雪道

http://jp.koreanbuddhism.net/ (韓国の禅師たち)

正見とは法による正しい価値観の樹立をいう。それは中道 縁起から眺める正しい世界観、人生観の定立である。それでこそ、「仏教とは何であり、どのような教えであるか?」、「なぜ工夫をしなければならないのか?」、「なぜ修行しなければならないのか?」といった仏教の修行者が具えなければならない基本を忠実に備えることができる。

一人の旅人が道を歩いている。彼が道を行く目的は何だろう?目的が確固として行く道が分かったら旅人は躊躇なしに堂堂と道を行くことができる。

西山和尚の偈頌に次のような句がある。

雪降りし野道を歩く旅人よ
うろうろと歩く勿れ
今日、君の足跡は
後日、後人の道しるべとならむ。

雪に覆われた広野とは生の現在の状況をいう。その雪に覆われた広野で、どの道を行っても目的意識を持ち、きちんと歩いて行かなければならない。あちらこちらにうろうろとしていていはいけない。正見の確立は、それゆえ重要なのである。この正見に基づいて看話禅に入って行く時、迷うことなくすぐ歩いて行くことができる。

正見の確立は仏教の核心的な教えである縁起・無我・空・中道に対する理解から出発する。このような教えは仏が発見し説かれた真理である。これに対して正しい認識があってこそ修行者として行く道が明確になる。これをきちんと認識すれば修行せざるを得ず、その修行者の生の目標も明らかになる。すなわち、何を悟り、どのように実践しなければならないかが、明瞭になるということである。

縁起と無我に対する正しい理解を具えれば、それを自己の生を通して実践して行かなければならないという切実な念願が生ずる。そのため縁起と無我に適合するように思考し行動し、これが人格化される道を開いて行く。看話禅を含めたあらゆる仏教の修行はこのように縁起法を人格化し内面化するための道である。法すなわち真理を確認しその真理のままに生活するのである。そうなれば、ついに法が自身と一緒になり、私の歩く道がそのまま真理の道になる。そのような時には、どんな障害にも捉われず犀の角のように一人で行くことができる。さらにこのような人の足跡は、後日にまたその道を歩く人々の立派な亀鑑となるのである。


「屈折率」 

七つ森のこっちのひとつが
水の中よりもっと明るく
そしてたいへん巨きいのに
わたくしはでこぼこ凍ったみちをふみ
このでこぼこの雪をふみ
向ふの縮れた亜鉛の雲へ
陰気な郵便脚夫のやうに
  (またアラツディン 洋燈とり)
急がなければならないのか


「くらかけの雪」

たよりになるのは
くらかけつづきの雪ばかり
野はらもはやしも
ぽしゃぽしゃしたり黝んだりして
すこしもあてにならないので
ほんたうにそんな酵母のふうの
朧なふぶきですけれども
ほのかなのぞみを送るのは
くらかけ山のゆきばかり
  (ひとつの古風な信仰です)