わせます。

競争原理は、人間の尊厳をも踏みにじっています。

そして、何より問題なのは、共産主義の理想が脆くも崩れ去った一つの原因である、人間の根源的な欲望による新しい階級・特権階級の出現があったように、今、世界の市場経済諸国には、金融を支配し、市場経済を支配する新たな階級・特権的支配階級がはっきり堂々とその姿を誇示し始めたことです。

賢治の童話集「注文の多い料理店」は、そういう市場原理の嵐が日本にも吹き始めたのを鋭く察知して、警告を発したとも言われます。

賢治が「注文の多い料理店」で示したような、始原にさかのぼる人間同士、いや、あらゆる生き物同士の共存を目指せないのか。

 「競争」から「共有」や「協同」へと移行できないか。

そのためには、人間の意識そのものを変革する必要がありそうです。

ここに再び「農民芸術概論」が登場可能です。

「農民芸術概論」を提起した賢治の思想の根拠は、本源の法であると思います。

しかし、今までの宗教のように、一方的に真理を主張しても、それを多くの、大多数の人が「なるほど、全くその通りだ。」と納得してくれなければ、ただの戯言に終わってしまいます。

そこで、賢治は、何とかして「本源の法」を証明して人々に「なるほど、全くその通りだ。」と納得させようとしたのだと思います。

これが、賢治の主張する宗教(賢治仏教)が、それまでのどの仏教にも属さないという説明です。

釈迦仏教がそのままでは、なかなか現代人には受け入れ難いように、法華経や日蓮の理想も、成立当時のままでは、現代に生かされないでしょう。

ただ、果たしてそれは可能なのかと問われれば、難しいだろうとしか今は言えません。

人類にとっても、あらゆる生き物全てにとっても、共に生きていくための原理としての新しい宗教は絶対に必要なのですが。

読みにくい文章で済みません。

なお、僕の釈迦仏教理解については、以下のURLを読んで下さい。この僕の釈迦仏教の説明はくどくどしく論理も明快ではないようなので、かなり、辛抱していただかなくてはならないのであらかじめお断りしておきます。

さとり---現代人にそっぽを向かれたもの
http://www.geocities.jp/avarokitei/blog/satori-gendaimisuteta.html 

仏教の開祖 ゴータマ・ブッダ略伝
http://www.geocities.jp/avarokitei/go-tamaryakuden/go-tama-tanjo.htm 

この世は美しくもある・・・光の饗宴と賢治の苦悩 


研ぎ師の仕事を見ていた園丁が少し躊躇チュウチョしながら、自分の剃刀カミソリを取り出して、研いでもらえないかと言います。

研ぎ師は承知します。

研ぎ師はせっせと研ぎ続けます。

そんな研ぎ師を見つめながら、賢治は呟きます。

(おお、洋傘直し、洋傘直し、なぜその石をそんなに眼の近くまで持って行ってじっとながめてゐるのだ。石に景色が描いてあるのか。あの、黒い山がむくむく重なり、その向ふには定めない雲が翔カけ、渓タニの水は風より軽く幾本の木は険しい崖からからだを曲げて空に向ふ、あの景色が石の滑らかな面に描いて有るのか。) と。

賢治は彩色された山水画を想っているのでしょうか?

「畑の黒土はわづかに息をはき風が吹いて花は強くゆれ、唐檜トウヒ(ドイツトウヒ)も動きます。」

やがて、研ぎ師は全部研ぎ終わりました。

園丁が研ぎ賃を払います。

最後に、自分の剃刀の研ぎ代をききます。

研ぎ師は、「剃刀の方は要りません。」と言う。

 請求して欲しいという園丁と「お負けいたしませう。」と言う研ぎ師の押し問答です。

どうしても研ぎ師が受け取ってくれないというので、実直な園丁は、

「そんなら・・・お茶でもさしあげましょう。」

と申し出ます。

研ぎ師はそれも辞退します。

困った正直者の園丁は、

「それではあんまりです。一寸お待ち下さい。ええと、仕方ない、そんならまあ私の作った花でも見て行って下さい。」

と提案します。

「ええ、ありがとう。拝見しませう。」

とその「気紛れ洋傘直し(研ぎ師のこと)」が受けます。

こうして、昼下がりの五月の太陽の下でささやかだけれどちょっとあやしい饗宴が始まるのです。

園丁は、何種類かのチュウリップを紹介した後、小さな白いチュウリップを指して「まあしばらくじっと見詰めてこらんなさい。」と勧めます。

しばらくその花に見入ってから、黙ってしまった研ぎ師に、園丁が言います。

「・・・。いかにもその柄が風に靭シナってゐるやうです。けれども実は少しも動いて居りません。それにあの白い小さな花は何か不思議な合図を空に送ってゐるやうに、あなたにはおもわれませんか。」

  *風に靭シナって(チュウリップの柄=花の茎が竹のようにしなやかでしかも折れたりせずに
   曲がること)いるけれども(動)、実は少しも動いていません(静)と賢治が記述しています。
   この表現は賢治の作品にはしばしば現われます。この表現をヒントにこの作品の別な読み
   方が出来そうです。

研ぎ師が「そうです。そうです。見えました。」と、叫びます。

園丁が言います。

「ごらんなさい。あの花の盃の中からぎらぎら光ってすきとほる蒸気が丁度水へ砂糖を溶かしたときのやうにユラユラユラユラ空へ昇って行くでせう。」
「ええ、ええ、さうです。」
「そして、そら、光が湧いてゐるでせう。おお、湧きあがる、湧きあがる、花の盃をあふれてひろがり湧きあがりひろがりひろがり、もう青ぞらも光の波で一ぱいです。山脈の雪も光の中で機嫌よく空へ笑ってゐます。湧きます、湧きます、ふう、チュウリップの光の酒。どうです。チュウリップの光の酒。ほめて下さい。」
「ええ、このエステルは上等です。とても合成できません。」
「おや、、エステルだって、合成だって、そしつは素敵だ。あなたはどこかの化学大学校を出た方ですね。」
「いいえ、私はエステル工学校の卒業生です。」
「エステル工学校。ハッハッハ。素敵だ。さあどうです。一杯やりませう。チュウリップの光の酒。さあ飲みませんか。」
「いや、やりませう。よう、あなたの健康を祝します。」
「よう、ご健康を祝します。いい酒です。貧乏な僕のお酒は又一層に光っておまけに軽いのだ。」
「けれどもぜんたいこれでいいんですか。あんまり光が過ぎはしませんか。」
「いいえ心配意りません。酒があんなに湧きあがり波を立てたり渦になったり花弁をあふれて流れてもあのチュウリップの緑の花柄は一寸もゆらぎはしないのです。さあも一つおやりなさい。」
「ええ、ありがたう。あなたもどうです。綺麗な空ぢゃありませんか。」
「やりますとも、おっと沢山沢山。・・・」

酒宴は盛り上がります。

チュウリップから溢れる酒はそこら一面、空の外れまで、地面のそこまですっかり光のお酒であふれます。

その内に、空ではひばりが光の中に溶けだします。

酔った二人は、スモモの木をからかいます。

とうとうひっかかれてしまいました。

冗談が過ぎました。

「そうら。そら、火です。火がつきました。チュウリップ酒に火がはいったのです。」
「いけない、いけない、はたけも空もみんなけむり。しろけむり。」
「パチパチパチパチやってゐる。」
「どうも素敵に強い酒だと思ひましたよ。」
「さうさう、だからこれはあの白いチュウリップでせうか。」
「さうでせうか。」
「さうです。さうですとも。ここで一番大事な花です。」
「ああ、もうよほど経ったでせう。チュウリップの幻術にかかってゐるうちに。もう私はいかなければなりません。さやうなら。」
「さうですか。ではさやうなら。」

こうして、ささやかで盛大なチュウリップの盃から溢れたお酒の饗宴はお終いです。

「太陽はいつか又雲の間にはいり太い白い光の棒の幾條を山と野原とに落とします。」

この頃の賢治は、自然(もちろん、自然の背後に本原の法=法華経の真理を感じていた)とこうやって幸せな一体感を持つことが出来たのでしょう。

本源の法の現われである太陽はあらゆるものを満たし、チュウリップからはお酒までも溢れ出させたのです。

「注文の多い料理店」の序で賢治は言っています。

「わたくしたちは、氷砂糖をほしいくらゐもたないでも、きれいにすきとほった風をたべ、桃いろのうつくしい朝の日光をのむことができます。」 と。

もちろん、自然も太陽もいつもこのように親和だけではないのですが。

この世は美しくもある・・・光の饗宴と賢治の苦悩

 教え子が漕ぐ和船に乗って北上川を渡っているとき、賢治はやおらポケットから赤いリンゴを取り出し、ポチャンと川に落としては「ああ、美しい」とか「ああ、きれいだなぁ」と呟いていたという。

あらゆるものは実体ではなく、唯の現象にすぎないのだけれど、その現象であるはずのこの世にあるものは、それぞれが確かに美しい。

美しいと感じずにはいられない。

これはどうしたことなのか。

釈迦は、そういう感覚の背後に、人を幻惑する原理が潜んでいるのだと説く。

 本当は美しくもなんでもないのだよと、釈迦は説く。

 あなたもそう思いますか? 

白骨の御文章も人の世の儚ハカナさを説く。

しかし、賢治は美しいと確かに感じ、享受しようとした。


「チューリップの幻術」という散文があります。


午後の日が少し傾き始めたころ、富裕な家の立派な農園で小さな饗宴を楽しんだ二人の様子の記録です。

「雲は光って立派な玉髄ギョクズイのおきもの」のように「四方の空を繞メグります」

そんなうららかな初夏(五月)の日差しのしたを

「すもものかきねのはづれから一人の洋傘直し(折れたアンブレラの骨を接ぐ仕事人)が荷物をしょって、この日光をちりばめた緑の障壁に沿ってやってきま」した。

(洋傘直し、洋傘直し。荷物をおろし、おまへは汗を拭いている。そこらに立ってしばらく花を見ようといふのか。さうでないならそこらに立ってはいけないよ。)

賢治が気遣っていますが、洋傘直しは、一服もしたかったし、仕事もほしかった。

青い上着を着た園丁(庭師兼果樹園管理人)が現われて親切に主人に仕事を取次いでくれた。

待っていると、

「それから今度は風が吹き、たちまち太陽は雲を外れ、チュウリップの畑にも不意に明るく陽が射しました。真っ赤な花がぷらぷらゆれて光っています。」

園丁は主人から刃物を研いで貰うように預かってきてくれました。

研ぎ師は、研ぎ始めます。

「そのあとで陽が又ふっと消え、風が吹き、キャラコの洋傘はさびしくゆれます。」
「鋼砥(ダイヤモンド砥石のこと)の上で金剛砂(ダイヤモンド)がぢゃりぢゃり云ひチュウリップはぷらぷらゆれ、陽が又降って赤い花は光ります。」
「そこで砥石に水が張られすっすと拂ハラはれ、秋の香魚(アユ)の腹にあるやうな青い紋がもう刃物の鋼にあらはれました。
 ひばりはいつか空にのぼって行ってチーチクチーチクやり出します。高い處トコロで風がどんどん吹きはじめ雲はだんだん融トけて行っていつかすっかり明るくなり、太陽は少しの午睡のあとのやうにどこか青くぼんやりかすんではゐますが、たしかにかがやく五月のひるすぎを拵コシラへました。」

賢治がキリスト教に親近感を抱いた理由

 賢治が死の前年に発表した詩「花鳥図譜・七月・」の一節

「 ・・・・・・・・・・
 (ははあ、あいつは翡翠カハセミだ
  かはせみさ、めだまの赤い
あゝミチア、今日もずいぶん暑いねえ)
  (なによミチアって)
(あいつの名だよ
 ミの字はせなかの滑ナメらかさ
ミの字はせなかのなめらかさ
チの字はくちの尖ったぐあひ
アの字はつまり[愛称]だな)
(マリアのアの字も愛称なの)
(ははあ、来たな
 聖母はしかくののしりて
降誕祭クリスマスをば待ちたまふ…)
(クリスマスなら毎日あるわ
 受難日だって毎日あるわ
あたらしいクリストは
千人だってきかないから
万人だってきかないから)
(ははあ、こいつはどうも…)
  まだ魚狗カハセミはじっとして
川の青さをにらんでゐます
・・・・・・・・    」

