哲学・宗教・思想・科学は、人間を完全に説明してないし、問題解決も出来ていない 2
皆さんは、よく我慢して居られますね。
TVのニュースを見ていると、むかつくことばかり。
日本人の大半が詐欺師、嘘つき、横領犯、泥棒、強姦魔、ゆすり、たかり、知能犯だと報道している。
その背後には、ずうずうしく居直った暴君たちのシンジケート。
賢治当時の東北岩手の多数派の被支配者農民を苦しめていたのは、近代化を目指す中央日本の支配階級のバックアップを受けた地主・商業資本家たちだった。
かれらも江戸時代の風潮をそのままにずうずうしくのさばって、農民たち無産階級を苦しめた。
木嶋孝法著「宮沢賢治論」をインターネットで購入した。
今取り組んでいるこの賢治についての私考を続けていくために、読んでおかないとどうにも気になるキャッチコピーを読んでしまったので。
木嶋さんは、もうお亡くなりになられた人だそうです。
木嶋さんが、2000年に「booby trap 第28号」に発表された「下根子時代」を読むと、木嶋さんは、こういう時代背景をしっかり捉えながら賢治の羅須地人協会時代の行き詰まり状況を説明できていると思います。
木嶋さんの「宮沢賢治論」は、確かに良い本です。
もっと長生きされて、このまま賢治論を書き続けておられたらと思うと残念です。
僕は、木嶋さんの賢治論は未完であるような気がします。
今時51歳というのは早死にと言えるでしょう。
賢治はわずかに37歳。
もし、70・80まで生きたら、「春と修羅」シリーズをどう推敲したか。
それと同じように、木嶋さんの80・90の賢治論を読みたいものです。
その頃までに僕は完全な「空」となっていますが。
実は、僕が期待するのは、今手にしている「宮沢賢治論」の延長上に成立するであろう賢治論ではなく、100歳近くまで生きた木嶋さんが、どんな人間観を持つようになり、その人間観に立ってどんな人間論を書くのかが興味深いのです。
表題のように、僕は哲学者、思想家、宗教家などを賢治時代の農民に寄生していた地主・商業資本家と同列かそれ以下の存在と考えています。
20世紀まじかになって、これらの人々が自覚しているかいないかはともかく、一種の詐欺師か新興宗教家であることが暴露されました。
解るはずのないことを解ったように称え続けていたと言うことです。
そういうお仕事で飯を食い、それどころか、のうのうと人々の上にのさばっていたのです。
確かに、人々の生活を変換させた重要な思想も沢山あります。
ただ、その場合も、思想が先ではなく人々が先で、思想は人々に”変動変革の理由づけ”を提供したに過ぎないのです。
ローマ帝国に押し寄せる周辺のゲルマン人たちのように、時代のうねりが人々を動かすに充分となれば、思想が無くともうねりは起るのです。
中国の歴史を読むだけも、それははっきりしています。
科学も哲学も宗教も思想も芸術も、みんな信仰の一種です。
確実なのは、喜怒哀楽の果てに、人間は死ぬのだと言うたった一つの真実です。
賢治がある宗教を信じ、理想を胸に、真摯に生きた。
実は、それだけなのかもしれないのです。
今現在の人たちにとって、賢治の生涯と作品は、劇場で演じられる「イーハトーヴォ物語」であり、終演で人々は木枯らしのうら寂しい街路を嫌でも歩かなければなりません。
それ以上のなにがあるのでしょうか?
でも、木嶋さんは、何かを求めておられた。
何かを信じておられた。
だから、賢治論を書かねばならなかった。
何となく分かるような気もするが、結局は・・・と思ってしまう。
キャッチコピーは、賢治もしくは仏教を読み違えたもののような気がしています。
木嶋さんの解釈と僕の解釈の違いか、どちらかが完全に間違っているのか今のところはなんとも言えません。
皆さんは、よく我慢して居られますね。
TVのニュースを見ていると、むかつくことばかり。
日本人の大半が詐欺師、嘘つき、横領犯、泥棒、強姦魔、ゆすり、たかり、知能犯だと報道している。
その背後には、ずうずうしく居直った暴君たちのシンジケート。
賢治当時の東北岩手の多数派の被支配者農民を苦しめていたのは、近代化を目指す中央日本の支配階級のバックアップを受けた地主・商業資本家たちだった。
かれらも江戸時代の風潮をそのままにずうずうしくのさばって、農民たち無産階級を苦しめた。
木嶋孝法著「宮沢賢治論」をインターネットで購入した。
今取り組んでいるこの賢治についての私考を続けていくために、読んでおかないとどうにも気になるキャッチコピーを読んでしまったので。
木嶋さんは、もうお亡くなりになられた人だそうです。
木嶋さんが、2000年に「booby trap 第28号」に発表された「下根子時代」を読むと、木嶋さんは、こういう時代背景をしっかり捉えながら賢治の羅須地人協会時代の行き詰まり状況を説明できていると思います。
木嶋さんの「宮沢賢治論」は、確かに良い本です。
もっと長生きされて、このまま賢治論を書き続けておられたらと思うと残念です。
僕は、木嶋さんの賢治論は未完であるような気がします。
今時51歳というのは早死にと言えるでしょう。
賢治はわずかに37歳。
もし、70・80まで生きたら、「春と修羅」シリーズをどう推敲したか。
それと同じように、木嶋さんの80・90の賢治論を読みたいものです。
その頃までに僕は完全な「空」となっていますが。
実は、僕が期待するのは、今手にしている「宮沢賢治論」の延長上に成立するであろう賢治論ではなく、100歳近くまで生きた木嶋さんが、どんな人間観を持つようになり、その人間観に立ってどんな人間論を書くのかが興味深いのです。
表題のように、僕は哲学者、思想家、宗教家などを賢治時代の農民に寄生していた地主・商業資本家と同列かそれ以下の存在と考えています。
20世紀まじかになって、これらの人々が自覚しているかいないかはともかく、一種の詐欺師か新興宗教家であることが暴露されました。
解るはずのないことを解ったように称え続けていたと言うことです。
そういうお仕事で飯を食い、それどころか、のうのうと人々の上にのさばっていたのです。
確かに、人々の生活を変換させた重要な思想も沢山あります。
ただ、その場合も、思想が先ではなく人々が先で、思想は人々に”変動変革の理由づけ”を提供したに過ぎないのです。
ローマ帝国に押し寄せる周辺のゲルマン人たちのように、時代のうねりが人々を動かすに充分となれば、思想が無くともうねりは起るのです。
中国の歴史を読むだけも、それははっきりしています。
科学も哲学も宗教も思想も芸術も、みんな信仰の一種です。
確実なのは、喜怒哀楽の果てに、人間は死ぬのだと言うたった一つの真実です。
賢治がある宗教を信じ、理想を胸に、真摯に生きた。
実は、それだけなのかもしれないのです。
今現在の人たちにとって、賢治の生涯と作品は、劇場で演じられる「イーハトーヴォ物語」であり、終演で人々は木枯らしのうら寂しい街路を嫌でも歩かなければなりません。
それ以上のなにがあるのでしょうか?
でも、木嶋さんは、何かを求めておられた。
何かを信じておられた。
だから、賢治論を書かねばならなかった。
何となく分かるような気もするが、結局は・・・と思ってしまう。
キャッチコピーは、賢治もしくは仏教を読み違えたもののような気がしています。
木嶋さんの解釈と僕の解釈の違いか、どちらかが完全に間違っているのか今のところはなんとも言えません。