 在りし日の妹トシとの会話であろうか。

トシは、キリスト教系の大学で学んだ。

賢治自身も、盛岡の教会に足繁く通ったそうだ。

「銀河鉄道の夜」にも、十字架の立つ駅があり、キリスト教徒らしき死者たちが降りる。

「ああそのときでした。見えない天の川のずうっと川下に青や橙や、もうあらゆる光でちりばめられた十字架が、まるで一本の木とでもいふ風に川の中から立ってかがやき、その上には青じろい雲がまるい環になって後光のやうにかかってゐるのでした。汽車の中がまるでざわざわしました。みんなあの北の十字架のときのやうにまっすぐに立ってお祈りをはじめました。・・・・・。「ハレルヤ、ハレルヤ。」明るくたのしくみんなの声はひびき、・・・・・・、汽車はだんだんゆるやかになり、たうたう十字架のちょうどま向かひに行ってすっかりとまりました。「さあ、下りるんですよ。」青年は男の子の手をひき姉は自分のえりや・・・」(S33年版全集より)

家庭教師の青年と教え子の姉弟は、タイタニックの沈没の時、他の人にボートの席を譲って死んだ人たちらしい。だから、クリスチャンなのだろう。

賢治はバタ臭い西洋かぶれ、西洋趣味があると言われる。

それだけだろうか。

賢治の生家の宗教、浄土真宗の熱心な信者で、幼い賢治の面倒をよく見てくれた叔母ヤギは、子守唄のように「正信偈」「白骨の御文章」を唱トナえて聞かせたという。


「白骨の御文章」(http://blog.goo.ne.jp/guyfawkes/からお借りしました。)

「それ、人間の浮生(ふしょう)なる相(そう)をつらつら観(かん)ずるに、おほよそはかなきものはこの世の始中終(しちゅうじゅう)、幻(まぼろし)のごとくなる一期(いちご)なり。されば、いまだ万歳(まんざい)の人身(にんじん)を受けたりといふことを聞かず。一生過ぎやすし。今に至りて誰(たれ)か百年の形体(ぎょうたい)を保つべきや。我や先、人や先、今日とも知らず、明日(あす)とも知らず。遅れ先だつ人は本(もと)の雫(しずく)末(すえ)の露よりも繁(しげ)しといへり。されば、朝(あした)には紅顔(こうがん)ありて夕(ゆうべ)には白骨(はっこつ)となれる身なり。すでに無常の風来(きた)りぬれば、すなはち二つのまなこたちまちに閉ぢ、一つの息ながく絶えぬれば、紅顔むなしく変じて桃李(とうり)のよそほひを失ひぬるときは、六親眷属(ろくしんけんぞく)集まりて嘆き悲しめども、さらにその甲斐(かい)あるべからず。・・・・・・」

 「されば、朝(あした)には紅顔(こうがん)ありて夕(ゆうべ)には白骨(はっこつ)となれる身なり。」釈迦仏教の教えにもある人の世の無常の真実です。

本来、この教え自体は、現代の僕たちから見ても、とても進んだ人間観に基づいているものなのですが、この御文章の出だしだけを聞くと何か抹香臭い感じがします。

「ハレルヤ」とか「マリア」とかの言葉の響きの方が新しさを感じさせたかもしれない。

そして、キリスト教会には賛美歌という武器がある。

でも、それが賢治を魅了したのだろうか?

現在の僕たちから見れば、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と称えるのも、「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」と称えるのも、「ハレルヤ、ハレルヤ」と称えるのも、大して違いはないと思います。

「花鳥図譜・七月・」の会話を読むと、救世主の誕生とともに、キリストの受難日のことがでてくる。

 「クリスマスなら毎日あるわ
 受難日だって毎日あるわ
あたらしいクリストは
千人だってきかないから
万人だってきかないから」

 トシの口を借りて、こう言わせている。本当にトシがそう言ったのかもしれない。

トシも賢治同様、キリスト教と法華経を学んでいた。

キリスト教に無知な僕にとっては、このくだりはまことに唐突に感じる。

何でいきなり受難日なんだっていう感じです。

キリスト教の神は、一見浄土真宗の阿弥陀仏と似たような救済主に見えるが、キリスト教は、イエス・キリストの受難によって、人々の救済を約束したという別な面を持っている。

 ここで、僕は、大乗仏教の菩薩を思い出すのです。

賢治とトシは、受難といえば、キリストと菩薩を同時に思い出したのではないかと気づいたのです。

賢治の作品には、この菩薩の考え方がたくさんでてきます。

自分の成仏(大乗仏教の共通の目標、最終的に、釈迦の悟りと同じ境地、仏になること)は、他人を成仏させることで成就するという思想です。

大乗仏教の理想、一度に皆を救済する大きな乗物(マハーヤーナ)に、人々を導くのは菩薩です。

ブドリのように自分の身を犠牲にしてもみんなの幸せを願うという生き方が菩薩の在り方です。

本当のみんなの幸せの実現のためには、毎日千人もの万人もの菩薩が現われて、その身を犠牲にしてでも、人々の幸せを目指す。

本当の皆の幸せのためには、「億の巨匠が並んで生まれ」る必要があると同時に、「毎日千人もの万人もの」菩薩がその身を犠牲にすることを厭わず邁進する、そんな世界の到来を心に描き続けていたのだろう。

僕の理想は、釈迦仏教と賢治の仏教の融合だ。

しかし、僕にはまだまだ、分からないことが多すぎる。

賢治の理想は、はなはだ難しい。

僕の理想はもっと難しい。

現代は電燈はむやみやたらと沢山有るのだが、「本当のひかり」が少ない。

冷たいひかりばっかりなのかもしれない。

大乗の理想 賢治の目標

 「農民芸術概論綱要  序論」より

 「・・・・・・・・

世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない

自我の意識は個人から集団社会宇宙へと次第に進化する

この方向は古い聖者の踏みまた教へた道ではないか

新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある

  ・・・・・・・・・・・              」

ここに述べられている思想は、古代インドに大乗仏教が興起したころ、その運動の中心メンバーたちが共有した、思想史における歴史的転換の証拠を受け継いだ賢治の思想の一端であります。

古代インドの場合、まず、釈迦が登場する少し前から自由思想家と呼ばれる人たちが、それまで古代インドを支配していたバラモン主義(バラモン教)に代わる新しい思想を模索していた。

バラモン主義の特徴は、神の恩寵を求めて個々人が多大な費用を掛けて(神への捧げ物をして)、盛大に祭祀を行うことだった。

願い事をする個々人のその願いを神に伝え、神の恩寵を引き出すことが出来るのは、バラモンと呼ばれる身分階級(血統でもある)のみであった。

つまり、バラモン主義の特徴を要約すれば、まず神がある。その神の恩寵は個々人が個々に願うものであり、また、バラモン身分階級(血統)だけが神と会話可能であるとする身分制度を前提としていた。

この階級は、現在の日本のように努力や能力次第で伸し上がれるものではなかった。

血統が唯一であった。

バラモン以外の家系に生まれれば、絶対にバラモンにはなれなかった。

まず、自由思想家たちが、このバラモン至上主義を突き崩していった。

彼ら自由思想家たちは、古代インド人の最高の目標であった解脱(悟り)を達成する道を幾つも見つけ実践し始めていた。

自由思想家たちは沙門と呼ばれていた。

彼ら沙門たちによって、バラモン主義以外の思想が登場し、バラモンが独占する祭祀によらずに人々の願いを叶える道が示された。

 つまり、神から人間を解き放ったのだ。

そういう沙門の思想を完成したのが釈迦であるとも言えるし、そういう沙門たちの一人が釈迦であるとも言える。

おいおい、そんな簡単な説明じゃひとつも分からないよって言いたいだろうけど、今は、我慢してね。

釈迦は、釈迦の教えに従って修行すれば、誰でも同じ目標に到達できると説いた。

これが釈迦仏教ですね。

さとりを開いた釈迦の出現によって、バラモン主義は理論的には完全に打ち破られた。

つまり、釈迦は、祭祀が無意味なものであることと、バラモンだけが神と会話できるという身分的な特権を無意味なものであること、神に頼らずに解脱に到れることを自ら実証して見せたのです。

 驚くことに、釈迦は、神中心の原理から、人間中心の原理へと考え方を転換し、実際にその原理に基づいて自ら解脱を成し遂げ、釈迦の人間原理の正しさを実証して見せた。

 それだけに当時の人たちにとっては理解の難しい、またそれ以上に実践の難しい理論であった。

 その難しさは現代人にとっても同じである。理解も実践も難しい。

釈迦仏教は個人が出家して修行することによって解脱(悟り)を得ることが出来るとしていますから、個々人が個々に為すことであるという考え方はバラモン主義と変わらなかったのです。

むしろ、後に賢治が「世界がぜんたい幸福にならないうちは」と主張するような考え方には思い至らなかっただろうと思います。

その根拠は、釈迦仏教の教えのなかにあります。

一言で言えば出家主義です。

そして、釈迦の根本思想、「解脱」の仕組みにあります。

「解脱」は、常識を根底から覆す、「五蘊非我」の悟りと、人間の根源的本能的な種々の欲望(無知に基づく執著=妄執)に気づき、それを根本から除き去ることによって達成されると教えます。

しかし、この教えは、結婚や家庭生活、芸術や遊び、豊かな生活というような、ごく当たり前だと考えている人としての幸せを全て否定するものなのです。

まとめると、釈迦の教えはバラモン主義の不合理な祭祀万能主義とバラモン身分階級の絶対性を打ち破りましたが、その教えは世間一般の人々が実践するにはあまりに困難なものでした。

一切を捨てなければ釈迦仏教を実践できなかったのです。

一切を捨てて、個々に修行しなければならなかったのです。

一方バラモン主義は完全に敗退し、消滅してしまったのかというと、そんなことはありません。

そもそも、沙門たちやその沙門の一人・釈迦は、いわば、当時の最高級の知識人です。

おそらく、博覧強記の人々だったでしょう。

今も昔も、人々は二種類に分かれます。

社会をリードする一部の知識人とその他大勢の一般庶民です。

当時の知識人の多くは都市(王城を中心とした)に住み、一般庶民とは農民などです。

一般農民は保守的で、伝統的な宗教観を簡単に切り替えられません。

今でも、日本人の多くは、意味も分からずに、巨大な石の柱を、亡くなった親族の遺骨の上に載せていますよね。

バラモン主義は、こういう一般庶民を引き込んで復活しました。

ヒンヅー教の誕生です。

あるいは、バラモン主義を発展させた哲学の勃興です。

バラモン主義は、相変わらず神を立てます。

人々が神を信じ、真剣に願えば、神は、人々の願いに必ず応えてくれると説きました。

ヒンヅー教は巧みに仏教の考え方の善い点も取り込んだとされます。

ヒンヅーの神は、個々人の願いに個々に応えるという基本は変わりません。

一般庶民には取り付き難い釈迦仏教と、隆盛していくヒンヅー教の板ばさみの中、釈迦の教えに惹かれる人たちの間で模索が続きます。

そしてついに、思想の大転換が訪れました。

個々に願い、祭祀や巨額の捧げ物に頼ったり、人間的な生活を否定して修行で一生を過ごしたりすることなく、人が幸せになる道を発見したのです。

思想を構築したと言ったほうが良いでしょう。

釈迦の教えを発展させるような形で、人々を一気に救済する道を考案したのです。

それまでの個々に為す願いや修行に代わって、一遍に人々を救済できる道の登場です。

この道を考案した思想家たちは、自分たちの思想(道)のことを、みんな一遍に救済できる大きな乗物だという意味で、マハーヤーナ(大乗)と自称し、それまでの釈迦仏教や部派仏教を、個々人しか乗せられない小さな乗物すなわち、ヒーナヤーナ(小乗)と呼んで貶しました。

僕の考えでは、大乗の思想家たちは、釈迦仏教・部派仏教だけじゃなく、これまでのあらゆる宗教・哲学をこのヒーナヤーナの仲間だと考えていたと思います。

最澄や空海、日蓮の遠い祖師たち、そして、当然冒頭の主張をした賢治の祖師たちでもあるこれら大乗の思想家たちの、この新しい考え方は、次第に発展していきます。

はじめは、根性の悪い、業の深い奴はどうしても救いようがないと考えられていたのが、親鸞に到れば、救われない者が居なくなったのです。

一遍にといっても、はじめは、人々の願いが大切だとされました。

やがて、人々はもともと救われている(目標とする仏ホトケになる資質を皆が具えている)という思想に発展し、最後には、宇宙そのものを救済主としてしまい、人々はその救済主と本当は一体なんだという考え方にまで発展します。

空海の思想がそうだと思います。

最澄や日蓮の思想も似たようなものだと思う。

賢治の思想の根底にもそういう考え方があると思います。

問題は、こういう経過を辿って発展してきた思想が果たして現代にも通用するかどうかということです。

地獄と修羅(修羅異考)


 賢治が修羅だったとしたら、僕はもうずっと前から地獄にいる。

賢治は、確かに種々の想いで自分を呪縛していたろう。

そうして修羅が出現したのかもしれない。

 だが、少なくとも賢治は己オノレを地獄にまでは堕オトさなかった。

後に賢治は、自分が「慢(自分の能力を過信し奢オゴり、そのために道を外すこと)であった」と反省し、これを手紙で友人に語っている。

「春と修羅」の修羅は、唾し歯軋りしながらも、「序」で決意したことを実行する自信に満ちていたようだ。

いや、「春と修羅」所収の詩を読む読者は、修羅であるはずの賢治がいつも唾し歯軋りしていないことにすぐ気づく。

もちろん、地獄の気配はまったくない。

「屈折率」は、賢治の踏み込んだ道の険しさを暗示するが、その道に立ったのは地獄の獄卒に引き立てられた結果ではなく、己の意思によってであるということもすぐに了解できる。

賢治の修羅は、いつもあらあらしいのではない。

期待して目指してきた「カーバイト倉庫」の電燈は、間近に見ると冷たく透き通っているけれども、ほのかな懐かしさを感じさせた。

「コバルト山地」で賢治は、行く手に希望があると言っているような気がする。

「ぬすびと」も、なにか暗い業のようなものを感じるが、それでも、オルゴールに恵まれている。

「春光呪詛」、題名はおどろおどろしいが、賢治は恋について語る余裕さえあるように見える。

「有明」で、賢治は未来の甘い甘露を味わったようだ。

これらの詩では、賢治は確かに自己を抑制しています。

しかし、これらの詩における賢治は、抑制してはいるが、修羅というより人間であったような気がします。

低く垂れ込めた暗い雲の下を、でこぼこの雪道を拾いながら俯き加減に歩いていた「屈折率」の賢治が、最後の詩「冬と銀河ステーション」では、何かうきうきしているようにも見えます。

銀河ステーションの遠方シグナルは、何故か赤く澱んでいますが、空は冷たいけれども青く、明るい感じです。

「パッセン大街道のひのきから
 しずくは燃えていちめんに降り
はねあがる青い枝や
紅玉やトパーズまたいろいろのスペクトルや
もうまるで市場のやうな盛んな取引です」

 これは暗い海のそこに居る修羅の暗い躍動感ではありません。

「生命」の生き生きとした、光に満ちた躍動感そのものです。

光は、はるかな高みに在るのではなく、賢治の周り一面に溢れています。

青い修羅は成仏したような気配です。

賢治は冬の銀河鉄道の中で、せいせいとした冷たさの中に、明るい未来を感じていたのでしょうか。

この頃の賢治は、親掛かりの独身者としては十分すぎるほどの収入もあり、伝聞資料によれば、いつも唾し歯軋りなどしていなかったようです。

友人嘉籐治と組んで結構青春を謳歌していたようにも感じられます。

嘉籐治と組んでレコードコンサートを開くと、若い知的な男女が集い、「屈折率」からは想像も出来ないような、明るい賢治が生き生きとレコードの解説をしていたとされます。

そういう賢治を慕う若い女性も居たとされます。

僕の地獄の毎日、文字通り地下深くまで落ち込んだ暗い孔の中とは大違いです。

僕の地獄とは違うが、地主や金貸し、肥料店、医者、古着屋、幾つかの店などのあちこちに返しきれないような借金をしている百姓たちも、これら獄卒どもに小突き回され引き回される、ある種の地獄に居たのでしょう。

小難しすぎる「春と修羅」。

修羅を意識する賢治と地獄を這い回る僕やそういう百姓たちとの深い溝。

唾するのは恐ろしい、歯軋りすることすら忘れているそういう地獄。

哲学・宗教・思想・科学は、人間を完全に説明出来てないし、解決も出来ていない


 ここまでで僕は、賢治の考えていたことを法華経とか日蓮・空海・最澄・親鸞というような宗教家との関わりから説明しようとしてきました。

読んでくれた方は、僕が、賢治の考え方を全面的に支持し、納得している、或いは、日蓮・空海・最澄・親鸞の考えで、僕ら人間の抱える問題が全て解決できると僕が信じていると思われると、これからの僕の議論を誤解して読んでしまうことになるので、ここで僕の立場をもう一度表明しておきます。

一言で言えば、表題に掲げたように、これまでのどの哲学者も、宗教家も、思想家も、科学者も、人間の抱えた難問をほとんど解決できていないと、僕は思っています。

僕はお釈迦様が、人間のある一面についての真理を発見したと信じ、尊敬しています。

その真理によって、人はある生き方が可能になりました。

しかし、人間の抱える全ての問題をお釈迦様が全て解決できたとは思っていません。

例えば、言葉を十分に理解できる年齢に達しないうちに、難病に冒され、短期日のうちに苦痛に喘ぎながら死ななければならなかった幼児と、そのご両親の「苦」は、お釈迦様の真理によっては救うことはできません。

幼児は、お釈迦様の教えを理解することが出来ないし、ましてや、修行することは絶対にできません。

そして、ご両親の悲しみを癒すことは、出来ないことはないのですが、そのためには、ご両親がある意味で、お釈迦様の説く「非情な」「真理」を受け入れなければならないのです。

お釈迦様の説く真理とは、僕たちの常識とかけ離れた、非情とも思える教えなのです。

たぶん、テーラワーダ諸国では、そういうやり方が行なわれていることでしょう。

お釈迦様の教えとは、一言で言えば、人間を捨て去ることです。

僕は、この教えは正しいと信じています。

しかし、正しいと言っても、絶対ではありません。

これだけが真理の全てだと断言は出来ないとも思っているのです。

お釈迦様の説く真理に生きるかどうかは、人が、生き方を選択できる、そういう選択の一つだと思います。

確かに、お釈迦様の教え(真理)は、その真理に生きようと決心した人にとっては、人間の不条理を説明できる真理です。

しかし、先に挙げた幼児の苦しみと死を解決する真理ではありません。

金融資本が世界を支配しつつあります。

こういう考え方も、人間が考え出した思想の一つでしょう。

このグローバルな思想の潮流は、人をどんどん押し流します。

その潮流に身を任せた人々がやっていることは、僕は、眼を覆いたくなるような行為だと思います。

日本をリードしている政界や財界の人たちが行なっているあらゆる不正は、唯単にその人たちの不正の糾弾だけで済まされず、その不正、その不正を誘発しているグローバル化の潮流が、世界中の紛争を招き、いたいけな幼児たちの苦しみを作り出しています。

この激しい悪という他ない潮流は、それに乗らない人々を極貧におとしめて脅迫します。

この潮流を押し止める哲学も思想も宗教も科学もありません。

お釈迦様は、そういう潮流そのものが人間に備わっている根源的な妄執の表れだと指摘します。

しかし、多くの人は、お釈迦様のそういう忠告に耳を貸しません。

宮沢賢治も、僕が上で述べたようなお釈迦様の教えは受け入れませんでした。

人間に食われる豚の立場も考えようとした賢治は、お釈迦様は、僕の説明したような真理を説いたとは考えなかったのです。

賢治が信じたお釈迦様の教えとは、法華経に説かれる真理です。

人間を捨ずに、人間のままで真理と一体になれると説いたと信じたのです。

お釈迦様は芸術を捨てるよう命じました。楽しい語らいも禁じたとされます。

賢治は、芸術こそ人を幸せに出来ると信じました。

しかし、芸術は人の空腹を満たすことは出来ません。

幼児の病を癒すことは出来ません。

だから、人間は新しい説明を新しい生き方を新しい方法を求め続けるのです。

僕は、人間はこれからもずっと常に新しい哲学を宗教を思想を科学を必要としていくと思います。

ずっと求め続けていく宿命だと思っています。

決して解決できない人間の問題を解決しようとして。

宮沢賢治がある信念をもって解決策を模索し続けたように。

人間の問題を綺麗に説明できる理論を求めて、人間の苦しみを解決してくれる方法を見つけるために、果てしなく努力し続けなければならないのです。

これが今現在の僕の立場です。

僕たちにほぼ確実なのは、感覚のみである


 あなたにとって絶対確実なモノあるいは、絶対確実なコトってなんですか?

2008.1.12の今日、ある銀行マンがあなたに、「我が銀行のこの商品(預金のこと)は、年利60%を確実に保障できます。」と言いました。

あなたはすぐに「これは確実だ。」と確信しますか?

僕だったら、一年後に元金とともに、確実に60%の利息を現金で手にした時に初めて「なるほどこれは確実だった。」と確認します。

ある神がかりの教祖があなたに「お前は明日必ず見目麗しい乙女と愛し合うことになる。」とカミのお告げを伝えました。

あなたはすぐに「これは確実だ。」と確信しますか?

僕だったら、一日待って、本当に見目麗しい女性と愛し合ってから初めて「うーん。なるほどこれは確実だった。」と喜びます。

あなたは、ノーベル賞を受賞した世界的に権威を認められたある物理学者が書いた本に「空間は重力でゆがむ。だから、その空間では光も曲がる。その理論的根拠は・・・・・だ。」と記述されているのを読みました。

あなたはすぐ「これは確実だ。」と確信しますか?

数学も物理も苦手な僕は、残念ながら、その学者の理論を理解できないので、「たぶん、世界中の有名な学者が支持しているんだから、確実なんだろう。」って思います。

この物理学者の理論を僕が信じる事、これが信仰の一種なんでしょうね。

現金を手にした(手で触り目で見て確かめることが出来た)、麗しい女性と愛し合えた(全身の感覚で確かめた)、これらは感覚で確かめたことで、僕にとってはこれ以上の確かなことはない。

しかし、太陽の重力で空間が歪んでいるなんて事は、僕の感覚では確かめようがない。

手取り足取り学者先生に指導してもらいながら、実際に望遠鏡で観測すれば、確認できないこともないかもしれないが、多分難しいだろう。

もっと難しいのは、宇宙の起源に関する仮説なんかの類タグイとか、光や電子の不可思議な性質(振る舞い)などだ。

この類の事柄になると、「なるほど、確かなことだ。」と言って、すぐにその観察結果や理論を共有できるのは比較的少数の知識人だけだろう。

僕を含めた他の大多数の人々は、そういう観察結果や理論を信じるしかないだろう。

なるほど、学校でうーんと噛み砕いて先生が教えてくれるでしょうが、それはあくまで易しく、分かりやすくした説明に過ぎません。

その説明を納得しただけでは、納得しただけで、本当に理解したことにはならないでしょう。

もし中学や高校の説明で完全に理解できるんだったら、大学教授なんていらなくなります。

そうでしょう。

おいおい、いくら自分が出来が悪いからって、そんな憂さ晴らししてどうなるってことでもないだろう、ですって。

はい、ご尤も。

そもそも僕たち人間にとっては、絶対確実なんてコトは有り得ないんだからね。

じゃあ、どうしてあんたは昨日も今日もこうやって生きていられるんだいって?

そうそうそれが僕たちにとって、頼りになる一番確かなことなんだよ。

今回のテーマは、賢治がどうして法華経や日蓮をあれほどまでに信じようとしたのかってことなんだ。

法華経がもっともらしく述べ立てているのは、実在したかどうかも曖昧な歴史上の釈迦や、法そのもの(ホントのところ何のことか分からないような)となった永遠の釈迦仏なんていう、正直意味不明のことがらばっかりなんだ。

(もちろん、僕にはもっともだと思えることも記述の中にはあるけれども)

賢治はある時から、どうやら表向きの根拠に日蓮を立てていたらしい。

日蓮の主張を信じようとしたらしい(あるいは、ほんとに信じたらしい)。

その証拠に日蓮が主張した、唱題(所を選ばず大声で南無妙法蓮華経と唱え続けること)を、故郷花巻で実行していますからね。

郷里の人たちにはこの賢治の行為は異常なものと受け止められ、この後、賢治は変人として見られ続け、賢治の企ての大きな障害になったともいわれる。

では、日蓮が当てになるということを賢治はどうやって確信したのか。

これが今日のテーマなんだ。

こういうテーマだから、へえ、どういうことなんかなぁ、なんていう好奇心の持ち合わせが無い時は、今日は、他を当たったほうが良いよ、きっと。

賢治の確信ってこんなことなんだって気づいたきっかけは、前に紹介したブログの記事を読んだことだ。

親鸞の話だ。

親鸞は、歎異抄で述べたような信仰を何時どうやって持てたのかなって疑問を持った。

ちょうど運良く手元に親鸞について説明してある概説書があった。

歎異抄に書いてある通りなら、親鸞は法然を信じた。(歎異抄 二)

その法然は中国浄土教の善導ゼンドウを信じた。

善導は、道綽ドウシャクに師事したという。

伝記によれば、二人の性格は相当違うらしい。

その話を信じれば、二人はとても魅力的な人物だ。

では、道綽は誰を・・・と遡っていくと、結局中国仏教の特徴である、「依拠する経典」に辿り着くことになることが分かった。

浄土三部経と言われる三つの経典だ。

 それぞれどの経典に重きを置いたかという点では相違があるらしいが。

 経典が根拠だっていうことを、親鸞自身が教行信証なんかで言っているらしい。

ここまでたどって、ふっと思ったんです。

じゃ、日蓮はどうなんだろうかって。

で、今度は日蓮の概説書を読んだ。

その本にたまたま、日蓮の有名な「立正安国論」の現代語訳が載っていた。

全部読んでみた。

驚いた。

日蓮は、天台大師(中国天台宗の確立者)の「五時の教判」を根拠にして、「立正安国論」を論じていたのだ。

日蓮は、中国天台宗の天台大師とともに、日本天台宗の開祖、伝教大師最澄を深く信じていたと言われる。

しかし、日蓮当時の日本天台宗は、日蓮の目から見れば頼りにならない状態だったらしく、批判している。

特に、法然の教説を激しく非難している。

その訳とは。

国の荒廃を招いたのは法然の教説が誤っていたため、日本を守護する神仏がすべて日本を見捨てたためだと日蓮は主張する。

すなわち、法然が説いた選択集センジャクシュウによって、浄土三部経の他に経なく、阿弥陀仏の他に仏なしと思わせ、尊い釈迦の教法を破棄してしまったからだと責めた。

そして、こう言う。

「『法華経』『涅槃経』の教えは、釈尊(釈迦)の一代五時の教学(教え)の中心眼目であり・・・」

なんと、これで日蓮は納得しているのであります。

これを信仰と言わずしてなんと言えましょう。

でも、よく考えてみれば、日蓮と僕の能力は比較にならないが、その信仰の形態においてはさほどの相違は無いように思うのです。

かたや強烈熱情で、こちらは冷めていますが。

そして、僕から見れば、日蓮の主張と法然の主張(実はまだ選択集読んでませんがね)は、全く軽重決め難しです。

賢治は恐らくこの「立正安国論」も読んだでしょう。

それでも、日蓮を信じたのです。

そういう面は、現代に通じにくい賢治の一面でしょう。

おい、妙なことになってきたな、とおっしゃいますね。

そうなんですよ。

話がどんどん逸ソれているんです。

あーぁ、だらだらと長げー話だなぁって向こう向いちゃいましたね。

確蟹。

字面がべたっと広がっているとそれだけでうんざりしますね。

どうかもう少しのご辛抱を。

さて、僕も今までそう思ってきたのですが、法然にしろ、親鸞にしろ、日蓮にしろ、賢治にしろ、共通しているのは、依拠の経典の記述を信頼していることなんですね。

法然・親鸞の経典は阿弥陀仏を、日蓮・賢治の経典は永遠の釈迦仏をまるで神のように仰いでいますね。

じゃぁ、神と同じなんだろうか?

どう思います。

僕はやっぱり違うと思うんです。

インドのバラモン教のブラフマン(梵)とかアートマン(我=永遠普遍のモノ)とも違うと思い始めています。

どこが違うのか。

歴史上の実在したと確信されているお釈迦様(釈迦)が、実際に「仏ブツ=ホトケ」になられたという事実(だと、後世皆が信じたこと)を根拠にしているという点なのです。

釈迦仏教とそれ以外の仏教のかすかな接点はこれなんだと僕は思うのです。

この釈迦が仏になったという事実は、経典(お経)で確認できると後世の人たちは考えたということです。

曖昧だといえば曖昧ですよね。

だから、こうすれば確実だといって色々な仏教を考案し、無数といって言いお経を書いたのでしょうね。

いろいろな学派が現われ、いろいろな宗派が立てられた理由もそこにあるでしょう。

そして、賢治は科学の方法でこれを確認しようとしたのではないか、と僕は考えているのです。

これってなんだ? って。

仏の存在ですよ。

「透明な幽霊の複合体」とはどういうことか?



 もともと、芸術的素質の無い僕にとっては、賢治の詩や短歌、文語詩の類は実に分かりにくいしろものです。

それでも、その文体に魅了されて、何とか分かりたいと思ってきました。

単なる執著に過ぎないのはよく分かっているのですが。

捨てきれない。

「春と修羅」の「序」に、表題の一行があります。

「わたくしといふ現象は
 仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといっしょに
せわしくせわしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
一つの青い照明です
(ひかりはたもち  その電燈は失はれ)」

 
何べんも何べんも読んだ詩です。

ここでも、賢治は科学の言葉で語り始め、その話を、宗教の言葉で引き取っています。

(あらゆる透明な幽霊の複合体)までが科学の言葉でしょう。

「わたくし」は、科学の言葉で表現すれば、有機体の現象であると仮定できるとします。

科学は、あらゆる現象を説明する時、「この現象は*****である」と仮定します。

そして、その仮定を証明しようとします。

ある仮説は、証明されます。

しかし、その証明というのは、ほとんどの人が「間違いない。確かにその通りだ」と言明するだけのことであって、絶対とかいう保障はない。

唯、人間の知りうる限りにおいて、どうしてもそう思うほか無いというに過ぎないのだとも言えます。

科学が説明してきた事柄(仮定し、その仮説を証明してきたこと)は、実は、人間だけに通じるものであって、人間以外のモノは違った理論を立てているかもしれない。

端的に言えば、人間がいなくなれば、人間が立てた理論はすべて無となる。

人間全部がいなくならなくても、このことは事実なのです。

多くの過去の文化・文明が、それを作り上げ保持していた人々が居なくなれば、もう他の誰にも分からなくなり、唯、意味不明のものが存在するだけになってしまうのです。

また、真理といわれるものも、前回述べたように、永遠ではないのです。

それは、人間には、あまりにも大きな限界があるからです。

科学的に言えば、「わたくし」は、「有機体」だということになります。

科学的にはその通りなのでしょう。

賢治の信仰によれば、人間は明滅していますから、交流です。

これは、刹那滅という考え方を賢治が応用したのだ説明されています。

「刹那滅」という考え方は、インド部派仏教あたりからはっきりと主張されるようになった考え方です。

刹那滅」のこれ以上の説明は省略します。

更に、賢治の信仰によれば、人間はひかり(本源の法)によって存在するものですから、大元の「ひかり」の末輩として、人間を「電燈」に喩えることが出来ます。

つまり、前回出てきた、

「生もこれ妙法の生
  死もこれ妙法の死」

 という考え方です。

「ひかり」とは何なのか?

もう一度言えば、 前回までにお話ししてきたように、「ひかり」とは、本源の法の現われのことです。

真理に形態は無いから、さまざまな現象として現われのです。

ちょっと待ってよ、それって何のことだと言いたいでしょう。

そうなんですよ。

宗教のいうことは、ここがイマイチ分かりづらいんです。

科学だって、約束事の積み重ねだと言えば言えるのですがね。

そう、例えば、光(電磁波)がどうしてあるんだって、言われても、あるってことを前提にしているだけなんですって言う他ないみたいなんですよ。

大乗仏教の多くが、今かかわっているもので言えば、日蓮宗、日本真言宗、日本天台宗、日本華厳宗なんかは、こういう法(真理の具現化したもの)を信じていて、あらゆる生き物はその法とかかわるものだと考えているようなのです。

簡単に言えば、そういうものなのだと今のところは納得してもらう他ありません。

科学と違うのは、科学で言うところの光(電磁波)は、確かに観測して確認することが出来ます。

光(電磁波)が有るということは皆が認められるのです。

ところが、日蓮宗や日本真言宗の言うこところの「法」としての「ひかり」は、確認できません。

観測できないのです。

賢治は、その観測方法を何とか見つけたかったのだと前回までの説明で僕が言いました。

今は、確かに観測できないけれども、だからと言って、絶対にこれからも観測できない。

無いんだと言いきれないのだと、賢治は考えていたのでしょう。

だから、今は、光(電磁波)と同じ種類の概念として認めておきましょう。

そうしてもらわないと先に進めないのです。

納得できないのは分かっています。

仮定してください。

証明は誰かが後でやるでしょう。

「わたくし」ではなくて、「わたくしという現象」は「ひとつの青い照明です」

なんて静かな言葉なんでしょう。

「涅槃寂静」なんていう言葉が浮かんできます。

ひとつの照明は、しかし、なんとも不可思議なものですから、科学はその正体を説明できませんから、まるで幽霊です。

科学の言葉で説明する限り、光は光というしかないのです。

これは、上の説明で今僕がしたばかりですね。

科学は、ひかりは、光だと言うだけです。

分からないものは、説明できないものは、幽霊と言うしかない。

有機体を構成している分子、その分割したもの・原子、更にその分割したもの・・・。

当時は、これより先の分割ははっきりしていません。

さらにそれを分割したものは・・・?

これは、もう科学では認識できない、確認できない、観測できないもの。

そう、幽霊です。

あらゆる種類の(未確認のモノである)幽霊のような、原子の原子からなる有機体が、科学的記述でいう「わたくし」なのです。

「ひとつの青い照明」

ああ、なんて寂しい言葉だろう。

でもご安心を。

宗教(勿論、日蓮宗と法華経ですね)の言葉で言うと、宗教は、科学が知らない、有機体の構成要素のことを知っていますし、けっして「ひとつの青い照明」が孤独で無いことを知っていると、賢治は続けます。

「わたくし」という「照明」は、

「風景やみんなといっしょに
せわしくせわしく明滅しながら」

 と賢治は言います。

みんなと一緒なんだよと。

この考え方は、特に中国天台宗で確立して、日本天台宗に伝えられ、それを学んだ日蓮によって、日蓮宗でも採用しているそうです。

日蓮はとても日本天台宗の開祖・最澄を尊敬し、信頼していたとされます。

この考え方というのは、「一念三千」とか「十界互具」といわれるものです。

簡単に言えば、世界(宇宙)そのものである大きな意思・法(真理)によって、あらゆる存在は相互に連結している、ということです。

もっと簡単に言えばあらゆる存在は個であって同時に一つなんだということです。

要するに、一つなんです。

これ以上は後で勉強しましょうね。

よう分からん、って言ってますね。

はい。

正直僕もまだその深奥がよう分からんのですバイ。

アレー、それだとおかしいべぇ。

前に確か、賢治は孤独だったって言ってなかったかや。

はい。

確かに言いました。

賢治は神様だとあなた思ってます。

そんなことありませんよね。

だから、信念と現実はギャップがあるのです。

あなたは、どちらかが欠如したままですから、ギャップも無いので良かったですね。

賢治は信じて、確かめようとしていたのです。

その経過を「春と修羅」に記録したのです。

さて、科学の言葉で「わたくし」を説明すると、仮定から始める他なかったですね。

でも、釈迦仏教は「わたくし」に関して沈黙を保ちますが、中国天台や日本天台、日蓮宗、日本真言宗は能弁に語ります。

「わたくし」は「因果の法則」の結果なんだよと。

「法」が現象するとき、つまり「わたくし」が生成するときの法則は「因果」という法則によるのだと、賢治は説明します。

因果の法則は僕の苦手な理論でして、今回は、説明抜きです。

とにかく、賢治がはっきり言っているのは、科学は森羅万象について全部分かっていないので仮定をしたが、日蓮宗では、「わたくし」がどこからどうやって現われたか分かっているので、仮定なんかしませんと言明しています。

はっきりと「因果」なんだよと明言しています。

「因果」の法則で「わたくし」というひかり(照明)があるんだよというのです。

みんな分かっているのが、宗教家の強みですね。

ただし、弱みもあります。

科学が得意とし、現代で幅を利かせている観察によって確認できるという証明の仕方が、宗教では苦手なのです。

現段階の僕の理解では、最後の行、

「(ひかりはたもち  その電燈は失はれ)」

の、「ひかり」は、法ですね。

日蓮宗でも、日本真言宗でも、日本天台宗でも、法は永遠だとされています。

では、失われてしまった電燈とは何でしょうか?

日蓮宗のお経、妙法蓮華経によれば、仏教の開祖・お釈迦様その人です。

実在のお釈迦様は、今から約2500年以上前に80歳の生涯を生まれ故郷のカピラ城に近いクシナガラと言うところで、野天に衣(例の東南アジアのお坊さんの着ているでっかい風呂敷のような衣)を敷いて寝たまま禅定(瞑想)に入り、そのままお亡くなりになられました。

この80歳で亡くなられたお釈迦様が、失われた電燈のようです。

 エ、よく分からんぞって。

 法華経などでは、お釈迦様は主役じゃないんです。

 釈迦仏教のファンとしては情けない。

 なんと、お釈迦様は永遠の法の現象に過ぎないことになっているのです。

 永遠ですから、法はお釈迦様以前からあったんですね。

 もっとも、永遠の法とは、永遠のお釈迦様だとも言っていますからそれでもいいか。

 うーん、でも、勝手にお釈迦様を現象にしてしまって、やっぱりけしからん。

 そもそも、法というのは、お釈迦様がさとりを開いて獲得したから人間達にその存在が分かったんだぞ。

 僕にいわせれば、法が先じゃなくて、お釈迦様が先なんだけど。

釈迦仏教と賢治の仏教(新仏教かもしれません)



 また、「疾中」にある詩の後半部分の引用です。

「われわが身と外界とをしかく感じ  
 これらの物質諸種に働く
 その法則をわれと云ふ
 われ死して真空に帰するや  
 ふたたびわれと感ずるや
 ともにそこにあるは一の法則(因縁)のみ  
 その本原の法の名を妙法蓮華経と名づくといへり  
 そのこと人に菩提の心あるを以って菩薩を信ず
 菩薩を信ずる事を以って仏を信ず  
 諸仏無数億而も仏もまた法なり
 諸仏の本原の法これ妙法蓮華経なり
  帰命妙法蓮華経  
  生もこれ妙法の生
  死もこれ妙法の死
  今身より仏身に至るまでよく持ち奉る」

 この部分冒頭で賢治は、「その法則をわれと云ふ」と言っています。

僕はもちろん自分の由来を僕の父母とそれぞれの祖先であることしか知りません。

賢治は、「われ」すなわち「わたくし(自分)」がどこから来たかを知っていると言うのです。

どこから?

その答えがすぐ下にある、

「その本原の法の名を妙法蓮華経と名づくといへり」
「諸仏の本原の法これ妙法蓮華経なり」

 と言っているのがそれです。

本原の法(法華経に具現化されている宇宙に遍満する真理としての法)であると言うのです。

僕は信じられません。

申し訳ないが、とても今は、信じることが出来ません。

ここで、もっともらしく偉大は賢治菩薩は・・・なんて崇めるつもりは毛頭ありません。

ただ、とにかく、賢治はなにを信じたのかを読み取ろうとしているのです。

続けます。

まだ、ほんの表面的な理解でこの文章を書いています。

したがって、読みはまだまだ不十分でしょう。

日蓮宗の日蓮も真言密教の空海も浄土真宗の親鸞も天台法華の最澄も、まだまだ概説でしか知っていません。

分かったとは程遠いでしょう。

でも、僕は言いたい。

賢治は、自分を包むこの宇宙全体が、確かに本原の法そのものなんだということを確信したかった。

そのことを出来れば科学的に証明したかった。

 科学的という言い方が気に入らない方には、全ての人に「その通り」と認めてもらえるような証明の仕方を見つけて「本原の法」が本当に有ることを証明したかった、と言い換えましょう。

自分は、生物学的には、あるいは、生理学的には、父と母の遺伝子の混交によってこの世に誕生しただろう。

しかし、それは現時点での科学という学問で主張されていることであって、現時点では、皆が「その通り」と認めていることだが、「その通り」と言っているのは、現在の人だけであることも事実だと、賢治は言いたいようだ。

これは、「春と修羅」の「序」の主張にもあるとおりです。

西洋では、ホンのつい最近まで、キリスト教の教義に従い、皆は、地球の年齢は、わずか数千年だと信じ、生き物はすべて、神が創造したのだと信じていたのです。

中には熱狂的なキリストお宅が、今でも、そう信じています。

だから、更に数千年も後には、空にでっかい孔雀がいるだの、透明な足跡を見つけるだのという、途方も無い「予想」もあながち、大法螺だとは言えないよ、と賢治は言う。

そう言えるのであれば、

「生もこれ妙法の生
  死もこれ妙法の死」

 という考え方もありなのかな、それが賢治の宗教なのかなと思う。

「生」つまり、賢治という「われ」がどうしてどこから生成したのかと言うと、それは、妙法によるというのだ。

精子と卵子の融合で、「われ」が生まれたのではない。

本当は、妙法(妙法蓮華経=宇宙に遍満する真理)の働きだというのだ。

当然、死も妙法の働きそのものであり、妙法=真理から現象した「われ」がふたたび、妙法に一体化するのだろう。

全ての存在とか現象といわれるものは、すべて、妙法に由来するという考え方なのではないか、と今現在は思う。

もし、こういう考え方を本気で出来るなら、それは確かに幸せなことでしょう。

あんまり使いたくない言葉なんですが、譬えようも無いほど大きな信頼できるものに抱擁され、一体になれるんであれば。

絶対的なモノとの一体化。

では、釈迦仏教とはどう違うのか?

僕の浅い理解で言うことですから、信頼性が心配ですが。

釈迦仏教では、賢治の言うような宇宙に遍満する真理、或いは、その真理の具現化したモノというようなものについては一切言及していません。

むしろ、そういう考え方自体を間違った考え方として退けていると思っています。

頼るべきは自己のみ。

釈迦の教えをよくよく考え、自ら確かめ、検証し、確認し、徹底的に納得してその果てに、あらゆる束縛からの解放を獲得する。

そうなった時には、もはや、生も死も、愛も、恋人も、家族も、財産も、一切のものに対する愛着がなくなっている。

僕には、そういう境地は今のところ全く分からない。

漠然と想像するのが関の山。

でも、その境地に至るまでは、僕は、虚無の只中に漂う他無い。

どっちがいいだろう。

今の僕には、どっちもよく分からないから、その答えは出せない。

春と修羅における第四次延長は相対性原理のことではない  1


 相対性理論。四次元時空。そして、アインシュタイン。

ああ、なんて素敵な響きなんだ。

最後のは幾つか文字を入れ替えると、コミックになっちゃうけど。

いかん。真面目にいきます。

僕がホントに久方ぶりにこのブログを再開したのにはあるきっかけがあると前に言いました。

それは、ある方のブログの記事なんです。

そのブログとは、magagiokというネームの方のものです。

主として、釈迦仏教特にスッタニパータ(にはまったと本人が言っております)と、オーディオのアンプをテーマにしているブログです。

URLは、

http://blogs.yahoo.co.jp/magagiok

magagiokさんの比較的最近の記事で法然、親鸞、空海を論じているのを読んで触発され、それらの祖師に関する本を読みました。

それまでの僕は,magagiokさんと同じように、原始仏教(釈迦仏教)中心に勉強していました。

magagiokさんとの出会いも、釈迦仏教に関わるものでした。

僕はあまり、日本仏教に興味がなかったのです。

だから、日本仏教はほとんど勉強していないので、分からなかった。

ところが、賢治は日蓮宗ですから日本仏教です。

釈迦仏教を学習して得た知識で、賢治の作品を読んでも、なかなか納得のいく様な理解が出来ませんでした。

相対性原理(恥ずかしいのですが、まだ勉強中で、理解不足です)、アインシュタイン、ミンコフスキー(の四次元時空)、これらも数式を抜きにして勉強したのですが、やはり、いまいち納得できません。

賢治研究者の説明もいまいちでした。

そして、ホントについ最近、magagiokさんのブログに触発されたのです。

閃いたのです。

親鸞、日蓮、空海についての概説書を読んでいて、ホントに閃いたのです。

それらの本には、賢治の世界が同居しているかのようでした。

懐かしい考え方です。

そこには、修行とか救済とかいういわゆる宗教のあり方ではなく、何か広大なしかも意味ありげな世界が広がっていたのです。

「あ、これが第四次-延長の世界なのでは」と閃いたのです。

それで僕は、これまでの第四次延長に関する研究は、アプローチの仕方が間違っていたのではと思ったのです。

第四次延長、何故、第四次に延長という言葉を付加したのか?

従来の賢治解釈の仕方(アプローチ)は、3通りあると思います。

一つが、賢治の作品をほぼ純粋に文学として鑑賞するというアプローチの仕方です。

二つ目が、賢治の宗教家という一面に重点を置いて、その作品を宗教的な文学として扱い、解釈をしているアプローチの仕方です。

三つ目が、特に詩に多く見られる科学用語に着目して、科学知識を駆使して解釈鑑賞しようとするアプローチの仕方です。

これらのアプローチの仕方による解釈(説明)を読んできたわけですが、どうも納得の行く説明が得られませんでした。

賢治は宗教家例えば日蓮宗のお坊さんなどになりませんでした。

しかし、少なくとも保坂嘉内との出会い頃までに賢治は一つの道を心に秘めるようになっていたのではないか思うのです。

これは残された作品その他の資料からも窺えると思います。

そこで賢治の作品を文学として読むのでなく、思想の表現として、特に、宗教をきわめて重視した思想として読んでいくというアプローチの仕方にするのです。

賢治はその理想を、宗教と科学によって実現しようとしていたと思います。

何を今更、と言いましたね。

はい。その通りです。

でも、その今更なんですが、今までは一貫性がなく、読みが中途半端だったと僕は思います。

賢治は、実験や観察という科学の手段を重んじますが、科学がすべてを解決するとは言っていないと思いませんか?

ブドリが身を犠牲にして、一時イットキの幸せを近在の人々にもたらすことが出来ました。

しかし、ブドリの犠牲で、人々の永遠(ほんとう)の幸せが実現できたという風には言われていませんよね。

「その冬を・・・楽しく暮らすことが出来たのでした。」

しかし、ジョバンニはそうではありません。

賢治はジョバンニに、そういうやり方させようとしていないような気がします。

はっきりと提示はされませんでしたが、科学の方法を用いて、別な何かを為さなければならない(みんなの本当のさいわいをさがすこと)と決意して一散に丘を駆け下りて行ったのです。

「僕はきっと・・・。きっとほんとうの幸福を求めます。」(S33年版全集)

科学は冷たく暗いと農民芸術概論で賢治は言っています。

宗教は疲れていると言っています。

ブドリの犠牲に代表される科学は、賢治に限界を感じさせたのではないでしょうか。(科学は冷たい・・・)

そして、ジョバンニが胸に抱いたものこそ、人々の未来を幸せにするのもだと確信していたのではないでしょうか。

疲れた宗教を捨てて新しい宗教を求めるか、疲れた宗教を立て直すかする方向こそが、本当の幸せを人々にもたらすと考えたのではないでしょうか。

遺言でも、賢治は「法華経」を人々に残そうとしました。

「科学本論」ではありません。

「相対性原理」でもありません。

すぐに論証できませんが、「春と修羅」の序で賢治が言った「第四時延長」とは、僕たちが見ている常識的な世界(この世界は科学の観測・研究の対象とされてきた)ではなく、法の世界(前回説明した)のことを言っているのでは無いかなぁ、というのが僕の新しい発見なのです。

賢治は、この法の世界の一部を見た(知った)と確信していたふしがあります。

その実在を信じていたらしいのです。

そこで、心象スケッチでその世界の日常を(法の世界の有り様ですから、僕なんかには全く見得ません)記録しておいて、いずれかならず、この記録された法の世界の実在を科学的な方法で証明してみたいと思っていたのではないでしょうか。

だって、考えてみてください。

アインシュタインの相対性原理の世界というのは、今の科学で観測可能なつまり能力が有ればという限定つきですが、誰でも見ることの出来る世界、僕らの日常の世界ですよね。

アインシュタインたちは、その日常の世界を”正しく”見る見方を示したものでしょう。

その見方では、今のところは、法の世界が見えるようにはならないでしょう。

だが、賢治はどうしても、日蓮が信じ、見たかもしれない、空海が信じ見たかもしれない、人々の本当の幸せに至る法の世界をどうしてもはっきりさせたかった。

その世界は、賢治にとっては、確かにすぐ傍にあると感じられたのでしょう。

僕たちの日常的な感覚だけでは、アインシュタインが示したような世界の見え方は出来ません。

アインシュタインが相対性理論で示したのは、そして、賢治に強烈な刺激となったのは、方法さえ確立すれば、世界の本当の姿が見えるのだという事実だったのではないでしょうか。

その方法に至る手がかりが「心象スケッチ」だと、賢治は信じた。

第四次延長とは、法の世界を科学的な方法で確認するためのアプローチの仕方を示す言葉なのではないか。

つまり、賢治は相対性理論で法の世界を見ようとしたのではなくて、第四次延長という考え方でアプローチしようとしたのではないかということです。

賢治にとって本当に必要な理論は、相対性理論ではなくて、賢治自身が模索していた第四次延長の理論だったのではないでしょうか。

まだヒラメキの段階です。

ジョバンニの話 Part 5 ジョバンニの実験とブドリの犠牲で実現する世界

 皆さんは本当に宗教嫌いですね。

ま、そういう僕だって賢治に出会わなければ、宗教(私の場合は釈迦)に、こんなにいつまでもかかずらう事はなかったでしょうからね。

このブログを覗きにこられたほとんどの皆さんは、僕の「21世紀のための新仏教分類表」、チラッと見ただけでプイッとしましたね。

「こんなの関係ねぇ、こんなの関係ねぇ。オッパッピーッ。」ですか。

現代のような混沌そのものの時代に身をおいたんでは、よほどの洞察力と信念がなければ、賢治の孤独は発見できないし、ましてや、深遠な真理の世界(といっても神秘的ではないですよ)を垣間見ることなんて無理でしょう。

あなたは、賢治のファンタジーとか美しい叙情とか清浄な人間愛とかには共感できるんでしょう。

このブログにこられたのも、賢治というキーワードを見つけたからでしょうから。

賢治が法華経(妙法蓮華経)と日蓮を熱烈に信仰していたことぐらいは知っていましたよね。

でも、日蓮が崖の突端に仁王立ちになって、天に向かって神々に大声で何事か喚き続けていたことなんかは知らないでしょう。

バカじゃねぇのって思いますか?

それが現代のあなたです。

賢治も実は日蓮と同じようなことをしていたらしいですよ。

「春と修羅」(これは詩集の題名じゃなくて、詩の方です。)にこんな”くだり”があります。

「まことのことばはうしなはれ
  雲はちぎれてそらをとぶ
  ああかがやきの四月の底を
はぎしり燃えてゆききする
おれは一人の修羅なのだ      
(玉髄の雲がながれて
どこで啼くその春の鳥)
  日輪青くかげろへば
修羅は樹林に交響し   
陥りくらむ天の椀から
黒い木の群落が延び
その枝はかなしくしげり
すべて二重の風景を
喪神の森の梢から
ひらめいてとびたつからす    」
  (字下げがうまくいかないので、こういうように表記します。詩集の表記とは違います)

 おいおい、例の「疾中」の詩の解説はどうしたんだって怒ってますね。

まあまあ。

上の「春と修羅」の一部をゆっくり読んで下さい。

修羅は賢治です。

当たり前だって言いましたね。

では、修羅はどうして怒りに身を燃やしているんでしょうね。

「恋」.......はぁ!

父、政次郎との確執を続けている自分、なかなか、理想の道へ踏み込めない自分の運命を呪いつつ、邪道に踏み込み(父と諍いをするという、しかも、その父から資金を貰うためにこびへつらいつまり諂曲してしまう)自分に対する怒りに身を燃やしているんです。

修羅は、宇宙(世界)の秩序を司る(天に居る)神に対して常に闘いを挑み続けている悪神とされます。

修羅は、普段は海の底にいます。

天に居る、世界の秩序の維持者、神とは、家庭を司る父すなわち政次郎です。

でも、吠える日蓮と較べると、賢治はちょと弱弱しいですね。

日蓮は、神々に対して敢然と要求をし続けたそうです。

神々が、日蓮の望みを叶えてくれるまで叫び続けたと言われます。

日蓮は自分の理想が正しいという太陽の熱のような信念を持っていたようです。

一寸気味悪いくらいですが。

賢治はその点なよなよしています。

歯軋りする、唾を吐くのがせいぜいで、挙句は、樹林との交歓(交響すること)で癒されようとします。

 あくまでも、叫び、喚き、要求するほどの激しさは、賢治にはなかった。

日蓮を超えられません。(僕の独断です。)

 こういう時あなたはどうするんですか?

 友達に怒りをぶつけますか。

 賢治も、友・嘉内に手紙でそうしましたね。

 お酒を飲みますか?

 賢治は幾つかの戒律を厳しく守っていたようです。

 お酒で紛らそうとはしなかったようですね。

 女友達を誘いますか?

 賢治は、そういうやり方で女性と付き合うことを避けていました。

 結局、自然の中に癒しを求めたのでしょう。

 ところで、この「くだり」には、賢治のもう一つの姿が浮き彫りにされていますね。

それは、この激しい感情をぶつけている”くだり”に挿入された以下の二行です。

   (玉髄の雲がながれて
どこで啼くその春の鳥)

日蓮の激情と較べて、どこか冷めていると感じます。

燃え滾タギっている時に、もう一人の自分が冷ややかに、空を眺め、鳥の囀りに耳を傾けているのです。

まるで、一人の人間ではないようです。

この解釈は、次に来る「二重の風景」とどうかかわるかは、まだ、僕には分かりません。

さて、「手紙 三」「(一九二九年二月)」「春と修羅」。これらを語る賢治の心の奥には、明確な「来るべき世界」「幸せをもたらす世界」がはっきりと存在していたのです。

科学と宗教が融合した世界、日蓮が信じた世界、従って賢治も信じた世界がはっきりと見えていたのです。

肉眼では見えないはずの世界を見ることが出来るのは、そういう世界(日蓮と賢治が共有し、実在を信じた世界)を認識し、感じ、共有することの出来る者である、というのが「手紙 三」。

「(一九二九年二月)」で、賢治が呟いていることが理解しにくいのは、「真空」という言葉にあるのだと前に言いました。

その「真空」を、私たちが仰ぎ見るというより、私たちが住んでいるこの天の川銀河を含むビッグバンで誕生した宇宙、科学理論で構成した宇宙空間の「真空」のことだと思うから分からないのではないかと考えました。

そうです。

普通の現代人にとっては、真空とは、宇宙空間に代表されるような、人間が観測可能なあらゆる物質が無い状態のことを指します。

しかし、日蓮や賢治はそういう意味での「真空」を考えているのではないようなのです。

分かりやすくくだいてしまえば、賢治の「真空」は、仏ホトケなのです。

「(一九二九年二月)」では、「法ホウ」と言っていますね。

「諸仏無数億而も仏もまた法なり
  諸仏の本原の法これ妙法蓮華経なり
  帰命妙法蓮華経  
  生もこれ妙法の生
  死もこれ妙法の死
  今身より仏身に至るまでよく持ち奉る」

 賢治の用語に従えば、宇宙は法そのものであり、それは、妙法蓮華経に具現化されているということになります。

そして、法は「真空」という言葉でも表現されるのです。

法=「真空」です。

だから、賢治は死んで後には、真空すなわち法と一体になるのです。

これじゃぁ、論理的な説明じゃないですよね。

他のほとんどの賢治解説者は、この説明で自己満足して終りにします。

放り出された読者は、歯軋りし唾を吐きます。

これが結論かよってね。

僕の結論は、まだまだ出ていません。

はるかはるか遠くにあります。

あるでしょう。

あってほしい。

原子や分子と真空の関係、納得できましたか?

「手紙 三」でいっている、普通の人には肉眼で見えないもの、しかし、「自分のこころを修めた」人なら、きっと見えるはずのもの、それが「法」であり、「真空」なのです。

こういう真空のことを「真空妙有」というのだと思います。

分かりましたか?

賢治にとっては、目の前の現実は、その本当の姿は普通の人の目には見えないが、「自分のこころを修めた」人には見える、ただ一つの真実、無限の広がりを持つ「法」の世界なのです。

この世界こそがこのセクションの表題にある「ジョバンニの実験とブドリの犠牲で実現する世界」なのだと考え始めたのが今の僕なのです。

このセクションはここまで。 

ジョバンニの話 Part 4 21世紀のための新仏教分類表

 では、まず、気を持たせないようにするために、賢治がどういう教判を受け入れていたか(逆に言うと縛られていたか)を、さきに言っておきます。

中国天台宗を確立した学僧、天台大師の学説を信じたと思います。

この学説を普通、五時の教判と言うようです。

五時の教判で最高のお経と判定されたのは、法華経です。

妙法蓮華経ですね。

日蓮がほぼ天台大師を信じていました。

日蓮と妙法蓮華経です。

どうです、すぐに賢治とつながったでしょう。

天台大師が妙法蓮華経をお経の中の最高位においた理由は、別のところで説明します。(今は、準備不足です。できたら、ここにリンクを設定します)

さて、この天台大師の学説は、日本に伝来します。

伝えたのは、日本天台宗の祖、伝教大師最澄です。

普通、日本天台宗は天台法華宗と言うようです。

理由はもちろん、妙法蓮華経を最高位のお経としていたからです。

賢治ファンの皆さんは、大正10年の上京事件をご存知ですね。

賢治は古着商、宮沢商店の長男として生まれたことも知っていますね。

この長男として生まれたということに、賢治が苦しんだことも。

花巻の父、政次郎は長男の家出に悩んだでしょう。

跡継ぎ息子なんですから。

いろいろあって、結局、父が上京し賢治と話し合ったようです。

そして、父は賢治を古都への旅に誘います。

折りしもこの年、比叡山にある天台法華宗の総本山では、伝教大師が亡くなって1100年後ということで、特別の行事を行なったそうです。

何で、仲直りの旅に古都を選んだのか。

その理由の一つが、大師滅後1100年の記念祭(遠忌)だったこともあるでしょう。

しかし、それと同時に、父にとっても子にとっても、大師のお寺がある比叡は、縁の深いところなのです。

父の宗教、浄土真宗の開祖親鸞も、子の宗教、日蓮宗の開祖日蓮もともに、比叡山のお寺(大学を兼ねる)で学んだのです。

いわば、親鸞と日蓮の本家筋のようなものですね。

では、簡単に、天台大師の五時の教判を表示します。

華厳時---お釈迦様がサトリの内容をそのまま説いた。華厳経。
阿含時---一番出来の悪い人たちに分かりやすく説いた。阿含経。
方等時---大乗の教えの内、大乗の長所を説いた。維摩経など。
般若時---大乗の根本理念、空を説いた。般若経など。
法華・涅槃時---最高のお経を説いた。妙法蓮華経(完全無欠なので円教とも)。
  涅槃時とは、お釈迦様が亡くなる前に説いたいわば遺言。涅槃経。

 ほんとに八万四千のお経を全部精読したのかどうか知りません。

とにかく、こういう風に分類をしたのだそうです。

気の遠くなるような研究ですね。

ホントに頭が下がります。

ただし、僕が、この学説に納得しているわけではありません。

ここんとこが、他の仏教概説書なんかと違うところです。

あくまでクールに考えます。

手放しの賢治礼賛も、お釈迦様礼賛もしません。

では、次に参考までに弘法大師空海の十段階説を紹介します。概説書の要約です。

そのあとで、勿体をつけておいて、僕の説を紹介します。

では、空海の学説です。

空海の学説は、人が真理を獲得する成長過程として考えたようです。

ですから、お釈迦様のお経だけでなく、道教やジャイナ教、インド哲学まで分類にいれています。

段階のことを住心と呼んで、住心(段階)が十あるので十住心と言います。

第一住心---獣のような段階。食って交尾する事しか考えていない。
第二住心---倫理的考え方の芽生えが見られる。いわゆる在家の段階。
第三住心---宗教に目覚める。仏教以外の諸宗教の段階。
第四住心---仏教の初歩段階。声聞となって自分ひとりのさとりを目指す。
第五住心---自分ひとりでサトリに至る。お釈迦様のお仲間。あくまで一人。
第六住心---大乗の教えの初歩。自分より他人を救おうとする。救えないものもあるとする。法相宗(唯識派)。
第七住心---大乗の教えの第二段階。空の教えを説く。三論宗(中観派)。
第八住心---生きとし生けるものが本来は浄らかである、もれなく救われる。天台法華宗。
第九住心---華厳経の説く世界。絶対真実の世界があることを説く。華厳宗。
第十住心---絶対真実の世界を実現する道を説く。真言宗(空海の宗派)。

まとめていて、だんだん分からなくなってきました。

第九住心までに、四つの宗派が出てきますが、これが空海当時の日本の主な宗派。

要するに、天台大師も弘法大師空海も、自分の宗派の教えとその根拠となるお経が最もすぐれたものだと主張しているわけです。

真言宗のお経は大日経と金剛経。

どうですか、教判。

そもそも無理やり理屈を作ってランク付けをしたようなものですから、僕には、本当はどの宗派の教判が正しいのかなんて分かりません。

大事なことは、賢治がどうして妙法蓮華経をあれほどまでに大切にしたのかという理由の一つが、この教判であったということなんです。

うーん。それにしてもあっさり簡単に信じたんでしょうかね。

では、最後に僕の教判。根拠は、ほぼ成立年代順です。

まず、大きく六つに分けます。

ー甓猜教
部派仏教
B臂菠教
 っ羚駟教
ツ鮮仏教
 ζ鐱槓教

 ー甓猜教---お釈迦様とその直弟子の時代まで。今は、伝承されていない。
   この頃の教えや修行法がどんなものだったかよく分からない。
部派仏教---お釈迦様滅後数十年後からの仏教。
   ア。インド部派仏教---滅亡した。経典の一部を残した。
イ。テーラワーダ仏教---スリランカ、東南アジアに存続。
  お釈迦様の教えに最も近いとされるアーガマ(阿含経)を伝承。
B臂菠教---紀元前後にインドで大乗経典を制作し、教団活動。
   ア。インド大乗仏教---滅亡した。
  A。初期インド大乗仏教
B。中観派仏教
C。唯識派仏教
  ここにインド禅が入るかも。
D。密教仏教
    イ。チベット仏教---インド大乗仏教系。今も盛ん。
 っ羚駟教---紀元前後から少しずつお経が伝わる。現在の状況は不明。
   南北朝から随唐の時代にかけて大乗仏教の諸宗派成立。
ア。中国天台宗
イ。中国三論宗(中観派)
ウ。中国地論宗
エ。中国法相宗(唯識派)
オ。中国華厳宗
カ。中国真言宗(密教)
キ。中国禅宗
コ。中国浄土教
サ。中国律宗
 ツ鮮仏教---日本にはじめて仏教を伝えた。
   存続しているようだが、詳しくは分からないので一括しておいた。
ζ鐱槓教---全部朝鮮・中国から伝わる。
   ア。日本三論宗
イ。日本法相宗
ウ。日本華厳宗
エ。日本真言宗
オ。日本天台宗
カ。日本禅宗
  A。臨済宗
B。曹洞宗
    キ。日本浄土教
  A。平安浄土教
B。浄土宗
C。浄土真宗
D。時宗
    ク。日蓮宗

 こんな一覧表何のために表示したんだと呆れ顔ですね。

どうですか。

一口に仏教というにはあまりに種類が多いでしょう。

僕の知る限り、釈迦仏教と大乗仏教諸派は、その教えが正反対と言っても良いくらいの違い方です。

ですから、「仏教」の二文字で簡単に表現するのは誤解を招くし、正しい理解を妨げると主張しているのです。

実際のところは、賢治は、法華経だけ勉強していたのではなく、日本仏教、中国仏教をあれこれ渉猟していたと思います。

とくに、天台大師に発する最澄や空海・日蓮の思想は、法華経や華厳経でつながり、教義も似たようなものであると思います。

ジョバンニの話 Part 3 僕の教相判釈(21世紀のための新仏教分類表)

 
今日のテーマを見て腹を立てる人が多いかと思います。

あれはどうなったんだ、あれはっ と気の短い年配の方。

「なんだ、あの、あれは、あーだな、ほれ、あれだ、あれはどうなっとるんだ。」

なんて言い方をし始めたらご用心ご用心。

脳梗塞ですよ。

はい。「手紙 三」と「(一九二九年二月)」の解説でございましょう。

それについては、もうちょっとお待ち下さい。

なに、ホントチョッとです。

と言いますのは、これから「仏教」という言葉を頻繁に使わなければならないのですが、「仏教」という言葉は実は語義が広うございまして、天動説と地動説ほどの違いがあるのです。

簡単にいえば、実に無責任な言葉なのです。

「仏教」君をかばいだてして言い訳すれば、実に便利でモノは言いよう、適当な使い方が出来るのです。

もちろん、そういう使い方をした場合、曖昧な「仏教」を含む文章は当然意味不明と言いますか、実に多義的な読みが可能となるのです。

そういう文章が大好きな方には大変重宝する言葉ですね。

僕も相当にいい加減で日和見者なんですが、事、この「仏教」の語義に関してはすぐムキになるのです。

理由は分かりません。多分に気まぐれがありそうです。

くだらない親父ギャグなんかだらだら楽しんでないで、教相判釈(教判)って何のことか説明しろっておっしゃいましたか。

はい。

これはですね、中国の学僧(お坊さんの学者さんですね)が苦悶苦闘の果てに打ち出した研究成果つまり学説のことなんです。

日本でも独自の教判を考案したお坊さんがいます。

弘法さん、つまり、弘法大師空海さんです。

「弘法さんの教判」という言い方は僕の独創です。一言お断りしておきます。

僕は、「仏教」という言葉は、天動説と地動説ほどに違う多義的な言葉だと言いました。

仏教というのは、お釈迦様の教えを信じる宗教だと皆さんお考えでしょう。

そのお釈迦様の教えを記述したものがお経だと言うこともご存知ですよね。

大体、お経と言うのは「お釈迦様が弟子の阿南にいつどこどこで教えを説きました。」というように、必ず、最初のところで、このお経はちゃんとお釈迦様が説いたんだよ、と断わり書きしているのです。

これは、いわばお墨付き(品質証明)なわけですね。

このお経に書いてあることは正真正銘、お釈迦様の説いた教えなんだぞって宣言しているわけです。

ところがこのお経に問題があるんです。

お経と言っても、一つや二つじゃないんです。

キリスト教なら、「旧約聖書」と「新約聖書」です。

イスラームなら、「クルアーン(コーラン)」です。

「仏教」はなんと八万四千(84000)もあるんだそうです。

はいー! でしょう。

有り難いというより、うんざりするような数字だと僕は思います。

これだけあれば中身が色々だったりしても不思議じゃないですよね。

たった一人のお釈迦様がそんなにたくさん書いたのかって。

いえいえ。

お釈迦様は一冊も書いていません。

お釈迦様は説きっぱなしです。

お釈迦様がインドとネパールの国境付近で生まれたことは知っていました?

それから、インド人の記憶力の異常なほどの凄さも知ってます?

実は、当時のインドでは、どの宗教でも、教えは暗記したんだそうです。

僕は、自慢じゃありませんが、頭脳ぼんやり、博覧ホンの一寸ですから、お釈迦様の弟子になったら苦労しましたね。

どうしてそういうことになったのか?

実は、お釈迦様の教えが文字になったのはお釈迦様が亡くなった相当後のことらしいんです。

どのくらい後かと言いますと、少なくとも300年は後、それよりもっと後かもしれません。

どんな宗教だって、このくらい時間がたつと、内容つまり教義が時代に合わせて変化してしまいますよね。

「仏教」もそういう変化がおきたようなのです。

教義もどんどん多様化したようです。

その結果、天動説と地動説ほどの違いがでてしまったということです。

インドのお坊さん達は言い伝えなどでこういうことを知っていましたから、教判なんていう不思議な学説は必要性ゼロでした。

ありません。うーん、多分ないと思います。

ではなぜ中国の学僧さんたちは、教判を考案しなければならなかったのでしょう。

必要が発明の母だって言いますよね。

あれ、どこかおかしいかな。

皆さん、エジプト考古学の吉村先生はご存知ですよね。

吉村先生は、ピラミッドの謎を色々解明したそうです。

では、シャンポリオンという学者を知っていますか。

この学者さんが古代エジプト人の文字(絵文字)を解読したから、吉村先生も研究できるのです。

言い換えると、エジプト人はずっといたのに、ピラミッドなどに書かれた古代エジプト文字は誰も読めず、ピラミッドの意味も知らなかったのは何故かなんです。

それは、文化や文明のほとんどは、DNAでは遺伝できないからです。

師から弟子へと、親の世代から子の世代へと受け継いでいかないと絶滅してしまうのです。

インドでは、仏教がほぼ完全に滅亡するまでは、この師から弟子へという「仏教」の受け渡しが途切れませんでした。

ところが、中国には、幸か不幸か、お経だけが伝わったのです。

高度な文化国家であった中国の学者さんがどうしてもっと詳しくインドの「仏教」について調べなかったのかよく分からないのですが、兎に角、お経だけでお釈迦様の教えを身につけようとしたのです。

本来これは無茶苦茶なことですよね。

中国のお経は、勿論、漢文です。

インドのお経は、サンスクリット語とかパーリ語というインドの言葉です。

つまり、翻訳なんです。

翻訳したお経だけで「仏教」を身につけようとしたのです。

もし、キリスト教やイスラームのように、聖典(「仏教」でいうお経)が一冊とか二冊程度なら、それでも良いかも知れません。

いや、やっぱり駄目ですよね。

僕は、パーリ語から日本語に翻訳したお経を読んでいますが、翻訳をした訳者さんによって相当違う意味にしてしまうことがありそうなんです。

なによりも、お経に書いてあるお釈迦様の教えをどのように実践するのかという肝心なことがよく分からないようなのです。

さて、天動説と地動説が混交している無数と言っていいお経をどうすればいいのか。

ここから、中国学僧の苦闘と苦悶が始まるわけです。

そして、中国学僧は偉大な発明をしたのです。

内容の違うたくさんのお経があるのは、きっと、お釈迦様が何かワケがあって、わざと色々な教え方をしたに違いない。

お釈迦様は絶対ですから、お釈迦様に間違いがあるわけがない。

教えを説いた相手に問題があったんだろう。

相手に応じて、最も適する教えを説いたに違いない。

では、一番出来の悪い相手に説いたのはどのお経だろうか?

一番出来の良い相手に説いたのはどのお経だろうか?

こういう考え方で、お経の研究をしました。

いわば、お経のランク付けです。

人間の賢愚についてはお釈迦様も認めざるを得なかったようですから、お経にランク付けするのも止むを得ないと考えたのでしょうね。

ところが、人間というのは厄介なモノですね。

ある学僧が、これが最上のお経だと発表すると、他の学僧が、いやそうじゃない、これこそが最上だと主張したのです。

これこそ、お釈迦様が厳しく戒めた人間の欠点なのですが。

だから、教判は何種類も発表されたようです。

ナンダなんだ、この野郎。結局賢治にかこつけてお経の薀蓄なんか述べ立てやがってって言ってますね。

はい、はい。

もう一寸の辛抱ですよ。

結論です。

賢治を読もうとしたら、賢治はどの教判に従ったのか、つまり、どの「仏教」を信じていたのかを知る必要があるんですよってことです。

今までにさんざん聞かされていたでしょう。

賢治は法華経を信奉していた、法華の行者だなんて。

それであなたは、科学(者)の賢治がどうして法華経なんだ?

遺言が、法華経を皆さんにお届けするのが私の役目でした、なんて、どうして言い残したのかって、考えたことありませんでした?

ジョバンニの話 Part 2 突飛なお話し

賢治が、宗教と科学を融合させようとしていたらしいということは知っていますね。

 ジョバンニは賢治の分身ですし、もう確実な死を前にした賢治が夢を託そうとした次世代の賢治でもあります。

そしてカンパネルラは、賢治が道連れと信じた亡き妹トシと、道半ばで分かれることになってしまった青春時代の(過去の)道連れ、嘉内の分身でしょう。

ジョバンニは、幻想第四次から目覚めて現実に帰りますが、生き死に二つの別れをしてしまったカンパネルラは帰りません。

賢治の本当の孤独の始まりです。

ほぼ同じ頃に、賢治は辛い辛い二つの別れをしなければならなかったのです。

とてつもない夢の実現というはるか遠くまで続く道を一人で歩かなければならなくなったのです。

さて、第何次稿かで、博士が科学と宗教の融合の話をします。

不思議なんですが、賢治は宗教と科学を融合できると信じていたようです。

ここで突飛な質問をします。

あなたがどのくらい科学の思考をしておられるか試します。

縫い針を知っていますね。

その縫い針でいきなりチクリとやられたらどうですか?

「痛いっ! なにすんだぁっ!」って怒るでしょう。

これが普通の反応ですよね。

でも、本当にこれが普通なんでしょうか?

じゃぁ、今度は、マネキン人形をチクリとやってみましょう。

どうなるでしょう?

僕のことをバカにしましたね。

なんでマネキンなんだって言うんですね。

はい、確かにそうです。

しかし、どちらも、原子のレベルまで分割して考えれば、似たようなモノで構成されている単なる物質ですよ。

原子の構成がちょっと違うだけです。

ある幾つかの原子のユルイ塊が、別なユルイ原子の塊の中に割り込んできただけの話です。

それを大げさに「痛えっ、この野郎!」なんて喚いてはいけません。

何、屁理屈言ってんだって思いましたね。

実は、賢治が「手紙 三」で、似たような原子(手紙では分子まで分割している)の話をしているのです。

そうです。今の僕の変な話の仲間です。

「ところがあらゆるものの分割の終極たる分子の大きさは水素が・・・・といふ様に計算されてゐますから私共は分子の形や構造は勿論その存在さへも見得ないのです。しかるに、この様な、或いは更に小さなものをも明らかに見て、すこしも誤らない人はむかしから決して少なくはありません。この人たちは自分のこころを修めたのです。」

この賢治の言っていることは、僕の下手な話よりもっと変でしょう。

心を修めたということは、宗教の関係でしょうね。

賢治の頃は電子顕微鏡で自由にミクロの世界を見ることができなかったのに、心を修めれば見ることが出来るなんて。

科学を勉強した賢治ですら見えないのに、科学でない宗教で見えるんでしょうかね。

一体何をどうやって見ているんでしょうね、心を修めた人たちっていうのは。

当然のことながら、この賢治の話は比喩です。

僕のも比喩なんです。

なに、なに。

お前のは下手だから比喩になっていないって。

そこまで言わなくてもいいでしょう。

僕の実験は、あなたがどの位広い視野でものごとを考えているか試したのです。

痛いって感じるのは、まさしく感じるだけなんですよ。

極めて人間的な、人間固有の、或いは生物的な、生物固有の反応なのです。

進化の過程で獲得した、固有の現象に過ぎません。

極論すれば、そう感じているだけなのです。

だから、麻酔をかければ全く痛みを感じなくなります。

当たり前だって言いたいんでしょう。

はい、はい。そうですね。

当たり前なんですが、その当たり前で、さっきの手紙の文章を説明できますか?

実はですね。えへん。

かの有名なお釈迦様も似たような変なことを言ってかなり沢山の人たちからブーイングを浴びせられていたんです。

お釈迦様はそうなることをあらかじめ知っていましたがね。

いや、神通力なんかじゃなくて、理論的にです。

では、似たような賢治の言葉をもう一つ示してみましょう。

謎解きをしてご覧なさい。

「疾中」と呼ばれる詩篇の中の「(一九二九年二月)」という詩です。

引用します。数字は行を示すために僕がつけたもので、原詩にはありません。

「われやがて死なん  
  今日又は明日
  あたらしくまたわれとは何かを考へる  
われとは畢竟法則(自然的規約)の外の何でもない 
 からだは骨や血や肉や  
それらは結局さまざまの分子で  
幾十種かの原子の結合  
原子は結局真空の一体
外界もまたしかり
  われわが身と外界とをしかく感じ  
これらの物質諸種に働く
その法則をわれと云ふ
われ死して真空に帰するや  
ふたたびわれと感ずるや
ともにそこにあるは一の法則(因縁)のみ  
その本原の法の名を妙法蓮華経と名づくといへり  
そのこと人に菩提の心あるを以って菩薩を信ず
菩薩を信ずる事を以って仏を信ず  
諸仏無数億而も仏もまた法なり
諸仏の本原の法これ妙法蓮華経なり
 帰命妙法蓮華経  
生もこれ妙法の生
死もこれ妙法の死
今身より仏身に至るまでよく持ち奉る」

 おかしな詩でしょう。

どこらへんまで(何行目くらいまで)「うんうんそうだな」と分かりますか。

この詩が、科学と宗教の融合の象徴なんですよ。

この詩を何行目までが科学でそれ以降が宗教だっていう様に分けるとすると、無理に分けるとですよ、行目あたりが境目でしょうね。

このあたりがもやもやとしているところです。

ただし、賢治は分けて考えてはいなかったと僕は思います。

どうですか、詩の内容、納得できましたか?

さて、気づきましたか。

「手紙 三」も「(一九二九年二月)」も科学の話からごく自然に宗教の話へと移行しているでしょう。

又繰り返しですが、このように賢治の中では科学と宗教が渾然一体で違和感がなかったのだと思い始めているのです。

まだまだ、思わせぶりが続いてますね。

ホントはお前も分からんのだろうって、そう言いたいんでしょう。

はい。

全部はうまく説明できていません。

「真空」を文字通りの真空と考えると分からなくなると思います。

「宗教詩人 宮沢賢治--大乗仏教にもとづく世界観」の著者、丹治昭義先生の解釈、「真空妙有」と解釈すると意味が通じるかなと思います。

ジョバンニの話 Part 1  賢治の第四次と宇宙


 ジョバンニは幻想第四次の銀河鉄道に乗ってしまいましたね。

賢治研究者のお話では、賢治の第四次は幾つもあるそうです。

僕が知っているのは二つです。

第四次延長と幻想第四次です。

第四次延長の舞台は、賢治が暮らしていた北上流域のいわゆる現実のイーハトーヴ(岩手)で、「春と修羅」に心象スケッチとして記録された世界です。

心象スケッチは、詩ではないと本人が明言しているのですから、いわゆる詩の世界ではないんでしょうね。

僕もそう信じ始めたところです。

そして、幻想第四次は、ある博士の実験で実現した幻想の銀河(天の川)に沿って走る鉄道のお話です。幻想の世界ですね。

賢治はホントにこういう実験をしたかったんでしょうね。

「春と修羅」についての、はるか年下の詩人、盛岡中学(今の高校)の後輩、森荘己池(惣一)への手紙に書かれてあるように、賢治は半ば本気でこういう心理的な実験をしようとしていたようです。

で、無理に辻褄を合わせると、ブドリは第四次延長で、ジョバンニは幻想第四次で活躍したということになります。

僕は、この二つを合わせたのが、賢治の夢の世界だったと思うのです。

そういう世界を実現したいと思って歩いていたのが賢治後半生の旅だったと思うのです。

賢治は時々こう叫びますよね。

さあ、みんな! 俺達は微塵になって宇宙に散らばってしまおうってね。

どう思いましたか。この呼びかけを聞いて?

現実主義者の僕は、ホントに、微塵になれのるかなって思いました。

どうすれば微塵になれるんだってね。

微塵になると、死んじゃうのかななんていうことも考えました。

ところで、銀河鉄道777は、幻想第四次ではなく、幻想SF漫画(アニメ)です。

すばらしい想像力の産物です。

この作品は、もしかしたらそんな時代が来るかな、そんな世界になっては嫌だな、なんていう思いが膨らんで、どんどん想像力が大きくなって出来上がったんでしょう。

未来でそういうことが起こるかどうかは、作者にも分からないでしょう。

つまり、作品の根拠は想像力の翼です。作者の思いとイメージだけです。

でも、賢治が散らばろうって呼びかけた宇宙も、幻想第四次の銀河も、実は、賢治にとっては全くの想像ではないんです。

それなりの根拠があるんです。

ある意味では、私たちの日常という現実以上の実在かもしれません。

「注文の多い料理店」の序で、賢治が言っています。

「ほんたうにもう、どうしてもこんなことがあるやうでしかたないといふことを、わたくしはそのとほり書いたまでです。」

ホントかなってつい最近まで疑っていました。

読者をその気にさせるためのテクニック(レトリック)なんじゃないかなって。

さっきも言ったように、最近あるきっかけで、賢治にとってはこの序の言葉が相当に真実があるんだなって信じられるようになったんです。

そう、それが、ほとんどの皆さんが知らない賢治の宇宙、賢治の銀河なんです。

ちょっと持って回ったいやらしい文章ですね。

分かっています。

次回から少しずつ具体的なお話をします。

プロローグ


 僕はこれから皆さんに、宮沢賢治の孤独な旅の話を紹介します。

どのくらい孤独かと言うと、ジョバンニくらいです。

生前も今も、本当に賢治の理想を理解していて、遠い未来に続く果てしない道をどこまでも賢治と一緒に行こうとした人はいなかったようですね。

賢治の旅がどういう旅で、どこへ行こうとしていたのか、とうとう誰も分からなかったようです。

その旅路は、とてつもなく果てしない道ですから、賢治は目的地につけませんでした。

どうしてかって言うと、ブドリのように、そうです、グスコーブドリのようにとうとう身を燃し尽くしてしまったからです。

どんなにさびしくて辛かったことでしょうね。

え? 賢治には友達が沢山居たんじゃないかって。

ええ、居ましたよ。

詩人とか地人とかその他諸モロモロの類の友人が沢山居ました。

お葬式にも沢山の会葬者が来たそうです。

それでも、賢治はものすごく孤独だったんですって。

なにしろ本人が時々言っていたくらいですから。

え、なんですか?

それは天才の驕オゴりだですって?

ええ、僕もつい最近までそう思っていたんですよ。

ホント、あれだけ沢山の人から評価されれば十分じゃないかってね。

なにしろ死ぬ間際までいろんな人が賢治を訪れていて、新聞にも賢治の近況が報告されていたくらいです。

ほとんど訪ねてくる人の居ない僕なんかから見れば、ねぇ。

でも、最近あるきっかけで賢治が孤独だったことを実感したんです。

ところでですね、ジョバンニはどちらかと言うと宗教です。

ブドリは科学です。

 え、何の話かって。

だって、皆さんは、文学者としての賢治が好きなんでしょう。

余計なお世話だとおっしゃいますか。

はい、はい。

で、断っておきますが、僕はどちらかというと宗教ですので、ジョバンニのような話がおおくなりますよ。

僕の話している内容を知っている人がいたら、脇から口を挟まないで一人でニコニコしていてくださいね。

あ、それから、詳しいことを知りたい人は、ここを読んでくださいという印(*,里茲Δ)をしておきますので、数字をクリックしてジャンプして読んでください。

では、お話を始めましょう。

みんなの幸せ ジョバンニとブドリの夢と現実 未知の賢治ワールド

  <賢治の果てしない旅 * 夢のような未来を目指した旅 * 本当の賢治>

 
 本当に久しぶりにこのブログを再開します。

 ある出会いによって、賢治の世界を覗き見るキーを手にしたような気がしたからです。

 もちろん、それが私の早飲み込み、誤解である可能性は大です。

 それでも、私のためと賢治のために敢えて挑戦してみます。

 ぜひ、感想を寄せてください。

 ただ、ご免こうむりたいのはゴミのようないやらしいコメントです。

 私も相当なスケベですが、このブログではその本身を曝さないようにしています。

 どうしても、そういう類のコメントをしたくなったら、思い切って玄関から外に飛び出し、2、30分走り回ってきてください。

 きっとすっきりしますよ。

 賢治はそうしていたと言われます。

 では、ごゆっくりと。

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